講演会・展示会・ワークショップのお知らせ 0
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草木染めの小さな工房が残る、とある町。キリム、絨毯糸のオーダーも以前ほどなくなってきて、失われつつある技術だけど、こだわりながら細々と続けている職人さんがまだいる。そのおうちの孫娘。姿形の珍しい客に(東洋人という意味で)最初は、扉のかげから覗き込む。そっと近づいては、逃げていく。最後にはそばに寄ってきて、離れない。どこへ行っても子供がかわいくてたまらない。(まるでミフリ社長のセリフとは思えない・・・・・)
2008年07月01日
カラプナールの周辺には、遊牧のために夏のみ集落が作られる。白い土の壁に、丸太と乾燥された植物の茎で作った屋根。カラプナールの人たちは、一般的に人なつこく、お客さんを笑顔で受け入れると言われている。言われているだけではなく、実際そうである。私たちが立ち寄った集落でも、突然の訪問にもかかわらず、家に招いてくれて、チャイを振る舞い、食事を断ると、旅の途中で食べなさいと、飼っている羊の乳で作ったばかりの生クリームと、白チーズを包んでくれた。この家には、老夫婦とお嫁さん、二人の孫がいた。二人の孫はシャイな4歳の姉と、物怖じしない1歳の弟。息子は町に仕事に出ていなかった。家の中にはおばあさんが織ったトゥルがあった。
2008年06月28日
出張から戻ってきた。実際の移動距離もスケジュールもハードだったけど、中味が盛りだくさんで、出発したのが、まるで1か月以上も昔の話のようである。仕事の話はさておき・・・。今回の旅でもたくさんの子供たちの笑顔を見ることができた。彼女の名前はヤームル。遊牧民ムトゥ族の定住した、とある村に暮らす4歳の女の子である。織りの調査でこの村に来て、出会った。両目の色が違うのである。片方はお父さんの目の色、片方はお母さんの目の色をもらった、とても幸運な子供である。
2008年06月26日
古いイーネオヤから、新しいイーネオヤまで。イーネオヤ・・・・ぬい針で結び目を作る技法で、トルコでも限られた地域で発展してきた技術である。スカーフの縁飾りになったり、タオルの両サイドの飾りになったり、テーブルクロスになったりしてきたが、大元をたどればエーゲ海地方の下着風の白い服の袖口、襟の縁を装飾する小さなレースから始まったようである。今回はイーネオヤのみを集める旅。キリムと同じで、もう自分のコレクションとして残したい骨董品は見ることができなくなったけれど、実際に継続されている文化であるため、イーネオヤ自体は各産地まで足をのばせば手に入れることはできる。ホームページをUPしようとしたらサーバーの事情で現在できない。詳細はそちらで・・・ということで、この花たちは全てイーネオヤである。オールドのイーネオヤは新しいもので15~20年前のもの。ヤズマが手押しのものになるとそれらを生産していた時期と合わせて考えても50年はくだらない。もちろんそれ以上の年月を経過したすばらしいテクニックと素材の優れたものもある・・・・ただし著名な個人コレクションか博物館に・・・・。これらはオールドのイーネオヤ。自分たちのために作り、保管され、手放されたもの。地域性が強い。オヤにもそれぞれ名前と意味がある。キリムと一緒で面白い。モチーフに意味を含める場合と、色に意味を含める場合がある。こちらは現在の新しいイーネオヤであるが、見ると見事で楽しい。私がもっと器用だったら、これを使って何か作れるのだけどなあ・・・・とアイデアだけが頭の中をグルグルするのだけど、実際には(不器用で)作れないのが残念である。さて、旅は後半戦。明日からまた1週間留守にします。その間にホームページの「イーネオヤ」のUPができるかもしれないので、そちらもご覧ください。
2008年06月19日
画像を載せられないのが残念です。お待たせいたしました。各地のイーネオヤを色々手に入れてきましたので、一時アンタルヤへ戻った、その時にでもホームページに掲載します。今週末にはご覧いただけると思います。立体オヤの単体、古いイーネオヤのお手ごろなものから、なかなか手に入らない面白いものまで。さて、旅は3分の1がなんとか終了。移動距離もある上、デコボコ道の連続で、毎日が体力的にもハードです。でも古い手工芸品を見ると元気がでます。画像は蚕が繭を作っているところ。元シルク糸の産地で、5年ほど前に1軒残らず廃業し、シルク糸の生産が終わった山里で、養蚕を続けている農家を訪ねました。1年に1回のみの繭作り。この里ではシルク糸生産は過去の話になってしまったようです。
2008年06月18日
暑くなったなあ・・・・。出張でエーゲ海とマルマラ海と黒海を見に出かけてきます。あっ、東地中海もか・・・・・。パソコン持参ですので、連絡は取れますが、かなり山奥に行きますので、ネットがつながらない日もあると思います。ご了承ください。カフェはスタッフがおりますので、毎日開いています。また商品の発送については個々にメールにてご連絡いたします。では行ってきます。
2008年06月13日
近くを通ったのに食べ損ねた。ミフリ社長の好物・・・チョップ・シシ。チョップとはトルコ語でゴミのことだけど、屑肉を串に刺し、焼いたものである。とはいっても実際は肉を小さく切っただけなんだけど、これが他の地方で食べるとハズレが多すぎる。肉が大きすぎるのである。そして脂身がない。それじゃただのシシ・ケバブである。サービスのつもりか、肉を細かく切るのが面倒だから手抜きしたのか・・・・・・。屑肉じゃないとおいしくないのである。ミフリ社長は、大昔になんでだったか忘れたけど、セルチュクのバスターミナルで、チョップ・シシの屑肉を串に刺すのを手伝ったことがあるから、大きい肉をボンボンと刺すのと違って、手間がかかるのはわかる。本場じゃないけど、近い場所だからハズレないだろうと、アイドゥンの街道沿い、チョップ・シシ屋が集まるところで食べた。1人前15本、9YTL(約800円)。う~ん、肉自体はおいしかったけど、これでも肉が大きすぎる。以前、いまや観光地となったシリンジェの村人がやっているだろう食堂で食べたけれど、それは(私にとって)正統派だったし、安かった。アンタルヤへ戻る山間部、エルマル付近の森の中にギョズレメを食べさせるところが何軒かある。ギョズレメは地域で名前を変えるが、サチ(鉄板)で焼いたボレキで、薄く大きな円形の皮にひき肉、ポテト、チーズなどを巻いて食べる。英語でターキッシュ・クレ-プと訳しているのを見かける。これらも近くの農家のおばちゃんが経営しているのだけど、アンタルヤ手前の休憩にちょうどいい。ギョズレメとチャイで3YTL(約250円)。旅の楽しみはモノ(骨董)探しを除けば、食べることである。おいしいものを食べられたときは、旅の疲れも吹っ飛ぶというものである。・・・我慢できずに今年も書いてしまう。スタッフ、友人が(私に怒られないように)ケーキを用意しているのも知っている。今日はミフリ社長の誕生日。ゾロ目になった・・・なんて言っていたのに、もうゾロ目の年が終わってしまった。早い、早い・・・。でもこれで人生の折り返し地点って考えたら、この先まだまだ時間はあるなあ・・・・。
2008年05月24日
キョフテというのはトルコで一般的な食べ物である。ひき肉に香辛料を合わせて、俵型にしたり、平べったくしたり、細長くしたり、丸くしたり、串に刺したり、煮込んだり、ミニハンバーグ風、ミートボール風と様々な形と味で各地の名物料理になっていたりする。それぞれにこだわりもあるから、その土地土地の地名が頭についていることが多い。アクスキョフテシ、イズミールキョフテシ、アクチャアバットキョフテシ、イネギョルキョフテシ、テキルダーキョフテシ、ブルドゥルキョフテシ・・・・まだまだあるはず。今回も土地の名前がついたキョフテを食べた。メニューにも普通の炭火焼キョフテと別に名前が載っていた。○○キョフテシ。細長く作ってあって、油分が少なめ。油っぽいのが苦手な人にはちょうどいいかも・・・・と思うけど、思いっきり油がのった肉じゃないとダメなミフリ社長にはパサパサし過ぎかな。ところで、前出のアンタルヤのアクスキョフテシは、ピヤズ(白いんげん豆のサラダ)と一緒に食べる。肉は柔らかふっくらと焼いてあって、ピヤズもアンタルヤの場合はゆで卵とゴマペーストのソース(ニンニク、砂糖、塩、胡桃などと混ぜる)、お酢、レモンなどが入っていて美味い。アクスと言えば、アンタルヤ遊牧民の土地である。その習慣からなのか、アンタルヤのアクスキョフテシ&ピヤズ屋では、なぜかヨーグルトドリンク(アイラン)は飲み放題の無料サービスである。・・・・と出張先のキョフテの話から、アンタルヤのキョフテの宣伝になってしまった。う~ん、ミフリ社長もついにアンタルヤルになってしまったか・・・・!?
