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無事にヨーロッパ旅行から帰国して、再び日常へと舞い戻ってまいりました。モン・サン・ミッシェルを訪れて以来、なかなか風邪の症状が抜けませんが、おおむね元気に過ごしております。今日は、大切なことを打ち明けたいと思って筆をとりました。突然ですが、これをもちまして「目と耳の悪いビジネスマンの一筆」を終了させていただきます。色々悩んだのですが、本業と家庭のことをやりくりするなかで、自分なりに納得のいく質の文章を執筆するための時間を確保できなくなりました。「時間が足りないのなら、少しずつ書き進めて不定期に更新すればいいじゃないか」そう自分に問うてもみたのですが、それに対する答えは「NO」でした。ごく個人的な想いとして、「ブログ(日記)は、毎日一定の質の文章を書き続けなければ意味がない」と考えるからです。もちろん「文章を書く」という行為を止めようとは思いません。これからはブログとは違った形で、詩なりエッセイなり、あるいは小説なりを自分のペースで書いていくつもりです。以前も触れたことがありますが、「文章を書く」というのは内省的な行為であり、わたしのような人間が日々をよりよく生きていくために必要なプロセスです。自分の考えたこと、感じていることを文章に移し変えることによって、自分の至らなさに気づいたり、これからを生きる指針を得たり、わたしにとってはそういう効能があります。このブログを立ち上げて以来、自分と同じように何かしら弱みを抱える方々にとって、前を向く力を得られるようなコンテンツをご提供したいと願ってまいりました。果たしてどれくらいそれが成し得たのか、わたしには分かりません。ここで出会うことのできた親愛なる皆様と再びどこかでお会いする機会に恵まれたなら、そのときは今より少しでも成長していたいと期しております。読んでくださる方々に、愛や感謝、思いやりや希望、優しさや真実へのまなざしをお伝えできる人間になれますように。これまでこのブログを読んでくださった皆様に心からの感謝を表し、筆を置きたいと思います。皆様、本当にありがとうございました。どうかいつまでもお元気で。「目と耳の悪いビジネスマンの一筆」運営者ミンミンぜみ
2010/07/26
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今回の旅も、クライマックスを迎えました。パリからバスでおよそ4時間かけて、モン・サン・ミッシェルを目指します。こんもりと幻想的な姿が遠くに小さく見えてきた辺りで昼食をとりました。遠くに見えてくるモン・サン・ミッシェルメニューはもちろんモン・サン・ミッシェル風オムレツ。妻の友人たちは、「あれを食べてお腹をこわした・・・」と口を揃えて言っていたし(笑)、「あまりおいしくない」という評判を聞いていたので、かなり警戒していました。ところが、いざ食べてみると、みんなが言うほどまずくはありません。オムレツよりも面食らったのは、同地の名物シードルでした。シードルと言えば、リンゴの甘酸っぱい風味がなんとも言えない美酒というイメージがありますが、こちらで振る舞われたものは何かがちょっと違いました。一口すするとなんとなくリンゴの香りがするような気もするのですが、その後に動物園というか牛舎というか、野生的な香りが鼻をつきます(笑)。同行した方々はみなシードルを注文したのですが、誰もがしかめっ面でやるせない表情を浮かべていました。モン・サン・ミッシェル風オムレツシードル何はともあれ、名物というのだから、これはこれでよしとしましょう。気を取り直して再びバスに乗り込み、およそ15分ほどで夢にまで見たモン・サン・ミッシェルに到着しました。目の前のモン・サン・ミッシェル周囲を浅瀬に囲まれた山上の修道院は、まるで想像上の場所を絵画にしたような非現実感を湛えていて、背筋がゾクゾクしました。フランス人のガイドさんの後について哨兵の間へ入り、土産物を商う繁華な通りを進み、階段を踏みしめて高台へと上っていきます。観光客でにぎわう眼下には海が見渡せるようになり、辺りの空気も少しずつ神聖さを増しているように感じられます。モン・サン・ミッシェルの外の風景頂に建つ尖塔が刻々と近づき、いつしかわたしたちは修道僧たちが暮らす一帯に足を踏み入れていたようでした。ノイシュヴァンシュタイン城でもそうだったように、ここモン・サン・ミッシェルでも薄暗い階段が随所にあって、目が悪いわたしは何度か落っこちかけました(笑)。教会、礼拝堂、食堂、迎賓の間、修道僧の遊歩場・・・そこが岩山の上にあることをすっかり忘れてしまうくらい、神域での暮らしぶりに感じ入ってしまいました。ミカエル像教会の床の模様広間にてそもそもこの修道院が建設される発端は、アヴランシュの司教オベールが夢のなかで大天使ミカエルに会い、「ドンブ山に聖堂を建てよ」とお告げを受けたことに始まるのだそう。とんがった頂の上に石板を敷き、空白となった部分をうまく埋め合わせながら上階を支えるように建造物を設計したというのですが、8世紀の人々にどうやってそれを実現できたのか、にわかには信じられません。人間の想像力、あるいは技術力に、感服せずにはいられない場所でした。山を下り最後にその威容を撮影して、帰路につきました。最後にもう一枚実を言うと、午前中の移動の時から身体の節々にけだるさを感じ、決して快調とは言えない状態にあることを自覚していました。バスに乗ってモン・サン・ミッシェルの魔法から解き放たれてしまうと、いよいよ悪寒がし始めました。「まずいなぁ・・・」妻から風邪薬をもらって飲み、パリへと戻る5時間くらいの道のりは上半身にパーカーをはおり、横たわったまま過ごしました。おそらく時差と疲労が重なったためだったのでしょう、バスのなかで休息すると、悪寒はどこかへ消え去りました。夕食はサンジェルマン・デ・プレの裏通りにあるレストランで牛肉の煮込みと赤ワインをペロリと平らげ、復活の気配を感じました。ホテルへ戻る途中、添乗員さんと運転手さんの粋な計らいで、エッフェル塔のライトアップを見物させてもらえることになりました。時計が22時を指すと、エッフェル塔のあちらこちらが明滅を繰り返し、ただでさえ人目を引く鉄塔が異様な存在感を放ちます。エッフェル塔のライトアップ5分、いや10分くらいそれが続いたでしょうか、けっきょくそのイルミネーションを最後まで見届け、ホテルへと帰りました。バスのなかで休みつづけていたためか、妙に気分がハイになっていました。パリでの最後の夜を、このまま終わらせてしまっていいものか・・・。そんな想いがあって、締めくくりにホテルの31階にあるバーに行ってみようということになりました。黒色のスーツを着た男性が迎えてくれて、「どうぞお好きな席へ」といった身振りをしました。さすがに窓際の席は満員で、わたしたちは窓から少し離れたソファに腰を下ろしました。ちょうど2種類あるオリジナルカクテルを一つずつ注文し、薄暗い店内に響く人々のざわめきに耳を澄ませました。日本にもこの手のバーはありますけれど、一杯数千円のドリンクを頼む気にはなれないので、足を踏み入れることはありません。だけど、やっぱりここはパリだから、それくらい高価なお金を払ってもいいかなと思ってしまうんですね。23時、窓の向こうのエッフェル塔が、再び瞬き始めました。バーの窓越しに点灯するエッフェル塔ミントの葉がたっぷりと入ったカシス風味のカクテルをすすりながら、パリの街のフィナーレを見届けました。今日も長い一日でしたが、素晴らしい体験に満ちていました。ありがとうございました!!●今日の天気モン・サン・ミッシェルはくもり時々晴れ。●今日の運動お休み。
2010/07/20
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まだ薄闇が厚く視界を閉ざしている早朝6時前のジュネーブ。わたしたちはバスに乗ってホテルを出発し、コルナバン駅へとやって来ました。売店でサンドイッチなどを買ってスイスフランを消費し、7:17発の特急列車TGVに乗り込みました。午前中のうちにパリ入りし、観光する予定になっています。ジュネーブのコルナバン駅にて車窓にはひまわり畑やいくつかの湖が流れ過ぎ、その背景には雲一つない青空が広がっています。ホテルでこしらえてもらった弁当を備え付けのテーブルに広げ、駅の売店で買ってきたダルマイヤーのブレンドコーヒーをすすります。列車は快調な速度で疾走し、わたしたちはこれから降り立つパリのガイドブックを広げて夢を膨らませていました。到着まで一時期足らずと迫った頃、思いも寄らないアクシデントに見舞われました。高速で駆け続けてきたTGVが、みるみる減速してとうとう停車してしまったのです。窓の向こうは黄金色の草が生い茂るだけの小高い丘で、自分たちがいったいどこにいるのかさえ分かりません。車内にはフランス語らしきアナウンスが断続的に流れ、冷房は切られてしまって蒸し暑くなっていきます。まどろんでいたわたしはしばらくその事態に気づかず、状況を飲み込んだときにはパリへの到着予定時刻が迫っていました。突然のエンストに日本人はみな怪訝な表情を浮かべ、「パリでの周遊時間を返せ」と言わんばかりなのですが、車内の欧州人たちはあっけらかんとして談笑を続けています。まるで「これも、欠かすことのできない旅の一環なのだよ」といったふうに。添乗員さんが状況を確認してきてくれて、30分かけてパリからの迎えの列車と連結して牽引するとのこと。けっきょく予定より2時間遅れでパリのリヨン駅に降り立ちました。パリに到着してまず向かった先は、両岸に観光名所がひしめき立つセーヌ川のクルーズ。日本にいれば「日本晴れ」という表現がふさわしい鮮やかな青空の下、じりじりと肌を焦がす陽光を全身に浴びながら川の上を滑っていきます。エッフェル塔、ブルボン宮国会議事堂、ルーブル美術館、オルセー美術館、パリ第6大学、シテ島のノートルダム大聖堂・・・。エッフェル塔行き交う遊覧船シテ島のノートルダム大聖堂セーヌ川沿いを一巡したことで、なんとなくこの界隈の地理が頭に入りました。セーヌ川クルーズを終えたわたしたちは、再びバスに乗って三越へと向かい、お待ちかねの自由行動となりました。TGVのトラブルのおかげで予定よりだいぶ時間が少ないのですが、妻が立てた計画に従っていくつかのショップやデパートをはしごします。レペット、ギャラリーラファイエット、モノプリ・・・。ショッピングが一段落したところで少しは観光らしいことをしようと、チュイルリー公園へやって来ました。そこには夏場だけ設けられる移動遊園地があり、サマーバカンス中の家族連れで大賑わいでした。わたしたちは観覧車に乗ってみることにしました。ゆっくりとした一定の速度で一周するおなじみの観覧車とは違って、人の乗り降りなどで急停車したり逆に突然高速で回転したり、それを三周繰り返します。チュイルリー公園の観覧車車内からは街を一望できるたしかに挙動はちょっとおかしかったですが、モンマルトルの丘まで見渡せる高所からの眺望はお買い得でした(一人8ユーロ)。ヴァンドーム広場を通って三越へと戻り、自由行動は終了となりました。一行はバスに乗ってホテル・コンコルド・ラファイエットに移動し、解散となりました。ホテル・コンコルド・ラファイエットの外観18階の部屋からはモンマルトルがよく見えるこの時点で時刻はまだ20時前、空にはまだ日本の午後4時くらいの太陽が輝いています。ということで、自由行動第二弾を敢行することにしました。メトロに乗ってコンコルド広場に向かい、そこから凱旋門まで1.9kmのシャンゼリゼ通りを散歩します。7/14に建国記念日を記念した恒例のパリ祭が開催されたばかりということで、沿道にはまだ片付けられていないお祭り道具のようなものが見受けられます。凱旋門の向こうに刻々と日が沈んでゆき、その光景があまりにも美しいので、人々は横断歩道の真ん中に留まって写真を撮影しています。もちろん、わたしたちもそうせずにはいられませんでした。シャンゼリゼ通りの横断歩道にて途中、妻が大好きなマカロンの老舗ラデュレに立ち寄ってお土産を購入し、次第に人通りが多くなってゆく大通りを凱旋門へと向かって進んでいきました。正直「パリは女性のための街」と思ってそれほど期待をしていなかったのですが、実際にこの足で踏みしめてみると、思っていたよりずっと魅力的な街でした。見所があり過ぎて、今回の旅だけではとても味わい切れそうにもありません。こうしてまた一つ素晴らしい街と出会えたことに感謝します。ありがとうございました!!●今日の天気パリは快晴。●今日の運動お休み。
2010/07/19
