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紫式部(むらさきしきぶ)めぐりあひて見しやそれともわかぬ間に 雲隠れにし夜半よはの月かな新古今和歌集 1499 / 小倉百人一首 57たまたま出会って見たのかどうかも分からない間に叢雲むらぐもに隠れてしまった夜更けの月だなあ。(邂逅して、お逢いしたのかどうかも分からないうちにいなくなってしまった、愛しいあなた。)註わかぬ:現代語「分かる」ではなく、古語動詞「分く」(意味は同じ)の打ち消しなので、この形になる。上掲の結句は、百人一首を採った。新古今集(原作)では「夜半の月かげ(月光)」。百人一首の方は、撰者の巨匠・藤原定家による推敲か。確かに、間違いなくこちらの方がいいと思われる。『プレバト』みたいなことを、千年前の人もやっていたってことか
2024年11月05日
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紫式部(むらさきしきぶ)めぐりあひて見しやそれともわかぬ間に 雲隠れにし夜半よはの月かな新古今和歌集 1499 / 小倉百人一首 57たまたまめぐりあって見たのかどうかも分からない間に叢雲むらぐもに隠れてしまった夜更けの月だなあ。(邂逅して、お逢いしたのかどうかも分からないうちに消えてしまった、あなた。)註世界最初の長編小説作家となった作者による、象徴主義的技法を用いた、さすがの秀歌。わかぬ:現代語「分かる」ではなく、古語動詞「分く」(意味は同じ)の打ち消し(未然形)なので、この形になる。新古今集の結句は「夜半の月かげ(月光)」となっている。この体言止めも悪くない。撰者・藤原定家による改稿か。
2024年09月17日
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式子内親王(のりこ、しきしないしんのう)いま桜咲きぬと見えて うすぐもり春に霞める世のけしきかな新古今和歌集 83今桜が咲いたと見えて薄曇の春に霞んでいる馥郁たる世の景色だなあ。
2024年04月01日
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式子内親王(しきし、のりこないしんのう)見るままに冬は来にけり 鴨のゐる入江のみぎは薄氷うすごほりつつ新古今和歌集 638何気なく眺めているうちに冬はやって来たのだなあ。鴨が休んでいる入り江の汀みぎわに薄氷が張って。註ゐる(居る):現代語の形式動詞「いる」と異なり、具体的・実質的な動作を表わす。「坐る、留まる、じっと動かないでいる、住み着く」などの意味。この歌では、鴨たちが(寒そうに)うずくまっていることの描写。
2022年12月23日
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藤原家隆(ふじわらのいえたか)志賀しがの浦や遠ざかりゆく波間より 氷りて出いづる有明の月新古今和歌集 639志賀の浦だなあ。(その岸辺から沖へ向って氷結して)しだいに遠ざかってゆく波間から凍りついて出てきた有明の月。註志賀の浦:現・滋賀県大津市志賀付近の琵琶湖西畔。「志賀」は「滋賀」と同語源、もしくは同一語か。(志賀の浦)や:語調を整え、感動・余情・強調の意を添える終助詞、または間投助詞。現代口語になかなか訳し難い、しみじみと微妙な言い回しといえる。後世、この「や」が、「切れ字」(「かな、けり」など)の一つとして、俳諧で多用される語となり、用例は枚挙にいとまがない。→ 松尾芭蕉 荒海や佐渡によこたふ天河 閑さや岩にしみ入蝉の声有明の月:望(満月)ののちの、夜遅く上って朝になっても残っている月。
2022年12月23日
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藤原定家像 狩野探幽原画 法谷文雅模写「み王田勢ハゝ那も 紅葉裳難可里介り 浦乃 と満や農 秋の夕暮」藤原定家(ふじわらのさだいえ、ていか)見わたせば花も紅葉もみぢもなかりけり 浦の苫屋とまやの秋のゆふぐれ新古今和歌集 363遥かに見わたせばもう花も紅葉もないのだなあ。浜辺に苫葺きの粗末な小屋だけがある晩秋の夕暮れ。註日本人の重要な美意識「侘び寂び」の究竟を示すといわれる和歌史上屈指の名歌で、藤原定家の代表作の一つ。「なかりけり」と言っているものの、作者の脳裏には花や紅葉の鮮やかな光景が再現(プレイバック)されていることが読みとれる。そのイメージと現実の対比で「もののあはれ」を表現した。後撰和歌集のよみ人知らず「降る雪は消えでもしばしとまらなむ花も紅葉も枝になきころ」(冬の花といわれる降る雪は、消えずにしばらく留まっていてほしい。花も紅葉も絶えてしまってもう枝にない今)や、新撰和歌集146のよみ人知らず(伝「清原のおうな」)「降る雪は枝にもしばしとまらなむ花も紅葉も絶えてなき間まは」(降る雪は枝にしばし消えずに留まってほしい。花も紅葉も絶えてしまってもうない時節には)などの本歌取り。苫屋とまや:苫とまで屋根を葺ふいた粗末な小屋。漁師などが宿る仮の寓居。「苫」は、菅すげや茅かやなどを粗く編んだ莚むしろで、舟や家屋を覆って雨露をしのぐのに用いた。
