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【参拝日:2024年(令和6年)6月15日(土)】 月次(つきなみ)とは、「毎月」のことです。自由に参列できます。 ※ 公式HPより 毎月一日と十五日に月次祭を執り行っております(1月1日以外)。祭典に先立ち、神職自身をお祓いし、本殿へ向かいます。そこでは、久伊豆神社の神々に神饌がお供えされ、天皇陛下と皇室の安泰、国の隆昌と地域の発展、そして国民の安寧を祈ります。 祭典が終了すると、神職はじめ参列者が直会の御神酒を頂戴します。その後、神職は境内にある御末社に向かい、その神々にも神饌をお供えいたします。 〈越谷久伊豆神社(埼玉県越谷市越ヶ谷1700)〉
2024年06月15日
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【参拝日:2024年(令和6年)6月1日(土)】 6月になりました。 月次(つきなみ)とは、「毎月」のことです。自由に参列できます。 ※ 公式HPより 毎月一日と十五日に月次祭を執り行っております(1月1日以外)。祭典に先立ち、神職自身をお祓いし、本殿へ向かいます。そこでは、久伊豆神社の神々に神饌がお供えされ、天皇陛下と皇室の安泰、国の隆昌と地域の発展、そして国民の安寧を祈ります。 祭典が終了すると、神職はじめ参列者が直会の御神酒を頂戴します。その後、神職は境内にある御末社に向かい、その神々にも神饌をお供えいたします。 ※ 時計とか、お清めしました 〈越谷久伊豆神社(埼玉県越谷市越ヶ谷1700)〉
2024年06月01日
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【参拝日:2024年(令和6年)5月22日(水)】 ※ 公式HPより 当宮は万治三年(1660年)に讃岐国丸亀藩主であった京極高和が、その藩領内である象頭山に鎮座する、金刀比羅宮(本宮)の御分霊を当時藩邸があった芝・三田の地に勧請し、延宝七年(1679年)、京極高豊の代に現在の虎ノ門(江戸城の裏鬼門にあたる)に遷座致しました。爾来江戸市民の熱烈なる要請に応え、毎月十日に限り邸内を開き、参拝を許可しました。 当時は“金毘羅大権現”と称されていましたが、明治二年(1869年)、神仏分離の神祇官の沙汰により事比羅神社に、明治二十二年(1889年)には金刀比羅宮に社号を改称し現在に至ります。 ご神徳は海上守護、大漁満足は勿論のこと、五穀豊穣・殖産興業・招福除災の神として広く庶民に尊信され、東国名社の一つとして知られています。 ※ 虎ノ門金刀比羅宮 〈虎ノ門金刀比羅宮(東京都港区虎ノ門1-2-7)〉
2024年05月22日
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【参拝日:2024年(令和6年)5月22日(水)】 ※ 公式HPより 寛弘年中(1004~12)に、源頼信(多田満仲の三男)が、石清水八幡宮の神霊を請じて、霞ヶ関のあたり(榎坂とも)に創建したという。太田道灌の江戸城築城に際し(築城は長禄元年・1457)、現在地に遷された(諸説あり慶長5年とも)。徳川秀忠(徳川二代将軍)正室の崇源院(諱は「江(ごう)」・「お江」・浅井長政とお市の方の三女・家光の生母)は、慶長5年(1600)、家康・秀忠の関ヶ原の戦での戦勝と安全を祈願し、その報賽として社殿建立の遺志を残しており、家光公御代寛永11年(1634)、社殿が造営され、同時に御神体の木像(八幡宮座像・仲哀天皇座像・神功皇后座像)と明 王像(不動明王立像・愛染明王座像)も奉納された。(享保8年(1723)の火災により焼失) 元和5年(1619)には時の鐘が建てられたが、寛文10年(1670)に割れてしまい、現存はしていない。享保8年(1723)の火災の翌年には土蔵にて社殿が建造されたが、文化8年(1811)にも火災に遭い、文政元年(1818)に再建されている。この二回の火災により宝物・旧記等はことごとく失われた。また、その間にあっても明和3年(1770)・文化12年(1815)・文化13年(1816)には境内で大相撲が行われ、落語や講談で有名な阿武松緑之助(おうのまつみどりのすけ)も相撲を取っている。 明治維新の神仏分離までは、八幡山普門院と称し、東叡山の末寺であったが、江戸八所八幡の一つに数えられ、八八幡詣(ややはたもうで)として多くの参詣を受け、周辺は門前町として賑わった。 また、天保9年(1838)刊行の「東都歳時記」8月15日の項に当時の祭礼の様子が次の通り記されている。『毎年神輿産子の町を渡し、 西久保大通りへ御旅所を儲けて十三日より御旅出あり。今日放生会をなす。町々より隔年踊りねりものを出す事、丑卯巳未酉亥の年なり。』 昭和15年、皇紀2600年を記念して、境内を整備し、玉垣・神楽殿・御輿庫が新築された。祭礼には門ごとに軒提灯を下げ、牛車にのせた御輿が氏子中を練り歩いた。市兵衛町(六本木一丁目あたり)の偏奇館主人荷風散人(永井荷風)は、その日記に「西ノ久保八幡宮祭礼にて近巷賑かなり」「飯倉八幡宮の祭礼にて馬鹿囃子の音夜ふけまで聞こゆ」など記す。 