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光は無限の色なのだ。グリートに届けられたのは、青い色のターバンと真珠の耳飾り。1665年、オランダ。ヨハネス・フェルメールは心を送った。あの絵は二人で描いたのだ。静謐で写実的、巧みな空間構成と光の質感。天才画家と呼ばれるフェルメール。グリートは彼の家のメイドとして働きにきていた。タイル職人の父親が失明し、彼女が家計を支える必要があったのだ。お屋敷にはフェルメールの家族と、先輩のメイドがいた。光は、無限の色をはらむ。吸収し、反射し、無限の色を成す。 心で感じたまま、色は心のそのまま。アトリエにグリートとフェルメール。何をしていたとか何が目的とかそういうものは微塵もなく、世界を織りなす光を全身で浴び、二人の感覚が捉えた色を混ぜ合わせる。白も青も赤も、どんな色も、一つではないのだ、無限なのだ。スカーレット・ヨハンソンは、表情の変化でグリートの内面を見せる。それは微かではあるが多彩で飽きることはなく、惹きつけられる。フェルメールを演じるのはコリン・ファース、多くの映画で見慣れた彼ではあるが、芸術家の頑なさを上手く表現している。ピーター・ウェーバー監督。この作品が初の長編であるという。静かに物語は紡がれていく。多くを語らず、だが、多くを物語る。画家はパトロンのために絵を描き、その報酬で家族を養っている。フェルメールの妻や母たちは、彼に絵を描かせようと必死である。だがアトリエは彼女たちとは別世界、グリートとフェルメール、世界を織りなす光を全身で浴びながら二人の感覚が捉えた色をキャンパスに描く。そこは二人だけの世界である。芸術が生み出される瞬間。だが、それがどれだけ至高のものでも、永遠に続くことは許されない。グリートとフェルメール二人には現実がある。光の無限。だが、二人の人生は決まっている。それでも「青いターバンの少女」はグリートとフェルメール、二人の絵なのだ。だからこそ、彼女に届けられた、青い色のターバンと真珠の耳飾り。
2005.09.21
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「今脱がなかったら、いつ脱ぐの」イギリス・ヨークシャーの田舎町ネイプリー。そこの婦人会主催のイベントと言えば、ケーキ大会や「ブロッコリーの作り方」などの講義。退屈そうに顔を見合わせるクリスとアニー。毎年恒例のカレンダー作りの企画も、去年までとそう変わりがない。夫がいて子供がいて、家事をして、働いて、趣味をして。そんなに、変わらない毎日が続いていた。大切な毎日ではあったが、退屈な毎日になりかけていた。最愛の夫ジョンを亡くしたアニーを、元気づけようとしてクリスが考えたのは、婦人会のカレンダーの収益でジョンのいた病院に寄付をすることだった。けれども今までの企画だと収益が見込めない。「ヌードカレンダーを作ろう」クリスは猛烈な勢いで行動を始めた。私は55才よ。今脱がなかったら、いつ脱ぐの。婦人会でオルガンを弾いていた女性が言う。はじめは戸惑っていた女性達も、次々と賛同を始めた。“今やらなかったら、いつやるの”年齢の数字が問題じゃない。やろうと思ったことを、今やり逃せば、今度いつ出来るかわからない。どんなことも何もかも、必ずできるとは限らない。ジョンの友達のカメラマン、ローレンスは、彼女たちの日常を撮ろうと提案する。花に水とやっている、料理している、編み物、オルガン・・・、イキイキとした表情と微笑ましい仕草、ヌードといっても、ほとんど隠れているが、彼女たちの「裸」の姿がカレンダーになってゆく。細身の身体で誰よりもエネルギッシュに、ヘレン・ミレンの演じるクリスは突っ走る。デザインや印刷の発注、記者会見の手配もこなしている。目的をしっかりと持っているから、達成するために何をしたらいいかわかってる。有能に働く彼女を夫も息子も止められない。カレンダーは反響を呼び、収益をあげ、彼女も夫や息子のことを、考える時間がなくなっていった。全てを上手くやるのはとても難しい。クリスの成功が息子を孤独にし、夫はあらぬ詮索を人から浴びせられることに。カレンダーに参加した妻を持つ男性陣も、集まって複雑な表情をせざるを得ない。もちろん、女性の中にも反対する人がいる。「今脱がなかったら、いつ脱ぐの」行動する勇気は、考えすぎると萎えてくる。だからこそ、行動した彼女たちの明るさが、動けなくなった心を照らしてくれる。太陽に向かって咲くひまわりがとても、良く、似合っている女性たち。“ヨークシャーの女性たちは 花に似ている。 満開の時が最も美しい” アニーの最愛の夫ジョンの言葉。本当に美しいカレンダーが仕上がった。彼女たちの「裸」の姿、年齢を刻む数字など問題じゃない。ひと騒動の後、女性達集まって、ヨークシャーで太極拳をしているようだ。ゆったりとした動きをしながら、いままでの自分を見直しているように見える。家事をして、働いて、趣味をして。そんなに変わらない毎日と、今やれることを思い切りやって、満開の花を咲かせた時間の中にいる自分を。
2005.07.01
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恋に落ちる。その刹那に至る経過が、どんな物理的な反応だったのか、なんて、二人には、わかるはずもなく。 CODE46、それは、遺伝子が100%、50%、25%同一の場合、受胎は許されないとされる法規。 同一性を知りながらの妊娠は、重大な犯罪行為とされる。近未来。世界は未来の破綻を修正するために、現在を管理しようとする。街はゲートを挟んで、内と外に分けられる。通行にはバベルが必要になる。だが、上海にあるバベルの印刷所で、バベルが偽造され、捜査員が派遣される。共鳴ウィルスを持つウィリアムは、犯人を突き止めるが、虚偽の報告をして犯人を見逃す。マリア、悪戯っぽく笑う短い髪の女性。彼女は口の中にバベルを仕込んで、身体から取り出し、バベルを密造していた。バベルがどうしても欲しい、外の人間のために。バベルが得られないのには理由がある。内ではなく外に出された理由が。CODE46にも理由がある。恋にも、理由がある。