2011年12月02日
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カテゴリ: 秋山真之伝記
 明治38年5月26日の明け方、

 軍令部次長「伊集院五郎」中将より連合艦隊に

 「5月25日14時30分、呉淞(ウースン、上海の外港)に、

 ロシア帝国義勇艦隊4隻、運送船3隻が入港したとの報告が上海より入電した」

 との、電報が入りました。


 この情報により、バルチック艦隊はまだ南方にあり、

 そこで輸送船を切り離したということは、

 最短距離の対馬ルートを選択した可能性が高いことが明らかとなったのです。


 連合艦隊は、26日正午に予定していた密封命令の開封を延期し、

 新たな情報が得られるまで、朝鮮半島南岸付近に留まることとしました。


 そして運命の5月27日。


 4時50分、仮装巡洋艦「信濃丸」より、

 「203地点、敵第2艦隊見ゆ」

 との電文が発せられたのです。


 当時の状況を、安保清種(アボ、キヨカズ、当時「三笠」砲術長、少佐)は次のように回想しています。

 『敵の艦隊が北廻りして津軽海峡に現れるのか、

 それとも、そのまま朝鮮海峡に現れるのか判らぬので、

 我が連合艦隊は、これを迎え撃つべく、

 いずれの方に待ちかまえておったが良いかについて、

 東郷長官はじめ非常に思い悩んだものであって、

 この一両日は正にその心配の絶頂にあったのである。


 ところが今、敵艦隊がこの朝鮮海峡に現れ、

 確実に、ここで、彼我艦隊の決戦が試み得られるというのであるから、

 喜びに耐えないのも無理は無いのである。


 ことに、秋山参謀の如きは、その点でもっとも心配された一人であり、実際、喜色満面

  「占めた、占めた」

 と言って、三笠の後甲板で、こ踊りして居られたほどであった。』





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最終更新日  2011年12月03日 01時24分33秒
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