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休日は優雅にアチコチ出かけているわけじゃない。貧窮生活で、時々夜アルバイトをしていた。週に3日くらいだったけど。近くの町工場で何かに貼り付けるメタルの加工だった。寮仲間が交代で、幾人かずつで行ってたのだ。今の言葉だと、ワークシェアだな。門限というのもあったが、男寮で守るヤツはいない。東京が珍しい田舎の育ちだ。ある日、上野動物園に行った。すると、隣に本で見た顔があった。なだ いなだ氏だ。フランス人の奥様とハーフの子供と。文字中毒系の私は、節操なく本を読む。高校三年生の時、北杜夫氏の「ドクトルマンボウ航海記」を読んだ。ある意味、衝撃だった。安保闘争で、生真面目な人生論の真っ最中だ。ギラギラ、ギスギスしていた社会下だ。こういう生き方があるのだ・・・人生や社会から外れる系統に魅かれるキッカケかもしれない。その北氏(斉藤茂吉の子であり、先日死去された)。精神科医であり、医学博士でもある芥川賞作家だ。その後輩の精神科医であり、やはり作家のなだ いなだ氏も好きだった。その人が、隣にいたのだ。東京は、有名人がいるんだなぁ・・・ (過去のプログは本館 「氣の空間・氣功療法院」です。治療・若返り・悩み相談受付中。日本中出張します)
2011/10/31
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自分が痩せた事など何とも思っていなかった。ある日、池袋の東口広場に野外ステージが建っていた。多くの人が適当に聞き入っていた。フォークシンガー達の、唄の市という名前らしい。私もコンクリートに座って聞いていた。やけに背の高いオンナがギターを持って上がった。観客と半ばケンカのようなやり取りをしていた。オンナではなく、髪が長いオトコだった・・・そして歌いだした。僕の髪が~肩まで伸びて~吉田拓郎を、初めて生でみて、聞いた。東京って、レコードやラジオで聞く歌手と会えるんだぁ・・・(同時にいた泉谷しげるや、なぎらけんいちは憶えていない・・・)この頃は、オトコの長髪が流行っていたのだ。流行っていたからだけの理由ではないが、私も長髪だった。東京の二年間、一度も散髪屋にはいかなかった。自分で適当に切っていただけだったのだ。私の髪は、肩よりも上だったが・・・ (過去のプログは本館 「氣の空間・氣功療法院」です。治療・若返り・悩み相談受付中。日本中出張します)
2011/10/30
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今日の独善つぶやき・・・今日も東京品川に治療。いい青空だった。東京駅、新幹線は混んでいた。少し早い帰りも結構混んでいた。場所、時間により相乗り治療できるかもそういえば、東京駅待合室で治療した事もあったなぁ「母のこと・96」私は山の中の田舎の貧乏育ちだった。毎日の米も途切れるような家庭だった。アレコレ好き嫌いを言える環境ではなかった。だが、寮の食事は実に不味かった。この私が、時には、とても食べられないほど。お金は歯科医から振り込まれる。卒業したら10年勤めるという約束だ。学費、寮費を払うと、残りは2万弱だった。服や日用品など買えば、ほとんど無い。外食は寮食が無い日だけの分だ。そして、一年後に10キロ痩せた。(58キロが48キロになった)一度実家に帰った時、あまりの変貌に母は驚いた。寮の食事の不味さを言うと、顔を曇らせた。今なら誤魔化せたが、その時は母の心情まで考えなかった。大層心を痛めたのだろう。その後、たまに、保存食とお金が届くようになった。懸命にパートで働いたお金だ。だが、まだまだ私は都会の刺激で、その有り難さにマヒしていた。 (過去のプログは本館 「氣の空間・氣功療法院」です。治療・若返り・悩み相談受付中。日本中出張します)
2011/10/29
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見方と観方。一回体験すれば、あとは応用だけだ。絵だけじゃない。書、写真、彫刻と広がる。観えないモノも沢山あるが、見るだけじゃないと知った。やっと、芸術といわれるモノの一片に触れられるようになった。観方がわかると見方が変わる。芸術は見えないモノを意識的に濃くしてあるだけだ。どんなモノにも見えないモノがある。もちろん、人にもある。すると、人の見方が変わる。美人だけじゃ、ツマラぬオナゴなんだ。ハンサムなんて、ツマラぬヤツが多い。先生といわれる人種は、下種がほとんど。誤解されるタイプに、輝くモノが観えたりする。見分けるには、素直が大きな要素となる。 (過去のプログは本館 「氣の空間・氣功療法院」です。治療・若返り・悩み相談受付中。日本中出張します)