唇を奪い、抱き寄せ、ベッドへ。裸体を重ね、心を重ねる。ウィリアムがマリアを見逃し、マリアが彼を受け入れるのにも理由がある。だが、その刹那には、どんな理由か、わかるはずもなく。何かひとつだけ、あなたのことを。そのキーワードでウィリアムは相手を知る。口からこぼれるキーワード。だが、そのキーワードに至るまでに、人の人生が詰まっている。思い出、記憶、出生のデータ。好きな食べ物、好きな曲、好きな人。マイケル・ウィンターボトム監督作品。彼は自在にアングルを変え、アジアの大地を近未来に塗り替えていく。乾いて、湿った、架空のアジア。音楽もまた、心地良い。ティム・ロビンスとサマンサ・モートンこの大地で、刹那を生きる。近未来。世界は未来の破綻を修正するために、現在を管理しようとする。CODE46。違反者に行う医療介入とは、記憶を奪うこと。そうなるのだとしても、もし、知っていたとしても、ウィリアムとマリア、二人が出会えば、きっと、いや、必ず、恋に落ちる。いずれ、修正されるとしても。刹那は、誰も奪えない。
2005.06.20
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昔は、ステージの真ん中で、メンバーの誰よりも注目されていた。今は、鏡にうつった自分をぶっ壊したくなっていた。長髪のロックミュージシャン、レイ。もう50歳に手が届いたか。“ストレンジ・フルーツ”のかつてのボーカル、最後の2年だけ、だったが。あれから20年。キーボードだったトニーに、“ストレンジ・フルーツ”再結成の話が。解散のきっかけとなったウィズベックの野外コンサートに誘われる。この時彼の職業は、コンドームのセールスマンだった。絶頂期の“ストレンジ・フルーツ”ヴォーカルのキースは人気があった。兄のブライアンはギターの天才だった。だが、二人とも酒とドラッグでいなくなった。レイが加入して、ほどなく、時代の波は彼らを見捨て、忘れ去った。メンバーのほとんどが、ロックから離れた場所にいた。ベースギターは屋根職人で、ドラマーは、トレイラー住まい、税務署に追われてるヤバイ生活。マネージャーだったカレンは、一人娘を抱え、退屈なホテル勤めを続けていた。かろうじてミュージシャンなのは、レイのみ。皆が再結成の話に飛びつけたわけでない。だが、全員が、再結成に集まった。いざ集まってみれば。音はバラバラ、ボーカルは身勝手。客は新加入の若いギタリストのみを注目する。湿った空気、ただ広いなだらかな丘、そして、古い建物とイギリスの匂いを感じさせる。旬をとっくに過ぎたロッカーたち、情けないほど中味のない自己主張を繰り返し、ケンカの連続だが、なんだか可笑しい。だが、地方まわりのステージを繰り返すうちに、彼らのロック魂はドンドン戻ってくる。俳優たちのステージングもまた、いい。ロートルロッカーに向けられる周囲の嘲笑をよそに、ブライアンの復活もまじえ、ウィズベックの野外コンサートは大成功となる。最初は錆び付いたロックだった。それが見る間に、カッコヨク熱くなってゆく。若さだけで突っ走り、解散した“ストレンジ・フルーツ”とうに若くなくなってしまったが、彼らには、紆余曲折、個性豊かな人生がある。そういうものが音楽をカッコヨクする。まだまだ、ロックである限り。
2005.06.14
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1900年代のヨーロッパ、人々が熱狂しているのはグランプリレース。コマ落としの再現はノスタルジー。それはある「車」の在りし日の姿だった。事故でボンコツになるまでの。スクラップになる寸前だった。でも、子供たちの希望で発明家カラクタカス・ボッツにより、見事に車は生まれ変わった。チキチキチキチキ、バァン!バァン!そんなエンジン音を出して走る。夢を乗せ、海を走り、空をかける。愉快な愉快な映画である。学校にも行かないで野放図で、愛らしく育てられたジェレミーと、ジェマイマ。お父さんのボッツは、これまでにもきっと、たくさんの夢物語を聞かせただろう。おジイちゃんがボンバースト男爵に攫われた!ポッツ親子に、お菓子会社の令嬢、トゥルーリーと一緒に、捜索に出かける。そこは、なんと、子供がいない「国」だったのだ!ジェレミーとジェマイマも囚われの身に!おジイちゃん救出作戦もそっちのけ、ボンバースト男爵たちをギャフンと言わして、地下に閉じこめられていたその「国」の子供たちも救出して、ポッツ親子とトゥルーリー、大活躍の大冒険が繰り広げられる。原作はイアン・フレミング、007シリーズの生みの親でも有名なイギリスの作家。ケン・ヒューズ監督の1968年作品。ディズニー映画のような楽しい物語の中に、アート感覚あふれるミュージカル演出。しかも、主演のディック・バン・ダイクの見事なこと!手足の長さを生かした優雅なダンスから、小気味いいバンブーダンス、本物のマリオネットになりきったダンス、どれもこれも、正直、感嘆させられた。チキ・チキ・バン・バンの下の方が開いて、オレンジと赤の浮き輪が。海を気持ちよく走るホバークラフトに。サイトが開けばオレンジと赤の翼が。ゆるやかに揺れながら大空を飛行する。子供たちは大喜び!夜は、満天の星空に照らされ、ポッツとトゥルーリー、大人の語らい、ロマンティックな時間が生まれる。愉快な愉快な脇役たち。旅が好きなおジイちゃんは攫われてもへこたれない、元気!元気!ボンバースト男爵は奥さんを殺したいようだが、脳天気な奥さんは、ちっとも死なない。奥さんを殺そうとワナをしかける微妙な夫婦関係のダンスは、笑える!笑える!子供捕獲人の鼻高の小男は、悪役らしい悪役で、嬉しくなってくる。ダメスパイ凸凹二人組がいたりして、ヘッポコ作戦でチキ・チキ・バン・バン号を捕まえようとしては失敗ばかり。愉快な愉快なエピソードたち。隙間なく詰め込まれたエピソードたち。色とりどりで、観ていて飽きることはない。時間は夢のように過ぎてゆく。チキ・チキ・バン・バン・チキ・バン・バンチキ・チキ・バン・バン・チキ・バン・バンお父さんが子供たちに語るのは、奇想天外で、ヤヤコシイヘリクツのない、自由で、愉快な冒険のストーリー。いっしょに、夢を乗せていこう。スクラップ寸前だったチキ・チキ・バン・バン見事に復活して、ピカピカに!夢を乗せ、海を走り、空をかけるのだ。自由な発想を阻むものは、何もない。愉快な愉快な物語。チキ・チキ・バン・バン・チキ・バン・バン。どこまでもどこまでも夢をのせて。
