全10件 (10件中 1-10件目)
1
さあ、身体を前倒しにして、ブラの中にオッパイをしっかり入れて・・男二人が恥じらいながら装着するのはブラジャー。日本の大手下着メーカー「シス」の香港支社ではじめて男性デザイナーが採用された。ブリーフのデザイナーだったのジョニーは、オッパイの代わりに水の入った袋を赤いブラに入れている。工業デザイナーだったウェインは、人工乳房をどんな感触でブルーのブラの中に入れているのか。指導する女性チーフデザイナーのレナの声は二人の様子に笑いをこらえている。あ、人工乳房がはみ出ている。女性だらけの「シス」の香港支社に男性デザイナーが配属されたのは新ブランドを立ち上げて売り上げをあげるため。日本側の命令に香港支部長のサマンサは動揺を隠せないが受け入れるしかない。チーフデザイナーのレナと同じ待遇で、迎え入れたジョニーとウェインだが、まだブラジャーへの理解が少なかった。勝手に作ってきた試作品ブラジャーもつけ心地が悪く、モデルの評判も悪かった。ジョニーもウェインも、毎日職場で美しい女性に囲まれて、悦びに満たされているようでもあるが、仕事に対しては真剣である。レナに指示されて街中を駆けずり回り、いろんなブラジャーを買い集めているときも、またまたレナにふっかけられて、女性用の下着を装着させられる羽目になっても、取り組んでいるときは手を抜かない。女性たちもまた必死である。香港支部長のサマンサは社を代表してプレゼン。レナはファッションショーで自分のイメージを表現したいが制約がありままならない。プライベートでも恋愛は上手くいかず、仕事に対するプライドの高さもあいまって一人キリキリ悩んでいる。そんなときサマンサにはジョニーが、レナはウェインが何気なくフォローする。男性陣は底抜けに明るく前向きである。2001年の香港の作品だが、日本公開は2006年のようである。ややこしい邦題名だが「絶世好Bra」がタイトル。登場人物たちが作ろうした究極のブラがこの映画のタイトルである。そして男性デザイナーが出した結論は、「愛する男性の抱かれている感触」の再現。だが物語はサマンサとジョニー、レナとウェインの恋愛が成就して大団円となる。ラブコメなのである。華やかで美しい女性たちの間で、底抜けに前向きな男二人がジタバタしている。キャストが魅力的だから、物語に大きなクライマックスはいらない。サマンサには演技派カリーナ・ラウ、ブラジャーの理論を語る彼女は美しく気高い。ジジ・リョンの演じるレナは、ヘンな声をだして威張っているが、ショートカットが似合う本当に愛らしい女性である。ラウ・チンワン、ルイス・クー、数々の幅広い作品をこなしている男優は、コメディのタイミングをよく知っているようだ。ブラジャー姿の女性たちに囲まれても、嫌みがなく軽やかである。観ているだけで楽しく小さなエピソードに顔が弛む。誰も彼もが真剣だから仕事の成功にも、恋の成就にも好感度がもてる作品になっている。1997年の香港返還後から、若い女優たちが飛躍的に活躍するようになったそうである。ジジ・リョンもそうだが、『墨攻』でアンディ・ラウの相手役だったファン・ビンビンの名も上がる。香港における歴史的な変革は映画にも大きな変化を与えたのは想像に難くない。この作品にしても日本人女優も出演している上、ラウ・チンワン、カリーナ・ラウは東京でラストシーンを撮っている。アジアだけのテイストに留まらない演出だがアメリカ映画とは違うベクトルで登場人物たちが真面目で一途である。コミカルなシーンでも役者たちは真剣そのもの。男のブラジャー装着や学生服姿のコスプレ、演技派女優も下着姿を見せてくれている。ハチャメチャだが真剣なラブコメなのである。香港映画ではお馴染みの俳優もカメオ出演、そう言えばジャッキーチェンも香港映画にカメオが多い。ジャッキーもアクションも魅力的だがコミカルな姿も楽しいのが彼の持ち味ではある。「恋するブラジャー大作戦(仮)」この作品の楽しさが味わえたことで、映画を観る幅が広がったような気がした。
