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【訪問した日:2018(平成30)年10月28日(日)】〈回向院:東京都荒川区南千住5-33-13〉
2018年10月28日
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【訪問した日:2018(平成30)年10月28日(日)】〈回向院:東京都荒川区南千住5-33-13〉
2018年10月28日
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【訪問した日:2018(平成30)年10月28日(日)】〈回向院:東京都荒川区南千住5-33-13〉
2018年10月28日
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【訪問日:2018(平成30)年10月28日(日)】※ 公式HPより 江戸時代、この周辺には、小塚原刑場があり、品川の鈴ヶ森刑場と並ぶ江戸の刑場で、明治時代始めに廃止されるまで、磔(はりつけ)・斬首などが執行されていました。刑場の入口にあった「首切地蔵」は、4メートル近くもあります。刑死者の菩提を弔うために、寛保元年(1741)に建てられました。この地蔵は、無縁となった人々の霊を静かに見守っています。 〈延命寺:東京都荒川区南千住2-34-5〉
2018年10月28日
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【訪問日:2018(平成30)年10月28日(日)】※ 公式HPより 奥の細道矢立初めの地である荒川区では、平成27年3月に、奥の細道ゆかりの市町村及び関係機関が一堂に集い、松尾芭蕉の業績の顕彰及び地域活性化に結びつく活動について連携を図る「奥の細道サミット」が開催されました。 荒川区では、このサミットの開催を記念し、矢立初めの地あらかわのシンボルとして、南千住駅西口ロータリーへ松尾芭蕉像を建立いたしました。 この像は、荒川区顧問であり、彫刻家の平野千里氏が制作したブロンズ像で、芭蕉が遥か奥州へ思いを馳せて、矢立初めの句を詠む姿を表現しています。〈松尾芭蕉像 奥の細道 矢立初めの地 千住:南千住駅西口ロータリー〉
2018年10月28日
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【訪問した日:2018(平成30)年10月27日(土)】(
2018年10月27日
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【訪問した日:2018(平成30)年10月27日(土)】※ 公式HPより 「時の鐘」は、江戸時代の岩槻城主が城下町に時を知らせるために設置した鐘楼です。 平成23年4月まで、朝夕6時に鐘をついていましたが、昼時の来訪者にも鐘の響きを味わっていただくため、平成23年5月1日から、正午にも鐘をつくようにしました。 かつて1日に12回つかれた時の鐘は、明治維新後一時途絶え、大正頃より朝夕6時の鐘つきが再興されました。正午の鐘つきは、およそ140年ぶりの復活です。 (補足)岩槻区の「時の鐘」は、寛文11年(1671年)に岩槻城主阿部正春(あべまさはる)が城下町に時を知らせるために設置。現在の鐘は、享保5年(1720年)に同城主永井直陳(ながいなおのぶ)が改鋳したもの。市指定文化財(工芸品)。〈時の鐘:埼玉県さいたま市岩槻区本町6-229-1〉
2018年10月27日
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【訪問した日:2018(平成30)年10月27日(土)】※ 公式HPより 「岩槻藩遷喬館」は、寛政11年(1799年)に、岩槻藩に仕えていた儒者・児玉南柯(こだま なんか)が開いた私塾です。後に藩校となり、岩槻藩の武士の子弟が勉学や武芸の稽古に励みました。 明治4年(1871年)に藩校が廃止になった後は、おおむね民家として使用されていましたが、昭和14年(1939年)に埼玉県の史跡に指定されました。平成15年(2003年)から同18年(2006年)にかけて解体修理・復原工事を行い、公開しています。埼玉県内では唯一現存する藩校の建物です。※ トイレ〈岩槻藩遷喬館(せんきょうかん):埼玉県さいたま市岩槻区本町4-8-9〉
2018年10月27日
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【訪問した日:2018(平成30)年10月27日(土)】※ 武州鉄道線路跡
2018年10月27日
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【参加した日:2018(平成30)年10月27日(土)】※ 岩槻城本丸跡付近※ 今日のランチ※ 荒川に向かって、扇状になってます。※ 武家屋敷跡※ 追手門前の三日月池跡※ 諏訪神社(軍神)