2005.06.07
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麻薬しか、彼らにはない。他に何かあれば、別の道はあったのだ。他に何が?何がある?スコットランド。ショーン・コネリーを輩出した国。長きに渡り、イギリスに統治されていた国。古い町並を彼らは疾走する。マーク・レントンは、何度も何度も何度も何度も何度も、麻薬を止めようとした。何度も何度も何度も何度も何度も何度も、止めようとして止められないものがある。止めなければならないと思って、止めようとしたのは、マーク・レントン。彼への当てつけに「禁ヤク」をするシック・ボーイ。スパッドは無垢なまま、トリップを続ける。身体に毒を入れるなんてバカだ、といい放つベグビーには、毒は必要なかった。彼自身が毒だったのだ。SEXよりいいものなのかと、トミーはレントンに麻薬をうってくれと乞う。リジーと別れてしまった彼には、何かが、必要だったのだ。何かが必要ならば、探せばいい。だが、今は、この苛立ちを、なんとか、したい。だからもう、一回だけ。ユアン・マクレガーが疾走する。ダニー・ボイル監督の映像の中、音楽の中。時代が変わろうが色褪せぬ若さがフィルムに鮮明に焼き付けられている。汚れた便器にダイブし、干からびた赤ん坊に怯える。顔の歪んできたトミーと、切れたベグビー、せせら笑うシック・ボーイに、囚われのスパッド、ヤクの代わりのものを手にいれようとしている。手にはいるのか、望みのものは。マーク・レントン。彼が最後に見せたのは笑顔だ。疾走を止めて扉の前に立ち、笑っている。仲間を裏切ることで、やっと、そこに来れたのだ。でないと仲間は、麻薬持参でやってくる。仲間だからさ、一緒にやろう、と。仲間のいない場所へ彼はいく。それは彼が求めていた場所だったのか。そんなことは、誰もわからない。誰も、わかりっこない。そうだ、麻薬をやらなかったトミーがエイズで、いろんな麻薬を試したレントンが陰性だったように。簡単なものは何もない。たとえ、お決まりの人生であろうとも、四苦八苦するものなのだ、間違いなく。しかももう、麻薬のない場所のハズだから。
2005.04.29
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ここにあるのだ。なんだかわからないけど、ここに。湿ったアイルランドの空気にくるまれたなだらかに広がる緑の絨毯。自分のミュージックホールを失った若いプロモーターは、その景色を見つけるまで、途方に暮れていた。ミッキー・オニール。イギリス、リヴァプールのミュージックホール「ハートリーズ」のプロモーター。自分はまだ、30歳だと力説している。なんだかどうも胡散臭い奴である。契約していた歌手の声が出なくなり、自分が舞台に立って、しかも好きな女性にプロポーズ、そのへんは、また可愛げがあったが、次には、スペル違いのフランク・シナトラで客を集めて、勿論、客を怒らせ、その次は、脱税で逃亡中の人気歌手、ジョセフ・ロックの偽物で客を集めて、客を怒らせて、しかも、好きな女性の母親を怒らせてしまったから大変。客の信用も失い、「ハートリーズ」は営業できなくなる。途方に暮れるミッキー・オニール。どうも、人生でまかせに生きてきたようだ。口は達者で、でも、中味がない。でも、憎めない。彼は故郷、アイルランドまで出向き、一文無しのまま友達をアテにして、本物のジョセフ・ロック探しを始めてしまったのである。。「Shall we Dance?」の監督、ピーター・チェルソムの第一回監督作品。ベタなコメディに笑わされ、それでもどこか気持ちが温かくなるのは、素朴な表情で演じる登場人物たち魅力だろう。ネッド・ビーティのジョセフ・ロックは、吹き替え丸出しなのに、高らかに歌っている。エイドリアン・ダンバーのミッキー・オニールは、ダメ男なのに、やっぱり、憎めない。ワザと映画を感動に導く言葉はないのに、何気ない顔が、登場人物の心となる。ただし、コメディシーンはベタベタなのだけど。湿った空気に充たされたアイルランドの緑の絨毯。彼の探していたものはそこにあった。ミッキー・オニールは見つけた。ジョセフ・ロックを見つけた。その夜の「ハートリーズ」のショーは無料になる。最高の歌手と最高の歌手をプロモートしたミッキーと、最高の歌手の伴奏をしにきたオーケストラ、そして、最高の歌手を歌を聞きにきた観客。ミッキー・オニールは見つけたのだ。彼の故郷、彼の原点。だが、ジョセフは逃亡中の犯罪者。警察が見逃すはずはなく、しかも警察署長は、デイヴィッド・マッカラムが演じているという面白さ。ベタなコメディと最高のジョセフ・ロックのステージ。だが、最後の最後は、痛快な逃亡劇となる。スペル違いのフランク・シナトラとジョセフ・ロックの偽物が大活躍するのである。それで、いいのか?と思うのだが、でも、それでいい!と、思わせてくれる。上手くいかないと、途方に暮れるものだ。それをミッキー・オニールは口でごまかしてきた。でも、ごまかしきれないものがある。彼は歌が大好きだった。だから、今夜のショーは無料。夢の「原点」というものを見る思いがした。
2005.04.26
