講演会・展示会・ワークショップのお知らせ 0
全94件 (94件中 1-50件目)
アイドゥン近郊にある、地元の勇者アリ・エフェの博物館に行ってきました。エフェの博物館だもん、エフェオヤがあるに違いない・・・・と思ったからなんですけど。これが博物館にあったエフェオヤ。花の中心にポンポンがついています。ただしアリ・エフェ本人のものではなく、地元の元エフェのお家から寄贈されたもの。正真正銘のエフェオヤです。そしてこちらがオデミシュの女性組合で作っているポンポン・オヤ。ポンポンって丸っこくて、なんか可愛らしいですね。実はエフェオヤはもちろんなんですけど、エフェ自体にハマってます。調べれば調べるほど、興味深い存在です。衣装も素敵だし。ギリシャ戦の以前の対政府戦のときには、女性のエフェもいたそうです。にほんブログ村手芸(その他・全般) ブログランキングへ
2012年11月04日
清澄白河の清澄アートギャラリーでの展示会は今週日曜日までです。今日を除いてあと2日間。オールドキリム、遊牧民の日用品だったキリムたち、おもしろいもの、古いものをいろいろ揃えてお待ちしております。さて三軒茶屋のキャロットタワー3階の生活工房の展示「地中海とトルコのイ―ネオヤ」も24日(日)から始まっています。今のところ展示のみですが、いよいよ明日は販売とギャラリートークの日。販売は13:00~17:00ギャラリートークは14:00~14:30ギャラリートークはイ―ネオヤの故郷について、イ―ネオヤコレクションにまつわるお話や質問などにお答えしたいと思っていますので、みなさま遠いなあ・・・・などと思わず、お越しくださいね。トルコからの連絡で、アンタルヤ民族博物館から訪館の要請が来ているようです。私のイ―ネオヤコレクション、その他のコレクションと、それらに関する各地での調査や国外へのPRなどの活動実績を知り、あるプランを立てているそうです。個人では限界を感じているPR活動のプラスになる内容ならもちろん喜んで・・なんですけど。いよいよ明日、生活工房ギャラリーでお会いしましょう。お気軽に声をかけてくださいね。では~。にほんブログ村手芸(その他・全般) ブログランキングへ
2012年06月29日
バッハさんから連想バトンが周ってきました。楽天ブログに友達の少ない私にとって初めて周ってきたバトンです。バッハさんありがとう~。「ハワイ」「力士」「お尻」・・・・・帰宅したので、続きを書かなきゃいけないのだけど。まだ思いつかないので、また続きは明日にでも・・・・・。
2006年04月18日
もうすぐ帰国。暑いアンタルヤから抜け出して、やはり暑くて梅雨シーズンの日本へ一時帰る。で、荷物はまだなにも用意していないし、月末〆の原稿を夫も私も書いていない。ギリギリにならないとやらない根性は、生まれつきなので仕方がない。(一応夫婦ともギリギリでしたが書きましたのでご安心ください!)飛行機の移動は1日なんだけど、その後、仕事でゆっくりする間もないので、インターネットはしばらくつなげそうもない。早くて7月1日、遅くて7月4日にメールの返信ができるようになると思う。だから急ぎの用事の方は明日までにメールいれてね。7月1日(金)から3日(日)の3日間 東急・田園都市線の駒沢大学から徒歩7分の伊佐ホームズ株式会社様の駒沢住宅・ギャラリーでキリム展を開催。絨毯、キリム、雑貨類の販売します。目黒区東が丘2-13-25 お問い合わせ TEL03-5712-5513(伊佐ホームズ) 11~17時。ミフリ社長は3日間時間内はいる予定。http://www.isahomes.co.jp/こちらはミフリの展示会じゃないのだけど、お友達の展示・販売会をちょっと手伝いに行ってきます。ミフリ社長は正午から15時ぐらいまでいます。6月25日(土)、26日(日)、27日(月)、29日(水)。元麻布ギャラリー 港区元麻布3-12-3 TEL 03-3796-5564(元麻布ギャラリー)http://www.shotoku-s.com/gallery/ではではみなさんお元気で! 日記も1週間ほどお休みです。日本でお会いできる方は楽しみにしております。催事にはアポなしで構いませんので、お気軽にチャイでも飲みに来てくださいね。鹿沼の店は6月27日ごろから斎藤店長がいますので、そちらへもどうぞ!
2005年06月21日
アンタルヤへ戻って、ホッとしたのもつかの間。お客人たちが帰国したわけではないので、まだまだ用事は続いているし、留守の間の発注などへの対応に追われて、家に帰るとただ寝るだけの生活。歳をとると、翌日ではなく、2、3日後に疲れが出てくるって聞いたことがあるけど、それ、ほんと。昨日は近郊の遺跡、アスペンドスとペルゲへ遊びに行った。その帰りにお花の輸出会社で働いている日本人女性のところへ立ち寄って、お茶をごちそうになった。お土産にカーネーションの束を抱えきれないほどいただき、カレイチに戻ってから、みんなにおすそ分け。明日からお客人たちと内陸の地方都市へ。今度は帰路に問題があるのでバスで行こうかな、って思っている。草木染めの工房での作業や材料などの見学と、この地方独特の織り機の仕組みとキリム織りの見学。きっとこの用事が終わったら、少しゆっくりできるので?日記を書いていきたいと思います。では出社します・・・。
2004年11月30日
今日のアンタルヤは晴天でしかも暖かい。本当に普段が憎たらしい暑さも、こんなときはありがたいと思うし、アンタルヤに住んでいてよかったなあ・・とつくづく。旅は前半は雪と氷の道をゆき、後半はエーゲ海地方にいたため、雪こそなかったけど、全国的な寒波の影響で、外にいるだけで体力を消耗するような寒さであった。トルコで初めてクルマのタイヤにチェーンをまいた。今の日本じゃ、こんなのつかわないだろうなあ、ってチェーンだけど、これしかないのだから、仕方ない。接着も手間がかかるし、タイヤ屋のおじさんにまいてもらったけど、自分たちでやらなくてよかった、って結果だったもの。旅の仲間は4人から最終的には8人になった。途中、途中で合流する計画でアンタルヤまでやってきた。旅の話はまた明日から・・・。
2004年11月28日
各地で雪が降っているというニュースで、安全のため、またブルサでの、日本から来る友人たちとの待ち合わせに間に合うように、余裕を持ってアンタルヤを出発することにした。朝の3時にカレイチを出て、途中でアドナンを拾い、今日の行程は約600キロ。日本の高速道路で行くならたいした距離じゃないのだけど、一般道とトンネルのない山越えであるから、それなりにかかる。途中で休憩を兼ねて日本の店の壁に埋め込む手描き組タイルもみたいし、イネギョルあたりの特殊糸工房、イズニックタイルの下請け工房とかも寄りたいけど、雪がないことを祈るばかり・・・・。って雪は降っているのだろうけど・・・。クルマの運行に支障がないことを・・・。信州の田舎で雪の日の運転に慣れているとは言え、チェーンもなにもないタイヤじゃ、どうしようもないもんね。フンダイのワンボックスカー。運転席が左に傾いているのが難点だけど、長旅には大きいクルマがいい。パリオくんはお留守番。仕事用の荷造りは終わったけど、着替えやらなんやらの準備はまだ手もつけていない。やっぱりセーターとかコートとか必要なんだろうなあ。10月下旬の出張では長袖持って行って、バカみたかったのだけど、今回はしっかり冬支度。行ってきます。戻ってきたときにはアンタルヤがまた温かくなっているとうれしいなあ。・・・今回は気候のせいで、旅自体はわくわくなんだけど、なんだか極寒シベリアにでも仕事で仕方なく派遣される人の気持。出かけてしまえばそれなりに楽しいからまあいいか・・・。出かけるまでの感傷・・・(意味不明)。
2004年11月21日
今、テレビのニュースで今週末はトルコの全土に寒波が押し寄せ、北の方は雪が降る・・・なんて言っています。月曜日からクルマでお出かけです。北はブルサまで行くのですが、途中のアフィヨン-キュタフュヤ道も、10月のちょっと寒い日に雪混じりの雨が降っていたし、昨日はブルサのウル山に雪が降ったとか、ウスパルタの山に雪が降ったとか言っていたし、気持ちだけでも寒くなってきたぞ。トルコへお出かけの方はイスタンブルでも雪が降っているかもしれない・・・という前提でお越しください。ってこの期に及んで・・なんですけど、カレールーも欲しいと言ったら、ぶっ飛ばされますか・・・・?
2004年11月20日
ミフリの社長は皮下脂肪が多いから(理由になっていない?)普段から暑がりである。そのミフリ社長が今日は夕方からセーターを着た。これはもう大事件なのである。週末にアンタルヤにも大雨が降って、いきなり気温が下がった。今日は青空だったので日中は20度ぐらいはあったと思うし、それなりに暖かかったのだが、夕方になって急に冷え込んだ。ついでに言っておくけど、ラマダン・バイラムも終わったのに、ミフリはまだ休業中である。・・・社長は今日から仕事を始めるつもりだったのだけど、社員のアドナンが出社していなかったものだから、店には行くには行ったけど、用事だけすませて、帰宅した。そういえばアドナンに「来週は好きなときに来ればいいからね」なんて言ったっけね。・・・いい加減である。じゃあ、仕事がないのかというとそういうわけではなく、来週の出張前にやっていかなければならないことが山積み。仕方がないので、社長自ら電話をかけたり、銀行に行ったり・・・。なんてことはどうでもいいけど。アンタルヤもやっと普通の11月中旬の気候になってきた、ってことを言いたかっただけである。アンタルヤは暑い暑いと書いてきたけど、これからトルコへ来る方は、地中海地方もエーゲ海地方もそれなりに寒いし、内陸部や東部はもっともっと寒いってことですので、防寒具の準備をお忘れなく。ましてやカッパドキアで気球に乗ろうなんて計画があったら、当地の人の話によると、1日の気温差が激しい上に、気球は冷え込んでいる早朝飛ぶらしいので、それなりの服装が必要だそうですよ。セーターどころか、そういえば今日は電気ストーブを倉庫から出してきたのだっけ。
2004年11月18日
ラマザン・バイラムの2日目。昼頃から雷と大雨。トルコ全土が雨天気であったから、アンタルヤに限らなかったのであろうけど、この手の天気はアンタルヤの冬の風物詩でもあるから、驚きはしない。しかしこれだけ激しいのは昨年はなかったから、久しぶりである。カレイチの家の前の道路はマリーナに向かって傾斜があり、そこをまるで川下りの激流のように水と枯葉と泥が流れていく。うちは2階と3階だし、店も2階だから浸水の心配はしなくていいけど、道路より低い土地に店があるところは大変である。近くの絨毯屋は水の勢いも増して、店に浸水し、オーナーと店員が大慌てで絨毯を2階に運んだが、それでもほとんどが濡れてしまった。今日はその後始末で、絨毯クリーニング業者を呼んで、絨毯を洗浄に出していたけど、その量はトラック1台分あった。絨毯の場合、ウール製品であるから、濡れたままにしておくと、いやな匂いが広がるし、絨毯自体も傷んで破けやすくなる。早い手当てが必要であるのだ。ラマザン・バイラムの3日目。今日は天気はよく、カレイチのたいていの店が、トルコ人の観光客を見込んで営業しているなか、わがミフリは怠け者社長のおかげで休業中。それでも仕事はあるので、交渉をすませ、店に大雨の被害がないかどうか点検にいった。今回はあれだけの大雨にかかわらず、窓の隙間から水が浸みこんだ形跡もなかった。アドナン思案の雨水防止装置(・・・ってビニールシートを窓の外に貼り付けただけなんだけど・・・)が効果を発揮して、雨水を完全シャットアウトしたわけである。店は大丈夫だったのだが、実は家の方が大変であった。・・・大変って言っても、たいして大変ではないのだけど、2階のベランダの隙間から水が入って、1階の玄関が水浸しになった。水がジャージャー降っていたのに、私たちは気がつかず、天才バカボンのビデオを観てバカ笑いしていたのである。さて外出しようと階段を降りて、靴の中にに水がたまっているのを見て、状況がわかった次第。靴は乾かせばいいし、玄関もドアを開ければすぐそこは道路なので、水は勝手に排水されるし・・・・。それより、パリオくんのドアの1枚が開け閉めするたびに「ポチャ」と水の音。ドアの中に水が入ってしまったようであった。隙間から水が入ったのだが、どうすることもできないので、水が出ていくのを待っていよう・・・。・・・というわけで、大雨で大変だったのである。(・・・どこが・・・・!?)ニュースを見ていると、アンタルヤや他の都市でも大雨で洪水になった地区があったようである。お見舞い申し上げます。
2004年11月16日
今日から3日間、断食明けの祭日で官公庁、学校などお休みのようです。私はイスラムとも断食とも無関係ですが、トルコの暦には必ず合わせるようにしています。・・・というわけで、よそ様が初日だけ休んで明日から営業するなか、わがミフリは3日間お休みさせていただきます。本当は21日まで休みにしようかと思ったけど、22日から1週間出張だから、結局店は閉めっぱなし。私たちは働いているわけだけど、対外的には月末までずっと休みになってしまうので、とりあえず3日間でやめておいた。トルコのラマザン・バイラムは・・・・・シェケル・バイラム(砂糖祭)というと、宗教的に熱心な方は「ラマザン・バイラムと言え!」とこだわるので、私はシェケル・バイラムという言葉を使わないけど、意味は同じです。日本の正月とか盆みたいなもので、実家に帰ったり、親戚周りをするのが一般的であったが、ここ最近は、お休みだからどこかに遊びに行く派が増えてきている。親戚周り、面倒臭い・・・ってイスタンブルとかアンカラの上流家庭や若いカップルは、どういうわけかアンタルヤへ集まってくる。他県ナンバーのクルマが目立つし、金曜日のイスタンブル、アンカラ発のバスもいっぱいだったよう。アンタルヤの星つきホテルは満室。有名歌手のディナーショーとか、いろいろ催しものがある。さて、わが新聞記者のフセインであるが、金曜日の晩にやってきて、「人生で初めてなんだよ~。両親と会えないラマザン・バイラムなんて~!」と嘆くわけ。なんでも仕事の都合で、コンヤに帰れなくなってしまったらしい。そのうち、田舎に帰らないラマザン・バイラムにも慣れるでしょう・・・と慰めたが(どこが慰め?)、彼にとっては一大事。町でマスコミの仕事をするフセインはいずれ慣れていくにしても、田舎の両親にとって愛しい息子に会えないバイラムなんて考えられないわけである。そりゃそうだ。フセインだってアンタルヤに来たばかりのころは、まるで義務のように1か月に一度は田舎に帰っていたし、それが2か月に一度になり、やがてラマザン・バイラムとクルバン・バイラムの年に2回に減った。それでも「バイラムになれば、息子は帰ってくる」って指折り数えて、待っているのだから、帰れないとなると悲しませることになってしまう。「お母さんの手にキスができないなんて・・・・」とまだおさまらないので、「じゃあ、アンタルヤの母、私の手にキスさせてあげるからね」と心から慰めたつもりだったのだけど、「やだねーっ!」って断られてしまった。我が家はこのバイラム中に、村の別荘兼アトリエに行き、バイラム中の村人と親交を深めるつもりだったけど、家族中が風邪ひきで、今年はカレイチの家におこもりすることにした。掃除でもするか・・・・って思っているのだけど、それも面倒だし、寝て過ごせればいいけど、それもできないので、日本のビデオでも見てようか・・・・と。
2004年11月14日
トルコのことを「遠くて近い国」と表現した日本人の先生がいたけど、私の今回の錯覚は日本に住む「遠くて近い人」。日本に住む日本人女性Eさんから連絡があった。久しぶりのメールで私もうれしく思ったわけである。近況を伝えるそのメールを読んで、夫にも知らせる。その様子に夫は「彼女と会ったことはないのでしょ?」と私に尋ねるのだが、私はその瞬間まで彼女と過去に会った気になっていたのである。「そうだっけ?そんなことないよ、会っているはず・・・でも・・・そう言われれば・・・・」事実は「会っていない」のである。でも彼女の写真を見ているし、その印象が強いので、現実でも会ったように思えてしかたがない。会ってもいないのに、話方、動作、性格までまるで知っているかのように錯覚しているのである。メールでのやりとりだって、そんなに頻繁にあったわけではないのに、自分の気持ちの中では「とてもよく知っている人」なのである。会ってもいないのに、まるで何度も会っているかのように錯覚させる・・・これはEさんもメールに同じようなことを書いていてくれて、いったいこれはなんなんだ・・・・と思っているわけである。私は現実派だから前世とか信じないけど、前世でつながりのあった人なのかな、って本気で思ってしまった・・・・今日の出来事。もう一人、遠くて近い人。これは上記とは少し意味が変わるのであるが、なんだか最近、ほぼ毎日メールでやりとりをしている友人がいる。知り合ってからまだ日も浅い。だけど、なんていうか運命を感じてしまったので、これはもういくところまでいくしかないな・・・状態である。・・・相手は日本人女性で、日本に住んでいるから物理的に遠い存在なのであるが、精神的に私にとってはすぐ近くにいる存在。まるで隣町に住んでいる感覚で話をしたり、会ったりしている。今まで何日、彼女と会っただろう・・・と考えると、日本で15日間。トルコで12日間・・・といったところ。言っておくけど、日本でだってご近所さんではない。新幹線に乗って会いにきてくれたりする。今日は子供が熱を出して、私がパニックになったことをメールしたら、ダメ母親である私のことをよくわかっていてくれているようで、「できることならすぐに行って代わりに看病するのに」と、二人の子供の母親でもある彼女は、いろんなアドバイスとともに長い返事をくれた。その言葉だけで十分である。「遠くて近い人たち」・・・の話。もっとも、世の中には「近くて遠い人たち」っていうのはたくさんいるわけだけど・・・。珍しいでしょ? 私にしたら。今日の日記の内容。私の日記はあくまで仕事上の「ミフリ社長」の日常記を書こうと思っているので、個人の生活のこと、家族のこと、私が感じたことなどは基本的に書かないことにしている。・・・なんてかっこつけているけど、商売上のネタっていうのは実に難しい。企業秘密の部分が多いから、書きたいけど書けないことがほとんどで、当たり前だけど実際の10分の1も書いていない。そろそろネタつき・・・かな・・・・!?
