伊賀へいらっしゃい

伊賀へいらっしゃい

2016年09月18日
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伊賀上野城、別名、白鳳城、正式名、伊賀文化産業城の裏側に石が積
み上げられています。

天守台横には今も多数の栗石が残っている。これは高虎が朝鮮から持
ち帰った新兵器の石弾とか、また籠城戦に石礫として使用するため
とか、さらに高石垣の裏込用の残りといった話があります。


高石垣の普請には近江穴太の石匠(あのう衆)
が動員された。天守の作事には粉川(和歌山)以来の次郎三郎
伊予より随従する助五郎、九十郎に伊賀の棟梁小田町仁助、荒木村兵衛を起用
天守はそれぞれの各層を分担して請け負わせ塔建ての五層天守となした。
元和17年(1612)9月2日台風により倒壊、死傷者数百名
をだしました。

五班に分けたとの記載があるのに四人の棟梁しか書かれてないのは多分、甲良豊後守宗廣
が洩れているのだと思われます常駐していなかった
から台風時にいなかったからではないでしょうか。

甲良大工は寺社大工の筆頭で藤堂高虎の出身地でもあり後、日光東照宮
を共に建設しています。

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しかしこの石は昭和十年に木造天守閣を再建した時に運び込まれた物で
はないでしょか。

伊賀市徳居町の長老がケーブルテレビのインタビューの答えには、
明治生まれのおじいさんの話として服部川から沢山の人が一列に並ん
で手渡しで渡していったといいます。
また戦の戦略として堀にワカメを流してヌルヌルの状態にして渡りに
くくしたということでそのための倉があったそうです。
そしてこの石は熱々に焼いて板の上に載せ足で踏んで堀の中に落とし
水蒸気爆発で攻撃するためのものだということです。

ということはこの石は裏石、栗石の余った石だけではなく元々在った
石も含まれているということでしょうか。

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石垣のしくみ


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栗石の積まれた横に芭蕉の句碑があります。







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Last updated  2017年08月16日 12時37分25秒
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