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ディランとジェズ、彼らは自分のことを不幸だと思ってる。だから、幸せになってもいいんだと思ってる。孤児院育ちの二人の青年は、共通の夢を持っていた。大っきな家を買うこと。目標金額は200万ポンドである。一朝一夕で貯まるもんじゃないから、それぞれの特技を生かして稼ぐことになった。つまりは、「詐欺」なのだけれど。なんとも、適当な詐欺。失読症なのに、口の上手いディランが、第7世代のコンピュータとビジネスマンたちに紹介し、実演さながらペラペラモニタに話しかける。もちろん、中味はカラッポ、で、何も知らないバイトで雇われただけの医大生のジョージィがタイピングで対応する。技術的なツッコミはジェズが担当して、売れるわ、売れるわ、何せ、人の言語を解するのだから。触れるだけで点灯する蛍光灯。静電気って、なんだか、スゴイぞ。まあ、適当な詐欺に乗りやすいUKサウンド、ディランのセールストークは、誰かに触らないと実演出来ないというお粗末さ。なのに、売れるわ、売れるわ!シューティング・フィッシュ騙すのはいともたやすい、ということらしい。孤児院に寄付するために詐欺をしてるとディランとジェズはジョージィに説明する。だが、その実は、家が欲しいのは彼らである。適当な詐欺で、コツコツ儲けたお金は、住居でもあるガスタンクの家に貯め込んでいた。もうすぐ、200万ポンド。ダン・フッターマンとスチュワート・タウンゼントに、ツンツンショートのケイト・ベッキンセールが絡む。三人がはじけるように元気な1997年度作品。適当すぎる詐欺だから、詐欺を愉しむ映画じゃない。案の定、ディランとジェズは捕まるし、お金も彼らの手から離れてゆくという始末、しかも、本物の詐欺紛いな状況は、ジョージィにあった。ダウン症の弟のいる施設を救うために、大富豪と結婚をすると決めていたが、それもこれも、その男の策略だったのである。本気の反撃が始まる、のだが。それもまあ、適当な感じがする。適当なのだが。それが、心地よく。いかにもホントが嘘だったのだが、嘘がホントになるような、あいまいな感じの心地よさ。実は貴族のジョージィが貴族の娘だったという出来すぎてオマケまでつく始末。ディランとジェズにも彼女が出来る始末。孤児院育ちのディランとジェズ、彼らは詐欺で、幸せを買おうとしていた。コツコツ貯めたお金はもうなくなってしまったが、まるで騙されたかのようなハッピーエンド、騙されてるぐらいのぬるま湯加減が、心地よくもある映画である。
2005.03.23
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現実に存在したのである。幼い子供が銃を持たされた世界が。1973年ニューヨークタイムズの記者、シドニー・シャンバーグはカンボジアを訪れていた。現地の通訳兼ガイドはカンボジア人のディス・プラン、彼は親身になって仕事を助けてくれていた。だが、翌74年、政情は緊迫する。クメール・ルージュのプノンペン侵攻は目前に迫り、親米派のロン・ノル政権は75年に倒される。そんな中、シャンバーグたちは逃亡を図るが、プランのみが国内に残されてしまう。ポル・ポト政権による300万人もの大量粛正が行われる、狂気のキリング・フィールドの中に。フランスから独立したカンボジアが、祖国の解放を旗頭に歩んできた激動の歴史。親米政権から極端な共産主義への大きな変動は、血塗られた歪みを国に作ってしまった。知識は、毒、次々に殺される医者や教師たち。赤いスカーフのクメール・ルージュ、子供たちは選ばれた証のように首にスカーフを巻いている。手に銃を持ち、親でさえも密告し売り渡す。かろうじて生き延びた大人たちも、強制労働に従事させられ、息をひそめて日々を過ごすしかなかった。プランも、そう、外国語を話せることも、医者でありジャーナリストであることを隠し、死と隣り合わせの恐怖を一人、生き抜いていた。プランを演じるハイン・S・ニョールが見事だ。プロの俳優ではないという彼の演技は、実際、映画以上の体験をしたという事実が滲み出ている。1996年にロサンゼルスで銃弾に倒れたという。シャンバーグのピューリッツァー賞がプランのおかげであることは、間違いないだろう。彼がアメリカ人のジャーナリストの命を助け、祖国の現状を世界に轟かせた。誰も知ることがなければ、封印されたかも知れない悲劇。政治的な主義の是非を論じる以上に、たくさんの命が無惨に抹殺されたのは事実なのだ。現実に存在した。幼い子供が銃を持たされた世界が。知識は、毒。たくさんの人が殺された。「許してくれ」「許すことなどないよ」悲劇を越えて再会するシャンバーグとプラン。カーラジオから流れる「イマジン」が脚色だとしても、その詩が持つ意味を否定することは誰も出来ないと、思うのである。
2005.02.23
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隣人に麻薬の売人が住んでいなけりゃ、4人の運命は変わったかも知れない。そもそも、エディが仲間たちから集めて金で、ポルノ界の帝王、でもって、ギャングのボスと賭けをして、10万ポンドの元手を50万ポンドの借金に変えなきゃ隣人が何を言おうが聞き流していたはずだ。上流階級出身ウィンストンがパブリックスクールの仲間と作った麻薬を盗んじまうと言う計画を盗み聞きして横取りを結構。エディ、トム、ベーコン、ソープ。テンデバラバラな個性の彼らだが、いつもフザケあってるみたいで仲がいい。50万ポンドを1週間で返さなければならないのに。イギリス、イーストエンド。薄汚れた街のカッコヨサ、壁も、道路も、札束とカードと、拳銃と死体。女の尻も男のアホさも、カッコヨク切り取られる。音楽に至っては、言葉にするのは野暮だ。ガイ・リッチー監督だ。映画を愉しみながら、聞くのがイチバンいい。まだまだ、登場人物が足りない。だが、全員を紹介するのは到底無理。例えば、トムが拳銃をギリシャ人から調達するが、使い物にならなさそうな骨董拳銃に実は価値があって、ギャングのハリーが狙ってただなんて知るわきゃないのだし、それを盗むのにも、ハリーの部下のバリーや、泥棒のディーンやゲイリーやらが絡んで、4人の青年たちの手にその拳銃が渡るまでの間にも登場人物たちががいたりする。ヌケてたり、バカだったり、憎めない奴らばかりである。そもそも、だ。エディの父親がJDじゃなければハリーは彼など見向きもしなかったに違いない。その昔、ハリーはJDにゲームで負けたのだ。息子をイカサマで嵌めて、JDのバーを奪って復讐しようという魂胆。このJDを演じるのがスティングだ。カッコイイ。金と麻薬、骨董拳銃。それらをみんなで奪い合う。4人組はただただ、イカサマゲームに嵌められて、強奪計画を横取りして、成功して祝杯をあげるだけ。それだけなのに、それらを巡って、死体の山が築かれる。