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7:40、チューリッヒのホテルからバスに乗り、イタリアとの国境を目指すように南へと進んでいきました。昨日の雷雨はどこかへ消え去り、ところどころから青空が顔を出し始めていました。途中、カンデルシュテークからバスごと積み込んで山塊を突き抜けてくれるカートレインに乗りました。巨大な蒸気のような雲が手の届きそうなところに沸き立ち、どうやら少しずつ標高の高いほうへと進んでいるような気がします。カンデルシュテークにて「電車のなか」の「バスのなか」にいるというのは、なんとも不思議な感じがします。バスはゴッペンシュタインで下車し、そこから15分ほど走ったところで今度はわたしたち乗客がバスを降り、テーシュからシャトル列車に乗ります。テーシュにて時が流れるとともに雲は溶けて消えてしまい、何ものにも遮られることのない裸の太陽がぎらつき始めました。長いトンネルを抜けてたどり着いたのは、山岳リゾートとして名高いツェルマットという小さな街です。改札を出るやいなやゴルナー鉄道の乗り場へと走り、再び電車に乗り込みました。わたしたちを載せた列車はゆっくりと山を登り、ほどなく右手の車窓に空へ向かってそそり立つ、鋭利な刃物のような山陰が現れました。ゴルナー鉄道の車内にて車内はにわかにざわめき、もちろんわたしも興奮を抑えられずに子供のようにはしゃいでしまいます。あれが、難攻不落と言われ幾人もの登山家を拒み続けたマッターホルンです。昨夕見舞われた豪雨に「明日もダメかも知れない・・・」と半ば諦めていたのですが、なんという天佑。途中でいくつかの駅に停車し、ハイキングを楽しもうという人々が朗らかな表情で下車していきます。ゴルナー鉄道の車内にておよそ40分をかけて列車は山を登り続け、終点のゴルナーグラート展望台に到着しました。ゴルナーグラート展望台に到着駅からさらに歩くこと10分足らずで、周囲を360度見渡すことのできる展望台へと至りました。多くの観光客が集い、みなそこに佇む雪山の威容に魅了され、目を細めて微笑んでいます。ゴルナーグラート展望台にて「あぁ、眼が見えるというのは、なんて素晴らしい体験なんだろう」心底そう思いました。天候が悪いとまったく見えないこともあるという、マッターホルンやモンテローザの眺望を味わえる幸せ。しばらく夢見心地でアルプスの山々を眺め、再び麓町へ戻るべく列車に乗りました。いつまで見ていても見飽きるということがなくて、純白の雪を冠した山々を子どものように追いかけ続けます。山を下る列車からの眺めうねる線路を列車は走るツェルマットに到着し、自由時間がまだ残されていたので街を散歩することにしました。この街は、自然を守るために交通機関を電気自動車か馬車に制限しています。駅前で見かけた馬車繁華なバーンホフ通りにて通りがかりの店頭で、ぶっといウィンナーを焼いているいい匂いが漂っていました。ちょうどお腹がへっていたので、わたしたちはウィンナーとビールを買い求めました。ウィンナーは表面がカリカリで肉厚、ガブリと頬張るとジューシーな旨味が口の中いっぱいに広がって、ビールが進みます。駅前のCOOPで土産物などを買ってから再びシャトル列車に乗り込み、ツェルマットに別れを告げました。いつかこの街に泊まってもう一度美味しい空気を吸いたいなぁ・・・。再びバスに乗り換えて、一路ジュネーブを目指します。まるで眼前に迫り来る大男のような山々の合間を縫ってバスは走り、いつしか左手に西日を映した海が現れました。しかしそれは海なんかではなく、スイス随一の広大さを誇るレマン湖でした。レマン湖沿いを走るバスはこの湖沿いにひたすら走り続け、途中ローザンヌを経由して西へ西へと進んでゆくと、湖の向こうに再び雪山が現れました。それは、アルプス最高峰のモンブランです。カバンから双眼鏡を取り出し、黒色の山陰の向こうに真っ青な空を背景にして現実感なく佇んでいる純白の頂を覗き見ます。「どうか明日もいい旅になりますように」モンブランに向かって、そう祈りました。19時前にジュネーブのホテルに到着し、安堵の溜め息を漏らしました。今日も素晴らしい旅となったことに心から感謝します。ありがとうございました!!●今日の天気スイスは快晴。●今日の運動お休み。
2010/07/18
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ロマンチック街道。ドイツのほぼ中心に位置するヴュルツブルクから南のフュッセンを結ぶ、全長約350kmの道。わたしたちは朝の7時45分にローテンブルクを発し、ディンゲルスビュールまでこの街道をドライブし、ディンゲルスビュールから終点のフュッセンまではアウトバーンで移動しました。土曜日ということもあって家族連れで外出する人々がグッと増えるようで、一部渋滞しているところもありました。四台ものマウンテンバイクを搭載している乗用車や、大きな黒い犬を同乗させているキャンピングカーなど、いかにも行楽へ出かける様相の車が隣のレーンを次々と走り過ぎていきます。これもドイツらしい週末の風景なのでしょう。そんな混雑をなんとか乗り切り、フュッセンの街を通り過ぎて森の緑がとろりと溶け込んだような色合いの川を渡ると、シュヴァンガウというのどかな村にたどり着きました。ここは今日の目的地・ノイシュヴァンシュタイン城の麓に位置しています。とあるホテルのレストランで昼食をとり(大きなグラスに注がれたバイツェンビールが美味しかった)、お城を往復する専用バスに乗ってうねる上り坂を駆け上がっていきました。停車場でバスを降り、黒い樹木に囲まれた薄暗い山道を歩いていくと、ほどなく渓谷に架かる吊り橋・マリエン橋が現れます。そこはノイシュヴァンシュタイン城の全貌が眺められる絶好の展望スポットになっていて、多くの人々がミシミシときしむ橋の上を往来しています。眼下の谷はかなり深くて、よくこういう場所から落下してしまう夢を見るんだよなぁ・・・などとのんきに考えながら進んでいきました。わたしたちが橋の上に降り立ったちょうどその時、大きな雨粒が一つ、またひとつと落ちてきました。たしかにさっきから雲行きがおかしかったのですが、ものの数十秒の間に音を立てて本降りになるではありませんか!怪しく垂れ込めた暗雲を背景にして、悲劇の王が夢を託した城塞は、いわくありげに陰影を浮かべて佇んでいます。「そんなところでボヤボヤしていないで、早くこちらへおいで」目の前のお城が、そう言って雨を降らせているのかも知れません。みな慌てて記念写真を撮影して、駆け足でマリエン橋を後にしました。マリエン橋からお城を眺める雨脚は次第に勢いを増し、折りたたみ傘を開いて歩を進めます。10分ほど歩いたでしょうか、さきほどマリエン橋から見下ろしたノイシュヴァンシュタイン城が、眼前にその威容を現しました。ノイシュヴァンシュタイン城を見上げる城門をくぐるたくさんの観光客見学の予約時刻を待ってゲートをくぐり、日本語でガイダンスしてくれるラジオのような端末を受け取って城内へと進んでいきました。城内から見上げるマリエン橋城内からの風景このお城は、19世紀後半にバイエルン王・ルートヴィヒ二世が自らの夢を具現化したお城で、実は未完成。完成を見る前に、彼は変死を遂げたのです。その時代の政治家としては失脚してしまったものの、中世の王侯に憧れ、浮世を離れて一人夢想に浸りながら世を送ることを望んだルートヴィヒ二世の情熱が、ここには染み込んでいるのです。目が悪いわたしは光の乏しいらせん階段でつまづき、あわや転倒しそうになりましたが(笑)、なんとか手すりにしがみついて上へ上へと上っていきました。控えの間、王座の広間、執務室、食堂、寝室・・・。予約している後続のお客さんがいるからなのでしょう、ムダのない速やかなテンポでガイダンスが進行し、次へ次へと移ろっていかなければなりません。本当は、もう少し王座の広間でジッとしていたかったなぁ・・・。前を見ても後ろを見ても、あるいは上を見上げても、薄暗い空間のなかに金色の光が不気味に照り返していて、平面的な写真では決して伝わってこない圧倒的な雰囲気がそこにはありました。これが総工費248億円をかけたという、ルートヴィヒ二世の夢の形なのでしょうね・・・。城内の見学を終えて再び外へ出たときには雨は止み、雲間から薄日がこぼれ出していました。帰りは、バスで登ってきた山道を自分の足で踏みしめて下っていきます。にわか雨を浴びた木々は汚れを落としたみたいに色彩を増し、目に映しているだけで心安らぎます。雨上がりの森を歩くただし、アスファルトの上は馬車を曳いてゆく馬たちのフンがそこここに散らかっていて、いっときも気が抜けません(笑)。やがて昼食をいただいたシュヴァンガウのホテルが見えてきて、まだ少し時間があったのですぐそばにある湖へ散歩してみました。人が集まっているほうへと進んでゆくと、なんとそこには白鳥の群れが。そうそう、ノイシュヴァンシュタイン城は日本語にすると「新白鳥城」だし、ここシュヴァンガウも「白鳥の高原」という意味。演出なのかも知れないけれど、この湖にはやっぱりどうしたって白鳥がいなくちゃいけないんです。湖の白鳥人なつっこい白鳥たちとしばし戯れてから、バスに乗り込みました。フュッセンを離れ、わたしたちを乗せたバスはオーストリアを通過して、スイスに入りました。空は真っ黒な雲が張り出し、昨日まであんなに眩しく照りつけた陽光を奪い去ってしまいました。まだ18時にもなっていないのに、まるで日没が差し迫っているかのような薄暗さです。この国々では、21時でさえ鮮やかな太陽が輝いているはずなのに。まもなく19時になろうかという頃、わたしたちはチューリッヒのラディソン ブル エアポートというホテルに到着しました。明日はアルプスの山々を見に行く予定なのですが、果たしてこの天気じゃどうなることか・・・。不安な気持ちを抱えながら、また新たな街で夜を迎えました。何はともあれ、無事に旅を楽しむことができて感謝します。ありがとうございました!!●今日の天気フュッセンはにわか雨。スイスへの道中は豪雨。●今日の運動お休み。
2010/07/17
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9:15、リューデスハイムという宿場町からフェリーに乗り込みました。ここはフランクフルトから車で40分ほどのところにあります。これから1時間40分ほどかけて、ヨーロッパの父なる川・ライン川をクルージングします。右岸にはなだらかな傾斜の山にぶどう畑が広がり、一方左岸は城塞を中心とした家々が立ち並んでいます。ぶどう畑と列車わたしたちは青天井のデッキに椅子を並べて腰掛け、涼風に吹かれながらゆっくりゆっくりと流れ過ぎる景観を微笑みながら眺めていました。フェリーは15分くらい滑るごとに両岸の乗船場に停まり、新たな旅人を拾ってゆくのでデッキはいつの間にか多国籍の人々で溢れ返っていました。わたしたち日本人もアラブ系の衣装に身を包んだ人々も、バカンスで訪れたヨーロッパ各地の人々も米国人も、この勇壮な景色を前にすればみんないっしょ。小高い丘に佇む古城が現れれば、みな立ち上がって歓声を上げながらデジタルカメラを構えます。城塞を見上げて陽光をいっぱいに浴びて網膜に染み込んでくるような樹木の色合い、あんなところで暮らしてみたいと想像力を掻き立てるかわいらしい家並み、そして肌をなでてやさしく熱を癒してくれる川風。美しいもの、愉快なもの、心地よいもの・・・生まれ育ったところは遠く離れていても、人間の感性というものは同じなんだと感じます。目を細めながら寛いでいると日本人のスタッフがやってきて、この地域で採れるぶどうを使った名産のワインを試飲させてくれました。何種類かを味わってみたのですが、やはりアイスワインの舌がとろけてしまいそうな甘みがなんとも言えず美味しくて、購入しようか迷ってしまいました。親戚や友人にはお酒が好きな人が多いから、とりあえず一本買ってみようか? と妻を誘ってみたのですが、それなりに高価だしまだ旅も序盤で荷物が増えるのも悩ましいということで、今回は諦めることにしました。ローレライの岩を見上げていくつもの個性的な山城を通り過ぎ、ローレライの岩を見送ったところでザンクト・ゴアールという船着場に到着しました。わたしたちはここで下船してバスに乗り、次なる目的地ハイデルベルクへと向かいました。ハイデルベルク城の展望台にて「こんな街で暮らすことができたら、どんなに楽しいだろう」眼下に広がる中世の面影を遺した街を眺めながら、しみじみと思いました。再びバスに乗って坂を下り、さっきまで見下ろしていたマルクト広場や旧市庁舎などを散歩しました。ハイデルベルクの街角にて風情ある家々に挟まれた小粋な路地を進んで街を離れ、ネッカー川に架かるカール・テオドール橋にやって来ました。カール・テオドール橋から眺めるネッカー川ここからはハイデルベルク城の外観がもっともよく眺められるということで、みな思いおもいの場所でデジタルカメラを構えます。ハイデルベルク城を見上げる森、草花、川、そして時の流れを刻々と刻み続けてきた城と街。ハイデルベルクという街は、人間が豊かに生を営むために必要な要素が余すところなく詰め込まれた素晴らしい街です。しつこいけれど、一度この街に暮らしてみたいなぁ・・・。ハイデルベルクを後にしたわたしたちは、再び対向車が飛ぶように流れすぎてゆくアウトバーンに乗って次なる目的地へと向かいました。こちらは夕方で、時差が残っている身体にはちょうど一番辛い時刻。ずっしりとした眠気にさらわれそうになりながらバスに揺られること2時間ほど。城壁の門をくぐり、バスはローテンブルクの街に到着しました。はじめにゴルドナーヒルシュ(「金色の鹿」という意味)というホテルのチェックインを済ませ、それから「中世の宝石」と称される街を散策しました。一年中クリスマス用品をずらりととり揃えたケーテ・ウォルファルト本店クリスマスビレッジや、わたしよりも長身のぬいぐるみが出迎えてくれるシュタイフのショップを巡り、歩き疲れて来るとアイスクリームを買ってマルクト広場のベンチで休憩しました。マルクト広場にて一昨年訪れたイタリアのサンジミニャーノやシエナを思い出させる石造りのかわいらしい家々が建ち並び、中世の雰囲気がそこここに充満しています。ローテンブルクの街角にて街の西端にあるブルク公園からは眼下のタウバー渓谷と遠くの街並みが眺められ、じつに心安らぐ空気が横たわっていました。ブルク公園からタウバー渓谷を見渡して街を取り囲む城壁に登って違う角度からの眺望を楽しみ、それから夕食の待ち合わせをしているレストランへと向かいました。夜はフランケン地方の名産である白ワインを注文し、ロールキャベツ、それからこの辺りの名物というホワイトアスパラも追加注文しました。同行している人たちの顔ぶれをなんとなく覚えてきて、少しずつ会話が滑らかになっていきます。楽しい食卓を後にして、今日の締めくくりにとマルクト広場に集まりました。時刻が21時をさすと、旧市庁舎で「マイスター・トルンク(市長の一気飲み)」の仕掛け時計が動き出すのです。三十年戦争の頃、敵軍に攻め落とされたローテンブルクでしたが、敵将ティリー将軍を名産のフランケンワインでもてなしたところ、彼はほろ酔い気分で「この特大ジョッキのワインを飲み干した者がいればローテンブルクを焼き討ちにはしない」と言いました。それを受けてたったヌッシュ市長は、本当に特大ジョッキに満たされたワインを一気飲みして、ローテンブルクを救ったという話がこの街に伝わっています。この「マイスター・トルンク」の仕掛け時計は、今ではローテンブルク観光の欠かしてはならない名物となっているのだそう。マイスター・トルンクの仕掛け時計を見上げてほろ酔い気分でホテルに戻り、風呂に入ってすぐに眠ってしまいました。今日も心楽しい時間を過ごすことができて感謝します。ありがとうございました!!●今日の天気南ドイツは晴れ。●今日の運動お休み。
