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地球は暴走温室効果の瀬戸際
6章 その2
究極の教育論その2
なぜ一般に言われている事で、八才で神童二十歳で普通の人となるのか。それは人間としての成長が止まってしまうからだ。どんなに優れた素質を持っていたとしても、問い続ける姿勢が無ければ、自己を否定し自己に問い続ける姿勢が無ければ、人間としての純粋さが無ければ、そして道「タオ」の殉教者になる程の気概と使命感が無ければ、その人の人間としての成長は止まってしまう。
富と名誉が人の心を真に豊かにする事は無い。知識と物が人に幸を与える事は無い。人が計る事が出来る人の能力で本当の価値の有るものは少ない。
単なる賢さなど何の意味もない。愚者もそして賢者もそして狂人も天才も、同じレベルの変異でしかない。常に一定の割合で存在しなければ、人間の社会が成り立たないものなのだ。そして貴方の賢さは真の貴方の賢さではない。言葉自身の持つ賢さであってそれは貴方のものではない。賢いからと言って誇るべきでも自慢するべき物でもない。
知識は人の心を真に豊かにするものではない。人の心を成長させる事も出来ない。人の心を豊かにし成長させる事が出来る知識は限られたものしかない。
それは砂の山から一粒の宝石を探しだすようなものだ。それこそが本当の価値を持つものだ。それを探しだす事が出来るかどうかで、その人の未来は決定される。しかし今私達が求めそして子供達に与えている知識は全て何の価値もない砂粒でしか無い。
私達が遠い昔に捨てた石ころの中に研けば光る宝石の原石が有ったのに。何の意味もない砂粒と汚物を集めて喜んでいるのが私達の姿だ。
自由と権利を主張するだけでは、心は荒廃し歪なものになってしまう。人間が人間として成長するし続ける為には、狡猾さではなく純粋さが必要になる。そして精神そのものへの栄養が必要になる。自己に問いそして否定し続ける姿勢は、人間の成長の為の栄養となる。極めて豊かな素質を持っていても、それを与えられないからあるいは途中で妥協するから、世間の垢を一杯付けた普通の人間になるだけで、真の人間としての成長は止まってしまうのだ。そして自分は賢い人間だと自惚れているから極めて始末が悪い。自分の教養と学歴を鼻にかけ他人を冷笑し見下す。自分が何も知らない事さえ知らないのに、さも知っているかのごとく振る舞う。
人類の社会における大きな問題を引き起こしてきたのは常に、このレベル人間が引き起こした問題だった。借り物の一端の意見を言って人々を混乱させる。彼等の書いた文章や論文の空しさにはただ驚くばかりだ。その殆どは借り物の知識とビジョンで、本質的ビジョン何も持っていない。
これが我国の一流大学を卒業して、学者や官僚等になったエリートと言われる人の実態である。彼等は自分の解らない事があるとすぐに外国の文献や古い知識にその解答を求める。彼等は知識は持っていても本当の意味の教養は無い、真の教養とは己れ自身の命をかけても律する規律であり概念だからである。
我国には欧米の知識人と互角に論争できる知識人はいるだろうか。我国には欧米でいう意味での教養も無いし、そして知識人は存在していない。本当の知識人なら真実に対して純粋で、如何なる事にも如何なる者にも迎合しないし妥協もない、
真実の為なら自らの命をもいとわない、覚悟の有る人間だけが真実の知識人たり得る。
その覚悟を持たないなら自分の教養やら知識をひらけ散らさない事だ。終戦後我国に占領軍司令官として上陸したマッカーサー元帥は、日本人の精神年令は十二才だと言った事は有名な事だが、現在もその状態はちっとも変わっていないだろう。
現在の学校教育は子供達の心そのものを、成長させる為の教育が為されているだろうか。本当に知識だけを詰め込む教育で、子供達の心は成長しているだろうか。あれをしてはいけないこれをしてはいけない、こうしなさいあるいはああしなさいと言うだけで、その心は人間として健全に成長するものだろうか。
学校で教えている様な、赤面するほどに底の浅い道徳教育と、イデオロギーで偏向した教条や、無機的な知識を与えるだけで、果たして人間として成長出来るだろうか。否である。今学校やあるいは、その父母が行なっている教育では、人間として成長させる事は出来ない。それは人間として成長するための土壌が与えられておらず、単に知識という科学肥料で速成栽培され極めてひ弱な人間を生み出しているだけだ。体制に役立つロボットを、自分の事だけしか考えない人間を、大量に生み出しているだけに過ぎない。
だから現代の日本の教育は画一的で、底の浅い知識人やエリートと言われる人々と、ひ弱な人間しか生み出す事は出来ないでいるのではないのか。今の日本における教育制度とそれを取り巻く社会環境は、ただ人間を果樹園で採れた果物のように、教育制度というヘルトコンベアに乗せて、人間をただ選り分け選別してているに過ぎない。
しかもその選別の為の方法は計数化出来ない人間の能力を、無理矢理に計数化しなければ選別する事は出来ない。そのため豊かな可能性を持ちながら、落ち零れる子供達の数はどれ程になるだろうか。
現在の日本の教育の現場における荒廃は全てが此処にある。此等の落ち零れやツッパリ君と言われる子供達の中にこそ、秀才やエリートと言われる人間に無い、人間としての豊かな感性と創造力と、バイタリティを持つ子供達が大勢いる。彼等こそ真に選び出されるべき人間です。此等の能力を持つ人間こそ、現在の日本で必要とされる人間なのです。
これらの落ち零れを救い、彼等の潜在する能力を引き出す事が、教育における荒廃を正し、現代の社会における混乱を正す道であると私は信じる。