2011/10/28
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ルノワールの絵の前に立った。照明が薄暗く、目よりも高い位置にあった。何だ、これは!絵から、何かが流れ出し、その部屋に漂っていた。何だ、何だ、これは、どうしてだ!今なら解る。だが、当時は何だかわからなかった。心臓がドキドキしていた。ドキドキしていたが、温かい何かだとはわかる。不安になるドキドキではない。未知のモノに出会ったドキドキだ。何だ、何だ?わからないまま、翌日も行った。更に翌日も行った。更に更に翌日も行った。本物の絵って、こういうのか。絵は、見るのではなく、感じるモノなのか。私の目が、やっと開き始めた。モノは、見るのではなく、感じるのか!衝撃のルノワールだった。 (過去のプログは本館 「氣の空間・氣功療法院」です。治療・若返り・悩み相談受付中。日本中出張します)
2011/10/27
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今日の独善つぶやき・・・私の文体に大きな影響を与えた北杜夫氏。お悔やみ申し上げます。ドクトルマンボウは私にとって、大きな転機でした。その後、やはり北氏に影響された畑正憲氏。昨年亡くなられた、井上ひさし氏などの文体に影響されています。「母のこと・93」君の絵は自由がある。自由に操ることもできる。実にいい。実にいい、で褒められている事はわかる。だが、何を褒められているのか解らない。でも、目からウロコが落ちた。そんな風に言われた事が無かった。単純に下手だと思っていたのだ。だから、下手のままで仕方ないと思って描いた。その画家の先生が教えてくれた。今、池袋の西武百貨店でルノワール展をしています。本物を見るのは、とても大きな感性を目覚めさすでしょう。こんな機会は、是非行くべきです。有名な画家の絵など見たことが無かった。ルノワールの名前は知っていた。同じ名前の喫茶店が、アチコチにあったからだ。池袋はすぐ近くだ。とにかく、出かけてみた。1971年 西武百貨店 ルノワール展衝撃だった・・・(今回調べたら「田舎のダンス」だったという。女性一人の全身姿のような印象が・・・違うのかなぁ・・・) (過去のプログは本館 「氣の空間・氣功療法院」です。治療・若返り・悩み相談受付中。日本中出張します)
2011/10/26
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通常の概念は越えられる。大きく広く観れば、越えていない事柄は少ない。通常の概念内しか観られない人が多いだけだ。つまり・・・奇跡は日常茶飯なのだ。ということが、後に解る。今の天職(氣功)に出会ってからは、当たり前にある。まぁ、この話は別なところで・・・ということで、私の色弱は仕事に関しては問題なくなった。1971年。何もかも初めてのモノに出会う東京だった。色弱の私は、小学生の頃から写生が苦手だった。何しろ、どの色を使ってもピンとこないのだから。まして、新緑や紅葉など大の苦手だ。で、苦肉の策。川と大空を大きく描いて、山は少しだけ・・・だから授業の美術には苦手意識しかなかった。デッサンで、モノを見る力を養うのが目的だったが。(後に歯の形状などを描くことになる)私のデッサンは下手だった。下手は自覚していた。先生は近くの家政大学から出張してきた。確か、パリから戻ってきたばかりとか・・・その先生から絵に関して初めて褒められる言葉があった。この言葉から私の絵に対する観方が変わった。絵の観方を知った。 (過去のプログは本館 「氣の空間・氣功療法院」です。治療・若返り・悩み相談受付中。日本中出張します)
2011/10/25