2022年11月30日
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後鳥羽院(ごとばいん)さびしさはみ山の秋の朝ぐもり 霧にしをるる槇まきのした露新古今和歌集 492さびしさはみ山の秋の朝曇濃い霧にびっしょり濡れてしおれたような槇の葉から滴したたりおちている露。註晩秋の寂しさを詠みながら、どことなく艶麗さをも漂わせている秀歌。しをる:萎(しお)れる。(植物が)弱ってぐったりする。槇:真木。松、檜(ひのき)、杉など、堂々と風格のある木を総称して言った。現代語のマキ(イヌマキ)とは異なる。した露:樹木の下葉から滴(したた)る露。ちなみに、「滴る」の語源は「下・垂る」であろう。 小金ヶ嶽(兵庫県篠山市)ウィキメディア・コモンズ パブリック・ドメイン *画像クリックで拡大。
2022年11月13日
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藤原兼宗(ふじわらのかねむね)ゆく秋の形見なるべきもみぢ葉は あすは時雨しぐれとふりやまがはむ新古今和歌集 545ゆく秋の置き土産であろう紅葉は明日になれば時雨とばかりに降っては古び紛れてしまうのだろうか。註形見:思い出の縁(よすが)とするもの。スーヴェニール。亡き人の品に限定された現代語よりはかなり意味が広い。上古語動詞「もみづ」(紅葉・黄葉する)の連用形で「もみぢ」となった。時雨しぐれとふりやまがはん(降りや紛はむ):(折しもぱらぱらと降ってくる)時雨のように降っては古び、紛れてしまうのだろうか。「ふり」には「降る」と「古る」(古びる)が掛けてある。
2022年11月13日
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西行(さいぎょう)津の国の難波なにはの春は夢なれや 葦の枯葉に風わたるなり新古今和歌集 625摂津の国の難波の春はただの夢だったのだろうか。いまは芦の枯葉に風が吹きわたっているばかりだ。註津の国:摂津の国。現在の大阪府北中部と兵庫県南東部。難波:現・大阪市中央区・浪速区付近。
2022年11月13日
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西行(さいぎょう)きりぎりす夜寒よざむに秋のなるままに 弱るかこゑの遠ざかりゆく新古今和歌集 472 蟋蟀こおろぎは夜寒に秋がなってくるにつれて弱っていくのか声がしだいに遠ざかってゆくのだなあ。註きりぎりす:今でいうこおろぎ。今のきりぎりすは、古語では「機織(はたをり)」。古語の「こほろぎ」は、鳴く虫全般を総称して言った。弱るか・・・ゆく:強調・整調の係り結びの、比較的珍しい疑問形の用例といわれる。従って、この「ゆく」は連体形。 秋 ススキの穂波ウィキメディア・コモンズ パブリック・ドメイン * 画像クリックで拡大。
2022年10月22日
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左京大夫顕輔(さきょうのだいぶあきすけ、藤原顕輔)秋風にたなびく雲のたえ間より もれいづる月のかげのさやけさ新古今和歌集 413 / 小倉百人一首 79秋風にたなびく雲の切れ間から洩れ出た月の光の澄みきったあざやかさ。註秋風に:「に」は原因・理由を表わす格助詞。秋風によって。秋風に吹かれて。たなびく:横に長く引いているさま。棚+引く。たえ間:絶えた間。切れ間。かげ:古語としては、ほとんど「光」の意味。さやけさ:形容詞「さやけし」(明るくくっきりしている)の語幹に接尾語「さ」がついて名詞化したもの。
2021年09月23日