しかし彼等の能力は数字では表す事は難しく客観的な評価は難しい。彼等のその潜在するその能力を引き出すには、現在の教育制度は余りにも不十分です。教育制度の本質的な見直しが必要になるでしょう。これが現在の社会と教育に求められている事なのです。
生命そのものについて学ぶことが最も重要な科目であり、生命は最高の教典でも有る。
宇宙と生命について教えるのが究極の教育であり、そして宇宙と生命から学のが究極の哲学であり宗教。
究極の教育論はまた究極の進化論でもあり、そして宇宙論でもある。そして究極の宗教でもあり、そして究極の哲学でもなければならない。そして究極の教育とは自己発見への旅へ導く事であり、自己の存在の意味について知る事である。この世に在ることの意味とその歓喜を教える事にある。他人の借り物でない自己を実現させる事にある。
国語や算数が生徒にとって重要な科目なのではない。読み書きと計算する事を教える事だけが、教育の目的ではない、教育とは人間としての心の在り方を教えるのが本来の教育の意味だったはず。
しかし何時の間にかそれが教育の目的にすり変わってしまった。他人を疑う事でなく問う事を、そして自分自身を疑い、そしてまた自分に問う事を教えられるべきだ。他人を疑う事だけを教えるなら、子供達の心は荒廃し廃墟の様な精神に住む事になる。真の教育とは自分の心と体を、何処に導くのかを教える事でも有る。
この世に存在する意識現象は、その心と体と外界の生きとし生きる者全て者の、導き手である事を教えるべき。私達がこの世に存在する事の意味は、単に子供を育て教育するのがその意味ではなく、私達自身と私達の次の世代の子供達と、さらに私達に続く人々と全ての生命達を導く導き手である事、そして人間として、純粋な意識としての理解と覚醒へと導く為である。
教育の本質は自分自身への存在に気を使う事、そしてその上で自分自身を、何処にどの様に導いて行くか教える事である。その心の在り方次第でその心は、荒野にもそして楽園にも住う事が出来る事を教えるべき。
ビジョンが人を生み、人を造る。人間は成人する迄に富や名声などへの欲望や、人生の拠り所とする信念や目標を持つに至るのが普通であるが。人の一生はそれらの信念や欲望によって大きな影響を受ける。正しき信念の元に日々の努力が重なれば、己れ自身を成長させ人をつくる。それが社会的な成功に繋がりそして幸福な生涯を送る事にもなるだろう。持つべき信念を誤ればその人生そのものを誤り、己れ自身にも社会にも多大な損害を与える事にもなる。ビジョンあるいは人が常に心に止め目指すべき心の在り方、目標とでも言うべきか。人間にとってその正しいビジョンこそ教えられるべきものだ。その正しいビジョンこそ子供達に教えられるべきものだ。それが人の行動の、原動力となるからだ。
それが社会をそして現代の文明を動かす、大きな流れの底流となるからだ。
文明誕生から現在に至まで、人間の社会全体を動かすビジョンあるいは底流となっているものは、生きる為に社会的な及び経済的な成功を目指す人間の情念が、社会全体を動かす大きな原動力となって来た。過去における古代文明もそして数々の発明発見も、そして現在の華麗で壮大な文明を築き挙げたのも、それらへの私達の様々な欲望と情念と思いである。この文明を造り社会全体を動かして来た、ビジョンや情念は否定されるべきではないが、しかし中近東など古代の文明の栄えた地域で見られる、塩の砂漠と荒れ果てた荒野も、そして現在の社会に起きている、貴重な生物種の絶滅や、様々な環境破壊や資源の枯渇など、文明の末期的な現象も、それらの思いの結果である事を知らねばならない。
私達人類は自分を生み育てて来た自然への理解と慈しみを忘れ、人間はこの地球の支配者として傲岸不遜に振る舞い、他の生命を命有るものとして見ず、ただの資源そして金を儲ける対称としてのみ扱い、幾多の生命を絶滅に追いやって事への、当然の報いである事を知らねばならない。
それは私達の持っている根本的な思いとそのビジョンが、他の生命との共存するには適さないから起る現象なのです。私達が有史以来持ち続けてきた、此等の思いと価値観は誤りだったのです。
私達人類がこの地球で生き続けるには、此迄の生き方を反省し自然から頭を低くして、その生き方を学びそれを生きて行く以外に道は無い。
自己について、心とその心の在り方について知る事は教育者の勉め。愛についてそして生命について知る事、そして生の本質について知る事は真の教育者の勉め、そして全ての親の勉めでもある。今の日本で為されねばならない教育は、教師がそして子を持つ親が、人間として子供達に教えねば為らない事は、この宇宙と地球の自然とそして愛と奉仕について、自己とその心の在り方について、真の宗教と暝想について、教えられなければ為らない。
すなわち現在の私達自身が今、知らねば為らない事が、子供達に教えなければ為らない最も大事な事でもある。教育も宗教もそして愛もそれを離れて存在し得ない。それを離れたらただのゲームでしかない。ゲームでこの地球で生きる事は出来ない。真の教育について語ろうとする時、心の本質についてそして生命の本質について、愛についてそして自己とその存在について語る事は、避けて通る事は出来ない問題なのです。
賢さや知識の量や記憶力あるいは現在使われている、知能指数と言った物差しで人間の価値を決めるのは誤りである。そのようなものは人間として必要とされる能力の、極一部を表しているだけに過ぎない。
そしてそれは現在に於いて最も必要とされている能力ではないいし、人類が全体として生き残って行くためには、不必要な能力でしかない。私達が普通人間に対して感じる、あいつは嫌な奴とか好い奴と言った他人に抱く純粋な感情は、人類が全体として生き延びる為には、大きな意味を持っている事が分かってきた。今、人類が全体として生き残る為に必要な能力は、愛そして人格そして人間としての純粋さと言ったものであって、それは一般に考えられているような、頭の善し悪しや知識や知能や狡猾さと言ったものでは決してない。