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今日の独善つぶやき・・・昨日の桐生は暑かったのに今日は雨で温度が下がった・・・伊勢崎、大田の人も希望者は連絡下さいね。「母のこと・91」そうなのか。私は特別枠なのか。ちなみに、試験結果は二番目だった。かなり、上手くいったほうだ。実力ではない。私は山勘が効く方なのだ。通常、茶色に赤と茶色に緑が混じった色の区別はつかない。黄色に赤と黄色に緑が混じるとわからない。紅葉の始めは、どれが変わったのか判らない。私を好きになってくれても、私は気づかない・・・私は、色弱なのだ。二年間の結果。人の能力はあなどれない、と池波正太郎氏が書いていた。私も自分を含め、人の能力の可能性は想像以上にあると思う。歯に関してなら、微妙な色合い、形、バランス見抜けるようになった。例えテレビ越しでも、ある程度はわかる。プロ側になると、技の前に見抜く能力が土台なのだ。 (過去のプログは本館 「氣の空間・氣功療法院」です。治療・若返り・悩み相談受付中。日本中出張します)
2011/10/24
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高専入学は制限された。最初から入学出来ない規定だった。この専門学校も同じだった。だが、この3年間で変わってきた。社会が諸々を見直していた。アンポ闘争をキッカケに、いろいろ変えようとしていた。デモ抗争、ストライキ等の是非はともかくとして。当時は、自他を見直す空気があった。これでいいのか?学校も企業も改革を意識していた。ある意味、マジメな時代だったのだ。私もマジメだった。今はマジメが良いとは思わないが、当時は良いと思っていた。真剣が誠実だと思い込んでいた。真剣は結構迷惑だ、なんて思いもしなかった・・・やわらかさ、全てを明るくする鍵などと思いもしなかった。 (過去のプログは本館 「氣の空間・氣功療法院」です。治療・若返り・悩み相談受付中。日本中出張します)
2011/10/23
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後から考えてみた。叔母が姉である母の思いをくんで、半分仕組んでいたのかも。能天気な私なら、御し易いと。事実、私は言うなりになった。試験まで2ヶ月程の切羽詰まった時期だ。歯科医の先生は、兄が某歯科大の教授だった。落ちても付属の技工専門校に手を打っていた。どう転んでも、私は技工士になるようにしてあった。そして、1971年になった。受験し、どういうわけか合格した。学校に附随している寮に入る事になった。手続きしていると、学校長から呼ばれた。私は、特別に入学されたらしい。微妙な色を扱う専門職でもある。程度の強い色盲はもちろん不可。私のような色弱も不可だった。だが、時代は諸々の開放を求めていた。学校も、特別な試しとして私を入れた。学校側も、使えるのか判らないのだ。長い歴史の中で、私は初ケースだった。 (過去のプログは本館 「氣の空間・氣功療法院」です。治療・若返り・悩み相談受付中。日本中出張します)
2011/10/22
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長兄は地域内で就職したが、家を出ていた。妹がいたが、おそらく出ていくだろう。他の兄姉も東京だった。子供がいなくなるのは、母にとって淋しいだろう。まして、子供が生きがいのような母だったのだ。だから、私が地元の歯科医院に勤めるなら大賛成だ。特にアレコレ口は出さないが、嬉しいようだった。私も生きていく場所に、特にこだわりはない。地元でもいい。だが、家に入るつもりは無かった。近くても、家から出たい。昔の家だ。プライバシーの部屋などない。そして、この頃は父が帰ってきていた。父と暮らすのは、とても出来そうにない。父を憎んでいたのだ。 (過去のプログは本館 「氣の空間・氣功療法院」です。治療・若返り・悩み相談受付中。日本中出張します)
2011/10/21
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歯科技工士。好きも嫌いもない。そんな職業がある事すら知らなかった。返事は即答。いいよ。目標がないのだから、何だっていい。とりあえず、2年間(今は3年間もあり)は学校だ。受験に受かればだが・・・一応、当時日本一の技術力の学校を受ける。倍率は4倍強だった。落ちても、滑り止めがあった。今は受験科目が少ないが、当時は一般教養科目があった。しかも5教科くらいあったような・・・そして、工作と面接。結構厳しい受験だったようだ。だが、私は相変わらずピンときてない。別に落ちてもかまわない。なりたい職業でもなかったのだから。 (過去のプログは本館 「氣の空間・氣功療法院」です。治療・若返り・悩み相談受付中。日本中出張します)