昭和20年3月、戦災により、社殿はじめ御輿庫、社務所を焼失、5月神楽殿も焼夷弾の直撃を受けた。終戦当日は、焼野原に建つトタン葺の仮社殿で大祭式を終え、数名の参列者とともに、玉音に接するありさまであった。氏子の町々の復興とともに昭和28年8月社殿を総桧木により復興、同29年町内御輿庫再建、同時に手水舎を時の氏子総代山田信治郎氏奉納、同37年末社稲荷社・人麻呂社を復興。同40年国道一号線拡幅工事に伴い、鳥居・石灯籠および熊谷橋の移築。同51年8月社務所を木造瓦葺で新築した。 平成23年1月、御鎮座一千年奉祝事業の嚆矢として男坂玉垣を修復、同8月奉祝記念大祭斎行、同12月奉祝記念碑を建立した。 平成27年7月には戦災により消失した御本社神輿を復興。平成29年8月11日、戦後初めて御本社神輿の神幸祭を行った。 令和の御大典を奉祝し、令和元年より社殿ほか神社施設の建て替えおよび境内整備事業、「令和の御造替事業」を開始。社殿は戦後復興時の様式を踏襲し流造の本殿と幣殿、拝殿を連結した複合社殿(権現造)により再建され、令和3年10月29日本殿遷座祭を斎行した。 ※ 西久保八幡神社 〈西久保八幡神社(東京都港区虎ノ門5-10-14)〉
2024年05月22日
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【参拝日:2024年(令和6年)5月5日(日・こどもの日)】 今年も、地域を代表して、雷電神社に参拝してきました。 〈雷電神社(群馬県板倉町板倉2334)〉
2024年05月05日
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【参拝日:2024年(令和6年)5月2日(木)】 ※ 黄檗宗 少林山達磨寺 〈黄檗宗 少林山達磨寺(群馬県高崎市鼻高町296)〉
2024年05月02日
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【参拝日:2024年(令和6年)5月2日(木)】 ※ 公式HPより 一之宮貫前神社は群馬県富岡市一ノ宮、蓬ヶ丘(よもぎがおか)と呼ばれる丘陵の北斜面、俗に菖蒲(綾女・あやめ)谷といわれる渓間に南面して鎮座しています。南の参道をのぼって総門に至り、そこから石段をくだった位置に社殿があり、いわゆるくだり参道となっています。 創立は社伝によると鷺宮(さぎのみや:現在の安中市)に物部姓礒部氏が氏神である経津主神(ふつぬしのかみ)をお祀りし、次いで鷺宮の南方、現在の社地に社を定めたのが安閑天皇の元年(西暦531年)とされてます。 天武天皇の時代に初の奉幣(ほうべい:天皇の命により神社に幣帛を奉ること)があり、当時遠く奈良の都にまで貫前神社の存在が知られていたといえます。 醍醐天皇の時代に編纂の始まった『延喜式』のなかの『神名帳』にも記載され、上野国一之宮として朝野をとわず崇敬をあつめてきました。明治時代に定められた社格は国幣中社であり、群馬県内では最高位でした。戦後社格制度が廃止されると「一之宮貫前神社」として神社本庁の包括となりました。 ※ 一之宮貫前神社 〈一之宮貫前神社(群馬県富岡市一ノ宮1535 )〉
2024年05月02日
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【参拝日:2024年(令和6年)4月25日(木)】 ※ 上間久里 香取神社 〈上間久里 香取神社(埼玉県越谷市千間台東1-23-2)〉
2024年04月25日
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【参拝日:2024年(令和6年)3月31日(日)】 ※ 正一位稲荷大明神 〈正一位稲荷大明神(埼玉県越谷市七左町7-286)
2024年03月31日
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【参拝日:2024年(令和6年)3月31日(日)】 ※ 七郷神社※ 力石発見! 〈七郷神社(埼玉県川口市戸塚3-13-6)〉
2024年03月31日
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【参拝日:2024年(令和6年)3月15日(金)】 ※ 大衾(おおぶすま)香取神社 〈大衾(おおぶすま)香取神社(埼玉県春日部市大衾90)〉
2024年03月15日
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【参拝日:2024年(令和6年)3月15日(金)】 ※ 永沼八幡神社 〈永沼八幡神社(埼玉県春日部市永沼2283)
2024年03月15日
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【参拝日:2024年(令和6年)3月15日(金)】 ※ 米島香取神社※ 力石 〈米島香取神社(埼玉県春日部市米島1-1)〉
2024年03月15日
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【参拝日:2024年(令和6年)3月15日(金)】 ※ 水角(すいかく)神社 ※ 力石※ 富士塚※ 力石? 〈水角(すいかく)神社(埼玉県春日部市水角1477)〉
