2011年11月28日
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カテゴリ: 秋山真之伝記
 秋山真之の伝記に

 『日本海海戦において、

 東郷司令長官をはじめ艦隊作戦の要衝に当たれる秋山参謀をして、

 戦略上もっとも頭を悩ました問題は何であったかというと、

 これは今更こと新しく説明するまでもなく

 まさに来たらんとする波羅的(バルチック)艦隊の通路が

 対馬海峡であるか津軽海峡であるかの

 この判断であった。』

 と、あるように、

 津軽か対馬かというのが、

 日本海海戦前夜の最大の問題であったでしょう。


 世間一般には、連合艦隊旗艦「三笠」艦内で、会議が催され、

 かんかんがくがくの議論が繰り広げられ、

 津軽へ移動することが決定されかけたのですが、

 第2艦隊参謀長藤井較一(コウイチ)大佐と第2戦隊司令官島村速雄少将が、

 対馬通過説を強く主張し、津軽への北上が延期されたので、

 連合艦隊はバルチック艦隊を攻撃、撃滅することができたということになっています。


 真之は、早期に津軽へ移動することを主張し、

 東郷平八郎長官の了承も得ないで、軍令部へ津軽に移動すると打電するなど、

 まさに勇み足であったという説もあったりして、

 真之ファンとしては面白いわけがありません。


 そこで、この津軽海峡転移問題について、真之サイドから考えてみたいと思います。

 まず「飯田久恒(ヒサツネ)」のことです。


 飯田は、日露海戦の前半戦は、第2艦隊第2戦隊の参謀でしたから、

 第2艦隊が「露探艦隊」と言われ、民衆から受けた非難攻撃の辛さを痛感したでしょうし、

 後半戦では、連合艦隊参謀として、東郷の幕僚という重圧も経験しました。 


 戦後30年を経過すると、東郷の幕僚で生存していたのは、

 飯田一人になってしまっていて、戦後30年記念座談会で次のように語っています。


 『幕僚の意見としては、下で仕事をする者としては、

 万全の策を取っておかねばならぬ。


 幕僚の仕事としては何時移動と長官がお考えになっても

 差し支えないようにして置かねばならぬ。』


 つまり、東郷の司令部は、別に津軽への転移を前提に準備をしていたのではなくて、

 どちらに転んでも良いように準備を進めていたわけです。


 『ただ、吾々の頭に感じて居りますことは、

 長官からはしっかりはお話がありませぬでしたが、

 「現在の所では対馬海峡におろう。

 我慢の出来る限りおろう」

 というお話でありました。』


 東郷の話となると、その威光に曇りを生じさせることは、海軍の御法度ですから

 どうも奥歯に物が挟まったような言い方になっているようですが、

 要するに、対馬で待つと提案したのは、東郷の司令部で、

 東郷はそれに同意したに過ぎないのではないかという気がします。


 (この話は、明日に続きます。)





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最終更新日  2011年11月28日 23時06分01秒
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