2011/10/20
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学校側も迷っていた。試験的に授業科目のほとんどを選択性にした。私は体育や音楽などがある時は選択した。すると5日間で8体育になった。音楽や研究教科は寝ていた。大阪の万博が盛り上がっていた。ハイジャックも流行っていた。ボーリングも流行っていた。歌謡曲も盛況だった。テレビ中継中、三島由紀夫が割腹自殺をした。秋になり、叔母(母の妹)が話を持ってきた。昔、叔母が家政婦をしていた子が歯科医になった。医院を新しく大きくするのに、技工室を自前で作りたい。そして歯科技工士もスタッフにしたい。スポンサーになるから、学校に行ってくれないか? (過去のプログは本館 「氣の空間・氣功療法院」です。治療・若返り・悩み相談受付中。日本中出張します)
2011/10/19
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自分を探す、なんてカッコイイ話じゃない。自分の不安、決断力の無さ、無知を見る。否応無く、ダメな自分を見る。こんなに、自分は頼りないのかぁ・・・それでも、一人で動くより仕方ないのだ。このマゾにも似た行為は、その後も続いた。毎年のように、一人旅をした。働くようになってからもした。山登りに魅かれていったのも、同じ理由からだろう。山は特にだ。自分の足以外に頼るモノがない。登ったら降りきるまで、自分以外いない。どんなに頼りない自分であっても、自分しかいない。弱音の自分と向き合いながらも、最後まで自分の力しか使えない。私のようなナマケモノは、そうでないと動かない。 (過去のプログは本館 「氣の空間・氣功療法院」です。治療・若返り・悩み相談受付中。日本中出張します)
2011/10/18
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今日の独善ひとこと・・・昨日は千葉に治療。半袖で充分なほどの暑さだった。受けたダメージが若干残っていたまま今日は、11月オンパクのデモ。樹木気功と温泉ヨガで一日セミナーしますよ~「母のこと・84」二年生の夏休みの後半。同級生三人で、自転車にテントを積み佐渡に行った。テントで野宿しながら、一週間くらいかけて帰ってきた。体力だけが必要の、だからこそスッキリした時間だった。少しだけ、自分の中の何かが目覚めたキッカケではあった。三年生の夏休み。例によってアルバイトを懸命にして資金を貯めた。そして、最後の一週間で一人東北一周をしてきた。90ccのバイクに寝袋を積んで出発した。基本的に寝るのはバス停の待合室。一人で知らない土地に出かける。すると気づく事が沢山出てくる。後に「自分探しの旅」などのフレーズが流行る。意識したわけではないが、そんな部分があった。自分が何をしたいのか・・・ (過去のプログは本館 「氣の空間・氣功療法院」です。治療・若返り・悩み相談受付中。日本中出張します)
2011/10/17
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高校一年生の時は、何とか大学に進学。そして、一応新聞記者になってみたい・・・強い目標ではなかったが、そんな思いもあった。ところが二年生時で、社会と大学(勉強)の矛盾に愛想が尽きた。大学に行けば、よりロクデナシになるような気がした。何処を歩いても自分次第なのだが、当時は環境のせいにしていた。社会が、学校が、先生が、オトナが、政治が・・・・なんだかんだでも、アンポ紛争というのは影響があったのだ。山の中から出て、イキナリ社会の裏側(ほどじゃない)に触れたのだ。先生と名がつけば、エライと思っていたのに・・・その後の人生で、我が同級生の特徴がある。何割かは、破滅型になっていた。どうせ、社会はひっくりかえる。どうせ、この世はウソの舞台。どこか、そんな風に思って生活しているフシがある。その気持ちが私にもあるのは自覚している。 (過去のプログは本館 「氣の空間・氣功療法院」です。治療・若返り・悩み相談受付中。日本中出張します)