2004年11月13日
って、落とし穴があったわけではない・・・・。今日、とある業者に支払いをした。本当ならファトラ(正式な領収書)がきて現金を渡すだけだったのだが、相手方の計算ミスがあったりして、担当者が来店して、説明を受けながら一緒に計算しなおした。結果、899ドルを支払えばいいことがわかり、900ドルじゃなくて、1ドル少ない899ドルね。って、99ドルまで数えてきっかり現金を払った・・・・つもりだった。私一人だと何かあったときに困るので、普段から現金の支払いは、まず私が数えて、社員のアドナンに渡して、さらに数えて相手に渡してもらうことにしている。今回もそうした。アドナンも「大丈夫、99ドル・・・あっている」と2回数えて、相手の担当者に渡した。相手の担当者も私たちの目の前で、さらに数えなおし「はい確かに」と受け取りを書いて、現金をしまった。それから1時間後、担当者から電話がかかってきた。「会計の〆をしているのだけど、お金があまっている。もしかしたらキミのところから多くもらった可能性があるかと思って電話した」という。「わかった。計算してみる」と返事をして電話を切った。普段、いい加減で何事もずさんな私だが、この支払いだけは友人からの預かりものだったので、ちゃんとわけて袋に入れていたおかげで、いくら不足しているか、すぐにわかった。「999ドル足りない!」899ドルは支払いしているわけだから、もし担当者の言う余分なお金が100ドルだったら、うちの分である。すぐに電話をして「もし100ドル多いというのなら、うちのです」と言うと、担当者も「その通り、100ドル余っているんだよ。明日返しにいくから」。で、彼が言うには会社に戻って、会計に渡したら、会計も「899ドルだね」と受け取ったという。ところが最後の計算でどうしても100ドルあまる。どこからか多くもらってきたに違いない、とうちに電話をしてきたのであった。4人が数えて4人とも疑問に思わないで、渡したり受け取ったわけであるが、実際は899ドルのところ999ドル渡していたことは間違いなかった。どうしてこうなったかと言うと・・・・。899ドルだから約900ドルか。それで99ドルだから50ドル札を1枚、10ドル札を4枚、5ドル札を1枚、1ドル札を4枚・・・・。はい! 899ドルぴったりよ!4人とも99ドルの計算に目がいって、100の桁を重視しないで、数えてしまったのである。担当者から連絡がなければ、私は気がつかないでいたわけで、あとで計算して足りなかったら、私が袋に100ドル入れ忘れたのだろう、としか思わなかっただろう。自慢じゃないけど、お金には無頓着である。上着のポケットに600ドルを突っ込んだまま忘れて、そのまま人に上着をあげてしまったこともある。人様のお金はちゃんと責任があるから計算するけど、自分のお金はいくらあるかも知らない。家計簿なんてつけたことないし、いったいいくらお金を遣ったかも記録なんかしていない、メモもとらない。お金は天下のまわりもの。持っていれば全部吐き出すし、なくなっても、そのうちどこかから入ってくるだろう・・・。毎度同じため息をつくわけであるが、だからお金が貯まらないのである。我が家の場合・・・・。
2004年11月09日
日本で11月1日付けで、新札が出回り始めたらしいですね。もし今誰かが支払いを新札でしたら、私は偽札だと思ってしまうかもしれません。だって現物見てないんだもん!それより不安なのが、トルコで旧札を両替するとき、「この1万円札はもう使えないぞ!」と両替を拒否されてしまうんじゃないかということ・・・・まあ、ありえないのですが、ここはトルコということで・・・・。トルコの場合、大きい紙幣ができると、一番下の紙幣とか、コインとか予告なしで使えなくなったりする。私が無知なだけで、実はちゃんと告知されているのかもしれないけど、誰も知らない。だいたいそろそろ無効になるかな、って小さい紙幣やコインをババ抜きみたいに押し付けあう・・・。たまに事情がわからない旅行者が、もう無効になったコインや紙幣を持っていることがあるけど、おつりにもらったらしく、「これ、もう使えないんだよ」と言うと、トルコ人不信になるので、「コインとかは記念に持っていたらいいよ」と、フォローを忘れないミフリの社長・・・。それはそうと、2005年1月からトルコはデノミを実行し、新札になる。2005年は新札・旧札、両方使えるようだけど、早めに使った方がいいにこしたことはない。新札になるのはいいけど、計算がなれるまでややこしい!ゼロが6桁なくなって、現行の1000000トルコリラ(1ミリオン=約77円)が1新トルコリラになる。先日もその記事が載っている新聞を見ながら、アドナンやフセインと新価格について話をしていた。商売しているし、価格については慣れておかなきゃね・・なんて。1000000TL(1ミリオン)が1YTL10000000TL(10ミリオン)が10YTL100000000TLが(100ミリオン)100YTL1000000000TL(1ミリヤル)が1000YTL10000000000TL(10ミリヤル)が10000YTL100000000000TL(100ミリヤル)が100000YTL1000000000000TL(1トゥリリオン)が1000000YTL(1ミリオン)・・・・・・う~む、わけがわからない。ではチャイ1杯はいくらか。現行で250000TLだから・・・25クルシュ。100クルシュで1YTLだから、あっているよね?92年に初めてトルコに来たときは、1ドルが3000TLぐらいだった気がする・・・。もしかしたら7000TLだったかもしれないし、2000TLだったかもしれないけど、たしかに1000TL以上9000TL未満だったはず。一番小さいコインで500TLは使用されていたし、100TLコインも使った記憶がある。紙幣としては1000TL札があったかどうかは記憶が定かでないが、5000TL札と10000TL札があった。観光地のドンドルマが93年で5000TL盛りと10000TL盛りがあったのを覚えている。パンが1500TLぐらいだったかな? 記憶はあやふや。ちなみに現在、パンは250000TLぐらい? (ここ5年ほど自分でパンを買っていないから知らない)93年で家賃が500000TLとか、1ミリオンとか、2ミリオンとかで、星つきホテルが1泊75000TLとか。とにかく、1992年でクルシュは使っていなかった。2005年からクルシュも登場する。1クルシュは現在の10000TL(約0.77円)になるわけ。最近のトルコじゃ、100000TL以下はおつりも渡さなかったり、それ以下のものってなかなかないけど、工事用などのパーツ屋さんとかで未だ10000TL以下のものとか、売っている。「1つだけ売れって言われたら、困るよなあ」とお店のおじさんが言っていたけど、今だって50000TL未満のコインってないんだから、同じじゃない!って思うわけ。桁が多すぎて、なんだかわからなかったって・・・!?大丈夫です。価格は当分、新表示と旧表示をすることになっているので、そのうち慣れるでしょう・・・!?
2004年11月07日
朝、7時に起きる。メールの返信をして、9時半に友人と待ち合わせ。夫と息子をクルマに乗せて、待ち合わせ場所へ急ぐ。アンタルヤはこのところ、道路工事であちらこちらが通行止めになっている。しかも行ってみないとわからないから、行ってから「しまった!」ってことになる。アンタルヤから○時間弱。村へ着き、他人の家で遅い朝食兼昼ごはん。村のアトリエの最終点検。薪ストーブを買い、風呂場用の湯沸かし器を買い、ほぼ準備OK。湯沸かし器の取り付けが週明けになるというので、近所のトルコ人にカギを渡して頼んでいく。きっとついでに薪ストーブも設置しておいてくれるだろう。アンタルヤを出るときは、長袖シャツを着て、暑くて仕方がなかったが、村では夕方になって急激に気温が下がり、上着がないと寒いくらい。イフタル後にアンタルヤに戻ってきたら、やはり暑かった。アンタルヤはまだ半そでで過ごしている人がほとんど。テレビの天気予報で、アンタルヤは明日26度だそうです。今日はとにかく疲れたので、また明日!・・・・明日は休日。週に一度のお買い物デー。
2004年11月06日
先日の日記にも書いたが、やっとADSLをつなぐことができた。今、つなぎっぱなしの状態でカキコミをしているのだが、実はドキドキなのである。すでに利用されている方にとってはバカバカしい話だと思うけど、本当につなぎっぱなしで大丈夫なのか、実は月末にすごい電話代がくるのじゃないか・・・なんて、無駄な心配をしているわけである。きっと請求書を見て、初めてホッとすることであろう。無駄な心配と書いたが、なんとなく、トルコにいるから、それもありえる・・・と思ってしまうのは、思い過ごしであろうか・・・。このADSLをつなぐにあたって、実は電話局で喧嘩した。ADSL申し込みの書類に関してである。会社名義の電話なので、言われたとおりの書類を全て揃えた。ところが社長が外国人(私のこと)であるのを知って、なにを勘違いしたのか、外国人の個人名義用の書類を要求してきたのである。こんなことはいままでも何度もあるので、「個人用じゃないよ、会社用!」と必要なものと必要でないものを、私が説明しても、受付の女性は、わかっているのかわかっていないのか、受け付けてくれない。その上司まで一緒になって「外国人の個人用の書類が必要だ!」とわめくわけ。個人用の書類を揃えるのは簡単だけど、いらないとわかっているものを持ってこなきゃけないというのは、ミフリ社長の意に反する。あくまで必要なはずの書類だけで受付をさせるのだ、と譲らないことにした。結局、別の場所で受け付けてくれたので、無事、ADSL開通となったが、何もしらないでよく受付ができるものだ。もちろん、あとで行ったときに「私が正しかったみたいだけど・・・・」と、一言嫌味を言ってやったら、誰も言葉を返せないの・・・。ようは、面倒な手続きなので、やりたくなかったわけだよね。よくあることだけど。文句言って追い返しちゃえ、って。今日、開通したという知らせで、モデムをパソコン屋さんで6000円ぐらいで買って、さっそくつないでみたところ。初期費用として4500円、毎月3800円がADSLの費用。まだまだ利用者が少なくて、費用は日本に比べてもかかるわけだけど、あと数年もしたら、スーパーの店頭でモデム、初期費用無料キャンペーンなどやってくれることでしょう。わさび(チューブの)追加しておきました!
2004年11月05日
ってほど大げさな話ではないのだけど。最近、アンタルヤにもいろいろなシステムが導入され、一般的になってきている(らしい)。昨日、来たのはトルコのインターネット関連の会社で、いわゆるインターネット回線を利用した通話システム(だと思う)。日本でyahooがやっていたこと(だと思う)どういう内容かというと、国際電話をかける機会が多い会社や個人への営業で、電話だと100円ぐらいのところ、この回線だと10分の1、つまり10円ぐらいになる(という)基本料金もなく、実際に使っただけの請求が来る(らしい)。面倒なのは受話器を上げてから、10秒ぐらい待たなければならないこと。しばらくまつと、その会社のメッセージが聞こえてきて、それから番号を押す(といわれた気がする)。ADSLの導入、ネット回線を利用しての通話、ちょっと日本の生活に追いついてきた?年齢のせいで何もわからない、と思っていたけど、そうじゃなくて環境なんだと思った。日本にいる日本人なら当たり前のことも、知らなければ例え日本人であろうと当たり前じゃないのである。でも海外にいてもいろんなアンテナをはっている人もいるわけで、海外暮らしは理由にならないなあ。私の場合、面倒で何も覚えないだけ・・・・!?来年、日本に帰る機会に、ぜひともケイタイの使い方を覚えようと思っている今日、このごろ。 以下、食いたいものリストそうめん(できるだけ細めん)・・・・たくさんあればあるほどうれしい。のりインスタントのトムヤムクン(メーカー問わず)しょうゆ(最近、中国製しょうゆに問題があったようでスーパーで売っていない)蚊取り線香(食いたいわけではないけれど・・・ぐるぐるの)インスタントの甘酒(メーカー問わず)ミスタードーナツとかダンキンドーナツとか(えっ!?ダメなの? ダメなの?)・・・・いったい何なのでしょうねえ。追加です。タバコをやめるための何か(パイポでもとりあえず構わないそうです)クリアファイル 40リーフぐらいの(100円ショップにあるやつ)あとわさび。あはは、図々しいです!