そして現在における教育で最も欠けているのが、それらの事なのです。現在行われている教育は、個人が人と人の競争に勝ち抜く為の教育は行われている。ただそれは人々を分離し選別する為の教育であって、真に人間と生命が生きる為の教育では無いのです。
それが現在の社会に起きている、困難な問題の源になっている事を知るべきです。現在の教育制度が続く限り、私達日本人のそして人類にも未来は無い。それは世界のどの国の教育体制を見ても真に人間として必要とされる、人間の心の在り方にについいての教育が為されておらず、数字として評価される部分の教育しか為されていないからだ。
貴方には最良の教師がいる。そしてこの世で最悪の教師もいる。善くも悪くもこれ以上の教師は、この世の何処を探してもいない。それは貴方自身、それが貴方にとって最良の教師であり導師、貴方は貴方の心と体の導き手であり、貴方の真の生みの親であもある。
貴方の体を創り脳を創り、その脳を配線しプログラムをいれ、貴方という意識を生み出し、精神という言葉の宇宙を作り出し、そこに心を住わせたのも貴方。この世に生きる全ての者の導き手でもある。そして最悪の教師であり最も悪い友人でもある。
貴方の心の在り方次第でどのような方向にも導く、幸福になるも不幸になるもそれは普段の貴方の心け次第、人類とこの地球を滅ぼす悪魔にもなれば、破滅から人類とこの地球を救う救世主にもなる。
貴方がこの世から、あの生れ故郷の永遠の虚空へと帰るとき、貴方と共にこの世に存在した全ての物もまた、あの永遠の虚空へと帰る。貴方は全ての物の造物主、永遠なる者。
現在の日本で教育について語った本は、現場の教師や主婦から専門の官僚から評論家に至まで、現在の日本の教育界の混乱を象徴するように山ほどにも有る。それらの語られている内容を見てみると、その専門的な技術や表面的な方法論は語られていても、教育についての本質的なビジョンは、語られいないのが圧倒的に多い。
というより教育の専門家を自称する彼等も、教育の方法論については持っていても、
本質的なビジョンについて語るのは自信が無いか、あるいはそれを持っていないのではないのか。彼等は方法論については専門家ではあっても、教育の真のビションについて、語るのは適当ではないだろう。もしそれを語ろうとするなら、論理によってそれをを語る事は出来ない深い洞察力と詩的な直感力が必要となる。それは長い求道と、本質的な理解に到達する事によって、初めて得られるもの。
これらは現在の教育制度では手に余るものだ。これは学習や教育によって得られる能力ではない。記憶力や知能指数が高いからといっても、この能力も優れているとは限らない。そしてこれが現在の教育に最も必要とされ、そして欠けているものだ。現在の教育制度の元では、此等の能力を持っている人間は、落ち零れているか、あるいはその能力を摩滅されてしまっているだろう。それが現在の教育制度の上を順調に通ってきた、日本のエリートの姿だ。戦前の一高(東大)の超秀才が「人生これ不可解なり」と言って、日光の華厳の滝に飛び込み自殺を遂げた事件は有名な事だ。
そんな彼らが例え千人集まって、新しい教育論を作り上げても、その本質について語る事は出来ず、ただ空しい空論が出来上がるだけだろう。
数年前に臨教審が開かれそれによって答申された教育の理念にもそれは顕れている。それはただ空しい言葉の羅列にしか過ぎなかった。また教育の専門化が語る教育論は、その方法論は有っても、その精神は底の浅い借り物の民主主義と、ヒューマニズムの受け売りでしかなく、そして自由と平和という言葉が語られていてもただ感傷的で観念的で、その根元の無い極めて貧しく貧困なものでしかない。
宇宙的なあるいは文明的な視点で書かれた、教育論は私の知る限り無い。それを語る事が出来るのは真摯な求道者か、あるいは詩人しかそれを語る事は出来ないだろう。生の本質への理解に到達した人間しか、それを語る資格は無いだろう。
本当の教育とはただ知識を教えるだけが教育ではない。この世での自分の存在の意味と、心の在り方を教えるのが本当の教育と言うものだ。現在の世界におけるあらゆる混乱の源には、私達の心の在り方の不自然さと混乱から、生まれている事を知らねばならない。
真の教育の不在から、この世の混乱と破壊が在る事を知らねばならない。
それにおいて私達の一人一人の人間に出来る事が有る。それは私達の子供達に、人間としての心の在り方について教える事が出来るのだが、しかし私達にそれを教えられるほどに、私達自身が成長しているだろうか。それを教えられる領域に達しているだろうか。その理解に達しているだろうか。殆どの人々は自信が無いのではないだろうか。
人間にとって真の教育と、人間における宗教の在り方とは、一つのものでなくてはならない。それは本来同じ道のはずだ、その目的は真の成長に向けて導く事にある。教師や親はただ持っている知識を与え教えるのではなく、その世界の案内者であるべき。出来るなら導師であるべき。子供達に知識をただ与えるのでは無く彼自身の内側からそれを求めさせる事。学習は本人の意志によるものでなくてはならないだろう。その学習は生涯に渡るものでなくては為らない。そして全ての人間は学生で有ると共に、労働者であり、また奉仕者であり学者、研究者であり、知識人であり芸術家であり、求道者でなくてはならない。そして今最も大事な事は、教育と宗教とそして生きる事の全てを統合した価値観と、
人がそしてこの地球の生命が生き残る為の教育が必要だ。