2011/10/16
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勉強も部活もやる気なし。といって、一部の活動学生ほど政治に参加もしない。成績は悪くなく、体育関係は好きだった。何事も良くも悪くもなく、友達もそれなりにいた。特に目立つ事もなく、特に落ち込む事もない。修学旅行は京都奈良。仲のいいグループで自主的にまわる。私は、いつも5~10人くらいの同級生仲間がいた。面白可笑しく、楽しく過ごしていた。今思えば、友達の少ない同級生はどうしていたのだろう。他の人の思いなど、あまり関心がなかったようだ。そのまま1970年になった。進学希望者は、本気にならないと大変な年。我が校は、イマイチのんびりしている進学校だった。いつの間にか、私も三年生になっていた。休みはアルバイト・・・卒業後の予定はなかった。 (過去のプログは本館 「氣の空間・氣功療法院」です。治療・若返り・悩み相談受付中。日本中出張します)
2011/10/15
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目標が見つからないまま流れていく。そういう生き方を40歳までしていた。もっとも、目標を見つける人は少ない。目標は見つけるより、見つかってしまうのかもしれない。出合ってしまうのかもしれない。肩の力が抜けないと出会えないかもしれない。高校二年生で、すでに流されるままになった。相変わらず、母や他の兄姉も将来に口を出さない。思い出した。中学三年時に一度あった。高専に進んで技術を身につけたらどうか、と長兄が言った。私は別に異論はなかった。1月になってから、私は受けられない事が判った。当時色弱は入学できなかったのだ(今は不明)。で、急遽、今の高校に入った。進学するつもりは、無かった。やりたい職業も無かった。 (過去のプログは本館 「氣の空間・氣功療法院」です。治療・若返り・悩み相談受付中。日本中出張します)
2011/10/14
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この頃の母の思い出はあまりない。社会の出来事に関心が向き始めた時期だ。というか、日本全体(世界も)が渦になっていた。学生が社会に参加して、社会のあり方を議論し主張していた。大学から、多くの高校へと議論と参加の渦は広がっていた。そのうねりに多くの国民も巻き込まれていた。いろいろな意見があるが、学生に好意的な情勢だった。私には元々たいした目標があったわけではない。その上で、社会という土台が崩れたと感じていた。なおさら、将来の目標を見つけられないでいた。一応進学を目指す普通高校なのだが、私にその気はなかった。社会の偉い人、というのが、ツマラヌ人にしか思えなかった。(まぁ、今でも、無条件にそう思うところがあるなぁ・・・)同じ組でも、しっかりしている同級生はいるものだ。私などより、ずっと自分の考えを持っていた。私は誰かの主張をそのまま鵜呑みで話していた。だが、自分の言葉で話す同級生がいた。自分の目標に向かう同級生がいた。社会がどうであれ、真っ直ぐ進む勇気があった。素朴出身の私は、とても幼かった・・・ (過去のプログは本館 「氣の空間・氣功療法院」です。治療・若返り・悩み相談受付中。日本中出張します)
2011/10/13
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記憶力が良かった時期なのか。毎日が濃かったからなのか。1969年は、思い出が感覚的だ。(さらに数年間も憶えているけど)安田講堂の映像。美濃部都知事の顔。ホンダ1300のスマートなセダン。月面撮影映像。例えば歌。今でも、ほぼ、全ての歌を歌手の姿と共に憶えている。いしだあゆみのブルーライトヨコハマ。やたら暗い、カルメンマキの時には母のない子のように。イロっぽいというか、奥村チヨの恋の奴隷。自分でも弾いた、千賀かほるの真夜中のギター。フォーククルセイダーズ出身はしだのりひこの風。トアエモアのある日突然。青江三奈、森進一、クールファイブ、東京ロマンチカ。学生だけじゃなく、国民の生命力が高い時だったのだろう。映画、テレビドラマ、バラエティ、マンガ、ラジオ深夜番組。どれも、熱気があり、面白かった。問題だらけ、混乱だらけだったが、日本中に活気はあった。反骨という意識が庶民国民にはあったからだろう。不満なのに政治に追順するようでは、生命力も落ちるさ。 (過去のプログは本館 「氣の空間・氣功療法院」です。治療・若返り・悩み相談受付中。日本中出張します)