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慈円(じえん)夏衣なつごろもかたへ涼しくなりぬなり 夜や更けぬらむゆきあひの空新古今和歌集 282ふと気づいてみると夏衣のかたわらは涼しくなっていた。もう夜も更けたのだろうか。夏と秋が行き交かっている空の気配。註かたへ:この場合は「かたわら、そば、周り」の意味か。文脈によっては「片方、一方、一部分」の意味になることもある。ゆきあひ:行き交い、すれ違うこと。短歌では現代でもしばしば使われる語。季節の変わり目、とりわけ夏から秋についていう。現在の知見では、季節の変化は気圧や前線の移動(北上・南下等)などで説明・理解されるが、前近代の認識では、空に大いなる「風の道」のようなものがあって、行く季節と来る季節が行き合う(すれ違う)というイメージで捉えられていた。これはこれで、ファンタスティックで「いとをかし(すてき)」な感性かもしれない。 着物 浴衣ウィキメディア・コモンズ パブリック・ドメイン *画像クリックで拡大。
2021年09月02日
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小野小町(おののこまち)あはれなりわが身の果てや浅緑 つひには野べの霞と思もへば新古今和歌集 758あわれなものね。わが身の果ては結局は浅緑の野辺の春霞になってしまうと思えば。 狩野探幽 小野小町ウィキメディア・コモンズ パブリック・ドメイン
2017年05月07日
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西行(さいぎょう)道の辺べに清水しみづ流るる柳陰やなぎかげ しばしとてこそ立ちどまりつれ新古今和歌集 262道のほとりに清流が流れる柳の木陰にほんのしばしの間と思って立ち止まったのだが(居心地がいいので、ついつい長居をしてしまったよ)。註「こそ・・・つれ」の係り結びが逆接の意味を表わし、言外に訳文の( )内のようなニュアンスになる。この語法は、現代文でも「分野こそ違え、尊敬している」のような言い回しに残っている。* BeNasu 那須高原の歩き方 歌枕の地 栃木・芦野 遊行柳* 遊行柳ゆぎょうやなぎ(下野国芦野、現・栃木県那須郡那須町大字芦野)* 倉木麻衣は、自作の『State of Mind』の歌詞で、この和歌を一首丸ごと引用している。
2016年09月08日
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慈円(じえん)夏衣なつごろもかたへ涼しくなりぬなり 夜や更けぬらむゆきあひの空新古今和歌集 282ふと気がついてみると夏衣のかたわらは涼しくなっていた。もう夜も更けたのだろうか。夏と秋が行き交かっている空の気配。註かたへ:この場合は「かたわら、そば、周り」の意味か。文脈によっては「片方、一方、一部分」の意味になることもある。ゆきあひ:行き交い、すれ違うこと。短歌では現代でもしばしば使われる語。季節の変わり目、とりわけ夏から秋についていう。現在の知見では、季節の変化は前線の移動(北上・南下)などで理解されるが、当時の認識では、空に大いなる「風の道」のようなものがあって、行く季節と来る季節が行き交う(すれ違う)というイメージで捉えられていた。 着物 浴衣ウィキメディア・コモンズ パブリック・ドメイン *画像クリックで拡大。
2016年09月08日
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能因(のういん)山里の春の夕暮来てみれば 入相いりあひの鐘に花ぞ散りける新古今和歌集 116山里の春の夕暮れに来てみると日の入りを告げる鐘の音に山桜の花が散っていたなあ。
2016年04月03日
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後鳥羽上皇(ごとばじょうこう)桜咲く遠山鳥のしだり尾の ながながし日も飽かぬ色かな新古今和歌集 99桜が咲いている遠い山に棲む山鳥の枝垂り尾のように長々しい日も飽きない花の色だなあ。註柿本人麻呂作に擬せられている名歌「あしびきの山鳥の尾のしだり尾のながながし夜をひとりかも寝む」(拾遺和歌集778/小倉百人一首3)の本歌取り。この本歌は、万葉集2802の歌の詞ことば書きに別案として記載されている。ただ、この歌が柿本人麻呂作であるという確証はなく、歌風から見ても現在ではほぼ否定されているが、年代を経るにつれて評価が高くなっていったのは事実であろう。なお、万葉集2802本文は、「思へども思ひもかねつあしひきの山鳥の尾の長きこの夜を(思っても思いは尽きない 山鳥の尾のように長いこの夜を)」である。
2016年03月29日
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西行(さいぎょう)ながむとて花にもいたくなれぬれば 散る別れこそかなしかりけれ新古今和歌集 126ずっと眺めていることで花にもたいそう慣れて(情が移って)しまったので散る別れが哀しくてたまらないなあ。