2004年11月03日
ミフリの社長はパソコンとかインターネットに疎い。詳しい人の話を聞いてもあまりよくわらかないので、聞かない。そうするとますますオンチになる。そんな私に、日本の友人が相談してきた。友人は日本でインターネットを使った商売をしているのだが、例にもれず匿名の人からネット上で間接的、直接的に嫌がらせをされているという。匿名と言っても、ほぼ相手はわかっているらしい。友人の友人にその手のことに詳しい人がいて、ある程度まで相手を突き止められたそうだが、あとは証拠を揃えて、相手と直接話しをするか、とぼけるようだったら訴訟を起こすということであった。ネットを悪用されていやがらせを受けている(特定の人からなんだけど・・・)ミフリの社長に、意見を求めてきたわけであるが、私に意見を求められても、気にしない私自身の体験は役に立つようで役に立たないので、きっと参考にならない。私の場合は、やっている相手がいずれ自分のしていることが虚しくなるんじゃないか、って思っているから、気の毒にこそ思うけど、敵だとも思わない。っていうか、つきあっている暇ないので、勝手にやってくれ。である。人を傷つけたいとか、人の幸せ(もしくは不幸でないこと)を嫉む人がいるわけで、それが目的でやっている、ネット上の匿名による攻撃は、まともな人が見たら、バカバカしいだけである。鬼の首をとったようにどうでもいいことを吊るし上げたり、揚げ足とり。・・・・・お疲れ様です。ところで日本の友人が言っていたように、匿名のカキコミとかって相手を特定できたりするのですか? 公共の場での名誉毀損とか営業妨害とか・・・ってことですね。当然、訴訟になったらそれらを運営しているところは、情報を提出してくれるってことですね。つまらない犯罪で自分をダメにする人たち、なんだか勿体ないなあ、そのエネルギーを自分のために使えばいいのに・・・・って、説教臭いですかね? そういうこといいたい世代なんです。日本の友人の相手との話合い?もしくは訴訟? の経過は私も見守りたいと思っています。もしかしたら実害を受けるような場合、私も考えていかなければならないことですし・・・。まあ、この手の話、よくあることなのでしょうが。
2004年11月02日
やっとミフリのあるカレイチでもADSLがつなげるようになった・・・なんて偉そうに書いているけど、私はADSLが何なのか、実はよく知らないのである。トルコに来て13年。1980年代半ばから90年代初めまで日本でライターやっているときはまだパソコンで書き物をする、という状況はなかった。日本語ワープロが仕事道具。最後の1年間は28万円ぐらいで買ったパソコンで書き物をし、それを相手のファクスに直接送れる・・・という方法を試したような、試さないような・・・そんな時代であった。ワープロでDOSファイルのフロッピー渡し・・・・というのが最先端の技であり、一部の編集部じゃファクスしてください、もしくは手渡しの世界であった。トルコに来て、仕事の必要性から1998年ごろからパソコン、インターネットを使い始めたが、ADSLがアンタルヤに来たのは今年らしいし、それもまだまだ限定地区と限定電話番号。たまに行く日本ではADSLという文字は見ていたが、それがパソコンと電話を同時に使えるとか、インターネットつなげっぱなしで均一料金とか・・・・・。それも最近、教わったから知っているだけで、実は去年まで何のことだか知らなかったのであるから、おめでたい。さてさて、トルコでのインターネット経費はサーバーのパッケージが1か月あたり10ドルぐらい? 初期は月に20ドルぐらいと高かったけど、今年はもっと安かったかな? それに電話料金。それがバカにならない。ミフリはネットショップもやっているけど、なんていうか見ている人は決まっているので、パソコンに張り付かなきゃならないような事態はないけれど、その他の取引、やりとり、メールへのお返事など、もろもろ毎日最低2時間ぐらいはインターネットにつなげる。(楽天日記も合間を見つけての投稿で、本当にみなさまに不義理していますが、日記を見にいったり、コメントする機会もあまりないのです。・・・その割には書いている日記が長いぞ・・・!? って)HPの更新もあるし、画像を送ることも多いので、月々のインターネット専用の電話代は日本円で15000円をくだらない。パソコンの使い方もよくわからないので、本当だったら回線を切ってやればいい作業も、電話代を払いながらやっていたりする。しかも電話は会社名義のものだけで4本あるから、毎月の支払い額を、見て見ぬふりのミフリ社長である。仕事だから仕方がないや・・・と思っていたのと、ADSLが何かわかっていなかったおかげで、今までこれでやってきたけど、このところの電話料金を見ていたアドナンが、これではいけない! と思ったのか、いろいろ調べてきてくれた。結果、ADSL地域で電話番号も使えるとわかり、料金も月々3800円ですむらしい。これは申し込むしかないわけである。というわけで、遅ればせながら、人生で初めてADSLのお世話になる。日本じゃ、もっといろいろあるのでしょうね。よくわからないけど・・・・。
2004年10月31日
なんだかミフリ社長は遊んでばっかりいるみたいである。またまた国内出張の予定をたてることになった。実際はまだ先の話であるが、その間に細かい作業と、近場への出張などが続くので、先延ばしにせず、できるときにできることしてしまおう・・・というのであるから、なんて偉いのだろう・・・と自分を誉めてみる。なんて、実は外回りのクセがついてしまって、店にじっとしていられないのである。・・・って、店番しないで、どこが絨毯屋なんだ! と言われそうだが、実際、店にいないし、店が閉まっていることが多いのであるから、やる気は見事に・・・ない。目指すは予約制絨毯屋。いずれは会員制絨毯屋というのも考えている。だからいいのだ・・・って、本当に絨毯屋か!?旅の予定はいつものコースに+中央アナトリアの某都市も含まれることになった。地中海からマルマラ海、エーゲ海、塩湖も見て、再び地中海へ。走行距離は村への出入りを含めず約2000キロ。村への出入りも含めるとトータル2400キロの予定。これを5泊6日でこなすから、1日400キロも走ればいいわけである。この計算が、トルコの場合、郊外を走るのに1時間で60キロで計算すると、ほぼ時間が出る。1日7時間走る。ところが普通のトルコ人は平均時速100キロで計算するので、私たちの算出する時間とかなり食い違う。でも実際に走ると、そんなに速く走れないものだよ。それともレーダーに捕まって罰金払っていることは内緒か・・・!?夕方、新聞記者のフセインが来ていたので、「さあ旅に出るから、一緒に計画を立てよう」と言ったら、「ボクはもう二度と旅に出ない」と言われてしまった。先日の失恋の痛手からまだ立ち直っていない・・・。しかたがないので、ミフリ社長の中で、年中行事として一番大切な年越し新年のパーティーの計画でも・・と思って「2005年の新年パーティーはどこでやる?」と聞いたら、フセイン「・・・・・・」と無言。いい加減に2か月前とか、3か月前とかに計画するのはやめてくれ! と言わんばかりである。まあ、いいや。自分たちだけの出張なら、毎度のこと実にいい加減。行き当たりばったりだけど、お友達も同行するのだから、計画は早めに、しっかりと・・・。計画しているうちが楽しいのです。(実際の旅は寝不足と疲労でボロボロになるだけだって!)
2004年10月30日
日本に送るキリムの何枚かに、修復が必要だったので、キリムの修理職人を呼んだ。彼は腕がよく、仕事にこだわりを持っているので、手を抜くことをしないので、気に入っている。修理職人というのは、トルコに掃いて捨てるほどいる。でも仕事を任せることができるのはトルコでも名前を挙げられるほどしかいない。しかも古いものを任せるとなると、なおさらである。日本ではイラン人、トルコ人の修理職人の修復したキリム、絨毯を見る機会があるが、プロの仕事をまだ見たことはない。実際、修理職人である人は稀で、たいていが見よう見まねの修復で、穴は埋まっているけど、糸が合っていない、色が合っていない、修復箇所が明らかである。本当の修復を知らなければ、そんなものかと思って納得してしまうのだろうけど、基本的に素人目には修復箇所がわからないレベルでないと、私たちは修復と呼ばないし、それができない職人はプロと呼ばれない。新しいキリム、絨毯なら、ほつれの進行が止まればいいとか、穴がふさがったから・・・というので構わない場合もあるが、骨董になるとそういうわけにはいかないのである。修復をしないほうがよい状態のものもある。が、それらの例外を除くと、どんなコンデションのものでも、たとえボロボロのものでも完全に修復することが可能である。糸の様子、モチーフの有無により、修復の技術が困難、簡単。または修復箇所が明らかになりにくい、なりやすい・・・リスクを抱えるもの。なども当然だがある。だが腕のよい職人は、それらを経験から知り、もっともよい状態に持ってきてくれるのである。修理職人はたいてい、小学生のころから親方のもとに、丁稚として修行に入る。無報酬に近い形で、親方の技術を盗み(誰も教えてはくれない)、経験を積む。性格的に向き不向きはあるし、最終的にはセンスの問題であるから、経験が長ければいいというものでもない。センスのよい人は、短期間で、修復がなんであるかを身につける。ミフリには日本からキリムの修復を勉強しにくる人も訪れる。一般的には最低5年程度やらないとどうしようもないのであるが、日本人はよほど器用な人種なのだろう。トータルで半年~1年も勉強をすると、一通りの技術と、実際に骨董の修復をやれるかな、ってレベルになる人が少なくない。勉強に来ているという意識の差かもしれないが、日本人が本格的にやったら名人が出てくるに違いないと思う。ただ日本人で不足しているのはキリム、絨毯をたくさん見る機会がないということ。文化としてのキリム、絨毯もないし、見分け、良いものを見る目を養えていない。いくら日本でキリム、絨毯がブームになったところで、見る、もしくは手に触れることのできるものは知れているし、とくに古いものを見る機会はトルコでも減ったのだから、日本では本当に少ないと思う。事例をたくさん知ることも大切な修行のひとつだと思ったりしている。キリム、絨毯を知ることは、手に触れ、その糸の状態、質、よりの違い、染色の差などを身体で体験して覚える。というのがミフリ社長の持論である。いくら本で見たところで、その質感、糸の状態を思い浮かべることができないだろう。そういう意味では、修理職人は自分のものでないにしろ、たくさんのキリム、絨毯に触れ、実際にどんな糸を使うべきか色のことなどを考えるのであるから、キリムを知るもっとも近い場所にいる人ともいえる。修理職人にとって大切なのは、糸をどれだけ所有しているか、ということである。当たり前のようなことで、当たり前でないのだが、糸は売っているようなものではないということ。修復用の糸屋さんとかないですよ。自分でいろんなツテ、コネで古い糸、もしくは修復にも使えるようなウール糸を探すが、親方から譲りうけるか・・・・。適した糸がなければ、修復しても明らかになるし、腕のよい修理職人は自分の仕事に納得できない結果になる。糸が命です。ミフリは修復屋でもあったので、糸のストックは十分にあり、現在は修理職人にその糸を渡して、修復をしてもらっている。足りない分は染めるし、古くて糸の状態が良いキリムから解いて使うこともある。うっかりすると、糸代がバカにならないこともある。でも出来上がりを見たときに、満足いくものであれば、ミフリの社長もうれしいし、うちの修理職人もうれしい。キリムの修理は満足いかないときはやり直しをさせるし、骨董などの場合、下手な修理で壊された場合(価値を下げられた場合)訴訟もありえる。ヨーロッパのコレクターのお客さんの場合、修復にはなかなか厳しい。修復ひとつとっても、どの部分をどのような形で直すか、修理職人を交えて、事前に話し合いをする。お客さんによって、購入目的が異なるので、手を加えないでくれという人ほつれそうなところ、そこから穴が広がりそうなところだけ押さえをしてくれという人フリンジ部分はオリジナルを残して、中だけを修復してくれという人オリジナルにこだわらないから目立つところは全部修復してくれという人とそれぞれである。修復の仕方もお客さんの要求によって変わるし、またキリム、絨毯のコンデションによって、こういうやり方の方がいいですよ、とアドバイスさせていただくこともある。それは修復の代金にも影響するからである。通常、その作業にどれだけの材料費がかかり、何日働かなければならないか、で見積もりを出す。トルコの場合、有能な修理職人であっても、あくまで職人であるから、賃金は安い。しかも一人でできる作業は限られているので、たいていの修理職人はギリギリの生活を強いられていたりする。これだけの技術を持っていたら、日本だったら特殊技能者として日当2、3万円で計算しなきゃなあ・・と思うけど、トルコの場合、500円~3000円ぐらい。生活を豊かにするためには、丁稚をとって、自分が親方になっていくしかないのであるが、一人前の修理職人に育てる手間を考えると、一人でやっていたほうがいい、という人も多いし、今どき、トルコで修理職人の丁稚に入る子供や若者を探すのも難しい。修行を積んで、手に技術をつけるより、学校を出て高給の会社に勤める方がいいし、高給でなくとも工場で働いたほうが今日、明日の給料が手にはいる・・・と考えるのはトルコに限らず、万国共通であろう。・・・・とおまけの話がついつい長くなってしまったが、修理職人を呼んでキリムの修復について、打ち合わせをしたわけである。1枚1枚広げて、どこをどの程度に修復するか・・・その代金について、云々。ときには喧嘩をしながら、ときには怒鳴りながら、ときにはおだてながら・・・・。双方納得して、修復を任せるのである。もちろん出来上がってきたものを点検、確認する作業もある。それでまた喧嘩になることもある。でもこの喧嘩は実は楽しかったりする。うちの修理職人はキリムを愛しているし、自分の仕事に誇りを持っているので、根本的なところで理解し合える人物である。だから修復のことでモメても、最終的には納得してやり直しをしてくれるし、最初の打ち合わせも手を抜かない。どんなことでもそうなのだけど、仕事を愛し、誇りを持ち、相当の能力もある、そんなプロ意識を持つ相手との仕事は、本当に楽しいものである。ああ、今日も怠けるつもりが仕事をしてしまった・・・・。
2004年10月28日