2011/10/12
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二年生になった1969年。我が高校も紛争に入っていった。団交と称して講堂で先生と生徒の議論となる。もちろん授業無しで、何時間もしていた。我が高校は、結構バリバリだったのだ。勉強はしなかったが、本は読んだ。多分、私の一生で一番記憶力が良かった年だろう。速読でも、何ページの何行目、何文字目を憶えていた。教科書は小説ほどではなく、多少時間がかかった。それでも、単純な暗記なら三日で何とかなる。何故一年もかけて授業するのか、と思ったりした。(すいません・・・かなり生意気でした・・・)だが、そんなモノは簡単に忘れる。私は憶える事以上に、忘れる能力が優れていた・・・ピークは高校二年生で、あとはひたすら下降していった・・・もちろん今では、今読んでいる本の作家名さえ忘れる。本妻を忘れ、他の人妻と間違う・・・あれぇ?いつ、こんなに痩せたのだろう・・・(相手を気にしないという性格もあるけど)このように、記憶など誰でも必ず衰える。時には、時々、頻繁に、常時、ボケる。勉強で憶えた事など、ほとんどが空しいものなのだ。あまり懸命にするようなモノじゃない、と思うぞ。 (過去のプログは本館 「氣の空間・氣功療法院」です。治療・若返り・悩み相談受付中。日本中出張します)
2011/10/11
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まだ高校一年生だった。1969年1月、東大安田講堂が燃えていた。詳細は後に知るが、東大生と機動隊が衝突していた。学生は火炎瓶と投石。機動隊は高圧放水と催涙弾ガス。ヘリコプターも使って、今なら映画のような出来事だった。当時の大学進学率は10パーセント。大学生はエリートだった。中でも東大生はトップだった。後に東大生の幾人かと知り合うが、イマイチだった・・・でも、まぁ、機動隊とケンカできるくらいの生命力はあったのだ。事の是非はともかく、現在、機動隊に立ち向かえる学生はいるだろうか?この年、東大入試は中止となる。涙を流していた先輩がいた。社会は学生を含めて混乱の真っ只中だった。学園紛争は全国で起きていた。ピーク時は8割の大学、165校で紛争があった。バリケード封鎖という大学も70校あったという。是非はともかく、元気はあった・・・ (過去のプログは本館 「氣の空間・氣功療法院」です。治療・若返り・悩み相談受付中。日本中出張します)
2011/10/10
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(簡単に)信じるな。(簡単に)疑うな。(自分で)確かめよ。自然体で自立(個立)するには、基本的な生き方だ。私の卒業アルバムの一言は「自分の目でみろ!」だった。本当の素直は騙されないし操れない。それを知るのは、私が40歳を過ぎてからだった。本当の素直は他人や社会の言いなりにならない。当たり前だ。他人や社会のほとんどは(自分を含めて)歪んでいる。素直は、自然に素直であり、人の社会に素直の事ではない。人の社会に素直は人は、単に操りやすい無知という。戦争を無くすには、自然に敏感に反応する感性を培うことだ。それを知るのは、もっとずっと後だったが・・・それでも素朴な高校生はお陰さまで、社会の歪みには気づいた。実に大切な人生の基礎を教えていただいた高校生時代だった。毎日のデモのニュースで、母も政治の酷さは知っている。だが、政治家は立派だという固定概念は残っていた。だから、総理大臣に手紙を書こうと思ったりしていた。総理大臣なら話せば理解してくれる、と思い込んでいた。国民の現状や心情など捨てたから大臣になれたのになぁ・・・(こういう偏見?が私にはあります・・・) (過去のプログは本館 「氣の空間・氣功療法院」です。治療・若返り・悩み相談受付中。日本中出張します)
2011/10/09