聖書にアダムとイヴが知恵のつくリンゴを食ったため、楽園を追われたとの一節が有るが、その聖書で書かれている事は、現在でも進行中の出来事でもある事なのだ。人間が有史以来いや有史以前から集め続けてきた知識は、仲間である同じ人間を殺し、そして自分が生きて行くうえで無くてはならない自然を破壊し、他の生命を殺戮し絶滅させる為の知識だったのだ。そして産業革命以来人間が行なって来た事は、この地球を生命の住めない、惑星にするための知恵であり知識ではなかったのか。人間が求め集めてきた知識は、
愚かになるための知識ではなかったのか。心貧しく貧困に生きる為の知恵ではなかったのか。人間がこの地球で未来永劫に渡って生き続けるために、本当に知らねば為らない事は、たった一つの事でしかないはず。それを人間は遠い昔から現代まで自分の集め続けた、汚物とガラクタの中に紛れ込ましてしまったのだ。どれが本物か偽物か区別をする事が出来なくしてしまったのだ。
日本人の創造力の無さは、受験の為の教育の本来の在り方が歪められ、記憶力の偏重と西洋合理主義のをただ真似ただけの、計算力や記憶力や知能指数と言った、数字で表す事が出来る部分しか教育し評価ていない事にもよる。それを改めるためには私達がもつ詩的な直感力を大切にし、個人が持つ能力を十分に発揮する事が出来る社会環境を創り、人間の持つ人格と意欲そのものを評価する教育が為されない限り、我々は世界に貢献する業績を残す事が出来る、創造的な民族にはなれないだろう。
過去における偉大な業績を残した人間も、そしてい偉大な学者や発明家なども、全て詩人でも有ったのだ。それは彼等の残した発言内容や著作物からもそれは言える事だ。彼等の発見したものの最初の一瞥は極単純な詩的な閃きだったのは間違いないからだ。それに理論的な裏付けが後から付けられたもので、この逆は少ないだろうし、それ程重大な発見でもなかっただろう。この詩的な閃きは日本の学者の得意な後追い研究では、決して得られる物ではない。
我国には「出る杭は打たれる」と言う諺にも有るとうり、能力の有る者を妬み足を引っ張るという、人間として極めて次元の低い争いや、集団の和を乱し集団から仲間外れにされるのを極度に恐れるあまり、その人間が本来持っている能力や創造力を無駄にし続けている。
我国では学校や企業あるいは社会から国家に至まで、集団の論理が優先され常に個人は犠牲にされ続けてきた。集団の論理に会わない人間や異質な考えを持つ人間やあるいは構成員の肌に会わない人間は、集団に受け入れられず村八分にされ、集団から追い出されるのだ。そのため仲の良い同じような考えの人間だけが集まり、極めて保守的で集団全体としての活気は乏しくなる。
有る企業の代表は新製品などを開発する時、組織の中で優秀とされる人間を集めて新製品等を開発させる、プロジェクト造ってもうまく行かない場合が多いのに、さほど優秀とも言えない組織の中で孤立している人間を集めて、プロジェクトを任せた方が悠かにうまく行く場合が多い、と言っている事は極めて示唆に富む言葉である。
学校の教育現場でも企業でも、人間を評価する必要がある時数字として表現される物で評価する必要から、どしても表現力の有無や些細な事の積み重ねで、その人間全体としての評価をせざるを得ないが、その事自体も組織の構成員を萎縮させ潜在能力の芽を摘み、その能力を削ぐ結果にもなっている。
また野心家と言われれば我国では否定的に見られるが、成功への野心や情念は決して否定されるべきものではない。むしろ積極的に肯定し、それを祈りにまで高めるなら、加速度的に人間的成長を引き起こし、その人間の持つ能力を最大限に引き出し、大きな業績も残す事が出来るだろう。
我々日本人には此等の情念を表に出すのを恥ずかしがるから、あるいは余りにも周囲の目を気にしすぎ、これは自我の未熟さという事にもなるのだが、それゆえに国民の知的水準や国民総生産の割に世界への貢献度の少ない、中途半端な業績しか残せないのではないだろうか。
中国に於いては科挙という非常に難しい官吏の登用試験が古い昔からあったが、中国を支配したモンゴルの元朝は、イランやアラビア等の中近東の諸民族の官吏への登用に、科挙のような制度を取り入れた。そしてそれらの地方を支配したモンゴルの諸王朝が滅びる共にそれらの制度は無くなり、それと共にアラビアで西欧にも大きな影響を与えた文化が花開く事にもなった。我国でも大学への入学の為の受験勉強から学生が開放され、組織や集団から束縛を余り受けない社会が誕生する時に、爆発的な創造力と新しい日本の文化と新しい文明が誕生する事になるかも知れない。
教育は生きる事の道を教える事、そしてその道は幾つもあるように見える。だが多様な教育多様な生き方が有るように見えても、その進むべき道は一つしかない。その他の全ての道は滅びの道あるいは袋小路への道でしかない。この地球を生命の住めない星にするのも、現在の破滅へ向かいつつある人類を救う事が出来るのも教育である。
ことばには、始まりもなく終わりもない
ことばには、始まりもなく終わりもない、この宇宙そして生命のあらゆる活動も、人の行動あらゆる思考、創造活動も言葉の内にあり、この世に在るすべてのものは言葉の内にあり、言葉は創造の源、全てのものの母、そして宇宙、全能の神。人は知りたい事しかしか知る事が出来ない。知り得ない事はいかなる人、聖賢たとえ、ブッダ、キリストといえど知る事は出来なかった。
しかし彼らは何も知らないという事を知っている。人は言葉を越えて知る事は出来ない。人は言葉の指し示す事しか知る事が出来ない。人は言葉の指し示す事しか認識する事は出来ないのだ。その指し示す言葉を発見する事が創造であり発明、発見である。宗教や学術上の発見、例えば仏教やキリストの教え、あるいはアインシュタインの相対性原理など、これらはブッダやキリストやアインシュタインが発見した言葉であって、その言葉は彼らの生まれる前から存在していた。宇宙の誕生と同時に在ったあるいは。