2024年03月15日
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【参拝日:2024年(令和6年)3月15日(金)】 ※ 藤塚香取神社※ 力石 〈藤塚香取神社(埼玉県春日部市藤塚429)〉
2024年03月15日
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【参拝日:2024年(令和6年)3月15日(金)】 ※ 大畑香取神社※ 力石 〈大畑香取神社(埼玉県春日部市大畑230)〉
2024年03月15日
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【参拝日:2024年(令和6年)3月2日(土)】 ※ 公式HPより 神社として九州最大級の規模を誇る太宰府天満宮は、天神さまをお祀りする全国12000社の天満宮の総本宮としても知られています。美しい朱塗りの御本殿とそれを取り囲む神苑をはじめ、敷地内には宝物殿、お子様向けのだざいふ遊園地、九州国立博物館もあります。 太宰府天満宮に祀られているのは、9世紀の政治家で著名な学者でもあった菅原道真公。845年、学問で朝廷にお仕えする家柄に生まれた道真公は、若くして学者の最高位である文章博士(もんじょうはかせ)となりました。その後、右大臣にまで登り詰め日本の文化と政治のために尽くしましたが、901年、当時の政治を支配した藤原氏の政略によって位を剥奪。太宰府へと左遷され、903年にこの地で59年の生涯を終えました。 京都から追従した門弟の味酒安行(うまさけのやすゆき)が今の地に御遺骸を葬り、祠廟(しびょう)いわゆる御墓所を創建したのが太宰府天満宮の起源であり、1100年以上の歴史があります。桃山時代の豪壮華麗な様式を伝える現在の御本殿は1591年に再建されたもので、国の重要文化財に指定されています。 秀逸な才能と最後まで誠心を尽くした生涯を讃えられた道真公への崇敬は学者や政治家だけにとどまらず、禅宗の僧、寺小屋の子供たちなど幅広い層にまでおよび、文道の祖また至誠の神としての信仰が広がりました。現代においても学問・文化芸術・至誠・厄除けの神としても慕われ、国内外より多くの参拝者が訪れています。 ※ 太宰府天満宮 〈太宰府天満宮(福岡県太宰府市宰府4-7-1)〉
2024年03月02日
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【食べた日:2024年(令和6年)2月16日(金)】 ふらっと参拝しに行ったら、力石がありました。 ※ 半田稲荷神社 〈半田稲荷神社(埼玉県三郷市半田430)〉
2024年02月16日
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【参拝日:2024年(令和6年)2月11日(日・建国記念の日)】 ※ お清めしました 〈越谷久伊豆神社(埼玉県越谷市越ヶ谷1700)〉
2024年02月11日
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【参拝日:2024年(令和6年)1月18日(木)】 ※ 公式HPより 草加宿シモ3町の鎮守で毎年7月に祭礼が行われます(シモのまつり)。文政9年(1826)に野口金蔵が描いた龍の天井絵や、大きな雌雄一対の獅子頭(市指定文化財)が保存されています。 ※ 八幡神社※ なぜ力石が、土台になっているのか 〈八幡神社(埼玉県草加市高砂2-20高砂二丁目会館)〉
2024年01月18日
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【参拝日:2024年(令和6年)1月18日(木)】 ※ 三柱(みつばしら)神社 〈三柱(みつばしら)神社(埼玉県草加市神明1-6-6)〉
2024年01月18日
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【参拝日:2024年(令和6年)1月18日(木)】 ※ 公式HPより 正徳3年(1713)に、草加宿の総鎮守として現在の位置に建てられたといわれます。現在の社殿は弘化4年(1847)に再建されたもの。毎年9月に祭礼が行われています(カミのまつり)。 ※ 神明神社(市神・神明宮)※ こ、これは※ 力石 〈神明神社(市神・神明宮)(埼玉県草加市神明1-6-6)〉
2024年01月18日
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【参拝日:2023年(令和5年)12月31日(日)】 年末にお参りして感謝を伝えてきました ※ 年末詣 〈武蔵国 越谷郷 久伊豆神社(埼玉県越谷市越ヶ谷1700)〉
2023年12月31日
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【参拝日:2023年(令和5年)12月22日(金)】 ※ 石神井神社 石神井神社(埼玉県越谷市西新井314)