2016年03月29日
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後鳥羽上皇(ごとばじょうこう)ほのぼのと春こそ空に来にけらし 天あまの香具山霞たなびく新古今和歌集 2ほのぼのと春は空にやって来たらしいなあ。天の香具山に霞がたなびいている。註新古今集編纂の勅命者であった後鳥羽院による、おおどかな名歌。「ひさかたの天あめの香具山このゆふべ霞たなびく春立つらしも」(万葉集 1812)の本歌取り。(春)こそ:強調・詠嘆のニュアンス。天:万葉集では普通「あめ」と読み、古今集以後は「あま」と読む。ちなみに「雨」は、あるいは「天」と同じ語源(推定「天つ水」などの約)かも知れない(筆者説)。 天香久山(奈良県橿原市南浦町)ウィキメディア・コモンズ パブリック・ドメイン * 画像クリックで拡大
2016年03月28日
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式子内親王(しきし/のりこ・ないしんのう)山ふかみ春とも知らぬ松の戸に たえだえかかる雪の玉水新古今和歌集 3山が深いので春が来たとも知らない侘しい庵いおりの松の戸にぽつりぽつりと降りかかる雪解け水の玉の雫。註(山ふか)み:「~が~なので」。上古語特有の「ミ語法」。万葉集に頻出する。この歌の作歌当時(鎌倉時代初期)にはすでに懐古趣味的(レトロスペクティヴ)な用法だったと思われる。松の戸:「松」と「待つ」が掛けてあるかも知れない。たえだえ:動詞「絶ゆ」はヤ行の(下二段)活用なので、歴史的仮名遣いは「たえだえ」となる。
2016年02月27日
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式子内親王(しきし/のりこ・ないしんのう)山ふかみ春とも知らぬ松の戸に たえだえかかる雪の玉水新古今和歌集 3山が深いので春が来たとも知らない侘しい庵いおりの松の戸にぽつりぽつりと降りかかる雪解け水の玉の雫。註(山ふか)み:「~が~なので」。上古語特有の「ミ語法」。万葉集に頻出する。この歌の作歌当時(鎌倉時代初期)にはすでに懐古趣味的(レトロ)な用法だったと思われる。松の戸:「松」と「待つ」が掛けてあるかも知れない。たえだえ:動詞「絶ゆ」はヤ行の(下二段)活用なので、歴史的仮名遣いは「たえだえ」となる。
2015年03月18日
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藤原定家像 狩野探幽原画 法谷文雅模写「み王田勢ハゝ那も 紅葉裳難可里介り 浦乃 と満や農 秋の夕暮」藤原定家(ふじわらのさだいえ、ていか)見わたせば花も紅葉もみぢもなかりけり 浦の苫屋とまやの秋のゆふぐれ新古今和歌集 363遥かに見わたせばもう花も紅葉もないのだなあ。浜辺に苫葺きの粗末な小屋だけがある晩秋の夕暮れ。註 日本人の重要な美意識「侘び寂び」の究竟を示すといわれる和歌史上屈指の名歌で、藤原定家の代表作の一つ。 以上の新古今集361~363を、古来「三夕さんせきの歌」と称する。 後撰和歌集のよみ人知らず「降る雪は消えでもしばしとまらなむ花も紅葉も枝になきころ」(冬の花といわれる降る雪は、消えずにしばらく留まっていてほしい。花も紅葉も絶えてしまってもう枝にない今)や、新撰和歌集146のよみ人知らず(伝「清原のおうな」)「降る雪は枝にもしばしとまらなむ花も紅葉も絶えてなき間まは」(降る雪は枝にしばし消えずに留まってほしい。花も紅葉も絶えてしまってもうない時節には)の本歌取り。和歌・短歌ブロガー仲間のけん家持さんにご教示いただきました。苫屋とまや:苫とまで屋根を葺ふいた粗末な小屋。漁師などが宿る仮の寓居。「苫」は、菅すげや茅かやなどを粗く編んだ莚むしろで、舟や家屋を覆って雨露をしのぐのに用いた。
2014年12月02日
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西行(さいぎょう)心なき身にもあはれは知られけり 鴫しぎ立つ沢の秋のゆふぐれ新古今和歌集 362世俗を捨てて執着の心がない身にももののあわれはおのずと察せられるのだなあ。鴫が飛び立つ沢の秋の夕暮れ。註心なき:出家して世俗への執着を捨て去ったため、もはや情趣を解して喜ぶ心がなくなったこと。現代語「心ない」の「思いやりや思慮分別がない」という意味と全く無関係とは言い切れないが、ニュアンスは大きく異なる。 タシギウィキメディア・コモンズ パブリック・ドメイン *画像クリックで拡大。