もしかしたら宇宙の誕生よりはるか前から在ったかも知れない、言葉はそれを指し示しているはず。人の認識出来る事は全て言葉、人は言葉の空間の中の事しか知る事が出来ない。人の誇る知識も知恵も想像力も言葉の空間の中での自由でしかない。言葉の空間も宇宙も人の精神も全ての生命の遺伝子も同じよううな性質を示す。それらは全て存在の一つの側面でしかないからだ。光りがこの宇宙の外に出る事が出来ないように、人は言葉を越えて知る事は出来ない。言葉の空間も宇宙も同じよううな性質を示す。この宇宙のような言葉の空間は、過去現在未来、人の知り得る事の全てを指し示している。この宇宙がいつどのようにして生まれたかを知っている。この地球に生命がどうして生まれ進化したかを知っている。
人がそして精神がどうして生まれたかを知っている。生命進化は言葉の発見から始まる。それが普通の生命の場合遺伝子は化学的な言葉の場であり空間。いや化学的な言葉の場を作るためのものと言う方が正確だろう。高等な生命の場合人の言葉に近い言葉だろうし、人なら人の言葉そのもの、生命の進化は言葉そのものが導いたのだ。人の爆発的進化は人の言葉の発見そのものにあっただろう。生命の進化も、人の精神の活動も言葉の内の出来事。あなたの精神がどうしてこの世に存在するかを知っている。私やあなたの精神は言葉の場、あるいは空間とも言えるだろう。無数とも言える言葉が有機的な関係を持つ事によって産み出される。そして脳は精神を言葉の空間を産み出すための、極めて複雑な生化学的システムなのです。言葉はあなたが何をするかを知っている。人の喜びも悲しみも善意も悪徳も人のあらゆる思いは言葉の内にある。そしてそれらの思いはあなたが思うのではなく言葉そのものの思い。私も貴方も実際には存在していない。
私も貴方もこの宇宙の始まりから終わりまで続くものの一部なのです。言葉は人がいつどのようにして滅びるかを知っている。ことばは最良の教師、そしてことばは最悪の教師でもある。あなたがたった一つの言葉を知る知らないで、世界を楽園に変える事も、滅ぼす事も出来る、あなたを天国にも地獄にも導く。あなたをして、あなた自身と生きとしす生きる者全てを導き救う救世主にもする。この青く瑠璃色に輝くこの地球を、生命の住めない灼熱の地獄の星に変え己れ自身をも滅ぼす悪魔にもする。最後の審判は神がするのではなく、言葉に操られたあなたがする。言葉は全てを知っている、ただ人がそれを全て知る、術はない。古きを尋ね新しきを知るのも方法の一つ、昔の聖人、賢人の教えは一つの素材それによって、意味を見出すのは我々、それに意味を見出すことが出来る人なら、
他の何の言葉によってでも深い意味を見出し得る、昔の人の言葉の境界に囚われる必要は何もない。自分自信の言葉に意味を発見する事だ。それが昔から言われている自分自身に聞けと言う事だ。学者や詩人、預言者はそれをして来た。アインシュタインが相対性理論を発見したときの、最初の一瞥は単純で詩的かつ美しい言葉だったろう。理論はそれを説明するために後から付け加えられたものでしかない。
偉大な学者、宗教家、詩人は自分自身の言葉の中に意味を見出す。二流三流の学者、宗教家、求道者は他人の書いた論文や過去の聖人の教典に意味を見出す、一流の学者は詩人でもある、学者は詩人でもなければ大成しない。歴史に名を残した多くの人々は詩人でもあったのだ。日本の多くの学者に欠けるのはこの詩人性。この能力が知能や緻密さに比例する事はないからだ。人の能力には限りがある、言葉がそれを語り指し示しているとしても、人はそれを全てを知る事は出来ないだろう。言葉がそれを指し示しているとしても、占いの域を越えて知る事は出来ないだろう。人はその言葉の答案を全てを見ることは出来ない。論理でそれを探す事にも限りがある。人の直感もあてにならない。言葉の限界が人の認識の限界。
この言葉の限界の近くでは魔可不思議な事が起こる。神秘家、宗教家の語る事はここでの事である。詩人と最も進んだ学者、特に物理学者はここにたどり着いた。洗練された感性と数式と巨大加速器を使ってそこに辿り着いたのだ。ここでは全てのもは曖昧で人の知る論理は一切通用しない。事象の本質に近付くほど事象は全て哲学的になり精神性を帯び、そして全てのものがあたかも意志のあるかのように振舞うのだ。事象の本質に近付くほど全てのものの境界が消えそして融合する。境界では物質と時空と言葉と精神は融合し、全てのものは一つになってしまう。これが究極のリアリテイ。これは実在でもないし無でもない。これは過去の聖人や賢人の言っている空でもない。此等はあくまでも近似値でしかない。それを指し示す言葉でしかない。人がそれを言葉で表現する事は出来ない。
人がそれを認識する事そのものが難しい。ここが事象の地平線、これよりいかなるものも出る事はかなわぬ。この宇宙を光りもいかなるものも出る事が出来ないように。人はこれより外の事は想像する事すら出来ないのだ。全ての事象はその境界の内側での出来事なのだ。
神について
私は神を信じない。神は信じるべき対象ではない。神は関係そのものであり、神は聖書で語られている程度の単純な存在ではない。神はその被創造物である生命と同一でありその生命と同じだけ複雑な存在である。神は聖なる存在でない。神が聖なる存在なら私達もまた聖なる存在。神は恐れ敬うべき対象ではなく、神を求め知りそして生きるべきもの。神を知る事は即ち己を知る事、神を知る事はこの世界を、この宇宙知る事、神を求め知る事は人の生涯を通して成さねばならない。全ての宗教は神を求める道の単なる通過点その違いは神と言う概念の解釈の違い、単なる通過点に過ぎないところから正しいとか誤りだとか評価する事は誤り、一つの神一つの宗教に留まる事は知的怠慢であり人としての道でない。神は人に教えるべきものでもなく教えられるべきものでもない、神への道は一人一人に固有のもの、神は自らの意志により生涯に渡り探し求め続けるべきもの、人の道はまた一人の神への道、一人の造物主への道、私は教師でもなく神を探し求める中年の落ちこぼれ人間に過ぎない。