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素朴は利点として表現される事が多い。純情も善男善女も利点の扱いだ。社会のほとんどが歪んでいるからなのだが・・・そのまま、社会に参加すると簡単に操られる。操る側にとっては、最高のお客様だ。だから社会的には利点と紹介する。この意見は、私が歪んでいるのではない。無知を素朴や善男善女として操る社会が歪んでいる。結果として、善人は簡単に人を不幸にするものなのだ。本人は自分を善人だと思い、また社会も善人としている。自覚がないから、歪む社会は改善しないままだ。戦争、争い、貧困、苦しみの多くが無知から作られる。戦争も争いも善人が疑いなく支持するから起きている。振り返ればわかる、事実なのだ。学校も疑いを持たない生徒が一番いい生徒だった。信じる事、疑う事は根が同じ。本当を確かめようとする人は、社会にとっては扱い難いのだ。 (過去のプログは本館 「氣の空間・氣功療法院」です。治療・若返り・悩み相談受付中。日本中出張します)
2011/10/08
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職業に貴賎は無い。い、いや・・・貴は無いかもしれないが、賎はあるかも。貴といわれる職業は、賎に陥り易いかも。例えば政治家とか僧侶、神父、先生といわれる職業。立派な言葉だけを吐く人は、信用できない。立派も下品も差別なく吐く人は、信用できる。タテマエを堂々と公表すると、こそこそしなくてはならない。最初からムチャクチャなら、堂々とムチャクチャができる・・・そういうことを、教えてくれた。この観方は、現在の私に到るまでほぼ変わらない。そして、人や物事を観るプロとしても満足している。心は多種多様で複雑混雑猥雑なものだ。たまには立派な部分だけ取り上げてみるのもいい。だが、それだけで生きようとすると無理が出る。立派以外を隠さなくてはならない。押し込めると、より強い反動が出て、三面記事になる。職業として立派だけを商売にするのはいい。だが、自分自身まで立派になったと勘違いすると大変だ。自分が立派だと思ったら、坂道を転がり落ちているものだ。そういう職業や地位は多々あるものだ。立派な肩書きの皆さん、注意しましょうね。余計なお世話だけど・・・・ (過去のプログは本館 「氣の空間・氣功療法院」です。治療・若返り・悩み相談受付中。日本中出張します)
2011/10/07
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体格のいい校長先生だった。その校長が生徒の下駄箱を一つ一つ開けていた。この頃、時としてアジ(煽動)ビラが入る事がある。おそらく、そのビラのチェックなのだろう。こそこそと、実に卑屈に生徒の下駄箱を開けていた。下駄箱とはいえ、プライベート空間だ。それは校長も自覚している。しかも日頃、生徒の自主性を応援していると発言する。人格を認めていると、立派な事を言っていた。だから、こそこそとしていたのに・・・生徒に見つかるとは・・・・バツが悪かったようだ・・・・・恥ずかしそうに黙って去る校長の後姿。教えというのは、後姿で示すもの。さすがだった。大人のタテマエとホンネ。私の目を開かせてくれたのだ。 (過去のプログは本館 「氣の空間・氣功療法院」です。治療・若返り・悩み相談受付中。日本中出張します)
2011/10/06
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こういった姿勢は母の影響だ。先生というのは、偉い人なのだ。政治家は立派なのだ。学者、宗教家は損得を考えない。じゃあ何故戦争をしたの?御用学者って魂を売り渡してるじゃない?金儲けに走らない宗教家っているの?現実を知らないわけじゃないが、思い込みは変えない。偉い人が、政治家になっている。先生は偉いのだ。僧侶は立派だ。立派なはずだと信じていた。素朴で育った私だ。社会の矛盾を知るようになっても、あまり変わらない。先生は立派だと、心の底では信じていた。母の影響だったと思う。それを覆してくれたのが、当時の校長先生だった。ある意味、本当の教育をしてくれた。身をもって・・・ (過去のプログは本館 「氣の空間・氣功療法院」です。治療・若返り・悩み相談受付中。日本中出張します)
2011/10/05