2010/07/16
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路面電車、路線バス、それから近郊列車のSバーンに地手鉄のUバーン・・・。この街には、同一区間内で料金が一律の交通手段が複数用意されています。が、それぞれどうやって乗り降りすればいいんだろう?ホテルの最寄り駅であるフランクフルト西駅で、わたしたちは戸惑っていました。厳格な表情を浮かべた中年の駅員さんに片言の英語で事情を伝えると、「仕方ないな」と言いたげな顔でわたしたちを手招きし、「まずはここを押して、次にここを押す。さぁ、後はお金を入れるんだ」とやって見せてくれました。なんとか切符は買えたものの、こちらの駅には改札というものがなく、その代わりに乗車駅で切符に刻印するのだと観光ガイドブックには書いてあります。しかし、どこでどうやってそんな刻印を押せばいいんだろう・・・。切符を手にした勢いで、ええいままよと刻印を無視して、ホームから電車に乗り込みました(笑)。幸い駅員さんに呼び止められるようなこともなく、無事にフランクフルト中央駅で下車して仕事帰りの人々が行き交う繁華な駅前に出ることができました。フランクフルト中央駅前にて熱波がやって来ているというだけあって陽射しは強烈なのですが、湿気が少ないだけに日陰は実に涼しく、歩いても汗が噴き出すようなことはありません。駅から東へ向かって進んでいくと右手に橋のようなものが見えてきて、そちらの方へ歩み寄っていきました。それは真っ青な空を映したマイン川に架かる歩行者専用のホルバイン橋で、眼下には遊覧船が白い波しぶきを上げながら往来しています。ホルバイン橋からマイン川を眺めて深緑色に濁った水はそれほど清潔ではないのかも知れないけれど、石畳の遊歩道や緑豊かな並木道に挟まれたその川は、じつに風情のある景観を呈していました。こんな美しい川を眺めながらジョギングすることができたら、さぞ心楽しいことでしょう。わたしたちは橋を引き返して遊歩道へと降り、左手にいかにも時の流れが染み込んだビルディングを眺めながらしばらく川沿いを散歩しました。マイン川沿いの遊歩道にて自動車が往来する石造りの橋を越えたところでマイン川とお別れし、旧市庁舎などが林立する一帯のほうへと進んでいきます。ほどなく視界が開け、多くの人々が憩うレーマー広場にやって来ました。積み木で組んだみたいな階段状の屋根が愛嬌のある旧市庁舎レーマーや、空に向かってそそり立つニコライ教会の尖塔など、広々とした空間を取り囲むように並んでいます。旧市庁舎レーマーレーマー広場にてひと際目を奪う突出した建物に導かれるように、広場を後にしました。ほどなく目の前に大聖堂が現れ、空の青と雲の白を背負って建つその全貌を目にして口をポカンと開けたまましばらく見入っていました。大聖堂を見上げて「大聖堂」と言うと、レイモンド・カーヴァーの短編小説「大聖堂」を思い出します。あの物語のなかでテレビに映っていたのも、こんな一枚の絵画のような美しい殿堂だったんだろうか?そんなことを考えながら、思いおもいのアングルからデジタルカメラのシャッターを切りました。大聖堂を離れ、いかにも手の込んだおもちゃを並べた玩具店やウェディングドレスをショーケースに展示した衣装店などが軒を連ねる商店街の路地を進み、かの文豪・ゲーテが生まれ育ったというゲーテ・ハウスを訪れました。閉館していて辺りは閑散としていたけれど、自らも数々の恋に悩んだという繊細な男の面影に想像を膨らませ、一人感慨深くなってしまいました。時刻は19時にさしかかり、ようやく日が傾く気配を見せ始めました。日が沈んでしまう前に、この辺りで切り上げましょう。再びフランクフルト中央駅に引き返し、構内のショップでサラミを挟んだサンドウィッチを買ってホテルへと戻りました。無事に旅のスタートを切ることができて感謝します。ありがとうございました!!●今日の天気フランクフルトは晴れ。●今日の運動お休み。
2010/07/15
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ルフトハンザ航空711便は、午前9時35分に無事離陸しました。うっすらとした膜のような雲の向こうで、梅雨明けを予感させる快活な太陽が輝いています。二つの平行した通路を挟んで3・4・3と並んだシートのなかで、わたしと妻は中央四列の左翼側に並んで腰かけました。濃紺のユニフォームに身を包んだ包容力のあるドイツ人のCAさんがドリンクサービスにやってくるたび、「ビア、プリーズ」と一つ覚えの呪文のように唱えるわたし。日本のビールより麦の香りがグッとこちらに迫ってきて、またジ~ンと後に残る苦味がプレッツェルによく合います。押し込められた座席に身体がなじみ始めた頃、昼食のサービスが始まりました。しばらく遠ざかってしまうであろうお米に別れを告げようと牛肉の柳川丼を選び、一方はなからお米に興味のない妻は、鶏肉のピカタミラノ風&トマトソース・スパゲティを選びました。食後にドイツ・ビールをお替りすると重い眠気がやってきて、上半身にパーカーを羽織り、膝下には毛布を掛けて目を閉じました。それほど長い眠りではなかったと思いますが、目を覚ますと心地よい回復感と喉の渇きを覚えて、席を立ってトイレに寄りつつ水をもらいました。それからは目的地・フランクフルトが生んだ文豪・ゲーテの代表作「若きウェルテルの悩み」を読むか、それに疲れてきたらしおりを挟んで眠りに落ちるかの繰り返し。たしかにずっと着席していると全身がこわばってくるけれど、読書とまどろみを気ままに繰り返すことができるなんて、わたしにとっては至福のひとときです。心楽しい時間というものはあっという間に流れ過ぎるもので、わたしたちを乗せた飛行機はもうバルト海上空にさしかかっていました。夕食のクリームチーズソース&ペストソースのトロフィパスタが運ばれてきて、ドリンクは赤ワインを注文しました。ただじっと座っているだけなのに、消化器官は静かに働き続けているのでしょう、無性にお腹が減っていました。マカロニのようなパスタとデザートのプラリネガナシュケーキをあっという間に平らげ、食後のコーヒーをすすりました。機内にはしきりにアナウンスが入るようになり、ドイツ語、英語、それから日本語という順番に繰り返されます。しばらくすると飛行機は着陸態勢に入り、高度が降下する感覚が断続的にやって来て、そのたびごとに耳に何かが詰まったみたいに音が聞こえにくくなります。意識的なあくびで耳の閉塞感を振り払い、離れた小さな窓の外に地上の建物が現れはしまいかと心待ちにしていました。幾度も急降下を繰り返した飛行機は大した震動もなくランディングに成功し、14:30頃にフランクフルト・アム・マイン国際空港に到着しました。バスでロビーへ移動して入国審査を済ませ、流れてくるキャリーケースを受け取ってホテルへ向かいました。繁華街から西北に位置する閑静な住宅街の一角に、メルキュールホテル アンド レジデンスは建っています。添乗員さんから鍵をもらい、部屋に入って荷物を下ろすと、ホッと安堵の溜め息が漏れました。こちらはまだ午後4時、薄闇が降りてくるまでにはまだたっぷりと時間が残されています。さぁ、これからフランクフルトの街歩きに出かけましょう。(後編につづく)
2010/07/15
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日曜日から書いている「小説を通しての世界一周パリ編」。その締めくくりに、狗飼恭子さんの「東京がパリになる日」を取り上げたいと思います。このお話の舞台は、決してパリではありません。回想と夢の中でパリが登場するけれど、史恵と賢太郎が手をつないでいるのは、(きっと)東京。それなのにここでご紹介するのは、単純に面白かったから(笑)。旅行代理店で窓口のお姉さんをしている二十七歳の史恵と、大学を卒業してから美容師になるための学校へ通っている賢太郎。賢太郎は二十五歳にしていまだに大分の実家から仕送りをもらい、アルバイトもせずに史恵の家にいついている、いわゆるヒモ。史恵が同僚たちに賢太郎を紹介すると、高校生のような容貌の彼を見てみな「囲っている」とか「馬鹿息子」とかからかいます。だから、毎月賢太郎にお小遣いをあげているという事実は、誰にもナイショにしている史恵(笑)。頭のネジがやや緩み、天然な発言を連発する賢太郎と、お姉さん目線で彼をこよなく愛し、常軌を逸した理屈もお金を差し出すことも許してしまう史恵とのやりとりが、まるでコントを観ているようで面白い。ある日、賢太郎は突然パリで美容室を開業したいと言い出し、それを聞いた史恵は、来年予定されている勤続五年でもらえる長期休暇を利用して、二人でパリへ旅行しようとひそかに決意します。実は、史恵にとってパリは以前失恋の痛手を負った苦々しい場所なのですが、賢太郎との幸せな未来を信じ、パリに思いを馳せるのでした。結末では、なぜかファミリーマートのレジに設置されている募金箱を手に携え、史恵は一人夜の街に佇むことになるのですが・・・。けっきょくこの物語のなかで史恵はパリにたどり着くことができないのですが、彼女にとってかの地は愛する男性との夢を(二度も)託し、そして裏切られてしまった見果てぬ夢の街。人間を何十年もやっていると、なぜかそういう奇妙な縁が芽生えてしまう場所ってありますよね。変な話かも知れませんが、健気でかわいそうな史恵の分も、パリを訪れたら幸せな気分を取り返してきてやりたい、と思ってしまいました。あるいは、こうも思います。もしかしたら、パリという街は史恵にとってそうであったように、遠くから夢見ていることが一番幸せなのではないか、と。これはパリに限らないかも知れないけれど、どこか華やかな街へ旅する時には、その理想郷を訪れることを夢見ている時間が最も豊かなひとときで、実際にこの足でその街を踏みしめた瞬間から、その豊かさは目減りしていくのではないでしょうか。理想の美しさと、現実の過酷さ・・・。そういう意味では、わたしにとって旅へ出る直前の今が、いちばん味わい深い時間なのかも知れません。ということで、旅立ち直前の「小説を通しての世界一周パリ編」は、この辺りでお開きとさせていただきます。最後に。独特の文章のリズム、奇想天外な物語の展開力、そしてその奥に感じられるユーモア溢れる人柄に触れたような気がして、著者の狗飼さんに親しみを覚えてしまいました。ありがとうございました!!【三文日記】明朝4時過ぎ、いよいよ旅立ちます。11時間のフライトの後にフランクフルトを観光したいと思っているので、長い一日になりそう。どうか万事うまくいきますように。●今日の天気晴れ時々くもり。●今日の運動ジョギング30分。
2010/07/14
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「小説を通しての世界一周パリ編」、今日は二つ目の物語をご紹介しましょう。まずは、あらすじをどうぞ。* * * * * * * * * * * *母と、その再婚相手の事実上のハネムーンに連れて来られた小学六年生の少女・しおり。母らに付き合うことに嫌気がさし、彼女は一人でどうしても訪れたかった場所へと向かいます。メトロのレンヌ駅から列車に乗ったのはいいものの、途中怪しい男に抱きつかれて慌てて下車し、駅前の乗り場でタクシーを待っていました。一方、モロッコからの移民でタクシーの運転手をしているサイードは、サン・ピエール通りで渋滞に巻き込まれながら、一枚の手紙に目を通していました。その手紙は彼の妻・みゆきが二ヶ月前に置いていったもので、大切な友だちが事故に遭ったので日本に往くと言い残したっきり、彼女から連絡もありませんでした。渋滞を抜けてみゆきの回想から引き戻された彼はコンコルド駅へと向かい、駅前の乗り場で少女を拾います。それはもちろん、しおりでした。サイードが日本語を話すことができると分かるとしおりは安堵し、またサイードも久しぶりの日本語に好感を覚えたようでした。しおりは映画「アメリ」が大好きで、その舞台となったモンマルトル界隈へ行きたいのだと言うと、サイードももちろん「アメリ」のことをよく知っていて、親切に案内してくれます。車はオペラ座前を通り過ぎて北へ進路をとり、やがてムーラン・ルージュ、そしてキャフェ・デ・ドゥー・ムーランにさしかかります。憧れのアメリがウェイトレスをしていたこのカフェで、二人はランチをすることになりました。アメリがそうしていたように、しおりはクレーム・ブリュレの表面に薄氷のように張ったカラメルを全部バリバリと割って食べ、夢見心地に浸ります。しおりが不意にサイードの奥さんのことを尋ねると、彼は胸ポケットから運転免許証入れを出し、その中から一枚の写真を取り出してしおりに手渡します。そして、彼は写真に写っているその女性が、二ヶ月前に自分の元を去って戻らないことをしおりに打ち明けるのでした・・・。* * * * * * * * * * * *まず、この物語を読んで愉快だったのは、しおりがまさに手本を示してくれていることでした。つまり、彼女は旅先のパリに「アメリ」という憧れの人の面影を強く求め、感じようとしているのです。アメリが働いていたカフェに入って映画のなかで見た景色のなかにすっぽりと取り込まれ、アメリがそうしていた流儀に従って食事をする。父親からの愛情の欠落を抱えながらも心豊かに生きるアメリの姿は、しおりにとって似たような境遇を共有している親愛なる存在。空想上の人物を追い求めて、一人でモンマルトルへ駆け出すなんて子どもじみた振る舞いに見えるかも知れないけれど、わたしは個人的にそういうのがとても好きです。歴史上の人物でもいいし、小説の主人公でもいいのですが、自分が胸に抱いている理想像を旅先に感じることができたら最高です。そう思うからこそ、こうして旅へ出る前に幾編もの物語を読むのですね。一方、この物語には決して愉快とは言えない、色んな種類の確執も存在しているような気がします。自分本位な都合でくっついたり別れたりするオトナたちに対して、しおりが抱いている嫌悪、突然自分のもとから姿を消してしまった妻・みゆきに対してサイードが感じている、乗り越えがたい精神的・物理的な隔絶、そしてみゆきが日本に残してきた愛する人とその周囲の人々との葛藤・・・。それらは、日本とパリという遠く離れた土地の間に横たわっている厳然とした壁を暗示しているように感じるのです。その街を実際に自分の足で踏みしめたとき、言葉にならない興奮とともに、きっと克服しがたい不和のようなものも感じなければならないのかも知れない・・・。この物語を読んで、そう覚悟しました。心楽しいことも、決してそうではないことも待ち受けているのが旅というもの。浮かれた気分に浸りっぱなしだった自分に警鐘を鳴らしつつ、今日のところはこの辺で筆を置きます。今日も面白い物語に出会うことができて感謝します。ありがとうございました!!【三文日記】久しぶりに気温が少し下がりました。ベッドに横たわると肌がひんやりとして、タオルケットをすっぽりとかぶりました。巨人の連敗もストップしたし、今夜はぐっすりと眠れそうです(笑)。●今日の天気くもり。●今日の運動ジョギング30分。
