2011年03月04日
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カテゴリ: 秋山好古伝記
 松山の北予中学校長の後継に悩んだ学校理事会は、秋山好古に校長の就任を求め、好古は比較的簡単にこれを受託して、1924年(大正13年)に校長に就任しました。

 中学の理事会を代表して好古説得のため上京した井上要(カナメ)は、

 『どうか当分でも校長の名をお貸し下さい。

 そうして時々学校へ来て生徒と遊んで下さい』

 と口説いたそうですが、

 好古は6年間の長きにわたり校長を務め、その間無遅刻無欠席であったそうです。


 好古は余生を馬匹(バヒツ)の改良に捧げようとしていたのに、どうしてこんなに簡単に気が変わってしまったのでしょう。

 井上の「 北予中学松山高商楽屋ばなし 」の一節を読むと、困窮した故郷のために好古が一肌脱いだというように書いてありますが、どうも説得力がありません。


 好古の伝記は井上に遠慮してか、

 『将軍が北予中学校長となった交渉の経路については、新田長次郎氏の談は、いささか本文(「北予中学松山高商楽屋ばなし」のこと)と相違の点あるも、結果において同じきにより、井上氏の談に従う』

 と書いて、これ以上言及していません。


 好古は北予中学校長時代に、松山清掃会(戦争未亡人の会)で講演を行っており、その要旨が残っていて次のように語っています。

 『定年に達して、北海道にて牧馬に従事したるが、久松伯に勧められ北予中学校長となり、5年になるが始終独身生活せり』


 好古は29歳の時、陸軍での将来の栄達の道を捨ててまで、久松定謨(サダコト)の補導役として フランスへ私費留学 したぐらいであって、

 余生も旧藩主の勧めにより帰郷することを選んだのでしょう。


 秋山家は代々松山藩の下級武士であり、好古は11歳で明治維新を迎え、旧藩主の恩恵をこうむったことは一切無かったのですが、

 好古の旧藩主家に対する尊敬と感謝の念は非常に強く、絶対的なものであったようです。


 その一端を示しているのが、フランス留学時代に好古が郷里に寄せた手紙の一節です。

 旧藩主家は廃藩置県により東京在住を命じられますが、20余年も経過すると旧領地への帰還も認められたようで、好古のフランス留学時代に久松家も松山市民より帰郷を懇願されたそうです。


 好古の手紙には次のようなことが書いてあります。

 「松山は(東京などと比べると)繁栄しているとは言えず、市民の生活も苦しい。

 もし、今、久松伯が帰郷したならば、旧臣などの惨状を見て驚き、これを救おうとして伯爵家の財産を使い果たしてしまうだろう。

 それにも関わらず久松家の松山移住の懇願者が大勢いて、これを止めようとする松山市民が一人もいないのはどういうことか」


 好古の憤りは激烈を極めていて、

 『松山市民も気が狂うたるか』

 とまで書いています。

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最終更新日  2011年03月05日 02時54分28秒
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