隣人に麻薬の売人が住んでいようが、父親が元・ギャンブラーでギャングとの勝負に勝ってその金でバーを経営していても。骨董拳銃の価値を知らない奴も知ってる奴も、どんなことだって、いろんな人物が絡んでる。まだ、登場人物が足りない。そもそも、だ。ギャンブルで金儲けなんて余程の才能がないと出来ない。父親は息子に教えるべきだし、友達なら金を貸してはいけない。だが、教えなかったし、貸してしまったのだ。で、負けてしまったから、泥沼にはまっちまった。まあ、そんな倫理観なんてクソくらえだ。もう、4人は隣人の話を聞いちまった。50万ポンドを1週間で返さなければならない。4人は強奪計画を決行して成功してもスッカラカン。奴らにはそれだけのことでも、実は、話したこともねー奴も含めてイッパイいる関係者。見事な脚本が、多くの登場人物の関係を観ている間に解きほぐしてゆく。そもそも、だ。隣人に麻薬の売人が住んでいなけりゃ、4人の運命は変わったかも知れない、と、いうことが全ての原因でもなんでもない。そもそも、だ。一体、何がそもそも、だ?だが、全員が関係者。
2005.01.24
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女の人はたくましいのだ。ホントウに、そう、思えてきた。1941年、イギリス。第2次世界大戦で男たちは戦争へ向かう。農業は働き手を失い、残った女性が駆り出される。農業促進婦人会、別名『ランド・ガールズ』。兵士のように揃いの制服を着ている。田舎町ドーセットの駅に降りたった三人の女性、ステラ、アグ、ブルーも、そう。共通点はこの制度に応募した、というだけ。生まれも性格も考え方も違う三人が、配属された農家、ローレンス家で働きはじめる。男性一人の労働力に比べれば、女性一人の労働力はかなわないかも知れない。実際、農場主のローレンス氏は三人も厄介者が来るのかと危惧していた。だが、実際は違った。慣れない農作業と共同生活に戸惑いながらも、彼女たちはローレンス氏を驚かせるほどの働きを見せる。それだけなら、まだしも。時折、爆撃機が飛ぶ戦時下の空の下でも、彼女たちは明るく、おしゃべりさえしていた。。自分たちのこと、恋愛のこと、他にも、いろんなことを。そして実際に、ローレンス氏の一人息子、ジョーを誘惑したりしているのだから、たいしたものだ。それでも、働く手をとめないし、おしゃべりも止めない。ゆるやかな丘陵地帯の大地の上で、自分たちも土にまみれているというのに。たくましい、ものだ。ステラ、アグ、ブルー、三人とも、それぞれの恋を、ずっと、持ち続けていた。だが、戦争は男の運命大きく狂わせ、三人の女性の恋もさまざまな結末を迎える。ジョーとの恋を捨てて、婚約者と結婚するステラ。彼女は戦争で、両足を切断した兵士を選び、心臓欠陥で出征できなかったジョーと別れたのである。一方、アグは、何年も一人の兵士を待ち続け、男も誠実に彼女を受け入れ結婚した。ブルーはと言えば、一度は結婚したが、夫は戦死する。だが彼女は再び幸せを手にいれるのだ。恋多き女性ブルーの悲劇をステラとアグが慰めるシーンがある。お湯の少ない浴槽の中で泣きくずれるブルーに、ステラとアグが身体にお湯をかけて慰めている。彼女の心が少しでも和らぐまでと、ずっと、ずっと、側についていたようである。女たちはおしゃべりをしながらも、働いていたのである。誰かが哀しみで途方にくれれば、時間を忘れてつきあい、助け合い、また元気になれば、おしゃべりは忘れずに仕事を続ける。誰かが疲れれば、誰かが補い、また元気になれば、働けばいいのだ。だから、たくましいのだ。確かに、男性の労働力は大きいかも知れない。だが、彼女たちはずっと、働いていた。働き続けていた。おしゃべりを忘れず、笑顔も忘れず。ずっと、だ。戦争の影を戦闘機の音などで表現しながら上質の映像で、時代の匂いとともに、ステラとジョーの恋愛を中心に映画は展開してゆく。なだらかな丘陵地帯の曲線が美しい。キャサリン・マコーマックレイチェル・ワイズアンナ・フリエルが、好演している。戦争が終わって三人が再会する。土に汚れていた三人が、着飾って晴れやかな表情だ。それぞれの恋の結末を迎えながらも、再び、三人は笑顔でおしゃべりを始めていた。戦争がなければ、出逢わなかった三人。だが、共に暮らし、がんばってきた。彼女たちは友情を育ててきた。戦いではなく。だから、たくましいのだ。おしゃべりをしながら、働いている。おそらくこれからも、ずっとそう、なのだろう。
2004.12.10
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男の子が父親から学ぶもの。ひとつ、仕事に対する自分の在り方。ひとつ、オンナの愛し方。教えてもらって、背中をみながらスタイルをつくってゆく。初老の殺し屋フィリックス。腕が落ちたからと殺し屋をに引退す。若い弟子のジミーに「臨終名言集」を託して。自分が殺した相手の最後のコトバを綴ったノート。それこそ、フィリックスの仕事とのスタンス。殺し屋を辞めても仕事は必要。父親が暮らす老人ホームの家賃の支払いもある。てことで、舞い込んだ仕事が子守。しかも子供と言うのが溺愛されすぎて、33歳まで子供部屋から出たことがない男の子ババ、である。キリンのぬいぐるみ抱えて、ババはフィリックスを追いかけてゆく。空から水が落ちてきた、と不思議がり、マッチ箱に水滴をしまうような男の子。そんな彼が、フィリックスから「男」というものを学ぶ。ウィスキーは一気に飲まないといけない。タバコは粋に、コーヒーはコロンビア産で。オンナってのは危険なのだ。でも、セックスは激しく。騒々しく。一方、ジミーは大変である。「死ぬまで殺し屋」が組織の掟。残った者たちはフィリックス殺害を命じられる。阻止するために、組織の仲間を殺すジミー。手にあるのは「臨終名言集」。ロンドンの街に、60年代の音楽。組織の事務所は、薄汚れた工場風に。フィリックスの部屋は彼そのもののシブメである。ババと身を隠した隠れ家はキレイなブルーの壁。軽妙に登場人物が行き交っている。ババもジミーもフィリックスの「うしろ」を歩いている。なぞるように歩いて、学んで、真似をしては納得して、理解して、自分なりの結論を探してく。