2010/07/13
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昨日からはじまった「小説を通しての世界一周パリ編」。今日は、松本侑子さんの「夜ごとの美女」を取り上げてみたいと思います。何はともあれ、まずはあらすじを。* * * * * * * * * * * *時は第二次世界大戦が終わって四年の月日が流れすぎた頃。衣装のデザインの勉強をするためにブルターニュから一人パリへ上京した主人公・マルタンは、夜遅くにセーヌ左岸、サンジェルマン・デ・プレの裏通りを歩いているとき、一人の女性と巡りあいます。その女性は、手の込んだベルギーレースが飾られた紺色のビロードのワンピース、襟元にはカメオのブローチと真珠の首飾り、肩に銀ギツネの毛皮のケープをはおり、羽を飾った帽子、子山羊の革手袋、革のブーツを身につけています。衣装だけを見るとまるで百年も昔に生きていた人のようなのですが、その顔立ちは人を甘い郷愁に誘う、不思議な魅力を湛えていました。ある雨の夜、傘もささずにマルタンがいつもの通り道を歩いていると、その女性が歩み寄って「ムッシュー、傘をお貸ししましょう」と申し出ます。「それではあなたが濡れてしまいますよ」とマルタンは断り、その代わりに雨が弱くなるまでいっしょにカフェへ行きましょうと誘うのでした。この出来事をきっかけにマルタンと彼女は親しくなり、彼女がミレーユという名前であること、ジャコブ通りの骨董屋で二人のおばと暮らしていることを知りました。深夜のカフェでのデートを重ね、二人は次第に親密な間柄になっていくのですが、一つだけおかしなことがありました。夜道を一人で帰すのは心苦しいとマルタンが見送りを申し出るのですが、ミレーユはそれを断り、決して後をつけないようにと釘を刺すのです。まるで「鶴の恩返し」のよう。純朴なマルタンはミレーユの言い分を了承し、決して彼女の帰りを見送ることはありませんでした。しかし、そんな仲睦まじい二人の間を引き裂く事件が起こります。彼らがカフェにいるときに、たまたまマルタンの師匠であるパシュ先生が通りかかり、ミレーユを見初めて妻にしたいと言い出すのです。このことで恩師と決裂したマルタンはデザインで身を立てる道を閉ざされ、故郷からやって来た父に連れ戻されて、ミレーユと別れわかれになってしまいます・・・。この悲恋の結末は四十年後にやって来て、久しぶりにサンジェルマン・デ・プレを訪れた初老のマルタンは、ある骨董屋で買った人形を抱きしめながら帰ることになるのでした・・・。* * * * * * * * * * * *男女の恋を巡る現実的なお話というより、子どもが喜んで耳を傾けそうなファンタジーです。クールなオトナのラブストーリーを好む方にとっては、それほどお気に召さないかも知れません。でも、わたしは個人的にとても好きな物語です。「パリというのは、そういうことが本当に起こりそうなムードを湛えた街なのかも知れない」まだ見たこともないパリですが、そんなことを感じてしまうのでした。このお話を読み終えたとき、著者の松本さんは、パリで目にしたフランス人形を思い出し、この作品の着想を得たのではないかという気がしました。今にも自ら立ち上がっておしゃべりを始めそうな、生命力を感じさせる愛らしいフランス人形。そのイメージが強く働きかけることによって、マルタンとミレーユの出会いと別れ、そして再会という物語が生まれたんじゃないだろうか?そう思いました。そして、もしも機会があったなら、セーヌ左岸のサンジェルマン・デ・プレ界隈に足を運び、骨董屋に入ってみたいとも思いました。そこにはきっと、パリという街を象徴するような、豪華絢爛な衣装に身を包んだ存在感のある人形が待っているような気がしてしまうのです。物語を読んで、そのなかに登場した場所を訪ねてみたくなる。わたしにとって、そういう衝動を与えてくれる物語が大切なのですが、この作品はそれに適うものでした。パリという街を旅した後、そこで遭遇した色んな物事の大半は忘れてしまうことでしょう。そんな中にも、砂から選り分けた金粒のようにごくわずかではありますが、いつまでも忘れられないイメージが残るはずです。自分にとって、そのイメージとはどんなものだろう?今から楽しみにしています。また一つ素敵な物語に出会うことができて感謝します。ありがとうございました!!【三文日記】思いがけず美しい夕陽にお目にかかることができました。淡い色で輝いていたアジサイの花は黄色くくすみ始め、物憂い雨季がまもなく過ぎ去ろうとしている気配を感じました。旅へ出ている間に、本格的な夏がやって来ているかも知れません。●今日の天気くもりのち晴れ。●今日の運動ジョギング30分。
2010/07/12
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今年趣味で取り組んでいる「小説を通しての世界一周」。ヨーロッパへの旅行を間近に控え、予習のためにと何冊かの小説を読んだのですが、せっかくなのでここでご紹介したいと思います。旅行はドイツ、スイス、そしてフランスとかなりの移動距離があり、一つの街を味わえる時間はせいぜい数時間ほど。それらすべての土地土地の物語を読んでいたらとても時間が足りないので、優先順位をつける必要がありました。まず第一に学んでおくべき街は、迷うことなく決まりました。それは、自由行動も含めて半日は過ごすことのできるパリです。パッケージツアーのなかでも希少な気まま時間を過ごすことができるわけですから、事前にその街のことを調べておくのは必須でしょう。ということで、パリを舞台にした小説はないものかと調べていて見つけたのが、「パリよ、こんにちは」でした。本書には、林真理子さん、椎名誠さん、盛田隆二さん、松本侑子さん、狗飼恭子さん、唯川恵さんら六人の作家によるパリにまつわる物語が詰まっていて、色んな語り口でパリが表現されています。例えば、登場人物の出自を見ていくと、パリで暮らす日本人あり、パリっ子あり、仕事で、あるいは観光でパリを訪れた日本人あり、モロッコからの移民あり、そして愛する人とパリへ旅することを夢見ながら日本で暮らす人あり、じつに多彩です。観光ガイドブックのようなありきたりな説明ではなくて、小説家の眼を通して描かれる生きたパリを感じたい。そんな願いを込めて、手に取ったのでした。六編もの物語があるわけですが、ここでは個人的に気に入ったお話を二つ取り上げてみようと思います。その二つとは、松本侑子さんの「夜ごとの美女」、盛田隆二さんの「心はいつもそばにいる」です。また、パリを旅するのとはちょっと違うのですが、狗飼恭子さんの「東京がパリになる日」がとても面白かったので、そこにも触れてしまうかも知れません。明日は、松本侑子さんの「夜ごとの美女」を取り上げてみたいと思います。今日も健やかに過ごすことができて感謝します。ありがとうございました!!【三文日記】妻と「こげよ、マイケル」の話になって、驚きました。なんでも妻は「焦げよ、マイケル」だと思い込んでいたらしいのです(笑)。マイケルは、いったいどうなってしまうと思っていたのでしょう?●今日の天気くもり時々雨。●今日の運動ジョギング30分。
2010/07/11
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シルバーシートに座っていた高校生に傘を突きつけ、ケガをさせたお婆さんの話を聞きました。一方は空いているんだから座ってもいいじゃないかと言うかも知れないし、もう一方は体力の有り余っている若者が、そんなところに座るもんじゃないと言いたいのかも知れない。どちらを責めればいいのか、それともどっちもどっちなのか、人によって感じ方は様々でしょう。その話を聞いて思い出したのが、ある知人が述懐していた電車での出来事でした。なんでも混雑している電車の中で彼女が吊り革に捕まって立っていると、ある駅で一人の女性が乗り込んできたのだそうです。その女性は彼女を強引に押しのけてシルバーシートの前に歩み寄ると、座っている人に向かって言いました。「私、妊娠しているので席を譲ってください」彼女の見たところ、その女性は強気な人相をしていて、一見して好感は持てなかったのだそう。一方、そんな言葉を投げかけられたシルバーシートの人は、それに対してキッパリと返答しました。「私は列を作って並んでここに座ったので、席を譲ることはできません」いやはや、にっちもさっちもいかない様子・・・。第三者として客観的にこの話を聞いたとき、率直な印象として「どちらも美しくないな」と感じたのでした。たしかにどちらにもそれなりの言い分はあって、本人たちも「自分にはそう言うだけの権利はある」という確信があるのでしょう。よく電車内には「お年寄りやお身体の不自由な方には、席をお譲りください」なんてアナウンスが流れますし、もしもわたしがシルバーシートに座っている側だったら、たとえ相手に好印象を抱かなかったとしてもすごすごと席を立ってしまうかも知れません。妊婦さんに席を譲らなかったその人の傲岸さ、なんかスゴイです(笑)。一方の妊婦さんも、自ら妊娠していることを明言して、言い方は違いますけれど言ってみれば「そこ、よけて」と主張したわけですから、呆気にとられるほどの押しの強さ。一応わたしも目と耳が悪いので、「身体が不自由だから、席を譲って」と言う権利があるのでしょうけれど、決して言えません。昨今、自分の権利だけを主張することが当然のこととして受け容れられているのかも知れませんが、わたしは個人的に「ちょっと違うんじゃないの?」と眉をひそめたくなります。たとえそうする権利があったとしても、他の誰かに不利益が生じるのなら遠慮することも必要だし、「譲る」という行為の尊さを知るべきなんじゃないかなぁと感じます。不利益どころか、冒頭のお婆さんなんか暴力を振るって相手を傷つけたというのですから、ひどい話です(たとえ自分より腕力のある相手だったとしても)。これは想像ですが、上の話に登場する妊婦さんはやがてお子さんを産むでしょうけれど、そのお子さんもきっとお母さんと同じような種類の人間に成長するのではないでしょうか?そうしたら、何十年後かにわたしたちは、また同じような出来事に遭遇することになるのかも知れません。この美徳が欠落した醜い連鎖を、断ち切ることができるのでしょうか?個人的に、明日の参院選と同じくらい、あるいはそれ以上に気にかかるところです。少なくともわたしが関わることのできる子どもたちには、「譲る」という行為の素晴らしさについて、伝えていきたいと思う今日この頃です。大切なことをあらためて教えてくれた出来事に感謝します。ありがとうございました!!【三文日記】タイ屋台料理ティーヌンでランチを食べました。独特の風味がなんとも言えないパッタイのほか、ビュッフェスタイルでカレーライスやピリ辛の春雨サラダなど好きな惣菜を選べるのが嬉しくて、とても気に入っています。食べ過ぎたおかげで、夕食を食べることができませんでした(笑)。●今日の天気晴れ。夏日。●今日の運動お休み。
2010/07/10