今日はキリムの見本1点を博物館鑑定に出して、書類を貰い、通関で許可を受けて、郵便局から送って、仕事は終わり。中華レストランで遅めの昼ごはんを、アドナンと、滅多に家から出ない夫を誘って食べに行く。そこへ、断食をしている新聞記者のフセインが登場。満腹でつまようじでシーシーしている私たちに耐えられず、先に店に行っている・・・と立ち上がる。そのあと、イフタルの時間まで店先で、フセイン、アドナン、夫とチャイを飲み、グタグタ。(フセインはもちろんチャイなし)話の中でフセインが夫に「明日は一緒にイフタルの食事をしよう」と誘いをかけている。私たちの周囲で断食をやっているのはフセインぐらいのもので、フセインはイフタルを一緒に過ごす相手を見つけられないのである。孤独なイフタルを過ごしていて、たまにはつきあってあげたいのだけど、私たちの昼飯はたいてい3時ごろなので、6時20分ごろのイフタルでは、まだお腹がすいていないのである。フセインもミフリに遊びにくるものの、イフタル時刻になるとちょっと寂しい。で、ムスリマンであるはずの夫に誘いをかけているのであるが、夫は先にも書いたようにムスリマンであることを忘れようとしているので、のってこない。ついに誘いは私へも。「週末のイフタルは一緒に過ごそう」独身で、彼女はいないし、友人たちは断食なんかしない、家族はコンヤ。普段から仕事帰りは我がミフリに通うしかないフセイン。この私がイフタルにつきあってあげなきゃ誰がつきあう・・・って母心。ご飯は一緒に食べたほうが楽しいもんね。今週末は、似非ムスリマンの夫と、近い将来割礼をするだろう息子と、無宗教者のミフリの社長と、フセインのイフタルご飯につきあおう。腹が破裂するほど食べて、苦しがるのがオチであるが、イフタルご飯の風景は、この時期だけの楽しみでもある。
2004年10月26日
断食月なんだけど、周囲にやっている人がほとんどいないもので、(新聞記者のフセインぐらい)、本当に断食月なのかどうかも、わからない。もちろんアンタルヤの観光地区のなかにいるから、というのはあると思う。地方や村に行ったら、また事情は違うだろうし、むしろ大都会でもイスタンブルの方が保守的な人が多かったりするので、断食はもっと身近かもしれないけど・・・。トルコは信仰の自由が認められているから、イスラム教徒でない人もいるわけで、宗教行事だけど、日本のクリスマスみたいに感じているトルコ人がいてもいいわけで・・・。うーむ、でも少なくとも10年前のアンタルヤはもっと断食月っぽかった。やっている人ももっと多かった・・・というのは気のせいじゃないと思う・・・。食べる、飲む、吸う・・に関しても周囲に遠慮するという感覚が以前ほどなくて、日本人の私が遠慮しているのに、断食していないトルコ人たちは気にしていなかったりする。もちろん、断食は当人の問題だから、周囲で食おうと飲もうと、吸おうと勝手であるし、それに対して、誰かが何かを言うことはないのであるが、心優しきミフリの社長は、断食している人がいるかと思うだけで、自分も断食している気分になってしまうのである。断食していないトルコ人でも、アルコールは断つという。あの酒好きのジェムでさえ、断食はしないにしても断食月にはアルコールをとらない。アドナンも同じ。もちろん、ミフリの社長も(・・・って普段から酒は飲まないけど・・・)。我が家は日本人一家であるから、断食とは無関係。・・・といいつつ、ここだけの話、実は夫は15年ほど前にトルコのイスタンブルの偉い画家先生のすすめでイスラム教徒になったはず、である・・・。イスラムの勉強も一通りしたみたいだし、ムスリマン名も持っているし、モスクにお祈りに何度か行ったことがある、断食していた時期もあった・・・・。もちろん割礼もしている。当時はテレビや新聞でニュースになったはずである。最近はムスリマンになったことを隠しているのだが、そりゃそうだろう。普段の行動はムスリマンとは言えないもん。トルコでドムズ(トルコ語で豚の意味)は食わないけど、日本で豚は食う。ドムズと豚は別ものだ・・・というわけのわからない論法で、結局とんかつを食う。トルコ人でムスリマンを名乗る人たちの中にも、ムスリマンとしての義務を何もしないし、ドイツで豚肉食ったとか、トルコ国内でも豚肉を売るようになったので、それを食っているとか言うぐらいだから、夫もその中の一人として数えることにしよう。信仰はそれぞれの心にあるものだから、私としては一向に構わないことであるが・・・・。ところで、今日、久しぶりの休日になったので、クルマでスーパーに出かけた。金持ちトルコ人たちが集まる地区で、やはりレストランも普通に営業しているし、そこで飲み食いしている数も普段と変わりない。ここら辺はヨーロッパ化しているなあ、断食月を感じないなあ。で、唯一、断食だったのを思い出させてくれたのが、スーパーの商品揃え。フルマ(ナツメヤシの実)が大量に陳列され、シロップのたっぷりかかったデザート類が前面に出されていた。日本で年末に、紅白のかまぼこが並んでいる感覚(ちょっと違うって!?)、それで、ああ正月が来るんだなあ、て思う。フルマを見て、ああ、断食月だったんだなあ、って思ったわけである。買い物をして、混雑しているバーガーキングでランチにハンバーガーを食べて帰宅。明日も臨時休業。数ヶ月ぶりに家の掃除でもするかな。
2004年10月24日
11月下旬頃に、今年の初夏にアンタルヤへ来た人たちの再訪がありそう。KさんとRさん。ついこの間までアンタルヤに滞在していて、しかも帰国の際には鹿沼にも遊びにきてくれた。そしてまたトルコへ来るというので、一緒に旅でもしましょうか・・・という話になっている。日本とトルコは遠い。でもこういう来訪があると、実は近かったのかな・・・なんて思ったり。来たい気持ちでいる人たちはたくさんいると思う。でも日本に帰ると、みんな仕事だ学校だ家庭だ、となにかと忙しく、休みがとれないようである。KさんとRさんも、用事の合間をぬってのトルコ訪問。約3週間の予定。私もトルコに最初に来て、日本に帰ったとき、なぜか「早くトルコへ戻らなきゃ!」と日々思いながら、トルコへ思いを馳せたものであった。きっと、このときの私の気持ちと同じなんだろうな、と勝手に想像する。また来たいなと思う彼女たちの気持ちもよくわかる気がする。それぞれの事情、それぞれの環境がある。加えてそれぞれの性格も・・・。私は考えるよりは行動する派だから、トルコへ来たいと思った瞬間、本当にトルコに来て、そのまま10年以上が経ってしまった。よかったのか、わるかったのか。それは人生を終えるときまでわからないかもしれないけど、結構、どんなときでも自分の現状に満足する性格でもあるので、後悔はしていないし、将来もしないと思う。それぞれ、それぞれである。年内に来訪予定の方、お待ちしています。早めに予定をご連絡くださいね。今年は何もないときは別荘にこもってしまうかもしれませんので・・・。
2004年10月23日
日本からアンタルヤへ戻って以来、約5週間。出張、輸出、出張、輸出・・・で息もつく暇なかったけど、今日、キリム織りと修復研修できていたTさんがアンタルヤを離れると、1週間ほどはゆっくりできそうである。家の掃除、洗濯、買い物。村の別荘への荷物の運び込み・・・。実は何にもできていない。家の冷蔵庫は空っぽだし。洗濯は洗剤を買いにいけないから出来ない。ホームページの商品の入れ替えもしなきゃ。約束している出張先からのお土産プレゼントとか、旅の写真とか。その前に新しいデジカメの使い方を調べなきゃ・・・とか。昨日はひっくり返っている店の中をTさんとアドナンでお片付けをしていた。Tさんはキリムの積み方、畳み方まで学ぼうとしている。キリム織りのおこもりから戻ってきて、いろいろと話をする機会もできて、別れがたくなっているところで、別れが来るのである。Tさんには次回のアンタルヤ訪問予定もあるようで、また近いうちに会えそうであるが・・・・。誰かがいることに慣れると、誰もいなくなったときにつらい。トルコに来てからの私は、とにかくいつも誰かがいて、しかも大人数で時間かまわずの生活が普通になっていたので、一人でいることは滅多にない。ゆっくりできる・・・なんていっているけど、本当は淋しがり屋なので、ある、うちの社長は・・・。ゆっくりしたとたん、10歳も老けてしまうのがオチである。何もしないアイルランドのアラン島での老後生活を考えていたけど、どうなることやら。寒いだろうしなあ・・・。アンタルヤはお昼寝するのに、心地よい季節です。寒くもなく、暑くもなく、湿度も高くなく。昼間は半そで。夜も思ったほどは涼しくなく、半そでで十分だったり。これから序々に寒くなっていくのが怖いけど、冬の静まり返ったアンタルヤで、アイルランド生活の練習でもしておこう(・・・って環境が全く違うってば!?)。
2004年10月21日
今回、クルマで移動していて(いつもクルマで移動しているのですが)思ったのが、断食月の初日の昼間の、スピード違反取締りの多さ。いつも旅では罰金を食わないように・・・・というのが、目標で、元ラリー屋のミフリの社長も90キロで走るし、ミフリ社員のアドナンも100キロを越さない上に、レーダーつきの覆面パトカーに異様に反応するので、いまのところ捕まったことはない。今回、旅の後半から断食月に入ることはわかっていた。初日、「断食月に入ったから取締りはないよ」と何の根拠もない、ミフリの社長の発言。ところがブルサ~バルケシール~イズミール~ウシャクという行程で、少なくともスピード違反取締りを20か所で見た。しかも昼休みになると、飯食いにどこかに行ってしまうのが普通なのに、断食しているせいか、昼休み時間でも覆面パトカーがいたりする。しかも幹線道路でも村や町があるところでは70キロ、50キロと規制がある(普通は100キロ?)。急にスピードを落とすわけじゃないので、規制のあるところでも100キロで飛んでいくわけであるが、そういう場所で取り締まりをやっていたりする。私が運転している途中で一度止められた。スピードを出した覚えはないのだけど。スピード違反の取締りだったけど、私の顔を見たとたん「行け!」と警官が言うので、ただそれだけで何もなかった。ところで断食月に入ったわけだけど、私の周囲でやっているやつがほとんどいないので、今年は特に断食月という意識がない。・・というか、毎年毎年、断食月に入ったんだなあ、という意識が薄れていく。これは単に私が気をつけていないから・・というのではなく、実際トルコ人でやらない人が増えているからのように思ったりするのだけど、どうなのでしょう。アンタルヤだから・・・というのもあるのだろうけど、今回の旅の途中で田舎や地方でもやっていない人が増えている気がする。だから以前は周囲を気遣って食事をしていたが、今年はそれすらも忘れている。仕方がないので、コンヤ出身の新聞記者のフセインを呼んだ。フセインは断食を絶対する。彼を見ていたら断食月であることを確認できるだろう・・・と。フセインは「腹へった~」という顔でミフリにやってきて、夕方になって近くの食堂で食事をすませて「ああ、食いすぎた!」とうれしそうな顔をして戻ってきた。断食月はこれでなければいけない。ところでフセインは明日、キリム修復の勉強にきているTさんを取材するという。ついこないだ日本人のヤセミンに失恋してからは「もう絶対に、意地でも日本人ネタの取材はしない!」と言い切っていたくせに・・・・。ついでにアドナンに言われていた。「今年はカレイチの日本人(私のこと)が断食している、ってニュースはやらないのか!?」昨年は無理矢理イフタルの食事風景を設定させられ、ニュースで流れた。おかげで地方周りのときとか、ガイドブックの取材のときに「キミはもしかして断食している日本人か!?テレビで見たぞ」と見ず知らずの人に言われ、お茶を飲もうとした手を引っ込めざるおえなくなったことがあった。フセインは丸い顔をまた膨らませて「オレはイクミが断食しているなんて書いてないぞ!」と口を尖がらせる。いやいや別に構わないよ。フセインの丸い顔見ているだけでみんなが幸せになれるのだよ。(疲れているせいか、オチのない日記になってしまったぞ・・・!)
2004年10月19日
今回の出張は、頼まれていた商品の調査と、私個人の欲しいもの買い物ツアー。古いもの好きの友人にとっても買い物ツアー。で、ブルサではイーネオヤをまだ続けている村があるというので、行くことにした。村と言っても、普段行っているような山奥の村ではなく、湖畔の、しかも湖の中に島があり、そこにかかる橋で行き来する不思議な集落。その昔はローマ時代かなにか(いつものことながらいい加減ですみません!)城砦があったらしいところで、村人は今でも当時の名前で呼んでいたりする。村は漁業でなりたっていて、朝、漁に出て、昼頃までにセリが始まり、業者や個人が魚を買いにくる。ピチピチはねて、魚は箱から飛び出してくる。それを狙ってネコたちが集まってくる。村の家屋は、だいぶ新しいものに変わっていたが、古い家屋がそのまま残っていて、それが興味深かった。木組みで泥か土かで作った家。パーツだけでも欲しいと思っていたら、「先日、そこの一軒家を3ミリヤル(約23万円)で売った」と村人に言われて、その安さに驚いた。もちろん、手直ししなくてはいけない状態だけど、いまどきアンタルヤ近郊の村だって庭付き一軒屋を探すとなると200万円台である。ブルサはアンタルヤの2倍の人口をかかえる大都市で、町中の家賃や分譲住宅はアンタルヤより相場は高い。そのブルサからクルマで1時間。幹線道路から少し入った湖畔の村でその価格か!一緒にいったトルコ人たちも「別荘に欲しい! 1年に数回しかこれなくても構わない」と言いはじめたほど。私も家の安さだけではなく、こういう伝統家屋に住みたいと思ったりしていたので、心が動くが、わがミフリはそのお金も捻出できないぐらい貧乏なので、一瞬だけでも夢見たことでよしとする。この際はトルコ人の友人に買ってもらって、たまに遊びにいくことにしよう。村の一軒でお茶に呼ばれる。そこの家の嫁さんが、今でも頼まれるとイーネオヤを編むというので見せてもらった。新しいオヤは確かにきれいであるが、古いものがもつ雰囲気に欠けている。でも家に古いのがあるだろう・・と尋ねると、見せてくれた。2枚だけであるが、家に伝わっているものだという。シルク布に、昔のシルク糸を使って細かく編んでいるもので、花の形も立体のしかも、最近のものに見ないタイプであった。100年は過ぎているなあ・・と思って、いったいどれぐらい前のものか、伝えられている話をもとに計算したら、約150年前のものとわかった。ギョルヤズ村は、特殊な環境から、数は少ないけど観光客も訪れる。村に入ると、男性、女性すれ違う人全てが「ようこそ!」と声をかけてくれる。日本人はまず珍しいので、あちらこちらから声がかかる。女性たちも思ったより解放的で、実際は黒い布を全身に被ったりするのに(この地方の村の女性の風習)、その一方で船を漕いで漁に出たりもする。画像はミフリのホームページの「現場からの報告」のページで。そのうち公開いたします。