2018年10月27日
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【訪問日:2018(平成30)年10月11日(木)】〈旧制浦和中学記念碑:埼玉県さいたま市浦和区常盤4-11-8〉
2018年10月11日
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【訪問日:2018(平成30)年10月11日(木)】※ 公式HPより 明治11年北陸行幸時の行在所(天皇行幸時の仮御所)跡〈明治天皇行在所碑:埼玉県さいたま市浦和区〉
2018年10月11日
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【訪問日:2018(平成30)年10月11日(木)】※ 公式HPより 明治33年、この地に埼玉県高等女学校が誕生。現在の埼玉県立浦和第一女子高の前身となる。〈浦和一女発祥地碑:埼玉県さいたま市浦和区高砂〉
2018年10月11日
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【訪問日:2018(平成30)年10月11日(木)】※ 公式HPより 大正14年、旧女子師範学校校舎を改装し、県立埼玉図書館本館として開館。校舎は、鳳凰が翼を広げて飛び立つ姿に似ていることから「鳳翔閣」(太政大臣三条実美命名)と称された。この一部は三室の市立郷土博物館に移築された。〈埼玉県立浦和図書館跡地:埼玉県さいたま市浦和区高砂〉
2018年10月11日
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【訪問日:2018(平成30)年10月6日(土)】※ 公式HPより 「中川低地の河畔砂丘群」は、榛名山や浅間山の火山灰などに由来する大量の砂が、平安時代から室町時代の寒冷期の強い季節風により、利根川の旧河道沿いに吹き溜められて形成された内陸性の砂丘です。羽生市から越谷市にかけて点々と分布し、全国的にみても珍しい自然景観となっています。 「浜川戸砂丘」は、古利根川から分かれた古隅田川の最初の蛇行部に位置しており、比較的小規模な2列の砂丘列が残っています。指定地は春日部八幡神社境内などであり、砂丘の起伏や堆積した砂の様子を良好に観察することができます。砂丘に隣接する浜川戸遺跡からは、砂丘形成の開始や終了時期を推定できる土器や板石塔婆などが発見されており、砂丘群の成り立ちを考えるうえで、重要な資料となっています。※ 浅間様まで、まだ二合目〈浜川戸砂丘:春日部八幡神社内 埼玉県春日部市粕壁5597〉埼玉県春日部市粕壁5597
2018年10月06日
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【訪問日:2018(平成30)年10月2日(火)】※ 公式HPより 鏡面仕上げで、勝鬨橋も碑面に映すこの石碑は、碑文が分かり易くて読む人に優しい。 学校は1874(明治7)年に芝山で海軍会計学舎として開設され、その後築地に移転。日露戦争後の1907(明治40)年に海軍経理学校となり、震災後、今の築地市場の立体駐車場辺りに移されて終戦まで続いた。 石碑は1976(昭和51)年、戦後30年を機に、学校の同窓会によって建てられている。 この石碑には裏側にも文字が刻まれている。それは、この学校で学んだ人たちが見ると喜ぶ仕掛けになっている。またその内容は、学校がここ築地にあった頃の情景が伝わってくるものである。
2018年10月02日
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【訪問日:2018(平成30)年10月2日(火)】※ 錢高組HPより 東京の歴史的建造物である国内最大級の「跳開橋」として有名な昭和を代表する「勝鬨橋」の建設の歴史と今の姿を紹介します。 勝鬨橋は昭和15年に国家的イベントとして計画された万国博覧会のメインゲートとして計画されました。 昭和8年6月10日に工事を着手し、資材が不足する中、7年をかけ、昭和15年6月14日に完成しました。 東京市(当時)、錢高組を主体とし、石川島造船所(現IHI)、横河橋梁製作所(現横河ブリッジ)、川崎車両(現川崎重工業)で工事を行いました。 当時は、隅田川を航行する船舶が多く、陸運よりも水運を優先させる可動橋として設計され、大型船舶の通航を可能としました。 午前9時、午前12時、午後3時の1日3回、1回につき20分程度開いていました。さらに昭和22年12月24日には都電が開通しています。 しかし、東京オリンピックが開催された昭和39年以降は、跳開回数は年間100回を下まわるようになり、昭和45年11月29日を最後に跳開されることはなくなりました。 勝鬨橋は、我が国で最大規模の跳開橋として、当時の最先端の技術を駆使して建設されており、我が国の橋梁技術史上、高い価値がある橋梁として隅田川に架かる「清洲橋」「永代橋」と共に平成19年6月に国の重要文化財に指定されました。 跳開部の機械設備が歴史的景観を構成する設備として、機械技術面で歴史的意義のある「機械遺産」に平成29年8月に日本機械学会によって認定されました。※ 川に向かって縦に並んでいる信号機は船のためのもの。 この塔は運転室です。実際に開閉の操作をしていた場所からは橋を見渡すことができました。橋には4つの塔があり、運転室のほかは宿直室、見張室、倉庫室として使われていました。※ 橋が開くときに歩行者を止めていた信号機※ 中央部※ 橋の中央部。ここから「ハ」の字型に開いていきました。