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わたしは人の話を聴くのが好きです。生来の気質なのか、自分が言葉を発するよりも、まず相手の言葉を待とうとするキライがあります。そしてたとえ相手が口を開いてくれなかったとしても、わたしから発せられるのはたいてい質問です。その人がどんな経験をしてきて、どんな考え方をし、今どんなことに興味を抱いているのかなどなど、とにかく相手のことを知りたいと願うのです。こちらとしては詮索するつもりはまったくなくて、単純に人間というものに好意的な関心を寄せているだけなのです。複数人の仲間が集まってお酒を飲んだときなどは、じつに楽なんです。わたしから何かを言わなくたって誰かが誰かに話しかけ、そのやりとりを聴いているだけで十分に楽しむことができるのですから。もちろん実際には頑なに黙り込んでいるわけじゃないけれど、もしも貝殻のように口を閉じていなさいと命じられたなら、それはそれでストレスを感じることなく楽しいひとときを過ごすことができるでしょう。そんな傾聴好きの人間にとって、耳が聴こえにくくなったことは大きな打撃だったと思います。周囲を壁に囲われたそれほど広くはない個室のなかに寄り添いあって、二~三人の話を聴くことならなんとかできます。しかし、幾人もの人々が集い、居酒屋のように始終ざわめきが轟いているような場所では、他者の声を聴き取ることができません。手の届かない場所にいる人の声は、よほど大きなボリュームでない限りわたしの耳には届いてきません。また、人間の聴覚には本来カクテルパーティー効果というものがあって、パーティー会場のようにさまざまな音声が入り乱れた場所にいても、その中から自らが必要とする音声だけをすくい取る能力が具わっています。どうやらわたしは聴こえが悪くなるに従ってその力を喪失しつつあるようで、求めている声を雑音のなかから取り出すことが苦手なのです。好きだったことができなくなるということは、とても辛いことです。そして、好きなことというのは、たいていが特技につながっているものです。人の話に耳を傾け、その人のことを深く理解することができるはずだったのに、いつしかそれが難しくなっていました。残念だけど、たくさんの仲間と集い、お酒を飲みながら語り合うという楽しみは、もうあきらめなければなりません。そう言って嘆いていても仕方がないので、わたしなりのやり方を考えたいと思いました。みんなの話を存分に聴くという欲張りはしないで、その代わりに一人ずつ、すぐ傍らに近寄って会話する場を作るのです。それはわたしの一存でできることではないけれど、できる限りわたしからそう働きかけて、一人ずつでいいからしっかりと話を聴きたいと思います。人の声が聴こえるということは、とても幸せなこと。その喜びを味わうために、これからもチャレンジを続けていきます。今日も健やかに過ごすことができて感謝します。ありがとうございました!!【三文日記】人の出入りが少ない我が家の洋室。その部屋に置いていたカバンなどに、カビが繁殖していることが明らかとなりました。機を逸してしまっているような気はしますが、除湿機を導入します。●今日の天気くもりのち雨。●今日の運動お休み。
2010/07/09
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目を開けていられないほどの鮮烈な陽光が、こちらに向かって一直線に射し込んできます。まるでわたしに狙いを定めているかのように、熱を帯びたその光線は確実に標的を捉え、肌を焦がします。こんな完璧な夕陽を浴するのは、いったいいつ以来のことでしょう?にわかには思い出せないほど、くぐもった空ばかり眺めて暮らしていたような気がします。空の一部はうっすらと蒸気が煙っているものの、その向こう側には淡い水色が透けていて、それ以外の大部分は現実味を欠いた青色が広がっています。空の青さも久しぶりで、眼がうまくその色を受け容れるまでに少し時間が必要でした。眼が、その色を忘れていたのでしょうか?ふと周りを見回すと、忘れてしまっていたのは、空の青だけじゃなかったことに気づきます。決して一様ではない、個性ある雑草の緑色のことも、地面にありありと浮かび上がった影のことも、熱を奪い取ってどこかへ往ってしまう夕風の心地よさのことも、しばらくの間わたしの意識から忽然と忘れ去られていたのでした。もしも曇天の日がいつまでも続いたなら、きっと太陽が輝いていた時のことなんて、すっかり忘れてしまうのかも知れません・・・。悲しいかな、人間というものは目先の物事に取り込まれてしまうと、そこで体験することに飲み込まれてしまって、いつしかそれ以外のことに思いが及ばなくなってしまいます。自分で思っているより、この世界はもっとずっと遠大で多彩なのに、目に映っているものしか意識に上らないのです・・・。好いことも、嫌なことも、わたしたちは日々色んなことを経験して、かけがえのない一日一日を紡いでいきます。もちろんその場その場で遭遇することをしっかりと受け止めて生きていくことは大切なことだけれど、それだけではやっぱり寂しいのではないでしょうか?もしも毎日が吐いて捨てたいだけの無意味な時間にしか感じられないのなら、それはきっと人生の一つの側面にしか目を留めていないということでしょう。本当に眼を開くことができれば、そこには知覚するだけではない、もっと深みのある世界も感じ取れるのだということに気づくはずです。そう、わたしたちは目の前の物事を目に映しているけれど、たいていは目に映しているだけなのです。人間には、見ているものの奥にみずみずしい世界を想像する力が具わっているのに、それを用いることは少ないものなのです。「このままじゃ、いけないよな・・・」梅雨の晴れ間の夕暮れに、自らを省みて思いました。日々出会う物事の中に、何を感じ取ることができるでしょう?通いなれた通勤路に、見上げた空に、手に取った本の活字の中に、家族や職場の同僚とのふれあいのなかに・・・。漫然と眺めているだけでは見過ごしてしまう大切なものに、思い及ばすことのできる人になりたい。そんなことを願いながら、河原の遊歩道を駆けていきました。今日も健やかに過ごすことができて感謝します。ありがとうございました!!【三文日記】ベッドのヘッドボードの裏に、白い粉が付着したようにカビが生えていることに気づきました!妻が慌てて拭き取っていましたが、もしかしたら底板のほうもやられているのかも知れません・・・。夜中に妻がゲホゲホ咳き込んでいたのは、そのせいだったのでしょうか?●今日の天気晴れ。●今日の運動ジョギング30分。
2010/07/08
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「11時間もの空の旅、何を友に連れていこう?」ヨーロッパへの旅行が近づいてきて具体的に思案することが山積みなのですが、その中の一つとして上のようなことを思い巡らせています。長時間の飛行機での移動で想定される一連の流れは、無事な離陸を喜び、運ばれてくる食事とお酒に大はしゃぎして、後は暇になって眠るか本を読むかの繰り返し・・・。さすがにずっと寝て過ごすわけにもいかないので、普段はなかなか時間を取ることのできない読書を、この機会に大いに楽しみたいと思うのでした。それでは、どんな本を携えて行こうかと考えてみると、コレと言って決め手がありませんでした。いや、決め手がなかったというより、ごく個人的な条件に合致する本を見つけかねていたと言ったほうが正確かも知れません。その条件というのは、わたし自身が興味を覚える作家の作品であり、さらに旅情をそそる内容であるということです。現地が輩出した作家の作品でもいいし、あるいはそこを訪れた日本人の紀行モノでもいいかも知れません。さぁ、それにふさわしい作品はなんだろう?そう思って頭のなかを一生懸命に走査してみたものの、ピンと来るものがありませんでした。そんな時、一つの朗報が飛び込んできたのです。旅行会社から詳しい日程表が送られてきて、どこかで乗り換えになるだろうと言われていた往きの飛行機が、直行便になったというのです。ということは、最初の訪問地であるフランクフルトに夕刻までには到着できるので、同地を散策する余裕が生まれました。さっそく図書館からフランクフルトの観光ガイドブックを取り寄せて調べたところ、そこは偉大な作家が生まれ育った土地だということを知りました。ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテです。小説「若きウェルテルの悩み」や詩劇「ファウスト」など、いつか一度は読んでみたいと願っていた作品の著者を生んだ街を、この足で踏みしめることができる。そう思うだけで、心がスゥ~と夢想のなかへ溶け込んでしまうのでした。「ようし、週末に本屋へ行って、ゲーテの作品を仕入れてこよう」そう重い定めてからは、もう楽しみで仕方ありません。人によっては、あの窮屈な空間のなかに何時間も押し込められることが耐えられない・・・とおっしゃるかも知れませんけれど、幸いなことにわたしは大丈夫。面白い書物さえあれば、いつまでもそこにジッとしながら活字を追っていられる、あまり褒められたものではない特技を持っています(笑)。空の上で過ごす時間を有意義にし、その後に続いていく旅の味わいをより深いものにするため、しっかりと準備をして臨みたいと思います。今日も健やかに過ごすことができて感謝します。ありがとうございました!!【三文日記】妻が、古本屋さんに本の回収を頼んだそうです。30冊以上の古本を出すことで集荷が無料になるのですが、なんとまだ10冊近く足りないのだそう・・・。ということで、これから無理やり蔵書から不要(じゃないけど・・・)な本を選び出します。●今日の天気くもり時々小雨。●今日の運動ジョギング30分。
2010/07/07
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「巡査部長が、恐喝未遂容疑で逮捕・・・」そんなニュース記事を一日に一件は見かけます。「正義の味方」のはずの警察による事件とあって、インパクトがあることから記事になりやすいのでしょう。こういう情報に接すると、「警察官って、ひどい人種だよね」なんて一括りにしてしまいがちなのが人間というもの。誠実に職務を遂行するたくさんの警察官が陰日向にわたしたちを支えてくれているだろうに、ほんの一部の例外的な人間の不祥事によって「警察」そのものがおぞましい印象を伴うことになるのです。そして、それは警察官に限らず、企業や学校、あるいは政治の世界でも同じこと。ただ報道されないだけで、わたしたちの周りには小さなものから大きなものまで、悪事が渦巻いているのです。人間が群れを成すとき、全員が善意だけを携えているなんてことは現実的にあり得ません。生来の気質や不遇な生い立ち、あるいは職場・家庭での人間関係の不和や不満などなど色々ないきさつはあるにせよ、悲しいかな人間というものには他者が嫌がることをついついしたくなる性向が具わっているようです。だから、どれだけ口酸っぱく注視して不祥事を起こさないように指導しても、撲滅できるものではないんじゃないかなぁという気がします。逆にもしも悪事の皆無な人間社会があるのだとしたら、それはむしろ健全ではないとさえ思えてしまいます。人間が集まって何かしら事を成そうとすれば、善意と同じくらい、あるいはそれ以上の悪意が存在していて当然なように感じるのです。冷蔵庫が冷気を作り出すためには熱風を吐き出さなければならないように、物事を前に進めるためには善き力が働くその陰で、悪しき力も放出されなければならないと思うのです。だから、大切なのはその悪しき力を封じ込めることではなく、その吐き出し方を工夫してできるだけ穏当に済ませることなのではないでしょうか?管理者がストレスを溜めた部下を飲みにでも誘って少々乱れたっていいから思いのたけを聴いてあげたり、職場内でスポーツ大会でも催して、ちょっとくらい荒れてもいいから仲間同士で悪いエネルギーをぶつけ合わせたり、悪いものが出るにしてもその出方をうまく処理することが肝要ではないでしょうか。そして、もっと大事なことは、悪事を働いてしまうごく限られた人ではない、多くの人々がささやかな善を持ち寄ること。たとえ世間が眉をひそめるような事を仲間がしでかしてしまったとしても、日ごろからみんなが小さな善を積み重ねていれば、その集団全体が「悪」と見なされることは避けられると信じています。逆に、もしも一人ひとりがささやかな悪を持ち寄ることが日常となってしまっている集団なのだとしたら、人目を引く大悪事が起こってしまっても、それは必然と言わなければならないでしょう。要するに、人間集団の善し悪しは、ほんのひと握りのスーパースターや大悪人で決まるのではなくて、もっと総体的なもの、あるいはむしろ人目に触れることのない多くの「ごく普通の」人々の小さな積み重ねによって決まるのだと思います。ということで、大悪人になることはないであろうわたしたち一人ひとりが、小さな善を心がけましょう。道端にゴミが落ちていたら拾って廃棄したり、狭い道で人とすれ違うときには立ち止まって譲ってあげたり、本当にささやかでいいから善きものをこの世界に持ち寄りましょう。わたしは、そんなふうに思います。今日も健やかに過ごすことができて感謝します。ありがとうございました!!【三文日記】テレビで野球中継を観ていたら、なんとなく見覚えのある映像が・・・よくよく思い返してみると、その球場は子どもの頃に野球部の練習で訪れたことがあったのでした。画面のなかで投手が立っているマウンドに自分も登ったのだと思うと、嬉しいような信じられないような不思議な気分になりました。●今日の天気雨のち晴れ。●今日の運動ジョギング30分。
2010/07/06