2023年12月22日
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國王神社は、平将門公・終焉の地に静かに佇む古社です。 将門公の三女・如蔵尼(にょぞうに)が、父の最期の地に庵を建てたことが國王神社の創始であり、父の三十三回忌に当たって刻んだ「寄木造 平将門木像」(茨城県指定文化財)を御神体に戴いております。 天慶三年(940)二月十四日、新皇として下総国猿島郡石井郷(現在の茨城県坂東市岩井)に営所を構える平将門軍と、朝廷による将門討伐の命を帯びた藤原秀郷・平貞盛連合軍が、この地で最終決戦を迎えました。 将門の精鋭400騎は、敵軍3,000騎に対して当初は追い風を得て、敵を圧倒します。 しかし、にわかに風向きが逆転して劣勢に立たされた将門は、陣を敷いた北山へと退く途中で、流れ矢に当たって戦死したといいます。 地元の言い伝えによれば、首を取られた将門の身体は馬に乗せられ、後に國王神社となるこの場所(石井営所近辺)に辿り着いたのです。 月日は流れ、将門の最期から三十二年が過ぎたあるとき、一人の尼僧が石井郷を訪ねてきます。それは、奥州・慧日寺に逃れていた、将門の三女・如蔵尼でした。 奥州で隠遁生活を送っていた如蔵尼は、あるとき悪夢を得て、急いで下総に帰郷すると、村人に父の最期の地を尋ねたのです。 熾烈な残党狩りの記憶から、口を閉ざしていた村人たちでしたが、尼僧が将門の縁者だと分かると、将門が辿り着いた最期の地──現在の國王神社へと案内したのでした。 如蔵尼はこの場所で、傍らの林の中より怪木を見つけると、一刀三礼しつつ心厳かに父の霊像を刻んだといいます。 そして春、父の三十三回忌にあたる二月十四日には祠を建て、「國王大明神」の神号を奉りました。 天下泰平、国家安全を祈願して傅いたこの祠こそ、現在の國王神社であり、以来千年の永きに亘って深い信仰を集めています。 ※ 国王神社 〈国王(こくおう)神社(茨城県坂東市岩井951)〉
2023年12月15日
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【参拝日:2023年(令和5年)12月15日(金)】 ※ 公式HPより 第96代 後醍醐天皇の御代(1318~1339)に香取神宮(千葉県香取市香取)より御分霊を伏木村字大木(西原地区付近)にお迎えしました。 その後、後円融天皇の御代、永徳3年(1383)大木より現在地の馬場(香取山)に遷座しました。 ※ 伏木香取神社 〈伏木香取神社(茨城県猿島郡境町伏木1)〉
2023年12月15日
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【参拝日:2023年(令和5年)12月15日(金)】 ※ 長井戸香取神社 〈長井戸香取神社(茨城県境町長井戸991)〉
2023年12月15日
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【訪問日:2023年(令和5年)12月12日(火)】 ※ 公式HPより 昔から10月は「神無月」といわれ、全国の神々が出雲へおでましになるという信仰が古来広く普及しています。当神社では、神様が末日の夜には神社にお帰りになるという信仰からこの御燎祭を斎行し、境内にて篝火を焚き神様をお迎えし、あわせて氏子・崇敬者にこれより一年間火の災いのないようにと祈願祭を行います。当夜は古神札や古熊手などを持参した多数の参拝者がかがり火にてお焚き上げをしますが、この火に当たると風邪にかからないといわれています。晩秋を彩る当神社ならではの神事です。 なお、出雲ではこの10月を神在月(かみありづき)といい、出雲大社の諸神事は現在でも旧暦によって行われています。そのため当社でもこの神事を旧暦10月晦日にて斎行しております。 おかがり祭では、久伊豆神社奉仕会の皆さんにご協力いただき、お焚き上げの火の管理などをお願いしております。奉仕会は平成7年に行われた「越谷お木曳祭」の実行委員会を前身として組織されたものであり、20年以上にわたり神社祭典の助勢や、お焚き上げ、境内清掃などを行っていただいております。特に、一昔前のダイオキシン問題により伝統文化であるお焚き上げが行いにくい時期もありましたが、その時にも「分別をすれば、お焚き上げは出来るはず」と積極的にご協力いただきました。 神様をお迎えするかがり火とともに奉納される御神楽は、夜空のなかで幻想的であり、参拝者の耳目を惹きつけます。 ※ 御燎祭(おかがりさい・旧暦10月末日)
2023年12月12日
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【参拝日:2023年(令和5年)11月25日(土)】 ※ 柳森神社 〈柳森神社(東京都千代田区神田須田町2-25-1)〉
2023年11月25日