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人の不出来さ、未熟さを知るのはずっと後だ。人の世の不思議さ、奇妙さを感じるのはもっと後だ。わけのわからぬ人間を観るには、幼すぎた。単純に理屈の正誤を基準に判断していた。正しさが、一方側からの見方でしかない、などと思いもよらなかった。人は仮面をつけている。矛盾を知ると、単純にそう思っていた。どんな心も、多種多様の仮面だらけとは気づけなかった。本人でさえ、心をコントロール出来ないのに・・・私は通常の通学生より30分早い電車だった。それは乗る駅の関係だ。早く学校に着いた私は、そこで普段見られない光景を見る。普段は、ものわかりのいい校長先生だった。とても、見た目も話す言葉も態度も立派だった人だ。素朴な育ちだ。校長先生ともなれば、さすがに立派だなぁ・・・ (過去のプログは本館 「氣の空間・氣功療法院」です。治療・若返り・悩み相談受付中。日本中出張します)
2011/10/04
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鮮明でない映像だった。だが、宇宙に出ている人類がいる。月に降り立った事よりも、宇宙に出られる事に感銘した。いや、感銘じゃなく、羨み。羨みでもなく、希望。空想、妄想は得意な私だった。宇宙(空間)。とにかく心惹かれた(今も同じだ)。現実のベトナム戦争はドロ沼状態。悲惨なニュースは毎日のようだった。虐殺、枯葉剤、空爆。日本が戦争に応援参加する安保条約。大学生中心のデモもどんどん激しくなっていた。私の高校も、学生である前に人間だぁ・・・などと、わけがわからぬ事を言い合う学校でもあった。もともと質実剛健の硬派系男子高校。オマケに、ソッチ(反安保)系の先生の島流し先でもあった。当然、煽られて生徒は安保や反戦に敏感になる。大学生中心の全学連、やナントカ派に追順したくなる。純情素朴は、簡単に煽られるのだ。日和見派の私でも、やはり影響される。宇宙空間より、デモ隊が気になっていた。 (過去のプログは本館 「氣の空間・氣功療法院」です。治療・若返り・悩み相談受付中。日本中出張します)
2011/10/03
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高校二年生頃から、世間はより騒がしくなった。アンポって何?何も知らなかった。深い事情など、更に後になってだ。風潮として、政府は汚くアヤシイ。純情な学生のデモは正しい。何となく、そんな程度の認識だった。政府が汚くアヤシイのは、古今東西の真理らしい。だが、学生だから正しい、というのは浅はかだった。何度も繰り返すが、私は純情素朴な高校生だった。当時は単純に、反戦、反安保、反政府が真っ当なものだと思っていた。(今はもっと深い意味だけど、立場は変わらないかなぁ・・・)二年生になっても貧乏学生には変わりない。やはり、アルバイトの方が関心があった。アルバイト先のホテルの休憩時間にテレビを見た。フランシーヌの場合は~♪などと、未だによく解らぬ歌の合間だった。人類が初めて月に降り立った映像が流れた。(映像の真偽はともかくとしてだ) (過去のプログは本館 「氣の空間・氣功療法院」です。治療・若返り・悩み相談受付中。日本中出張します)
2011/10/02
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今日の独善つぶやき・・・午前中は東京品川。午後は千葉で治療。充実の一日だった。「母のこと・68」山の中の中学校だった。純情素朴以外の子供はいなかった。のんびり、仲良く、育っていた。学校の先生は、偉いから先生だと思っていた。何の疑いも抱かなかった。私は長兄のお陰で高校に進学した。後から考えたら、奨学金制度というのがあった。そんな社会的な制度など知らなかった。電車で20キロ離れた普通高校に通った。毎日が面白かった。一年生の時、メキシコオリンピックがあった。それなりに盛り上がっていた。夏休み、冬休み、春休みはアルバイト。休みは、アルバイトか寝ているかのどちらか。図書室の厚い本を限度一杯借りるのが楽しみだった。一年生の時は、まだまだ純情素朴だった・・・ (過去のプログは本館 「氣の空間・氣功療法院」です。治療・若返り・悩み相談受付中。日本中出張します)
2011/10/01
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