2004年10月18日
この間、旅から帰ってきた報告をしたと思うけど。しかも旅の話も終わっていないのだけど。さきほど6日間の国内出張からアンタルヤへ戻ってきた。昨夜は村のアトリエに泊まり、ゆっくり帰ってきたので、アンタルヤに着いたのはお昼過ぎ。それから旅の途中で「さあ、アンタルヤへ行こう!」と無理矢理クルマに乗せてつれてきたトルコ人の友人と一緒に中華屋でランチをとって、店でぐたぐた・・。アトリエの村からはワンボックスカーの後部座席に座って、眠りながらの帰還。友人一家をイズミールで見送ったとたん、緊張が解けたのか、頭は痛いし、眠たいし、脱力状態。明日から博物館鑑定と輸出の準備と手続き。ミフリスタッフの休暇は当分お預けである。今回の旅の報告は・・・・・。ホームページで写真入りで紹介する予定。ブルサのギョルヤズ村の話。
2004年10月17日
いろいろあって、今日、約500枚のキリムを見た。見たって・・・絨毯畑見学じゃあるまいし、ただ眺めたわけではない。絨毯屋だもの、ある目的があって(それは購入を目的とした品選びってことか!?)脳みそもかなり使った。アンティーク、オールドのみ。大小さまざま。産地も様々。なかには博物館でしか見られないようなものもあった。簡単に500枚といったが、これは単純計算で1枚あたりに1分かけたとして、8時間半。振り返ってみると、昼の2時から始まって、夜中の11時過ぎまでだったから9時間半。たしかに夕食の30分とトイレに行っていた時間以外はキリムを見続けたので、1枚1分のペースで見たこと、間違いないのである。息子が最後にぐずりだしたので、切り上げたが、もしそれがなかったら、あと3時間は見ていただろう。頭の疲労・・・・。幸せの極致・・・・。ふらふらの頭で、実は何を見たかすら、覚えていなかったりする(わけないでしょ!)。明日は何枚見れるのだろう。おやすみなさい。
2004年10月11日
・・・ってアンタルヤに台風が上陸したわけではない。もちろん、関東に上陸した台風の話。実家は千葉だし、夫のいるところは栃木だし、友人たちの多くも関東にいるので、家の屋根が飛ばされないか・・・なにかと想像して、どうか被害がないように・・・と祈るばかりである。情報が手に入らないと、余計な心配をしてしまう。日本からのメールで「トルコはテロで危ないのでしょ?」と尋ねられ「へっ?」と何のことだかわかないでいるのが、普段の私だけど、今回は立場が逆転。「関東に大型台風接近。9日は外出を控えるように・・・」というニュースをインターネットで見ただけで、「風速50mだって!? 屋根が飛ぶ、壁が壊れる、体重50キロの夫も空を舞う、関東は水浸しだ・・・房総半島は房総島になってしまう!」と想像だけが空回り。実は今日の成田発の昼の便で、友人一家がアンタルヤへ来ることになっていた。日本にいるならもっと詳しい情報が入るから、そんなに心配することもなかったのだろうけど、こちらではインターネットで追うのがせいぜい。成田空港のフライト状況を追っても、時間がこないと表示されなかったり、アクセスが殺到したのか、なかなかつながらない。友人の飛行機は飛べるのか、それとも欠航になるのか・・・。18時以降の便が欠航になる可能性がある・・・という情報を手にいれ、それなら飛べるだろうと・・・安心したのは、朝になってから。それまで2時間寝ては起きてパソコンを開き、また2時間寝ては起きて・・・の繰り返し。なんでそんなに神経質になったかというと、飛行機が飛ぶかどうかで、こちらで買ったトルコ国内のエアチケットを変更しなくてはいけない。チケットオフィスに変更の可能性があることを告げつつ、いざというときの変更方法、時間など打ち合わせもしておいた。当人たちから欠航も遅延も連絡がなかったので、無事飛んだということで、変更なしで処理し、ようやく一安心。今ごろ、インド洋上空あたりかな(実際にはどこをと飛ぶのか知らないけれど)・・・・などと思いながら、友人一家のアンタルヤへの到着を待つ次第である。
2004年10月09日
どういうもんでしょう。昨日は特別な用事はなく、私はただ店の前か中でウトウト居眠りでもするしかなかった。出入りの商人が5人ほど来たけど、あとはやることがないのである。来週から1週間の国内出張は、人数の都合でパリオくんではなく、ワンボックスカーでのお出かけ。クルマの手配も、ホテルの予約も、飛行機チケットの手配も、その他、仕事がスムーズに進むように、各手配も電話連絡ですませたし・・・・。フセインは弟の結婚式でコンヤに帰っているし、キリムを勉強に来た日本人のTさんは毎日村へ通い、絨毯を織り、夜は深夜まで修復の授業を受けに行っているし・・・・なんだか、私だけ暇である。暇であることは、怠惰な生活が本当は好きなミフリ社長にとっては最高の出来事であるが、日本からアンタルヤに戻ってきて以来、留守中のもろもろの処理、出張準備、来客、出張、村通い・・・と忙しくしていたので、それに身体が慣れてしまい、暇だと、何か物足りない・・・・もしくは、何かをし忘れているのじゃないか・・・と不安になる。これはいけない! まるで13年前までの日本での生活と一緒ではないか!!日本の慌しい生活がいやでトルコに逃亡して、トルコの時間の緩やかな流れに、何もしない時間に、身を任せる至福の時・・・・。トルコ人は働かないでチャイばかり飲んでいる・・・・という批判も、今では私のもの・・・だったのに・・・。結局、生活習慣、慣れ・・・がその人のペースを決めるのであろうか。でもトルコに来て、日本と同じ生活をするようでは、怠け者社長の名が廃る・・・。怠けよう。何もしないでチャイを飲んでよう。暇な人のそばに行って、意味のない話題で笑ってよう。今日と明日の2日間ぐらいは・・・・。
2004年10月08日
新聞記者のフセインがヤセミン(仮名、日本人女性)に好意を持っていたことは、すでにばらし済み。・・・で一緒旅をした結果、フセインの恋は「いい友達」として終わってしまった。それはそれでいいんだ・・・と強がるフセインだが、私から見たら、フセインは離陸しないまま自爆してしまった・・・というところ。告白するぞ・・・・というその時のセリフ。「ぼくは君を親友だと思っている。君はぼくのことをどう思っているの?」「もちろん私も親友だと思っているわ」「・・・・・・」そしてフセインは私のケイタイにメッセージを送ってきた。「ぼくたちは親友のままの関係でこれからもいることになった」私は告白して振られたのだなあ・・・と思っていたけど、実は上記のやりとりがあっただけだそうで、フセインはヤセミンが「親友だなんて言わないで! 私はあなたが好きなのよ。恋人と言ってちょうだい!」というのを待っていたのであろうか・・・・? フセインらしいと言えばフセインらしい展開であるが、彼の恋はこれで終わったのである。さて、私たちの周囲で日本人女性に恋をしているトルコ人がもう一人いる。アンタルヤへの帰路、通り道だったので、彼Gのところに遊びにいくことにした。地方都市でキリム問屋を経営している。性格が良く、礼儀正しく、正直者で、学歴もあり、好人物である。その彼が昨年、キリム織り研修で来ていた日本人男性を、私が彼のところに預けた縁で、日本語に興味を持ち、独学で、わずか1年で80%理解できるほどの語学力を身につけた。今年も彼のもとに、キリム織り研修の日本人女性を預けたら、その彼女と恋仲になったようで、遠距離恋愛になった今、毎日メールのやりとりをしているという。彼がエラいと思ったのは、外国人との恋愛に浮かれず、「相手をよく知った上で先のことを考えていきたい」と言ったことである。「でも結婚なんて、同国人同士でも勢い、っていうかタイミングってものがあるし、あまり考えると結婚できなくなるってこともあるよ。それに絶対別れない結婚っていうのもないわけだし・・・・」とは、41年も生きてしまった経験豊かなミフリの社長のお言葉。さらに彼は日本人女性の考え方を知りたいようで、同行した日本人女性に恋愛や結婚に関する質問を繰り返した。本当に真面目なやつである。私はGがいい人なので、とにかく幸せになってもらいたいと常に思っている。冷静な彼が将来的には結婚まで考えているのだから、もし相手の日本人女性も同じように思っているとしたら、キューピットであるこの私は、この二人の結婚披露宴に出席して、踊りを踊って、胸にお祝いのお金をつけさせていただきたい・・・と心から願ってしまう。トルコ人男性と日本人女性のカップルはたくさんいる。日本人は噂好きだから、何かとダメになるケースを耳にするが、うまくいっているカップルもたくさんいる。うまくいくカップルは、お互いの文化を受け入れて歩み寄れる同士か、はたまた自分をまだ確立していない、どちらかが年齢的にも精神的にも幼いカップルか(この場合、いずれ目覚めてしまって終わりになるケースもあるだろうけど)・・・・・。また日本人女性に捨てられたかも・・・と傷ついているトルコ人男性も周囲にはいる。私にしたら、騙したわけではないけど、日本に帰ったら彼女には現実が待っていて、トルコでのことは一時的な夢の世界であったりする。そして冷静に考えると、日本の安定した自分の境遇を捨ててまでトルコで先行き不安な相手と結婚するのはどうしたものか・・・などと思うのも無理ない話。自分の生活を持たない若い世代ならまだしも、30、40代になって仕事も友人も彼氏も住むところも遊び場もある生活を、捨てるって、本当に覚悟がいる。日本国内でだって、自分の住むところ以外のところに嫁ぐのは、それなりの覚悟がいるだろうし・・・・。それを捨ててでも彼と新しい人生を送りたい・・・と思うのであれば、それは本物だろうし、結婚に至るのだと・・・。いずれにしても思うのは、日本に帰った彼女が、トルコとトルコ人の彼を現実世界の存在として見つめられるかどうかにかかっているように思う。ではトルコ人の彼は何をしたらいいのだろう・・・。自分がトルコで何をしていて、どうやって暮らしていて、家族はどんな風で、嫁に来た場合、彼女はどんな風に生活するのか・・・・これらが実感させることができれば、彼は彼女と結婚するチャンスに少し近づけるかもしれない・・・?。・・・などなど・・・私は勝手に思っているだけで、実際はおせっかいにならないように、ただ見守るつもり。いやいやおせっかいにならないから頼むよ・・・というのであれば、お尻を叩くけど・・・!?
2004年10月07日
今日も村へ草木染め作業に行く。昨日のエゼンテレを灰焙染で処理し、さらに藍色と掛け合わせて緑にする。・・・その準備作業。本当に草木染めは面倒くさい。作業内容を書くのは簡単だが、灰焙染をするには灰が必要である。しかも5キロの糸に、50×100cmのチュワル(穀物袋)に2つぐらい用意しなきゃならない。アイシェが先日、パンを焼いたときの残りの灰だけでは全く足りなく、町のドネル屋や炭を使うレストランに連絡をとり、今日の分をもらえるように話をつける。それを夜中に回収して、でも熱いので冷めるのを待つ。朝になったって、そう簡単に冷めはしないけど、それを燃えないように袋に移し変えて、クルマに積んで、さあ村へ。まずアイシェを起こし、次に外で火を起こし。水を沸騰させ、灰を入れ、煮続ける。2時間煮て、さらに沈殿するのを待ち、上澄み液をとるのである。冷めたところで昨晩、遅くに釜からあげた糸をつけ、待つ。黄色が灰焙染でさらに別の黄色に変わる。この黄色は、この村では黄色としては通常使わない。これにウルバダの根を使い、さらに藍をかけて、緑にして使うのである。黄色としては他の染料を使う。アーモンドの皮、胡桃の皮、パラムット・・・。染料により、染め方も処理の仕方も当然だけど、変わる。アイシェはこれらを学校や染色教室で習ったわけじゃない。子供のころから、村で行われてきた染色を、忘れないように自分で続けてきただけである。だからどうしてこれを使うのか? どうしてこの方法なのか? 分量は・・・? などということを質問しても「わからない」というのが彼女の返事。でもこれでずっとやってきたし、分量なんかもいい加減だけど、彼女なりの適量があって、それでほぼ同じ色を出すのであるから、経験というものがいかに大切なことか・・・。灰汁につけている間、暇になったので、アイシェと話しをした。世間話が進むにつれ、アイシェは「娘が大学に進学したことで、私は親友を失った」という。どういうことかと話を聞くと、私も知っている歯科医の奥さんで、アイシェの友人Hという人がいる。アイシェとは10年来の知り合いで、週末のほとんどはアイシェの家で過ごしていた。信用していたし、なんでも相談した・・・。彼女のためにできることはなんでもした・・・という。ところがブルジュが大学に合格したころから、関係が変になったという。「大学に娘を進学させるってことは、いずれ娘に中絶を経験させる、ってことよ。大学の購買部では中絶の斡旋をしているの知らないの?」とか。「農学部に進学したって、何にもならない。それなら行かせない方がいいわ」とか。「お金がないのに、無理に行かせても意味ないわよ」とか・・・。他の人たちが「よかったねえ」と進学を祝ってくれるのに対して、親友であるHはアイシェにそういい続けたという。村で暮らし、世間を知らないアイシェは、最初はHの言ってくれることが本当なのかとも思ったという。ようするに「嫉妬」である。歯科医の奥さんとしては、村の教育を受けていない無知なアイシェとは付き合える。でもそんなアイシェの娘が大学に進学するなんて・・・許せないし、おもしろくないのである。Hの魂胆が見え隠れし始めたころ、アイシェは決意をしたという。娘が旅立つときは、新しいカバンに新しい衣類や日用品を詰め込んで、送り出したい・・・・と。実は娘の合格が決まってから、アイシェはお金の工面で困っていた。最初に支払う200ミリオン(約15000円)ばかりのお金が作れなくて、手続きができないかもしれない・・・という状況があった。でもなんとかして大学に行かせたい。Hの嫉妬で、逆にここで行かせなかったら、彼女の思う壺だと思ったという。でもお金がない。どうしよう・・・というとき、偶然、村を通りかかったドイツ人旅行者が外にかけてあったアイシェの手織りの絨毯を欲しがって買ってくれた・・・のである。こんな話、普通にあることじゃない。これにはアイシェも「神は見てくれている」と言ったが、無神論者のミフリの社長も同じ思いである。・・・このお金でブルジュは大学の手続きをとり、新しいカバンに荷物をつめ、旅立つことができたのであるというから、全てが映画のようである。Hはブルジュが大学に行くと決まってからは全く連絡もよこさない。ブルジュとアイシェが旅立ちにあたり、「でも最後にちゃんと挨拶をしよう」と彼女に電話をしたところ、「よかったわね」とか「気をつけて」の言葉もないまま、いきなり電話を切ったのである。自分が優越感を感じられる存在であった無教育で無知な村の女性アイシェ。たかがアイシェの娘のくせして、大学に行くなんて・・・って気持ちが嫉妬から攻撃に転換したわけだけど、本当に醜いとしか言いようがない。「気にしないことよ。彼女が嫉妬と攻撃を繰り返そうと、縁を切ろうと、一番大切なのはブルジュの現在と将来なんだから」と、最近、なんだか説教臭いミフリの社長である。私に嫌がらせを続けた例のトルコ在住日本人女性とトルコ人の絨毯屋。私がトルコで一人で、弱い者・・・だとでも思ったわけであるが、私は人様に後ろ指さされることもしていないし、貧しくも心静かに暮らしているおかげで、力を貸してくれる人たちが周囲にたくさんいる。誰に何を言われても、自分がそうではないから動揺もないし、お好きにどうぞ!の世界である。それに私自身も無駄に40年生きてはいない。だいたいトルコで女一人でヤクザな絨毯屋稼業をやろうという根性である。しかも10年続けてきた。それなりの知恵と度胸も持ち合わせている・・・・はず・・・である。(言い切れる自信はないけど・・・)神さまがいるかどうかはわからないけど、その人間の生きる力、強い心、変わらない良心・・・・そんなものが作用して、その人のことを守っているんのじゃないか・・・なんて思ったり。だからその逆説で悪いことをすると、誰がやらなくても、いつかどこかで自分に返ってくるんだよ。私は歯科医の奥さんHを攻める気持ちより、どうか自分のやった過ちに気がつき、平穏な心を取り返すことを祈っている。(でもこういうことやる人って、自分が人をたくさん傷つけたってわからないし、言い訳して自分を正当化し続けるのだろうなあ・・・)・・・・そして、私は近い将来「説教ババア」になるのかも・・・って。