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【参拝日:2023年(令和5年)11月25日(土)】 ※ 公式HPより 徳川五代将軍綱吉は儒学の振興を図るため、元禄3年(1690)湯島の地に聖堂を創建して上野忍岡の林家私邸にあった廟殿と林家の家塾をここに移しました。これが現在の湯島聖堂の始まりです。その後、およそ100年を経た寛政9年(1797)幕府直轄学校として、世に名高い「昌平坂学問所(通称『昌平校』)」を開設しました。 明治維新を迎えると聖堂・学問所は新政府の所管するところとなり、当初、学問所は大学校・大学と改称されながら存置されましたが、明治4年(1871)これを廃して文部省が置かれることとなり、林羅山以来240年、学問所となってからは75年の儒学の講筵は、ここにその歴史を閉じた次第です。ついでこの年わが国最初の博物館(現在の東京国立博物館)が置かれ、翌5年(1872)には東京師範学校、わが国初の図書館である書籍館が置かれ、7年(1874)には東京女子師範学校が設置され、両校はそれぞれ明治19年(1886)、23年(1890)高等師範学校に昇格したのち、現在の筑波大学、お茶の水女子大学へと発展してまいりました。このように、湯島聖堂は維新の一大変革に当たっても学問所としての伝統を受け継ぎ、近代教育発祥の地としての栄誉を担いました。 大正11年(1922)湯島聖堂は国の史跡に指定されましたが、翌12年(1923)関東大震災が起こり、わずかに入徳門と水屋を残し、すべてを焼失いたしました。この復興は斯文会が中心となり、昭和10年(1935)工学博士東京帝国大学伊東忠太教授の設計と㈱大林組の施工により、寛政時代の旧制を模し、鉄筋コンクリート造りで再建を果たしました。この建物が現在の湯島聖堂で、昭和61年度(1986)から文化庁による保存修理工事が、奇しくも再び(株)大林組の施工で行われ、平成5年(1993)三月竣工いたしました。 〈湯島聖堂(東京都千代田区湯島1-4-25)〉
2023年11月25日
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【参拝日:2023年(令和5年)11月25日(土)】 ※ 公式HPより 正式名称・神田神社。 東京の中心ー神田、日本橋、秋葉原、大手丸の内、旧神田市場、豊洲魚市場、108町会の氏神様です。「明神さま」の名で親しまれております。 〈神田神社(神田明神)(東京都千代田区外神田2-16-2)〉
2023年11月25日
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【参拝日:2023年(令和5年)11月25日(土)】 息子が受験なので ※ 公式HPより湯 島天神は 雄略天皇二年(458)一月 勅命により創建と伝えられ、天之手力雄命を奉斎したのがはじまりで、降って正平十年(1355)二月郷民が菅公の御偉徳を慕い、文道の大祖と崇め本社に勧請しあわせて奉祀し、文明10年(1478)十月に、太田道灌これを再建し、天正十八年(1590)徳川家康公が江戸城に入るに及び、特に当社を崇敬すること篤く、翌十九年十一月豊島郡湯島郷に朱印地を寄進し、もって祭祀の料にあて、泰平永き世が続き、文教大いに賑わうようにと菅公の遺風を仰ぎ奉ったのである。 その後、学者・文人の参拝もたえることなく続き、林道春・松永尺五・堀杏庵・僧堯恵・新井白石などの名が見える。将軍徳川綱吉公が湯島聖堂を昌平坂に移すにおよび、この地を久しく文教の中心としていよいよ湯島天満宮を崇敬したのである。 明治五年(1872)十月には郷社に列し、ついで同十八年(1885)八月府社に昇格した。明治維新以前は、上野東叡山寛永寺が別当を兼ね、喜見院がその職に当った。 元禄十六年(1703)の火災で全焼したので、宝永元年(1704)将軍綱吉公は金五百両を寄進している。 明治十八年に改築された社殿も老朽化が進み、平成七年十二月、後世に残る総檜造りで造営された。 〈湯島天神(東京都文京区湯島3-30-1)〉
2023年11月25日
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【参拝日:2023年(令和5年)11月22日(水)】 ※ 公式HPより 江戸時代中期に建立された小淵山観音院(春日部市)は、円空仏七躯(埼玉県指定有形文化財)を所有する本山修験宗聖護院門跡の末寺である。 〈小淵山 正賢寺 観音院(埼玉県春日部市小渕1634)〉
2023年11月22日
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【参拝日:2023年(令和5年)10月29日(日)】 地元の笠間稲荷神社増森新田講の代参に行ってきました。 自分は、初めての参拝です。 日本三大稲荷神社 なんと、笠間稲荷神社の住所は、茨城県笠間市笠間1番地! ※ 引き換えを忘れて、帰ってきてしましました(泣) 〈笠間稲荷神社(茨城県笠間市笠間1番地)〉
2023年10月29日
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【参拝日:2023年(令和5年)10月27日(金)】 ※ 木曽根氷川神社 〈木曽根氷川神社(埼玉県八潮市木曽根1092-8)〉
2023年10月27日
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【参拝日:2023年(令和5年)10月19日(木)】 ※ 菅原神社 〈菅原神社(千葉県野田市東高野37)〉