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夕刻のにわか雨が街の人々を屋根の下に閉じ込めてしまったようで、河原に人影はありませんでした。雨はほとんど止んで、西のほうはほんのりと夕陽の前触れが漏れ出しています。遊歩道はところどころに大きな水たまりを浮かべ、精彩を欠いた真っ白な空を鏡のように映しています。雨水を吸い込んだ土は踏みおろす足裏を寛容に受け止めるとともに、次の一歩を優しく誘ってくれます。いつもなら数え切れないほどの犬とその飼い主たちが散歩してにぎわっているのに、まるで時間が止まってしまったみたいに静まり返っていました。羽を畳んで気ままな足取りで目の前を横切っていくムクドリだけが、かろうじて世界がどこにも留まってはいないことを教えてくれます。辺りには湿り気をたっぷりと含んだ熱い空気が横たわり、いくら空気を吸い込んでも息苦しく感じられます。今年の梅雨は気温が高く、熱帯雨林のなかにいるような日々が続いています。そこにはトロピカルフルーツの芳しい香りの替わりに、もっと個性に富んだ匂いが充満しています。刈り取られた芝草が宙に放った青っぽい匂い、甘辛醤油でことこと煮込んだ美味そうな匂い、排水溝から湧き上がってくる鼻が折れてしまいそうな匂い、どこかの浴室から漏れ出した清潔なしゃぼんの匂い・・・。河原で、あるいは付近の住宅街の路地で、薄闇に溶け込んだそれらの匂いが意識を捉えてハッとさせられます。いつもと同じ道なのに、今日は格別に嗅覚が刺激されるようです。湿った空気が匂いを運んでくれるのか、それともわたし自身に変化があるのか・・・。そんなことを考えながらも決して足取りを緩めることはなく、汗なのか水蒸気なのか分からない雫を肌に湛えて走りつづけます。一日デスクワークをして滞った血液が全身を駆け巡ることを想像しながら腹から大きく息を吐き出し、そしてまた吸い込みます。たしかに清々しいとは言えない気候だけれど、そんな中でもわたしの心身はそこにあるべき循環を取り戻し、言葉にならない快感を覚えています。それは、今日どこかで抱え込んできてしまった歓迎しかねる邪なものを払い清めるための、お払いのような儀式に近いような気がします。すっかりとなじんでしまった走るという行為を喜び、心から感謝したい気持ちになりました。ありがとうございました!!【三文日記】旅行会社から、ヨーロッパ旅行の日程表が送られてきました。幸運にも往きはフランクフルトへの直行便で、到着してから同地を散策する時間が十分に取れそうです。早朝に成田空港へ移動するための手段など、かなり具体的に予定が決まりそうです。●今日の天気くもり時々雨。●今日の運動ジョギング30分。
2010/07/05
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「なんでドイツはこんなに強いんだろう・・・」日曜日の昼下がり、ワインをすすってほろ酔い気分に浸りながら、テレビの前に座り込んでいました。サッカーワールドカップ南アフリカ大会準々決勝、ドイツ VS アルゼンチンの試合が再放送されていたのでした。実を言うと、個人的にはアルゼンチンが今大会を制するのではないかと考えていたので、意外な結果でした。なんといってもアルゼンチンには今をときめくメッシがいるし、その他にもロングヘアにカチューシャがシンボルマークのテベスや得点王争いに名を連ねるイグアインらタレントが豊富です。実際にこの試合でも高度な技術をいかんなく発揮して幾度も好機を作りましたが、終わってみれば4対0でドイツが完勝。華麗な個人技で見る者を魅了する絶対的なスタープレイヤーがいるわけではないドイツですが、その強さはどこから来ているのでしょう?なんでもドイツは3大会連続の準決勝進出とのこと・・・すごい安定感です。近いうちにドイツを観光する予定もあり、サッカーに限らずドイツという国と、その国民性に興味を覚えます。アルゼンチンとの試合を観ていて感じたのは、一人ひとりの選手がまるで一つの意思のもとに動いているように見えるということ。たとえアルゼンチンの攻撃陣が攻め込もうとトライしても、そこに寄せていく選手はもちろんのこと、背後で身構える選手たちのポジショニングも巧みにシュートコースを消していて、そこに居合わせた数人で失点の可能性を著しく低くしているようなのです。刻々と変わる状況のなかで、一人ひとりが自分のいるべき場所をしっかりと押さえ、それを90分間継続できる。大会ごとに出場する選手の顔ぶれが違っていても、ドイツチームには上のような姿勢が貫かれているように見えます。それは、ドイツ選手の思慮深さと我慢強さの象徴であり、敷衍すればドイツの国民性を反映しているようでもあります。個人のずば抜けた才能に根ざした強い相手に勝つための戦い方。それは、何かしら弱みを抱えながら生きていかなければならない者に、せちがらい世の中に処していくためのヒントを示唆しているようでもあります。思慮深さ・・・対峙する出来事に対して、自分の頭で考えて対応していく力を養うこと。我慢強さ・・・たとえ劣勢にあっても、最後まで希望を持ち続けて前向きに耐え忍ぶこと。わたしにとって、ドイツ選手の戦いぶりは、生きていくためのお手本を示してくれているようでした。そんな尊敬すべき人々のことを思いながら、彼らの祖国を旅することにいっそう期待が高まっていくのでした。今日も健やかに過ごすことができて感謝します。ありがとうございました!!【三文日記】夜、少々季節はずれですが、金沢名物・とり野菜味噌鍋を食べました。最後にラーメンを煮立ててさぁ食べようとしたとき、「そのインスタントラーメン、賞味期限が一ヶ月近く切れてるよ・・・」と妻が気づいて言いました。そう言われてみるとたしかに味がいつもと少し違うような気がしましたが、今のところお腹は大丈夫です(笑)。●今日の天気晴れ時々くもり。●今日の運動お休み。
2010/07/04
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デスクの上に積み上げられた観光ガイドブックの山。それに手を伸ばして片っ端からページをめくり、そこに詰め込まれた情報の量と質を吟味していきます。南ドイツ、スイス、そしてパリ・・・。この一ヶ月のあいだに、いったいどれだけたくさんの観光ガイドブックを図書館から取り寄せたでしょう?とても数え切れません。ヨーロッパへの旅行が近づいてきて、予習にも熱が入り始めました。現地で色々な説明をしてくれるであろうガイドさんの声をうまく聞き取れないかも知れないわたしにとって、事前にどれだけ知識を仕入れておけるかが旅の味わいの深みを左右することになります。「きっとこのスポットではこういう話をしてくれるだろう」と憶測ができるだけでも、聞き取れる分量はだいぶ違ってくるものです。と言っても旅先のことを調べておくことは義務的なものではなくて、むしろ感動の予兆みたいなものを味わうことができる楽しい作業です。訪れることになる街にはどんな物語が潜んでいるのだろう? その街からどんな人物が輩出されたのだろう? ドイツのビールにはどんな銘柄があるのだろう? ・・・まだ見ぬ土地への興味は尽きることなく、調べても調べても知りたいことがありすぎて身もだえしてしまいます。これくらい熱意を持って学生時代に勉強していたら、もう少しマシな人間になれたんじゃないだろうかと複雑な気持ちになります(笑)。しかしその一方で、漠然とした不安というか、緊張感みたいなものが胸の奥で疼いていることも事実です。最も気にかかることは、時差を伴う旅での体調管理のこと。朝5時過ぎに起床し、夜22時くらいにはベッドに入るという、まるで修道僧のような生活を堅持している人間にとって、7~8時間の時差がある世界は未知の領域です。早寝早起きの生活リズムは、病を抱えた体と相談するなかで自ずと身についてしまった、自分にとって最良のライフスタイルです。しかし、それが崩れるとなると、自らの身体に何が起きるのか分からなくて、なんとはなしに不安になってしまいます。最近では少なくなりましたが、ある朝とつぜん目が見えにくくなっている、あるいは耳が聞こえにくくなっているという発作的な感覚機能の喪失を経験しているので、身体機能のはかなさみたいなものを身をもって知っています。旅行中にそのような症状が現れたらどうしよう・・・。言い知れぬ不安の正体は、きっとその辺りにあるに違いありません。まぁ、一昨年初めて海外旅行(イタリア)へ出かけたときはこれと言って問題はなかったので、その実績を思うと大丈夫かなとは思うのですが・・・。日常では味わえない体験が約束されている貴重な旅行を、大過なくやり遂げたい。そのためには、どんな気持ちで臨めばいいんだろう?そう考えてみたときに、自らが返した答えは「楽しむことに熱中せよ」という心構えでした。「日本時間ではもう真夜中だから・・・」とか、「こんなに不摂生なことをしていたら、きっと体に堪えるだろう・・・」とか勝手に思い込んでしまうことなく、興味があることなら熱中してそのひとときを大いに楽しめばいいし、また体が眠りを欲していると感じたら無理せずに休むようにすればいいのです。「心頭滅却すれば火も亦た涼し」で、楽しむことに没入していれば、体も自ずと喜ぶでしょう。逆に不安にばかりかられていたら、体も自ずと悪いほうに悪いほうにと引きずられてしまうでしょう。そう、不安になるために旅へ出るわけじゃなくて、死ぬまで忘れがたい楽しい体験を求めて往くのです。観光ガイドブックの紙面に綴られた文章に心躍らせながら、あらためて自分にとっての旅について考えてみました。どうかこの旅がわたしたちにとって意義深いものになりますようにと祈りながら、雨雲の垂れ込めた空を見上げました。今日も健やかに過ごすことができて感謝します。ありがとうございました!!【三文日記】春先に葉っぱを黄色くして、みるみるうちに枯れていった我が家のハイビスカス。気温の上昇とともに少しずつ緑の葉を増やし、蕾が現れるまでに回復してきました。そして今日、今シーズン初めてハワイアンイエローの美しい花を咲かせてくれました。●今日の天気くもり時々雨。●今日の運動ジョギング35分。
2010/07/03
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「これからオレは、どうすればいいんだろう?」仕事のことや個人的な生き方などについて、漠然と不安にかられることがあります。このまま手をこまねいていては好ましくない結果が訪れるような予感がするのです。とにかく何かしら手をつけなければと思って、参考になりそうな本を開いてみたり、今できることに着手してみたりと動き出します。そうしてしばらくして我に返ってみると、その掴みどころのない不安は少しも解消されることはなく、むしろ時間だけが流れすぎていよいよ焦燥感が迫ってくるのです。もっとずっと後になってから振り返ると、そういう迷路のなかを彷徨っていた時間というのは決してムダではなくて、必要なプロセスだったのだと思えるものです。しかし、やはり先の見えないまま不安を抱えて過ごす時間というのは、できることなら早く解消してしまいたいもの。「モヤモヤ」した暗闇のなかにあるとき、わたしたちはどうすればいいのでしょう?そう自分自身に問いかけて返ってきた答えは、そもそも「モヤモヤ」は幻覚であるということを自覚しなさい、ということでした。「モヤモヤ」というのは、けっきょくのところ自分が作り出した状態であって、その背後には冷静さの欠如だったり、情報の過多・欠落だったり、あるいはただの身体的な疲労などなんらかの要因が必ず潜んでいるものです。頭を冷やして現実をきちんと見つめれば、「モヤモヤ」のなかに解決すべき課題が隠れていることを認識することができます。もしも課題を見出し、うまく解決する方策を練って実践することができれば、多くの「モヤモヤ」は解消できるはずだと信じています。そこで大切なポイントは、やはり「自覚」ではないでしょうか?人間というものは、自分にとって都合のいい現実のみを受け容れたがるキライがあり、とくにわたしはそういう傾向が強いと感じます。例えば、仕事において「なんとかなるさ」とノーテンキに構えて目標を高く設定し過ぎたばっかりに、それを現実的に解決する方法が見つけられなくて「モヤモヤ」のなかに閉じ込められることがあります。もしも自分の性向に「自覚」的だったなら、うっかり現実離れした目標を立てる前に「いやいや、そう楽観的に見積もることは危ういぞ」と再考を促すことができるはずです。また、ある時には自分が「モヤモヤ」の中にいるという事実にすら気づいていないことがあります。こうなると事態は深刻で、取り組むべき課題は何で、それを解決する術は・・・という踏むべきプロセスのスタート地点に立つことさえ、できていないということになります。いま自分は「モヤモヤ」の中にいるんだ、という自覚を持つことが、何よりも先決なのだと思います。 子曰く 吾れ十有五にして学に志す 三十にして立つ 四十にして惑わず 五十にして天命を知る・・・これは『論語』のなかの一節ですが、孔子の言葉を信ずるならば、人生で遭遇する問題に対して戸惑わずに対処できるのは、四十歳からということになるのでしょうか・・・。もちろん、それまでの積み重ねがあれば、ということでしょうけれども。三十代前半では、まだまだ「モヤモヤ」の霧は晴れないと覚悟したほうがいいのかも知れませんね。自覚的な生き方で、迷いながらも少しずつ前に進んでいけたらと願う今日この頃です。今日も健やかに過ごすことができて感謝します。ありがとうございました!!【三文日記】父が山形産のさくらんぼを送ってくれました。知り合いの農家の方から買っているそうで、この時期になると恒例のようにさくらんぼが届きます。ということで、しばらくはさくらんぼ漬けの日々が始まります(笑)。●今日の天気くもり。●今日の運動お休み。
2010/07/02