2008年05月19日
トルコに住んで15年。初めてトルコで和食レストランへ行った。考えてみたら初体験。他の外国では食べたことがある。トルコでも中華なら何軒か行ったことがある。アンタルヤに和食レストランがないこと(5つ星ホテル内のを除いて・・)が一番の理由だけど、イスタンブルやアンカラへ行ってもわざわざ行く機会も理由もなかったから。でもそういう機会があればもちろん喜んで行くし、食べたくないかと言われたらもちろん食べたいのである。と前置きが長くなったが、お腹が破裂しそうになるほど和食をごちそうになった。このほかに豆腐のお味噌汁と抹茶アイスがつく。さすがのミフリ社長も最後はお腹が苦しくてせっかくのお寿司を残してしまったほどである。
2008年04月18日
トルコの首都3日間、トルコ最大の都市3日間の計6日間の出張を終えて、我がアンタルヤへ戻ってきた。外国といえ住み慣れた土地はやはり格別。故郷に戻ったような、ほっとする。今回もおいしいものをたくさん食べた。そしてこの6日間でミフリ社長にとっては20年分のビールも飲んだ。(・・・グラス4杯)とりあえずアンタルヤへ戻ってきた、その報告。
2008年04月14日
しばらく出張で留守にします。海外からのお仕事のお手伝いです。今度はアンタルヤから北上。(アンタルヤの南は地中海~!!)首都と、トルコで人口が一番多い都市と。残念ながら「手工芸を訪ねる旅」ではありませんが、満開のチューリップが楽しみです。カフェは通常通り営業。PCは持参ですので連絡はOKですが、キリムなどの発送は遅れる場合もありますので、よろしくお願いいたします。では、行ってきま~す。
2008年04月08日
出張もこれが最後の日。用事をすっかりすませたコンヤを早朝6時に出発。セイデシェヒール経由でアンタルヤへ向かう。途中、峠越えで雪景色が続く。外気も低く、2日前までのあの暑さは何だったの・・・である。そして、いつもの峠の休憩所で朝食をとって、いつもの道を進む。いくつかの山越えをして、最後の下り坂にかかると、突然、気温が上がったのを車内でも感じる。山の風景も雪景色がいつの間にか消え、新緑。そして地中海が見えてくると、そこはもうマナウガットである。マナウガットからアンタルヤはわずか1時間半の距離。地中海沿いに西に向かう。思えば、この前ここを通ったのは1週間前のことだったなあ・・・・などと感傷にひたりつつ、無事7日間の南トルコの旅を終えたのである。そして、最後は客人をアンタルヤ空港へお見送り。その日はなぜか夜遅くまでミフリカフェで皿洗いをしてから帰宅したミフリ社長であった。これでおしまい。
2008年03月24日
ポザントで高速道路を降り、真っ暗な街道をコンヤ方面へ向かう。この日はエレイリまでたどり着く予定だったけど、途中、ウルクシュラの温泉ホテルの看板を見つけて、宿泊地を急遽変更した。ホテルは各部屋に温泉が引かれていて、さらに男女別の大浴場もある。部屋のバスタブも普通のより大きく、深く、温泉の湯量もたっぷりで、熱いし、浴場に行かないまま満足してしまった。大浴場も深さが段階的になっていて、一番深いところは立って首までくるほどらしい。夜はここの温泉に保養に来ている女性グループと一緒で、歌とダンスの宴会風。さて、エレイリを通り、カラプナールへ。エレイリもカラプナールもキリム好きな人になおなじみの地名であろう。この辺りは周辺の山脈に雪が残り、新緑の地中海、乾燥地帯から一転しての雪景色に感動。カラプナールの町の周辺には遊牧のための5,6件ずつの集落ができていて、その集落の屋根が独特である。平らな藁葺き屋根に泥をのせているのである。その屋根を近くに見るために、ある集落に立ち寄った。家の人は突然の外国人の訪問にも快く、家に招いてくれて、アイランをごちそうしてくれた。・・・・と、画像を載せようとして気がついた。なぜかこの日の写真ファイルが空っぽなのである。間違って消去してしまったらしい・・・・。というわけで以下、省略。昼過ぎにはコンヤ市内に到着した。
2008年03月23日
ウルファと言えば、まずブルビベル。日本で言うとなんだろう・・・・乾燥させた赤とうがらしを砕いたもの・・・う~ん。料理に混ぜたり、スープにかけたりして食べる。自家製ものが多く売っていて、これらは上品にまろやかに辛い。こちらはウルファというより、ガジ・アンテップで有名なピスタチオ。トルコ名はアンテップ・フストーゥ。ガジ・アンテップはウルファから西に100kmほどだからご近所である。ピスタチオも殻付きなら普通に見かけるけど、これは殻を剥いてあるもの。ウルファの名物料理と言えば「ウルファ・ケバブ」。ひき肉を串につくねのように固めて、焼いたもの。似ているけどプルビベルを入れて辛めにしたのが「アダナ・ケバブ」で、アダナの名物料理。画像はウルファの名物、トマト・ケバブ。ほかにナス・ケバブもある。1串が結構でかいのだけど、町はずれの食堂で食べたら1人前に2串ついてきた。もちろん、アンタルヤで食べるより量は多いし、値段は安い。アンタルヤより東方面の旅の醍醐味は食い物の安さとうまさでもある。もうひとつ、ウルファで有名な甘いもの。シュルルック。ユフカの中に胡桃の砕いたものが詰まっていて、例以外なくシロップに浸したもの。売り切れというところを無理に作ってもらったから、食べたものが正式なのかどうかわからないけど、温かく、そして甘み抑えめで、おいしかった。シュルルックは隠語で「売春婦」の意味もある。甘いという共通項なのか・・・・?そしてウルファで忘れていけないのが「チーキョフテ」。生のひき肉を捏ねながら、その熱のみで調理していくもの。これにプルビベルなどを加えて、辛めにし、レタスに巻いて食べるのだが、この本場の味が他の地方ではなかなか味わえない。そして今回の旅で、なぜか食べ物の写真が少ない。というのも食べ物を前にして、写真を撮るのを忘れて、がっついてしまっていたからである。シュルルックもそうだけど、食べてから写真を撮っていないことに気がついた。ほかのところでも状況はほぼ同じ。例外なく、どこで食べたものも、ハズレがなかった。こういうときに食いしん坊であるミフリ社長の鼻と腹が役に立つのである・・・と自慢しておこう。
2008年03月22日
ウルファからシリア国境へ南下し、約45km。シリア国境の町アクチァカレまで、わずか約25km。ハランは、その昔、旧約聖書の時代、預言者アブラハムが約束の地、カナンへ向かう途中に住んでいたことがあるという。ちなみにウルファには、アブラハムが生まれた洞窟というのがある。レンガを積み上げた壁と屋根に、泥を塗り固めた、とんがり帽子の家が並ぶ。雨がほとんど降らない地だから可能な家である。家の内部は夏は涼しく、冬は暖かい。床は土のままで、絨毯やキリムは敷かず、鞍の形の椅子に座り、テラス台の上に布団を敷いて眠る。とんがり帽子の屋根の上には空気穴がある。夏は山羊毛で織った巨大キリムを庭に張り、その下にできた木陰で涼む。近代化の流れで、また手入れの面倒さもあり、これらの家を捨て、住民は他の場所で生活するようになっているらしい。カッパドキアの岩の家と状況は同じである。ハランはシルクロードの終着点でもある。ここの城塞跡はおもしろい造りで、1階がパザール(市場)、2階がモスク、教会、3階が隊商宿として使われたという。これは、おまけ。乾燥した地に全く似合わない、ふくよかな体型・・・・。これも、おまけ。こちらはアラブ訛りのトルコ語を話せば、見分けがつかないほど、よく似合っている。今回の運転手くん。
2008年03月21日
ウルファは石の町である。石造りの家が並び、暑く、乾燥した地域である。それがまた魅力的である。さらにこの地域で興味をそそられたのが、ウルファの街中でももちろん、ウルファからシリア国境へ向かう道の村々、集落で出会う人々、見かける人々が本当にこの地域独特の民族衣装を着ていたことである。しかも文化的にはトルコではなく、アラブ系の衣装である。女性はこれ、現代で本当に着ているの!? っていう派手派手な服を普段着として、本当に本当に着ていた。これには感動である。男性も頭に布を巻き、ダブダブのズボンを履いている。ハタイもシリア国境の町であるが、ウルファはもっと徹底した異文化圏であった。話によると、シリアではなく、イラクからの移民がここに町を築いたらしい。そして、ウルファと言えば、ハラン。とんがり屋根の土の家があり、3階建ての隊商宿跡もある。シルクロードの終着点でもある。・・・・・つづく。
2008年03月20日
4日目はウルファまでの長距離移動日。午前中はハタイ県のクルクハン。クルクハンには黒海地方のトラブゾンからの移民地区がある。地区まるごとトラブゾン出身のラズ人で占めている。シリア国境、トルコの南端のハタイになぜ、トルコの北端のトラブゾンからの移民が・・・?移民といっても、古い移民ではなく、1960年~80年代にかけてと歴史的には新しい。親世代がこちらへ移り住み、20代、30代、40代の子供世代はハタイ生まれがほとんど。ただ地元民とは交わらず、ラズ人同士の結婚をし、ラズの文化を継承し、黒海訛りのトルコ語を話す。彼らの話によると、ハタイは綿花栽培などが盛んであるが、どうも温かいところに住む人たちはのんびり屋が多いらしく、畑仕事が進まない。そこで働きものと言われる黒海地方の人たちに、ハタイでの農作業をさせるために移民を募集し、その結果、この一角に黒海地方の人の住居区が形成されたということである。黒海出身者が働き者だとは初めて聞いた。「黒海出身者は午後から頭が働く」と言われていて、つまり朝に弱い、午前中はぼーっとしているもんだと思っていたもん。この一角では苗字が5、6つしかない。つまりほとんどが親戚である。ハタイでは遊牧をする人も多い。しかし移民のラズ人たちは遊牧はせず、綿花栽培を中心に農作業のみに従事した。世代が変わり、子供たちになると、農作業以外に、貴金属屋、農薬販売、洋服屋などの商売をはじめ、それぞれ生活をしている。そのラズ人地区でのパザールの様子。クルクハンからヌルダウへ北上し、そこから高速道路を利用し、一路ウルファへ。
2008年03月19日
おまけ。ハタイのモザイク博物館に展示してあった、表情の可愛い3点。これらの、現代でも十分ウケそうなマンガチックな表情が、約2000年前の人たちによって創られていたというのが不思議でおもしろい。
2008年03月18日
ハタイで泊まったホテルの中の骨董品。鏡。手彫りの装飾のある木製枠の鏡。家にひとつは欲しいです。これまたカラフル。電化製品系の骨董はあまり興味ないのだけど、これは魅かれる・・・。今日行った、ウルファ・レストランで大人数分のスペシャル料理をこれに似た容器で運んでいたけど、お菓子なんかが入っていたりもするのかな・・・? これだけ立派だといいなあ。古いアイロン。中に炭とか入れるのでしょうか? 実際に使っているのは見たことないけど。持っていないので欲しいなあ・・・・。こちらの地方で有名な貝殻細工の長持ち。長持ちはたくさん持っているけど、貝殻入りの古いので状態がよいのは持ってない。欲しい・・・・。そして一番欲しかったのが、これ。シャンデリアなんだけど、ランプのシャンデリア。これに昔は1つ1つ蝋燭を入れて火をつけたのだろう。すごい、すごい。そして、ハタイと言えば、モザイク博物館。イスタンブルのも見たけど、ハタイはさらに上をいく、コレクションが並んでいる。たくさんあるのだけど、この色と石の細かさと絵の繊細さに魅入ってしまったのが、このモザイク画のこの部分。ハタイのモザイク博物館はアンカラの考古学博物館の展示物に負けないものがあって、また欲しいものが増えてしまった。(って買えるわけないんだけど・・・・)
2008年03月17日
ハタイはシリア国境の町で、歴史上はシリアになったこととか、トルコ以外の国の統治も受けたこととか、あるのだと思う。(ちゃんと調べようとしないのがミフリ社長)町には西洋風な洒落た古い建物があったり、教会がいくつもあったり。で、旧市街で一番気になったのは、家の扉である。家の中まで見たかったけど(時間があったらドアを叩いていたと思う)、なんとか歩くことができるだけの時間しかなかったので、それはあきらめて、扉だけでもと撮影させてもらった。最後の画像はドアの鉄格子なんだけど、平面なのとか、曲線を描いて立体的なのはよくあるけど、こんなに飛び出している箱型は見たことないので驚いた。そして泊まったホテルは、古い民家を改造したものらしく、またオーナーの趣味なのだろうけど、ロビーにはこの地方の骨董家具、民具が並んでいて、おもしろかった。骨董家具、民具の画像はまた後日ということで・・・・・。ちなみにホテルの部屋は、骨董品はないけど、こんな感じ。
2008年03月16日
ハタイと言えば「クネフェ」。「クネフェ」と言えばハタイ・・・・・である。ハタイはトルコの南、シリア国境が目の前の土地柄である。そのせいか、街中にはアラブ系の人が多く、売っているものも雑多で、そのゴタゴタ感がイスタンブールの旧市街の市場や路上と雰囲気が似ている。旧市街には古い建物も多く、時間があったら、片っ端から見てあるいたのになあ・・・・とちょっと残念であるが、古い家屋の扉の写真を見てまわれた範囲で撮ったので、それも後日。話を元に戻すと、ハタイはクネフェが有名である。クネフェとは小麦で作った素麺みなたいな細い麺状のものを固めて、その間にチーズを挟み、甘いシロップで焼いた温かいデザートである。甘いのだけど、中のチーズのおかげで、結構食べられてしまう。私がトルコの激甘デザートの中で、唯一好んで食べるのがこのクネフェ。クネフェ自体は、トルコのどこでも食べることができるが、味はどこのでもうまいとは限らないし、誰でも作れるとは限らない。(クネフェにはちょっとうるさいミフリ社長・・・)ハタイに行くならクネフェだけは食べて帰らねば・・・・と、この旅のスケジュールを組んだ時点でそれを一番に考えたほどである。もしかしたら、トルコで手工芸に次に何が好きかと聞かれたら、迷わず「クネフェ」と答えるかもしれない・・・・!?これがハタイのクネフェ~!! 甘さ控えめ、そしてなにより薄い皮にチーズがたっぷり。そして上にはのびるアイスクリーム、ドンドルマを載せてもらった。上の緑色なのはピスタチオを砕いたもの。せっかくだからダブルでいけばよかったなあ・・・と後悔しているところだが、日本からの客人を驚かせてはいけない・・・と遠慮した!?さて、クネフェの材料である、素麺状のものは、「テルカダユフ」と言う。どうやって作るかというと・・・・・。クネフェの話題になると、妙に興奮するミフリ社長であった。
2008年03月15日
アンタルヤからメルシンまでは一般道路で、しかも高低のある海岸線なので距離の割りには時間がかかる。今回、この長距離をこなせたのは、ひとえに南トルコを走る高速道路のおかげである。西はメルシンから、東はガジアンテップの東、ニジップまで。正式開通はしていないけど、実際はウルファまで完成し、しかも利用できる。南もハタイの手前、べレンまで。北もポザントで降りたが、その先も続いていた。エーゲ地方でよく利用するのが、アイドゥンからイズミール線。安くて便利なのが、トルコの高速道路で、例えば今回利用した、メルシン-ハタイ間は約260kmで4YTL(約400円)。ヌルダウからウルファまでの約180km間も実質1.75YTL(約175円)の支払いであった。しかも広大な平野を通る、幅広の道路で、利用者が少ないので、独占状態。いやあ、私たちが通るためにこんな道路まで作ってくれてありがとう・・・という感じである。アダナ市内を通る道路も、こんなにガラガラ。地図上ではガジアンテップの少し先までしか完成していなかったが、実際に行ってみるとその先、ウルファまで道路は通っていた。ただし、正式には開通していないようで、一般道路扱いで料金所はあるけど、料金は取らない状態であった。この高速道路、一応、ガソリンスタンドとトイレ、レストランなどがあるサービスエリアもあるのだけど、どこに寄っても自分たちのクルマ以外は見かけない。工業地帯の主要輸送ラインだから、夜間のトラックなどの利用が多いのかと思う。ちなみに最高速度は120km/h。もちろん、こんな快適な道路でそんなゆっくり走っているクルマはいないのだろうけど・・・・。今回は高速道路の話になってしまったけど、この日はメルシンからアダナ、イスケンデルを経由してクルクハンへ。そして宿泊はハタイのアンティークホテル。ハタイでは話題が多いので出張3日目のブログはまだまだ続く・・・・。
2008年03月14日
この間は興味深い、遺跡、史跡がある。ひとつはアナムルのマムレ城。アナムルは遊牧系のキリムの産地でもあるし、よく通る。マムレ城の外側は何度も見ているのだが、実は中に入ったことがない。というのも、外壁で見える分しかないのだろうと思っていたからで、入ってみたら内部の広さ、城塞の複雑な作り。ちょっとハマってしまった。次にシリフケの「天国と地獄」。ここも取材で入り口まで来たことはあるのだが、実は下まで降りたことがなかった。今回、頑張って降りてみた。そして、たぶんもう二度と降りないだろうと思った。こちらが天国。この谷を降り、さらに画面左下の巨大洞窟に入っていく。こちらが地獄。天国は巨大な洞窟になっていて、入り口には古い教会がある。天国の洞窟の岩の上に、民家が建っていたりして、思わず、天国の上に住む人たちのことを想像してしまった。地獄は降りることはできず、上からのぞくだけであるが、台の安全度が不明でちょっとしたスリルである。そしてクズカレシ。ビーチの目の前に石造りの城がある。イスタンブルにも似たような伝説の場所があるが、予言で娘が死ぬと言われた王が、娘を誰もこれない場所に隔離するのだが、フルーツバスケットに忍んだ蛇に噛まれて、結局命を落とすという話。乙女の塔。幻想的な風景であるが、夏になると海水浴の人でいっぱいになる、その対比がおもしろい。ちなみにボートで渡り、上陸することができる。いずれもガイドブックの取材や、仕事のついでによく通るところであるが、今回のように看板の説明もしっかり読んで、じっくり見たのは初めてである。トルコにはまだまだおもしろいところがたくさんあるし、ちゃんと見ていなかったなあ・・・・と反省。
2008年03月13日
出発を目前に、この時期、温かいはずのアンタルヤを始め、トルコ各地で雪が降るという異常気象。そのため目的地での道路状況などがはっきりせず、ぎりぎりまでルートが確定しなかった。その後、運がよいことに晴天が続き、問い合わせてみると道路状況は問題ないとのことで、いざ出発。実際、7日間の行程で1晩雷雨があったものの、日中はどこへ行っても初夏の気候。天気に恵まれた旅であった。第1日目。16時過ぎにアンタルヤの空港でピックアップ。その後アランヤを過ぎ、ガジパシャへ。とにかく時間稼ぎをしないと目的が果たせない距離である。少しでも東へ東へ、と、ホテルに困らないアランヤにはあえて泊まらず、その先のガジパシャで泊まることにした。ガジパシャは小さな町で、観光では全くのノーチェック地帯であるが、ひそかに日本と縁がある。まぐろの水揚げ港があり、一時期ここから大量にマグロが日本へ送られた経緯がある。そのため、日本人が来るというと「まぐろを買いにか!?」と聞かれるのが常である。その他にアランヤからこの地帯にかけて、トルコ国産のバナナが有名である。バナナ畑が広がり、冬はビニールハウスの中で栽培されている。道端には房ごとぶら下げて売られており、通りがかるクルマが買っていったりする。ここのバナナ業者の知り合いから、ガジパシャで冬期唯一営業しているホテルを聞いて予約しておいた。ガジパシャに宿泊施設があるとは知らなかったし、聞いたこともなかったので、はっきり言って期待していなかったけど・・・・。アパートをホテルに改築したもので、入り口から廊下が続き、バスルーム、ベットルーム、キッチンのついた大きめのリビングがついていた。1人25YTL(約2500円)。設備もテレビ以外は一応揃っていて、ホテルとしては殺風景なだけであるが・・・。ミフリ社長、何度も書いているかと思うけど、出張先では部屋にテレビがないとダメなのである。一人で泊まるときは、テレビをつけっ放しじゃないと眠れない。普段も暗闇でちょっとした音などがすると、起きてしまう。意外なところで怖がりである。さて、さてガジパシャを過ぎると恐怖の海岸線、崖っぷち、ぐにゃぐにゃ道が永遠と続く。道路がかなり広くなって、走り安くなっていたが、それでもガードレールがまだないところも少なくなく、眼下の崖と地中海を見ながらのドライブであった。それが3時間は続く。左右へのカーブのみでなく、上下もあるので、ミフリ社長にとっては、ただひたすら吐き気との闘いである。今回、長距離なのもあって運転手を頼んだので、酔いはいっそう。でもこの酔いをも我慢して、このルートを越えたいと思うのは、新緑と花々と地中海の景色のすばらしさである・・・・。
2008年03月12日
まるで旅行会社のツアータイトルみたいになってしまったけど、こんなルートのツアーはまずないだろう。アンタルヤ、ガジパシャ、シリフケ、メルシン、クルクハン、ハタイ、ウルファ、ハラン、ニーデ、カラプナール、コンヤ、アンタルヤ。今回、短い期間で、約2500kmの距離を移動しつつ、しかも目的地と経由地で用事を果たせたのは、南トルコを走る高速道路のおかげである。途中、一般道路におりる区域があるが、東はウルファまで高速がつながり、時間の短縮になった。(ガジアンテップ以降は現在、一般道路扱いで、つまり高速料金の徴収もなし)やっとコンヤにたどり着いたところ。今夜はコンヤ泊(!?)。明日は我が家である。いまどき高級ホテルじゃなくても、各地のホテルの部屋では、ワイヤレスインターネットは当たり前。そのおかげで通信もできるし、調べ物もできる。トルコの地方の旅も以前に比べたら、ずっとずっと便利になったものである・・・と一人で感心。旅の詳細は仕事のため書けないけど、各地のおいしいもの、見たものなど、紹介できる範囲で順次UPします。
2008年03月06日
朝3時出発でエーゲ海地方の村パザールへ出かけた。早朝だからレーダーを気にしないで飛ばしたとはいえ、途中からショートカットのつもりで初めて使う山道に入ったら、「道はいいよ」と説明されたのと違ってがけっぷちの狭い道で行っても行ってもたどり着かない。「急がばまわれ」である・・・・。出発から7時間半。目的地に着き、クルマを停めてパザールへ。顔なじみのオバちゃんやお兄さんたちと挨拶したり、買い物したりして2時間ほど過ごした。今回日本に行ったアドナンの代わりに同行したのはウールとセルカン。クルマの運転はもちろん、二人とも185cm以上、90kg以上という体格で、ボディーガードとしても優秀である。バザールの後は、商談もあるから二人もワイシャツとネクタイ姿で。それから山越えをして、オリーブ畑を見ながらイズミールへ向かった。予定以上に早くついたので、絨毯問屋の友人を訪ねて、それからイズミールの別の友達宅へ行き、みんなで泊まらせてもらった。翌日と翌々日は今回の目的である。オリーブ工場の見学とオリーブとオリーブオイルの勉強。今はまだ時期ではないので、工場は稼動していないところがほとんどであるが、保存してあるので工場の中はオリーブのちょっと塩酸っぱい香りが漂っていた。トルコでオリーブは朝食にかかせないもののひとつである。ブラックオリーブ、グリーンオリーブ、村では家庭で漬けることも多いが、水を取り替えたりかなり面倒なので、町の生活では買ってすませる人がほとんである。日本で言うと梅干しみたいなもんかな・・・。スライスしたものはピザに使ったり、料理に使ったり。マニサの小さいけど、社長さんがとても協力的な工場があり、電話をすると日曜日にも関わらず開けてくれた。改めてオリーブの塩漬け製造に関する説明を受けてみると、なるほどと思うことがたくさんあって、興味深かった。私のクセなんだけど、商売をするときは、ゼロから全てをみないと気がすまない。実際にオリーブの実が工場に入ってきたところから頭の中で絵を浮かべながら、疑問的などを確認して、ピン詰めされるまでを追った。最後に社長親子と記念撮影。取引条件や価格、梱包などはその後の話である。これを翌日、大手のオリーブオイル工場へ行ったときも同じように聞いたけど、大手だと仕事が分散されすぎて、輸出担当者は製造についてはほとんど何も知らなかった。質問をしても誰でも知っている一般的な返事だけで、詳しく聞くと返事ができないのである。それなら製造担当または各地にある製造工場へ行くから紹介してくれと言っても、11月の製造シーズンに入ってからね、と終わらされてしまって、大手に関してはかなり欲求不満のまま面談が終わってしまった。
2007年05月26日
トルコの名産としてローズ・ウォーターがある。水とバラの花だけで作られているものであるが、香りが結構独特で、私は人工的な香料を入れているに違いないと思っていた。ところがトルコの一番のバラの産地ウスパルタのバラ畑に行って、ローズウォーターの香りはバラそのもの、天然の香りだということを知った。今、ウスパルタはバラのシーズンである。郊外のバラ農家では、毎朝5時から8時ごろまで、その日に開いた花を摘む作業を行っている。G村でも早朝から家族総出で、バラ摘みをしていた。近づくと、なつっこい笑顔で「ようこそ!」とトルコ語で話かけてくる。バラの花を摘んで束にしてくれる。3,4歳の子供が自分で花を摘んでは受け取れと、差し出す。もらった花で手がいっぱいになる。(摘んだバラの花を袋づめにして集める)(村ごとに集荷され、トラックで工場に運ばれる)もらった花はクルマに置いておいた。乾燥して、ますます香りが強くなった。アンタルヤへ戻って、クルマに乗ったトルコ人の友人たちに「ほら、ローズウォーターの香りって、このバラの香りと同じでしょ?」と、香りをかがせた。みんなが「あっ、本当だあ」と驚いていた。
2007年05月19日
出張と言ってもクルマで小1時間のアンタルヤ県内なんだけど、一泊だから一応お泊り出張。某リゾート地の5つ星ホテルへ出かけてきた。日本とのリアルタイム作業なので、時差が7時間。トルコ時間の朝3時から7時半。そのあと寝ずに朝食をとって、家に戻ったけど、身体が時差ボケしているみたいな感じで、眠たいというよりは、なんだかふわふわする。時差のせいもあるけど、失敗が許されない本番1時間の緊張で、それが解けた瞬間に精神的な疲れがどっと来たようである。いろんな状況を考えて、万端の準備で望んだつもりだけど、なにがあるかわらない・・・ここはトルコ。しかも田舎に開発されたリゾート地で周囲には何もない。夜中だからホテルの専門スタッフもいない。機材が壊れた、インターネットがつながらない、電話回線がつながらない・・その他諸々、そんなことが起きた場合は、どうするか、なんどもなんども自分の頭の中でシュミレーションを繰り返していたもんだから、久しぶりにストレスで胃が痛い(普段はストレスのない仕事ばっかりしているもんね・・・)。・・・・でも、24時間、食って飲み続けていたから、胃が痛いのは食いすぎのせいか・・・!? って気もするけど。無事に済んでよかった、よかった。まずはそんな状況である。
2007年03月22日
先週末から今日を含めての25日~27日はイスタンブルでF1トルコGPが開催されていた。その関連で、先週頭からとにかく混んでいた。F1の会場はイスタンブルのアジアサイドにあるサビハ・ギョクチェン空港のさらに先であるが、宿泊場所がないため、ほとんどが別の場所に宿泊し、移動するという方法をとっていたようである。スルタンアフメットではホテルもたくさんあるし、なんとかなるだろうと、予約なしで来た客が、ホテルが見つからず、大きなカバンを持ったまま外で夜を明かしたり、ペンションによってはホテルが見つからない客のために自分たちの部屋を明け渡し、ベランダやクルマで寝るオーナーもいた。私たちは事前から予約をしていたので、困りはしなかったが、こんな混雑したイスタンブルは初めてみた。私は24日の朝から3日間の予定で日本のお客さんと一緒にテキスタイル関連の工場まわりをしていた。正午には日本へ遊びに行っていたアドナンと息子がイスタンブルの空港に着き、その日の夜、ホテルで合流することになっていた。さて夕食でもと外へ出たが、まあ、見事にたくさんあるレストランの席に空きがない。それほど客がいたわけである。レストランを選ぶのではなく、席が空いているところに座るしかなく、それでもどこも似たようなものなので、とにかく座って食事。レストランによっては英語のメニューしかないわけで、それもらしくて面白い。でもイスタンブルの知り合いが言うには、「もっと景気のいいときはこんなもんじゃなかったよ。近年は人が少ない」ということである。さすがイスタンブルである。アンタルヤのカレイチの人気のなさ、これで商売しているカレイチ商人は偉いぞ。というか商売できているのか、心配になった・・・・。26日に無事、今回の任務を終え、アンタルヤへ戻る。私にとっては8日ぶり、アドナンと息子にとっては24日ぶりのアンタルヤ。雲ひとつない青空から雲り空に変わっていて、アンタルヤの夏も終わったのか・・・・と、ちょっとおセンチになった一瞬であった。(アンタルヤの夏はまだまだ終わらない・・・・)メールのお返事遅くなって失礼しています。アンタルヤへ戻りましたので、しばらくは通常通り営業いたします。よろしくお願いいたします。
2006年08月27日
今日から2泊、アンタルヤに長期滞在している日本人のお友達とイスタンブルにお買い物に行く。彼女の目的地のひとつはエジプシャン・バザールの裏手にあるらしく、私の今回の目的地のひとつはグランド・バザールのハンの建物の上の迷路のどこかにある。そのあとは彼女とお店を冷やかしつつ、お客さんから頼まれている調べものもあるので、実際は真剣にモノ探しをする予定。仕事ではあるのだけど、お友達もいることだし、ノリはすっかり観光客である。ちょっと商売から離れた立場でのお買い物。おいしいものも食べて、観光しながら、楽しい2日間。エジプシャン・バザールとかグランド・バザールとか、今まではさっさと通り過ぎるだけだったけど、観光客の目でゆっくり眺めてみると、いままで知らなかった風景が見えてきそうで、それも楽しみである。
2006年08月19日
さまざま・・・ではありません。さまさま・・・です。来週、またイスタンブルに出張ででかける。それでホテルの予約などを以前からしているのだが、どうも日程がF1トルコGPと重なるようで、どこで聞いても誰に聞いても「ホテル代は2倍になるよ・・・」って言われていた。いくらなんでもそんなこたあ、ないだろうと思っていたら、やはり高かった。知り合いのツアー会社を通して予約してもらって、なんとか差額なしで抑えてもらったけど、それとは別の用事で早めに行くため、もう少し経済的に泊まれる前回利用したホテルに空き部屋があるかどうか聞いてみた結果・・・・。週末はいっぱい、しかもF1のある週は料金が2倍だという。電話で応対してくれたホテルのスタッフですら「この時期、信じられないぐらい高いんですよ・・・・」とすまなそうに料金を言ったけど、ここのホテル通常は80YTL(約6500円)。この間は知り合い料金で50YTL(約4000円)。F1週間は160YTL(13000円)になるそうで、すぐには返事が出来なかった。仕方がないので、スルタンアフメットはあきらめて、いつも会社で利用しているホテルに連絡をいれた。そこはバスタブエアコンもついて、こじんまりとしてはいるが、160YTLといったホテルより設備は充実していて、とてもきれいである。ただ場所がスルタンアフメットではないというだけ。慣れたところだし・・・・。F1週間でも会社料金で50YTL(約4000円)というので、迷わずそこに予約を入れた・・・というわけである。さてF1。日本にいるときは興味があったからTVで見ていたし、実際に見にも行ったけど、トルコでの盛り上がり度はイスタンブル以外はさほどでもないかな・・・なんて感じている。周囲のトルコ人はF1の影響でホテル料金が倍に跳ね上がることを言うと「そんなの見にくる人がいるの?」と全く興味も示さないし、だいたいF1がなんだかわかっていない。かくいう私にとっても今やかなり遠い存在。誰が走っているかもしらない。それより出張中のイスタンブルのホテル代金が高いことの方が重要・・・・。ま、それでもその前後は観光客も増えることだろうし、F1影響でイスタンブルの観光関連の景気が盛り返すことを祈ろう。
2006年08月17日
見学って書いたけど、心の中では(ウィンドゥ・ショッピング)と小さくつぶやく・・・。博物館を見るのは好きである。歴史的なことよりも、繊維関係や小物の古いものを見て、ただただ興奮する。今回、せっかくイスタンブルのスルタンアフメットにきたのだから、トプカプ宮殿でも見ていくか・・・と赴いた。前回、いつ入ったかというとたぶん、7,8年経ったと思う。そのあと、4、5年ほど前に出張できたときに入ろうとしたら、やたら入場料が高いときで今の40YTL(3000円ちょっと)ぐらいしたものだから、同行した従業員のスーザンが驚いて引いてしまったということがあった。最近、安くなっているとは聞いていたので、チケット窓口を見たら10YTL(約800円)。一人で見るのもつまらないから(博物館は一人で見るものだという説もあるが・・・)、友人を呼び出して一緒に入る。一人で見たくないというのは、単に講釈を述べる相手、つまり感動を共有する相手が欲しいだけなんだけど・・・・。私は基本的には固いものには魅かれない。トプカプ宮殿で有名なダイヤとかエメラルドもすごいなとは思うけど、石類にはほとんど興味はないのである。衣類、刺繍、織り布・・・・。それはそれは素晴らしい・・・こんなにコンディションよく、しかも仕事量が違うのである。当時の支配者のものであるから当然なんだけど、トルコ人本当はやればできるのじゃない、っていう技術がある。今の不器用さ大雑把さからは想像できないけど・・。ここに展示されているようなものは手にしたくてもできないわけだけど、私もこれより身分の低い方々や一般庶民のもの、もっと近代のものなら多少持っている。ハマム館に展示してある刺繍入りのタオル、手ぬぐい類になると、私の持っているものの方が上だな、と思えるものもある(そんなことを考えて一人喜ぶわけであるが・・・・)。でもやはりため息が出てしまう。ガラスに顔をくっつけて立ち止まってしまう。ため息というか、身体が興奮して振るえ、鳥肌が立つ・・・・。こういう現象ってお客さんのキリムコレクターたちにもある。たとえば私がある場所で、絶対出るはずのないアンティークキリムを見つける。目垢がつかないように隠しておく。密かにコレクター間や業者間に噂だけが流れる。このキリムを見たいという人が訪れる。でももちろん、とぼけなくてはならない。そしてこの人・・という人にだけ見せるのであるが、この人・・というのはお客さんになりえる人はもちろんであるが、このキリムの素晴らしさを共有できる人・・・という意味である。見せても業者の場合「これは○○さんにいくらで売れる」と値踏みするだけの人がいるけど、そういう話はおいておいて、キリムのすばらしさを共有したいのである。見せた瞬間、たいていの人は声もでなくなる。見入る。立ち尽くす。しばらくすると、キリムを撫で回しはじめる。キリムに身体をつけてさらに撫で回す。そしてもう一度立ち上がって見入るのである。鳥肌がたつ程度はごく当たり前で、なかには髪の毛が立ったり・・・こうして書いていると作り話みたいだけど、事実である。話がだいぶそれてしまったけど、そういう意味で博物館見学は好きである。固いものには興味がないと書いたけど、アンカラ考古学博物館の展示物のなかには実は欲しいものがある。毎回、見るたびに「まだ売れてない、よかった」とわけのわからない気持ちになる。(売れてなくなるわけはないのだけど・・・)お金で買えるものならどんなに高価でも買いたい・・・(どんなにお金があったとしても、買えるものではないわけだけど)。収集癖って困ったものだと思う。時々これを手に入れて、持っていてどうするんだ・・・と思う。私の場合、商売もしているから、お客さんにいったん見せてしまったものは「売ってもよい」という決意のもの見せる。「売らない」と決めているものは見せないことにしている。売らないものは私以外の目に触れることなく、私だって毎日見るわけでなく、長持ちや戸棚の中にしまわれるわけである。私が死んだら、これらはどうなるのだろう・・・って思わないわけでもない。でも死んだあとのことは知らないもんね。それでも欲しいものを見つけると欲しくて欲しくてたまらない。洋服が欲しいとか、クルマが欲しいとか、宝石が欲しいとか・・・て全く思わないのだけど、キリム、絨毯、その他手工芸品の骨董は別の話。最近は以前のように、よい骨董も見つからないし、その分欲しいものが見つからないから、欲しい欲しいモードもあまり出てこないのだけど、トプカプ宮殿で見たようなものが世の中に存在し、見ることができることに興奮する。トプカプ宮殿見学で久しぶりに鳥肌が立った・・・ってことを説明するだけでずいぶん長い日記になってしまった。
2006年08月14日
いやいや先日、日本へ休暇にでかけるアドナンと息子を見送りにイスタンブルまで行ってきた。ついでに郊外やアジアサイドの絨毯関係や絨毯無関係の知り合いをまわり、最後にスルタンアフメットに住む日本人女性を訪ねる目的もあって、久しぶりにブルーモスク、アヤソフィア、トプカプ宮殿、地下宮殿と行った歴史的建造物が残る観光の中心地スルタンアフメット地区のホテルに滞在することになった。商売上の話なのでほとんど書くことはなかったけど、イスタンブルへは2~6か月に1度は用事(絨毯関係でない貿易会社としての仕事)で出かける。今年に入って頻繁で、アンタルヤーイスタンブルの飛行機の中じゃ顔見知りのスチュワーデスさんも増えて、いまじゃごく普通にトルコ語でしか話しかけてもらえない・・・・。さてイスタンブルへ行っても、よほどのことがない限り、過去10年、スルタンアフメット地区には泊まったことがない。観光目的ではないし、ホテルは他の地区の同程度のものに比べて高いし、それになんといっても「ハヌッチュ」と呼ばれる絨毯屋の客引きとのやりとりが面倒である。客引きってものが禁止されて、一時期それほどでもなかったりしたようだし、知っている人は知っているから、私に声をかけてくることもほとんどなかったのだけど、今回、久しぶりにスルタンアフメット界隈をぶらぶら歩いたらかなり大変だった。相手にも無駄な時間を過ごさせないように、すぐにトルコ語で返答するし、私相手じゃ商売にならないよ、と言うのだけど、「ユズスズ(図々しい)」の彼らにとっても彼らなりのプライドはあるから、はいそうですか、と戻るわけにはいかないらしく、少なくとも何分かは時間を潰されることになる。普段は、周囲を気にしないし、見ない。誰か知り合いが通っても全く気がつかないミフリ社長であるが、あの界隈を歩いていて、あまりにも客引きに声をかけられたものだから、周囲に少し敏感になってきた。どこかでお茶をしているときなど、彼らの行動が目に止まることもあった。客引きはだいたいいくつかのポイントで観光客が通るのを待っている。目はキョロキョロと止まることなく、観察を続ける。目星をつけたら後ろからついてきて、タイミングを見計らったところで、いったん通りすぎて戻ってくる。そして英語、もしくは日本語で「すみません、ちょっと聞きたいことがあるのだけど・・・」とか「日本人ですか・・・」とか「どこか探しているの」とか「あれがブルーモスクで、今なら見学できるけど、行った?」とか・・・・。とにかく話をするきっかけを作ろうとする。高度になると、本当は狙いをつけて追ってきたにも関わらず、ものすごくさりげない。とくに日本語ペラペラで、経験から日本人気質までつかんでいる人たちは見事である。携帯電話を使用した連携プレーもある。最終的に目的地である絨毯屋に連れていけば任務完了であるから、きっかけやそれまでの過程はそれぞれの工夫がある。具体的に書いてしまうと、商売の邪魔をしていると思われてしまうから、書かないことにする。でも客引きという職業的にはあまり良い印象はないけど、プロ根性というか意識、そしてテクニックもここまでくると立派だと思ったりもする。嫌がられることが多いのであろうが、個人的に思うのは、職業としての行動であるからその人自身まで嫌っては気の毒である。彼らだってお金を稼がなければならないから、必死なのである。それに声をかけられたときに、「ところで○○に行きたいのだけど、どこか知っている?」なんて尋ねると、それはそれは丁寧に案内までしてくれる人も少なくない。こちらが普通に反応している分には嫌な態度や言葉を吐き捨てられることもないし、客にならないと思ったら、その後は無視してくれる。客引きをやっている、もしくはやっていた知り合いが何人かいる。彼らは「ユズスズ」であるが、個人的に話をする分には気のいい若者たちである。商売柄、外国人のガールフレンドはたくさんいるのだが、心の中では「本当は誰かとちゃんと恋愛をしてみたい」とか「時期が来たら普通の仕事をしたい」とか「声をかけて、こんなことを言われて、傷ついている」とか「どうしたらこの生活から抜けられるのだろう」とか密かに思っていたりもする。簡単に日替わりの外国人のガールフレンドができるし、そのために嘘をつくこともいとわないけど、若気のいたりというか、たいていある年齢に達すると落ち着いてきて、そういう生活もバカバカしくなってくるものだと思う。ところで話を元に戻すと、彼らの特徴であるが、なわばり意識が強い。どこからどこまでは俺のなわばりで、この客は俺の客で・・・・という感じ。そのため、他の客引きが連れ歩いていた客には手を出さない・・・・。だからね、逆にいうと客引きが面倒だなあ、と思ったら、誰か特定の人と主なポイントを1時間ほどグルグル歩けばいいのである。あとは自動的に情報が伝わる。その後、見事に他の客引きグループからは声をかけられなくなるものである。なんにせよ、見ず知らずの人に声をかけてくる以上、彼らには何かの目的があるわけだから、用がないのであれば無視するしかない。彼らも無視されるのもわかっているから、気を引くためにわざと怒らせるようなことを言ってみたりもするけど、反応したら思うつぼ。わざわざこちらから嫌な態度や言葉をなげかける必要もないし、なかには稀であろうが、客引きじゃなくて純粋に日本人に興味があって声をかけてくる一般の人もいるはずである。お互い嫌な思いをしない、させない、それにこしたことはないのだと・・・・は思うのだけど・・・・それも難しいな、などと思ったり・・・・。アンタルヤでぼおっと商売していると、この手の話とは無縁であるが、スルタンアフメット界隈で久しぶりに外国人観光客気分を味わったミフリ社長であった・・・・。「客引き編」は終わり、次回「観光編」へ続く。観光編と言っても期待しないでください(誰も期待していないって・・・)。イスタンブルに詳しい人はいくらでもいるのだから、私は個人的なバカ話をさせてもらうだけ・・・。
2006年08月13日
日曜日から木曜日まで4泊5日の出張。地方なんだけど、行き先はトルコで一番の大都会。首都じゃないのに人口が一番多いし、知名度も首都アンカラより高い・・・。隠す必要がないから言うけどイスタンブルである。ここに絨毯屋の用事でくると、スルタンアフメット近辺で済んでしまうので、あまり他の地域にはいかない。でも今回はイスタンブルがいかに都会で、アンタルヤがいかに田舎かと思い知らされた。イスタンブルで何の仕事かは書かないけど、普段村とか田舎にしか用事のないミフリ社長。都会に揉まれて(!?)帰路の飛行機ではぐったりしてしまった。アンタルヤに戻ってみると、やはり故郷(!?)はいい・・・。田舎だけど、でもそれがいいところ。のんびり、ゆったり、青い空と海を見ながら暮らせるもんね・・・・。穴のあいた靴下はいていても、恥ずかしくないもんね・・・・(う~ん、それはどこであろうと恥ずかしい・・・)。都会の一部、外国人相手にスレてしまっている人たち相手に駆け引きありの、都会で高飛車な相手に余計な口を開かせない術とか・・・・。疲れたけど、久しぶりに刺激のある日々であった。
2006年06月10日
今日から5日間の地方出張。現地でお客さまと待ち合わせなので、飛行機で飛んでいく。このごろ暑くてたまらないアンタルヤであるが(我慢できず朝までエアコンつけっぱなし・・・)、北上するから少しは涼しいのかな、なんて期待していると、どうやらトルコ全体が暑いらしい。夜は自由時間があるので、久しぶりに散歩しながら、店でも冷やかしてみるかな、なんて思うのだけど。暇そうな友人を呼び出して、ライトアップされたモスクでも見にいって、アイスクリームでも食うか・・・。というわけで、金曜日までメールの返信などできないかもしれませんが、店はアドナンが開けていますからね。詳細は以下をご覧ください。ミフリ&アクチェ次回は村の伝統的な織物シリーズ(!?)の続きで、簡単な道具スピンドルを使った糸の手紡ぎ。
2006年06月04日
イスタンブルは天気もよく、madamkaseさんのブログの写真通りの青空と新緑とチューリップの花のさまざまな色を楽しんで帰ってきた。用事があったのはスルタンアフメット地区だったけど、そのあとフェリーに乗って、アジアサイドに住む友人と会う約束があったので、カドキョイ方面に行く予定を、サッカーの試合があるので、混むだろうとハレムへ渡った。翌日はスルタンアフメットから空港へ向かったのだけど、これまた天気のよい週末で、4月23日ということもあり、トルコ人の観光客(おのぼりさん)でごったがえしていた。私もれっきとしたおのぼりさんであるから、面倒臭いから乗ってしまえ、と乗ったタクシーに空港へ行くのに、おもいっきり遠回りされるわ、嘘つかれるわ、喧嘩をするのも面倒なので、黙ってだまされてあげたけど、やはりここはイスタンブルのスルタンアフメット。あとでスルタンアフメットに住んでいるトルコ人の友人にグチったら。「ブッフェの隣のタクシーは、タクシー停留所みたいにとまっているけど、流しだよ」と注意された。面倒でも友人を呼び出すか、知り合いのホテルまであと5分歩けばよかったのだけど。帰りの飛行機では気を失ったように寝てしまい、息子に起こしてもらった。しばらくイスタンブルは行かなくていや、って思ったんだけど、やはり田舎者だから都会の空気になれないんだよ。次回からは今まで通りクルマで行く、ぞ、っと。ブルーモスクやアヤソフィアの間の風景は美しかったし、写真を撮るつもりで来たけど、あまりにもの人ごみに何も撮らずに戻ってきたのである。スルタンアフメットには何度も来ているけど、この週末ほど混雑した日は経験したことない。アンタルヤに戻ると、ほっとする。
2006年04月24日
先日のアンカラ日帰りフライトに味をしめて、クルマで予定のイスタンブル出張を飛行機に変えた。行く場所がイスタンブルじゃなかったら、もしくはイスタンブル以外の場所にも寄る予定があれば、クルマでいくことになるのだけど。・・・というか、考えてみたら、日本へ帰国時以外でイスタンブルへは飛行機で行ったことはこの10年間で1回しかない。毎回、クルマでブルサ経由、はたまたコンヤ経由で、長距離ドライブになる。クルマだと、どんなに急いで、ブルサ経由でバンドルマからイエニカプまでフェリーに乗るとしても10時間はかかるし、市内の一方通行も面倒だし、今回はアジアサイドにも行くので、橋渡ることになるのでクルマはかえって邪魔というもの・・・である。荷物も今回は軽く、PC用のカメラとCD、ファイルを1冊だけ。アンカラ同様、日帰りしてもよかったんだけど、作業が何時に終わるかわからないし、せっかくだからアジアサイドに住んでいるトルコ人の友人に会ってから帰ろうと、1泊にした。それにしてもトルコ国内のチケットのインターネットでの購入が簡単、便利になったものである。以前は制限があったり、面倒だった。それが今ではページをあけて、クレジットカードがあれば、簡単に買えるので、トルコ旅行で利用される方もチャレンジしてみたらどうだろう。早めに買うと安いという変でおもしろいシステムが定着してしまっているので、予定が決まったら早めに予約、購入すると得である。今回のイスタンブルフライト。急だったので残念ながら最低価格では買えなかったけど、親子二人分で往復264YTL(約24000円)である。子供料金は大人の7割ぐらいの料金であるが、これってボス、ウルソイ、バランなどのバスの価格とあまり変わらない。これに家から空港までクルマで行き、2日間パーキングに置いておくので、その代金が国内線専用は30YTL(約2730円)。イスタンブルについてからはタクシーで目的の場所へ。合計30000円の費用で済む。クルマで行けばガソリン代だって往復でそれぐらいかかる。運転の疲労や時間を考えたら飛行機はかなりラク。ただ飛行機は便利なんだけど、問題はアンタルヤからの直行便がイスタンブル中心で、他の都市へはトルコ航空で1便アンカラ行き、アトラスだったっけ?イズミル行き、それしかない点。いろいろ便があったら、もっと飛行機使えるんだけどなあ・・・・って、アンタルヤという地方都市に住んでいる難点だね。
2006年04月20日
トルコって以外と温泉が多い。有名どころではブルサだが、実はそれ以外にもいろんなところに温泉地がある。パムッカレの隣村のカラハユットもそのひとつ。カラハユットには地元の人が長期間逗留する安宿もあるけど、パムッカレ観光のさいに団体さんが泊る高級ホテルが連なっている。高級ホテルと言っても所詮観光地の5つ星ホテルなので、一流ホテルというのとは違うが、部屋はきれいだし、ブッフェもそれなり、室内室外プールに温泉がついている。ガイドブックなどを見ると10000~20000円ぐらいの料金になっているが、実際は2食つきでシングル5000円ぐらいで泊れる。ツアー会社を通して1週間ぐらいの滞在だと1泊あたり、2000~3000円ぐらいになるようである。デニズリ方面で定宿にしているのが、このカラハユットにある温泉ホテル。部屋は小さいし、食事もあまりよくないのだが、各部屋に普通のお湯とは別に温泉が引いてあって、浴槽で温泉に入れるというのが気に入っている。今回の旅でもこのホテルを予約したのだが、1日予定がズレ、満室になってしまったため、別の5つ星の温泉ホテルに変更した。初めて泊るホテルであったが、離れ風の部屋で、部屋は広いし、設備は整っているし、静かだしで悪くなかった。ただ部屋のお風呂は普通のお湯だけで、温泉に入りたいと思ったら、屋外にある温泉に水着で入るということになる。部屋にバスローブがついていて、200メートルほど屋外をバスローブ姿で歩いていく。中央が盛り上がっていて、そこから温泉が流れ落ちている。日本人の感覚では下のプール部分のお湯はかなりぬるい。中央の盛り上がっている部分のくぼみに溜まったお湯は十分熱い。トルコ人とかヨーロッパ人とか、あまり熱いお湯には入らないのだろう。でも日本人の温泉のイメージからすると、ちょっと不満。とはいえ、じっくり浸かっていると身体もポカポカ。気候も暑くなく、寒くなく、であるから、ぬるい温泉も気持ちいい。カラハユットの温泉は「赤い湯」と言われていて、赤い成分でお湯がそう見える。水着の白い部分が赤く染まっているのでよくわかる。以前、シバスのカンガルの魚の棲息する温泉に行ったことがある。かなり温いお湯に小さな魚が棲んでいる。お湯に入ると、魚が皮膚に食らいついてくる。私が入ったときは他に誰もいなかったので、浴槽の中の魚全てが私に集中し、最初は気持ちが悪かったのだけど、慣れてくるとくすぐったいような、でも気持ちがよかった。なんでも老化皮膚を食べてくれるそうで、でこぼこしていた部分がきれいになくなった。一部の人は皮膚病がうつるから、よくないとか、皮膚に害があるとかいうけれど、そういう話は抜きにして、もう一度行ってみたいと思っている。ブルサにも高級温泉ホテルが連なるが、温泉保養の人のための安宿もあって、これもおもしろい。部屋とは別に温泉設備が別にあり、しかもかなり個室になっており、大理石の床と壁と大きめの浴槽がある。お湯がじゃんじゃん流れ、人が入るたびに新しいお湯に変える。土日になると外部から温泉だけに入りにくる人も多く、順番待ちをする。キュタフィヤやアフィヨンにも温泉ホテルがあり、出張で泊るところがなければ、町中からちょっと足をのばす。温泉ホテルと言っても星がついていても日本円で4000円から5000円で朝夕食つきで泊れるので、ビジネスホテルに泊るのと変わらなかったりする。これらはまだ知られているところだが、マイナーなところを挙げたらキリがない。ただこれらの温泉地への交通というのが、クルマがないと行けなかったり、足の不便なところが多い。温泉が沸いているようなところって、たいていそんな場所なんだからなんだろうけど。いやいや温泉と聞いて、心が逸るのはやはり日本人だから・・・なんだろうか。
2006年04月15日
普段の出張は観光旅行ではないので、とにかく時間を惜しんで食べ物を腹におさめ、ホテルも睡眠をとるためのみ・・・って感じなんだけど、今回は観光旅行である。まずコンヤではひき肉にチーズと溶かしバターのメブラーナピデ(この名称は使えなくなったらしいけど)、ひき肉のピデであるエトゥリエキメッキ(コンヤでは肉入りパンと呼ぶ)、フルンケバブ、特性のこってりしたヨーグルトなどなどを、毎回苦しくって動けなくなるほど食べた。保守的なコンヤでは市内のレストランではアルコールがないが、泊ったホテルで、食後にお酒タイム。バーではピアノがあったので、私が20年ぶりに迷演奏。カッパドキアではアワノスで隠れ家的なレストランへ行った。場所も民家の細い路地にあり、わかりにくい。しかし中はお客でいっぱいであった。ここでもワインと、この地の名物料理壺焼きケバブなどなど。お供は赤ワイン。夕食はホテルのブッフェであったが、もちろんワインも忘れない。カッパドキアのウルギュップにはワイナリーがあり、トルコでのワインの産地のひとつである。エイリディルでは湖畔のホテルで白ワインとともに魚料理の夕べ。パムッカレではカラハユットの温泉ホテルがブッフェの夕食付きであったが、運がよいことに、土曜の晩で、ショー付きの夕食が外部からのお客さん向けに開催される日で、私たちもそこのディナーショーに料金の変更なしで、紛れ込んでいいことになった。ネイの演奏からはじまって、フォークロア、歌、古楽器の演奏など、最後はベリーダンサーによるオリエンタルダンス。ホテルのショーにしてはダンサーがよかった。身体が柔らかく、腰のくねりが一流であった。しかも若くてかわいい外国人。魚と牛と鳥のメイン料理。赤ワイン。アンタルヤへ戻ってからは、市内から1時間ほどの村のレストランで七面鳥の料理と赤ワイン。カステラに似た「ガステラ?」という手作りパンと、家庭で作ったオリーブとオリーブオイル。村のオリーブが、スーパーで売っているものよりおいしいのは、時間をかけて熟成させてるから。甘みも自然のもの。お客は予約した私たちだけで、田舎の空気を吸いながら、こちらも隠れ家的。最後の晩はカレイチのトルコ料理レストランで魚づくしと白ワイン。こうやって書いていると、まるで私が酒飲みみたいなんだけど、実はミフリ社長はビールがコップ半分が限度。1本飲んだ日には驚かれる。ワインは口をつける程度に注いでもらうだけで、ほとんど飲まない。旅の仲間にいくら飲んでも酔わない酒豪が1人と、お酒が嫌いじゃない人が1人。アドナンも運転しない夜は軽く飲むが、翌日のことを考えて旅行中は控えめ。飲む人が2人以上いれば、飲む席も増えるということで、ワインもグラスではなく1ビンのオーダーになる。今回はホテルの朝食とコンヤでの食事を別にしてワインのある食事風景が続いた。
2006年04月12日
アンタルヤ発カッパドキアからパムッカレ、世界遺産を訪ねる!?6晩7日の旅から戻ってきた。途中、あと何日あるのか・・・などと数えてしまったりもしたが、終わってみたらあっという間。あと1週間ぐらいは平気かなあ、などと思ってみたものの、我が家に帰ってみると、やはりアンタルヤが、自分の家が一番だなあと・・・・。今回の旅行で初っ端に驚かされたのが、入場料などの一律価格。いままでは表示されている価格は外国人旅行者用で、その下に小さく書かれた「値引き価格」というのが実はトルコ人価格であった。例えばペルゲの遺跡の入場料。外国人が10YTLなら、トルコ人は3YTL。そのため、今回のような外国人、トルコ人、トルコに住んでいる外国人混載グループの場合、窓口でそれを説明するのが常であったが、初日に立ち寄ったペルゲの顔なじみのチケット売り場のおっちゃんが言った。「4月1日から変わったんだよ。トルコ人も外国人も一律に10YTL」なるほどアンタルヤの博物館や遺跡などの入場料のリストが張ってあった。カッパドキアやパムッカレでも同様で、旅行で来るぐらいのトルコ人には、ちっとも負担な金額じゃないのだろうけど、いきなり、みんな外国人価格に引き上げかあ・・・である。一律料金にするのは賛成であるが、旧トルコ人価格に引き下げるっていうのは考えられなかったのだろうか・・・などと思いながら、アンタルヤへ戻ってきた。最後はアンタルヤの博物館へ行ったのであるが、ここでさらに発見。トルコ人価格の引き上げへのひとつの対応としてなのか、毎月第1月曜日に「トルコ国民に限って無料開放の日」というのができたそうだ。本来月曜日は休館日である。第1週のみトルコ国籍を所有する人は無料で見学ができるのである。どこかでそういう措置をとらないと、トルコ国内のことなのに、価格的にトルコ人が見学し辛くなってしまうっていうのはおかしいもんね。二重価格っていうのは外国人の立場としては、金額の差が大きかっただけに、とれるところからとってやろう的なイメージがあって、なんとなく不愉快なものだったけど、それがなくなってみると、文化的なことなのに、トルコ人に負担の大きい均一価格もなんだかなあ・・・・って思ってしまった。でもそれだけトルコという国が経済的にも成長・安定しているってことだなんだろうけど。旅は各地で買い物三昧、おいしいもの食三昧、ワイン三昧、花三昧、そのほかのキーワードも温泉、湖の辺、ベリーダンスの夕べ、気球、セマー・・・・・と盛りだくさんであった。ホテルも地方出張に泊るところに比べたら、一段ランク上のホテルでしかも格安で快適に泊れたし、高いと思って敬遠していたホテルも会社名を使って7部屋の予約ともなると、団体価格になるってこともわかった。とくにトラブルもなく、無事にアンタルヤへ戻れたことにも感謝。まだしばらく忙しいので、旅行のことを報告するという約束はしないけど、思い出したときに小出しにしたいと思う。
2006年04月10日
アンタルヤを挟んで、地図上でいえば右と左に日本人に有名な観光地が2か所。同じ方面にあれば観光も簡単なんだけど、どういうわけか反対の場所にある。カッパドキアとパムッカレ。というわけでこの2か所を含む計4か所を訪ねる旅をしてきます。日本からのお客人がいるからこその訪問先なんだけど、実はミフリ社長はカッパドキアは3年ぶり。パムッカレは1年ぶりぐらい。密かに楽しみにしているのである。楽しみにしているのは、私だけじゃない・・・・緊張しつつもはしゃいでる人がいる。普段はガイドブックに載っていないような辺鄙なルートばかり行っているけど、それは仕事だからであって、有名観光地が嫌いってわけじゃない。全行程6泊7日、クルマで移動。ホテルも星つき。もちろんバスタブつき。予約も完了。直前の確認も完了。各地の有名料理とワインの夕べ。セマーの鑑賞。湖のほとりで魚料理。そして温泉。うふふ・・・思いっきり観光客になれる旅なんて、本当に久しぶりである。・・・といいつつ、途中仕事もあるんだけど・・・・。
2006年04月02日
出張先は内陸部で、寒いかもしれない・・・という予測のもの、冬服を用意していったけど、結果、それで助かった。アンタルヤを出るときは快晴で、しかも暖かい。地中海沿いを移動する車中も暑く、セーターを着てきたことを後悔するほどであった。ところが山間部に入り、標高が高いから当然気温が下がるのは覚悟していたが、予想以上に低いし、雨が降り始めた。周囲はこの冬に積もった雪が残り、その上にさらに3、4日前に降ったばかりの新雪が重なっている。目的の都市に下りると、上空は雲に覆われ、しかも寒い。寒さがそこから冷えてくる寒さである。幸いホテルは目の前で、歩いて移動する距離は短いので、寒いなか、歩きまわらなければならない事情はなかったが、セーターを着て、コートを着て、室内では暖房のそばにみんなでかたまった。アンタルヤがどんなに天気が悪く、寒いといっても、ここまでの寒さはもうない。久しぶりに冬の寒さを体験することになった。・・・・このころ、アンタルヤも天気が悪く、寒いよ~と友人からの電話で知ったが、山を越えて戻るころにはアンタルヤの青空も見えることだろう、と思いを馳せる。住んでいるとわからないけど、離れてみるとわかること。アドナンもよく口にするけど「アンタルヤのような場所は他にはない」のである。アンタルヤの住人になって10年が過ぎるが、トルコ人同様、自然と地元ひいきになるものである。私の中にアンタルヤへの恋慕はある。そして母国を離れてみて、初めて日本へも同じ思いを抱いている。3日間の出張で、かなりハードなスケジュールをこなしてきて、予定の作業はなんとか終わった。夜も食事が終わってホテルに入れたのが両日とも9時過ぎ。ヘトヘトの体に食べ物を詰め込んで、ホテルでシャワーを浴びるのも面倒なほど、みなが疲れていたけど、その分、充実と満足を味わったことになる。それにしてもこの都市の食事もうまい。高級レストランで食べているわけではないけど、いくところはいつもおいしい。同じメニューを食べてもあきない。帰りは山間部では昨夜降った雪がうっすらと積もり、またまた景色が変わっていた。路面も濡れていて、3月中旬でも深夜の移動は危険であるということ。そして地中海側に抜けたとたん、天気が一転。暖かさと青空。目の前には地中海。この見慣れた風景を見たとたん、ほっとするのである。作業もあと少し・・・・。
2006年03月20日
4日間の出張から帰ってきた。北からの寒波で雪天気が心配されるなか、天気予報とルートと時間帯を考えながらクルマを走らせた。おかげで雪で足止めをくうこともなく、それどころか快晴と初めて通った山越えルートで思いがけなく楽しいドライブになった。20日から行く予定の各地で雪が降るかも・・・という予報。出発したのは19日の早朝。アンタルヤは温かかった。しかしアンタルヤからフェティエ方面への山越えで、霧と吹雪。最初は雨だったのが、標高が上がるにつれて雪に変わり、道路に積もりはしないこそ、横殴り。おまけに霧で前5mがやっと見える程度で、フェティエまで通いなれている道だから恐怖は感じなかったけど、ゆっくり運転。緊張して目と肩の筋肉が疲れた。19日と20日はそれぞれエーゲ海方面の小さな町で滞在。天気は青空。風が吹いて寒かったけど、雨もなくて、ラクした。21日は問題の山奥へ。エーゲ海地方だが、標高が1500mほどの山頂まで上がり、そこから反対方面に下りるルート。短い距離を急勾配で一気にあがるのである。冬は積雪や凍結で、軍隊がゲートで場合によっては通行止めで引き返さなければならないと覚悟していたが、天気もよいので問題ないだろうとすすむ。道には何もなく、反対車線からクルマも来る。山頂には雪が積もっており、ここはスキー場でもある。山頂からの景色は素晴らしく、ついクルマを停めて記念撮影。反対側のくだりにはまだ雪が残っており、日陰のカーブでは滑らないよう気をつける。でも道としてはそれほど心配するほどのことはなく、ただ初めて通るルートなので道の様子がわからないということだけ。日中に移動してよかった。もし夜だったら凍結も怖いし、何より村も山頂の村ぐらいしかないので、真っ暗。ガソリン切らした日には動きがとれない。そして22日の今日は曇り空。しかも雪の多い地方に宿泊したので、雪が降らないうちにアンタルヤへ帰ろうと、お昼には出発した。途中に1か所。雪だろうと心配される山越えがあるが、知り合いに電話をして雪がないのを確認。でも雲行きがあやしく、いつ雨になり、それが雪に変わるかわからない。途中、山越えでは霧にたたられた。19日の霧より濃く、山頂付近では全く前が見えなかった。来るクルマのライトも、いるはずの前を走るクルマのテールライトも見えない。山を下って晴れて、肩の力を抜くことができた。そうして途中、食事休憩1回以外はノンストップで3時半にはアンタルヤの家に戻れた。今回は目的地では用事を駆け足ですませただけで、全体としては天気に恵まれたけど、なんだか帰路の霧の道で緊張して疲れたみたい。でも積もる雪に悩まされることもなく、チェーンを巻くこともなく、移動できたので、その幸運には感謝している。今回の収穫は、村民バザールで集めた古い手芸品。こんなところでこんなものを見つけていいのか!? ってものを見つけましたよ。それはまた次回。追記:今回4人での旅。一人お酒が飲める人がいると、夜は毎晩酒を飲むことになる・・というのが出張の常。酒飲みが3、4人も集まった日には(以前、そんなこともあったなあ、と振り返る)毎晩宴会で、飲めない私はつきあうけど、翌日がとても辛くなる。Aくんも相手がいれば飲む。今回はお酒の強いRちゃんがいたので3晩とも酒入り。私は初日だけ1本おつきあい。2晩目はAくんとRちゃんだけ飲んで私はチャイをおかわり。3晩目は私はさっさとホテルの部屋へ戻り、二人は地元の友人とバーへ飲みに行ったようだ。酒に弱いっていうのはつまらない・・・。
2006年01月22日
さてさて、私たちは無事、Cさんをアンタルヤ空港で拾えたのか・・・・。もちろんです。そしてそのままCさんを乗せて、クルマは海岸線を東に、さらに山越えをし、目的地の都市へ到着することができた。山越えはちょうど夜の7時から9時ごろであった。すれ違うクルマもほとんどなく、道はすいていて快適ドライブ。全てが順調であった。普段なら、ダラダラと休憩したりしているせいもあるが、6時間ぐらいかかる道である。しかし快適すぎて1時間の食事休憩をいれても4時間半で着いてしまった。空にはまんまるお月様。電灯のない山越えである。なのに、やけに空が明るい。お月様の光で周りの景色が浮かび上がっているのである。道もよく見える。「みてごらん、満月かなあ・・・」などと、言いながら、月夜の道をひたすら走る。帰ってきてみたら、「十五夜」「中秋の名月」をテーマにかかれている日記があるのを見て、そうだったのか・・・と納得したわけである。本当にきれいなお月さまであった。普段は真っ暗な空に鳥肌が立つほどの満点の星。真上にかかるミルキーウェィを観ながらの山越えドライブはいつものこと。今回のような月夜の山越えドライブもいい感じ。これが出張でなくて、相手が仕事仲間じゃなければ、もっとロマンティックなんだろうけど・・・。月の光をいっぱい浴びて、昨日からの疲れも癒された・・・・かな。
2005年09月19日
本当なら早朝に地方に向けてクルマを走らせているところなのだが、午後を過ぎてもまだアンタルヤを出発できないでいる。というのも、昨晩、日本から来るCさんの乗ったルフトハンザの飛行機がイスタンブルに数時間遅れて到着し、乗り換えのトルコ航空国内線最終便に間に合わなかったためである。私たちはアンタルヤの空港にCさんを迎えに行くために、深夜1時15分着の飛行機に間に合うよう家を出るため待機していた。そこへ電話が・・・・。「実は国際線の飛行機が遅れて、国内線に乗れなかったのです。朝一番の飛行機もチケットがとれるかどうかわからないようです・・・」Cさんである。時間を見ると、国内線はイスタンブルを飛び立っているし、じゃあ早朝の飛行機に振り替えてもらって、そのまま空港から拾って地方へ直接出かけましょう・・・と予定を変更。その晩のアンタルヤのホテルをキャンセルし、私はとりあえず横になった。朝までの間に何度かCさんから電話があったが、かなり苦労したようである。ルフトハンザはイスタンブルまで着けば、あとは知らない。トルコ航空も私たちには関係ない。チケットの買いなおし、それから予約してお金を払ってある分のチケットを払い戻ししろ、ということであったが、提携していない航空会社同士のトランジットなので、出発後の払い戻しはできるのだろうか・・・・。私はそれらの事情を聞いて、明日の朝、チケット会社に行って交渉だ・・・と心を決める。帰国への国内線の変更、ホテルの予約変更、地方でお世話になる人たちへの事情説明と予定変更、日がズレこんで日曜日になるため、休日出勤のお願いなどもしなくてはならない。飛行機が遅れたせいで面倒なことになってしまったけど、一番大変なのはCさん本人であろう。昨夜は疲れた身体で空港で夜明かしをしたのだろうか・・・。アンタルヤに着くまでに気疲れ、身体疲れしてはいないだろうか・・・・(・・・当然疲れているのだろうけど。時差と疲れとの戦いはよく理解できるだけに自分のことのように感じてしまう)。朝の7時過ぎ、Cさんから電話。トルコ航空の早朝7時45分の席の空きを待ったが、結局、席がなく、別の飛行機会社アトラス航空の午後3時50分のチケットをとったと。私もトルコ航空、アトラスなどのサイトから空席状況を見たが、たしかに満席。週末のアンタルヤ行きだもの、当然なんだけど。アトラスで午後に席がとれただけでも奇跡である。アンタルヤ到着が午後5時。その時間に合わせて彼女をアンタルヤ空港へ迎えにいくことになった。その時間までチケット会社へ行き、ホテルへ連絡をいれ、地方の知り合いに連絡を入れて、ちょっと強行だけど計画の立て直しをした。それで乗れなかった国内線の結果だけを言うと、払い戻しは不可であった。チケット会社は親しくしているところで、朝顔をだすなり、「あなたのお友達、乗れなかったようね。チケットも残念だけど無効になっちゃったわ」と言われた。ここで交渉をしたが、返事は予想通りで、返金はできないとのこと・・・・。現場でのルフトハンザとの交渉次第では、提携している飛行機会社があれば、アンタルヤ行きのチケットはなんとかしてくれたか、もしくは出発前であれば、キャンセルという形でキャンセル料をいくらかとられるにしても払い戻しはできるのだが、まあ、今回は残念でしたの結果になった。トルコ航空でのトランジットなら、以前も他の友人が体験しているが、遅れた場合でもイスタンブルでホテルをとってくれて、チケットも無料で振り替えてくれるのだけど、他会社同士では上記のようなリスクもあるってこと。じゃあ、トルコに来てから国内線チケットを買えばいいじゃないか・・・って思うけど、確かに時間があるとき、日程が変更になっても差し支えないときは私もそうする。でも朝チケット予約しにいって、空がなく、夕方とか暗くなってからの便しかとれないのがいままでの経験。それまで子連れで時間つぶしも辛い。それでもあと数時間後には彼女がアンタルヤに到着する予定である。そのままクルマで地方出張へ出る。約6時間の距離であるから、ホテルに入れるのは深夜になる。用事は明日の朝に持ち越した。十分大変な目に遭ったので、今後の旅程はスムーズに、楽しく進むことを神頼みする。
2005年09月17日
その町までクルマで5時間、そこから村へは1時間。未舗装路を土ぼこリを撒き散らしながら、山を上っていく。村というより、集落がいくつかあるだけ。マーケットもなにもない。1本道を間違えたら迷路のようで、一番近い幹線道路まで戻るのが大変。見渡す限り山々、360度、山波が続いている。そこへキリムを織る女性たちに会いに行った。今年はまだキリム織りが始まったばかりで、限られた人しか織り始めていなかった。この村では農業と牧畜で生計を立てている。夏は畑が忙しく、女性たちはキリムを織らない。農閑期になると、男性は家にこもり、女性たちも家でキリム織りの内職をはじめる。工賃の安いキリム織りは、現金収入が得られない時期に、ほかに収入手段がない女性たちに限って行われる。もっとよい仕事が見つかるなら、父親や夫が工場で働くことを許してくれるなら、キリムなど織らない生活がしたい・・・というのが本音であろう。同じ道を1時間かけ、ふもとの町まで戻る。それから定宿にしているホテルへ行くと・・・・なんと満室。いままで一度もこんなことはなかったので、予約をしておくなんて頭がなかったわけであるが、他のホテルでもいいや、と何軒があたった。ところがどこへ行っても、町で一番高くて誰も泊まりそうもないところでも満室・・・・。いったいこの町に何があるのだ・・・。どうやら商工会議所関係の集会があるようで、トルコの各地から商人、会社関係者たちが集まっていたよう。・・・・それはいいけど、困ったのは私たちである。地元の友人がうちに泊まっていけ、と言ってくれるのだが、同行者もあるし、疲れていたのでホテルでダラ~ッと過ごしたいと思っていた。どうしても見つからなかったら、友人宅に行くことにして、ホテルを探した。同行の4人の学生さんたちには本人たちの希望でとにかく安いところ・・・・と1人5リラ(約420円)のホテルで部屋を見つけた。が私とアドナンの分がない・・・・。小さな地方都市なので、ホテルの数にも限りがあった。どうしても見つからず、8キロ先の幹線道路にあるモーテル形式のホテルがあったのを思い出して、電話番号案内で聞くが登録がなく、ホテルのある場所まで出かけていった。シングルが1部屋、ツインが1部屋あるというので、迷わずチェックイン。そのあと来たお客さんには満室です。の返事。ギリギリ宿無しにならずにすんだわけである。よほどのことがない限り、どのホテルも満室。なんてことはないのだけど、今回の教訓。チェックインは早めに。もしくは予約しておくこと。・・・・なんだか、当たり前のことなんだけど、普段気にもしないこと。翌日は村民バザールの日だったので、学生さん4人と見に行って、オヤつきのスカーフを買ったり、バザールで買った野菜やフルーツを焼き鳥屋(?)さんに持ち込んで、お皿に切って盛り付けてもらい、屋外のテーブルでピクニックもどきをしたり、スーパーにお土産を探しにいったりした。もちろん町なかでキリムを織っている女性にも会いにいき、ついでにこの地方独特の織り方を、学生さんたちに覚えてもらった。左右の手の使い方を覚えると、キリム織りがかなりラクになる。コツをつかむまで分からなかっただろう、私が言う「軽快なキリム織り」の意味が少しわかってもらえたかな・・・・って。これでアイシェのところに戻って、自分たちのキリムを完成させるのに、早く軽快に織るための役に立ってくれるといいのだけれど。夜は道がすいていたので、飛ばして飛ばして予定より1時間半ばかり早く村のアイシェの家に戻った。実は今日、娘のブルジュがアンタルヤの病院で耳の手術をした。入院はせず帰宅してベットで横になっていたが、手術が長引き、母親であるアイシェもブルジュ本人も疲れ果てていた。しかも朝7時に家を出て、夜の7時に家に帰ってきたところだという。娘の手術の心配で泣いてしまったというアイシェは、学生さんたちが戻ると笑顔になって、疲れているだろうに、夕食の準備をしはじめた。チキンのスープ、いんげんのトマト煮、トマトやビベルのピラフ詰め、ジャジュク。私とアドナンは、ブルチュと学生さんたちがそれぞれ食卓についたのを確認して、アンタルヤへ戻った。アイシェは私たちが一緒に食事をしないと知り、猛烈に怒った。「食わないと帰さない。食事をしないで帰るなんてできると思っているの!?」そりゃ私にとっても、アイシェの作る村の家庭料理を目の前に、空腹をかかえ、立ち去るのは至難の業。でもレンタカーの返却の都合があるんだもん。仕方がないんだよお・・・・。明日までトマトのドルマ(私の好物)は残ってないよなあ・・・・って。
2005年09月08日
コレがイーネ「オヤ」の縁飾りがついた古いスカーフです。目的地はエーゲ海に近い地方都市。日差しが強くなる前に出発しようと、朝の7時にクルマに乗り込んだ。コルクテリというアンタルヤの避暑地を通り抜け、高原を走る。夏なので羊・ヤギの遊牧がこの辺りに移動していて、ほかのシーズンに比べてかなりの数の群を見ることができた。白、グレー、茶色、ベージュ、茶グレーの毛に目が行く。羊やヤギを見て、毛糸になった状態を連想してしまう。ナチュラルの染めなし糸の群だ・・・・って見てしまう。ほとんど病気である。地方都市に早めについて、食事をしてからホテルを探した。村民バザールの場所も確認して、ちょうどその前におそらくこの辺りでは一番か2番目にいいだろうホテルである。・・・といってもかなり汚いし、私はなんとか我慢するけど、外国人は嫌がるだろうな、という感じ。これが観光地なら安宿でも設備が足りないだけで、ある程度清潔であるので、そんなに気にならないものだけど・・・。観光地として知られていない地方都市の場合、ホテルはこんなものである。翌日、早朝バザールに出てみる。以前は別の場所にオヤパザールとして専門に市が立ったものだけど、古いオヤが少なくなって、規模も小さくなり、食料品バザールの一角に並んでいる。モノがないのはわかっているから、期待はしなかったけど、本当に期待しないでよかったというのが実情。エーゲ海地方のバザールに売り出されるオヤを売る大問屋のおじさんがいて、そこで新しいオヤをいくつか選んだ。あとはおばちゃんたちが持ち込んでいるオヤを見た。知り合いのおばちゃんたちもいる。ときどき家にあるオヤを持ち出して、バスに乗って店まで売りにきたりする。あたりはずれがあるけど、続けて持ってきてくれるから、買い続けてあげることで持ってき続けてもらう。黙っていても仕入れに来たことがわかると、店を出さない村から出てきたおばちゃんたちが自分からやってきて「こんなのがあるけど・・」と袋から取り出してみせる。イーネオヤであるが、私たちが求めているものではないので、買えるものがなかったのが残念である。そのなかでいくつか見つけ、おばちゃんと交渉。これがなかなか一筋縄でいかない。普通の商人相手の方がいかにラクか・・・・。強気のおばちゃん、1リラでも高く売りたいおばちゃんと、1リラでも安く買いたい私たちと、駆け引きの会話も面倒だけど楽しい・・!?・・・・ここでは思ったほどの収穫がなかったので、イズミール県の村のバザールがあるとの情報へ、急遽そちらへ向かうことに。ここはフェルトの工房で有名なところで、バザールには外国人も少ないけど遊びに来る。市は野菜やフルーツ、洋服など地元の人向けであり、そのなかで村人の伝統的な衣装やオヤなども出ることがある。買い手は観光客ではなく、あくまで地元のトルコ人向け。そんななかに掘り出しものがあったりする。ここでは民族衣装にシャツを見つけた。古いシルク混のものも2枚。価格も街中の骨董屋などで聞く価格を考えたらただ同然である。さてこの近くのもうひとつの村のバザールは別の曜日に開かれる。こちらは村人が持ち込む手工芸品がメインで、収穫はそれなりにありそうだが、その日まで待てないし、都合がつかないのであきらめてイズミール方面に抜ける。そこからなぜかバルクケシールを通り、ここまできたらブルサもよろうということになって、まあいいやとそのまま続行。予定外のブルサ行き。暗くなってからブルサに着き、定宿に泊まる。翌日の午後までブルサの知り合いをまわり、そこからはいつもの通りにアンタルヤへ戻る。収穫が少なく、クルマの荷台には大きなポリ袋がたったの3つという結果になったが、その事実を知ることも村々を訪問する意味なのだから、それはそれで構わない。次の予定がなったら、そこからコンヤに向かってもいいな、と思いながら、寒いぐらいの高原地帯を通り抜け、アンタルヤへ。山を下ったとたん、夜中なのに窓をあけるとむわっとした空気がクルマの中に入ってくる。23時半に家に着く。と、日本から戻ってきていた夫が待っていた。
2005年08月25日
某地方都市の中心地に布関係の問屋が集まっているビルがある。Sさん夫妻の探し求めているものがあるかもしれないと、そこを尋ねた。古いタイプの螺旋通路の建物で、そこが小さな店に区切られて8階まである。この地方で有名な生成りの布、テーブルクロス、クションカバー、ハマムのチェックの腰巻布、カーテン、レース、タオル、シルク製品、なんでも揃うし、こんなものもあったのか・・・と初めて目にするものも少なくない。さすが、地元だけに価格も安かった。小売もするが、ある程度まとまれば卸価格になる。同じものがアンタルヤの小売店でも売られているが、ここで買えば約半額。カーテンなど数がまとまるものはずいぶんトクになる計算である。・・・というわけでS夫妻と私の目の色が変わっていく。完全なショッピングモードである。しかも布関係は、キリム・絨毯と違い単価が安いものなので、山のように買ってもしれている。それは楽しい時間となった・・・・・。ところで、ショッピングモードに入る前に、一度何があるのか全店を下見することにした。8階までエレベーターで上り、螺旋通路を地下階まで下った。そのときになぜかほとんどの店が閉まっている。開いている店も留守番の女性がいるだけで、値段を聞いても「今、店主がいないからわからない・・・」という返事である。このビル内にある店は約80店舗。いったい店主たちはどこへ消えたのか・・・・。アンタルヤにいるとすっかり忘れてしまうけど、ちょうどイスラムの昼のお祈りの時間であったのだ。店主たちはみな、近くにあるモスクに出かけてしまっていて、留守であったのだ。この都市は保守的な人が多いことでも知られている。お祈りの時間になると、いっせいに男たちはモスクへと消えてしまうのである。ギリシャ領でお昼寝の時間がある。その時間になると店が閉まり、店主、店員たちは消えてしまう。シエスタである。観光客はその時間が終わるのをジッと待つしかないわけであるが、なんだかそれによく似た状況になった。しかし、地方都市でこれだけの店舗があるビル内で、かなりの確率で(ざっと見たところ95パーセントの人が)モスクに祈りに行くなんて、最近では見たことがなかったので、ちょっと驚いた。本当にアンタルヤにいると忘れる。でもなんだかイメージの中のトルコっぽくって、ちょっと感動。
2005年06月06日
実は先日のボドルムからの帰り道、クルマの事故に遭いそうになった。アドナンと中華屋のオーナーのペリン、私と夫と息子。私は後部座席で半分寝ていた。助手席にいたペリンの「あーぶつかる~!」という声で目を開けると、わが社のFIATパリオくんの直前を1台のクルマが横切った。アドナンがすばやく反応してブレーキをかけたのと、相手のクルマのスピードがかなり速かったので、そのままぶつからずに通り過ぎたけど、私もパリオくん、絶対絶命!って思った。私たちが青信号でロータリーを直進しているときに、左で1台クルマが赤信号で停まっていた。その後部から信号無視のクルマが飛び出してきたのであった。・・・というわけで、恐怖の一瞬を体験したものの、何事もなくアンタルヤまで帰ったのであったが・・・・。さて今回の出張の帰り道。ブルサから一気にアンタルヤまで戻ることになり、昼過ぎに出たので、アンタルヤまで急いでも0時までに着くかどうか・・・という時間であった。夜の10時ごろ、幅の広い道を走っていた。このあたりは山の中で外灯がなく、真っ暗である。左から道路を横切ろうとする黒のクルマが無灯火のまま飛び出してきた。クルマのガラスに私たちのクルマのライトが反射して、ようやくクルマの存在を確認できた。ブレーキをかけたが、クルマがそのまま停まらずに前を横切ろうとし、ああ、ぶつかる!と思ったところで、そのクルマが停まったので、鼻先スレスレでぶつからずにすんだ。絶対飲酒運転である。警察に報告するために、相手のクルマのナンバーを読もうとしたが、相手もライトを消したり、前にも後ろにもすすまず、私たちのクルマの真横を走る。こちらが停まると相手も停まる。ナンバーを読ませないためにそれはそれは・・・・。面倒になったので、そのままその場を立ち去った。無事であったころを喜ぼうとアドナンと話していたところ。目の前に今度は白い大きな犬が飛び出した。ああ、ついに犬をひくのか・・・と、犬の命とクルマへの損害を考えてしまうほど、危険な距離であった。なんとかぶつからずにすんだが、なんと犬はクルマを怖がる様子もなく、急ブレーキをかけた私たちのクルマに向かってくるのである。そして眉毛のある顔をこちらに向けて「ニヤっ」とまるで人間のように笑って、そのまま姿が見えなくなってしまった。外灯もない、真っ暗な寂しい道でのことである。今見たのは、本当の犬なのか、なんなのか・・・・。アドナンがブレーキをかけた以上、犬の存在を確認したことであるが、私たちは声も出せないまま、5分ほどクルマを走らせた。先に口に出したのは私で、「言ってもいいかなあ・・・・・あの、さっきの犬・・・笑っていた・・・・」バカバカしく思いながら、言うと、アドナンも「うん、笑っていた・・・」同じことを言おうと思ったけど、犬が笑ったなんて言ったら、私にバカにされると思い、口に出せないでいたという。実は出張の2日目に日中。前を走るクルマの荷台が開いていて、そこから鉄の棒のようなものが転がり落ちた。幸い、棒だったのでクルマで踏みつけて通りすぎたが、それが踏めないような大きなもの、もしくは厚みのあるものであったら・・・と思うと身の毛がよだつ。近くにいたパトカーに通報して、捕まえてもらったが、この出張中に事故になりそうな出来事が3件も続いたわけである。しかも最後は犬。笑う犬・・・。アンタルヤに戻ってから、ハムディおじちゃん、ペリン、会う人、会う人に犬の話をしたが、誰も信じてくれない。犬が笑った意味を知りたかったのであるが、誰も信じないので回答が得られないのである。唯一ハムディおじちゃんが「それは精霊が犬に乗り移ったものだ」という。つながれたままの犬に、精霊が降りて、夜中に散歩に出るという話はよくあるらしい。さらにハムディおじちゃんが言うには、人間の形をしていた場合、足元を見ろ、と。悪意のある精霊の場合、足がつま先が後ろ向きについているそうだ。精霊、トルコではジンと呼ぶが、ジンに関して話をすると話題がつきない。私は何も信じないのであるが、なぜかその手のものによく遭遇する。現在の店に引越しする前に店にも、ジンが住んでいて、私だけでなく、他の人にもよく目撃されていた。ハードスケジュールのなかで、さらにイスタンブルまでの6日間の出張で、しかも長距離走行、ついに頭がおかしくなったか・・・と思われても仕方がない。でも犬は私たちに向かって笑ったのである。
2005年06月03日
今回の旅のスタートはアンタルヤ。アンタルヤから高原地帯にクルマを走らせる。暑くなり始めたアンタルヤ市内に比べたら、涼しくさわやかな高原の空気。カラコユンル系の遊牧民のテントがあったので、停まってテントから出てきた母娘に挨拶。母親が私と日本からきたS夫妻を指して、アドナンに訪ねている。「外国人かい? 両親と、アレが娘か・・・」アドナンが笑っている。・・・!? 私は「誰が娘だって!?」と聞きかえす。「だからあんたが母親で彼女が娘・・・」。S夫妻は50代である。しかし日本人の私でさえ、年齢を聞くまで私より年下、つまり30代後半だと信じていた。それぐらい見た目にも話題も若く、しかも無理がないのである。53歳のS夫が父親で、一応「まだ」42歳の私が母親で、50歳のS妻が娘・・・・。遊牧民の母娘にそう思われたわけであるが、まあ、当然と言えば当然である。母親に言わせるとS妻は25歳ぐらいだと。私が彼らの本当の歳を告げると驚き、「信じられないよ。私も50歳なんだよ」という。さらに私に歳を聞くので42歳よ、というと、「あんたが年寄りなのが明らかだ」という返事なので、それでまたウケてしまっって、私の笑いもとまらない。予告。この旅でまた同じようなことを尋ねられるに違いない・・・・。今回は私が母親でS夫が父親でS妻が娘ですんだけど、私が母親でS夫妻が娘夫婦だとでも思われたらなんて返事をしよう・・・・・。それより行く先々のトルコ人相手にまずは年齢あてクイズだな・・・・と。
2005年06月03日
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