2004年10月06日
旅の話はちょっとお休み。今日は早朝から、アイシェの旦那のバイラムと山で植物採集。なんのためかというと、もちろんウール糸の草木染めのための材料集め。エゼンテレという黄色の材料になる植物だけど、夏前に採集したときより、葉に黄色味がおびて、まさに採り時である。50×100cm大のチュワルにぎっしり詰め込んで、村に行く。糸を洗い、エゼンテレと糸とミョーバンを交互に釜に入れ、外に組んだ火に釜を設置する。・・・・と簡単に書いてしまったが、エゼンテレ摘みに合計3時間。糸洗いに2時間。釜に材料を並べてくべるまで2時間。気がついたら夕方になっていた。これから8時間ぐらいに火を絶やさないようにする。これはバイラムに頼むことにして、私たちは休憩。ところでアイシェの娘のブルジュは今年、大学に入学した。今日から新学期で、土曜日に娘を送り出したところである。初めての娘との別離。バイラムは「これはうれしい旅立ちなんだから、悲しんではいけない」といい、アイシェは「わかっているのだけど、娘の影を追って、いないことに気づくと自然に涙が出てしまう」と目を潤ませる。この旅立ちにあたって、最初アイシェは大学まで自分もついていくと言った。アンタルヤからバスで約12時間の場所である。手続きのときに一度一緒に行き、体重100キロを越すアイシェには苦痛の旅となった。「アイシェ、ブルジュはもうあなたの手から離れたと考えたらどう? これからは何かあってもすぐに飛んでいけるわけでないし、全て彼女自身が乗り越えていかなきゃならないのよ。一緒についていきたい気持ちはわかるけど、ブルジュは一人で行きたい、って言っていることだし、ここで見送ったらどうかなあ」私はアイシェにそう言ってみた。アイシェはそれには納得したらしく、アンタルヤで娘を見送った。それが2日前のことだけど、今日のアイシェの目は赤く、朝夕、泣いているのは明らかであった。私たちはアイシェが一人で何もしないと、余計落ち込むだろうと、草木染め作業をさせることにしたのであるが、やはりいつもの元気がない。チャイを用意したり、朝食を用意する度に「ああ、ブルジュだったら、スプーンを忘れたり、オリーブを出し忘れたりしないのに・・・・」と、おどけながらも目が潤みだす。そんなときにバイラムのケイタイが鳴った。ブルジュからである。バイラムが私にケイタイを渡すので、私が最初に話すことになったのだが、入学式が終わり、オリエーティングのあと、寮に入る・・・と、元気な声が聞こえてきた。私との話が終わり、待ち構えているバイラムにケイタイを返す。バイラムとアイシェが交互に話をする。バイラムが話すときは、アイシェが隣でケイタイに耳をあて、声を聞いている。アイシェが話すときはバイラムが・・。娘を遠くに見送った両親の喜びと悲しみの表情。なんだか胸がしめつけられる思いであった。裕福でないアイシェ一家は、娘に十分なお金を持たせることができたかどうか・・・それを気にし、これから卒業までの経済的負担を思い悩んでいた。でもそれがまるでうれしいことのようにも語るのである。次にブルジュがアンタルヤの村の両親の元に戻ってこれるのは、年末。村に行くたび、作業をするたび、ブルジュがいるのが当然になっていた私にとっても、彼女の旅立ちは喜ばしいことであり、また寂しさを感じるできごとである。
2004年10月05日
旅の日程の途中で、日本からキリム、草木染め研修のために日本人女性Tさんがアンタルヤに来ることになっていた。そのとき、私はアンタルヤにいないぞ、どうしよう・・・・。・・・ってことで、アンタルヤではなく、ブルサで待ち合わせをすることにした。Tさんがイスタンブルに着くころに、私たちもブルサ方面に進行中。Tさんにはイスタンブルからブルサに来てもらい、そこで合流しよう・・・ということになった。こういう待ち合わせはなんだか楽しい。日本人同士、外国の関係ない土地で、しかもこの日のこの時間ぐらいにここにいるよ・・・・っていう手がかりで。そのとき会えなくても、そのうち会えるだろう・・・ぐらいの。長期旅行者はこういうこと、普段からやっているのだろうけど(っていうか、日本人宿とか行くところが同じだからまた会ってしまうのだろうけど)、日本での知り合いとやると、なんだかワクワクする。ブルサのガイドブックでは高級ホテルとかかれている常宿に泊まり、オープンビュッフェの朝食をとるために最上階に上がると、そこにTさんがいた。「おはよう! いつ着いたの?」「今朝です」って、なんだか毎日会っているみたいな会話。でもこれでいいのだ。出会いのあとには別れもある。出会いも別れもあっさりとした方が、別れの辛さが少しは減る・・・っていうのが私が体得したことのひとつ。また会える・・・また「おはよう!」って言えるって。ヤセミン(旅を一緒にしている日本人女性)と別れるとき、どうしたらいいのか考えていた。ヤセミンは予定を変更して、イスタンブル2泊をキャンセルし、ブルサを1泊増やし、さらにイズミールまで来て、そこからイスタンブルの空港に直接飛ぶことになった。運よく、国内線の飛行機も取れ、お別れが1日延びたね、もう1日延びたね・・・って、私たちはドつぼにはまり、完全に別れがたくなっていた。「帰るのやめたら?」ってつい、思ってしまうほとであったし、冗談のように口にした。さて別れの日の朝、空港まで送っていこうか・・・とも思ったのだが、絶対、ヤセミンにとっても私たちにとっても、辛くなることがわかっていたので、タクシーで見送った。「じゃあ、またね。気をつけて」それぐらいしか声をかけられなかったけど、「じゃあ、またね」それが精一杯の本当の気持ち。案の定、彼女は一人になって涙を流したようだけど、これはトルコが楽しかったから・・・の涙。現実の日本に戻るのだという感傷・・・私も大昔(!?)に経験したことであるから、痛いほど気持ちがわかる・・・。出会いと別れはあっさり・・・私の基本姿勢。ただし気持ちはあっさりではなかったりする。実はとっても情が深い(手足の毛が濃い・・・!?)ミフリの社長は、涙を流すし・・・・(えっ!?そんなの見たことないって!?)相手への愛情が短期間で芽生えやすいので(男女の愛情に関する情は実はあまりない・・・)、別れのときには人一倍寂しさに苦しむタイプである。だからこそ、あっさり。明日も会うみたいに別れるのが鉄則。言葉と態度で大げさに表すのは、私の場合はトルコ人相手のときだけ(そうしないと納得してくれない・・・)。心の中で「また会えるよね」って、そっと思う。だって、また会えないときに、今度は私が傷つく。絨毯屋を始めて、いったいどれだけの人がやってきて、どれだけの人と再会できただろう。「キリムが好き」というキーワードでの再会度はかなり高い。お客さんともキリム仲間とも友達とも分けられない存在の人もたくさんいる。過去にはこの人、どうしてこういう裏切り方をするのだろう・・・という人も何人かいた。利用するだけして、自分でたいがいのことができるようになると、いきなり後ろ足で砂をかける・・・。そういうのは悲しいけど、日本でもそういう人なんだろう・・・お友達つきあいをしなくて、よかったと思うことにしている。でもね、絨毯屋として本音でいうと、お友達が増えるとお客さんが減る・・・。まっ、それでも実は全然構わない。将来、食うのに困ったら、お友達の家を回って、飯を食わせてもらうことにしているのだし・・・・。(そんなことが本当にできるかどうかはわからないけど・・・)
2004年10月04日
彼女・・・仮の名をヤセミンとでもしておきましょう(注:れっきとした日本人です)・・・・がアンタルヤへやってきました。フセインは、仕事を途中で投げ出して、しかも会社のクルマと運転手を使って空港まで迎えにいきました。予定では大きな花束を持っていくはずが、そんなこんなで時間がなく、野の花一輪。それでも渡し方を考えれば、格好がつくものの、つっけんどんに差し出して、ヤセミンには意味がわからなかったようです。・・・・さすがフセイン!そしてそこからフセインの苦行が始まります。ヤセミンがフセインへのお土産に浴衣セットを持ってきてくれました。その浴衣を来て、トルコの地方を回るというのが今回のメインプランです。それを知らなかったフセインは(一応、心の準備で1か月に渡り、浴衣とか着物とかの良さを語っていた私・・・)、この計画にびっくり。「ホテルの中で着るっていうのはダメかなあ?」「ダメ、一緒に着て、町を歩くのよ」惚れているから「NO」とは言えない・・・。浴衣を着て、イスタンブルやアンカラならまだいいにしても。外国人がほとんど訪れないような地方に行くのですから、トルコ人から「何だこれは?」と異様な目で見られることは間違いなしです。日本人のヤセミンなら「これが噂の着物か・・・」で終わるでしょうが、フセインはトルコ人。「トルコ人に似た日本人だなあ・・・」と思われるか、「トルコ人だけど変な奴だ・・・」と思われるか。ちなみに私も銀行や、お役所でよく話かけられます。「キミは日本人によく似ているねえ」そんなにトルコ語がうまいかというとそういうわけではありませんが、外国人ならもっとお上品に話すはずだ・・・ってところでしょう。旅の初日、フセインは浴衣を着せられました。本人が「うえ~ん!」と嘆くほど、変ではありません。むしろ体格が浴衣に合っていて、とても似合っているのですが・・・・。案の定、その姿で某地方都市を歩くと、まず日本人の集団だ(実際はトルコ人2名、日本人3名なのですが)と、みなが振り返ります。しかもヤセミンとフセインは浴衣姿。驚き方が面白いです。からかったり、野次を投げるという人は一人もいず、ただただ口をあけて、声もでない・・・・という感じで、目を見開いているのです。なんなのか聞きたいけど、声もかけられない・・・。だから見られても、不愉快な印象ではないのです。フセインもそれに気がつきはじめ、序々に浴衣姿に慣れてきました。そのうち、私もフセインが浴衣姿であることを忘れてしまったほどです。町にも自然に解け込んで(!?)いました。2日目は、また別の地方都市の友人の姪の結婚式があり、それに参加しました。ヤセミンとフセインはもちろん浴衣姿です。たくさんの人が集まるなか、浴衣姿で踊るヤセミンに注目が集まります。フセインは踊らないですみっこにいたそうですが、それでも注目度は花嫁以上だったとか・・・。これが事前にわかっていれば、地元の新聞記者とかテレビ局とか取材に来たことでしょう。そんなことになったらアンタルヤに戻ったときに上司に言われるかもしれません。「ニュースネタになるため、にこの忙しいときに1週間も休暇をとったのか?」心優しいミフリの社長は、そんなフセインのために、地元の新聞記者を呼ぶのをやめることにしたので、アンタルヤへ戻ったフセインは現在、無事、職場復帰しています。フセインの浴衣姿は「フセインを称えるアドナンのHP」で、そのうち見られるかもしれません。
2004年10月03日
アンタルヤを丘の上から見たとき、「ああ戻ってきたのだな」という気持ちでいっぱいになります。普段はアンタルヤはくそ暑いとか(言葉が悪くてすみません!)、観光都市だから金が全てでいやになる! とか、文句を言っているのですけど、私にとっても故郷になってしまったのだなあ・・・と思います。そりゃそうです。アンタルヤに来て、はや10年が過ぎようとしています。・・・・というわけで、6日間のキリムとキリム、絨毯織りの村を訪ねる旅から戻ってきました。走行距離は約1600キロ。移動していない日もあるので、距離的には少ないのだけど、イベントたっぷり、エピソードたっぷりの充実した旅でした。さきほど戻ってきたばかりなので、内容は明日以降に少しづつ書いていきます。われらがフセインはどうなったのか!?旅の空の下、話をしたこともない、絨毯屋らしき(?)トルコ人から突然ケイタイに電話がありました。気の毒なので詳しい内容はここでは省略しますが、アンタルヤを出て数日たっているのに、昨日アンタルヤでキミを見た・・・と言われてしまいました。う~む。もう一人の私がいるってことですかねえ。いろいろ不思議なことがあります。世の中には・・・。
2004年10月02日