二人にとってフィリックスはもう、父親。血のつながりはなくても、かけがけのない存在になっている。男の人生、というよりは大人の人生。いつのまにか真似されて受け継がれてゆく。ババも、ジミーも、フィリックスがいなければ、今の彼にはならなかったのだ。キャスティングのバランスが軽妙。ステラン・スカルズガルド、銃を撃つシーンさえもフィリックスそのもの。クリス・ベンのババはキリンを抱えて、まあるい目が愛らしい。幅のある役をこなすポール・ペタニー。クールだがハートの熱いジミーである。ひとつ、仕事に対する自分の在り方。ひとつ、オンナの愛し方。いつのまにか、誰かの背中を見ながら学んでいるもの。またそれを誰がが観ていて誰がが学んでいる。それは身近な「誰か」かも知れないし、憧れの「誰か」かも、思いもよらぬ「誰か」、かも知れないのだ。ババとジミー。二人が自分の息子だと気付いたフィリックス。そして彼も、自分も息子だったと気付く。軽妙に行き交う、登場人物。ババとジミー、別世界にいたはずの二人の息子が邂逅するラストシーン。悲劇ではあるのに、最後に残るものは温かい。血のつながりがあっても血のつががりはなくても、かけがえのない関係は、ずっと消えないのだ、きっと。
2004.12.08
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ちょうど欲しいと思っていたところへ、ナタリーは紅茶とチョコレートパンを運んできた。その瞬間。英国首相のデヴィッドとって、大切な会議よりも彼女のほうが重要課題となる。彼女にとっては秘書の仕事かも知れないが、彼にとってはふいに心に触れられてもはや一大事件なのである。瞬間、だ。自分にとって他人が大事な人になる。ああ、この人イイな、最初はそんな、フワッとした感触なようなもので、それがいつまでたっても、忘れられない。他のことをしていても、意識は絶えず、相手の方へ。だから結婚式なのを忘れて、花嫁を撮っていたり、言葉の通じない家政婦のことを作家は気にする。2年と7ヶ月と3日間、一人の男性を思い続ける女性。心を支配するのは、愛しい人への気持ちである。HERE WITH MEALL YOU NEED IS LOVE少年はその気持ちを初恋と名付けることが出来ない。だから父親はともに彼の恋を考えてやる。その気持ちが何で、だからどうしたらいいか。死んでしまった妻への思いが甦る。彼の感情。結婚というセレモニーを終えても、夫婦の愛情が確実になるわけではない。戸惑い、迷う、感情。確認しあい、抱き合う。その瞬間。生まれてくる感情がある。CHRISMAS IS ALL AROUND老いたロック歌手は好き勝手に歌っている。ためらうことはない。人は人を憎んだりする。戦争があったりテロがあったり、それも感情である。だが、愛しい人を思い浮かべてみればいい。それは隣りにいる人でも映画スターでも、架空の人物でも。知られてはマズイ人の場合もあるかも知れないが、それはそれとして。思い浮かべて、そしたらなんだか気分が良くなって、身体が温かくなってくるのである。そういうものを人は持っているのである。愛しい人を思い浮かべてみればいい。ヒュー・グラントをはじめとして、魅力的な俳優たちが見せてくれる感情のカタチ。彼らは自分の感情に気付き、行動をして見せてくれる。憎しみや哀しみのための行動ではなく、愛する人と幸せになるためのアクション。作家は異国の言葉を懸命に勉強し愛の告白を。英国首相は自分からナタリーの家に足を運ぶ。ローワン・アトキンソン。クリスマスの天使、本当の姿は、彼のように恋をかき回す悪戯モノかも知れない。LOVE LOVE LOVELOVE LOVE LOVEALL YOU NEED IS LOVEALL YOU NEED IS LOVE空港で人々が、幸せな顔をしている。自分でない他人の顔を観て幸せな顔をしている。その時生まれてくる温かい感情。そういうものを人は持っているのである。
2004.12.01
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暗澹たるディストピア。陰鬱な空気に包まれた映像である。ジョージ・オーウェルの想像した近未来では「日記」というものが許されていないのだ。個人の内面など存在してはならない、個人の喜怒哀楽など、存在してはならない。近未来と現実が交錯する。1984年という近未来を描いた小説を、1984年にマイケル・ラドフォード監督が映画化。国家は整理され三つの統合、やはり戦争はなくなってはいない。主人公はウィンストン・スミス、真理省記録局に勤務。過去の新聞記事などの文書の修正、削除、いわば歴史を書き換えているのである。国民は国家リーダーに絶対の服従と忠誠を。部屋にはテレスクリーンがあり24時間の監視が。もちろん、思想警察がある。だが警察があるということは、「罪」は存在するのである。ウィンストンは部屋にあるテレスクリーンの死角で、こっそり「日記」を綴っていた。歴史の修正など驚くに値しない。教科書の記述は世代ごとに変わっている。新聞が報道する事実も、事実かどうか。テレスクリーンはパソコンでありテレビであり、個人情報は漏れ放題である。現代が管理されていない自由な時代だと、誰も言い切れやしないだろう。ティストピア、ユートピア。現代と現実と近未来と架空の世界と。比較可能な命題が次々と出されていく。「日記」をネットで綴る時代である。だがその「日記」もサーバに管理されている。チェック機能がないとは言えない。ウィンストンの希望は、裏切りによって叩き潰される。全体社会が見事に機能し世界は維持され、ささやかな愛情さえも虚しく消え去ってゆく。暗澹たるディストピア。だが現代がユートピアとは決して言えない。ユートピアそのものもまた幻想。陰鬱な空気に包まれた映像である。それは現代そのものなのか、架空の世界なのか。比較可能な命題が提示される。自分なりの答えを考えるくらいの「自由」なら現代にもあるような気がするのは、希望的観測なのだろうか。
2004.11.20