2007.08.12
コメント(4)
武侠小説が映画になると、奇想天外支離滅裂で楽しい。武道家が流派に別れて争ってる。“玄暝神掌"“九陽神功"などワザも盛り沢山!重要なアイテムは秘剣、屠龍刀。そして物語の始まりは、幼きヒーローの親が無残に殺され、復讐を心に誓うことから始まる。しかし運命の子モウケイは呪いによって、カンフーの技は封印されてしまっていた。原作は『倚天屠龍記』、1993年の作品。しかもリー・リンチェイとサモ・ハン・キンポー共演という豪華さ。少林寺・武当・華山・峨眉・昆侖・空同の六大派とペルシャを拠点に領土奪還を図る明教とのバトル。個性豊かな武闘家たちにはお色気担当もお笑い担当も「込み」である。思わぬ裏切りに強大な敵のカゲが。呪いの封印のおかげで、カンフーの修行も出来ずに育ったモウケイ。16歳になっても仲間たちから苛められてた。味方になってくれたのは、師匠でもあり、六大派側の老師チャン・サンフンだけ。十代のヘタレのモウケイ、演じるリンチェイは当時30歳だが若々しい。呪いを解くには老師の敵が習得した"九陽神功"のみ。だがそいつは封印されていたが、ドサクサに紛れて知り合って、習得して呪いは解かれて大変身!モウケイは超人的なヒーローとなる。付き従うは可愛い下女のシアチウ。明教側だというが、正体はわからない。「モウケイ様~♪」と愛らしい娘から、自分が明教の白髪魔王の孫だと知らされる。老師の元へ帰れない彼は行き場なく、敵であるはずの明教の元へ向かう。武侠小説の映画化の醍醐味、バトルの派手派手シーンは盛りだくさん。技が決まると相手は吹き飛ばされるのである。壁がめり込むほどに大地が割れるほどに。師弟や仲間、親子の縁も濃厚に。モウケイは母から貰った飴を肌身離さず胸に持っていたようだ。5年?いやいや10年以上は。それでもさすがに、リンチェイはもちろん、サモ・ハンの動きも相変わらず素晴らしい。六大派と明教を調停したモウケイ。しかし、敵は元の皇帝の娘であったのだ。スケール壮大な物語はまだまだ続きそうで、実は三部作の二作目らしいが、続編はないようだ。武侠らしいサービス満点の作品なのに、勿体ない話であるがこれも、香港映画らしい顛末なのだろう。
2005.10.04
コメント(2)
死を目前にした老教授のために教え子である医者は彼の望みを叶える。「女に抱かれて眠りたい」医者は教授の願いで病院から連れだし、知り合いの娼婦に彼を託す。香港島・燈篭州街。ビルの谷間は、猥雑な裏街。屋台が建ち並び、娼婦やチンピラがたむろする。そこに医師の看板を掲げるのは、劉文こと、マック・ラウ先生。かつては大病院の研修医を勤めていたが、今は白衣を着なければ医者とはわからぬほど、ボサボサ頭に無精ひげの男である。トニー・レオンがにこやかに、親しみのある笑顔を街の人々に投げかける。日本の漫画が原作である。暖かい表情をするトニー・レオンに、ずっと引き込まれる作品でもある。そして、彼にはジャズがとてもよく似合う。1995年、リー・チーガイ監督作品。哀しい運命を持つ娼婦や、愉快な性格の警察官、大金持ちの令嬢、出世にしか興味のないエリート医師など、多彩な人物がラウ先生を取り囲む。