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早いもので、2010年も上半期が過ぎ去ってしまいました。個人的には、決して頑張り過ぎることはありませんでしたけれど、日々目の前のことに夢中で、あっという間にここまで来てしまったという感じがします。三十路も越えれば、職場ではそれなりに求められるものが高度になってくるし、プライベートもなんやかんやと次々に予定が入ってしまうので、自分のことばかり考えているわけにもいきません。それだからなのでしょうか、こうして節目節目にふと立ち止まって自分自身の姿をちょっと離れたところからあらためて眺めてみると、妙に虚ろな気分に陥ります。「オレがいるべき場所は、本当にココなんだろうか?」それは、もちろんいま従事している仕事のことであり、またそれだけではなく、根を下ろしている実世界の居場所のことであり、広く言えば自分自身の在り方みたいなものでもあります。いま取り組んでいる仕事が果たして本当に自分に適しているのだろうか? あるいはいま勤めている会社が自分自身に合っているんだろうか? 社会人になって10年近くが経ち、会社員というものの実相がある程度見えてきたところで、自分の立ち位置を確認すると考え込んでしまいます。きっとどこの会社でも同じことだと思いますが、昨今は社員同士が競争することを求められ、その成果に応じて報酬が分配される仕組みが浸透しつつあります。たしかに公正な競争は成長を後押しするし、それによって企業自体も発展する力を得ることができるというのはよく理解できます。しかし、生来の気質なのでしょう、わたし自身は他者と競うことが心底嫌いで、あまり奮い立つことができません。誰を蹴落とすことなく、誰に蹴落とされることもなく、お互いのことを尊敬し合いながら仲良く付き合っていきたい。本心では、そう願っています。「そんなことを言っていたら、世の中渡り歩いていけないよ。時には汚いこともできなくちゃ、いい仕事なんてできるはずないよ」「できる人」は、そうおっしゃるかも知れません。実際それは真実だと思うし、わたしのような人間はうだつの上がらないまま無為に一生を送ることになるのでしょう。でも、今さら「自分」を辞めるわけにもいかないから、それは仕方のないことなのだと思います。もしも誰とも競い合わずに生きていきたいのなら、みんなと同じことをするのではなく、わたしにしか提供することのできない価値を生み出す術を身につけなければならないのでしょう。それはとても難易度の高い生き方であり、相応の努力が必要になります。あるいは、ビジネスマンという立場を退いて、もっとべつの道を探すほうがいいのかも知れません。僧侶になって、みんなが幸せに仲睦まじく生きていけることを祈りながら生きていくとか・・・。まぁ、それはそれでまた新たな戦いが生じてくるのでしょうけれど。そんなことをいつまでも言っていたら漂流してどこへもたどり着けなくなってしまうので、とにかくいま与えられている場所でベストを尽くすわけですが、「自分のいるべき場所」の実感を得るにはまだまだ時間がかかりそうです。何はともあれ、今日も健やかに過ごすことができて感謝します。ありがとうございました!!【三文日記】ナスの味噌炒めにナスの入ったカレーライス。このところ、ナスを使った料理を好んでよく食べます。昔はナスが好きではなかったのですが、いったいいつから好きになったんだろう?●今日の天気くもり時々晴れ。●今日の運動ジョギング30分。
2010/07/01
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夕風が心地よく感じられたのは、いったいいつ以来のことでしょう?このところ、ジッとしているだけで息苦しくなるような日々が続いていましたから。頭上には相変わらず雲がどんよりと構えているのですが、ところどころに淡い色合いの青が顔を出し、それを目に映しているだけで気だるさが癒えていくようでした。ハムスターが回し車をカラカラと回しているように、今日は朝から思考が空回りをして、一歩一歩の足取りは透明な鉛を引きずっているみたいに重々しく感じられました。これは、紛れもない寝不足です。昨夜(というより今日未明)はサッカーワールドカップのテレビ中継を観てからベッドに入ったのですけれど、なかなk寝付けませんでした。一つには、音を立てて降りしきる雨が蒸されて寝室に忍び入り、横たわっているだけで汗ばんでしまうような不快さを伝えるせいでしょう。お腹だけ冷やさないようにタオルケットを掛け、できるだけ手足同士を密着させないように体勢を変えながら、意識を手放そうと試みるのでした。そしてもう一つは、さっきまで観ていたサッカー日本代表のことがしきりに思い出されて、目がさえてしまうせいでした。寝よう、寝ようと念じれば念じるほど眠りは遠ざかり、真夜中のベッドの上で独りもがいていたのでした。そんなわけで、目覚まし時計が鳴ったときには体がまだ眠っていたいと言っていて、無理やり起き上がってからは意識の焦点がぼやけてなかなか一つに定まりませんでした。不思議なもので、寝不足だったり、肉体的に疲れすぎていたりすると、心も萎えてしまいます。肉体と精神。それらはまるで相対立する別個の存在のように見なされることがありますけれど、決してそんなことはありません。それどころか、肉体が疲労していれば精神が傷むし、精神が病んでいれば肉体も朽ちてくるものです。毎日心身が快調ならいいのですけれど、人間というものはなかなかそううまくは生きていられません。今日のように肉体が著しく疲弊している日もあれば、一方で精神の平衡を崩してしまう日だってあります。むしろ心身快調でない日のほうが平常の状態と言ってもいいのかも知れません。肉体的に辛い日は、精神的にジメジメとして他者に当たってしまったり、自らを卑下してしまいがちです。本当の自分はもっと明るく前向きで優しいはずなのに、身体が疲れているとうまく本来の自分を出すことができない・・・。そういうことって、珍しくありません。だから、肉体と精神が表裏一体で、どちらかのバランスを欠いてしまえばもう一方も必然的に好ましくない影響を受けるのだということを、自覚しておくことが大切なんじゃないかなと思います。そうすれば、肉体が不調のときには「精神的にも影響が出やすいから、気をつけなくちゃ」と自分自身をコントロールしやすくなるし、一方精神が不調のときには「早く休んで体力を回復しよう」と肉体を労わる意識が強くなりますから。体と心は一つのもの。心に留めて生きていきたいものですね。ありがとうございました!!【三文日記】amazon.comでデジカメを買いました。野球観戦や海外旅行で役立ちそうな、高倍率ズームのPowerShot SX210 IS(ブラック)です。しかし、配送先住所の入力が誤っていたようで、まだ手にすることはできていません(苦笑)。●今日の天気晴れ時々くもり。●今日の運動お休み。
2010/06/30
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「男のくせにメソメソするんじゃない!」そんな怒声とともに振り下ろされるゲンコツ・・・。悲しいやら痛いやらで、いっそう涙が溢れ出ます。わたしは幼い頃、よく父に上のようにしつけられました。生来涙もろく、ラグビーボールが顔面にぶつかったり(ラグビーをやっていたのです)、誰かに怒鳴られたりするとすぐに嗚咽をあげながら泣いたものでした。今では父のほうがよっぽど女々しい振る舞いが多くて、いつも握りこぶしをプルプルさせながら殴ってしまいたい思いを必死にこらえているのですが(笑)、腕力がかなわない時期は親の言いつけに従うしかなかったのです。それだからなのでしょうか、わたしは何かを決めつけてかかる姿勢を、心底嫌うようになりました。「男のくせに、女のくせに、年長のくせに、子どものくせに、サラリーマンのくせに・・・」そんな枕詞を冠して、物事を一面的にしか捉えずに他者に何かを押し付けるという態度が、許せないと思うのです。もちろん、人間としての普遍的な決まり琴は、何がなんでも理解させなければならないでしょう。「人を殺めてはならない」、「自らを殺めてはならない」、「他人が嫌がることをしてはならない」・・・。でも、それは何を信じる・信じないというのとは、ちょっと違うことです。「男のくせにメソメソするんじゃない」たしかにささいなことに涙していたら男なんてやってられないかも知れないけれど、男だからこそ流せる涙だってあるんじゃないか?もっともっと強くなるために流す必要のある涙だって、あるんじゃないか?そして、自分にはかなわないと分かっている子ども相手に、手をあげるなんてよっぽど男として卑怯じゃないか?父の仕打ちを思い出すと、そんな思いがこみ上げてきます。自分自身がそう信じるだけなら、いっこうに構わないと思います。「男はメソメソ泣くもんじゃない」と父が信じ、そういう姿勢を自ら貫くだけなら、むしろ立派なことだとさえ思います。しかし、そのことを暴力とともに押しつけることは、決して受け容れられるものではありません。こういうことは、親と子の間だけの問題ではないでしょう。例えば、何か特定の宗教を信仰する人が、「あなたも私たちの神様を信じなさい」と勧誘する場面を見かけたことがありますが、あれもやっぱり違うんじゃないかと感じます。自分が信じていることを、他者も同じように信じてくれると期待してはいけません。信仰というのは、十人十色の人々のなかで自分という個人がうまく生きていくために必要なもので、本来一人ひとり異なってしかるべきものだと思います。だから、「あなたも私たちの神様を信じなさい」というのではなくて、「あなたが必要としている神様が、私たちのと同じだったら嬉しいのだけど」くらいのスタンスが適切なんじゃないでしょうか?まぁ、ここでわたしが語っていることだって、ただわたしが信じているだけのことですから、誰に押し付けるつもりもないのですが、それはそれとして・・・。信念は、誰にも押し付けることなく、自分自身のなかで完結して前に進んでいきましょう。今日も健やかに過ごすことができて感謝します。ありがとうございました!!【三文日記】サッカーワールドカップ・日本 VS パラグアイ戦に備え、20時にベッドに入りました。23時きっかりに目覚ましが鳴り、テレビの前に座りました。前半を終わって0対0、後半に期待します。●今日の天気雨のちくもり。●今日の運動ジョギング30分。
2010/06/29
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外を歩いていると、まるで熱湯を湛えた浴室のなかにいるようでした。熱を帯び、もったりと湿った風が全身を取り巻いて離さず、ただそこに立っているだけで汗が噴き出してきます。夕方になると、空気を引き裂くような雷鳴が轟き、短い閃光が視界に走って目がくらみそうになりました。河原の遊歩道に人影はなく、点々と浮かぶ水たまりは雨量がそれほど多くはないことを教えてくれます。しっかりと雨が降る日には、足の踏み場がなくなるくらい、まるで池のような水たまりができるのですから。ところどころ破けた雲間からは夕陽の前触れのような金色がこぼれ出し、今にも神々しい球体が現れそうな予感がします。ほんの半月ほど前までは膝下くらいの背丈だった雑草が、いつの間にかぐんぐんと成長し、今ではわたしよりも長身のものもいることに気づきました。そうなんです。わたしたち人間は「鬱陶しいなぁ・・・」なんて溜め息まじりにしとしと雨を避けているわけですが、彼らにとっては一年のうちでもっとも実り豊かなな季節なんですね。誰に気づかれることもなくひっそりと芽を出し、雨に打たれ、雪に圧しかかられ、四方八方から吹きすさぶ風に倒され、太陽に熱せられ・・・道端に生い茂る草花たちはただただ与えられた境遇を引き受けてじっと佇んでいます。一見それは受動的な存在でしかないように感じられるのですが、今こうして雫を湛えた彼らの傍らにいると、決してそうではないという実感があります。受け身どころか、自分自身に振りかかる一切のものを積極的に受け容れて、もっともっと繁茂しようと生命の光を輝かせているように感じられるのです。このところ、我が家のささやかな庭にも個性ある形、色とりどりの緑色を呈した雑草たちが芝草の合間から顔を出しています。不揃いなそれらの草たちは除いてしまったほうがいいのかも知れないのですが、なぜかそうする気になれずにいます。それはやはり、彼らの溢れんばかりの生命力を摘み取ってしまうのが愛おしいからなのかも知れません。雑然と見えたって構わない。背丈も形も色もまちまちな雑草たちの個性を尊重して、そのままそっくり受け止めてしまえばいいじゃないか。みずみずしく、伸びやかな雑草たちを見習って、物憂い雨季を糧にしながら豊かに生きていこう。彼らを見ていると、そんな思いが湧き上がってくるのでした。今日も健やかに過ごすことができて感謝します。ありがとうございました!!【三文日記】バジルなど、食べられるものを育てるのが楽しいという妻。メロンを切りながら、「この種を庭に植えてみようかしら」と言い出しました(笑)。昔、それを実際にやってみたことがあって、たしか芽は出たような気がするのですが・・・。●今日の天気くもり時々雨。●今日の運動ジョギング30分。
2010/06/28