その他の言葉
神秘家と科学者、近寄ってきたのは当たり前の事、同じ事を表現するのに科学者はその 表現方として論理と数式を使い、神秘家は人の言葉を使っているだけ。人の思考、創造活動が量子力学的な意味を持つとしたら最終的には数学的に表現されるだろう。
単なる知識に真の価値はない、知るという事は素晴らしい事ではあるがそれが全てではない知値社会、ソフト化社会、といわれるが知識そのものに最高の価値を与えてはならない。人にとっての最高の価値を持つものは純粋さ、愛情、親切、思い遣り、他の全ての生命との関係。これなしには人生は暗く醜くひどいものとなる。
仏法が正しいのではない、聖書が正しいのでもない、コーランが正しいのでもないギータが正しいのでもない、たとえそれが正しいとしても宇宙の言葉の一つを表現しているだけ、人の言葉に宇宙の言葉を見出すことが予言の何たるかであり、発明、発見の何たるかであり、創造の何たるかである。
キリストやマホメットだけが預言者ではないノストラダムスだけが予言者ではない人間として生きる全ての人が預言者、誰もが宇宙の言葉を見出し得る。昔の聖人、賢人の言葉 を探すことは、やめなさい。聖書、や教典から言葉を探すことは、もうやめなさい。
そんなものとは比較にならないほど立派な教典をあなたは持っている。
人の言葉や教典のなかにそれを探すことはとても骨の折れること、自分自身の言葉のうちに、それを発見したときの喜びにはいかなるものも遠く及ばない。その方法を体得した時、外の世界から学ぶものは何も無くなる。
ブッダを糞掻きべらと罵った禅僧達もブッダの残した言葉を超えることは出来なかったようだ。
日本の人々に害毒を流し続けてきたのが虚無思想であり無の概念、無という言葉は、私達の祖先が自分たちが理解できない不可解なことを神という言葉の助けを借り言葉の助けを借りててしか理解出来なかったように、人の言葉では理解する事が出来ない事を空や無という言葉の助けを借り表現しているにすぎない。
もし人が滅びるとしたら、あなたの信じる神という言葉が霊という言葉が来世あるいは天国という言葉が人を滅ぼす。あるいはブッダのあるいはキリストのあるいはマホメットのあるいはマルクス等の過去に生きた聖賢の残した言葉があるいは自由という言葉があるいは民主主義という言葉がヒューマニズムという言葉があるいは戦争という言葉が平和という言葉が人類を滅ぼす事になるだろう。
もし人類が滅びるとしたら、その時まで私は生きていないだろうから、もしその時天国なり地獄が有るとしたら、そこにいるブッダや老子やキリストやマホメット彼らに会ってこう言うつもりだ。今人が滅んだのはあんたらの責任だ、あんたらの残した言葉は人々の心を惑わすだけにしかならなかったではないか、そのために人類とあの地球の生命が滅んだのだと。
人は知りたい事しか知る事は出来ない。
人は言葉を越えて知る事は出来ない、言葉の指し示す事だけしか知る事は出来ない。
そしてその指し示す言葉を発見する事が、創造であり、発見であり、発明である。
そして音楽であり芸術であり神話であり詩でもある。
そしてそれが文化となり文明となる。
火の使用や農耕、牧畜そして現在に至る、人類の歴史と文化と文明を作り上げた、数々の発明や発見、そして個人レベルで常に起こっている様々な形の創意工夫、それら全てのものの源は言葉の内にある。
個々それぞれの発明や発見は、その人の求めているもが人の言葉の空間の中のカオスに内在する、ある種の生成的なロゴスで醸成され論理と感性によって、真偽交ざりあった言葉の中から選び抜かれたものが、新たな発明や発見となって表れている。
その人の求めていたものが、具体的な物や概念として言葉として、現実化しているだけで、その求める動機があるなら、何れかの答えは有る。逆に言うならその求める動機が、なくては答えは存在しない。その動機の発見、こそ発明や発見の基になるものだが、それは言葉と様々な関係の中でしか生まれないものだ。
そして言葉と関係の組織化と成長に伴って、その創造物は豊かに深くなる。形に表れた音楽や芸術や幾多の発明や発見、それらの物は人の言葉を通して表れた、自然の構造であり形態である。人の言葉はそれを指し示す、地図とも言えるものだ。この言葉の中に人の認識し得る、全ての世界が織込まれている。
人が生まれて言葉を持ち、知性を持ち始めるとき、すでにその全てを持っている。人の知性そのものが、言葉のなかに織込まれており、それが心的な秩序と心の宇宙を作り出し、そこから全ての、文化と創造物を生み出す。ただこの言葉は、必ずしも人の言葉と同じ物でなく、人の認識という意味での言葉であるが。
このような概念を構造主義思想と呼び、この構造という考え方は六0年代においてフランスの、人類学者レヴィ・ストロースによって、創始された新しい学問分野(構造人類学)である。
それまで哲学の世界を支配してきた、サルトルの実存主義の世界の中に、一石を投じ波紋を広げた概念で、それらの概念の推進者にヤダヤ人が多く、この概念そのものが、ユダヤ教の思想が形を変え表れた、ものとも言えるものだからだ。