喜劇でありながら、流れる音楽はジャズ。乱雑に物語りは進んでいく。地位のある男と普通の少年が負傷した。ある医師は迷わず、地位のある男を手当する。その男を助ければ、トクをするのは見えている。だが、ラウ先生は少年を手当した。迷わず、少年のために、手当した。医は仁術という。仁術とは他人に対する思いやりの心、思いやりとは、他人に気を配ることを言う。ラウ先生は、恩師の老教授に娼婦を紹介した。余命いくばくもなかった教授は、何もしないまま女性の横で息絶えた。「女に抱かれた眠りたい」その死は、彼の望みに近かったはずだ。手厚く治療が施され、その果てに、病院のベッドで死ぬことを望んではいかなった。人を思いやることは、時に常識と覆す。だが、子宮の病を持つ娼婦の心の傷をも、ラウ先生は包み込んでいたようだ。それでも、だ。助けられないときがある。いくら思いやることができても、助けられないときがある。だがら、ラウ先生は、等しく助けようとする。出世を願えば、裏街ではなく大病院がいい。娼婦を診るよりは、地位のある者を診ればいい。だが、彼は燈篭州街にいる。実は、ラウ先生の免許は英国植民地のアフリカのもの、その国が独立したので、香港での免許は失効である。だが免許など関係ない、この裏街の人々には、ラウ先生こそ、医者だったのだ。出生を願う医者は、地位のある者を助ける。だが、医は、他人を思いやること、無精ひげがだらしないラウ先生だが、彼はそのことをかたときも忘れないでいた。
2005.09.03
コメント(4)
香港に吸血鬼さんがやってくると、ヴァンパイヤ・スレイヤーはイーキンになるのか。イーキン・チェン、優しい顔のオットコ前、1967年生まれだから、もう中堅さんかな。冒頭から、キリッと、カッコヨシなのだが、残念ながら、今回は脇役である。彼が演じるのは、リーヴという男、相棒で恋人の女性を戦いで亡くして「もう、相棒はいらねえ」と、一人がんばる。が、そこにやってきたのは「リ~~ヴさま~~!!」とばかりに、憧れの英雄につきまとうジプシーである。彼女も一応、見習いだがヴァンパイヤ・スレイヤーである。実はリーヴの妹ヘレン役の女の子と、香港で有名なトップアイドルユニットらしい。確かに、カワイイわ、うん、ホント。そこにジャッキー・チェンが親切な?救急隊員の役で絡んでくれて、ウキウキ・ジャッキーアクションを見せてくれる。ストーリー本体に、全く関係なしのに、ジャッキーの出番は異様に多いぞ、目立ってる。そうそう、カレン・モクさんもいる!とっても男らしい?ジャッキーの婚約者役。吸血鬼の王族を、香港の方が、ヨーロッパテイストな感じで演じてるという、まあ、なんでもアリで実によろしい(え、肯定か?)香港俳優さんたちが戦うのはとっても邪悪そうな西洋の吸血鬼さんたち。東洋(ええもの)×西洋(ワルモノ)みたいな絶対、世界で通用しねえぞ、な展開が、「ああ、エエもん観てるわ」的刺激なのである。良い演技、良い演出、こった小道具に大道具、心に染みる脚本に、歴史に残る映画音楽などなど。それらを観ることは人生の潤いだと思うけど、もう、思いまくってしまうけど、ジャッキーが楽しそうにアクションしてるの観てると、ウキウキするんだから、仕方ないのである。一体、台本はどこにある?アドリブはどの程度だ?みたいなの。なんでもかんでもセオリー通り、じゃなくて、たまにはご機嫌なハメはずし、香港のアクション映画は、やっぱり楽しい。「夜と昼の書」というのがあって、デコテス公爵(西洋の人、なかなか怪演!)はそれを手に入れてヴァンパイア一族の頂点にたとうした。