2023年10月19日
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【参拝日:2023年(令和5年)10月19日(木)】 ※ 宝珠花神社※ 富士塚があります 〈宝珠花神社(埼玉県春日部市西宝珠花77)〉
2023年10月19日
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【参拝日:2023年(令和5年)10月19日(木)】 ※ 西金野井 香取神社※ お目当ての大好物、力石(ちからいし) 〈西金野井 香取神社(埼玉県春日部市西金野井1053)〉
2023年10月19日
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【参拝日:2023年(令和5年)10月7日(土)】 ※ 真言宗智山派 成就院 大日寺 〈真言宗智山派 成就院 大日寺(埼玉県春日部市粕壁3-9-28)〉
2023年10月07日
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【参拝日:2023年(令和5年)10月7日(土)】 ※ 女體神社(にょたいじんじゃ) 〈女體神社(にょたいじんじゃ)(埼玉県春日部市梅田1-2-31 )〉
2023年10月07日
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【参拝日:2023年(令和5年)10月7日(土)】 ※ 公式HPより 春日部重行公(かすかべしげゆきこう)は、南北朝時代に後醍醐天皇に味方して戦った武将です。その活躍により、下総国下河辺荘春日部郷などの地頭職を授かりました。また、最勝院は明治時代に粕壁小学校や粕壁税務署などにも利用されていました。 ※ 最勝院※ 春日部重行の墓と言われています 〈最勝院(埼玉県春日部市粕壁3-9-20 )〉
2023年10月07日
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【参拝日:2023年(令和5年)9月28日(木)】 ※ 公式HPより 1200年余の機場としての歴史をもつ足利。この足利に機織の神社がないことに気づき、宝永2年(1705年)足利藩主であった戸田忠利が、伊勢神宮の直轄であり天照大神(あまてらすおおみかみ)の絹の衣を織っていたという神服織機神社(かんはとりはたどのじんじゃ)の織師、天御鉾命(あめのみほこのみこと)と織女、天八千々姫命(あめのやちちひめのみこと)の二柱を現在の足利市通4丁目にある八雲神社へ合祀。その後、明治12年(1879年)機神山(はたがみやま)(現在の織姫山)の中腹に織姫神社を遷宮した。 翌年の明治13年、火災に遭い仮宮のままとなっていたが、昭和8年皇太子殿下御降誕(現在の上皇陛下)を期し、当時の足利織物同業組合組長の殿岡利助氏の先導により市民ぐるみで新社殿の建造にかかり、昭和12年5月に現在の織姫山に完成、遷宮した。 平成16年6月、社殿、神楽殿、社務所、手水舎が国の登録有形文化財となる。 ご祭神は、機織(はたおり)をつかさどる『天御鉾命』と織女である『天八千々姫命』の二柱の神様です。 この二柱の神様は共同して織物(生地)を織って、天照大御神に献上したといわれています。 織物は、経糸(たていと)と緯糸(よこいと)が織りあって織物(生地)となることから、男女二人の神様をご祭神とする縁結びの神社といわれるようになりました。 また、織物をつくる織機(しょっき)や機械は、鉄でできているものも多いことから全産業の神様といわれ7つのご縁を結ぶ産業振興と縁結びの神社といわれております。 ※ 織姫神社 〈織姫神社(栃木県足利市西宮町3889)〉
2023年09月28日
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【参拝日:2023年(令和5年)9月28日(木)】 ※ 公式HPより 鑁阿寺(ばんなじ)は、源姓足利氏二代目の足利義兼(あしかがよしかね)が、建久7年(1196年)に、邸内に持仏堂(じぶつどう)を建て、守り本尊として大日如来を祀ったのが始まりといわれています。 その後、三代目の足利義氏(あしかがよしうじ)が堂塔伽藍を建立し、足利一門の氏寺としました。 周囲に土塁と堀をめぐらした寺域はほぼ正方形で、約40,000平方メートルあり、鎌倉時代の武家屋敷の面影を今に伝えています。 境内には国宝指定の本堂など貴重な建物が多く、また大正11年には国の史跡に指定されています。 春は桜、秋はいちょうの黄葉が素晴らしく、市民には『大日様』と呼ばれ親しまれています。 ※ 鑁阿寺(ばんなじ) 〈鑁阿寺(ばんなじ)(栃木県足利市家富町2220)〉
2023年09月28日