2014年12月02日
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寂蓮(じゃくれん)さびしさはその色としもなかりけり 真木まき立つ山の秋のゆふぐれ新古今和歌集 361この限りない寂しさは色合いのせいばかりでもないのだなあ。大きな木がそそり立つ山の晩秋の夕暮れ。註~しも:ばかりでは(ない)。現代語「必ずしも」などにも残る。真木まき:槇。松、檜(ひのき)、杉など、堂々と風格のある木を総称して言った。現代語のマキ(イヌマキ)とは異なる。 関の甕杉(青森県西津軽郡深浦町)ウィキメディア・コモンズ パブリック・ドメイン *画像クリックで拡大。
2014年12月02日
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西行(さいぎょう)をぐら山ふもとの里に木この葉散れば こずゑに晴るる月を見るかな新古今和歌集 603「小暗山おぐらやま」というほど鬱蒼たる小倉山だが麓の里にもう木の葉は散ったのでいま私は小高い木の梢のあたりに清さやかに晴れわたった月を見ているのだよ。 月ウィキメディア・コモンズ パブリック・ドメイン *画像クリックで拡大。
2014年12月02日
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式子内親王(しきしないしんのう)風寒さむみ木この葉晴れゆく夜な夜なに のこるくまなき庭の月かげ新古今和歌集 605風が寒いので次第に木の葉が散って空が晴れてゆく夜ごと夜ごとに残る隈なく照りわたっている庭の月光。
2014年12月01日
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後鳥羽院(ごとばいん)さびしさはみ山の秋の朝ぐもり 霧にしをるる槇まきのした露新古今和歌集 492 さびしさはみ山の秋の朝曇濃い霧にびっしょり濡れてしおれたような槇の葉から滴したたりおちている露。註晩秋の寂しさを詠みながら、どことなく艶麗さをも漂わせている秀歌。しをる:萎(しお)れる。(植物が)弱ってぐったりする。槇:真木。松、檜(ひのき)、杉など、堂々と風格のある木を総称して言った。現代語のマキ(イヌマキ)とは異なる。した露:樹木の下葉から滴(したた)る露。ちなみに、「滴る」の語源は「下・垂る」であろう。 小金ヶ嶽(兵庫県篠山市)ウィキメディア・コモンズ パブリック・ドメイン *画像クリックで拡大。
2014年12月01日
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藤原兼宗(ふじわらのかねむね)ゆく秋の形見なるべきもみぢ葉は あすは時雨しぐれとふりやまがはむ新古今和歌集 545ゆく秋の置き土産であろう紅葉は明日になれば時雨とばかりに降っては古び紛れてしまうのだろうか。註時雨しぐれとふりやまがはん(降りや紛はむ):(折しもぱらぱらと降ってくる)時雨のように降っては古び、紛れてしまうのだろうか。「ふり」には「降る」と「古る」(古びる)が掛けてある。
2014年12月01日
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西行(さいぎょう)津の国の難波なにはの春は夢なれや 葦の枯葉に風わたるなり新古今和歌集 625摂津の国の難波の春はただの夢だったのだろうか。いまは芦の枯葉に風が吹きわたっているばかりだ。註津の国:摂津の国。現在の大阪府北中部と兵庫県南東部。難波:現・大阪市中央区・浪速区付近。
2014年11月09日
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西行(さいぎょう)きりぎりす夜寒よざむに秋のなるままに 弱るかこゑの遠ざかりゆく新古今和歌集 472 蟋蟀こおろぎは秋が夜寒になってくるにつれて弱っていくのか声がしだいに遠ざかってゆくのだなあ。註きりぎりす:今でいうこおろぎ。今のきりぎりすは、古語では「機織(はたをり)」。古語の「こほろぎ」は、鳴く虫全般を言った。弱るか・・・ゆく:強調・整調の係り結びの、比較的珍しい疑問形の用例といわれる。従って、この「ゆく」は連体形。 秋 ススキの穂波ウィキメディア・コモンズ パブリック・ドメイン * 画像クリックで拡大。
2014年10月04日