吸血鬼一族の最後の生き残りの王子も手に入れ、もはや、権力を手に入れたも同然ってとこで、立ち塞がるのは、ジプシー、ヘレンのお二人。アイドルらしいのだが、汗と涙の努力がメイッパイ見えるような、それなりのアクションシーンを演じてくれている。悩めるイーキン、ラブストーリーなイーキン。でもって、カッコイイ、イーキンのはずがアホアホな理由で、吸血鬼と成り果てる。ヒロインと戦わざるを得ないシチュエーションは、ある意味、サービスってもんだな。おまけのはなし。吸血鬼が昼も歩ける秘伝のクスリがさ、肌を真っ黒に塗りたくるって設定なのだ。クスリが切れれば、シュンシュン、湯気がでる。やっぱり、世界に発信できねえぞ(笑)
2005.03.28
コメント(4)
母親に連れられてアーロン少年がやってきたのは京劇学校。もう、勉強しなくてもいいから、なんとなく彼は嬉しそうだ。でも、母親は哀しい顔をしながら契約書にサインをしていた。さぞ、貧しい家庭だったのだろう。京劇を学ぶ代わりに、息子の衣食住は保障される。デカ鼻の子供は後のジャッキー・チェンである。1962年、アーロンは9歳。京劇学校の年長者、サモ・ハン・キンポーは13歳。ユン・ピョウもいる、まだ6歳だ、幼い。香港明星を演じる子供たちがとてもよく似ている。厳しいユー先生を演じるのはサモ・ハン・キンポー、子供たちを怒鳴り、指導しながら、愛情深く見守る暖かい恩師の姿があった。子供たちの笑顔が明るい。京劇学校に送られてくるのはワケありの子供たち。先生のいないときはバカ騒ぎ、一般の家庭の食料を盗もうとしてりする。だが芸を学ぶ時は真剣である。信じられない角度で曲がり、回転し、狂いなく着地する、バネのような身体と、お腹から出される声は、強く、しかも澄んでいて、世界に行き渡るかのように轟いている。最初は拙かったPainted Faces京劇の派手な化粧もやがて上手くなってゆく。親もない、家もない子供たち、いつも笑顔を忘れず助け合っている。明るい笑顔だ。心から笑っている笑顔に見えた。京劇のみを学んできた子供たち。学校に通い、家庭で育った子供たち。何も違いはない、何も。要は、何を育み、収穫してきたか。京劇を学ぶ代わりに彼らは、一般の教育を受けることなく過ごしていた。いつも同じ服装、髪型、履き物。差別の対象ともなってゆくが、ユー先生は彼らに誇りを持つことを教える。それだけの芸を彼らは培っていた。連日の舞台の素晴らしさ、興味深いのは、夜、学校を抜けだし、彼らがディスコで踊りくるっている姿だ。縦横無尽、明らかに他とは違っている動きだった。ただし、アーロンの恋は、環境の違いで、あえなく散ってしまったが。時代の移ろいは激しい。京劇の衰退、ウー先生の同窓のスタントマンの死。学校は閉校を余儀なくされる。生徒たちの行き場を必死に探すユー先生。彼はスタントの事務所にあの三人を推薦する。サモ、アーロン、ピョウ。彼らの初の仕事は虐殺される中国人。カメラが主役に向けば、ベテランスタントは起きあがるが、三人は監督のカットがかかるまで、死の苦しみを表現して演じ続けていた。それが、ウー先生の教え、芝居が続く限り、最後まで演じる、監督がカットというまで、芝居は続いている。全て彼らには、当然のこと。仕事を失ったユー先生は、誘われていたアメリカへ旅立つ。厳しかったユー先生、何度も怒られ、叩かれ、だが生徒たちは別れを惜しみ続けていた。1991年の映画、その時はまだ、ユー先生は、アメリカで後進の指導をされていたという。もちろん、三人の香港明星の活躍は周知の通り。この学校の卒業生たちはスタントを含め多くの方々が映画で活躍している。明るい、子供時代の笑顔。彼らは多くを育み、実りを収穫した。厳しい修行だったというのに、本当に、明るい笑顔。真剣に生きていたのだろう。