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【参拝日:2023年(令和5年)9月27日(水)】 ※ 公式HPより 下野国一社八幡宮は、誉田別命(応神天皇)、大帯姫命(神功皇后)、姫大神の三柱をご祭神としてお祀りしています。 ご由緒は社伝によると、天喜4年(1056年)、八幡太郎の名で有名な源義家が、陸奥の豪族、安倍頼時父子を討伐(前九年の役)するため当社付近の大将陣に宿営し、戦勝を気が似て現在地に小祠を創建し、山城の国(現京都府)の男山八幡宮を勧請したといいます。 康平年間に凱旋した義家は神の恵みに感謝し、公自ら兵器を奉納しました。文明8年(1476年)8月、長尾景長は境内社木伐採の禁制を出し保護を加え、その後の元和7年(1621年)11月、江戸幕府より20石の朱印社領を許されていますが、この時の設計図や費用明細書などが現存しています。 当社は八幡太郎源義家・義国父子の手厚い信仰により源姓足利氏代々の氏神として保護されてきました。明治4年に社格が制定され、同5年郷社、同35年には県社に列せられました。 当社は古くは足利荘八幡宮と呼ばれ、下野国内第一の八幡宮として、下野国一社八幡宮、一国一社八幡宮とも称しました。 ※ 下野国一社八幡宮 〈下野国一社八幡宮(栃木県足利市八幡町387)〉
2023年09月27日
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【参拝日:2023年(令和5年)9月27日(水)】 ※ 公式HPより 太田金山山頂に鎮座する神社 新田義貞公を祀り「初志貫徹」の神様として崇敬されています。関東平野を一望できる眺めの良い場所としても知られています。ハイキングがてらお出かけください。 場所:太田市金山町40-44 ※ 新田神社 〈新田神社(群馬県太田市金山町40-44)〉
2023年09月27日
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【参拝日:2023年(令和5年)9月27日(水)】 ※ 公式HPより 大正2年に旧地より現在地に造営遷宮し、名水百選にも指定されている「弁天池」の辺りに鎮座している。 水の神ならびに子守りの神として子連れの参拝者が多い。 ※ 湧釜神社(わっかまじんじゃ) 〈湧釜神社(わっかまじんじゃ)(栃木県佐野市出流原町2123)〉
2023年09月27日
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【参拝日:2023年(令和5年)9月27日(水)】 ※ 公式HPより 約1,000年前、唐沢山城主である藤原秀郷公の勧進により弘法大師が相州江ノ島辨天にて護摩修行時の護摩の灰にて造られたものといわれています。 当時は一帯に七宝伽藍が林立して、隆盛を極めていました。 その後、幾度かの火災により寺宝はことごとく焼失してしまいました。現在の本殿は鎌倉時代に再建されたもので、釘を使わない「かけつくり」という昔の建築美を、今に伝える当地唯一の文化財として大切に継承されてきました。 磯山辨財天も昔は辨天池の小島に祀ってあったものを、霊泉の不変の恩恵に浴した出流川沿岸の住民で特に水車講農民等の信仰が厚く、感謝の総意により現在地に奉安したと言われています。 辨天様を山腹に安置しているのは当磯山辨財天だけです。 出流原地区磯山辨財天周辺には、水に縁が深い水神として池や河に祀り、蛇にまつわる神話が多く残されています。また、ご本尊は梵名を薩羅摩伐底と云い、インドの神話より生じた薩羅摩伐底河を神格化したもので、 羽衣風の衣装をまとう八本の手を有する天女風の辨財天で頭上に宇賀神像を拝しています。一説には、歴史の一頁をかざる三城禁止令の発端となった時の唐沢城主が江戸の大火を発見し、早馬にて馳せ参じ一番乗りで殿への御見舞いを言上の際、この火事が眼下に見ていたという一事に依り、殿よりの不信を受け山城廃城の憂目を見たといいます。その際、領民は一丸となり城主の胸中を慰め、また殿への忠誠と不信を取り戻す為に、辨天堂を江戸城鎮護の守り神として山腹に江戸城向きに安置したものといわれ、御本殿は現在の東京都の方向を向いています。尚、御本尊は、羽衣風の衣装をまとった8本の手を有する天女風の辨財天で、頭上に宇賀神像を拝しています。 また、右側に大黒天、左側に毘沙門天の二福神、その他、印鑰童子・管帯童子・筆硯童子・金財童子・愛敬童子・生命童子・従者童子・牛馬童子・船車童子・善財童子・稲紐童子・計升童子・飯櫃童子・衣装童子・蠶養童子・酒泉童子(以上辨財十六童子と言う)が、辨財天にお仕えするかのような姿で安置され、五穀豊穣、商売繁盛など、あらゆる信仰の対象の神として今日に至ります。 磯山辨財天は、8本の手を有し、頭上に白蛇に巻かれた宇賀神像を拝し、地球上のあらゆる物を司る菩薩様が16人の童子になぞられて、それぞれのお支度で一団となり、弁財天の御指示をお待ちするかのようなお姿で御厨子に安置されており、あらゆるお願い事が可能とされ、特に五穀豊穣、家内安全、商売繁盛の神様として灼かです。 また、蛇は弁天様のお遣いで、当地域においては、長い蛇の夢を見ると幸先が良く縁起が良いと言われてまいりました。弁財天と共にやさしく皆様をお守りしている白蛇にも感謝と労りのお気持ちでご希望の所を何回かさすってあげてください。益々幸運に恵まれますことと信じます。※ 磯山弁財天 〈磯山弁財天(栃木県佐野市出流原町1262)〉