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左京大夫顕輔(さきょうのだいぶあきすけ、藤原顕輔)秋風にたなびく雲のたえ間より もれいづる月のかげのさやけさ新古今和歌集 413 / 小倉百人一首 79秋風にたなびく雲の切れ間から洩れ出た月の光の澄みきったあざやかさ。註秋風に:「に」は原因・理由を表わす格助詞。秋風によって。秋風に吹かれて。たなびく:横に長く引いているさま。棚+引く。たえ間:絶えた間。切れ間。かげ:古語としては、ほとんど「光」の意味。さやけさ:形容詞「さやけし」(明るくくっきりしている)の語幹に接尾語「さ」がついて名詞化したもの。
2014年09月09日
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藤原家隆(ふじわらのいえたか)鳰にほの海や月の光のうつろへば 波の花にも秋は見えけり新古今和歌集 389鳰鳥が群れ遊ぶ琵琶湖よ。月の光がみなもに照り映えると波の砕ける花にも秋の気配が見えるなあ。註鳰にほ:カイツブリ。ニオドリ。鳰の海:琵琶湖の古名、雅語的表現。ついでに言えば、当地、栃木・日光中禅寺湖の古名は「幸の湖(さちのうみ)」。うつろふ:この場合は、素直に「映る」「映える」の意味と見ていいのではないかと思う。ただし、この動詞には「変わる」「衰える」「(花などが)萎む、散る」「(ネット用語でいう)劣化する」などの多義的なニュアンスがあるので、文脈で判断する必要がある。けり:古典最重要語の助動詞。推定される語源は、過去の助動詞「き」+動詞「あり」が約まったもの(「~であった」の意味)だが、すでに平安期には過去を示す「き」の意味をやや留めつつも、しみじみとした詠嘆・感嘆のニュアンスが強くなっていた。「~だなあ」「~であることよ」や諧謔的な「~だったとさ」など、文脈によってさまざまなニュアンスになる。 カイツブリ 琵琶湖(近江八幡付近)ウィキメディア・コモンズ パブリック・ドメイン *画像クリックで拡大。
2014年09月06日
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慈円(じえん)夏衣なつごろもかたへ涼しくなりぬなり 夜や更けぬらむゆきあひの空新古今和歌集 282ふと気がついてみると夏衣のかたわらは涼しくなっていた。もう夜も更けたのだろうか。夏と秋が行き交かっている空の気配。註かたへ:この場合は「かたわら、そば、周り」の意味か。文脈によっては「片方、一方、一部分」の意味になることもある。夜や更けぬらむ:「や」があるので疑問形。ゆきあひ:行き交い、すれ違うこと。短歌では現代でもしばしば使われる語。季節の変わり目、とりわけ夏から秋についていう。現在の知見では、季節の変化は前線の移動(北上・南下)などで理解されるが、当時の認識では、空に大いなる「風の道」のようなものがあって、行く季節と来る季節が行き交う(すれ違う)というイメージで捉えられていた。 着物 浴衣ウィキメディア・コモンズ パブリック・ドメイン *画像クリックで拡大。
2014年08月29日
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西行(さいぎょう)道の辺べに清水しみづ流るる柳陰やなぎかげ しばしとてこそ立ちどまりつれ新古今和歌集 262道のほとりに清流が流れる柳の木陰にほんのしばしの間と思って立ち止まったのだが(居心地がいいので、ついつい長居をしてしまったよ)。註「こそ・・・つれ」の係り結びが逆接の意味を表わし、言外に訳文の( )内のようなニュアンスになる。この語法は、現代文でも「分野こそ違え、尊敬している」のような言い回しに残っている。* BeNasu 那須高原の歩き方 歌枕の地 栃木・芦野 遊行柳* 遊行柳ゆぎょうやなぎ(下野国芦野、現・栃木県那須郡那須町大字芦野)* 倉木麻衣は、自作の『State of Mind』の歌詞で、この和歌を一首丸ごと引用している。
2014年08月18日
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藤原俊成女(ふじわらのしゅんぜいのむすめ)おもかげの霞める月ぞやどりける 春や昔の袖の涙に新古今和歌集 1136別れても恋しい人の面影を湛えて霞んでいる月がここに宿っているわ。わたしの「春や昔」の袖の涙に映って。註春や昔の:在原業平「月やあらぬ春や昔の春ならぬわが身ひとつはもとの身にして」(前エントリー)を踏まえる。 Moonriseウィキメディア・コモンズ パブリック・ドメイン
2014年05月06日