2005.02.02
コメント(4)
美しい荒涼とした砂漠。乾いた風が登場人物の髪をなびかせる。薄衣が砂の空気を吸いずっと波打っている。香港の明星がウォン・カーウァイ監督に集う。アジアの砂漠が交錯する愛憎に包まれる。この映画もまた完成まで長く、俳優の降板劇もあったという。1996年の作品である。伝説の剣士たちの青春群像、後に東邪、西毒と呼ばれる男たち。そして女たちの葛藤が描かれる。どの男もどの女も修羅を抱えていた。接点にいるのは欧陽峰高名な剣士になるのを目指し、愛する女性のもとから何も告げずに去っていった。今は砂漠の宿屋で殺し屋の元締めを営んでいた。いつも同じ時期にやってくる友は、実は彼の愛する女性に思いを寄せていた。欧陽峰を演じるのはレスリー・チャンである。彼に去られ彼の兄と結婚し、病に倒れ死にゆく女をマギー・チャン彼女に乞われ躊躇いもなく酔生夢死の酒を飲み彼女への愛も忘れる陽峰の友人はレオン・カーウェイ愛のために壮絶な死を遂げる盲目の剣士はトニー・レオン、強い印象を残す。確固たる愛はどこにもない。偽りの愛は陰影を落とし、成就した愛もまた砂塵に晒されている。予定調和はどこにもなく、ただ人の感情が露わになってゆく。見上げ見つめ眺める空、大地、砂塵、命、剣、そして風、そして人間。角度と遠近ある映像が、一つの場面と作り上げていく。人の感情が露わになった瞬間である。瞬間が続く。確固たるものなど存在せず。歴史を知る者は神のまなざしになるというが、その時代を生きる者に運命は見えぬものである。予定調和のない世界、だが美しく創り上げられた世界。人の感情が露わになる瞬間。伝説の剣士となる運命は彼らにはまだ知らされていない。ただ感情があるのみ。
2004.10.25
コメント(2)
メガネをかけてキリッとして。考古学者のワイ博士は助手のパオくん連れて、上海やら万里の長城やらで大冒険。ジェット・リー、金城武の共演である。中国政府から依頼されたのは世界を支配できるという「経箱」探し。時代は1930年代。おのずと彼らの敵は日本人となる。「731部隊」を思わせる毒ガスが使われているのは頷ける。忍者が出てくるのはもう、なんとなく慣れていたので、許容範囲である。でもってスモウレスラーも登場する。ドスコイドスコイ、ジェット・リーとアクション。まあライトセーバーも出てくるし、ジェット・リーと金城武の女装もあるし『ハムナブトラ』みたいなのも、『キル・ビル』みたいなのもある。ストーリーそっちのけで、「次、何やってくれんの?」と愉しんでみる。実はである。この作品には別の顔が隠されているらしい。インターナショナル版『冒険王』とは別に、香港版『冒険王』が存在する。ワイ博士の冒険は小説家チョウ氏が始めたこと。それをいろんな人が書き足しているのである。もちろん、演じるのはジェット・リーや金城武、『冒険王』に出てくる面々である。つぎはぎツギハギ冒険なのだ。「次、何やってくれんの?」と愉しんでみる。呆れたり苦笑いしたり。無表情なイメージのジェット・リーの比較的表情豊かなワイ博士と、情けないキャラ、パオくんを、情けなさフルスロットルな演技で金城武。彼の情けない顔はなかなか絶品。見た目、かなりの凸凹コンビ。後にドンドン大きくなったゆく俳優二人。ツギハギ冒険も真剣に演じてる。見事なアクションやカッコイイ演技というおトクな設定からはずれても、このお二人は観る者を惹きつけてくれる。「経箱」を開けてしまった盗賊は魔人になったりして、大冒険なのだが、やっぱり女装に忍者にスモウレスラーなのである♪
2004.10.09
コメント(8)
様々な武術集団が群雄割拠の乱世の中国、「天下會」の総帥・雄覇が受けた泥菩薩の予言が総ての始まりだった。金鱗豈是池中物一遇風雲便化龍(金の鱗を持つ魚は 池の中の生き物に終わろうか)(風雲にひとたびめぐりあえば たちまち龍となる)風と雲の名を持つ少年が雄覇の前に現れる。聶風と歩驚雲二人は雄覇の直弟子となり優秀な尖兵として「天下會」のために力を尽くす。だが予言には続きがあったのだった。この映画は香港の武侠漫画が原作。武侠とは武であるアクションに侠の要素、つまり信義を盛り込んだもの。馬榮成は並々ならぬ画力のようだ登場人物たちは漫画から抜け出し、なおもCGによって宙を舞い激しく火花散らす激闘を演じている。香港ならではの力強いアクションに加えて、この映画の魅力は俳優たちの熱演にもある。雄覇を演じるは千葉真一、第18回香港電影金像奨の主演男優賞に外国人として初ノミネートは快挙だということ。香港映画の看板俳優イーキン・チェンが髪はサラサラ長髪、性格穏和な悩める「風」を演じアンディ・ラウなどに並ぶ香港四天王、アーロン・クォックが赤いマントを翻し、冷徹な死神「雲」を演じている。女優陣も加え、美男美女が勢揃いな上に、悪役・脇役も個性豊かである。破天荒アクションも強引なストーリー展開もなんのその、問答無用で進んでいく香港映画のバイタリティがこの作品にはいっぱい詰まっているのである。九霄龍吟驚天變風雲際會淺水游(空高く翔ける龍の咆哮は 天をもゆるがすが)(風と雲とが出会えば 浅瀬に泳ぐことになる)雄覇のやり方はあまりにも強引だった。そもそも「風」「雲」を利用するために因果もあった二人の父親を殺して子供だった彼らを騙して「天下會」つれてきた。義にあつい二人の青年はやがて復讐のために雄覇と真っ向から対立するようになる。原作は壮大な物語のようである。多くの登場人物が入れ替わり立ち替わりし、多少目まぐるしいのが残念なところではあるが演出はゆうに及ばず、衣装やCGなど原作に多大な敬意が見え隠れしているようだ。漫画が有名であれば映像化は難しい。だからこそ俳優たちの熱演も忘れてはならない。香港映画のリメイクが注目を浴びているが、派手なアクションに信義の要素を加えたこの映画は香港でしか作れないものかも知れない。この映画の原作に関する資料は以下のサイトを参考にさせていただきました。風雲StormRiders fansite=IN THE WORLD
2004.09.18
コメント(0)
速い!速い!速い!ジェット・リーのアクション。しかも近未来ヒーローアクションである。痛みのない戦士ならいくらでも戦える。そんなこと誰が考えたのだろう。「701部隊」は国の勝手な理由で作られ、危ない存在と見なされ抹殺される。だが生き残りは何人もいた。チョイ・チクもその一人。普段はマジメ君。同僚の図書館員とは一線を画して、日々、本に埋もれて暮らしていた。闇で暗躍するのは国に見捨てられた「701部隊」の兵士たち。人間全てに復讐するために麻薬組織を牛耳ろうとする。なんとも強引に話が進んでいく。だがシンプルな展開はキャラクターを際だたせる。痛覚のない兵士たちが強ければ強いほど、穏やかなチョイもまた彼らと同じだとわかる。チョイの止めをさせなかったユーランを処刑。敵の隊長の残忍さが伺える。そしてチョイの教え子でもある彼女の気持ちも。逆に図書館側のメンバーの明るいこと!カレン・モク演じる同僚、トレーシーのコミカルな存在感が嬉しい。彼女は本当に芸達者である。ジェット・リー。マスクをしない彼の二つの表情。図書館員でいる彼は地味でマジメな男だ。正体を知られたユーランと会う顔、皆を守ろうとする顔、戦いに向かう顔、その顔の豹変にマスクはいらないほどだ。ヒーローのカッコよさは、二面性にもある。素性を隠し敵と戦う、彼は701部隊の教官だったのだ。香港警察のシェク警部との友情もチョイの人柄を語っている。悪よりも強いのに、優しいヒーロー。速い!速い!速い!ジェット・リーのアクション。敵の隊長との死闘はアクション炸裂。アクションを愉しむ。近接戦、手と足と身体のバネ。静止し、構えるファイティングポーズ。熱く強く激しい視線。何よりも速い!荒唐無稽な設定はなんのその。もちろん、見所はアクション・シーン。だがキャラクターが生きている。改造人間、洗脳、そして悪よりも強いのに、優しいヒーロージェット・リーなのである。
2004.08.06
コメント(10)
秦楚斉燕趙魏韓戦国七雄から抜け出たのは秦。紀元前221年、斉が滅び戦国時代は終わる。皇帝の名が初めて中国に轟く、まさしく始皇帝。滅びし六国の遺恨を一身に集めて。『十二国記』という小説が浮かんだ。この時代と前後する中国の雰囲気をもった異世界の王と麒麟を巡る小野不由美の小説。少女小説として刊行されながら、魅力的なキャラクターとともに十二の国をモデルに国の在り方についても真摯に描かれている。十歩一殺。一撃で相手を倒すことの出来るワザを持ち、地方の一官吏に過ぎない無名が秦王に拝謁を許される。三人の凄腕の暗殺者を倒した褒美として。無名が携えていたのは一本の槍と二降りの剣。かつて長空、残剣、飛雪の手にあったもの。無名が暗殺者を殺した経緯を語るたびに少しづつ秦王との距離を狭めていく。しばしチャン・イーモウ監督の映像美に見とれる。朱や、緑、黒や、白の衣装に、無数の矢や、落ち穂、そして水が芸術的な画面を作りだす。そしてトニー・レオン、マギー・チャンの力強さ。美しき芸術の中に溶け込み、人の存在を強く主張していた。無名の話は真実ではない。人材を登用することに積極的だった始皇帝は彼の話の奧底に流れる大いなる意志を感じ取っていた。残剣の書いた『剣』の字が始皇帝の背に広がる。書で画かれた『剣』、それはまるで、統一された戦なき中国でこそ必要な『剣』。民を守り、国を守る『剣』残剣を友のように感じる始皇帝は中国になくてはならない存在だった。『十二国記』でも王なき国は食物も育たず魑魅魍魎が跋扈する。年若き不慣れな王だとしても、人々の希望である限り、必要なのだ。だが王の失政とともに国は滅びる。戦争だけではない。圧政だけでもない。極端な法治国家であっても、道ならぬ恋に身を焦がしても国は根幹を失い、滅びの道を辿っていく。民を思い、未来を考える王だけが長い栄華を国にもたらしている。暴君とも近代国家のきっかけとも評される始皇帝。彼は自分を殺しにきた暗殺者の死をどう捉え、どう国作りに生かしたか。メッセージは受け取っている。十歩一殺の距離にあって、無名は始皇帝を殺さなかった意味を。遺恨を抑えてもなお、無名が引き下がった意味を。「麒麟」が病めば国はもうすぐ滅びる。王は間違ってしまったのだ。始皇帝もまた晩年の過ちが歴史に記されている。滅び行く王の物語がいくつか『十二国記』でも描かれている。ならばもう、現代の「麒麟」は相次ぐテロと戦争によって重い病で倒れているのかも知れない。
2004.07.16
コメント(8)
全10件 (10件中 1-10件目)
1