フセインはほぼ毎日、ミフリに遊びにくる。仕事があるときは、夕方6時。遅くなるときは電話をかけてきて「7時には行くから」と、連絡してくる。まるでミフリの社員のようである。夜勤や休みの日は午後2時ごろから、来てはコーラを飲んで、ピザを食べて「また腹がでてしまう~」と。今日は土曜日で店は開けるけど、官公庁が休みなので、ミフリの仕事も、特別ない。で、朝ゆっくりしていたら、ケイタイが鳴って、誰かからメッセージ。「今日は新プランを立てないのか?」フセインである。「もちろんプランを練り直ししよう。今日で最後だし・・・」と私は返事を書く。するとまたメッセージ。「今日もプランの練り直しをするわけ?」「そうよ。今やっているところだから、あなたもすぐ来なさい。いったいどこにいるの!?」って。フセインは仕事の最中なわけで、これるわけないのだけど、そう書いて送る。「本当にプランを建て直しするのか!? いい加減、あきたよ~。もう開放してくれえ!?」って書いてきたかと思うと、30秒後。「今、仕事中だから夕方、最後の確認をしよう。行くから待っていてくれ」・・・・・。つまりフセインはいやだ! あきた! いい加減にしてくれ! といいながら楽しんでいるわけである。プランはすでに出来あがっているし、行く予定の各地の友人や骨董屋に電話もかけて、日曜日でも夜中でも、ちゃんと居るように約束もとりつけた。ホテルの予約もばっちりである。あと別にやることはない。彼女の到着を待つだけである。でもたぶん興奮して、落ち着かないフセインのために、最後の打ち合わせ会議を開こう。実はちょっとした「ビックリ」が隠されている。実行者はフセインである。そのために運転手つきのクルマまで手配したらしい。そう、夕方、彼女はアンタルヤにやってくる。
2004年09月25日
日本からお友達がやってくる。来訪日程がわかってからかなり経っているのだが、それに合わせて、ミフリの社長とその周辺は慌しくなってきた。彼女が来たら、一緒にクルマで北上する予定である。バス旅行では行きづらいようなところへ、行き、その地の名物を食べたり、骨董屋や市で買い物を楽しむのである。さてこの旅に新聞記者のフセインも同行することになっている。なぜ、フセインか・・・というと、彼女がアンタルヤへ来るようになってからのトルコ人の知り合いであり、実はフセインは密かに彼女を慕っている・・・・という内輪話があってのこと。もちろんフセインはそれを表には出さないし、彼女も知らないことだと思う。(・・・っと、ここでバラしてしもうた!!)そんな純なフセインが、私が彼女との旅を打ち明けたとき、「いいなあ・・・僕も行きたいなあ・・・」という顔をしたので、「もし休暇が取れるのなら、一緒に行く?」と尋ねた。そのときは「今の僕にはそんな長期の休暇は無理だよ」という返事であった。それからフセインは言葉にも顔にも出さないので、別に行きたいわけじゃないのかな・・・って思っていたら、ある日突然、「休暇をとった」というので、こちらがびっくり。通信社の正社員になって、まだ数ヶ月で、いきなり休暇をとるのはなんなのだけど、フセインの中で彼女との旅が最優先事項になってしまったようである。フセインのことだから、だからと言って、何かを望んでいるわけではないのだけれど、若者だもの、旅をしたい、リフレッシュをしたい、それが久しぶりに会える旧知の人となればなおさらのことなのだろう。そうしてミフリの社長は、最後の1週間は毎日フセインを呼び出して(呼び出さなくても、他に行くところがないので毎日ミフリに遊びに来るのだけれど・・・)旅のプランをたてては、修正して・・・の繰り返し。通常の国内出張では、計画というものは全くない。人を訪ね、その人からまた情報を聞き、西でも東でも行く。3日の予定が1週間に延びるなんて、当たり前。でも今回は計画をしっかり立てようと、道路地図とにらめっ子。短い休暇を利用して来る彼女のために、無駄な時間がないように、そして十分楽しめるように、何をして何を食べるかまでに頭を悩まして、しまいには頭が痛いのであるから、私たちミフリスタッフは本当に遊ぶことにかけては熱心である。今日も夜番のフセインは昼間からミフリに来ていた。ミフリの社長はフセインに「これが最後のプランだよ。さあ、どこに行って何をするのか言ってごらん」と、持ち物のチェックから食べるもの、行くところまで復唱させた。フセインも一生懸命をメモをとる。パンツは何枚で、靴下は何足で、歯ブラシも忘れないように・・・・って、ミフリの社長はまるでフセインのお母さんのようである。・・・・って、言ったら、「僕のお母さんはちゃんとした、まともな人間だ」と言われた。・・・いったいどういう意味なんだ・・・!?まあ、それもいいとして、なんだか私もわくわくしてきた。クルマの中はジョークと笑い声が途切れないことだろう。どこに行くにも、何をするにも、どうせするなら楽しいのが一番である。
2004年09月23日
デジカメからみの怖い話・・・ではありません。あしからず。先日、天気もよいし、カレイチの路地をデジカメで写真を撮りながら歩いていたときのこと。知り合いの絨毯屋で「ドラキュラ」というあだなの親父にあったので、どれどれ写真でも撮っておこう・・・とカメラを向けたのです。それまで調子良く、シャクルシャクル(こういう擬音はトルコっぽい・・!?)写真を撮れていたのに、親父を撮ろうとした途端、カメラのレンズカバーが開かない!「ドラキュラを見て、カメラが怖がってレンズ出さないよ!」と、バッテリーでもなくなったか・・・と思っていました。だってカメラ昨年買ったばかり、まだそんなに古くないと思うのだけど・・・。よほど怖かったのでしょう。ドラキュラ伯爵の風貌が・・・。そしてカメラは二度とレンズカバーを開けることはなくなったのです・・・・。デジカメが恐怖を感じた瞬間のお話です。カメラも壊れたドラキュラ伯爵に会いたい方がいたら、案内しますので、わがミフリへどうぞお立ち寄りください。・・・ってことでヌルセルやら、フセインやら、本屋さんやら、イズミールの絨毯屋、コンヤの絨毯屋、マラティアの絨毯屋、修理職人、自宅の古いジジムを持ち込んだ学生さん・・・など、来客はあったけど、暇な一日でした・・・・おしまい。
2004年09月22日
昨日は例のアトリエ予定の村へ行ってきました。村と言っても麓に町を抱えていますので、U市の村のように、どこまでも山奥へ入る・・・と行った感じではありませんが、木造と土壁の古い家が残り、ヤギを追う人はいたり、人々の生活様式も家の形式もちょっと昔の田舎暮らしの風情が感じられる静かな地です。家はほとんど完成していました。あとは細かい部分の補修、追加。古い家屋の骨組みを残しながら、窓やドア、台所、シャワー、トイレなどを新しく作ってあります。一応の家具や台所用品も置かれ、すぐにでも泊まれそうです。もちろん電気、水道も開通。織り機をどこに置こうかとか、庭ではバーベキューができるようにしたいなあとか、冬は薪ストーブをどこに設置するか・・・などを考えながら・・・。建物も大切だけど、その前に私がやって置かなければならないのが、村の女性たちへどのような協力を頼むか・・・です。絨毯織りのベテランの女性、レース編み、刺繍の上手な女性、家庭料理の得意な女性。村の女性たちは「任せておいて!」と楽しげです。「それはアイシェに頼めばいい」「エミネおばさんのところの嫁が絨毯織れたよね」・・・などと意見が飛び交います。暇で座っているだけの毎日だもの。私、どんなことでも手伝えたらうれしいわ。と言ってくれる若いお嬢さんたちもいます。村は日中は日差しは強いけど、湿気がなく、過ごしやすいのです。今日は女性たちと食事をしては座ってチャイ、トルココーヒー、また食事・・・でお腹が苦しいのです。そして彼女たちは私がトルココーヒー占いをするというのを誰かから聞いて、私は占いのために呼ばれては、実は人生相談、恋愛相談だったり・・・・。自分で言うのもなんですが、当たるらしいです。私の占い。アンタルヤへ戻るときには、外は真っ暗でしたが、おもしろいことにアンタルヤに近づくと、とたんに車内が蒸してくるのです。クルマの窓を開けるとムッとした空気が感じられます。アンタルヤはやはり暑いのです。アトリエ予定の家を見る・・・・という大義名分で、村で心の洗濯をしてきたわけです。村に暮らすということは、村ならではの窮屈さ・・・があるということも事実です。それでも私のように、週末を村で過ごすトルコ人たちが増えているとのことです。大学や、就職、結婚で町に出た人たちが田舎へ戻りたがったり、都会のお金持ちがかつてのようにリゾート地ではなく、何もない田舎に別荘を持ったり・・・。都市生活の快適さ便利さも否定しません。でもトルコにいて田舎を求めてしまうというのは、いかに都市生活の日常が乾いてきているか・・・てことなのでしょうか・・・?
2004年09月20日
アンタルヤへ戻ってきて6日目。戻ってきた日には仕事を始めて、毎日時差との戦い・・・。息子は明け方4時には目が覚め、夕方7時には眠気でヘロヘロです。私も息子に合わせなくてはならないので、朝は4時、5時。昼間は出歩くので、夕方の6、7時には眠気が襲ってきて、それでも来客や友人を待つ都合、目を赤くしながら店にいるわけです。一人だったら時差なんて飛行機の中で解消してしまうところだけど、息子が自分で何でもできるようになるまでもう少しの辛抱。でも何でも自分でできるような年齢になると、今みたいに「ママ、ママ」って来てくれないかもしれないし、それも寂しい・・・・。朝はエザーンの声とともに起き、これなら朝のお祈りもできるなって思いながら(お祈りしませんよ!)、夜は店を早めに引き、お風呂に入り、9時には就寝。私は12時ごろいったん起きて、2、3時間お仕事をし、1,2時間寝て、また起きる・・・。私の日常のつらいところは昼寝ができないことです。店にいっているんだもん、当然なんだけど、以前の6部屋+台所があった店では奥部屋にこっそりこもって15分、30分と昼寝をしたものです。(えッ? 2、3時間の間違いだろって!?)でも就寝時間と起床時間だけを見ると、なんて健康的な生活なのでしょう。5時起き、9時就寝。もうすぐ友人たちの来訪が始まりますが、旅に出ると身体がクタクタ、ボロボロになります。朝は8時起きとしても、夜の移動が続くので、ホテルに入れるのは深夜0時過ぎなんて当たり前。村に行ったりしたら、用事というより、おつきあいで帰れないし、トルコ人の友人に会えば、泊まらなくとも夕飯やお茶に呼ばれて断ることは不可能!(断っているけど・・・)・・・なんでこんなことを書いているかっていうと、今日は日曜日で店も息子の保育園も休みなので、ゆっくり寝られるかと思ったら、やっぱり5時起きだったなあ・・・・って・・・・・。今日は店には出ませんが、仕事で村へ行ってきます。
2004年09月19日
という思いで、以前から自分の中で計画だけは進んでいたのですが、それが実現されることになりそうです。ミフリの社長はごぞんじの通り、絨毯屋なのに絨毯を売ろうとか、お客さんをつかんでいたい・・・とか、どうも積極的な商売の姿勢が見受けられません。生活がかかっているので、仕方がなく商売っぽいこともやるけれど、実はあまりのっていない・・・・だって、自分のコレクションが減るだけなんだもん・・・って。で、何をやりたかったかというと、トルコの伝統手工芸の残像とできるかぎりくっついていたいのです。トルコといえども、伝統的な文化は日本同様、忘れられ、すたれつつあります。かろうじて村でその一部が残っているっていうのが現実で、それを求めて、日夜、仕事もせずに時間がある限りトルコ中をうろついているのです。で、それを実現させるために何をすべきか・・・。村に暮らせばいいのです。・・・といってもそれは無理な話。仕事もあるし、私が養わなければならない人たちもいる(またまたおおげさなんですけど、会計士とか、大家とか、秘書とか、運転手とか、広報担当とか・・・!?)。村の女性たちの自然な暮らしの中で、まだ彼女たちが続けている伝統手芸、織物などを見られないか・・・。そして、それを知りたい人たちとの交流の場が儲けられないか・・・・。ってわけで内陸の某所に、一般には有名ではありませんが絨毯を織る伝統があり、実際に織っている女性がわずかですが残っている村があります。縁あって、そこにアトリエ兼別荘を作ることにして、夏前に下見に行きました。どうしようかな・・・。どうすればいいかなあ・・・。一番重要なのは、村の人たちとどのように共存、協力関係になれるか・・・ということです。そして私たちが何を得られるか、何を与えられるか・・・。私たちがアトリエを構えることで、村の人たち、とくに女性たちに何かの形で貢献できるか。帰国の際に那須に通いながら、それを密かに考えていたのですが、よくわからないままトルコに戻ってきたところ。でも建物が完成したとの話を聞いて、しかも私のために空けておいてくれているとのこと。これはもうやるしかないのです。しばらくは村に通いながら、村人のハートをつかむところからはじめます。なぜか村人にはウケのいい社長のことですから、すぐに解け込めることでしょうが、何か新しいことをはじめるときは本当にドキドキの連続です(本当か!?)。貧乏なのに今度はアトリエ・・・。維持できるのでしょうか・・・。まあ、なんとかなるでしょう・・って。かすみを食って生きていきますか。
2004年09月17日
って、何の工夫もない(いつものことですが)そのまんまのタイトルです。アンタルヤは暑い暑い・・と思って帰ってきたら、なんだか日本よりも過ごしやすいなあ・・って思っています。今年の日本は記録的な猛暑だったということもあるでしょうが、湿度の差ですな。これは。日本だと店の中がエアコンかけても、除湿し続けても、キリムのウールが湿気を含んでしまって、重たくなっているのですが、こちらだとキリムが軽いのです。たしかに6、7月のアンタルヤは湿度も高く、じっとりべっとり・・・日本の夏の比ではありませんでしたが、今は9月。ピークを過ぎて、さわやかな残暑です。でも秋というにはまだ早いような・・・町を歩く人々の服装は真夏だし、やっぱり日中はエアコンかけまくり。コーラが恋しいし、チャイを飲めば汗タラタラ・・・。さてさて過ごしやすくなったアンタルヤですが、今月末からは日本からの友人たちの来訪を含め、予約のお客さんが続きますので、アンタルヤにいられる日は11月まであまりないかもしれません。飛行機チケットの予約、ホテルの予約、村のおばちゃんたちの都合を尋ねる、ルートの選定、最後の荷物の送付の準備まで、そのほかもろもろ、毎度のことなので、かなり慣れたとは言え、老化現象のすすむ頭にはかなりつらい。私のスケジュール管理をしてくれる、しっかりモノの秘書が欲しい・・・。(あと関係ないけど、家事をしてくれる奥さんも欲しい)何を好んですっかり涼しくなった内陸部や山間部にいかなければならないの・・・・って。この気候の変化についていけず、身体を壊すのが常ですが、今年は病気になってなんかいられませんので、栄養剤でも飲みながら頑張りましょう。・・・頑張る・・・なんて言葉が社長の口から出るなんて、いったいどうなっているのか。まあ、言ってみただけ・・・ってこともありますし。またまた時差ボケの頭でわけがわからない日記になりましたが、時差ボケが解消するまでお許しください。(・・・って誰に許しを請うのだ!?)