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小野小町(おののこまち)あはれなりわが身の果てや浅緑 つひには野べの霞と思もへば新古今和歌集 758あわれなものね。わが身の果ては結局は浅緑の野辺の春霞になってしまうと思えば。 狩野探幽 小野小町ウィキメディア・コモンズ パブリック・ドメイン
2014年04月22日
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藤原俊成(ふじわらのとしなり、しゅんぜい)思ひあまりそなたの空をながむれば 霞をわけて春雨ぞ降る新古今和歌集 1107つのる思いに堪えかねてあなたのいる方の空を眺めてみると霞を押し分けて春雨が降っているばかりだ。
2014年04月21日
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俊成女(としなりのむすめ、しゅんぜいじょ)風かよふねざめの袖の花の香かに かをる枕の春の夜の夢新古今和歌集 112春のそよ風が通ってくるうたた寝の寝覚めの袖に移った花の香りに薫っている枕の春の夜の夢。註俊成女:実際は藤原俊成の孫娘で、藤原定家の姪に当たる。本名は不詳。なお、この「花」は梅である可能性もあると思う。
2014年04月03日
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西行(さいぎょう)ながむとて花にもいたくなれぬれば 散る別れこそかなしかりけれ新古今和歌集 126ずっと眺めていることで花にもたいそう慣れて(情が移って)しまったので散る別れが哀しくて堪らないなあ。
2014年04月03日
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能因(のういん)山里の春の夕暮来てみれば 入相いりあひの鐘に花ぞ散りける新古今和歌集 116山里の春の夕暮れに来てみると日の入りを告げる鐘の音に山桜の花が散っていたなあ。
2014年04月03日
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後鳥羽上皇(ごとばじょうこう)桜咲く遠山鳥のしだり尾の ながながし日も飽かぬ色かな新古今和歌集 99桜が咲いている遠い山に棲む山鳥の枝垂り尾のように長々しい日も飽きない花の色だなあ。註柿本人麻呂作に擬せられている「あしびきの山鳥の尾のしだり尾のながながし夜をひとりかも寝む」(拾遺(しゅうい)和歌集778/小倉百人一首3)の本歌取り。この本歌は、万葉集2802の歌の詞(ことば)書き(註)に、別案(参考)として記載されている。ただ、この歌が柿本人麻呂作であるという確証はなく、歌風から見ても現在ではほぼ否定されているが、古来、年代を経るにつれて評価が高くなっていったのは事実であろう。なお、万葉集2802は「思へども思ひもかねつあしひきの山鳥の尾の長きこの夜を」(思っても思いは尽きない、山鳥の尾のように長いこの夜を)。
2014年03月31日
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式子内親王(のりこ、しきしないしんのう)いま桜咲きぬと見えて うすぐもり春に霞める世のけしきかな新古今和歌集 83今桜が咲いたと見えて薄曇の春に霞んでいる馥郁たる世の景色ですわ。
2014年03月31日
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後鳥羽上皇(ごとばじょうこう)ほのぼのと春こそ空に来にけらし 天あまの香具山霞たなびく新古今和歌集 2ほのぼのと春は空にやって来たらしいなあ。天の香具山に霞がたなびいている。註新古今集編纂の「勅命者」であった後鳥羽院による、おおどかな名歌。「ひさかたの天あめの香具山このゆふべ霞たなびく春立つらしも」(万葉集 1812)の本歌取り。(春)こそ:強調・詠嘆のニュアンス。天:万葉集では普通「あめ」と読み、古今集以後は「あま」と読む。ちなみに「雨」は、あるいは「天」と同じ語源(推定「天つ水」などの約)かも知れない(筆者説)。
2014年03月30日
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藤原定家(ふじわらのさだいえ、ていか)梅の花にほひをうつす袖の上に 軒のき洩る月のかげぞあらそふ新古今和歌集 44梅の花の彩りを映し妙なる香りを移す袖の上に軒先を洩れてきた月の光が争っている。註にほひをうつす:「(視覚的な)色彩を映している」意味と「(嗅覚上の)芳香を移している」の両義が掛かっている。軒洩る月のかげぞあらそふ:軒端の梅を漏れて来た光が、風に揺れて袖の上で争っている(ように見える)。かげ:中古までは「光」の意味。「光」という漢字を「かげ」と訓じることも多かった。近現代でも、文語的な言い回しでは光の意味に用いることがしばしばある(「星影」、「影射す」など)。やがて、光が映し出す形の意味から「陰、翳り」の意味を生じ、「影」の字もろとも意味が180度変わってしまった、日本語では珍しい例である。もとの意味は、動詞「光る」の連用形である「光」に取って代わられた。
