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メモルが助産学生時代に行ったある病院のNICUでのお話。 その子の存在に気付いたのは、NICUに入ってすぐだった。 その子は、他の赤ちゃんと比べて明らかに大きかった。 低出生体重児の赤ちゃんが多くいる中で、その子はひときわ目をひく存在だった。 「この子は早産で生まれた双子ちゃんのひとり。」 「この子は心臓に奇形があるの。」 「この子は・・・。」 NICUの婦長さんが、端から1人づつ赤ちゃん達の紹介をしてくれた。 その子の前に立った。 「この子の紹介はあとで・・・。」 婦長さんはその子をとばして、次の赤ちゃんの説明にうつった。 NICU内の赤ちゃんの紹介がすべて終わり、その子の前に戻った。 「助産婦さんになるあなたたちには、こういう子がいること、よく知ってもらいたいの。」 婦長さんは言った。 「この子が他の子と明らかに違うのは分かるわよね? この子はもう2才になるのよ。」 「この子はね・・・、」 婦長さんが、ゆっくりと紹介をはじめた。 その子の名前は、K君と言った。 NICUとは、新生児集中治療室。 多くは生まれてすぐ収容され、長くても数カ月で退院する赤ちゃんがほとんどである。 でもK君は生まれてから2年間、1度も退院したことはない。 今も急性期、予断を許さない状況になるのだった。 K君はアプガースコア1点で生まれた。 アプガースコアとは、心拍数、呼吸、筋肉の緊張、反射、皮膚の色の5項目を、それぞれ0、1、2点で採点し、合計は10点である。 元気に生まれてくる赤ちゃんは7~10点。 6点以下を軽症仮死。 さらに3点以下を重症仮死とする。 K君は重症仮死で生まれたのだった。 2才になる今も、首はすわっていない。 食事は管を通してのみ、行える。 気管切開をし、酸素なしでは生きられない。 定期的に、痰の吸引を行わなければならない。 K君がアプガースコア1点で生まれたのは、医師と助産婦に責任があった。 K君は、K君の両親にとって、初めての赤ちゃんだった。 妊娠中から、生まれてくるのを楽しみに楽しみに待たれていた。 陣痛が始まり、お母さんは家の近くの産婦人科に入院した。 入院してから、すでに10時間がすぎても、赤ちゃんは生まれない。 「はじめては、やっぱり時間がかかるのかな。」 お母さんはそう思って、陣痛に耐えた。 子宮口は8センチまで開いた。 「あともう少しですよ。」 助産婦は、そう声をかけた。 「今から、またお腹に機械をつけますね。」 そう言って、CTG(分娩監視装置)を装着した。 CTGとは、陣痛の長さと間隔、そして赤ちゃんの心音をモニタリングする機械である。 CTGを装着して、助産婦はその場を離れた。 それから、何分か経過した。 ナースコールが鳴った。 「破水したみたいなんですけど・・・。」 助産婦は、内診をした。 子宮口は9センチ。 破水すると、突然赤ちゃんにストレスが加わるため、心音が下がりやすい。 助産婦はモニタを確認した。 助産婦は目を疑った。 心音は下がっている。 下がっているなんてもんじゃなかった。 明らかに胎児仮死の徴候を表していた。 しかも、それは破水によって、下がったものではなかった。 モニタリングを始めた時から、下がりはじめていたのである。 助産婦はすぐに医師に連絡をした。 しかし、医師は 「9センチまで、開いてるなら、下からいけるな。」 そう判断した。 助産婦は 「初産婦さんですし、帝王切開の方がいいんじゃないですか?」 と言った。 しかし、医師は経膣分娩を選択した。 それから、数分後に子宮口は全開になったが、赤ちゃんはなかなか生まれなかった。 助産婦は 「やっぱり帝王切開の方がよかったんじゃ・・・。」 そう思ったが、医師の指示はなかった。 分娩室に入ってから、約1時間後、吸引分娩でK君は生まれた。 全身紫色、手足をだらりとさせ、泣くことはなかった。 すぐに、総合病院のNICUに救急車で搬送された。 ・・・そして、今もそこにいる。 お母さんは、毎日面会に来て、K君に話し掛けている。 時には、ひざの上に抱き、絵本を読み聞かせた。 カセットデッキもおいてある。 ほとんど面会に来られないお父さんが、歌や絵本の朗読を録音し、K君に聞かせているのである。 両親が在宅酸素の機械の扱いや、吸引の方法等をマスターし、K君の調子がよければ一時退院もできる、そんな話がお母さんにされた。 お母さんは、泣いて喜んだ。 「最近ね、Kも笑うようになったんですよ。」 お母さんは言った。 他の人が見れば、笑ってる・・・?って思うかもしれない。 でも確かにK君はお母さんが話し掛けると表情が変わる。 お母さんは、そんなK君を愛おしそうに眺めていた。 お母さんが、最初からK君を受け入れられていたわけではない。 楽しみに待っていた赤ちゃんの泣き声を聞くこともなく、その姿を見ることさえなく、引き離された。 楽しみに待っていた赤ちゃんが、死ぬかもしれない、生きていても必ず障害は残る。 その事実を受け止めるには、1年もの時間を要した。 「できるだけ毎日、面会に来てあげて下さい。」 NICUの看護婦はお母さんに言っていた。 お母さんは毎日、来てはいたが、少し離れたところから、眺めているだけだった。 話し掛けるでもなく、触れるでもなく、ただ遠くから眺めていた。 お母さんが変わったのは、K君の1才の誕生日だった。 K君に話し掛けた。 「お誕生日、おめでとう。」と。 すると、K君の表情が変わった。 変わったような気がしただけかもしれない。 でも、お母さんはその日から変わった。 今、お母さんはK君と一緒におうちに帰れることを楽しみに待っている。 「もう二人目はいらないの。この子のためだけに頑張りたいの。」 そう言って、お母さんは吸引の練習をしていた。 これから先、K君が劇的に回復するとは考えにくい。 助産婦や医師にとって、ほんの一瞬の判断が、その子の生涯だけでなく、その子を取り巻く全ての人の生涯を変えてしまう。 助産婦はもっと早く心音の異常に気付いていたら・・・。 医師が帝王切開を選択していたら・・・。 助産婦が医師にもっと強く帝王切開を進めていたら・・・。 K君は今のK君ではなかったかもしれない。 助産婦としての責任の重さ、重要な役割を担っているのだということ、改めて感じた。 そして、今も毎日感じている。 |