2004年09月16日
アンタルヤへ着きました。今回はインターネットの契約を更新する必要がなかったので、すぐにでも使えたのですが、留守中に電話料金の支払いが遅れたせいで、電話がつかえず、まずその復活作業からでした。(・・・といっても社長は偉いから?自分で手続きなどいかないのだ・・・)子供連れで重たい荷物を抱えて、本当に面倒なだけの空の旅。しかも飛行機の接続が、時差を考えると一番眠たい時間に乗り継ぎ、待ち時間などがあって、乗る前から「恐怖」の一言。普段も乗り継ぎ時間が3時間以上あれば、迷わず空港ホテルでシャワーをあびて仮眠をとるのですが、待ち時間はそんなでもない。ただただ眠たい時間に飛行機から降りて、手続きをしてロビーで待っていなきゃいけない・・・・。今回は自分でシュミレーションをしていたので、荷物の持ち方、預け方、万が一は19キロある子供を背負うつもりでおんぶ紐持参。しかも日本で子供とおんぶの練習までするという念の入れよう。O型の私がここまで考えるのだから、本当につらい子供連れの移動。これがイスタンブル終着なら、どんなにラクなことか・・・・。アンタルヤは距離の上でも、飛行機の接続の不都合の上の精神的苦痛(いつものことながらおおげです。ただ眠たいだけだってば!)でも、とにかく遠いのです。ドラえもんのどこでもドアが欲しい。せめてフライト時間が7時間ぐらいになって欲しい・・・。もしくは成田ーアンタルヤの直行便があったら・・・。飛行機乗りながら次回は専用機でアンタルヤに直行したいな・・・などということを大真面目に考えてしまったのですが、この気持ちで仕事に励めたら・・・・でも私のことだから思うだけでキリムだけがあればいい・・・ぐうたら何も手に入れない人生を送ることでしょう。次回の帰国の都合で、今回はアシアナの片道チケットと、トルコ国内で買ってあったトルコ航空の国内線を利用しました。トルコ航空との共同便のアシアナでは、またまた気の短いトルコ人乗務員と英語が全く通じないマイペースの韓国人旅客たちとのバトルが見れるかと楽しみにしていたのですけど、ツアー客が1組ぐらいしかなく、トルコ人旅客もたくさんいて、意外と静かな機内でした。でもやはり「ミート or フィシュ?」でだいぶ時間がかかっていましたけど・・・。それと思ったのですけど、韓国人は機内での散歩が好きみたいです。散歩ついでに乗務員用の座席に座って井戸端会議が始まり、トルコ人スチュワーデスに怒られていたり、離陸するっていうのに、立ち上がって散歩して「座ってください!」と怒鳴られているのに、まだ散歩している人とか・・・。それに比べてトルコ人旅客はおとなしいものでした。お酒を飲んであとは寝ているか、映画を見ているか。あとは子供を見るといじくりまわしたくなるぐらいで、息子は迷惑そうでしたが、トルコ人は若い人でも子供好きが多いので飛行機などの乗り物では本当に気がラクです。日本じゃ子供を連れていると異様なほどに周囲に気を遣わなければならないのが、いまだに謎なんですけど・・・。アンタルヤに着いたのは夜中の1時過ぎ。友人が迎えに来てくれていたのですが、その姿を見て自分がどこに来たかわかった息子は突然、大泣き。日本の行き来の回数が、この4年半でもうすぐ2桁に突入する息子は、滞在期間がトータルでも1年に満たないのに、なぜか日本が大好きで、アンタルヤに着いたのがわかったとたん、「鹿沼に帰りたいよ~! イトーヨーカドーに行ってムシキングのゲームをやりたいよ~! アンタルヤにはムシキングがないんだよ~!」と家に着くまで泣き続け。彼にとってムシキングはどうでもいいのだけど、鹿沼に帰りたい一心で鹿沼の良さを主張しているのでしょう。親の都合で振り回しているので、他のことにはとんと疎いミフリの社長も息子の「日本に帰りたいコール」にはちょっと弱い・・。と思ったら、店に行けば行ったで、トルコ人とトルコ語で会話して、地中海で泳ぎたいなあなどと言っているので、彼なりの日本への感傷だったのかなあ・・・・とか。5週間ぶりのアンタルヤは、日中の日差しの強さは相変わらずですが、夕方からは涼しく夜はもうエアコンはいらないかな・・・って感じです。というわけで、無事到着。留守中も大家さんと友人たちがしっかり監視していてくれたおかげで、問題なく全て順調です。時差ボケの頭で、支離滅裂、つながりのない、意味不明な内容の日記になっていることを除けば・・・ですけど。
2004年09月14日
短い日本滞在のなかで、お客さま、お友達・・・たくさんの方に訪問していただきました。あと数日ですが、フライトの前日まで訪問客ラッシュです。その合間をぬって、業者周り・・・集金、新規商談。トルコ旅行の相談・・・・その他もろもろ。昨日は織り機に縦糸はりまで・・・・。トルコで会った人と、日本で再び会うのは本当にうれしいです。その逆もまた・・・・。今日は、私が日本に帰国している間も、アンタルヤの村で絨毯を織り続けていたRちゃん、そしてやはりトルコでキリムを織り、地方周りを一緒にしたKちゃんが遊びにきてくれます。Rちゃんは村で絨毯を2枚織ったらしいので、その話を含めて私の知らない1か月の間の報告が楽しみです。なんだか不思議です。トルコで絨毯屋をやっていなかったら、出会えなかった人たちと、今こうして会って、話をして、時間を共有しているのですから・・・。もうすぐトルコ。実は飛行機に10時間以上も乗るのが、面倒で、このまま日本にいたいなあ・・・などとも思っているのですが、そういうわけにもいかないのです。トルコにいると、日本に帰るのが面倒になります。トルコと日本がもっと近かったらなあ・・・・って思うのです。
2004年09月10日
おはようございます。目を覚まして、ホテルでバイキングの朝食をすませ、ちょっと散歩にでかけましょう。ホテルの裏手にはバザールがあります。常設では商売人による野菜、衣料品などが並んでいますが、1週間に1度、村人が自分たちが作った手仕事ものなどを売りにくる日があり、ミフリ社長のお目当てもそれなのです。もんぺのようなだぶだぶのズボンに花柄のシャツを着て、頭にスカーフを巻いた村のおばちゃんが露店を開きます。オヤ(手編みのレース飾り)がついたスカーフや、テーブル用のレース、タオル刺繍・・・。ここは外国人が来るようなところではないので、もっぱらお客は地元のトルコ人。値段の安さは地方だけあって、都会や観光地の比ではありません。私がアンタルヤのトルコ人の女性に見せて、価格を言うと、みな安さに驚くほどです。このバザールに通うようになって6年。トルコリラがインフレで暴落しようとどうしようと、価格は同じまま。奇跡です。価格よりも、手作り品の質の高さもトルコの中では上位です。村人はまだ素朴で、みなが上質のものをつくるので、手を抜くということを知りません。このバザールには手作りのほうき、金物、フェルト、なんだかわからないけど面白いものがたくさんあって、見るだけでも楽しいのです。さてここでも用事も終わり、アンタルヤへ戻ることにします。でもその前にちょっと寄り道。伝統工芸の職人が多い町があります。実際には仕事をやめた人がほとんどですが、その分、古いものが出る可能性があるのです。町や近郊の村の家庭を回ると、出てくる出てくる。日本なら高値で売れるホーローが、犬や鶏のえさ入れになっていたり、台所に捨て置かれていたり。そういうものを譲ってもらいます。ゴミも多いけど、100点に1点はお宝がでてくるので辞められません。キリム、じゅうたんの場合もあるし、金物、陶器、民族服、手織り布、手刺繍もの、時計、電化製品・・・何が出てくるかはその日の運です。スカの日もあるし、お宝が多くて笑いが止まらなくなる日もあります。この場所は誰にも内緒。約束するならお連れしましょう。こういうより道を3か所、4か所、時間が許す限りまわります。見るだけで頭が疲れますので、あまり多く見るのもいけません。それにここはトルコ。行ったら、お茶だ、食事だ、なんだ・・・・となかなか立ち上がることができません。普段は暑くていやになるアンタルヤだけど、涼しい内陸にいると妙に懐かしくなります。アンタルヤが見えてくるころは、空も真っ暗で、高台から下るとき、町の明かりがとても美しく、戻ってきたんだな、とホッとします。運転手くんを家で降ろして、私たちはカレイチに向かうとしましょう。
2004年09月04日
最近、変なメールが何通かあった。どういう内容かというと、セックスフレンドを募集していましたが、まだ間に合いますか・・・・とか。月2回で15万でいかがでしょうか・・・・とか。あなたと私は合うみたいなので、会ってみませんか・・・とか。全て送り主は女性の文面で、メールを受ける私は男性・・・という設定。送り主のメールアドレスは全て@の以下はyahoo.co.jp。どこかに私のメールアドレスを使って悪さしている奴がいる。もしくはメールを送ってきている相手は一人・・・・。何が目的はわからないのだけど(いやがらせをしているつもり・・・ってやつですかね・・・!?)、これでメールを受ける私が傷つけばいいとでも思っているのでしょうが、私は女なんです。これらのメール見ても、ただただトンチンカンなだけで傷つくとかそういうことを目的にしているのなら、これじゃあ意味ないなあ。うちで男といえば夫と息子だけど、夫はパソコンは電源もつけられない上、メールが何であるかもわからないし、息子はブロック遊びに夢中・・・・。・・・やっぱりいやがらせになっていないよお!追記:こういうのを「何」メールというのですか?不特定多数に送ってくるやつみたいということで、安心しました。でもこれって最終目的はなんなのでしょう・・・・???????
2004年09月02日
お茶を飲んで疲れが取れたところで、さっそく村の織り機を見せてもらいます。私たちはクルマで道なき道を200メートルほど進みます。おじさん、おばさんは慣れたもので谷間を徒歩でひょいひょいと渡り、クルマでもたもたしている私たちより先に着いていました。そこは若い娘がいる農家です。普段はタバコ葉栽培で暮らしていますが、農閑期や特別なオーダーが入ったときは娘が織り機でキリムを織っています。今、ちょうどミフリ社長が頼んだ2×2mのキリムがかかっていますので、それを検査するついでに、この村での織り機の縦糸のかけかた、織り方を見てもらおうと思うのです。織り機はトルコ国内だけでも様々な形があります。基本的には同じ構造ですが、家屋、生活様式、織るものの差・・・などで大きさ、形式が変わります。この地方の織り機は定住型のもので、幅が3メートルほどもあるものもあります。こういう大きいものは織り機として作らないで、家屋の中に丸太と軸になる木を渡して、家屋と一体化織り機として存在することもあります。大型の織り機を使って、大きいキリムを織ってもらうわけです。・・・でここで気をつけてもらいたいのが、昨日、アンタルヤで張った縦糸の巻きと張り方と同じではないということです。張り方はアンタルヤへ戻ってからお教えしますが、今は違うということを認識しておいてください。さて実際に織らしてもらいましょう。娘さんが横に座ってくれます。言葉は通じないけど、手取り足取り教えてくれます。最初は娘さんの手の早さにパニックになってしまうでしょが、落ち着いて見たら難しいことではありません。あなたがキリムを織っていると、どこから聞きつけたのか村の全ての人が次々と訪ねてくることでしょう。人なつっこいといわれているトルコ人ですが、山奥の村ではまだまだシャイで、最初は遠巻きに、東の果てから来た日本人を珍しそうに見ています。でも恥ずかしくて声もかけられないでいるのです。「メルハバ!」あなたのそのひとことで、みんなうれしそうに微笑むでしょう。近寄ってきて、握手を求めるでしょう。「今晩は俺の家に泊まればいい」「いやいやうちのお客さまだ」村の5軒で奪いあいです。この村を訪れたことのある外国人はいままでミフリ社長と、あなただけです。もともとホスピタリティに富んだ国民性です。普通だったらこんなに親切にしてくれて、何か目的でもあるのじゃないか・・・って疑いそうですが、村人たちはそんなことが私たちの脳裏を過ぎったと知ったりしたら、悲しみで死んでしまうことでしょう。それほど何の見返りも求めない親切で情の厚い人たちなのです。泊まるかどうかはさておいて、近くの別の村でもキリムを織っているというので、教えてもらって行くことにしました。なんでもこのあたりの地区で一番キリム織りが上手で本人も美しい娘さんということです。道を聞くのに、道はないので、おばちゃんと一緒に高台に上り、遠くに見える集落を指さされます。「ほら。あの集落までクルマが通れそうなところを行くのよ」オリーブの樹の間の坂を上ったり下ったり、下が砂地でタイヤが動かなくなりそうになったり、泥にはまったり・・・・。集落は見えないのでさきほど見た山や大きな木を目標に移動します。ここも小さな村で10軒ほどの家がぽつりぽつりとあるだけです。クルマで村に入ると、家から女性たちが顔を出します。初めて会う人たちだけど、まずはあいさつから。「エミネの家はどこ?」自分が先頭にたって、家まで案内してくれます。「エミネ!お客さんだよ」中に入ると若い娘さんがキリムを織っていました。私たちにきがついて手をとめて「ようこそ、いらっしゃい」と立ち上がり、ほほ同士をつけるトルコ風の挨拶を交わします。娘の手をみながら、その速さ、確実さに感動。年齢を聞くとまだ16歳で、でも1か月後には結婚するのだといいます。そのための花嫁道具のひとつとして、今キリム織りをしているのだとも。お茶を入れてくれ、さらにご飯を用意してくれようとするので、「食べてきたばかりだから・・・」と断ると、せめてとうもろこしでもゆでるから食べてくれ、もしくはスイカを切るから待ってくれ・・・・。本当にありがたいです。突然押しかけた知らない外国人なのに。家に泊まっていけ・・・という誘いを「また来るから」と断り、ふもとの町に戻ります。まだ時差もあって疲れている上に、いきなりいろんなトルコ人と会い、いろんな経験をして、気も遣い、心身ともに疲れていることでしょう。今晩はみんなの誘いを断り、ゆっくりホテルで休むことにしましょう。ミフリ社長いきつけの町のホテルは改装したばかりできれいです。バイキングの朝食つきでシングル1500円。テレビもシャワーもトイレもついています。エレベーターも。
2004年09月01日
朝6時。普段は昼近くまで寝ているミフリ社長ですが、約束があるときは人が変わります。・・・1分、いや5分ぐらいは遅れることがありますが、お許しを。さてクルマに最小限の荷物を積んでカレイチを出発です。途中で交代要員のドライバーを拾って、北上します。朝食はどこかガソリンスタンドに併設しているドライブインのレストランでスープでも飲みましょう。トルコのスープは食材の味がしておいしいのです。レンズ豆のスープ、チキンスープ、胃袋のスープ、羊の顔の肉のスープ・・・・。食べ放題のパンをつけながら食べればスープ1杯でお腹も満足してしまいます。道は1本で迷うことはありません。でも何もない荒野や山をひたすら走ります。町から町までの間は本当に何もありません。たまに羊飼いやアンタルヤ方面に多いヤギ飼いの群が横切ったり、いのししが顔を見せたり・・・・。ガソリンスタンドも数が少なく、ガソリンメーターに気をつけていないと、途中でガス欠になる・・なんてこともありえます。そんなことになったら、ガソリンスタンドのあるところまで歩いていって、ペットボトルにガソリンを入れて持ってかえるしか方法がありません。昼間ならまだしも、夜は怖いだけです。さてまっすぐ来た道を途中で村への横道へ入ります。ここは目的地へのショートカットの道。細くてすれ違いするのにギリギリの幅しかありません。でも対向車も少なく、100キロで飛ばせます。景色もよく、湖を牛の群や、羊飼いのフェルトのマントを来た羊飼いのおじさん、おにいさんの姿も見えます。山と湖をみながら行くと、途中で村が見えてきます。そろそろ休憩、アイスクリームでもジュースでも買いますか。バッカル(雑貨屋)によると、おじさんは最初びっくり、でも親切に応対してくれます。外国人が通るようなところではありませんので、日本人なのか、トルコに移民した中央アジア系なのか・・・・今晩の村中の話題になること間違いなしです。さらにすすみ、いくつかの村を通りすぎ、再び幹線道路に出ます。目的地はこの町から入る山奥の村ですが、この町で友人を訪ねてみることにします。ちょうどお腹もすいたことだし、昼食でもごちそうになりましょう。友人は突然の訪問にも笑顔で「よくきた、よくきた」と喜んでくれます。なかに迎え入れてくれ、まずは何を飲むか、お腹はすいていないか・・・と聞いてくれます。普段だったら遠慮して食べてきたと答える(!?)ミフリの社長ですが、今日は「お腹がすいてすいて、あなたにごちそうになろうと我慢してきたのよ」と返事します。近くのいきつけのレストランに誘ってくれます。トルコの東部の名物料理を出す店です。辛いもの好きな人にはアダナケバブ。鶏肉のピザ、ひき肉のピザ、チーズのピザ、羊肉、牛肉、鶏肉の串焼きなど。トルコの食卓は豊かです。テーブルをいっぱいにするように、無料の前菜やサラダなどがついてきます。もちろんパンやピデ(平たい焼きたてのパン)は食べ放題。最後は食べきれなくて残す結果になりますが、カラのお皿が並ぶのはあまり好まれることではありません。満足するまでごちそうしなかったということになるからです。食べ残してお腹がいっぱいなのに、さらに「デザートはどうか」「もう1杯コーラを飲め」と友人は言ってくれますが、もうどこにも入らないので断ります。また遊びにくることを告げて、村へ向かいます。友人は「今日、戻ってくるんだろ? 部屋と夕食を用意して待っているからな!」と手を振ります。村へは幹線道路を西にすすみ、途中からクルマ1台がやっと通れる細いダート道をすすみます。ここから50キロ、ダート道。砂ホコリをたてながら。ここは地形のせいでしょうか。険しい山間の村ではなく、ゆるやかな丘陵が続きます。でも標高は高いですよ。眼下には谷があり、下に川が流れています。何もない道が続きます。畑はあるけど家はない。本当にこの先、何かあるか不安になること、家がポツリポツリと見えてきます。道も道というよりは、クルマが通れそうなところを走っているだけです。1軒丘の上に大きな家が見てきました。道なき道をすすみ、辿り着くと、一家の主であるおじさんとおばさんが顔を覗かせました。「おーよくきたね」木陰のテーブルでチャイをごちそうになり、今日はまだ移動マーケットが来ていないのでタバコがないんだよ、というおばさんにタバコをすすめながら、まずは世間話を1時間。アンタルヤを出て約8時間。道もない、店もない、家屋は見えるところに5軒ほど。馬と羊の数の方が多い、世間から隔離された別世界に来ています。私たち。
2004年08月31日
全94件 (94件中 1-50件目)