ユダヤ教の思想はこの世界にかってあり、そして現在起こりつつある事実、そしてこの先に起こるであろう、全ての事がすでに聖書に書き込まれ表現されており。歴史はそれに織込まれた秩序が表現される、課程だとする考え方である。ヨーロッパにおけるマルクスやフロイトといった、大思想家の多くはこのユダヤ教からの影響を、大きく受けている。
宗教教育の重要さについて
真摯に生きんと欲する者は、必ず宗教的な欲求を感ぜずにはいられない。これは故西田機太郎氏の言葉ではありますが。純粋な人であればあるほど真摯なな人であればあるほど、人は宗教に興味を持ちそれを欲するするようになる。そして既成の宗教に参加していなくても、歳を経る毎に宗教的になり、そのその宗教性と人格に深みと厚みをを増して来る。宗教の無いあるいは宗教性の無い人生は虚しい人生である。
人は歳を経るに従い宗教に、興味を持ち参加するのは人の自然な姿なのだ。宗教を否定するロシアや中国等の旧共産主義国を除き、何処の国に於いても宗教教育が行われているが、我が国では戦前の皇国史観に基づく、宗教と価値観が軍部の独走を許しの前の太平洋戦争に、のめり込んで行った事への反省と、アメリカ我が国の力を削ぐために旧来の宗教や価値観を良いものも悪いものもなく、徹底的に破壊しそれに進歩的と称する知識人が悪のりしたために、信教の自由に異常な迄に神経を遣った形の、宗教政策と教育が行われており、教育現場において自然な形の宗教教育が出来なくなっている。
その為にこれから宗教を必要とする若い人が宗教に対して免疫が無くどの宗教が真に自分の為になるのか判断が出来ず、いかがわしい宗教団体やカルトに加入し高額のお布施を要求されたり、オ-ム真理教等の反社会的な活動をする宗教団体に加入したり、最悪の場合はガイアナの集団自殺で記憶にもあると思う、人民寺院や最近ではフランチダビデアンのように命さえも差し出さねばならなくなる。
これらカルト教団の教祖は自らを救い主やキリストの再来と称し、ハルマゲドンが起こる世界の滅亡が近い世界の終わりを声高に叫び、人々に恐怖心を煽って信者を集める。教祖の下に集う人々に世界の滅亡した後に生き残り、新しい人類を生み出すのはあなた方であり自分達は選ばれた存在と教え、やがて全財産を教団に寄贈させ社会と関係を絶たたせ、集団生活に入ると言うのが一般的なカルト教団の在り方である。
カルトがオ-ム真理教や人民寺院やフランチダビデアンのように、問題を起こし危険で有害なものであると限らないが、本来宗教の使命は悩める心を救い教え導く事にある筈なのだが、宗教活動が最も儲かるビジネスの一つとして営まれている。そして無知な若者や悩み助けを求める者たちを、あの手この手の危険な罠を張り巡らし待ち構えている。超常現象や霊現象には存在しないと証明する事は出来ないが、いかがわしさがつきまとう。書店にはホラ-マンガやコミック本や怪奇現象や超能力を、興味本位に採り上げる本が所狭しと並べられているが、青少年に書かれている内容と現実の区別がつけられるだろうか。
超能力や霊能力あるいは受験の為の能力開発など、他の人に出来ない能力を得てその自己顕示欲を満足させようとしていないか。そのその不純な動機がカルトやいかがわしい、教団にからめ捕られるスキを与える事になる。若い人や精神的な悩みを持つ人がその様な質の悪い教団に、絡め捕られるのはテレビや雑誌等のマスコミにも大きな原因が有る。テレビ等で採り上げられるUFOや超常現象や心霊現象等いかにも、現実に有るかの如く採り上げらているが、その殆ど全てがインチキであり視聴率を稼ぐため、興味本位に採り上げているにすぎない。この様な巷に溢れる情報の真贋を見分ける能力を養うのは、本来は教育現場の仕事であるはずなのだが、受験の為の知識の詰め込みだけに手いっぱいで、我が国ではその様な教育は行われていない。
宗教を否定する国は没落し民族は滅亡する。
フエニキア人はスラブ-ギリシア系の海洋民族で、紀元前10世紀から前5世紀にかけて地中海各地に、植民地を建設し繁栄した民族であった。そのフエニキア人が作った国のひとつがカルタゴで、繁栄を極め地中海世界第一の経済大国となる程に栄えた国であった。だがロ-マから見るとカルタゴは経済的な利益ばかりを追求し、気難しく陰気で残酷であると決めつけられ、カルタゴはロ-マに滅ぼされるだけの理由を与えてしまった。
基本的にはロ-マがカルタゴの繁栄に嫉妬し、地中海を巡る覇権争いがその原因であり、三度にわたるポエニ戦争の結果、十万以上いた市民は虐殺され、生き残った者も一人残らず奴隷にされ、二度とこの地に再建される事がないように、徹底的に破壊され耕地には塩がまかれカルタゴは滅ぼされた。そしてフエニキア人も消滅した。
だがなぜ他の民族が単にロ-マに征服されるだけで済んだのに、徹底的に破壊され民族絶滅にまで追い込まれたのでしょうか。カルタゴのフエニキア人は、多神教信仰で商業の神バアル神の信仰し金儲けには熱心ではあったが、精神的な価値には重きおいていなかった。フエニキア人は他の民族から見ると、尊敬される事のない民族であった。
フエニキア人より少し後中央アジアで活躍したソクド人は何処に消えてしまったか。
ソクド人はフエニキア人と同じく商才豊かな民族であり、拝火教徒で海洋民族と大陸の違いはあれ、同じような評価うけアラブ人に追われ滅亡した。フエニキア人もソクド人商才に長けた民族ではあったが金儲けには熱心でも、精神的な価値を評価せず尊敬されなかった。
