ええ感じ…。

ええ感じ…。

■自己愛こそ成長の元


-心おだやかにいきるために-
■1 自己愛から他者への与える愛へ

心おだやかにいきるためには、
まず、自分を愛することからはじめましょう。

自分を愛するためには...
まず、あるがままの自分を受け入れること...
そして、自分のもっているもの、与えられているものに思いをはせること...
自分の体や、能力や、環境など、
もっているもの、与えられているものすべてに...
他の人と比較をして、足りないものを数えるのでなく...
十分に自分を愛することができたなら...
心の奥底から、感謝の思いが湧きあがってきます。

それは、理屈ではありません。
胸の中心にある心の奥から、込み上げてくる、
ある種嗚咽(おえつ)にも似た、感情です。
歓喜の涙を伴う、よろこびです。

その感謝の気持ちが湧き上がってくるならば、
それは、一つのエネルギーです。
光といってもいい...
自分の心の内から生み出された、愛という名のエネルギーです。
そのエネルギーはどこからくるか...
そのエネルギーこそ、
仏の光...
神の光...
宗教的な表現がピンとこないならば、

潜在意識と、そして、大宇宙に遍満するエネルギーそのものです。
まず、与えられていることに気づくこと、
十分に気づくと、感謝の思いが出てきます。
感謝の気持ちでいると、
心がエネルギーで満たされる...
なぜなら、感謝の心は、大宇宙を発展繁栄させている力と
波長が同一のものだからです。

波長が同通するとき、
大いなる光が流れ入って来ます...
これが、愛のエネルギーの源です。

愛は、エネルギーですから、仕事をします。
自然自然と、誰かのために、
何かをしてあげたくてたまらなくなります。
これは、理屈ではないのです。
与えることがいいことだからとか、
愛することがすばらしいからだとか、
与えたら、何かいいことがあるんじゃないかとか、
人のために生きたら自分が救われるのではないかとか、
そんなこととは関係がないんです。
ただ、やさしくしたくて、やさしくしたくて、
たまらないだけなんです。

これが、自己愛から与える愛へのプロセスです。
1.自己愛=自分を愛すること

2.感謝

3.報恩=他の人を愛すること

さぁ、そして、またもとにもどります。

自己愛とは、
何かを遂行する自分の能力と、
自分自身の価値を同一視しないことでもあります。
人と比べて、
何かができるから、素晴らしいとか、
何もできないから、だめなんだとか、
人よりも、人を愛せるから、素晴らしいとか、
自分は、自分のことばかり考えているからだめなんだとか、
まずは、そうした気持ちから離れることです。
そうでないと、
感謝ができない自分を責めはじめます。
愛を与えることができない自分を責めはじめます。
それでは、また、どうどうめぐり...

だから...
自分を愛するところからはじめましょう。
自分を十分に愛すことができたらなら、
その、自己愛は、ひとにぎりの雪玉のようなもの...
ひとたび、雪の坂道を転がりだしたなら、
ひとりでに、地球の引力にしたがって、
自然自然と転がっていきます。
そして、だんだんだんだん大きくなります。

だから...
自分を愛するところからはじめましょう。


■2 「利自即利他(りじそくりた)」

「自己愛から他者への与える愛」にいたるプロセスを、
仏教では、一言で説明されています。
「自利利他(じりりた)」
あるいは、
「利自他(りじた)」
あるいは、理解しやすいように、
「利自即利他(りじそくりた)」
という方もいらっしゃいます。

自分を愛することが、即、他の人を愛すること、
という意味です。
そして、ひとことですが、順番をも示唆しています。
「利自」が、あたまについていて、
「利他」が後です。
自分を利することが、先で、
他を利することが後なのです。

自分を愛し、自分を大切にし、
自分を磨き、自分を向上させ、
自分が発展し、自分が繁栄し、
自分が幸福になり、
自分が豊かになること、
そして、その過程において、
他の人を幸福にしていく、
まわりの人を幸福にしていく、
社会に貢献していく、
幸福の輪を広げていく、
自と他の大調和を完成していく...
とても、大切な考え方であると思います。


■3 真の「自己愛」

なぜ、自己愛についての考え方が現代日本で浸透していないでしょうか。
一つには、今世間でよく言われる、
「自己中心主義」との区別がついていないということがあると思われます。
「自己チュー」と真に自分を愛するということが混同されてしまっているようです。

「自己愛」と「利己主義」を同一視しない、というが大切だということです。
他の人への思いやりが大切なことは、当然のことです。
ところが、他人を愛しなさい、他人のことを考えなさいということが、
あまりに強調されすぎて、
自分を愛することが、罪悪のように思われるほどになっていないだろうか..

そして、
自分がどう思うか、よりも、
他人にどう思われているか、
という視点の方が基本になってしまっているのではないか...
自己否定感の強い人、
過剰に物事を自分の責任ととらえる責任感の強い人、
そして、他人の目を気にしすぎて、精神をすり減らしてしまう人…

もし、あなたが、そうであるならば、
自己愛について、よくよく考えてみる必要があります。
日本人の美意識の中にも、
控えめであることや、協調性や、謙虚さがあります。

それは、それで、大切なことなのですが、
それが行き過ぎて、
自己卑下になっていませんか?
ということです。
自分自身のことを好きですか?
と問われて「はい」と答えますか?「いいえ」と答えますか?
また、自分の肉体を見たとき、好きですか?嫌いですか?
頭の良さ、成績の出来不出来を嘆いていませんか?

そういった内容で、自己嫌悪に陥っているとすれば、
それは、自分を十分に愛していないことになりましょう。
「自己愛」と「利己主義」は混同しやすく、
「他者への愛」が「自己愛」をおろそかにする原因となる危険性を防ぐ考えが、
仏教にはあります。
それが、前述の「利自即利他」という考え方です。

日本にも、西洋にも、根強い「自己犠牲」の精神への美意識があります。
かくいう僕自身も、いまだにその傾向性は強い...
過去においても、
自分が犠牲になればよい、
自分が身代わりになればよい、
自分が身を引けば良い、
そうした考えで、さまざまな選択をしてきました。
確かに、自己犠牲の精神は尊いものですが、

しかし、僕が「自己犠牲」の精神を発揮することで、
家族や周りの人に心配をかけてきたことも事実でした。
そして、やはり、僕がうつ状態にいたった背景には、
やはり、その「自己犠牲」の精神があったといえると思います。
心の病に陥っている人、陥りやすい人は、
そうした「自己犠牲」の精神を持つ人が多いように思われるのです。
やはり、ここは、「利自即利他」という仏教の基本精神を受け入れ、
自分の心の属性としていく方が、自分のためにも、周りのためにも、
社会全体のためにも、良いことだと思います。

「利自即利他」とは、
自分を幸福にすることと
他の人を、
まわりの人を、
全人類を幸福にすることとを、
一致させるということです。

そうした思いを抱き、常々口にし、そうした道を選択するということです。
「利自即利他」...この理念が、この考え方が、
真の「自己愛」をそだて、「利己主義」を退け、
自己犠牲にも陥らず、自分と他人を共に愛することができる道だと、
僕は考えています。


© Rakuten Group, Inc.
X

Create a Mobile Website
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: