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「Dream Live 2006」2006年2月2日、出演は、呉汝俊(ウー・ルーチン)/倖田來未/小柳ゆき/ピーボ・ブライソン阪急三番街オリジナルライブに抽選で当たって、汗をかきながら猛ダッシュで仕事場から梅田芸術劇場 シアター・ドラマシティへ。100分が予定だったコンサートは、ゆうに120分を越えていた。4回公演のラストステージ。ピーボ・ブライソンが牽引して出演者一同が何度も手をつなぎ、観客に挨拶する。「 WHOLE NEW WORLD」「BEAUTY AND THE BEAST」ディズニー映画で日本にも名を轟かせたピーボは、全くもって観客を喜ばせるエンタテイナーだ。R&B、口説きのソウル、シルキーな声、彼を評する全ての形容詞を生で聞く。デュエットする小柳ゆき、が緊張している。彼との最後のステージに、倖田來未が泣き出していた。別所哲也が司会するイベント。派手なエンジのスーツがしっくり似合う。大げさで演出過多な紹介も彼なら納得する。ミュージカル俳優でもある、披露してくれたオリジナルソングは、なかなか、ドラマティックでもあった。今回、客席がイチバン沸いたのは倖田來未。披露してくれた曲はどれもバラード。生で観た彼女の衣裳には感心する。どのドレスも、手足胸元の露出が計算されている。顔よりも目線が他へ追いやられる。「こんばんわ、倖田來未です」と、しゃべり始めれば澱みがまるでないMC。オーケストラを前にして歌う楽しさ、音楽に対する愛情をしっかりと話してくれた。歌う前の小柳ゆきは、本当に愛らしい。MCでは言葉が出ず、「あれ」「これ」など、代名詞の連続で観客もずっと苦笑い。それでもいざ、歌いだせば、声は劇場内に響き、感情が溢れている。歌に聴き惚れる。京胡の第一人者、呉汝俊(ウー・ルーチン)100年を越える楽器を手に、オーケストラと対等の音色を聞かせてくれた。白い衣裳が似合う、華やかな笑顔の彼は、京劇の第一人者のようでもあり、楊貴妃を演じたという記事をネットで見つけた。激しさと優しさと大きさを兼ね備えた「Bridge」という曲の中に、私が気持ちを寄せる中国の姿を見る。何に憧れてという言葉は出ないが、最初に行きたいと思った外国は中国だった。実際、始めて行った時の中国はただ大きく、踏ん張っていないと吹き飛ばされそうな国で、きりりと気持ちが引きしめった印象があったのだ。そんなことを彼を観て思い出した。観客の中にずんずん入っていくピーボ・ブライソン。カーペンターズの「Superstar」を歌っている。意味を全て解せなくて、これは心にズンとくるラブソングだ。今回の楽曲の中で、この歌が一番彼らしいかもと思った。自在に歌いこなす、「Amazing Grace」これは他の出演者も参加して合唱となる。本田美奈子さんを追悼しての選曲のようだ。音楽に深く造詣があるわけでもないのに、多彩な声色、吐息、シャウトが織り交ぜられると、表現力というものをやはり見せつけられる。それはきっと映画にも通じるのだろう。カーテンコールは何度も。赤い薔薇が観客に配られていた。オーケストラをバックに歌うアーティストたち。舞台照明というのは不思議なもので、別世界のような空間を演出してくれる。たっぷり、気持ちのいい時間にひたれた。
2006.02.02
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なにげな~く、トレーラーは以前に観てたの。あ、ヴィゴの新作は、戦うお父さんだけど、巻き込まれ型かなあ、って。すごく似合ってる、ガンアクション。暗くて重くて、でもいつものようにカッコイイ、ヴィゴ・モーテンセン。よく観ると、監督は。。デビッド・クローネンバーグ監督!!「A History of Violence」オフィシャルサイト、サイトを開くと、音楽がもう、重い。しかも、エド・ハリスがいるよ~~、ひえええ。
2005.10.27
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「AEONFLUX」オフィシャルサイト(英語)よりの映像。シャーリーズ・セロンがセクシー衣裳でアメコミヒーローにチャレンジしてます。しかしまあ、しなやか。日本公開はいつかな、観たい、観たい。トレーラーでは、メイキングも観れました!そういえば、ケイト・ベッキンセイルの「Underworld: Evolution」オフィシャルサイト(英語)も予告編が来ているらしいっす。「アンダーワールド」の続編、まさしく、いつでも続編が出来そうな終わり方だったもんね。これまた、お美しい。。ため息。。
2005.10.24
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無謀なことというのは、バカにならなきゃ出来ないのだな。「そんなもん、やってもトクにならん」「役に立たないだろう、実生活には」なんてことを考えてしまっては、たちまち何も出来なくなる。そんなもんだと、しみじみ感じた約一ヶ月。漢字検定試験を「複数級」受験してきました。すなわち、一個だけじゃなくて、二個、受けてきた。ホントはね、下の級だけにしようと思ってた。漢字検定の上の級のレベルって、ほんとに、専門家レベル。実はね、私の受験番号がスゴサを表しているらしい。下の級は433番台、上の級は19番台。つまりこの番号、受検する人の人数を表している。実際の受検者はもっと多い目。けどチャレンジする人が少ないってことは、チャレンジできる人がそんなにいないってこと。つまり、だから、難しいとわかるみたいだ。受検後、すぐに標準解答がもらえるので、自己採点。下の級は、ほぼ大丈夫!上の級はあえなく、沈没。沈没なんだから、黙っておけばいい、普通ならそうする。でも、今回、スゴクわかったことがある。無謀なことというのは、バカにならなきゃ出来ないのだな。受かるはずがないのに、受かるつもりでやったから、ブスブス死んでいる脳細胞が近頃になく元気だったような気が。漢字はとっても奥が深くて、意味を調べるたびに、フムフム頷いたり、イタイところを突かれたり、いろいろ。意味がわかると、文学の表現は豊かで、キレイで、巷の小説ばっかり読んでいる私にはなんだか新鮮でもあった。でも、ふと、疑問に思えてくる。しかも、私は、文学を本格的に勉強したことがない。。。バカですね、バカだな。受かるはずがない。「そんなもん、やってもトクにならん」「役に立たないだろう、実生活には」そういう気持ちがあると、出来なかっただろうなあ。何にも考えないままで、ほとんど思いつきで申し込んで、若い時に比べると、なかなか覚えられなくて四苦八苦なのに、エライコッチャでやり始めてみれば、とにかく楽しかった!こういう無茶は、バカにならないと出来ませんね。いっつも、バカになってばかり、というわけも行かないですが。漢字検定って、他の検定に比べて受検料が安い!(実は受けた動機!)テレビの番組のクイズみたいなとこもあるし。ただ、受検級の選択は慎重に。。。それではまた、映画のお話させてくださいましね。おつきあいくださり、ありがとうございました。
2005.10.23
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この際だから、もうひと遊び、させてもらとうかと思ったりして。心にのこった映画は映画でも、ちょっと扱いに困っている映画ってないかな?と。例えばね、「冒険王」ジェット・リーと金城武が共演して、金城武はともかくも、ジェット・リーが女装してた。ジェット・リーの女装が目に焼き付いて離れないっす。ジェット・リーの女装と金城武の女装がペアで観られるっすよ!B級テイストの愉快な映画でございました。「わたしが美しくなった100の秘密」キルスティン・ダンスト主演で、彼女はカワイイ。でも、100も秘密入れて、映画なんかできるか!!!ってわけで、この邦題は完璧に配給会社さんの作戦みたいです。とにかく、松田聖子がチョイ役なんです。ストーリーと全然、関係ないチョイ役なんです。「さくや妖怪伝」安藤希という女優さんが主演の妖怪もんで。この作品のキモはなんといっても松坂慶子です!!土蜘蛛の妖怪で、もちろん、大ボス。ただし、土蜘蛛に松坂慶子さんの顔がくっついていたような。普通は、土蜘蛛っぽい衣装をデザインするだろうが。。。「ミステリー・メン」ものごっつい、豪華キャストですわ~。ベン・スティラーとか、グレッグ・ギニアとか・・「X-MEN」のパクリジャケットの中にオバカ満載で。愛すべき映画の1本となっております。「ダークマン」画像は、「ボーン・アイデンティティー」とくっついてますが、右側の「ダークマン」の方!!リーアム・ニーソン+サム・ライミ監督の豪華タッグで、おそらく、このコンビでこの企画は、今なら絶対に成立しないだろう、と思ってしまう怪作。リーアムダークマンの叫び声が今も耳に残ります。ながながとおつきあい、ありがとうございました。また、こういう機会があれば、遊ばしてもらえたらと思います。では、またです!
2005.07.31
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バトンをいただくって、嬉しいですね~。ミュージカルバトンのときも嬉しくて嬉しくて。気持ちの上では、ハシャイジャッテんの、バカだよね~。なのに、いざ、書こうとすると五里霧中状態、なぜ?ああああ、そうか、私は物覚えが悪いのだ~~。なんか、全然、思い出せないぞ~。ってことで、まあいつもみたいにきどらず、素のトーベのミーさんで、しゃべらしてもらいます。-----1・過去1年間で一番笑った映画2・過去1年間で一番泣いた映画この二つの質問は、無理だあああ。だってさ~、観たばかりの「きみに読む物語」と観たばかりの「宇宙戦争」※しか出てこない。※大阪がトライポット3体倒した!って奴ね。-----3・心の中の5つの映画「ショー・シャンクの空に」やっと、ビデオ屋に返却されたと思ったらテープが切れてた!諦めかけたところで、テレビをつけると突然文字が。“○×映画劇場、『ショー・シャンクの空に』”「私は日頃のオコナイが良かったんだ~~!!!」っと意味不明に叫んでました、アホだな。「犬神家の一族」あんまりよく覚えてないのですが、隣りはボルノ上映っていう地元の映画館にて。当時小学生だった私が、友達数人と鑑賞。当然、友達も小学生、オトナは一人もいませんっっ!ロードショーだったのか、名画座だったのか、なあんも覚えていませんが、ある意味問題児でした(笑)「天井桟敷の人々」こういう映画を入れると、作為っぽいぞ。あ、クロウトね、トーベのミーさん、みたいな。実はコレ、大阪のある名画座の、最終上映作品だったっす。上演が終わったとき、劇場のお客さんは拍手喝采。もちろん、私も拍手、拍手。素晴らしい映画を素晴らしい空間で、素晴らしいお客さんと観た至福のひととき♪「ブレードランナー」こういう映画を入れると、作為っぽいぞ。あ、クロウトね、トーベのミーさん、みたいな。ンナことないか、ただのミーハー?人間か、レプリカントか?体験した記憶なのか、移植された記憶なのか?どうでしょう?どうなんでしょう?「インタビュー・ウィズ・ヴァンパイア」いやあ、私は正直モノなんで、画面から目エ、離されへんかった映画と言えば、コレになってしまうんですわ~。※関西弁のイントネーションでお読みください。せやかて、しゃーないやん、ブラビとトムさんやもん。好きとか嫌いとかやあらへん、って。しゃーないんやて、しゃーないって(しつこい?)----4・見たい映画ホンマか嘘かワカランけど、岩明均原作のマンガ「寄生獣」がハリウッド映画になるというニュースを見かけてしもた。いや、ヤバイ、ヤバスギ。期待膨らましたら、破れたときのショック大きいから、このヘンで!ほな、サイナラ~~!----5・このタスキをつなぐ方々ホントゆーたら、よくお話させていただく方、全てに!コレ、本音です。つーことで、もし良かったらお楽しみください!ただ、そんなにタスキを持ってないので(笑)、ミュージカルバトンくれた方にお礼を込めて、いや、お礼がどうか、疑問だけど、タスキもっていっちゃおう!あああ、ヘンな奴が来た~とか、思わないでね~。バトンをいただいたのは、iso777さん「エンタメ系のススメ」。タスキは「イージー★ライダー」ao_6さん、「中年よ、大志を抱け!」断言児さんとこにトトトと運んできます。みなさん、ブックマークでリンクさせていただいてます!
2005.07.30
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トーベのミーさんは、今、目が回ってます、ヒマなときはトコトンヒマなのに、ここんとこ、なんだか、目が回ってます。でも、丁寧に毎日、がんばっていこうと思ってます。また、遊びに行かせていただきます。その時はよろしくです。来てくださった方ありがとうございます。感謝してます!
2005.07.13
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映画やドラマの登場人物たちは、深刻なときに深刻な顔をしているのだな。そりゃあ、そうだ、演技だし。なぬ?演技、演技でもすればいいのか、まあ、そこそこみんな演技をしているな、たぶん。選択を迫られている気がする。もう、コムスメでもないのだしウダウダと、つまんないことは考えてないけれど、手にしたモノは全部大切で、出来れば全部大切にし続けたいけれど、そうはいかないのだ、これもたぶん。そうだなあ、これしかない!と真っ直ぐに、進んでいけそうで行けないんだな、と、たぶん、たぶん、たぶん、と思っている。結構、捨て身の選択かも、と、どっかで自分で自分を笑いながら、進もうとしているけど、どれも、たぶん、だ。これから「義経」のレビューを、書かせていただこうかと思っています。つねづね、書くよりも読むほうが楽しくて、図にのってコメントを書かせていただくのも楽しかったりしているのですが、日記をまず書かせていただいてます。とにかくなんか書かせてもらってると、心頭滅却なのだなあ、いう感じです、たぶん。レスもゆっくりと書かせてください。ヘタクソなのですが、楽しいのですよ、自分では。これは、たぶん、ではないです。それでも、本当のところ、オフラインでもオンラインでも、なんだか、有難いなあ、と思う日々です。これも、たぶん、じゃないです。かなり、ホンキです(笑)
2005.07.08
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喧噪が店内に満ちている。美味しい食事には、言葉がつきまとう。目に鮮やかな盛りつけに、「おいしそう」と食べる前から賛辞を送り、口に運べば頬がおち満足が生まれる。ワインの味もまた格別。ウェイター、ウェイトレスが運ぶ皿にも目を奪われる。皿とフォークとスプーンの音、そして、こぼれてくる言葉たち。極上の喧噪がその店にはあった。ニューヨーク、トライベッカ。賭けの胴元でもあるルイは。イタリアンレストラン《ジジーノ》のオーナー。家庭の味が好きだった彼は、息子でシェフ長のウードが演出する、“ヌーヴェル・キュイジーヌ”が面白くなかったりする。しかも、長年のビジネスパートナーが殺される。いろんな問題を抱えていた。店は極上の喧噪でごったがえす。厨房では、炎が鍋を熱し、食材が鍋の上を舞う。シェフたちも、喧噪にある。ウエイトレスたちも喧噪にある。料理は喧噪の中から生まれている。その喧噪。たくさんの無軌道無方向な音。いろんな人がいろんな問題を抱えている。いろんな問題。ギャンブル、夢、金。もちろん、愛情、男と女の、オーナーとシェフ、父と息子。色鮮やかなシーフード、歯ごたえの心地よさそうなパスタ、テンポのいい音楽と細かい編集に乗せられ、無軌道も無方向もまとまらないまま、《ジジーノ》のオーナーは、オーナーとしての、最後の仕事を仕組んでいた。絶えず喧噪が満ちている。喧噪の中で料理は生まれていく。そのことをルイはとても良く知っていた。知っているというよりも、その方法しか知らないのだ。銃声。ビジネスパートナーの死に、ルイが下した復讐と、何よりも大事な息子へ店を渡すため、《ジジーノ》の抱えた問題を一掃するため、父親は、巧妙なワナを仕組んでいた。活気あるリストランテは、常に喧噪に満ちている。皿とフォークとスプーンの音、そして、こぼれてくる言葉たち。厨房では、炎が鍋を熱し、食材が鍋の上を舞う。店は喧噪に満ちている。料理は喧噪の中で食されている。無軌道なままに見えても、オーナーの目は店の全てに行き渡っている。シェフを演じる俳優がカッコイイ。何よりもルイを演じるダニー・アイエロが、無軌道な作品を上手くまとめている。イタリアンレストラン《ジジーノ》美味しい料理には、喧噪がつきまとう。
2005.07.04
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本日は晴天なり。JR芦屋からぶらぶら歩いて行くのは、「ウマカケバ クミコのウマクカケバウマクイク展2005」ウマさんちに、遊びにいく気分である。でも、コソっと記帳して帰ろうとした。ごめんなさい、許してね。ウマさんはイラストレーターさんである。それも、関西では有名、でもって全国区でもある。ウマさんちにお邪魔するのは3年目。毎年、この時期になると開催されているのが「ウマカケバ クミコのウマクカケバウマクイク展2005」連呼しちゃおう、5月14日から5月23日まで。ギャラリー スペースRにて。歩いて、いけまする。いつも、映画をテキストでレビューしてるから、今回は、テキストでイラストのレビューになるかな。まずはヒトコトで。「サービスまんてん」もしかしたら、満点以上かも知れない。太い線にカラフルな色づかい、テーマはストレート。しっかりと絵の中に主人公がいる。主人公の喜怒哀楽もストレートなのだけど、彼女の絵は、主人公だけが主人公じゃないのだ。空も海も傘も、家も食べ物も。あれもこれもあれもこれも。「顔」がついているのだ、あちらこちらに。グラフィカルな構図を損なうことなく、主人公に負けじと、表情がある。そうだな、今回の中にはなかったけれど、ウクレレ三つを並べて作品を観たことがある。もちろん、「顔」がある。タイトルも「ウクレレレ」レが一つ多い。「たこ焼き、ひとつ、オマケしとくわ」変な例えですいません。でも、ひとつオマケしてもらったたこ焼きは、いつものたこ焼き以上にオイシイ。たこ焼き、ひとつの価値は大きいのだ。「サービスまんてん」自分にも言い聞かせてみたくなる。仕事でも、人と付き合うことでも、ブログでも、せめてたこ焼きひとつぶん以上の気持ちで、がんばっていきたいものだな、なんぞ。こういうことを考えることができるのって、元気をもらう、ってことだと思う。本日はありがとうございました。また、何かの機会によろしくです。イラストにはきっと、いつでも会えますね。fm osakaのHP大阪のFM局、aikoのホームページもある。そこで、2本足で立ってるワンちゃんを見つけてくださいませ。ウマカケバクミコさんのイラストです!!
2005.05.15
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2005年5月3日。晴天に恵まれた紀伊半島、低価格限定?の温泉の旅でした。それでは4つの温泉の小さなレビュー、しばし、おつき合いくださいませ。--------■白浜・崎の湯~ザブーン!と海はすぐ側に。温泉と言えば、白浜、大きなビルの旅館に囲まれていても、昔ながらの情緒ある外湯もたくさん。中でもついこの間まで無料だったのが「崎の湯」なにせ、そのときは、海のスグ側の岩場に、ぽっかり風呂場があるだけ、脱衣所も棚のみ敷居もなんだかあるようでないようなだった。ついに300円の入場料になったが、温度差高低差がある3つのお風呂と脱衣所ロッカーが出来てしまった!快晴に恵まれれば最高のロケーション、海と空に囲まれて、夢心地の解放感、ただし、風呂場での立っての移動はご注意を、柵があっても、油断すれば隣り近所にまる見え。とにかく混むので、入浴は午前中に。和歌山県西牟婁郡白浜町湯崎1668--------■串本・サンゴの湯~本州最南端で一休みの湯。関西では台風情報のときに、新人アナさんが雨合羽きて飛ばされそうになる本州最南端の「潮岬」がすぐそば。「橋杭岩」など自然が美しい串本の駅の近く、町営310円で入浴できるのが「サンゴの湯」。特に目だったところはないけれど、驚いたのは、ボディソープまで設置されていた。しかも、休憩室つき、ホントいたれりつくせり。地元の方と一緒に入る、お風呂みたい。観光の合間の骨休めには、最適のお風呂、海の側のお風呂だと感じさせる塩分多い目っす。和歌山県東牟婁郡串本町くじの川1130番地--------■熊野・湯ノ峰温泉共同浴場~日本最古の湯、湯の花たっぷり。お湯の質は、関西では、1、2を争うトップクラスらしい、と知ったのはつい最近で、ホンマ私のお気に入り。ホンマモンの温泉っていうことで有名。アクセスが悪いのでいつ行っても変わらぬ景色、久しぶりなのに、笑ってしまいそだった。源泉100%のくすり湯が380円だけど、入るのは源泉50%の250円の一般の浴場。それでも浴槽には湯の花がゆら~り、ゆらり。「つぼ湯」とかもあるのに、いつも一般のとこ、ビンの牛乳もらって、ゴクゴク飲み干し大満足。和歌山県東牟婁郡本宮町湯ノ峰温泉--------■龍神・龍神温泉 元湯~さすがの美人の湯、ツルツル!ちなみに2005年5月から龍神村も「田辺市」に。ただし、「田辺市龍神村」なのだそうだ。映画では「大誘拐」で北林谷栄さんが若さの秘訣だと明かしておられた龍神の湯、グレードアップして600円になってしまった。前回の記憶では、露天風呂、内風呂、おのおの200円だったような気が。野趣あふれる情緒たっぷりなお湯だったが、今回はシャワー設備も万全のキレイにお風呂に。内風呂+露天風呂、露天は少し狭い。なんか入ってみると、肌がツルツルするのが気のせいか、そんなはずはないと思うことにしている。内風呂はガラス張りで立てば日高川が見下ろせる、が、前方に旅人がいる場合はご注意あれ。宿泊者は入湯税引きの450円になるそうな。和歌山県日高郡龍神村龍神37--------波に洗われた岩は、多彩な表情をみせ、山は、緑だけじゃなく、山桜や名もしらぬ花に彩られ。快晴が似合う、紀州の自然、機会があれば、どうぞ、お楽しみくださいませ。
2005.05.04
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こんにちわ~。ゴールデンウィークです!5月3日から、三連休です!やっぱりお出かけさせてもらいます!今回は、紀伊半島へと向かいます、が相変わらず、それ以上、何も考えておりません。少し久しぶりです。以前(かなり前)、1ヶ月ほど、バイトで行ってました。温泉旅館の仲居さんのアシスタントっていう奴、地元の高校生さんたちに混じって働いてたな。同室の女の子の生い立ちを聞いたり、ワタシも思ったこと話したりいろいろ。いろんな仲居さんたちとのお話も聞けました、「ふつ~は、そんなバイトしないだろ~~」と、思われましたがとっても有意義なバイトでした。なんか、1ヶ月なのですが、それだけ、ワタシを居させてくれたところです。ちょっとだけ、故郷に戻る気分です。では、いってまいります!
2005.05.02
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なんて、スゴイことなのだろう、と。軽い興奮さえ、感じることがある。検索エンジンにキーワードを入れてみれば、いろんな方の様々なお話が聞ける。さて、これから自分も何か書こうとしていても、つい、夢中になって、そこに溺れるときがある。ああ、これは上手い表現だなあと感心したり、語り口調で、当を得た表現に頷いてみたり、興味深い考察に、新鮮な刺激を受けたりする。日常の何気ないお話に耳を傾けてみれば、その方が身近に思え、笑ったり、心配したりしている。さもありなん。そんな言葉が浮かび、辞書を引いてみる。「然も、ありなん」きっと、そうだろう、もっともである。普段使わない言葉が、急に浮かぶのも心地よい刺激。自分の喜怒哀楽、どこかに引っかかることは、人が感じることの出来る「幸せ」の一つなのだと思う。さあ、書こう。とりあえずは、誤字脱字と格闘する。格闘しながら、無様に負けること、度々。カタカナで外国の方の名前を表記するのは難しい。信頼できそうなサイトからの「コピペ」で対応。心の中で、手を合わせ、感謝するしかない(笑)何を書こう、と考えをまとめる。公開している日記なのだ、発信しているのだ。グルグルいろんなことが回る。映画の話をさせてもらうなら、その映画の面白さのを、どんな「言葉」を使って話そうか、と思う。書くことは、探しものをしているのに似ている。書くことが楽しくないはずはなく。ただ、最近、ふと、読む楽しさがジンワリくる。なんて、スゴイことなのだろう、と、やはり、思わざるを得ないのだ。素直に「感謝」という二文字が頭に浮かぶ。いつもお世話になっている方々へ、それから、通りすがりの書き手の方々へ。読ませてくださって、ありがとうございます。心無き書き手の方もいらっしゃいますが、心ある方々がいる限り、心地よい場所は増えていくものだと思う。忙しい日が続くとき、読ませていただくことが少なくなる。そういうときは、旅行に行けなくてウップンがたまるような、そんな、ヘンな感じになる。グルグルいろんなことが回りながらも、なんか、書き始めると、それは楽しくて、しんどいのに、楽しくて、後はすっきりする。書くことは、なんと不思議なのだろう。書くことは、なんと不思議なのだろう。とりあえず、であり、書きたくて、たまらなく、であり、連絡でもあり、報告でもあり、いろいろ。自分であって自分でないようなものが、文字になって、文章になっている。「もしも」も読むことができなかったら。「もしも」も書くことができなかったら。「もしも」という言葉は掴めぬ希望を思い描くときに使う。だが、在るものの価値を測るときにも使えると思う。そして、あって、良かったと思うのだ。
2005.04.01
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みんな死んでしまうしかない、と。彼の聡明な頭脳は計算をはじきだした。生きる資格ある者のみ、生きよ。良き未来を作り上げるため悪しきを一掃するのだ。それが浅倉良橘大佐の結論。《伊507》は進む。帝国海軍に艦籍のない戦利潜水艦。乗員たちに軍人としての拠り所、すなわち、死んで護国の鬼となる気持ちはもう、なかった。「至誠に悖るなかりしか」絹見真一艦長は、その意味を噛みしめる。ねじ曲がることなき誠実さを自分に見出し、魂の安息をやっと、得ていた。帝都に原爆を。浅倉の計画に同意したアメリカは、3番目の原爆の目標を東京に設定した。《伊507》はテニアンに向かい、大規模なアメリカ艦隊を突破しながらも、原爆搭載機《ドッグ・スレー》を撃ち落とした。旗艦《タイコンデロカ》の艦長は、本物の脅威を《伊507》に見出していた。《伊507》、撃沈。ローレライの魔女が聞くのは、乗員たちが歌う『椰子の実』の旋律。《伊507》から切り離された特殊潜行艇《ナーバル》にはパウラ・A・エブナーと折笠征人上等工作兵がいた。まだ十代の男女二人は、艦長から、《伊507》から最後の命令を言い渡されていた。(おまえたちは生き残るために最善をつくせ)(ついてくれば敵前逃亡と見なして《ナーバル》を沈める)四分の一の日本人の血のために、ドイツの人体実験の犠牲となったパウラは、その途中で水を介し、物体と精神を把握する能力を得た。完璧な水中ソナーである。彼女は兄、フリッツとともに《伊507》に乗艦し、数奇な運命を得て、折笠と生き残った。二人は占領下の日本を必死でくぐりぬけて、結婚し、家を得て、子をもうけ、孫の顔をも見ることの出来る人生を得た。果たして自分の人生が、《伊507》の仲間たちに誇れる人生かと、いつも疑問に思っていた折笠征人。幸せを得るたびに、重荷を背負うような誠実さこそ、未来と託す種子として絹見たちが選んだ、人柄かも知れない、と思う。今、なお、世界のどこかで戦争が続く。それは生き残った悪しき者たちが引き起こした、というだけではないのだ。浅倉の計画が成功していたところで、平和な未来が訪れたという保証も、勿論、ない。《伊507》から離れた彼が感じたように、命令する者も、教えを請える者もいない、ましてや反発して食ってかかる者もいなくなれば、自分で考えるしかないのである。浅倉は、愚かな戦争を引き起こした日本人を憂い、自分で考える人間を残そうとした。若い甲板士官は、自分で考えなくてもいい軍隊に依存し、折笠の友人は、自分の納得できる死を探していた。さまざまな登場人物の存在は自分で考えることを、繰り返し語っていた。読書の愉悦があれば、ページ数の多さは苦にもならない。専門用語の羅列となる潜水艦の攻防戦も、ローレライと言う仕掛けのおかげで不慣れは私でさえもわかりやすく面白くさえ感じた。また、福井晴敏作品は、相変わらず、美男、美女の存在を感じさせてくれるのが嬉しい。内面の熱い人間たちも魅力的である。複数の作品を読めば画一的にも思えるが、デリケートなテーマをエンターテイメントにして、読者に伝える力量は凄い。自分で考えなければならない。それはやっかいで、苦悩と隣り合わせだ。だが、パウラは折笠と二人っきりの《ナーバル》で感じていた。人間は案外、頑丈なのである。
2005.03.11
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男と女が絡み合っている。ジョン・トラボルタの髭を剃るカイラ・セジウィック「フェノミナン」の一幕である。音楽は「CHANGE THE WORLD」。二人は愛し合っている、深く、深く。見つめ合う視線を観れば、まるでSEXに見えた。観念のSEXだ。愛情が燃えさかれば、SEXは自然に。SEXのない愛情よりも愛情がリアルになる。SEXは激しく。「キス★キス★バン★バン」での殺し屋は、キリンのぬいぐるみを持つ青年に教える。激しい喘ぎと激しい騒音と揺れのせいで、SEXは笑いの一場面に変換される。NHKの朝の連続ドラマにて。若き野村宏伸と手塚理美が障子の向こうに消える。二人のカゲが二人の行為を暗示する。もちろんだが、裸は一切ない。部屋から出てきた手塚理美が襟元を直している。役者の表現だけのエロティシズム。そこまでが、限界なのだろう。いつのまにか、二人の距離が狭まる。目線で会話しているのが伝わってくる。それは、昨晩のSEXのせいなのだ。SEXは、二人の関係を変える。「侍女の物語」という映画がある。女性のほとんどが環境汚染などで不妊となり、健康な女性は侍女として子供を産む道具となる。相手は支配階級の男性である。彼の正妻は、夫と侍女のSEXに付き添い、SEXの悦びを疑似体験する。産まれた子供もまた、侍女から引き離される。SEXは純然たる処置となる。愛のないセックスもあるのだ。「ハイ・フィデリティ」では、ジョン・キューザックがフタマタなSEXをする。明らかに本命がいるのに気があってSEXをする。女の方も割り切っている。SEXは単独で、人間の本能を刺激する。「コックと泥棒、その妻と愛人」裸の男の人間のまる焼き。男根は調理され、皿の上にあった。妻は、愛人のまる焼きを夫に食べさせてから、夫を、殺すのだ。三人の間には明らかにSEXがあった。愛だけでなく、憎しみも。「僕の美しい人だから」での、スーザン・サランドンのフェラチオは切ない。彼女の過去を物語る孤独な想い。だがSEXは「想い」になり、その「想い」は受け止められた。「ヒューゴ・プール」では、不治の病の男が、好きな女性とSEXの末に死亡する。幸せな恋愛にはならなかったが、彼の最期を不幸だとは思えないのである。SEX描写の匙加減は感情を豊かに表現する。愛情はキスだけでも伝わる。だが、ちょっとでも混ざっていれば、共感がしやすくなる。愛情だろうが、憎悪だろうが、道具であろうが。もちろん、幸せもである。
2005.03.08
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インフルエンザ襲来。身体がウィルスと闘うという日々。マスクをしてポカリスエットを飲んで、しばらくPCとは距離を置いてました。あんまりあーだこーだと書くのは苦手で、でも、こやって記しておくのも記録になるかと、チョッコト書いておきまする。それでは、ボチボチ、再開します。またよろしくお願いします。
2005.02.19
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本日で、楽天日記1周年。ほとんど映画のことばかり書かせてもらった1年間。それから、ヤバい出来事の連続の2004年。なんとかやってこれたのは皆様のおかげ、だと、本気で思えたりする、はあ、と溜息。2004年は正月休みを満喫してそうそう、重い知らせが。身近な人間の「生死」に関わることだというのに、私は何故が、人を励ます立場になってしまった。それは、おかげさまで事なきを得て、万々歳なのだけど、休日も忙しい毎日に、仕事も忙しいから残業も。その上、休日出勤の要請に社長も巻き込んで文句言ってた。が、仕事上の大きな事故を引き起こしてしまう。損失も大きかった。おそらく初めて自分の責任で「始末書」って奴を書いたかな。まあ、言いたいことは黙ってないので、大丈夫、参ったのは時々、ボーと機能停止状態になってたらしいこと。「あーもう、ダメ!!!」って奴かしらん?「今日、何の映画、書こうかな?」シンドいことに頭を占領されたら、他のことを考える。これは効果テキメン、おまけに、グルグルみなさんのサイトにお出かけ。自分の心に響いたらコメントさせてもらったり、もったいないことにコメントをいただいたりしていると、シンドいことは、しばし、脇によって少しだけシボんでくれた。毎日、ちょっとずつシボんで、もう、かなりシワシワです。本当に、ありがとうございます。本当に。感謝の言葉は、難しいな。ただ、頭を下げるばかり。それが、である。怒濤の2004年、他にもいろいろ、休日減りまくり!ホンマの休日になっても、大抵、ヘタリまくり!レイトショーでなんとか映画に行っても、寝そうになる始末。。まあ、そないに毎日忙しいわけじゃないンすが。それでも「継続は力」だった。映画に関する自分のアンテナがホント、広くなった。みなさんの日記を思い出して、いろんなこと考えてた。昔、友達と「才能」の話をしたことがあって、「「才能」がないと「努力」せなしゃーない」という結論もあったけど、「「努力」を続けるってのも「才能」かもね。」と若気のイタリで生意気なことを言っていたのを思い出す。そんなに間違っていないような気がしている。オモシロないから、ちょっとだけ。映画の話をさせてもらうときに心がけていること。『悪いところを見つけても、その場限りのことで済む。良いところを見つけたら、それは一生、使えるもん!』全く、強欲な関西人やな~と自分で自分をツッコンどくんで、許してやってくださいませ。(笑)そして、生意気なことを言いますが、読んでいただいた方にも「使って」いただけたら幸いです♪。しかし、悪いところは悪いというぞおお!!さてさて。2004年の映画鑑賞、総決算。まあ、これもオモシロないからサラッとね。ベストワンみたいなもんが実は今年は見つからず。「2」のブームや、2本3本まとめどり、やらで、クリエイティブそのものの、ポテンシャルが低下している気も。そんなかで、今年のカンヌじゃないけど、アジア勢って元気だったと思ってる。今年に観た作品限定となるけど、2本紹介。『殺人の追憶』(韓国)「犯人あて」という観客側のニーズをあえて排除しても、観る者を引き込む映像や脚本、演技、演出のスゴサ。陰湿さと乾いた笑い、大胆で細やかさ、あれだけ、たくさん盛り込んで全体のテーマもしっかりしてる。手前勝手な感想なのだけど、日本映画じゃないのが、悔しいとさえ思った。『西洋鏡~映画の夜明け』(アメリカ・中国)音楽は、ニューシネマパラダイスのパクリと言っていいかも。ハリウッド指向が見えなくもないけど、ちゃんと、西洋と東洋が出会って、どちらもステキに描かれている。西洋と東洋の文化の違いを、真面目に考えると、この作品の中での調和は夢のように美しく見える。ストーリーにも起伏があって、私はイイ涙を流すことができた。リュミエール兄弟の映画が観られるのも、また嬉しい。俳優さんで2004年、特に注目したのは、ヒース・レジャー、コリン・ファレル、サム・ロックウェルジェイク・ギレンフォール、ジーン・ハックマン、マイケル・ケインあ、増えてきたな、もひとつ、ジョン・キューザック、女優さんは、レイチェル・ワイズかな、まだまだ、増えそうで、ヤバイから止めておこう。監督さんは、アルモドバル監督に、トニー・スコット監督ブライアン・ヘルゲランド監督も気になる~。ポン・ジュノ監督の他の作品も観たい。お正月は、旅行に行ってきます。おそらく、どこへ行くかは本日決まると思います(笑)おつきあいいただきありがとうございます。どうか、皆様にとって、来年が良き1年でありますように。大晦日には一日早いですが、「かくの如き語りき」1才の誕生日の感謝に代えて。
2004.12.30
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あんまりオモロイと床をたたいてしまう。※家は1階(笑)2001、2002年の「M-1」は笑いっぱなしやった。「おまえさんら、そないな大舞台でアホやってどないすんねん」と思うほどにハジケテくれたり、ワザ見せてもろたり。それが2003年あたりから、雲行きが変わってきた。実力あるはずの「アメリカザリガニ」がハジケンようになった。オモロイ世界観の「麒麟」が緊張している。「千鳥」がハジケようとして自分のキズついてる。2004年はそないに期待できへんな~と思って鑑賞。案の定、予想通りやった、決勝戦、床は一度も叩かずに。2004年の決勝戦、順位が下位となった4組み、「千鳥」がメルボルンをローマ帝国の都市にしてしまい、「東京ダイナマイト」はネタが広がらないまま。「トータルテンボス」はネタは広がったが場を掴めず、「POISON GIRL BAND」の不思議ワールドは個性にならず、まさにピッカピッカの原石なのだと思うのだけど、1,000万円の賞金、もらうってことになると厳しいンだろうな。だって、1,000万円って並大抵の金額じゃないのさ。2003年の「二丁拳銃」と一緒で、今年も「タカアンドトシ」10年目のコンビが4位に散る。「ニチョウケン」同様、オモロイ出来に笑わしてもらう。プロっていうのはこーでなきゃ!!って感じだな。全く、関西人ってのはお笑い好きや~。(←自分のこと)さて、ここで問題の「笑い飯」である。2002年には飛び道具だったんが、2003年、格段に漫才が上手くなっていた。カツゼツとか、間、とか見るわけっすよ、関西人!だから2004年の優勝候補、それが、第5位に終わる。M-1グランプリがレギュラー番組と嘯いていたコンビもうスゲー人気者になってたもんな。きっと、モチベーション、違ってただろうなあ。敗者復活戦の勝者は「麒麟」。個人的に好きなコンビなだけにメチャ嬉しい!どうやら1点差らしい、果たして2位は謎なのだ。さて、すっ飛ばしたコンビと「麒麟」で最終決戦。やっと、ワタシは床とたたいて笑っていた。※家は1階(笑)「南海キャンディーズ」は特筆すべきコンビ。まずは、男女コンビってのが、メズラシイのだけれど、それいじょうに、女性のボケを男性がボロカスに言わない。そかから女性のボケを思い切りはたかない。(はたく=暴力のツッコミ)女性のボケは、派手にボケて暴れてるのに(火を怖がるサイの真似など)「あ~ボク、こんなジャジャ馬、相手にできな~い」「しずちゃん、輝いてるけどニブク輝いてるよ~」とかわしている男性ツッコミは決してハンサムくんじゃない。それが緩急になっている、愛すべきキャラクターになりそうだ。「アンタッチャブル」が完成されているのは間違いない。最終決戦は、新作じゃないようだが、決勝よりもネタが濃い。きっとライブで見れば間違いなく一番面白いコンビ。ただ、怒鳴ったり叫んだりする漫才ってのがこの先どうなるのか、不安になったりしたんだよん。話芸の漫才師に囲まれたら、「アンタッチ」どこまでやれるか。「麒麟」おもわずでた台詞は「がんばれ、俺たち」M-1グランプリは勿論、優勝するためのものなのだけど、同時にチャレンジャーたちのものである。でもって、「麒麟」のような漫才師のものである。いつか1,000万円をとることが出来るはずのコンビのもの。立川談志師匠が審査員からいなくなり、今年は、島田紳助や、松本人志もいなくなってしまって、さすがの点数なんだけど、なんだか、オモシロクナイ点数。コメントを聞くこともあまりなかったのも残念。かつで談志師匠が「テツandトモ」に「ここに来る芸人じゃない」(寄席でも十分通用するから)と言ったような愛も感じられなかったのが寂しい。スゲー欲深なこと言ってるかも知れんけど、「M-1グランプリ、毎年、床たたかせてくれ」それも、2時間ぶっ通しで。でないと、1,000万円の価値、ないじゃないかい。1,000万円稼ぐのは、ホンマたいへんなんやさかいに。せやけど、来年はちょと、愉しみ。あと、個人的には、決勝のメンツ、減らしてもいいから、敗者復活戦の枠、増やして欲しいかも、と思ったりした。寒い屋外で、お客さん、暖かそうに笑ってたもん!
2004.12.26
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【幕間】「虎とライオンと五人の男」の考察!過ぎさりし2004年のクリスマス。12月25日放送のドラマ「虎とライオンと五人の男」。映画とお話を重ねながら、ドラマを作る方々について思いを馳せてみる。■コーエン兄弟、ジュネ監督、ソマーズ監督、そして。いろんな映画監督の名前が次から次へと浮かんでしまった。こりゃあ、コラージュだぜ、ホントホント。言い方悪いけど、チープなコラージュ、でもね、ワタシ的には全然悪い意味じゃないっす。ああ、おっもちろいこと、すんな~、と思った。「メトロポリスじゃん!!」とか指さしてたもん。■監督と脚本家について、調べてみよ~監督は中島哲也氏。なぬなぬ、ほほ~、2004年の思わぬ儲けもんの邦画らしい「下妻物語」それの脚本に監督もされている。なんかわかるよ~。映像はおもちゃ箱みたいでございやした。でもって、脚本は麻生哲朗氏なんだってば。この方も2004年の話題作「ホテルビーナス」の原作脚本。CM ディレクターとしてはカロリーメイトの「がんばれワカゾー!」シリーズと手がけた方、ほほ~!!■つい目が行く、菅野ようこさん。音楽がいいな~と思ったら、菅野ようこさんのお名前が。「下妻物語」の音楽も担当されていたらしい。初めて彼女の曲がカッチョイイと思ったのがアニメの『COWBOYBE-BOP』ほとんど個人的な趣味で彼女の英語のHP をリンクしておこう。「The Yoko Kanno Project」あんまり詳しくはないんですが、アニメではホント、有名らしい。※実はアルバム試聴しながら書いてますのん!!■五人の役柄に関する考察SMAP五人のドラマを見るのは、実は三度目。さすがに映画「シュート!」は見ていない(笑)(あれは六人)そのどのドラマでも草なぎ剛の役柄がキーポイントである。彼は死んだり(リレーマラソンのドラマ)、殺人の張本人だったり(三谷氏の古畑任三郎)、それから今回はクリスマスにサンタである。他の四人も、三作ともどこか似ているような気が。メディアのイメージ戦略ってやつ~と穿ってしまうのだ。中居正広の役がいっつも「しっかりもの」なんだよな~。■コラージュという話の続きドラマにもなりきれず、ミュージカルにもなりきれず、さりとてバラエティでもなく、でも全ての要素がチャンポン。でもやっぱり、そういう枠から抜け出る試みではあったのだろう。■脇役を掘り下げてみる劇団ひとり、おぎやはぎ、スマイリーキクチ。ちゃんとチェックしたぞ、ワタシハ、実はお笑い好き。おぎやはぎ、M-1で観れなくて残念だったのん。それはいいとして、せっかく升毅、マッスンを起用したんだから、牧野エミさん引っ張ってきたらと思うのだが、それは枝葉末節?■映画の手法とはかなり違うのだろうSMAPが忙しいのは当たり前として、寺尾聰さんも『亡国のイージス』で忙しいだろうに。阿部寛さんも、阿部サダヲさんも忙しかろうに。つまりは短い時間で、演じる方にパアンと任せて、それを素材に作品を作り上げる感じなのだと思うのだ。素材があれば、モノを作り上げる感覚は広告に近い。映画ほどの日数をかけられないクリエイターの制作手法。それが素材のコラージュなのだろう思う。おまけにスペシャルサポーターってことでタカハタ秀太氏がいる「ホテルビーナス」の監督。モーニング娘。「LOVEマシーン」のプロモビデオ作った方。それから中島信也氏、知る人ぞ知る、CM界の第一人者、日清カップヌードル「hungry?」とか「燃焼系」アミノ式~♪の方。そんなコマースな方々が作品を取り始めている。こういう方々のこれからのお仕事、ちょっと興味深いな~と、思った次第なのでした~。
2004.12.25
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Tale Of The Dogカメラは時折、彼の視線となる。シェパードの名優テンペスト。ゆっくりと、映画監督の太股のあたりに近づき、黒い目で自分の主張を語っていた。仕事のない老俳優ジュゼッペに拾われたのは、拾われてあげたのかは少し微妙。ただ彼も、食事と住む場所と食事に困っていたのは確かだ。もぐらのぬいぐるみを着たコメディで、テレビの人気者だったジュゼッペ。だが、シリアスな仕事をしたいために降板して、今は家賃も払えず食べ物もない暮らしをしていた。相哀れむ、そんな感じの出会いである。ただ、なんとなく。老俳優とシェパードは心を通わしていた。何せ、言葉は通じない。だから、なんとなく、でも確実に。犬が主役の映画でキャスティングされた犬が演じられない。急遽ピンチヒッターのテンペストが名演を披露する。たちまち、ジュゼッペも時の人となり、生活も安定する。だが、それは二つの事件を引き起こす。テンペストの元の飼い主の出現と、テンペストの誘拐騒動。Tale Of The Dog2002年にイタリアで製作された作品。邦題は、元の飼い主の少年から来ているのだろう。父親を失って歩けなくなってしまったカルロは、父の思い出とともに犬を手放してしまった。テンペスト、カルロの名付けた名はガリバー。彼は少年の心を察して、カルロのもとを去っていったのだ。ただ、なんとなく、心を察して。そして、ジュゼッペと出会う。テンペストの頭が、テーブルの上に。ジュゼッペをジッと観ている、ただ、それだけ。老俳優は一人語りのようにテンペストと、自分の台詞を語っている。リノ・バノフィ、1936年生まれの老俳優が、軽妙で味のある演技を見せてくれる。カルロ少年もまた愛らしい。必死で自分の足で立とうする姿が健気だ。ジュゼッペとカルロ、おじいちゃんと孫の年齢の二人が心を通わせ、抱き合っている。クリッと身体を捻らせて、二人にじゃれるのは、テンペスト=ガリバーである。彼は老俳優の気高い優しさと、少年の純粋さが大好き。大げさな演出も台詞もどこにもないのだが、なんとなく、わかるのである。なんとなく、ジィンと。
2004.12.22
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世界でいちばんやさしい哲学の「本」がある。その「本」は父親が愛しい娘のために、書いた哲学の「本」の内容が語られている。主人公は14歳の少女ソフィー。彼女のもとに、一通の手紙が舞い込む。「あなたは誰?」なんとも根元的な命題。彼女はその答えを求めるかのように、名だたる思想家たちの哲学に触れる旅にでる。活字では固有名詞に過ぎなかった有名人が、映像の中で命を吹き込まれ矢継ぎ早に登場する。まずはソクラテス、ニーチェ、プラトン。皆、頑固そうなオジサンである。目まぐるしいタイムトラベル、ロビンフットやシャーロックホームズも現れ、物語はファンタジーのようでもある。だが本当はミステリーなのだ。哲学者のコトバこそ、命題を解く重要なる手がかり。相棒はアルベルトという男、現実の世界では犬に変身に変身していた。「もっとも賢い人は、自分が知らないということを知っている人だ」ソクラテスは弁明する。公開裁判で悪者にされても最期まで自説を曲げない。毒ニンジンを一気に飲み干し彼は最後までソクラテスだった。もう一通のソフィへの手紙。「世界はどこから来た?」「知は力なり」フランシス・ベーコン。おおまかにはコトバのままの意味だ。知は世界を知る手がかり。ローマ帝国の分裂、黒死病、歴史とともに世界は動く。コペルニクスは世界の認識を変え、ルネッサンスが花開く。ソフィは駆け足で哲学というピースを集めながら、最初の手紙のナゾに近づいてゆく。「あなたは誰?」そう、ソフィは物語の主人公。父親が娘のために書いた哲学の歴史を辿るための。ならばソフィは実在しないのか。彼女がさまざまな思想に触れ、感じたことは、存在しないのか、それなら私たちも存在しなくなる。映画を観て、思想に触れて、ソフィとともに旅をする。知っていることと知らないことがあり、知っていても意味を知らないこともある。意味に近づけないこともある。だが旅は続くのだ。原作者はヨースタイン・ゴルデルノルウエーの高校で哲学を教えていた先生である。映画は矢継ぎ早のタイムトラベル、意味を確かめる間もなく進んでいってしまう。全てを理解できるはずはないのである。だが、強く印象に残った女性がいた。オランプ・ド・グーシュ。フランス革命のときに暴力を否定して革命の敵に。1791年に『女性の権利宣言』を発表。演じたのはシルエ・ストルスティン、ソフィ役の少女である。娘と同じ年頃の少女が世界のことを考えていた。父親は愛する娘に教えたいのだ。考えるということを。自分で考えるということを。未来をどうやって生きてゆくか、そのための方法を教えているようだ。手がかりは哲学者たちのコトバである。タイムトラベルは物語る。世界は考えることによってカタチ作られてきた。思想家、哲学者、小説家だけではなく。様々な人々の思想こそ、世界のカタチ。ソフィの旅は続いている。物語が終わっても彼女は消えたりはしなかった。私たちには見えないが、彼女は考え、存在しているのである。
2004.11.26
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読書の愉しみを味わう。活字の向こうには壮大な紫禁城が広がる。郎世寧の描いた青い空は遠くベネチアにまで続き、幼い春児(チュンル)は輝く昴を手にする。蒼穹の昴。星が語る非業の運命を自らの手で変え、本物の宝を彼は手にしていた。清国滅亡は近い。占い師の白太太(パイタイタイ)は夜空の星に、未来を正確に告げることで知られていた。後に科挙で「状元」となる梁 文秀(リャンウェンシュウ)は皇帝の側にあって宰相となるだろうと告げられた。「状元」とは科挙で第一等の進士の称号。その気さくな人柄と聡明な叡智は多くの人の信頼を得る。お告げが語った運命通りに彼は未来を歩いていた。だが春児は。お告げとは違う未来を歩いていた。貧しき家の子供、糞拾いの子。没法子、何もない場所で生まれた子供へのお告げは時の権力者、西太后(シータイホウ)のお宝を総て得るだろうというもの。だがそれは偽りだった。それでも。春児はそのお告げの嘘を見破りながら自分の「夢」として生きてゆく。「夢」を叶えるために、浄身したのだ。まだ子供だった自らの手で男性性器を切り取り、宦官となる。「夢に見るだけだって有難えから」「だからおいらちんぽこを切ったんだ」星が語る運命は、生まれでた場所に縛られてはいる。だが、いざ歩き出せば運命はその手にもあることに気付くのだ。そう、星の運命を切り開くか、身を委ねるか、それは人の在り方次第、なのである。若き光緒帝のクーデターの首魁となる梁 文秀。急ぎ過ぎた改革は失敗し彼は国を追われることになる。あふれるばかりの才能と人柄の良さと機知で、宦官の実質最高位、大総管にまで昇りつめる春児、彼は最後に「龍玉」中国の宝、中国そのものの象徴をまるで自然の理のようにその手に西太后から譲られることになる。歴史に名だたる人物が多数登場する。中でも西太后慈禧(ツーシー)の描写には驚く。亡国へと導く女性は、国への愛と慈悲、そして無能な夫や息子よりも政治の才能にあふれていた。それが故に悪女となり鬼女として歴史に残った経緯が描かれている。また、日清戦争の敗戦を背負った李鴻章(リイホンチャン)、老将軍の勇姿と機知には幾度となく惚れ惚れとさせられた。読書の愉しみ、そのものに戻ろう。言葉によって巧みに描かれる数多の登場人物、総てが魅力的なのである。悪役も脇役も、そして春児、梁 文秀、美しい者は美しく、誇り高き者は誇り高く、醜い者は醜く、拙き者も、健気な者も、凛々しき者も、皆、言葉によって、命を吹き込まれ歴史の中に生き、ドラマがページに広がっている。だからこそ、愉しいのだ。だからこそ、涙が自然にあふれてくる。浅田次郎の著書。上手い作家の小説の中で遊んでいれば、是非はともかくも得るものは多い。中国の歴史、宦官、科挙について、世界のしくみ。政治の在り方にも触れられている。運命を切り開くのには覚悟がいる。だが春児その先の未来に、命の輝きを見ていた。
2004.11.11
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中つ国、その存亡の危機。一つの指輪を巡り、旅の仲間はそれぞれの戦いを繰り広げる。文庫本9巻に及ぶ物語を読み終わる。流麗な翻訳によるホビットたちの大冒険、最後はサルマンとの攻防となる。まずはそのお話から。■ホビット庄、最後の戦いやっとのことでホビット庄に戻った、フロド、サム、ピピン、メリーだったが、ホビット庄には門が築かれ、英雄たちをおいそれと入れてくれない。シャーキーなるならず者によって故郷は、生産物などを搾取されホビットたちは管理されていた。だがフロドはシャーキーがサルマンだと見破り、4人が先頭に立ってならず者との戦争となる。ここもまたモルドールと化していて、戦いには勝利するも、幾人かのホビットがならず者とともに死ぬでいった。邪悪なカゲはあの指輪戦争だけが総てではない。中つ国のあちこちにカゲを落としていたことを、思い知らされるのである。フロドには命を救われるも、サルマンはフロドを殺そうとしてホビットたちに逆に殺されるのである。■ピピンとメリー、生きてゆくということ。彼ら二人の物語になるとき、フロド、サム、ゴクリの陰鬱な重々しさも、アラゴルン、ガンダルフたちの勇者の格好良さもあれよあれよと吹き飛んでしまう。いかなるピンチであっても、食べることと寝ることを忘れないのだ。オークに囚われ、苦難の時であっても、それぞれ離ればなれとなり、苦難に出会っても、食べることと寝ることを忘れないのだ。一段落つけばパイプ草をふかし、おしゃべり。文句はあるのだが、それもまたおしゃべりのネタ。どんな苦難の時であっても、どうやって生き抜いていけばいいか彼らは知っている。だからこそココゾというときに、勇者になれたのである。■愛を語れば、その言葉は美しいアラゴルンとアルウェン、ファラミアとエオウェン。二組の愛を語るシーンの言葉は詩のように美しくなる。■アラゴルン、リーダーの条件決してホビットたちを見捨てない、諦めない。おいしいビールはおいしいと言う。初めて出会ったときサムにいろいろ疑われても、無駄な弁解は一切しなかった。だがいつも正直ではあった。ホビットたちに馳夫と呼ばれても笑っている。話上手のようだ。勇敢。論功行賞に情がある。癒し手でもあるが時折、偉大な雰囲気をまとう。自分には厳しい。■レゴラスとギムリの友情いつもレゴラスと一緒に馬上にいたギムリ。エルフとドワーフ、あまりにも違う種族。だが二人は大きすぎる違いを越えて友情と得る。違いとは諍いを生むはずが二人は仲良くなったのだ。旅の仲間は、強いはずである。■そしてみんな西へ、残された者はサムもまた一瞬ではあるが最後の指輪所持者の一人、だから西へ。エルフのレゴラス、アラゴルンが死んだ後、仲間のもとへ。ギムリもまた特別の配慮をもって西へ向かう。ピピンとメリーの二人は勇者として、アラゴルンの墓の隣りで眠っているという。■ゴクリ、映画ではゴラムゴクリはゴラムであるがゴラムよりも卑しい。すぐにイジケル、すぐにゴネル。ゴラムは指輪の力に汚染されている途中にも思える。そしてゴクリとなるのである。■物語の感動の在処フロド、サム、ゴクリ三つどもえの旅の場面は、あまりにも陰鬱なためページが進まず。アラゴルンには映画のイメージと重なりワクワクし、レゴラス、ギムリの友情にはホッコリとなる。されど物語の感動はメリーとピピンにある。メリーは遠ざけられようがエオウィン(デルンヘルム)とともに出陣し、多大なる栄誉を勝ち取り、ピピンもまたフォラミアを非業の死から救った。旅の当初、どう見ても役に立つ存在ではなかった二人。だがいつも明るい二人に皆が勇気づけられ、戦いに赴く者たちの勇気に二人も成長してゆく。プラスに展開する人物関係の中心に二人はいる。そしてフロド、サム。陰鬱な長い旅が終了するのは彼らの元で。あまりにも陰鬱すぎたから、サムが目覚めるシーンが感動となる。長い旅は彼がベッドの上で目覚めてときに終わりとなる。今回は素直な感想をテーマに。映画以上の苦難の旅が原作には記されている。だが映画以上にその後の中つ国の記述も長い。アラゴルン、エルフの石の治世は繁栄し、ホビット庄は緑に包まれる。いずれやの機会に、別の側面でのお話をさせていただくかも知れませんが。今回は、これにて。
2004.10.28
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歴史的な瞬間にもさまざま人の心が行き交っている。1866年、薩長同盟締結。坂本龍馬は二つの部屋の間を行ったり来たりしていた。この男、人の心の軌跡が好物のようだ。脚本家の分身のようにも見えた。もう一人、人の心を軌跡を見透かす男がいる。一刀両断で人を斬るのはそれを見ないためのようだ。斎藤一、松原忠司にとどめを刺す。お初さんもまた一太刀だった。木訥な人柄の松原忠司の気持ちと、彼に夫を殺されたお初の気持ちが決して重ならないのを見抜いたいたのである。かつて芹沢鴨の生き様を見通し、土方歳三と山南敬助の間の信頼を見通し、斎藤は人の心の軌跡をすり抜け、動乱の時代を生き抜いていくのだろう。勇は受け止める。憎まれ役を引き受ける歳三。見抜いた上に辛い役を引き受けた斎藤。優れた医者は人の心を見透かす。松本良順は憶測で動く恐ろしさを勇に説く。勇は隊士の健康を任せた医者の言葉をも受け止めてはいたのだろう。そして何よりも、坂本龍馬という男の器を知っているだけに心の準備を始めていた。難しいことは理解できないようだが近藤勇は、人のことは理解している。それは昔と変わらずのようだ。だからこそ力強い決意が漲っているように見えた。六カ条の密約の中にも二つの藩の心の軌跡が織り込まれている。自分勝手で大義名分にこだわる両藩。「あたりまえじゃ」龍馬はもろともしない。自分たちの藩を守るのは大事なこと。だが自分たちだけが大事でも、屋台骨そのものが崩れれば同じこと。戸惑いながら握手し抱き合う木戸と西郷。わからなければこの場所にはいない。だからこそ厄介なのは心の軌跡。1866年、薩長同盟締結。一行で終わる歴史の瞬間も簡単ではない。2004年9月18日19日の日本では、プロ野球史上初めてのストが決行されている。解決までにまだ時間を要するだろう。心の軌跡をどうするのか。近藤勇は受け止めている。坂本龍馬は結びつけている。日常のさまざまな事柄の総てに、人の心は軌跡を描いている。
2004.09.19
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I'm singin' in the rainJust singin' in the rainWhat a glorious feelin'I'm happy againアレックスは唄いながら暴力を繰り返す。アレックスは唄いながら夫の目の前で妻を犯す、つまりは冒涜を観せるというのも暴力の一形態なのか。かのマイケル・ムーア監督が、一番好きな映画だとあげたのが『時計じかけのオレンジ』暴力的な映画ではなく、暴力そのものの映画だと彼は答えていた。暴力そのものとは如何?一番好きな映画に暴力を観た監督は、自分の映画にも暴力を組み込んだはずなのだ。そもそも暴力とはそう暴力とは如何。I'm laughin' at cloudsSo dark up aboveThe sun's in my heartAnd I'm ready for love作家の妻を陵辱し、浮浪者を殴り倒し肉の塊に代え、中年女性を殺害する。唄いながら暴力である。唄は人の精神に何かを分泌する。ミルクバーの麻薬以上に、唄は人の精神に何かをもたらしてゆく。ルードウィヒ・ヴァン・ベートーヴェンシンセサイザーアレンジで。青い光の中にいる。白いシャツはユニフォーム。帽子、帽子、山高帽。「ナツァト言葉」はコトバというよりはリズム。彼らのリズム。暴力そのものとは如何?それは洗脳により矯正されるものなのか。それは若さを無くすことで終わるものか。アレックスたちは簡単に唄いながら暴力をしていた。ハッピーな顔をしていた。暴力はそんなに簡単に生まれ、洗脳によってまたは若さによって収まるのか。もちろん、そうではない。洗脳システムも警察官も、つまりは社会そのものはどうなのか。近未来のイギリスではある、近未来の設定は常に、今現在にその種子がなければ描けない。Come on with the rainI've a smile on my face笑顔ではあるが笑顔ではあるが暴力でないとは言い切れないのだ。だからこそ暴力とは如何。暴力そのものとは。スタンリー・キューブリック監督、1971年度作品。音楽と映像に酔うのは仕方ないだろう。だが醒めたときこそ、受けた影響の深さを思い知る。アレックスは唄いながら暴力を繰り返す。唄は人の精神に何かを分泌する。どんな唄かどうかではない。ただ聞こえている間は制御できないもの。耳を塞いでも音は防げない。Ya dee da da da daYa dee da da da daだから、アレックスは止められない。
2004.09.14
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あるものを渡し、ないものをもらう。坂本龍馬がビジネスを思いつく。争いたえぬこの混沌の時代に。佐々木只三郎はいつも重い現実を持って勇の前に現れる。旗本の集団である見廻組に比べ、寄せ集めである新選組は見劣りがする。佐々木が昔から勇に説いてきた。武士と武士でないものの違いを。自分に何が出来るのかは自分に何があるのを考えることから始まる。いつまでもお茶を組む井上源三郎。だが西本願寺の屯所には八木家から来た男がいた。自分の居場所を無くしたようだが、彼はずっと近藤周助に気を配っていた。沖田総司が久しぶりにヤンチャな好奇心を見せていた。だが昔のように仲間は乗ってこない。忙しかったり、他の人間関係があったり。相変わらず原田佐之助はヤンチャで、しかもトラブルメーカーでもあるので。案の定大事な宝を破ってしまっていた。誰もがまず出来ることをする。伊東甲子太郎の弁は彼の得意とするところ。穏やかに礼儀正しく明解な答えを出す。歳三は苦虫をかみつぶした顔をするが、彼の弁が役に立つ場面は多い。かつて勇と歳三の友がいた場所に、彼より有能ではあるがが彼よりもずっと野心家の男が立つ。自分に出来ることで組織の中で確固たるポジションを得ようとしていた。自分の殺した長州藩士の奥方に対して松原忠司は苦悩している。ロクに何もできない捨助は捨助なりに、不思議な人生を歩んでいるようである。何も出来ないと言っても、何かしているのが人生である。またしても彼が起こしたのはトラブルだ。捨助が発端で火事が起こっていた。勇は佐々木只三郎に見せつける。彼の手にある新選組というものを。彼の手からこぼれ落ちているものも多いが、彼の手にあるものの志は高い。薩摩にあるものを。長州にあるものを。坂本龍馬が動き出していた。お登勢さんの手には商売があった。それは彼女を生かしている。どんな窮地にいたってもその手にあるもので切り抜けてきたのだ。ならば日本も。混沌たるこの国も。自分に出来ることはその手に何があるか、から始まるのだ。食料や武器、家柄は言うに及ばす、才能も努力も器量も人柄なども皆そうだ。それもみんなどれかは人にあるものである。あるものをわたせばいい、ないものをあげればいい。この群像劇の物語は一貫としてそのことを伝えようとしている気がした。
2004.09.12
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「忘れない」「忘れないから」「忘れない」「忘れないから」松原忠司は自分の殺めて長州藩士の命を背負い、男から渡された金子をもって妻の元へ。妻の恨みも背負うのだ。彼女の記憶の中で、一生松原忠司は夫の敵なのである。捨助を使って岩倉具視にはたきの密書を渡そうとする桂小五郎。お登勢さんにマップタツに割られて偽物を渡していた。うどんの作り方もわからぬ男が物語をどう動かすのか。だが確実に動かしている男がいる。おそらく坂本龍馬は彼がこれまで生きてきた中で、最大限の力を出し切っている。その脳は中岡慎太郎も及ばぬ速さで先の先の先を見通そうとしているのだ。薩摩をどう動かすか。会津が朝廷を抱え込む前に、やっと長州が復権の兆しを見せているのだ。この先の先の先をどうつくるのか。先の先の先を。「忘れない」「忘れないから」沖田総司と八木ひでの気持ちはもう既に重なっていた。楽しい思い出と辛い思い出の積み重ねで人の気持ちはどこかに落ち着く。勇はお幸と、永倉はお常と、そして原田佐之助はおまさの方へ。人の気持ちの間を抜けて桜の花びらはヒラヒラと舞っている。沖田総司と八木ひで積み重なって一つになった気持ちはその先の別れと見据えていた。壬生村との別れとともに二人の気持ちにも別れを告げる。総司はひでを抱きとめる。綺麗に重なった気持ちを繋ぎ止め、手を離す。それでも、積み重なった記憶は消せない。記録する者がいて覚えている者がいる。人が生きた証を。「忘れないから」かつて八木の家には逆さ箒が立てかけられていた。勇は歳三と山南とともに、八木家の人々の真意を後々に知る。それでも楽しい思い出と辛い思い出の積み重ねで人の気持ちはどこかへ落ち着くのだ。振り返り再び彼は見る。あるべき場所に見慣れたままに立てかけられている箒を。桜の花びらが舞っている。もうすぐ散る命がある。もう散った命がある。生きている者の胸には記憶が残っている。松原忠司もまた何かと謎の多い人物らしいです。ちょっと想わせぶりな追記で申し訳ないです。
2004.09.05
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人と人の輪が見える。ねじれたり、つながったり断ち切ったり、想いだけを残したり。人が動けば他の人が動いている。人は一人だけでは完結しない。「託す」と山南敬助の手紙。坂本龍馬の胸には酒とともに流れ込む。散っていった男の想いが。そして近藤つねと沖田みつがやってくる。沖田みつはいつも人の中に行く。黙って一人で考えてるなんて性に合わないのだ。唇真一文字、人に飛び込んでゆく。寺田屋のお登勢さんは胸をポオンと叩いて、ズッシリ構えている。鼻血の布切れにしてもつねさんとお幸さんの鉢合わせにしてもかなり強引だがその迫力には叶わない。はっきりと物を言う。「新選組」は嫌いだと。だが一人の女性を助けるためなら助力は惜しまないのである。組織ではなく人を大切にする。人と人と行き交う場所で人を包み込む。山南敬助が託したものは。時代を動かすのは結局、そうだ、結局。人と人のつながり。裸と裸のコトバが行き交う。近藤勇は大切な絆を断ちきられていた。坂本龍馬の背中を追いかけないのは彼がもうそのつながりを欲してないから。そのつながりに関わる暇もなく、疲れ果ていて取り返しのつかない瞬間を逃してしまった。若き日の思い出が一気に雲散霧消する。託したのだ、つねさんは。自分のいない京での近藤勇を。お幸さんは太刀打ちできないと知る。静かに頷く。軽快なテンポで物語が続く。登場人物たちの傷を癒すように。一週間前、観る者に残った哀しみを癒すかのような愉快な群像劇である。改めて役者の力を知る。そしてこれからの悲劇あるごとに役者たちは観る側に多くの感情を残してくれるのだろう。人と人の輪が見える。ねじれたり、つながったり断ち切ったり、想いだけを残したり。人が動けば他の人が動いている。人は一人だけでは完結しない。
2004.08.29
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映画レビューってなんだろうな。ちょっと原点に戻ってみようかと思います。原点に戻るとどうしてもお礼をしたくなってきました。楽天を始めた頃はホントに右も左もわからずに皆様のお世話になってばかりでした。なんとかやってこれました。それはもう「感謝」につきます。ご訪問と書き込みとそして皆様の記事を読ませていただいていることとに。●感謝だな、とつくづく思うのだ。ログインする。アクセス数を観る。コメント、トラックバック、掲示板を観る。つくづく思うのだな、ありがたいなあ、と。つくづくどころじゃない、頻繁に思ってるゾ、ログインするたびに。この機会に。ご訪問ならびに書き込みなど「ありがとう」と言わせてね。●テキトーな現象学っぽい。フッサールくん(哲学者)という人は「意識とはつねに何かについての意識」と言っとります。対象があるから意識だそうな。おー、映画という対象、そこに現れいずる「意識」。さて、それは一体なんだろう?●淀川長治さんのレビューは長島カントク的だ。受け売りだが、長島カントクは「天才」である。それはあの支離滅裂なシャベリが全てを物語っている。つまりシャベリ終わらないうちに新しい発想がヒラメイテしまうのである。淀川さんのレビューは褒めているかと思えば、皮肉かな、になり、映画のテーマかな、と思えば、枝葉末節に。豊かである。でも、結局、映画を愉しまれている様子が伝わってくる。長島カントクが野球、大好きなように。●辛口レビューは脳みそを刺激する。自分の日記を書くときに、幾つかのレビューを参照させていただくが、そのときに密かに愉しみにしているのがwad'sというHP。レビューと呼ばれる文章ではないので、その配慮をしてないとおっしゃってる。掲示板なし、シンプル。「それ以外は特に見るべきところなし」と文末をくくっていたりする。「見るに堪えない」ってのも・・。しっかり理由も書かれているからなあ。(褒めてる時もあるんだよ)●統計学はサンプリングに依存する。『淀川長治の銀幕旅行』『wad's』を抽出、標本に。統計学とは確率論を基盤にして、集団全体の性質を一部の標本を調べることによって推定するための処理・分析方法について研究する学問である。その映画は面白いか、否か。読者が知りたいのはそこにある。●分類学は生物、植物専用じゃないゾ。「おもしろい」「おもしろくない」レビューはまっ二つ。だが下手するとどっちのレビューもとてもよく似ているのである。分類学、それは系統的につながりを分類し、各種間の相互関係を分類する学問だ。「おもしろくて」「おもしろくない」のが映画なのである。相互関係つーことで。●似てないレビューを書きたくなる。『CUBE』と言う映画のレビューはどうしても似通ってしまう。まあいいや、その通りだし、と思うのも良し。なんとかひと味違ったものを、と思うのも良し。それが「意識」というものだろう。ね、フッサールくん。●アンビバレンスという美酒がある。時折私は一つの映画に対して、二つ以上のレビューを書きたくなる。例えば「おもしろい」と「おもしろくない」レビューどっちも。アンビバレンスとは愛と憎しみのような相反する感情や態度が同時に存在すること。だが、それも「意識」だ。●最後に決定打を出さないなんて。そして映画レビューというのは、「ワタシはこう思ったけど、アナタがご覧になれば違うかも知れない」ってことを匂わす。全く一緒の意見なんてありえない。なんて自由なんだろう、と思う。まあ、適度なポリシーは必要なんだけどね。でないと『wad's』さんに「見るに堪えない」レビューと言われてしまいそうだし(笑)書き終わればホトホト呆れるくらいの落書きでございます。読んでくださってありがとうございました。フッサールくんのお話はこちらのページを参照させていただきました。
2004.08.28
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山南敬助が腕を組んで歩いている。明里が後ろから追いつこうと走ってきた。彼女が一番最後まで彼が死のうとするのを思いとどまらせていたような気がする。「ウチは先生のもんや」「一緒に、一緒に」「約束やで」そんな台詞を可愛らしくいいながら男の心を自分に振かせようと本当に必死だったはずなのだ。「ウチ、カシコイヒトスキ」あれはお酒の席での戯れではない。一目惚れだったのだ。そして付き合うほどにどんどん彼を好きになった。にも関わらず。男たちはすぐに死を受け入れる。局中法度に縛られて勇と歳三は身動きとれない。沖田総司はいつものように無力だ。永倉、原田、井上の三人の最後のあがきも、山南に言いくるめられてしまった。山南の弁が立つことが逆に証明され、皆彼の死後の自分をイメージしはじめている。友の思いを無駄にしないようこの時代を生き抜いていく覚悟は立派には見える。多摩の幼なじみに戻って泣き崩れる勇と歳三の深い慟哭は悲痛ではあるが彼らが一番、山南敬助の死を受け入れている。菜の花を見つけて差し出す明里。カラゲンキのお芝居に見えて彼女は最後の最後まで山南との未来を夢みている。最後の最後まで、だ。だが山南敬助という男も彼女の気持ちに応えようとしない。死を受け入れていく男たち。山南敬助は切腹する。作法に従って自らの腹に刃を入れる。左腹部に突き立て、右へ引き回し、一旦、刀を抜く。彼の苦痛に歪んだ顔がしばらく続く。首を切り落とされる前に武士は己の生涯をかけて痛みと戦う。総長としての最後の仕事。仲間うちでもめ事ばかりの新選組に、死をもって諭すことが仕事なのか。あなたの仕事は「それは承知しかねると」歳三と真っ向から対立することでなかったか。理想とは違っていく現実に疲れて、死を選んだ山南敬助。生きていれば必ず、勇や歳三のよきパートナーであったのに。荒れ行く時代を駆け抜ける隊士たちの心の拠り所であったのに。そして明里さんはもっともっと幸せになれたはずなのに。死を受け入れて残るのは哀しみのみ。生きて味わう苦痛に比べればどちらが重いだろうか。
2004.08.22
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幾度となく山南敬助は一人佇み背中を見せていた。幾度となく、幾度となく。彼は決して孤独ではない。彼を慕う者は多い。彼を信じる者も多い。土方歳三さえ、伊東甲子太郎よりもずっと山南敬助を信頼してきたのだ。小さな諍いが見せる亀裂なんぞこれまで積み重ねてきた時間に比べれば他愛のないケンカに近い。誠実に生きてきた者というのはそうやって仲間を得ていくのだ。信頼を得ていくのだ。勝海舟の左遷にヘソを曲げる坂本龍馬。そんな彼を山南は観たくないと言う。誰もが夢を観たいのだ。現実ではなく遥かなる夢を。だが坂本龍馬はガキっぽくてよくスネる。新選組はいつも仲間割ればかりしている。一人佇み、背中を見せる山南敬助。幾度となく。何に背を向けるのか。佐々木只三郎はいつも「現実の壁」として勇の前に現れる。時代の流れを止めることは組織のためにならないものだと。組織を愛するならば、組織に逆らってはいけないのだと。彼は決して孤独ではなかった。永倉も原田は協力し、斎藤は見て見ぬフリをしていた。勇も歳三もましてや総司も山南の行く末を心から案じている。山南が皆を心から案じているように。一人佇み、背中を見せる。水鏡に己れの自分の顔が映る。山南敬助の顔が映る。かき消すように小石を水面へ。彼はじっと思案している。自分に出来ることを探している。葛山武八郎を死に追いやり、西本願寺の屯所移転反対にも弁では勝てず彼は無力感に苛まれ、さりとて希望を忘れずに、何が出来るかと探している。これ以上新選組が争わなくてもいいように。自分のいない明日が自分の望む明日になるなら、静かな微笑みを絶やさなかった男は激しい選択を決していた。目の前では明里が笑っている。野に咲く花を慈しむ女性を見て、久しぶりに山南敬助は笑顔を見せていた。
2004.08.15
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大阪→東京。久しぶりの日本の首都。関西弁の少ない場所行く。関西弁のままで。まるで散歩の延長みたいだ毎度お馴染み目的地のない旅。なんとなくなんとなく方向だけ決めて。あんまり普段と変わりない時間。されどいつも旅先は何かが違う。似たような景色であっても似て非なるもの。似て非なるものを探しに行く。大阪→東京。関西弁を連れて行く。Tokyo/Anti Eccentric Tour普段着のままで東へ向かう。まるで散歩の延長のように。
2004.08.12
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悲劇の足音が聞こえてきている。だが近藤勇はいつもいない。近藤勇のいない場所で幾多の悲劇が幕を開けた。山南敬助がすずと出会ってしまった。彼女の名を「明里」と名付け、自分の未来を託してしまった。沖田総司の咳は止まない。藤堂平助は聞かされてしまった。伊東大蔵の大いなる野心を。土方歳三は決心を固めてしまった。永倉新八の反乱のような事態を二度と招かないために、と。だが逆に自分の決断が何を招くのか彼には考えることができないのだ。いつも彼は勇が望まないことを勇の留守中にする。悲劇が生まれるのは悪意からとは限らない。土方、沖田、井上。葛山武八郎の切腹を見届ける試衛館生え抜きの結束は固い。その固い絆の中心に勇はいる。悪意はどこにもない。山南敬助が背中を向けている。近藤勇のいない新選組に背中を向けている。坂本龍馬の悲劇も始まっている。どこかいい加減な風来坊だった表情が強い意志を秘め引き締まっている。目の当たりにした悲劇の数々が彼自身の悲劇を引き金になっているかのように。世界と向き合う日本となるために。悪意は微塵もない。悪意のない悲劇。葛山武八郎の切腹は悲痛だ。松本良順という医者が勇に言う。手元になる医療道具を彼の目の前に並べながら。どれもこれも外国の道具だと。国のために働く勇に敬意を払いながらもこれからの医療に何が必要かを説く。大事な人を救う手立ては今の閉ざされた日本にはないのである。沖田総司の悲劇を止めることは出来ない。悲劇を止める方法は多くから得ることなのだ。多くの中から良いことと悪いことを悩みながらも選択すればいい。決して簡単なことではないが。
2004.08.08
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土方歳三は正論を吐く。芹沢鴨を討ち取った日から彼らは変わったのは間違いない。だが上意下達の「新選組」を誰か愛するだろうか。近藤勇は正直に頭を下げる。だが彼は歳三を抑えられない。永倉よりも山南よりも彼は土方歳三を信頼している。仕方のないことだが。新しい「新選組」の編成を書き記した帳面の前のページに『豊玉発句集』の走り書きが。『うぐいすやはたきの音もついやめる』ヤンチャな彼の視線そのままのうた。そしてチラリと見えた「山の南」『水の北山や南や春の月』山南敬助をうたった句で知られている。さりげなく盛り込まれているのは歳三が決して山南を疎んじてはいないということ。一点の曇りもない春の月を山南の心になぞらえているという。昔につくった句ではあるがなんのコダワリもなく作られたもの。「近藤さん自信が一番苦しんでいないかと」山南は近藤の心を言いあてる。ヌケガラになってゆく心を。組織では仕事を割り振る者に人はついてゆく。仕事を回さないと一日が終わらない。拒否しようにも仕事は権威と一緒にやってくる。土方歳三は近藤勇という権威を作り出し、その権威の下に組織を回そうとしていた。歳三は仕事を振る。山崎蒸が、斎藤一がそれに従う。システムは組織には必要。だが大事なものを見落とすのがシステムというもの。佐之助は近藤も土方も嫌いではない。しかし愛する女性を助けにいけないのならそこは自分のいる場所ではないと、判断したくなるのは当然のこと。「新選組」が組織として機能しはじめた。だがその歯車は勇をも飲み込んでいる。誠実に謝罪し有能な人材を確保する。勇のコトバに嘘はないが彼もまた仕事をしたに過ぎないのである。
2004.08.01
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繋ぎ止められた船の上でファルコの未来は揺られながら止まっていた。船にこびりついた貝殻をとっている。水の中のキアヌ・リーブスは美しくさえある。リプレイスメント、代理選手。チームはあと3勝でプレーオフ出場なのにアメフトチーム、ワシントン・センティネルズは年俸アップを掲げストに入ってしまった。急遽、監督を要請されたジミーはとんでもない面々を人選する。往年の名監督のやることはスゴイ。元力士の日本人も雇ってしまった。気の荒い警察官に服役囚。泥棒を俊足で掴まえる短距離ランナー。ロングシュートが得意なイギリス人もいる。イギリスと言えばサッカーである。ファルコと違って、他の選手たちの登場シーンは苦笑を誘う。一芸に秀でていることはわかるが、アメフトの素人ばかりだ。だがジミーの人選は的確だった。笑いの中でも登場人物にドラマあり、人間の持つ性格や才能がフィールドの中で全開している。個性豊かなリプレイスメントの選手たち。ファルコ以外はヒトクセもフタクセもあるが、端正なキアヌ・リーブスもまたこのチームのピースに過ぎない。だが彼がいなければこのチームは勝てなかっただろう。他の誰が欠けてもこのチームは勝てなかったように。ファルコの世界は一変する。美しい水中のファルコはヒトクセもフタクセもある男たちに囲まれて、本来の才能がフィールドの中で全開している。心の中で怯えながら試合に出て失敗して逃げ出してシェイン・ファルコはもう、いない。汗だらけ泥だらけである。1987年の実際にあったストライキがベース。「スト破り!」と正規の選手たちの罵倒がこの映画にリアリティを与える。人生の大舞台で決して成功者と言えない男たちが奇跡のような活躍をして再び日常へ戻っていくのである。それもまたリアリティなのかも知れない。だが彼らがあのフィールドで限られた時間を駆け抜けたのは「本当」だ。限られた時間ではあったが、勝利は勝利である。それは、試合の勝ち負けではない。人生の負け犬扱いされたファルコが清々しい笑顔を見せているのだから。
2004.07.29
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2001年9月11日世界貿易センター(WTC)ビルにジェット機激突。ジョン・ムーア監督はこの映画が国威発揚ムードに乗じてアメリカでヒットしたことに対し戸惑いを隠せないようである。インタビューで彼はこう話している。『しかし、注意深くこの作品を観れば、アメリカの政策に対する批判や問題提起を感じ取っていただけるのではないかと思います。』旧ユーゴスラビアの民族紛争が一応の解決を見たという設定でのボスニア。アメリカはまた他国の戦争に介入している。米海軍原子力空母USSカール・ヴィンソンでの実際の兵士の仕事は偵察ばかり。嫌気がさして海軍大尉クリス・バーネットはレイガード司令官に退役を申し出るが聞き入れられなかった。そんな心理状態のままでクリスは相棒のスタックハウスと偵察にでる。セルビア人民軍の残虐行為を撮影したがミサイルで迎撃され打ち落とされる。クリスは敵地のど真ん中に取り残されていた。確かに映画は明確に敵味方を分けている。スタックハウスは殺され、その場面をなす術もなくクリスは直視させられる。獰猛な目線で猟犬のようにクリスを追うジャージ姿のセルビア人から無事逃げてくれと自然にクリスに肩入れする。典型的なアメリカ青年に見えるオーウェン・ウィルソンがねばり強く機転を利かせ追ってを振り切り、次第にカッコよくなってくる。体制に毅然と刃向かい部下を助けようとするレイガード指令官はジーン・ハックマン、英雄に相応しい演技。アメリカが受け入れたのもわからないことではない。2001年9月11日あのあと多くの映画が公開を延期した。日本公開が翌年の3月。だがこの映画は公開後、すなわちビデオ・DVDで思わぬ好反応を見せたらしい。国防省の協力を得ての実際の航空母艦での映像。アイルランド紛争の激しかった場所で生まれ報道カメラマンを経験したというジョン・ムーア監督の演出。オーウェン・ウィルソンとセルビア人役のウラジミール・マシュコフの激闘から目が離せない。散漫な脚本の欠点を覆い隠すほどにしっかりとした映像に仕上がっている。雪の湖上近くに立つ片翼の天使の映像は戦争映画とは思えぬほど美しくもある。紛争の構図や設定、アメリカ側の相変わらすの対応を観ればこの映画は意外と政治的な側面は多い。だが丁寧に組み立てられた映像が観るものを映画の中に引きずり込む。架空の町、ハッチの攻防に緊張し、レイガードの救出作戦にも最後までハラハラさせられる。監督のインタビューの話に戻ろう。彼は影響を受けた映画として「プライベート・ライアン」をあげている。しかも最初の30分だけである。あまり感傷的にならない戦争映画が彼の好みのようである。
2004.07.28
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血の匂いが違っていた。濃密でまだ温かさを失っていない。流れ出た「生」がふんだんに残っている。切断する度に血にまみれながら彼女たちはどうやって正気を保ったのか。あえて彼女たちと言おう。全ての謎を解き終えて満足することなど到底無理なのだ。溢れる血を身体全体に浴びるチョ刑事。スカートをはいて現れたスンミン。美しいスヨンはその時メスを持っていた。そのメスがスンミンの命を奪う。tell me something誰も彼女に大事なことを話さなかった。もし話していればこんな事件は起こらなかった。血にまみれる度にチョ刑事は闇に近づいてゆく。漆黒の闇に吸い寄せられ命を狙われ、闇から逃れようと真相を追うが闇はまとわりつくように彼につきまとい離れない。だがいつも彼の近くにスヨンがいた。彼女が闇を従えていた。血を、ともなって。闇は彼女の過去の中に。血は彼女の現在の中に。重ぐるしくも陰影ある画面の中に大量にあふれる血が浮き出てくる。昼よりもずっと夜が美しい。ハン・ソッキュとシム・ウナ、謎という闇が深く広がってゆくほどに、スポットライトは二人に当たっていた。1999年度作品。人気だけでなく高い評価を浴びている韓国映画、その片鱗はこの映画の中で輝いている。謎の多い作品だが決してわかりにくくない。寧ろ観る者に謎解きを愉しむ「余裕」さえ与えてくれている。俳優の魅力と巧みな演出ゆえの結果である。血の匂いが違う。この映画の中の血は身体から流れ出た「生」の重み。濃密でまだ、温かい。
2004.07.26
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京の町は不穏な空気でピリピリしていた。京の町を守れなかった。勇はこの戦に後悔を残す。彼の大義ははやくも崩れ去っている。「甘味処」の看板娘、まさの心配をする原田佐之助の願いに耳を貸さない。貸せなかったのだ。八木家の長女ひでは自分の家の変わりように戸惑っている。藤堂平助には近づけず、穏やかな山南敬助に声をかけていた。総司と自分と平助と。あの日々はもう戻ってこない。久坂玄瑞と近藤勇。桂小五郎に耳を貸さない久坂と佐久間象山の話を聞こうとする勇。誰にも通じぬ理屈に挫折する久坂とことある事に人の意見ばかり聞く勇。二人に大きな違いはない。孝明帝の賛同も、歴史の庇護もましてや自分の「誠」にも真実はないのだ。ただ久坂が敗れたにすぎない。勝とうか負けようが、佐久間象山も命を奪われる。大きすぎても命は奪われる。ただの一兵卒も命を奪われる。傷つき血まみれになる。まさのいた店はもう燃えてしまった。佐之助は彼女を抱きしめていたが、勇も久坂も誰も抱きしめてはいない。誰も助けてはいないのだ。戦は京の町を燃やす。戦は京の町を燃やす。されど捨助は生き抜いている。蛤を食べたいとボヤキながらも、どこで盗んだのかわからぬ白飯を喰らいながらもそして目前で佐久間象山が殺されたのを観ても久坂たちが死んでいこうとしてもだ。「命を大切にした方が・・・」口いっぱいにご飯粒を含みながら久坂たちの覚悟を否定する。なりゆきで勇たちをも否定する。桂小五郎は直感で捨助の存在意義を見抜いていた。生きていこうとする力だ。生きていこうとする力を、久しぶりに勇は垣間見ていた。寺田屋の女将、お登勢。こんな時代であっても自分に背かず行動を起こせる力強い女性に沖田みつをだぶらせる。久々に本来の勇が姿を現す。彼にお登勢が斬れるはずはない。戦の中で人々は生き抜く者と死に行く者に別れてゆく。自分次第なのだ、と医者は言った。労咳で患った患者の生き様を観てきた医者は若き沖田総司に何度も言う。戦の中で人々は多くを失い絶望している。その声は勇に届いただろうか。
2004.07.25
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史上最強にして最大の王。だがそこまで上りつめるまでには過程がある。ダイナミックな合戦シーンの合間にふと考える枝葉末節。ほんの少し伝説とはかけ離れますがどうぞご勘弁いただきますよう。■みんな仲良し、円卓の騎士。アーサーはとても好かれている。ローマ人じゃない円卓の騎士にとってローマ人のための兵役であったけれど愛国心なんて全然ない。されどアーサーの人柄に惚れている。自由になったら何をする?兵役を終え、愉しげに語らう彼らが時代劇になる。みんなに好かれるアーサーは近藤勇。ランスロットは歳三+山南というところか。原田佐之助のように?所帯持ちもいる。トリスタンはさしずめ、斉藤一か。2004年大河ドラマ『新選組!』の登場人物青春時代の試衛館の面々と彼らがだぶる。■まだまだだぶる、あの作品と。アーサー役にクライヴ・オーエン。ランスロット役にはヨアン・グリフィス。二人は主役級で大作映画にキャスティングされたことはないという。そしてグウィネヴィア役キーラ・ナイトレイは『パイレーツ・オブ・カリビアン』で名の売れた女優。このトライアングルには覚えがある。深作欣二『蒲田行進曲』である。当時は風間杜夫も平田満も無名に近く、松坂慶子との共演に意欲を燃やしたと聞く。クライブもヨアンもさぞかし意欲を燃やしただろう。しかもプロデューサーは角川映画総帥・角川春樹!ジェリー・ブラッカイマーとかぶる。監督アントワン・フークワもデンゼル・ワシントン『トレーニング デイ』を演出。深作欣二と比べられやしないが、実力派なのである。■他にもだぶる、あの作品と。『乱』『天と地と』『ラストサムライ』案の定、アントワン・フークワ監督、やはり黒沢明の申し子だったのである。『ラストサムライ』がよぎったのも仕方あるまい。この映画の円卓の騎士はアーサーを入れて7人。『七人の侍』なのである。氷上の戦い、城壁の戦いと合戦シーンは敵味方のかけひき妙がダイナミックな映像と重なりド迫力である。ちなみに『天と地と』の監督は角川春樹であるが。■ついでにだぶる、あの作品と。『ウルトラマンティガ』かの作品の作戦本部は円卓であったのだ。高木澪の隊長、長野博のヒーロー。7人の隊員たち。■死を乗り越えて伝説になるのか。映画はアーサーの人柄を丁寧に描いている。危険な最後の任務に向かう夜、自分は死んでも仲間は生かして欲しい願っていがその叫びは最後の戦いにてうち砕かれる。彼は二人の円卓の騎士の死を乗り越えてグウィネヴィアと結ばれブリテンの王となる。命を落とした彼らに恥じぬ理想の国づくりを目指すのだと思う。だが死を乗り越える強い意志よりもずっと大切なのは生きてる人間の力なのだ。伝説はランスロットの横恋慕やトリスタンとイゾルテ悲劇が語られているが、それでも二人の力はアーサーの理想の国に注がれてしかるべきもの。この映画のアーサーの側近は残る円卓の騎士では少しばかり心細い。魔性の女グウィネヴィアにコロがされるのがオチである。【黒】のレビューは枝葉末節のレビュー。かえすがえすもご勘弁いただきますよう。
2004.07.24
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ワトソンに与えられた時間は90分。この映画と同じ時間である。彼は最後の最後まで娘を救うために奔走する。おそらく彼は娘とともに殺されるはずだっただろう。ロサンゼルスに娘と訪れた税理士、ワトソン。この土地と彼らとの関わり合いは少ない。その場限りの暗殺者としては最適だったかも知れない。90分。何度も写される大きな時計。少しづつワトソンの背広が乱れてゆく。殺す相手はこのホテルで演説会を行おうとする知事候補。夫のサポートを受け、意気揚々と出番を待っている。舞台は高層ホテル。階段から見下ろすカメラと見上げるカメラ。手持ちカメラの軽快なフットワークが生きる。ワトソンが動き、スミスが監視する。息抜きとなるのは靴磨き職人ヒューイの存在。彼の心の葛藤が出した結果がワトソンの運命を大きく変える。ワトソンに考える暇はない。娘を助けようとするタダの父親。税理士として新天地での生活をどうやって生きていこうかという計画も90分の間は粉砕している娘、リンを助けなければ彼はもうタダの父親には戻れないのだ。良心の呵責や葛藤は当然ある。だが90分の間だけ彼は全てを払いのけ、その先の未来を手にするために戦わなければならなくなった。もう、普通の人ではいられないのである。その90分を演じるのはジョニー・デップ。珍しい普通の父親の役とされている。だが彼のワトソンはこの時間に何をすべきか分かっている。この時間は二度と戻らず、この時間だけは普通の父親ではいられないことを。対するスミスはクリストファー・ウォーケンパートナー役のローマ・マーフィアとともに、不気味な存在感を醸し出している。映画の仕掛けの面白さがこの90分の重みを「後ろ」に追いやったかも知れない。陰謀が成功すればどうなったのか。はたしてワトソンは普通の父親に戻れたか。たった90分だが、大きな運命を左右する時間だったのである。
2004.07.23
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それは最後の上映作品だった。人通りの少ない地下街にあった映画館が観客にくれた至宝のプレゼント。パラパラとした拍手はやがて大きな喝采となる。映画そのものに、そして。映画館の方々に贈る花束として。『天井桟敷の人々』1945年のフランス映画。前後編とあり3時間を越える大作である。少し歴史を紐とけば当時のフランスの時代背景は想像しやすい。ヒットラーの自殺が1945年4月ベルリン陥落が5月に入ってすぐ。そんな時代にこの映画は作られていた。恋や夢、芸術にあふれ、数奇な運命に弄ばれた男と女。だが天井桟敷には観客が芝居を観るために鈴なりに溢れていた。第一部:犯罪大通りちょっとした青春の物語。1800年代のパリ、通称犯罪大通りにて芝居小屋「フュナンピュール」座に集う若者は自分の生み出す芸術を恋に忙しかった。パントマイム役者、バティストたちが恋したのは色っぽい女芸人のガランス。二人が惹かれたのはまさしくお互いが持つ自由な気風。しかも当時流行だったという無言劇に対し、セリフ劇に情熱を燃やす若者もいる。時代は変わろうとはしていたが、ガランスに訪れるのは哀しい運命だった。第二部:白い男では数年後の彼らがいた。バティストとガランス愛し合っていた二人は互いに違う異性を結ばれていた。芝居小屋の娘と家庭をもったバティストと伯爵の愛人となったガランス。二人は再び求め合うがもはや昔の二人ではなくなっていた。そして時代はセリフ劇へ。大衆の支持を浴びるのはあのシェークスピア劇。幾度も幾度も、様々な舞台がスクリーンに現れる。バティストのパントマイムは絶品。女優は立つだけでも美しく、時代を先取りしようとする役者は大衆の前を毅然と歩く。時に詩人が人生を手前勝手に唄う。幾度も幾度も。舞台は舞台袖より広がり幕を通り抜けバティストたちの青春も愛情も全部覆いつくし、やがて全てが舞台に変化する。観客はいつしか、天井桟敷の人々となる。映画雑誌で常に高い評価を受ける作品。だがこの日の観客は名声を観にきたのではない。『天井桟敷の人々』1800年代のパリを舞台に役者たちの愛と青春を描いたドラマ。じっくり楽しめたからこそ、劇場は拍手に包まれていた。
2004.07.22
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大人の恋は厄介である。色っぽい艶っぽい物語は数あれど、恋と気づくまでが厄介でおまけに自分を納得させるのも厄介。しっとりするには少しばかり手間暇かかる。恋になるまでの大人というのは、実はコメディなのかも知れないのである。熱血弁護士ルーシー・ケルソンと最大手不動産会社のオーナー、ジョージ・ウエイド。コミュニティ・センターの取り壊しを巡り、いわば敵同士の二人が仕事仲間になる。知性ある弁護士をジョージはもとめルーシーはセンターの取り壊しを阻止するために敵陣営に入り込んだはずが、巡り巡って結ばれることになるのだが。そんなに、カンタンにはいかない。同僚メリルの結婚式途中にジョージにケイタイで呼び出されてみればクローゼットに山ほど並んで背広を指さし、どれがいいか選んでくれ、という。パンツ姿で情けない顔をして。夜中にだって呼び出される、くだらない用事で。かたやハーバード大卒の完璧弁護士、仕事も一流、決断力も一流。ジョージに似合う背広をいともカンタンに選んでしまう。ルーシーもまた酒に酔っては高いびき。何かあればすぐヤケ食い。恋になるまでは知られたくないよなことを隠さず二人は露わにしている。テニスや野球観戦、リッチなディナー・クルーズ。二人の恋を育んだのは普通のデートじゃない。劇的にお互いの良さを認識できるようなエピソードがあったわけでもない。だがジョージは彼女がいつも自分にとって最高の決断をしてくれたのを知ってる。ルーシーは彼がここぞと言うとき、彼女のために動いてくれたのをわかっている。腹痛で苦しむ彼女を自ら運んでくれただけじゃない。彼女の熱血ぶりは時に回りに疎まれるだろうに、彼はいつもはにかんだ顔をして半ばおもしろそうに受け止めてくれていた。幼い頃の写真が流れていた。それぞれの生き方をしていた。全然違う生き方だった。大人になってしまうということは頭デッカチになることでもある。普通のデートじゃ恋は見つからない。経験が邪魔をして恋に気づかない。気づいても意地をはって認めたくなくて遠回りをしてしまう。厄介なものだ。だからコメディになる。サンドラ・ブロックとヒュー・グランドの共演。息をあった演技で二人の関係を見せてくれるのはケンカしながらも自然と動いてる皿の上の食べ物。相手の嫌いな食べ物を自分の皿へ、またはその逆。厄介な大人の恋が見事なラブコメになる。恋だとやっと気づいても、彼らは今まで違う生き方をしてきた。これからも厄介だろう。だがこれからもきっとコメディなんだろう。
2004.07.20
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いくら彼が仲間を遠ざけようとも円卓の騎士は逃げ出さない。彼らは言う。ローマのためでもない、他の何者のためでもない。「アーサー、あなたについてきたのだ」と。ルシウス・アルトリウス・カストゥスまだ王と呼ばれる以前のアーサーは城壁を守る指揮官だった。15年にも渡る兵役を終えたはずの騎士たちに最後の指令と称する任務が与えられる。ローマの理不尽な命令に対し上官にあたるゲルマヌス司教であろうが激しく怒りをぶつける男である。氷上の決戦にてもアーサーは安全を確保しながらも機敏に部下を指揮する。割れない氷を割ろうとして自らを犠牲にしたダゴネットを助けるためアーサーは躊躇なく突進していく。二人を助けようとランスロットたちは必死に矢を仕掛けている。アーサーと円卓の騎士たちの結束は固い。「友よ、これが最後だ。」サクソン軍に囲まれた城壁に一人残り、自分の理想を貫こうとするアーサー。負け戦に騎士の援軍を求める彼ではない。彼らがやっと得た自由を奪うつもりなど毛頭ない。そんな男だからこそ、騎士たちはせっかく得た自由を捨て、アーサーの隣りに馬を進める。ブリテンを守ろうとするウォードもマーリン、グウィネヴィアのもとアーサーの援護に回る。大軍の数を知略により見事に減らし、最後の決戦は剣と剣の戦いとなる。円卓の騎士。その丸いテーブルに座る者に身分はない。アーサーの理想は気高い。それは奴隷を認知するローマの政治ではない。殺戮や強奪を認めるサクソンでもない。また、ウォードは彼の家族の命を奪った相手。彼は理想を持っている。それは現実にはありえないもの。だが、彼は戦う。だからこそ、彼に従う者がいる。アーサーの激しく重い剣さばき。グウィネヴィアは敏捷に獣のような動きを見せる。背中に二本の剣を背負ったランスロット。舞うように華麗に剣を操る。黒い土が飛び跳ね砂埃が立つ。剣と剣を重ね合わせる激しい激闘は日本の大作時代劇を思わせる迫力である。伝説とは違う結末である。すべては最後の決戦に収束する物語である。
2004.07.19
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苦虫をかみつぶした顔で坂本龍馬は叫んでいた。近藤勇に、桂小五郎に、望月亀弥太たちに。宮部鼎蔵が斬りかかる。近藤勇が太刀を振るう。愚かだとあざ笑う宮部に一点の曇りはないと言い放つ勇。寄って立つ大義の背景には京の町を大火から守り、八木家と人たちを守る気持ちがある。彼らしい優しさではあるが、もはやそれも自分を偽る言い訳に過ぎなくなっていた。もし、桂小五郎が会合に参加していたら。宮部たちを止められたか。それとも勇の太刀に露と消えたか。いずれにしても捨助の失敗が歴史の流れを変えていた。舞台は池田屋。雪崩れ込む新選組に立ち向かう志士たち。勇は豪快に剣を振るえば足下には死体の山が気づかれていた。怯え震える者も入れば若い命を散らす者もいる。階下での斬り合いが終われば階上では別の斬り合いが続いていた。階段から転げ落ち死する者、病の急激な進行に血を吐く沖田総司。わずかな油断で刀傷を受ける藤堂平八。やっとのことで池田屋に到着する歳三たち。永倉新八、斉藤一や原田佐之助の太刀に迷いはないが、井上源三郎はいつもと違う剣客の顔を見せていた。龍馬は剣を抜いた勇にも見殺しにした桂にもそして絶望を顔に焼き付け死んだ望月にさえ怒りに似た感情を見せていた。なんと愚かな結果だろう。京の町の治安は守られても、徳川幕府には未来はなく、だが急進派は京の町に犠牲を強いていたうえ、それを止めようとした桂は不在、佐久間象山は長州の側に立つ気はない。しかも京の町の人々はまるで物見遊山だ。イカを食べる捨助が戦と民衆の距離感を体現している。みんなバカじゃき。争いの結果、得られるものと、失った命の重さを比べてみればいい。古くからの知り合いを失い、嘆き悲しむ龍馬を観ればいい。古くからの知り合いたちが、争いあう姿に苦虫をかみつぶしたような顔で叫ぶ龍馬を観れば、いい。彼の中にはいつも、愉しかった思い出が残っている。あの思い出の登場人物たちが今、敵味方に別れているのだ。池田屋事変。祇園祭で賑わう京の町にて。多くの人たちが目撃したのは優しくて誠実な近藤勇ではなく新選組局長、近藤勇だった。
2004.07.18
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人生にには様々な選択がある。勝ち負けのない平穏な明日を選ぶのか。勝利者として美酒に酔うか。それとも敗北者として無様に地を這うか。ギャンブルではどんな決断も二度と後戻りが出来ないものなのである。法学生でありながらポーカーの天才。若者たちの群にあってもはや異質の存在。マット・デイモンという役者は不思議と異質な存在が似合う。『グッド・ウィル・ハ ンティング』しかり。恋人との手堅い暮らしに人生を委ねようとするが友人ワームのトラブルに巻き込まれギャンブルの世界に染まっていくマイク。イカサマにまみれたどうしようもない男をエドワード・ノートンは奔放に演じている。地味な映画ではあるが脇役の演技が映画に緊張感を作っている。ジョン・マルコヴィッチのロシア・マフィア。若きマイクの指南役であるポーカーのプロにジョン・タートゥーロがいる。彼の人生の選択もまた趣深い側面がある。大学側のマイクの理解者である教授はマーティン・ランドー、この作品の良心である。ワームを従え、堂々とテディKGBとの勝負に挑むマイク。敗北者には死が用意されている。細かい演技を続けるエドワード・ノートンに、迫力の怪演、ジョン・マルコヴィッチの相手だ。だが坦々とマイクは勝負と続ける。追い込まれた状態の中で彼の観察眼が冴え渡る。そうだ、追い込まれたときこそ観ることが必要となる。観ることから初めて五感で感じる情報こそが、逃げ場のない状況における最大限の力。目の前の相手の表情、一挙手一投足もすべて貴重な情報となる。個性的な脇役に囲まれてても臆することなく画面にはいつものマット・デイモン。キャスティングの妙が浮かび上がってくる。彼はまさしく異質な存在となりラストシーンへと雪崩れ込んでゆく。ポーカーの闇の世界。恋人のいる法学生としての世界。どちらも彼は選ばなかったのだ。ただポーカーの世界で金を稼ぐのでなく、法学生として勉強をつづけ平穏な恋人との暮らしを選んだわけでもなく。より勝ち負けの激しい世界へと身を投じてゆく。ギャンブルの世界だ誰の未来もどうなるかわからない。だがマイクらしい選択だ。法学生であってもギャンブルと手が切れず、ワームの失態にも根気よくつきあっている。恋人との別れも実に率直だ。自分に偽ることなく。二度と後戻りは出来ないのだから。
2004.07.17
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1966年度作品。アメリカに亡命してきたチェコの科学者ヤン・ベネス博士を救うには新しい技術試してみる他なかった。医療スタッフがミクロ化して脳出血の部位を治療するのである。ただしタイムリミットは60分。サルバドーレ・ダリがデザインしたという人間の体内の中を潜行艇が進んでいく。小宇宙。5人のクルーは目を見張り無数の血球が流れる体内の神秘に息を呑んでいた。アメリカの諜報部員のグランド、艦長のオーウェンスと3人の医療スタッフがメンバー。画期的な体内への潜行は勿論、モニタリングされていた。しかし計画は思うように捗らない。心臓を無事通過し、脳へのルート確保のためベネス博士の心臓を60秒間だけ止めるという賭け。静かになった体内を進む潜行艇の内部に緊張感が漂う。いきなり心臓が動き出し、暴風域の肺へ。エアボンベの故障、レーザー銃の故障だけでなく、裏切り者の存在も発覚する。タイムリミットもある。次々と展開するエピソード、目が離せない。ガジャーン!!手術室の看護婦がハサミを落としただけのこと.だが体内では大音響だ。異変を察知して襲ってくるのは抗体。実体のない抗原である音の代わりに、クルーたちが標的となる。免疫なる抗体がまるで不気味なクリーチャー。ブニョブニョした動きが恐怖を誘う。さまざまな映画で引き起こされるさまざまな「感動」がこの映画には詰まっている。幻想的な体内のシーンに驚き、さまざまなトラブルにハラハラする。突然の恐怖に身体を凍りつかせ、タイムリミットの心配をする。歳月を経れば色褪せるものも多いがこの映画に詰められた「感動」そのものは色褪せることはないだろう。後6分。間際で治療を終えてギリギリで生還する。瞳からクルーたちが脱出したときの「感動」。こういう「感動」の一つ一つが紛れもなく映画を観る愉しさなのである。
2004.07.15
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アフリカの大自然に彼女は一体何を期待したのだろうか。イタリアで何一つ不自由のない生活をしていたが交通事故で瀕死の重傷を負い人生をやり直そうと幼い頃から憧れていたアフリカに渡る。同じように交通事故で妻と亡くしたパウロと一人息子エマと一緒に。『L.A.コンフィデンシャル』で妖艶な演技を見せたキム・ベイシンガーが実在の主人公を熱演する。自然保護活動家クーキー・ゴールマンの辿った運命は人生をやり直すどころが過酷で悲惨だ。冒険にうつつを抜かし始めた夫は交通事故で命を落とし、一人息子は大学入学を前にして趣味で飼っていた蛇の毒で死んでしまう。物語の冒頭では既に愛犬がライオンに殺されている。アフリカ、ケニアの映像が美しい。地球に残された最後の楽園と評される広大な景色に心惹かれる人が多いのを納得させられる。太陽の朱に色づくサバンナ。極彩色のフラミンゴ、象やシマウマが自然のままに存在してる。空はどこまでも続いているかのように地上を隅々まで覆っている。クーキーの夫はサファリに出かけると何日も家を空けてしまう。息子はいい青年ではあったし、蛇の管理には細心の注意を払っていたが、つい、気を抜いてしまっていた。母親の注意を聞かずに。男たちは自然に命を奪われるのではなく自分たちの不注意で命を落としてしまっていた。自然が彼女から奪っていったものよりも自然が彼女に与えてくれたものの方が遥かに大きかったように見える。生きるとはどういうものなのか。スワヒリ語をマスターし、住民とのコミュニケーションをとる家の修理も自分で行い、生活の工夫を怠らない。愛情は密猟者で苦しむ動物たちへ傾く。ワシントン条約で悪質な象牙密猟は減ったそうだが稀少価値の高い象牙を狙う者たちは多い。クーキーは夫と息子を失い、妻と母であることを辞めてしまっている。まるでそのことが彼女の人生のやり直しであるかのように。それが自然の導きなのか。熱演ではあるがキム・ベイシンガー、妖艶でないキムが受けなかったのか。2001ゴールデン・ラズベリー賞にノミネートされている。確かに美しい自然の中でクーキーがどう変わったか消化不良なのはどうしても否めない。だが設定だけでも読み解けるところがある。最低女優賞、惜しくも栄冠はマドンナに。この年は『バトルフィールド・アース』が賞を独占!美しいケニアの自然。そこに住む人たちは生きることに忠実だ。都会に入れば観ることの出来ない景色が広大に、雄大に広がっている。
2004.07.13
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超大作である。超大作ではあるが。製作費220億円という豪華な金額とは裏腹にサム・ライミ監督は相変わらずだった。せっかくなので枝葉末節のレビューにてゆっくりと咀嚼してみるのである。■演技派トビー・マグワイアの演技。トビー・マグワイアと言えば演技派である。得意ワザはナイーブな青年。ピーターの育ての親、メイ・パーカー役のローズマリー・ハリスはトニー賞合計7回受賞の女優だが微妙な心の機微を繊細に表現した実力派トビー。だがそれだけではない。CGが見せ場の派手なアクションシーンではいくら主演男優でも小さくしか映らない。だが小さくしか映らなくても彼は人を救うときカッコイイヒーローの顔をしていた。■華麗なる絶叫のバリエーションアメコミの世界では一般人も突然の災難に襲われる。「キャーーーーーッ!!!」若い女性の叫び声。「グワアアアアアア!!!!!!」男性の叫び声。役名のない俳優さんたちは突然アップになりこれでもかこれでもかと絶叫を聞かせてくれる。極めつけはキルスティン・ダンストの絶叫。素晴らしいのである。ヒロインの絶叫はホラー映画の是非を左右する。さすがはサム・ライミ監督。でも、本作はホラー映画ではなかったはす。■ホラー映画じゃないんだけれど。絶叫はホラー映画の必須アイテムである。だが金属製アームたちはとっても残虐だった。金属製アームにはとっても殺意があった。邪悪は悪意は邪悪な殺しを行う。人間の頭を喰らうように潰してゆく。襲われた医者の一人は電動ノコギリでアームを切断しようとしたが金属製アームの一斉攻撃によって命を失ってしまう。ホラー映画である。さすが監督!■舞台俳優の手は豊かに演技する。ドック・オク役のアルフレッド・モリーナ。さぞ青バックを背にして暴れまくっていただろう。宙づりにされたことだろう。だがその手は指の先まで表現を怠らない。舞台で評価を受ける俳優さんには特徴がある。感情を大きく出すと体中が動いている。動かさなくても醸し出される雰囲気や存在感。ローズマリー・ハリスだけでなくDr.オットー・オクタヴィウスの妻ロージー役のドナ・マーフィーも舞台女優。彼女の死もまた印象深く心に残る。■遊びゴコロを忘れずに。二度にわたってご登場。「スバイダマ~ン、スバイダマ~ン♪」音をハズして街角の歌姫はヒーローご本人の前で唄う。ウキウキ、ピーターのテーマ曲は「雨に唄えば」!編集長はファンを喜ばすために?ピーターをクビにし、家主は「家賃!家賃!」とヒーローを追い詰める。ああ、サム・ライミ監督!!あなたに超大作は似合わない。哀しいかな、昨今の映画はおもしろくはあるが合理性がチラリと見える。お金がかかるのだ、映画って奴は。莫大な製作費ではあるが金銭感覚も働いている。あからさまではないがチラリチラリ。できればどこかで観たいものだ、サム・ライミ監督。低予算のスパイダーマンをあなたの監督で。かなわぬ「夢」だろうか?
2004.07.12
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慟哭が聞こえる。自分を偽ると必ずどこかに軋みが生じる。打ち消そうとしても傷はより深まり痛みは強くなるばかり。永倉新八の詰問に対しても偽りの言葉が口をついて出てくる。その度に傷には塩が塗り込められてゆく。尊皇攘夷という思想は禍々しいまでに分裂していた。勇は攘夷そのものは肯定している。だが山南は説明する。「幕府を倒しての攘夷」というものを。松平容保の信頼厚い近藤勇が歴史の表舞台に立つことを願う山南もまた苦渋の表情が増えている。京で大きな仕事をしようと信念に燃え難しい局面を幾度も共に乗り越えた仲間たちへのにこやかな微笑みがカゲを潜めている。新入隊士に自分の印象を聞く勇は自分が今どうなっているのかを改めて知る。斬ることを拒む谷昌武の言葉に自分がどう変わろうとしているのかを改めて知る。だが、変わっていない自分を知る。つり下げられた古高俊太郎に一礼する。そして視線をしかと相手に合わせ名を名乗る。「私は新選組局長、近藤勇です。」歴史に刻まれた近藤勇の顔で木刀で盗賊に向かっていったり、ヒュースケンに親しみを感じたり、永倉を救おうとした近藤勇を覆い隠してしまった。「思い悩む」のはいい。勇が大きくなるには必要なことだ。山南は切望している。こんな時代にこそ信念をしっかりと持った男を、近藤勇を歴史の表舞台にたたせたいと。そのための犠牲なら致し方ない。しかし彼はなかなか剣を抜かない。剣を抜いても斬ろうとはしない。芹沢襲撃のあの日も。かつて清河八郎を追い詰めた時も。中山道・本庄宿でも横柄な浪士に対しギリギリまで剣を抜こうとしなかった。歳三に救われはしたが。『烈風を期とすべし・・』武田観柳斎の見つけた書状の一文が新選組を池田屋へと向かわせる。単純な図式で善と悪を区別して。慟哭が聞こえる。池田屋事変はかつての近藤と山南を飲み込んでしまおうとしている。見廻組を率い佐々木只三郎が上洛。池田屋襲撃に会津藩の加勢は来ない。近藤も山南もそして歳三や総司たちも彼らだけでない皆どこかで痛みを痛みで覆い隠そうとしていた。追記:シリアスなはずの斉藤一が切ない今回のお話のホッとする一幕に。一人変わらぬ原田佐之助の違和感にもついでにホッ。
2004.07.11
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スパイダーマン、何度もスクリーンでマスクを脱いでいた。ピーター・パーカーが現れる。マスクの下にあるはずの表情が露わになる。思いのままに能力が操れず苦悩する顔や、ドック・オクが暴走させた電車を必死になって止めようとしている顔は激しく苦痛に歪んでいる。乗客やハリーやMJにも顔を見られている。青い瞳にピーターの優しさが詰まっていた。ドック・オクとの素顔での対面も激しい戦いにおける憎しみではなく科学者としての尊敬がピーターの顔にあふれている。アメコミの世界が現実に持ち込まれる。架空の世界はリアリティを与えられる地球上で核融合を起こす場合太陽と同じように超高温である必要がある。だが核融合がもたらすエネルギーは膨大だ。原子力に頼らない資源の開発は昔から急務の問題ではある。だがDr.オットー・オクタヴィウスの実験に多くの人が巻き込まれ死んだ。金属製アームを制御していたチップが壊れ、知性ある科学者はドック・オクに変貌する。彼がもたらした死は純然なる悪意によるものではない。失敗した実験が人々を巻き込んだのだ。金属製アームが邪魔者を排除した。実験とはそういうもので暴走する機械に感情はない。だがDr.オットー・オクタヴィウスは愛する妻を失っていた。アルフレッド・モリーナの表情には悪役としてのデフォルメがない。電車の暴走やピーターの叔母たちを人質にしたりするが最後まで科学者であったように見える。派手ではないが上手い。MJ、ハリー、雑誌の編集長まできちんと心情が丁寧に描かれている。ピーターの育ての親、ベンとメイの存在がピーター・パーカーという人物像を浮かびあがらせている。二人に育てられたのだから、彼は弱者や困った人を見捨てられないのだ。つい、気づいてしまうのだ。単純に悪役が死ぬまでの物語ではない。名もなき人の死がヒトコマで終わるわけもない。幾度となく顔を露わにするピーター。傷ついた童顔の彼を電車の乗客の一人は自分の息子と重ね合わせていた。架空の世界にリアリティが与えられる。おそらくそれこそが、サム・ライミ監督の仕掛けなのだろう。
2004.07.10
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