2014年03月24日
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藤原定家(ふじわらのさだいえ、ていか)おほぞらは梅のにほひに霞みつつ 曇りもはてぬ春の夜の月新古今和歌集 40大空は梅の彩りと香りに霞みつつそうかといって曇り切るわけでもない夢幻のような春の夜の月。註和歌の最高傑作のひとつといわれる名歌。有心幽玄(うしんゆうげん)の新古今調を代表する、作者彫心鏤骨(ちょうしんるこつ)の一首。大江千里「照りもせず曇りもはてぬ春の夜の朧月夜にしくものぞなき」(前エントリー)の本歌取り。にほひ:一語で簡明に対応する現代語はない。主として、はなやかで溢れこぼれるような美しい情景や色合い(視覚)について言うが、妙なる芳香(嗅覚)や余韻(一種の詩情、脳内感覚)なども含意する。この意味の一部(嗅覚)だけが現代語「匂い、臭い」に残った。具体的には、花や紅葉、女性の美しさなどについて用いることが多い。 ○ 井上陽水/奥田民生/小泉今日子「月ひとしずく」歌詞
2014年03月24日
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式子内親王(しきし、のりこないしんのう)ながめつるけふは昔になりぬとも 軒端のきばの梅はわれを忘るな新古今和歌集 52物思いに沈んで眺めている「今日」という日が「昔日せきじつ」になってしまっても軒端の梅はわたしを忘れないでね。註菅原道真「東風吹かばにほひおこせよ梅の花あるじなしとて春を忘るな」(拾遺和歌集1006)の本歌取り。
2014年03月24日
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大江千里(おおえのちさと)照りもせず曇りもはてぬ春の夜の 朧月夜に如しくものぞなき新古今和歌集 55照りもせず そうかといって曇り切ってもしまわない春の夜の朧月夜に及ぶものはないなあ。註はてぬ:「果てぬ」だが、現代語と異なり「~しきらない」の意味。
2014年03月24日
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西行(さいぎょう)訪とめ来こかし梅さかりなるわが宿を 疎うときも人は折にこそよれ新古今和歌集 51ぜひ訪ねていらっしゃい、梅が盛りのわが寓居を。世捨て人の身ゆえ普段疎遠にしていても折りによっては人が(訪ねて来るのはいいものだ)。註来こかし:古語動詞「来(く)」の命令形「来(こ)」に、強調の助詞「かし」が接続したもの。ぜひおいでなさい。当時の口語的な言い回しか。
2014年03月20日
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式子内親王(しきし、のりこないしんのう)ひかずふる雪げにまさる炭竈すみがまの煙けぶりもさむし大原の里新古今和歌集 690やまず降る雪の勢いにまさる炭焼き窯の煙も寒々しい大原の里。註雪げ:雪の様子、降る勢い。炭竈すみがま:木材を蒸し焼きにして炭を作るかまど。○ 京都・大原観光保勝会ウェブサイト
2014年02月04日
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藤原定家(ふじわらのさだいえ、ていか)かきやりしその黒髪のすぢごとに うち臥ふすほどは面影ぞ立つ新古今和歌集 1389かきわけたその黒髪の一筋一筋に至るまで独り寝ている時には面影が浮かぶのだ。〔解説〕 長谷川櫂黒髪をかきやるとは、撫でる、指でなぞる、掻きあげて顔をのぞき、掻き分けて肌に触れる。どれもこれも恋人たちのなまめかしい仕草である。ひとり淋しく寝ていると、あの夜の黒髪の一筋一筋が目に浮かぶ。月光に照らされるように。 【読売新聞 22日付朝刊『四季』】 註淋しく切ない、ちょうど今頃の時季の冬の匂いがする名歌。* 和泉式部「黒髪のみだれもしらずうちふせばまづかきやりし人ぞ恋しき」(後拾遺和歌集 755)の本歌取り。
2014年01月24日
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