2011年07月29日
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カテゴリ: 秋山真之伝記
 秋山好古は、何故軍人になったのかということについて

昨年の11月20日のブログ に、次のように書きました。

 「松山藩は徳川の親藩であり、ご維新の時は「賊軍」となりました。

 同じ賊軍でも、会津藩のように徹底的に抗戦したわけではなく、戦わずして白旗を上げたのですから、藩士達のプライドは傷ついていたでしょう。

 次の歌は、町民が武士をさげすんで謡ったのかもしれません。

 『長州征伐マの字にケの字 猫に紙袋で、後に這う』

 ご維新の時、好古は10歳で、松山を占領した土佐藩や汽船を奪っていった長州藩に対して強い憤りを感じていました。

 そして、この憤りは成長してからもなかなか忘れることは出来なかったのです。」


 好古は10歳の時、土佐藩が松山を占領し、長州藩が虎の子の汽船を奪っていったのを目撃し、その当時のことを後年手紙に、

 『好古も当時幼少ながらその実況を目撃して

 今日なお切歯(セッシ、きわめて無念に思うこと)に

 堪えざることに候』

 と、書いています。


 このことを改めて考え直してみると、

 好古は、土佐藩や長州藩に対して強い憤りを感じていたのではなく、松山藩士が戦わずして白旗を上げたことが極めて無念であったのではないかという気がしてきました。


 この当時の藩主、松平定昭(サダアキ)もさぞかし無念であったことでしょう。

 定昭は、外様大名の藤堂家(津藩)の五男として生まれ、養子として伊予松山藩に来たのですが、家督を継ぐと直ぐに老中になります。23歳でした。


 定昭はよほど江戸幕府から期待されていたのでしょうが、老中になったのが慶応3年、つまり明治維新の1年前なのです。

 松山藩の重役たちは、この時期、殿様が老中になるのはまずいということで、お役御免を願い出るよう進言したそうです。

 定昭は養子の哀しさで、それに従わざるを得なかったようです。


 老中をお役御免になって、慶応4年の1月に「鳥羽・伏見の戦い」が始まりますが、定昭の実父(津藩藩主)が幕府軍から官軍に寝返り、これが幕府軍の敗因となったのです。

 あんなこんなで、15代将軍徳川慶喜に見放されて、定昭は傷心のまま松山に逃げ戻りました。

 もう、武士としてのプライド、本分を貫くためには、方法は一つしかありません。

 定昭は、松山城の天守にのぼり、この城を枕に討死することを決意するのです。

 しかし、やはり重臣たちの反対にあって、土佐藩のなすがまま、城を明け渡したのです。


 時代は明治となり、もう戦(イクサ)など無いのかと思っていたら、あの西郷隆盛が反乱を企てているという風聞が、名古屋で教師をしている好古にも聞こえてきました。

 好古は、この戦に参戦して、定昭の無念を晴らし、松山藩士のプライドを取り戻そうとしたのかもしれません。


 好古は、北予中学の校長時代に生徒への訓話で、次のように語っています。

 『独学にて大阪師範学校に入り、一時愛知県に奉職せり。

 その後西南の役あり。

 戦乱長びきしをもって軍人になりて早く国内を鎮定せんとの志を抱き、

 士官学校に入り、その後軍人として今日にいたる。』

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最終更新日  2011年07月30日 00時15分44秒
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