大阪で水彩画一筋

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A-Wyeth雑感09父と子

Andrew-Wyeth雑感09

マガの娘(ベッツィ・ワイエス)


  アンドリューの文章ではいつまでも父は偉大な芸術家で尊敬の言葉を
 惜しまない。しかし父が傷ついていたことは確かだと思う。病弱な息子を
 自分の跡取りと決めた長年の夢がはかなく消え去ったのだから。

  イラストと純粋絵画の違いはだれも決定することは出来ないが、作家が
 継続したイメージを持続できるのはどちらかに偏る。
  アンドリューの絵画制作の原点は「孤独な丘の上の彷徨」が原点と
 すると雑誌編集者の注文に気に入ってもらえる作品を作ることに熱意が
 入るとは思えない。新しい絵画上の試みは拒否され、読者の注意を引く 
 ことがまず重要視される。そして雑誌の売り上げに貢献しているか
 どうか?が次の注文の重要な要素となる。

  1943年のポスト誌の表紙は父のアイデアが投影されている。
 西洋すずかけの枝にとまった鳥の目から見た風景を描いている。
  アンドリューはまずすずかけの木の習作を描いている。そして
 木の下には猟銃を持った一人の男が、さらに遠景も細密に性格に
 描かれている。大変な苦労のイラストである。私はこの絵でアンドリュー
 は疲れきったと思う。周囲の期待に応えたい、という思いが強いあまり
 本来の「抽象的なひらめき」が存在しないからだ。

  アンドリューワイエスの最も父と違う点、それは自然から受ける
 最初の新鮮なイメージ、興奮と言ってもよい瞬間のはかない夢を
 持続することである。この自分の絵画本質が欠落した絵画はいくら
 大衆から評価されようとアンドリューにはたまらなく苦痛になったの
 では?と思われる。その絵は時に具体的な形をなさないかもしれない。
  大衆には受けないかも知れない、しかしアンドリューが子供の頃より
 丘の上でさまよい描いた絵画態度は理想の世界だったのではないだろうか?

  すずかけのたくさんの葉は大きく細密に描かれ相当の時間をかけたと
 思われる。父はノーマン・ロックウェルの作品の庶民性を知っていたので
 アンドリューの描く絵画では雑誌表紙の役目は務まらないと踏んでいた。
  そしてアンドリューの成功のために自分のイラストでの成功を教えたと
 思う。しかしそれは父と子の「質」の違い、「軋轢」にと変わった思う。

  この頃のアンドリューの細密描写は近景、中景、遠景とすべてに
 力を注いで描かれている。表紙絵も隅まで丁寧に描かれている。それに
 構図が奇抜で注目を集めるのは確かである。しかしこのようなアイデア
 は製作者にとってはとても疲れるものだと思う。当時の大衆はありふれた
 構図や描写では満足しなくなっていたのかも知れない。

  斬新で奇抜な構図は人々の目を引くかもしれないがアンドリューは
 神経質になっていた。このまま貪欲な雑誌編集者の要求にこたえようと
 すればもう自分の絵を描く時間はなくなる。生活のために続けるか?
 父の希望に逆らってでも自分の絵を描くか?

   アンドリューがイラストの仕事をすることは大変なストレスになって
 いった。しかし父の願いを簡単には断れない。しかし大きな味方があらわ
 れる。アンドリューは23歳のときにメイン州であった当時大学生だった
 ベッツィと出会い結婚する。父はこの結婚に反対したそうである。アンド
 リューがメイン州にいってしまうのではと危惧したのと思う。ベッツィー
 の実家はワイエス一家が夏を過ごすメイン州の別荘の近くにあります。

  ベッツィはペンシルバニアの義父の家にはなじまなかった。特に一家の
 長が絶対的な権力で家庭のすべてを支配しているムードに反発する。
 新妻ベッツィーは新しいタイプの女性と思われる。夫のアンドリュー
 が父親にはとても逆らえない家庭環境であったのを察したのだと思います。

  アンドリューワイエスの父親が平気でわが子の作品を「手直し」するのを
 不快に思っていました。ベッツィはアンドリューの作品をいつもの
 ように手直しする父親の態度に露骨に不快感を表し、ついに抗議の意思を
 表明します。そして結果的にはアンドリューの絵画は父から独立する。