2018年10月02日
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【訪問日:2018(平成30)年10月2日(火)】※ 碑文より 現在の 月島1-4丁目は 明治25年(1892) 勝どき1-4丁目は 同27年(1894)に完成した埋立地です。 銀座・築地方面と月島との間には, 明治29年(1896)に「月島のわたし」が開設されましたが, 月島側の発展に伴い, 両地の交通はこれのみではさばけない状態となりました。 「かちどきのわたし」は明治38年(1905) 1月の 旅順陥落祝捷会に際して, 京橋区の有志が設けて東京市に寄付し, 市は昭和15年(1940) 6月の 勝鬨橋開通まで運行しました。 この碑は開設当時建てられたもので「わたし」はここから西南約200メートル先の 今の海幸橋のたもとと, 勝どき1・3丁目の境とを往復していました。 〈かちどきのわたし:東京都中央区築地6-20-11〉
2018年10月02日
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【訪問日:2018(平成30)年9月23日(祝・日)】※ 千代田区観光協会HPより 日本経済の父と呼ばれる渋沢栄一の銅像は、日本橋川沿いにある常盤橋公園にあります。 戦争による金属回収で一度は撤去されたが、昭和30年に再建された。 渋沢栄一は、日本初の銀行である第一国立銀行(現・みずほ)や東京証券取引所、東京ガス、帝国ホテル、キリンビールなど500社以上の設立に関与した大実業家でした。 22歳で江戸へ出て、お玉ヶ池にあった玄武館で剣術修行をしている。また、神田小川町裏神保小道に住んでいたこともあった。※ 日本ビルヂング〈渋沢栄一像 :東京都千代田区大手町2-7-2 常盤橋公園内〉
2018年09月23日
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【訪問日:2018(平成30)年8月23日(木)】朝の生ラジオ体操の後の道路元標めぐりで発見。 茂田井の元早稲田郵便局で使われていました。※ 郵便差出箱1号(丸型)〈郵便差出箱1号(丸型):埼玉県三郷市谷口618-1(三郷市郷土資料館・わくわくライブラリー)〉
2018年08月23日
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【訪問日:2018(平成30)年8月23日(木)】朝の生ラジオ体操の後の道路元標めぐりで発見。日清・日露戦争に供出された馬の供養塔です。三郷市郷土資料館(三郷市わくわくライブラリー内)に移設されてました。※ 馬頭観世音〈馬頭観世音:埼玉県三郷市谷口618-1(三郷市郷土資料館・わくわくライブラリー)〉
2018年08月23日
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【訪問日:2018(平成30)年8月23日(木)】朝の生ラジオ体操の後の道路元標めぐりで発見。 旧流山街道にかかっていた古大場川に架かっていました。※ 橋名石 和勢多はし〈橋名石 和勢多はし:埼玉県三郷市谷口618-1(三郷市郷土資料館・わくわくライブラリー)〉
2018年08月23日
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【訪問日 2018(平成30)年8月2日(木)】 国民健康保険制度は、越谷市の越ケ谷順正会(じゅんせいかい)による医療救助を目的とした活動がその発祥だと言われています。 この組織は共助の仕組みで運営されており、一定の組合費を払っていれば病気などになった時には低額の負担で医師にかかることができたという医療保険の制度でした。〈相扶共済〈越ケ谷順正会(じゅんせいかい):埼玉県越谷市越ヶ谷4-2-1 越谷市役所敷地内〉
2018年08月02日
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【訪問日 2018(平成30)年7月30日(月)】 東海道新幹線開業(1964年10月1日)以来活躍した0系車両は、35年後に引退。 この車輪は、最終日(1999年9月18日)まで走行したYk8編成で使用されていたものだそうです。〈ギャルリー「トラン・デュ・モンド」:東京都千代田区〉
2018年07月30日