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仲の良い姉妹だった。姉はヒラリー、妹はジャッキー。色違いのお揃いの服を着て戯れる姿、フルートとチェロは二人だけの世界へ連れていく。だが大人になるに連れ別々の世界へ。姉は音楽とは離れ家庭をきずき、妹は天才チェリストとして名声をはくす。ジャクリーヌ・デュ・プレ、髪を振り乱して演奏する、伝説のチェリストは彼女のことである。姉と妹の視点を交互に、二人の女優が素晴らしい演技を見せる。エミリー・ワトソンの起伏のある強い演技を、レイチェル・グリフィスがしっかりと受け止めている。子供の頃、ヒラリーのフルートが先に注目され演奏の録音についていったジャッキーは姉の晴れの場面を滅茶苦茶にする。有名になり演奏会に飛び回るようになっても、家族には近況の手紙ではなく、自分の洗濯ものを送りつける。挙げ句の果てに、夫がいるのに姉の夫とセックスをしたがる。それがジャクリーヌ・デュ・プレ。演奏となれば音楽の神が降臨する。人々は絶賛する。しかし彼女の望みは別のところにあった。ヒラリーの望みも別のところに。だが妹は彼女の望みを叩きつける。見せつけるのだ、才能の差、というものを。仲のいい姉妹だ。何も言わずともジャッキーはヒラリーが好きで、ヒラリーはジャッキーの内面を理解している。だがお互いを理解しあっていればいるほど、どうしようもない感情が湧きでてくる。妬みや嫉妬、満たされることない願望。理解しても赦すことができず、理解しても認めることができない。仲のいい姉妹なのだ。だがどうしようもない感情を消すことができない。仲のいい姉妹の内面とさらけだしたのは、二人の女優の上手い演技と、アナンド・タッカー監督の巧さだろう。大切な家族、大切な兄弟姉妹、愛する人、友人。どんなに素晴らしい人間関係であろうとも内面では清濁を合わせ飲んでいるのだ。だからこそ、ヒラリーは涙を流す。カーラジオから流れてきた妹の死のニュースに。一夜でも夫を奪い、散々人生を掻き乱した妹に。ジャクリーヌ・デュ・プレは多大なストレスで情緒不安定となり、20代後半から「せき髄硬化症」となり、チェロの演奏もままならないまま42歳で生涯を閉じる。自由にならない手で必死に太鼓をたたくさまが、やっと彼女が重圧から解き放たれて、自分の音楽を奏でているようさえ見えた。
2004.10.30
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1748年のイギリスの牢獄で紳士協定は結ばれた。たまたま同じルビーに手と出した二人は貴族だけを襲う紳士強盗となる。ブランケットは元薬屋の強盗で、マクレーンは落ちぶれた元貴族。ロバート・カーライルとジョニー・リー・ミラー のコンビである。そこにリヴ・タイラーが絡む。だが本当に絡んでいたのはアラン・カミング、ロチェスター卿なのだがそれはさておき、痛快とか勧善懲悪とかそんなものじゃなく、「感覚」が面白い。例えば当時のロンドンの街はとびきり小汚く描かれている。他の映画でもこの街はキレイに描かれれいたわけじゃないが、白塗りピカピカ衣装の貴族たちの世界とはまるっきり正反対なのである。しかもオチブレ貴族のマクレーンが人当たりのよい物腰でカモに近づき、従者役ブランケットが実行犯。貴族らしかったら貴族は貴族と認めているのか。街はとびきり小汚く描かれている。一切の風刺的な皮肉はないのに、街と貴族は正反対である。映像の匙加減。貴族は貴族でもロチェスター卿みたいなのもいる。「わたしはこの国で若者を堕落させるわ~」ほとんどゲイ、きっとゲイ。トレスポコンビの紳士強盗は、階級社会に反発とかカッコイイ主張もないままに友情を育み恋をしたりする。やはり悩める青年なのである。おまけに時代背景を忘れてしまいそな調度品や音楽だったりする。現代と社会と青春の匙加減。上手い監督が見せてくれる明確な主義主張には行きそで行かない観客の心くすぐる痛快さを大盤振る舞いしてくれないそれでもラストのブランケットが爽快な選択をしてみせる。一人だけ上手く逃げるのではなく、仲間と逃げることにした。MTV出身のジェイク・スコット監督。リドリー・スコット監督の息子である。あのロンドンの小汚さに貴族たちの虚飾に満ちた美しさ。アラン・カミング、ロチェスター卿の匙加減。ゲイリー・オールドマンが製作総指揮に名を連ねている。ジェームス・マクレーン。実在の紳士強盗らしい。1724年アイルランドの生まれ。1750年の10月3日に処刑されている。26才でその生涯を閉じたのか。多くの人が彼に同情したらしいのである。
2004.09.16
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人の行き交う場所にはどこかしら無数のドラマがある。ここはロンドンの地下鉄“チューブ”。9人のイギリスのクリエイターが作り上げた疾走するショートストーリー目まぐるしくお話は移ろいゆく。人の行き交う場所には恋はどうしても存在してる。車内が退屈でどうしようもないセクシーガールは車内のオジサマの視線を弄び逆セクハラ。食べ過ぎ飲み過ぎ要注意、だが吐いてしまう人もいる。中には犯罪者が逃亡中だったりするし、また小鳥を手放そうと駅に降り立つ老人もいる。母親と離ればなれになった少女がいて哀しいかな最後の死に場所に“チューブ”を選ぶ人もいた。クリエイターの中にはユアン・マクレガーとジュード・ロウも。二人の俳優の初監督作品もまじっている。儚く疾走し、力強く滑走しやわらかくやさしく、リズミカルでありながら食べ過ぎ飲み過ぎ要注意吐いてしまう人もいる。Oh!セクシーガールの憂鬱。どこかにひっそりと誰かの心に染みる駅がある。どの作品も主張はない。だがいつもの駅の風景だ。いろとりどりのポスター木製の椅子。車内は汚れていて「この列車は回送です」乗り換えなければならない。ふいに新しい物語となる。儚く疾走し、力強く滑走する。ロンドンカルチャーを紹介する週刊誌「タイムアウト」で公募された作品を9人のクリエイターが自由に選んで映像化。ロンドンの地下鉄“チューブ”。何もかもが駅の風景。人の行き交う場所にはどこかしら無数のドラマがある。どこかにひっそりと誰かの心に染みる駅がある。
2004.09.01