2023年09月27日
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【参拝日:2023年(令和5年)9月27日(水)】 ※ 公式HPより 唐澤山は今より1000年の昔「むかで退治」の伝説や、天慶の乱で平将門を滅ぼした藤原秀郷公の居城址で標高240米ながら全山赤松におおわれ断崖と深い谷に囲まれた自然の要塞をなし、今なお当時をしのぶ遺跡が数多くあります。 唐澤山神社の御祭神藤原秀郷公は、幼時京都の近郊田原の郷に住んでいたので世に田原(俵)藤太秀郷ともいわれています。公の在世当時(平安朝の中頃)は、都の朝廷では藤原氏が代々摂政や関白になって政治の実権をにぎっていましたが一族の間で政権争いがくりかえされ、そのために都の政治が乱れてくると地方の政治もゆるみ土着の豪族などが欲しいままに勢力をふるってくるようになり、時に公は延長5年(927年)に下野国(栃木県)の警察にあたる押領使という役に任ぜられ父祖伝来の此の地に参られ唐澤山に城を築いて善政を施していた。 たまたまこの頃、桓武天皇の流れをくむ平将門は父の残した領地のことから叔父の国香を殺し、しだいに勢力を増し天慶2年(939年)頃から関東八カ国(上総、常陸、上野、下野、武蔵、相模、伊豆)の国府を順次攻めたて国府の長官を京に護送して関東地方の大部分を支配してしまい、自ら親王と称し、朝廷の命令を聞こうとせず、このように将門が地方で乱暴を働くのをみかねた朝廷では藤原忠文に征東大将軍の職を与え将門征伐に出発させ、その軍が到着する前に秀郷公は平貞盛と力を合せて、将門の軍を下総国幸島において攻めほろぼし、時に天慶3年2月14日世にこれを天慶の乱と言います。 公はこの功績により押領使から下野守(栃木県の長官)になり、さらに武蔵守の役も兼任するようになり従四位下へと進み、その手柄に対し朝廷より土地一功田が与えられました。その後代々子孫が城主となり、約700年間、佐野修理大夫信吉公の代まで続き、徳川幕府の初期、現在の城山公園の地に城を移し春日城とよばれました。 この春日城がまだ完成しない1613年(慶長18年)大名としての佐野家は徳川氏の政策により断絶、城主佐野信吉は信州松本城にお預けとなりましたが、23年の後時の3代将軍家光から赦免の恩命に浴し、信吉の2人の子供は旗本として佐野家を再興することができました。 1867年(慶応3年)廃藩置県により士族となり明治を迎え、ここに至り一族、旧臣、相謀って沢英社と東明会を組織して秀郷公の遺徳をしのび明治16年9月25日、本丸跡に神社を創建して同年10月25日に秀郷公の御霊を奉斎し、以後永くこの地方の守護神として尊崇されております。 ※ 唐澤山神社 〈唐澤山神社(栃木県佐野市富士町1409)〉
2023年09月27日
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【参拝日:2023年(令和5年)9月23日(土・秋分の日)】※ 大曽根八幡神社 〈〈大曽根八幡神社(埼玉県八潮市大曽根18)〉
2023年09月23日
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【参拝日:2023年(令和5年)8月22日(火)】 ※ 公式HPより 当神社の創建は、享禄二年(一五二九年)橋本源左衛門、孫左衛門の兄弟が園部川の河口で遊漁中、流れの中で鯉に守護される御神体を発見されたことから始まります。 御神体は「吾は是牛頭天王にして陰神、陽神也。将に当所の鎮守とならん。」と神託を言い渡すと、兄弟はそれに従って町辻に御神体をお祀りし御奉仕することとなりました。 翌年、この話を聞き及んだ小川城主薗部宮内少輔が願主となって祭典を行うと、御神体は紛れもなく陰陽の二神であると悟り、陽神の素戔嗚尊を城外に、陰神の櫛稲田姫命を城内にそれぞれ丁重に社殿を造営し分祭鎮座致しました。 以降、毎年六月になると「四度のまつり」と称する四回の祭禮が城内より村中に至るまで盛大に執り行われたそうです。今もその式が残り、素鵞神社の「祇園祭」に受け継がれております。 当神社は、はじめ天王宮という名の御宮で天王さまと尊称していましたが、義公・徳川光圀率いる水戸藩の尊皇思想の影響を受け、神仏混淆の社号であること、語呂が斉しいことから皇国に恐れ多いことを理由に天保十一年(一八四〇年)、現在の社号「素鵞神社」に改められました。 また、鎮座地も低地であったことから千木髙知里氐鎮坐須の祝詞に反すること、墓所が近く御神体が穢れてしまうことを理由に明治二年(一八六九年)、高台の旧小川城外曲輪のあった現在地に遷座されました。 同三年(一八七〇年)には常陸國小川鎮守となり、同六年(一八七三年)村社に列格、同四十年(一九〇七年)には供進指定も受け、昭和六十二年(一九八七年)より、茨城県神社庁特別神社となりました。 その後も、往時より変わらぬ氏子崇敬者の厚い信仰に支えられ、今も往先も御神徳を広め続けております。 ※ 素鵞(そが)神社 〈素鵞(そが)神社(茨城県小美玉市小川古城1658-1)〉
2023年08月22日
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