  メリマン著作本によるとベッツィはバタンとドアを閉めて出て行って
 しまったそうで、父と息子夫婦の離反が決定的になったとも思えます。

  ここからは私の予想で書きます。ベッツィーは義父にこんなことを
 言ったのではないでしょうか。
 「お父さん、あなたの絵は多くの人々に夢と希望をプレゼントする
 素晴らしい絵画です。特に若い人、行動力のある人、これから活躍する
 人たちに愛されるでしょう。お父さんの功績はアメリカ美術の歴史に
 きっと最高の栄誉をもって記録されるのは間違いありません。
  しかし世の中には将来に希望を持てない立場の人、病床で死を待つ人、
 差別され疎外されている人もいます。アンドリューの絵はそんな人達に
 こそ受け入れられるものと思います。世界には孤独な人、悩んでいる人、
 何かを恐れている人が多くいます。アンドリューの絵はそんな人達に
 希望を与えるのです。」

  この後、父はアンドリュー夫妻がメイン州で過ごすことを認めざるを
 えない状況になる。ピンチを救ってくれたのは新妻ベッツィーであった。

  アンドリューの心を察して新妻ベッツィが後押しする。「自分の芸術を
 信じて突き進むべきよ。」やがて二人はメイン州に多く住む。これは
 私の独断だがベッツィーはその後ペンシルバニアの家にはあまり近寄
 らないようになったのでは?と思われるふしがある。ベッツィーとNC
ワイエスがその後どういう関係であったかはわかりようがない。しかし
 ベッツィーが義父にきっぱりと反抗したのは確かなようである。家庭の
 支配者である古いタイプの父親像に学歴のあるベッツィーが反抗したのは
 十分理解できる。特にアンドリューが父に逆らえる立場とは思えない。
 アンドリューがもしベッツィという女性と結ばれていなかったら、果た
 して父が期待する雑誌表紙イラストの依頼を断ることが出来ただろうか?
  もし表紙の絵を描く画家に終わっていたら、カントリー調の第2の
 ノーマン・ロックウェルが誕生していたでしょう。


  少なくとも父の愛息をイラストレーターの跡継ぎにしようとした
 目論見はついえたのは確かである。アンドリューがどの程度悩んだか
 わからない、しかし高村光太郎が父から銅像会社を設立したら?と
 言われたことがショックであったように、父の期待にそわなかった
 ことに複雑な気持ちを持っていたのは確かである。

  アンドリューワイエスには父以外の教師も恩師もいません。高村光太郎
 が「反逆」という詩で表したような強い摩擦はなかったようにように思わ
 れますが実際は同じ軋轢があったと思います。光太郎が「自分の良心に
 したがって」大恩ある父の意にそむいたのと同じように、アンドリュー
 ワイエスも父の意にそむいて自分の絵画世界を追求する方向を選ぶしか
 なかったのだと思います。光太郎の父がなげいたと同じようにアンド
 リューワイエスの父も「わが子は別の世界に行ってしまった。」と
 嘆いたと思います。しかし両者の親の予想は後に大きくはずれ子供は
 後世大きく評価されることになります。

  メイン州で暮らす二人は父の加護のもとを離れどんな生活をしたの
 だろうか?将来における経済的不安は?姉の話では「あの夫婦は一日を
 2セントで暮らしている。」といわれるほど質素だったらしい。

  この経済的なピンチもすぐに無くなります。19世紀の中ほどに
 ペンシルバニア州で石油が発見され、当時の爆発的な車ブームで大きな
 需要が見込まれます。そしてジョン・ロックフェラーという男がこの
 石油ビジネスで巨大な利益を得ます。あまりの儲け過ぎとえげつない
 経営手法は世間から批判されるようになりました。

  ロックフェラーは晩年社会貢献事業に熱心となり、その財団は巨万の
 富の一部を美術関係にも使います。(近代美術館他4つの美術館は
 ロックフェラー財団の寄贈によるものです。)ペンシルバニアの画家
 アンドリューワイエスの絵画は、一生経済的な心配なく絵画に没頭できる
 金額で買い上げられました。父の予感は見事にはずれたのです。

 妻ベッツィーは後にモデルとなる体の不自由なクリスチーナの髪を
 毎日洗ってやっていたそうです。かなり心に余裕のある先進的な考え方が
 出来る女性であったのかも知れません。

  その後父親は渋々二人がメイン州で生活することを認めざるをえな
 くなります。このアンドリューが妻と住むことになったメイン州で
 アメリカを代表する傑作が制作されることになります。

  ベッツィはメイン州の家の近くに住むオルソン家の人を紹介する。
  ベッツィーワイエスは身体障害者のクリスチーヌの身の回りの世話を
 していたといわれる。おかげでアンドリューはこの古い木造のオルソン家
 に自由に出入りできる特権を与えられる。そして幾度この古い木造建築を
 描いたことであろうか?そして多くのアンドリューの傑作絵画の舞台と
 なる。

 クリスチーヌ・オルソンはこの後長くアンドリューの絵のモデルになる。
 クリスチーヌは体の自由が利かない老婆である。そしてこの老婆を描いた
 テンペラ画は後に美術館が買い上げるほどの名作となる。