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現実のどこかにファンタジーの入り口はあるかも知れない。だが美しく幻想的な世界がファンタジーだなんて大間違いだ。最初は寝室のタンスから白馬の騎士。これはさぞかしゲヴィン少年の心を揺さぶっただろう。だが次はタンスから小汚い格好の6人の小人。彼らはゲヴィン少年の不思議た旅のパートナーとなる。その目的はタイムトラベルで強奪大作戦!タイムホールの地図を利用してお宝奪って過去へ未来へ逃げた先まで誰も追ってはこれないのである。ケヴィン少年はポラロイドを持っていた。ポラロイドは全てを映し出す。ファンタジーの真実。ファンタジーには神も悪魔もいる。ファンタジーの勢いは歴史的地理的なイメージを覆し、全部ダークな色彩に変えてしまう。それをケヴィン少年はポラロイドで撮る。確かに彼らはそこにいるのだ。焼き付けられるのはファンタジーの中の実在の登場人物。神様は7日間で世界を想像した。世界は突貫工事だったようである。この神様は偉大なる大きな顔であり、お金持ちの企業主のようなお姿でもある。だからなのか彼の仕事は手抜き工事に等しい。ナポレオンは人間的にも卑小だし、神様と対立する悪魔はアホだが悩んだりしてカワイイ。それにノシノシ帆船を帽子にして海坊主が歩き出したりする変な映像。やはりテリー・ギリアム監督である。だがショーン・コネリーのアガメムノン王はやっと常識的にファンタジーらしい登場人物。そもそも神様は悪魔も作ったが小人6人も彼が創ったのだ。ちょっとセコくてズルくて小汚いが、悪い奴らではない。そう悪い奴ばかりではないのだ、どんな世界も。けれどケヴィン少年の世界は現実だ。両親は相変わらずケヴィンの言うことに耳を貸さない。しかも家は火事である、現実は大変なのだ。それでもポラロイド写真には写されている。頼もしい アガメムノン王と小人たち。あれも現実である。ケヴィンが観て聞いて体験しているのは全て現実。ニッコリ消防士のジョーン・コネリーが笑っていた。
2004.08.27
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脱獄モノ!ミュージカル!イギリス映画!所長の肝いりで囚人を更正させるためとミュージカルが上演されることになった。でもって脚本は所長である。主人公ジミーは、口が上手い。舞台となるのは警備の薄い教会だ。脱獄のチャンスなのである。ジミー、カッコヨクない。銀行強盗で相棒おいて逃げてしまうんだもん。でもすぐ捕まってしまう。所長を口車に乗せてミュージカル上演にこぎつけるが主役に抜擢されちゃうし、囚人クリフに計画バラスし、イジワル看守には目をつけられるし受刑者たちのカウンセラーのアナベルとも恋に落ちてしまうのである。恋は脱獄する気を萎えさせる。カッコわりいんだけど。だんだんカッコよくなる。それが最後の最後にとってもカッコよくなる。変な奴らだ。カワイイカワイイトマトに逆ギレするのはとっても厳ついお兄ちゃんだし。放火魔はなんとなくコワイ。所長自慢のミュージカルは自らが書いた「ネルソン提督」仕上がりの良さに大満足である。ミュージカルシーンはみんな必死でがんばっていた。ジミー、カッコよくない。だが彼は友人を裏切らなかったし、愛にはちゃんと応えている。イジワルで自己チュウな奴らはヒドイ目にあい、最後まで誰も裏切らなかったジミーはまんまと逃げおおせる。のこった囚人仲間の協力はもとより、ミュージカルの指導を担当した大人しい演劇青年ボールも好意的。逆にイジワル看守は囚人を逃がしたために、ガードマンに降格される。最初から友も愛も選んではいない。どっちにも筋道立てたジミーがグッとカッコよくなる。脱獄モノ!ミュージカル!イギリス映画!監督は『フル・モンティ』、ピーター・カッタネオ!成功者は誰もいないが人生に負けない奴らがいる。
2004.07.30
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「アイルランド人はヨーロッパの黒人だ。 ダブリンっ子はアイルランドの黒人だ。ダブリン北部に住んでる奴はダブリンの黒人だ。」The Irish are the blacks of Europe. Dubliners are the blacks of Ireland. North Dubliners are the blacks of Dublin.ダブリンに本物のソウルバンドを。ジミーの呼びかけに少しずつ若者達が集まってくる。アランパーカー監督作品。キャスティングはアイルランド出身の無名ミュージシャンが中心である。最初は素人の寄り集まり『ザ・コミットメンツ』だがやがて映画の中でも聞く者の魂を震わせる音楽を聴かせるようになる。しかし、バンドというもの、メンバー同士の亀裂は逃れようもない宿命。コミットメンツのボーカル、デコが歌う「ムスタングサリー」には度肝を抜かれる。当時16歳だと言う少年は、顔を歪め、口を大きく開き前傾姿勢で力の限り声を振り絞っている。観ているだけで、ビートが身体に入ってくる。コーラスがうまくかぶさる。ドラム、ギター、ベース、ピアノトランペット、サックスうねりをあげてステージは燃え上がる。頭上で手を叩くステージの観客と同じ高揚がこちら側まで伝染してくる。マネージャーのジミーは奔走する。メンバーそれぞれが抱えている問題は常にバンドを危機に晒した。アイルランドで生きていくのは若者も困難がつきまとう。ジミーもまた失業保険をもらっていた。本物のソウルバンド。コミットメンツの音楽を一番間近で観ていたのはジミー。なのに、アイルランドで音楽を続けることはなんと、難しいことか。「トライ・ア・リトル・テンダネス」ソウルを知らなくても音楽を知らなくても聞くだけで、響いてくるビートがある。うねりを上げて迫ってくる。熱狂する。アイルランドはストーリートミュージシャンが多いと聞く。みんな、音楽が好きなのだ。たぶん、ソウルはそういう気質から生まれるのだろう。『ザ・コミットメンツ』は消滅する。けれど、音楽は消えなかった。
2004.02.21
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