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【訪問日 2018(平成30)年7月30日(月)】※ 千代田区観光協会公式HPより 三崎町一丁目と猿楽町二丁目の間を神田川の方へ上る坂です。昔近くに小栗某の屋敷があったことから、この名が付けられたといわれています。 幕末に活躍した小栗上野介の屋敷とは関係ありません。 小栗坂(おぐりざか)(東京都千代田区三崎町一丁目~猿楽町二丁目)
2018年07月30日
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【訪問日 2018(平成30)年7月30日(月)】※ 千代田区観光協会公式HPより 「とちの木通り」から、明治大学付属明治中高等学校(男子校)の東側を下る階段状の坂です。「女坂」に比べて険しい坂ということでしょう。 〈男坂(おとこざか):東京都千代田区〉
2018年07月30日
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【訪問日 2018(平成30)年7月30日(月)】※ 千代田区観光協会公式HPより 「男坂」から、100mほど西側にある階段状の坂です。途中に踊り場があって休めるようになっていますので、男坂より上り下りが楽です。坂を下った先には、神田女学園があります。〈女坂:千代田区猿楽町二丁目〉
2018年07月30日
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【訪問日 2018(平成30)年7月30日(月)】銭湯に初めてペンキ絵を描いたキカイ湯の跡〈ペンキ絵発祥の地 (キカイ湯跡):東京都千代田区猿楽町2-7-1〉
2018年07月30日
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【訪問日 2018(平成30)年7月30日(月)】※ 千代田区観光協会公式HPより 駿河台下の交差点を お茶の水小学校方向へ進み、錦華公園を経て旧明大付属明治高校を通る “猿楽通り”。 旧明大付属高校の少し手前の 右側のマンションの前にこの碑が建っています。 東京音楽大学は、東洋音楽学校 として 明治40年この地に設立されました。校長鈴木米次郎は、 音楽教育の先駆者で、恩師でもある伊沢修一, 高楠順次郎, 島崎赤太郎らを評議員に迎え、わが国音楽文化の近代化を目指して創立しました。 〈東京音楽大学発祥の地:東京都千代田区猿楽町1-7〉
2018年07月30日
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【参拝日 2018(平成30)年7月17日(火)】※ 草加市公式HPより 草加を代表する景観 「草加松原」が国指定の名勝になりました 文部科学大臣は、国の文化審議会からの答申を受け、平成26年3月18日付けをもって本市に所在する「草加松原」を「おくのほそ道の風景地」の一群をなすものとして、国の名勝に指定しました。草加松原の歴史 草加松原は、江戸時代から「千本松原」と呼ばれ、市民に親しまれてきました。昭和初期まで鬱蒼と繁っていたこの並木も、排気ガスや工場からの排煙、道路舗装による根の切断などにより、枯死するマツが続出し、昭和40年代には著しく本数を減らしました。その後、松並木保存会などの市民団体の保護・補植活動もあり少しずつ蘇えり、今では草加のシンボルとして全国に知られるようになりました。〈草加松原:埼玉県草加市栄町、神明〉
2018年07月17日
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【訪問日 2018(平成30)年7月17日(火)】※ さいたまナビHPより氷川中公園の蒸気機関車展示はC56(シゴロク)形C56110のSLが展示されております。昭和12年に三菱造船で誕生し昭和44年まで約32年間旅客貨物用として活躍した列車です。このタイプの最高時速は75Kmとなっております。※ C56(シゴロク)形C56110〈氷川中公園(氷川第1児童遊園):埼玉県草加市氷川町2104-14〉
2018年07月17日
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【訪問日 2018(平成30)年6月2日(土)】 越谷探訪シリーズ 瓦曽根堰の跡です。 通称「赤水門」と呼ばれ、長く親しまれてきた瓦曽根堰は、平成8年に撤去され、上流30mに新たな堰が建設されています。※ 赤水門〈瓦曽根堰:埼玉県越谷市〉
2018年06月02日
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【訪問日 2018(平成30)年2月18日(日)】 〈いかり(みなとみらいセンタービル):神奈川県横浜市西区みなとみらい〉
2018年02月18日
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