  当時のアメリカの豊かさは日本とは比較にならないが、ワイエスの
 テンペラは最高の値段で買い取られ父親の心配は危惧に終わる。
  父は絵画での成功の難しさをよく知っていた。だからイラストの
 仕事がわが子の将来に不可欠のものと認識していた。純粋絵画は
 ヨーロッパの画家の独占場でありアメリカの画家にはチャンスがない。
  「もうリアリズムの時代は終わった。」父から見ればリアリズム絵画
 はポンペイの壁画やアルタミラの洞窟画のようにすでに過去の遺物に
 しか見えなかったのだと思う。

  イラストの仕事に反発するわが子は理解できなかったのでは?
  この芸術の商業化へのアンドリューの反発はやはり高村光太郎にも
 同じように存在した。光太郎が西洋から帰ったときに父が発した言葉
 は「仲間と銅像会社を設立してみてはどうか?」というものでした。

  才ある息子が将来にわたって安定した収入と生活を拡大できる当然の
 「思いやり」かもしれないが、光太郎はこの言葉に愕然とする。彼の学んだ
 近代彫刻は日々イメージを夢の中で模索し創造し有形物に表すことで
 ある。その努力は心の内に秘められた細い糸をたどるようなものなので
 他人には伺いしれないものである。

  光太郎と父との軋轢はこの時から始まる。そして父と子の離反は
 どうしようもなくなり世間があきれ返るほどの放蕩息子ができあがる。
  しかしアンドリューと父との軋轢は意外な形で終結する。

  1945年大きな戦争が終わる年に突然父は亡くなる。彼と孫を
 乗せた乗用車が踏み切りで列車と衝突して事故死するのだ。

  アンドリューは幼い時、学校に行かなかったときに「偉大な芸術家で
 学校に通ってたものはいない」といって励まし支えてくれた父の突然の
 死に懺悔の気持ちで一杯になる。彼は父の肖像を一枚も描かなかった事
 そして父の期待に反してイラストの道を拒否してしまったこと、メイン
 州に行ってしまったこと、大恩に報いることが出来なかったことが大きな
 心の傷として残ることになる。

  かって父は子にこのようなことをしゃべったことがある。NCワイエスの
 母が亡くなった時にその遺体が置かれた部屋で彼は白い母の顔を見て
 「一番大事な人の死が前にある、やがて朽ち果てようとするその母の
 横顔をジッとながめた。言葉に出来ないくらいの大変な悲しみであるが
 画家にとっては貴重な重要な経験である。その時の印象を私は後々まで
 決して忘れることはない。」

  人物描写における激しい印象の重要性を述べたのであろうが、皮肉な
 ことに自身の死が巡りめぐって我が子アンドリューの絵画制作の秘密に
 つながる。アンドリューワイエスの作品に「冬」という衣装を借りて
 たえず{死」と「腐敗」のイメージが存在するのはこの理由による。

  後のモデル「クリスチーヌ・オルソン」は身体に障害のある老婆で
 あった。又若い女性をモデルにすることはあっても「生のはかなさ」は
 アンドリューの終生変わらない絵画のテーマであった。古い朽ちていこう
 とする白い建造物や冬枯れはそんな理由で繰り返し描かれる。

  その後描き続けるには必然がある。故郷の自然、丘は父そのもの、
 70歳になっても80歳になっても「丘の上の孤独」な少年が癒された
 故郷の風景と人々をいつまでも描き続ける。私の経験は私だけのもので
 そのイメージは他の人とは共有できない。他の人の感情は私のそれとは
 違っている。「一人で丘をさまよう少年時代、孤独地獄?いや画家には
 理想の生活だ。」といった。少年期の体験は苦い記憶であり同時に心の
 風景である。

  アンドリューと高村光太郎は文化後進国の中で新しい未知の美術を
 追求しようとした孤独な挑戦者のイメージがある。そして父は尊敬する
 もの、しかも乗り越えなければならない伝統的な旧来の文化に置き換える
 ことが出来る。

 高村光太郎が有名な詩「道程」を紹介します。

         道程

   僕の前に道はない
   僕の後ろに道は出来る
   ああ、自然よ
   父よ
   僕を一人立ちにさせた広大な父よ
   僕から目を離さないで守ることをせよ
   常に父の気魄を僕に充たせよ
   この遠い道程のため
   この遠い道程のため

  この詩はまるでアンドリューワイエスが語ったように思える。
 事実アンドリューはペンシルバニアの自然、その丘は父自身の
 姿である、と述べている。高村光太郎の場合の「父」は自身の
 主義主張が既成の概念から出発するのではなく本当の自然から
 学ぶ、ということだと思う。

続く


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