家電製品を使わない・持たない生活は、やってみると快適だ。便利な機械と いうのは少なからず負の面を持っている。つまり電磁波や廃棄熱などのリスク であったり、エネルギーの消費が必ず発生したりと。なければ、電子レンジか らでる電磁波が心配とか、盛夏に唸りを上げる冷蔵庫にうんざりとか、洗濯機 の中がカビだらけ!、などなくて済む。電気代も減るし、考えようでどうにで も納得できるのである。
しかしそうは言ってみても、冬になると水は冷たいし、手で絞っただけの洗 濯物はなかなか乾かない。結局コインランドリーを利用することとなる。エイ ズの影響からか、コインランドリーは空いている。いつ行っても使えないとい うことはまずない。時には乾燥機を使おうかなという選択の余地もある。洗濯 機を買って家に備え付けても、コインランドリーの洗濯機はやっぱり存在する から、あえて買わなくてもいいか、と思いつつ、一番ほしい家電製品はやっぱ り洗濯機なのである。
最近面白い数字を見つけた。「NHK国民生活時間調査」というもので、主婦 の一日の平均家事時間は1960年が7.12時間、1980年では7.36時間、と増えたと いうのだ。便利な機械が家に入り、毎日、洗濯、掃除をするのが当たり前にな る。求められる清潔さの水準が上がり、家事負担は逆に重くなった、というの が理由らしい。
この家事労働時間延長にかなり寄与しているのが洗濯機ではないだろうか。 洗濯機があると、洗わなくて良いかなと思うものまでつい放り込んでしまう。 どうせ洗濯するのは洗濯機だから、と。でも、その後干したり取り込んでたた んだり、或いはアイロンをかけたりまでは、やってくれない。いまだにほぼ人 力に頼っている。つまり洗濯物が増えれば、それを片付ける時間も余計にかか ることになるわけだ。
結婚して、毎日シーツを洗っていたという人がいた。その結婚生活はかなり 短い時間で破綻してしまったらしい。洗濯機がなければ、いくら彼女でも毎日 シーツを洗おうという発想は生まれなかったに違いない。それが直接の離婚原 因ではないにしろ、一人の人間から父親という存在を奪った事実は残る。女の 子が一人いたから。
時代はさらに進んで、乾燥機、はたまた乾燥機能付洗濯機まで登場したから、 今はまただいぶ様子が違うのかもしれない。洗濯機が洗濯をし、乾燥機が乾か して、皺になりにくい衣料であれば、そのままほったらかしておいても問題な く着られる。専業主婦ではなく、仕事を持ち子育てをしている人にとっては、 やはり家電製品は必要であり、確かに便利な良きパートナーだ。
日本では東京オリンピックが開かれた1964年、テレビ、炊飯器の世帯普及率 は90%以上、洗濯機が80%、冷蔵庫が70%、掃除機は50%。「家事からの解放」 などなど女性をターゲットに、家事軽減をアピールするコピーが新聞やテレビ にあふれた。でも日本の場合は家事から女性を解放するという発想より、隣が 買ったから家も買わなきゃというほうがより普及を促進したのかもしれない。
これらの機械はよほどうまく使わないと便利よりも逆に機械の奴隷のように 余計に働かされてしまう危険をはらんでいるということだろう。家事労働のす べて引き受けてくれるロボットはまだないわけだから。
2003年10月、東京オリンピックが開催されてから39年後の今、私はテレビも 炊飯器も洗濯機も冷蔵庫も掃除機も持っていない生活をしている。ない生活な ど考えられないという世代でありながら不思議な気もする。不思議にそれほど 不便ではなく、いや本当は少し不便だけれどもそれを逆手にとって楽しんでい るような部分さえある。
高度経済成長期の日本でずっと生きてきて、一心不乱に走り続ける大人たち ばかりを見てきた者にとって、ほぼ経済成長0%だった江戸時代という時代を 人々が嬉々として暮らしていたという話は、とても新鮮だった。
走るのが苦手な私は、のんびり散歩を楽しむのが好きだ。そういう生き方を したいと切に願っている。そのためには少々の不便や貧乏は受け入れて、のど かな暮らしがしたい。そして新しい洗濯機が発売されたという話をワーッすご いなあっと面白がって聞き、中古の洗濯機が値札をつけられて店先に置かれて いるのを横目で見ながら、やはり当分は買わないで生きていこう。