かっての偉大な民族と言われた幾つもの民族が、その名前だけを残してすっかり消滅してしまった。バビロニア人もペリシテ人もヒッタイト人も、かっては強大な力を誇っていたのに。これらの民族と対照的なのがユダヤ人であり、ユダヤ人はロ-マ帝国に滅ぼされ国を失って、2千年間流浪しながらも民族のアイデンティティを失う事はなかった。現在の西洋文明の基礎を作ったのはユダヤ人であり、そして現在においてノ-ベル賞受賞学者のかなりの部分二割りに近い人がユダヤ人であり、人口が日本人の十分の一に過ぎないのを勘案すると異常な高さである。人類の文明と歴史に果たした役割ははかり知れないものがある。ユダヤ人はその有能さゆえ、嫌われながらも尊敬されている民族なのだ。ト-ラやタルム-ド等の宗教精神的な後ろ楯持ち、子孫が誇りを持って生きる事が出来たかどうかが、ユダヤ人と滅亡した民族を分ける事になった。
民族のアイデンティティとプライドを失えば、繁栄は続かず民族は滅亡する。現在に於いても精神や宗教を軽く扱う国は長く繁栄する事は出来ない。アメリカでの犯罪の増加やモラルの低下と、キリスト教の影響力の低下とは無縁ではない。我が国に於いてもその事は言えるだろう。我が国の繁栄は戦前までの教育の遺産の上に、成り立っているとも言えるだろう。その遺産の無くなりつつある現在、子供や人々の精神的な荒廃となって現れ、我が国の繁栄もまた終わりつつある。ロシアの共産主義政権はマルクス主義に基づき宗教を否定し、精神的価値を軽視んじてきたが、結局その繁栄は長く続かずソビエトは崩壊した。心を伴わない繁栄は長続きしない。宗教を否定し精神的価値を軽く見る国は遠からず没落崩壊への道を歩む事になる。
宗教は人が生きるためには必要なものであり、宗教の影響力が低下して来たのはここ一世紀だけの事であり、人間の歴史の上で宗教の存在しない時期は無かった。
教育はユダヤ教に学べ。
だだ一つの神を認めるなら、それでユダヤ教徒になれる、流浪の民ユダヤ人は、本の民でもある。ユダヤの神に法則は無い。偶然性の神故に、人には理解する事が出来ない。神に良い行いをしても、幸福になれるとは限らないし、不幸になるとも限らない、神との対話、それが祈り、ユダヤ教の祈りである。ユダヤ人が傑出した人間を、大量に継続的に排出する事が出来るのは、日常の神への祈りから、ユダヤの祈りは特殊な祈りで神との対話と問いかけ(即ちそれは自己と対話)から、生み出されるものなのです。タルム-ドは三千年かかって、編集された本で、ユダヤの律法タルム-ドは一生かかっても読み切れない、ユダヤの経験と、知恵の全てがそこにある。
タルム-ドが有る限り、ユダヤ人はアイデンティティを、失う事もないし、これからの未来も、文明をリ-ドし続けるだろう。私達日本人が新たに、宗教を教育に取り込むとしたら、キリスト教は我々には受け入れ難く、神道は我が国独自の宗教では有るが、教育の場で扱える宗教では無い。
一神教も多神教も、その両極は繋がっている。キリスト教やイスラム教の、人格神と違い、ユダヤ教の神の概念は、一神と云う以外は、神道の神の概念に近い、類似の神の概念を持つ、ユダヤ教のほうが、教育現場への導入には、最も容易なものだろう。それによってユダヤ教の、人の生き方、その学びの姿勢を、日本人に取り入れる事が出来たら、我々日本人を、どれ程変えるだろうか。仏教から派生した、禅は究極の宗教ではあるが、一般教育への、導入には不適当なものではないかと考えている。
人間であるからにはに、日常の小さな問題を考えていればよいのではなくそれを越えた存在の本質について考えることもとても大事な事です。無宗教であっても瞑想も祈りも必要です。瞑想も祈りも人を磨き高めるものだからです。ただ我が国の宗教の意味も分からず世俗化し定型化した祈りはで嫌である。祈りはその人に固有のものであり私にとって祈りとは問い続けること問題を持ち続けることが祈りなのです。
ラビは先生ではない、学び方を知っている人である。
ユダヤ人の生き方は、家族を養える分だけ市場で働き、残りをタルム-ドの研究に、費やす事を理想としている。ラビは教師であると同時に、生徒でもある。この生き方は、私達も学びたいものです。私達が将来建設する共同体では、ユダヤ教のラビみたいな職責が必要になるだろう。
全てのユダヤ人はト-ラの学生であり、五才で入学この過程には卒業は無い
世界大戦の時、ポーランドのユダヤ人収容所に於いて死を前にした、ユダヤのエリ-トはその訪れの前に必死で勉強していた。自分が何者であるのか、何故死のうとしているかを知るために。人は偉く成るため、悟りを開く為に勉強するのではない。最後の審判で神に救われる為に、律法を守のではない。人であるから学び、修行をし、律法を守のでなくてはならない。そしてそれを行う事が、喜びとなるものでなくてはならない。ユダヤでは、討論や、家庭に於いて、怒る事は、意見の押しつけであり、軽蔑に値する事とされているのです。
神道は、最も進化した多神教、そしてユダヤ教は、一信教では最も根源的な、宗教であり我が国の神道とは、具体的な崇拝対象を持たない点では、似ている。
キリスト教、あるいは、イスラム教は、我々日本人には受入れ難い所が有るが、分離不可分の神としてなら、無神論者にも、多神教を信仰する我々日本人にも、唯一神の概念を受入れる事が、出来るのではないか。
中世ヨ-ロッパに於いては、異教徒として差別され、ゲット-に閉じ込められて、生活していた、そこにおけるユダヤ人の生活は、イフスを求める事が、その生活に大きなウエィトを占めていた。イフスとは徳とか、威厳あるいは信望のようなもので、その人の人間性をを表し、その家の背景や、伝統あるいは、知識や職業など、あるいは学習によっても、それは得られるもの。これからの未来の我々の社会は、自給自足の共同体と、ならなければ生きて行けないだろう。その時に中世ヨ-ロッパの、ユダヤ人共同体の経験が、生かせるだろう。ユダヤ教の持つ、倫理道徳観や、その生き様は、将来人類が生きるに、不可欠なものとなるのではないか。
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