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ポツポツと音を立てて降り落ちてみたり、雲間から薄日がこぼれてきたり、空は片時も休むことなく移ろっていました。六月にしては気温が高く、湿り気をたっぷりと含んだ空気は息苦しく全身を包囲しています。つい先日までは降りそうで降らない鳴かず飛ばずの天候が続いていたのですが、ここに来てようやく梅雨がらしさを取り戻したようです。あちらこちらに咲き乱れるアジサイの花たちは、雫をしたたらせながら満足そうに冴えた色を放っています。そんな不快な気候のせいでしょうか、なんとなく体は重く、執拗な眠気がまとわりついて離れようとしません。きちんと睡眠を取っているはずなのに、目を閉じると額の奥に睡魔が疼いているのを感じることができます。いやいや、気候だけのせいにしてはいけませんね。夜明け前に起きてサッカーワールドカップのテレビ中継を観たり、プロ野球観戦に出かけてビールを存分に飲んだり、近頃何かと不摂生しています。もちろんやりたいことを我慢し過ぎてストレスを溜め込むのは好ましいことではないけれど、体に無理強いしてやりたいことをやり続けていたら、いつかしっぺ返しが来るものです。それは、わたしがよく知っていることなのです。ソファに横になると、ずっしりとしたオモリにひきずられるように眠りのなかへ沈んでいきました。テレビでは読売ジャイアンツと横浜ベイスターズのデーゲームが中継されていて、4点を追うジャイアンツが追撃体勢に入って歓声が聴こえてくるのですが、意識はなかなか水面下から浮き上がってこようとはしません。ずっと遠くの方で実況の声が聞こえているのですが、金縛りにあったみたいにまぶたが開くことはありませんでした。まぁ、これといってやらなければならない用事があるわけでもないし、休める時に休んでおきましょう・・・。そう考えたわけでもないのですが、しばらくの間意識を手放し、昼下がりのひとときを眠りのなかで過ごしました。ようやく意識が戻ってきた頃にはもうジャイアンツの攻撃は終わっていて、ベイスターズがクローザーを送り出して必勝体勢に入っていました。昼間にこれほどの眠気に取りつかれるのは珍しい・・・と思いつつ、半分しか開かない眼でジャイアンツの敗戦を見届けました。上半身を起こしたことで少しずつ眠気は溶けてゆき、意識が現実世界に舞い戻ってきます。「生きているということと、死んでいるということの間にどれだけの差異があるのだろう?」無意識の深い森のなかを彷徨い、そのまま息を引き取ってしまってもおかしくなかったのかも知れないと思えたのです。そもそも、なぜわたしたちは生きているのでしょう?バルコニーで控えめな陽射しを浴びているハイビスカスを見ると、何かを言いたげにしているように見えます。「そうか・・・生きているということは、花を咲かせているひとときなのかも知れないな」小さなちいさな蕾をつけて静かに佇んでいるハイビスカスは、そう教えてくれました。なぜハイビスカスは花をつけるのだろう?きっとそういう問いは、わたしたちが答えを出せるものではないのでしょう。機が熟したときに自ずと花開くように、わたしたち人間もこの世に生を受け、いつかしぼんで土に返るのです。だから、いま生きているわたしたちは、花と同じように何者かによって生命を与えられ、いつかはそれを返すことになります。そう、「生きている」というより、「生かされている」と言うべきなのです。今日一日、うすぼんやりと過ごしてしまいましたけれど、とにかくわたしは生かされている。せっかくいただいた生命ですから、大切に、感謝して、末永く味わっていきたいものですね。ありがとうございました!!【三文日記】いきつけの焼肉屋さんで、ランチを食べました。月曜日の夜もお邪魔したばかりだったので、店長さんに顔を覚えていただいたようです(笑)。安価なのに納得の量・質を提供してくれる良心的なお店なので、ますます応援していこうと思いました。●今日の天気雨時々くもり。●今日の運動ジョギング30分。
2010/06/27
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プレイボールが宣告されて30分ほどが経ち、球場内のざわめきが耳になじんできた頃、「そろそろ二杯目を・・・」と思いました。少し遅れてやって来た妻は、焼き鳥やたこ焼き、それに焼きそばやポテトチップスなどを買ってきてくれて、つまむべきものは目の前にたっぷりと用意されています。えんじ色を中心としたゴージャスな印象を与えるユニフォームを着たお姉さんが現れるのを心待ちにして、眼下のグラウンドで繰り広げられる巨人対横浜の一戦を眺めていました。場内には、銘柄ごとにユニフォームの異なる売り子さんたちがせっせと巡回してくれています。そんな中、わたしは個人的な好みでたいていサントリーのザ・プレミアム・モルツを選びます。それをひと口すすって肉厚の鳥モモをほお張れば、まるで卓越した技術を身につけた演奏者に名器を与えたような、極上のハーモニーが生まれます。ほどなく待ち焦がれたユニフォームの売り子さんが階段を駆け下りてきて、最下段に立つとくるりとこちらに向き直り、左右を見回しながら「ビールはいかが」と手を挙げました。「はい」とこちらも挙手をすると、売り子さんはすぐに気づいて歩み寄ってきてくれました。「一つください」とお願いすると、売り子さんは容器にビールを注ぎ始めました。プラスチックの容器にじわじわと黄金色が広がり・・・となるところですが、どうもそうは行かないようでした。容器の半分以上は分厚い白色の泡が覆ってしまい、売り子さんは別のカップを取り出してその泡をより分けようとします。しかし、容器を傾けると流れ落ちるのは黄金色の方で、泡は執拗に居残ってしまいます。泡を少しだけ減らした容器にもう一度ビールを注ぐのですけれど、売り子さんの願いをあざ笑うかのように忌まわしい泡がもくもくとカサを増し、しまいには零れ落ちてしまいました。わたしたちだけでなく、周囲のシートに座ったみんなの視線を浴びて、泣きたいような表情を浮かべる売り子さん。「すみません・・・私、今日が初めてで・・・」申し訳なさそうに謝る売り子さんがかわいそうになって、「そんな重い樽を背負いながら、本当にタイヘンですよね」と励ます妻。「あぁ、いいです、いいです。それでいいですよ」と言って、カップ半分ほど注がれたビールをもらおうとするわたし。そんなちょっとしたてんやわんやの末に、二杯目の生ビールを手にしたのでした・・・。以前から思ってはいましたが、野球場で飲み物を売り歩く仕事ってタイヘンですね。液体を詰め込んだ樽に容器、そしてつり銭を携えて急峻な階段を上り下りするのですから。もしかしたら昨日出会った売り子さんは、ビールなんか飲んだことはないのかも知れません。日ごろビールを飲んでいる人なら、はじめは容器を寝かせながら注いでゆき、カサが増えるに従って徐々に立てていけば泡立ちを抑えることができるというコツみたいなものを心得ているでしょうから。売り子さんにとって、その日に味わったであろう数々の失敗は、きっと忘れがたいものになったのではないでしょうか?でも、初めて経験することはたいていうまくいかないものですし、うまくやろうと頑張っていればそのうち必ずなんとかなっていくものです。だから、いつか再び球場で出会うことがあったら、もう一度あの売り子さんに手を挙げてビールを買い求めたいと思います。そして、うまく注いでもらえたら、「あぁ、あの時もらえなかったあと半分のビールは、彼女の成長に投資したんだ」と喜びたいものです(笑)。初めての経験にチャレンジする心奮える気持ちを、思い出させてもらった夜でした。ありがとうございました!!【三文日記】昨夜、東京ドームで野球観戦した際、「小笠原道大デー」にちなんで小笠原選手の特製ポッキーをもらいました。そして今日、眼科の定期検診を受けたときに、熱狂的阪神ファンの主治医にプレゼントしました(笑)。苦笑しながらも、いちおう受け取ってくださいました。●今日の天気くもり時々雨。●今日の運動お休み。
2010/06/26
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JR御茶ノ水駅前から、聖橋に向かって歩きはじめました。空は薄雲が張り出してぼんやりと霞み、昼下がりの太陽がその向こうから控えめな陽射しを投げかけています。これと言って急ぐ用事があるわけでもないので、橋の上から中央線と丸の内線の列車を見送ったり、湯島聖堂に立ち寄ったりしながら気ままに歩を運びました。聖橋にて湯島聖堂にて湯島聖堂を後にして、対岸の東京医科歯科大学や順天堂大学などが建ち並ぶ側へと渡り、そのまま本郷通りに沿って進んでいきます。緑の乏しい無機質な道をまっすぐに歩いていくと幾つか道標が並んでいる交差点にさしかかり、近寄って確かめました。その中の一つがちょっと気になったので、それが指し示す方へと進んでみることにしました。ほどなく道端に立つ鉄柱に記された文字が目に飛び込んできて、ニヤリと笑ってしまいました。「サッカー通り?」サッカー通りにて辺りを見回してみると、たしかに左手の湯島幼稚園の側壁にはサッカーをする人のイラストが描かれていて、前方にはサムライブルーのノボリも風にはためいています。そのまま直進すると「日本サッカーミュージアム」なるビルディングが現れて、思わずデジタルカメラを構えました。日本サッカーミュージアム前にて普段なら決して被写体に選ぶような建物でもないのですけれど、奇遇なことに今日は日本サッカーにとって記念すべき日ということで、そうせずにはいられなかったのです。それほど広くはない道沿いに所狭しとひしめくビルディングに息苦しさを覚えながら歩いてゆくと、車の往来の盛んな春日通りに出ました。本郷三丁目のほうに進路をとり、対岸に東京大学のキャンパスを眺めながらその道をひたすらまっすぐに歩くこと10分ほど。春日町の交差点に突き当たり、ふと左手に目をやると、西日を受けてシルエットになっうた観覧車が見えました。その向こうには、天に向かってそそり立つホテルらしき高層ビルディングが、周囲の建物を押しのけてひときわ雄大に身構えています。「あぁ、もうすぐだ」それらの目を引く人工物を目指して歩いていくと、壱岐坂下交差点越しに見慣れた形の屋根が見えました。時刻は16時30分、今夜巨人 VS 横浜戦が行われる東京ドームにたどり着きました。ひとり41番ゲートに進んで手荷物検査とチケット確認を済ませ、回転扉をくぐって三塁側二階席に向かいます。まだ人もまばらな売店で生ビールを買って指定席に腰を下ろした頃には、横浜ベイスターズの選手が奏でる潔いバット音がこだましていました。ホームベースを囲うように設けられたゲージのなかで野手たちが代わるがわるバッティング練習に取り組み、センターバックスクリーン前には投手陣らしき一群がストレッチをしています。よく冷えた一番搾りをすすりながら眼下で行われる練習やセレモニーを見送っているうちに、気づけばもうプレイボールが宣告されていました。坂本選手の幸先のよい先頭打者ホームランでざわめく中、仕事を終えた妻も生ビールを片手に駆けつけて、一週間の無事を祝して乾杯しました。試合は投手戦の様相を呈し、両チームともヒットは出るものの決定打を欠いて、20時前には7回が終了するスピーディな展開でした。8回表のピンチを久保投手の力投でしのいだジャイアンツは、その裏にラミレス選手のこれぞ四番打者と唸ってしまう劇的なツーランホームランで勝負あり。ラミレス選手のホームランで沸く巨人ベンチ主役の登場機会のない「小笠原道大デー」は少し淋しかったけれど、長野選手のホームラン伝説の陰で進行しつつある、我が家の「東京ドーム観戦不敗記録」をまた一つ伸ばすことができました。球場へ足を運んだ時には負けなし心楽しい一日に感謝します。ありがとうございました!!【三文日記】午前3時30分、きっちりと起床してテレビの前に座りました。早起きの甲斐あって、日本代表はデンマークを下し決勝トーナメント進出。しかし、なんて長い一日だろう・・・。●今日の天気晴れ。●今日の運動お休み。
2010/06/25
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誰かをだまして陥れたり、口汚い言葉を投げつけて傷つけたり、他者を殺めたり・・・。どうして人間は迷い、苦しみ、苦しませながら生きていかなければならないのでしょう?日々ニュースで伝えられる悲惨な記事に触れるたびに、いつも分からなくなります。誰もが仲睦まじく、お互いに思いやりあって生きていくことができたなら世の中はどんなに生きやすくなるだろうと思うのですが、人間というのはなかなかそうもいかないものなのですね。よくよく考えてみると、これは何も今に始まったことではなくて、ずっとずっと昔から連綿と続いていることなのです。聖書であれ、お経であれ、それらは人間同士が憎しみあい、傷つけあっていたからこそ生まれた書物でしょう。人間は、まるで苦しむために生まれてきたようにすら見えます。いったいどうすれば人間は心安らかに生きていけるのだろう?わたしは、個人的にこの問いかけをずっと抱え続けてきましたし、これからもずっと考え続けていくだろうと思います。現在のわたしがそのヒントとして感じているのは、人間には生きる「見本」が必要なのだということです。同時代を清く美しく生き、多くの人々がその生き様に共感できる生き方の「見本」が、とくにわたしたち日本人には必要だと感じているのです。例えばキリスト教国の場合、その「見本」を聖書に求めているのではないでしょうか?自分は何も求めず、ただ人々に与える生き方を貫いたイエス・キリストの生涯に触れることで、人々はどう生きるべきかの理想を頭に思い描き、実践しやすくなるのだろうと思います。同様に、仏教であればお釈迦さまがたどった人生を凝縮した経典に触れることで、人々は自分の人生のあり方を見直すことができるのではないでしょうか。しかし、特定の信仰を持たない人々が多く、高度に文明化された日本という国では、そういう「見本」に出会いにくいと思うのです。聖書やお経に限らず、たしかに素晴らしい「見本」を示す書物はたくさん与えられているわけですが、それを手に取る人は多くありません。そういう状況にあっては、より身近で具体的な、同時代を生きる「見本」が求められるのではないかと感じています。迷える人々にあるべき姿を示し、善い方向へ導いてあげることができる生きた「見本」。そういう人は、きっといるはずです。自分の人生の「見本」となるような生き方をしている先人が、そう遠くはないところにいらっしゃると信じています。大切なのは、求めることなのでしょう。わたしたちみんながより生きやすい世の中になることを願い、これからも自分にできることを考え続けていきたいと思います。今日も健やかに過ごすことができて感謝します。ありがとうございました!!【三文日記】夜は21時にベッドに入りました。もちろん明朝3時30分から始まる日本 VS デンマーク戦を観るためです。超早起きの甲斐があることを祈ります。●今日の天気晴れ。●今日の運動お休み。
2010/06/24
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「あらゆる我欲を捨てて、無になりなさい」よりよい生き方を指南してくれるちまたの本の中には、よくそんなことが説かれています。あれも欲しい、これも欲しい、そう願うけれどたいていは叶うことがなくて、人間は息苦しくなる。たしかにそれは真実かも知れません。もっとお金をせしめよう、もっと偉くなろう、人よりもっともっと幸せになろう・・・。そういうガツガツとした姿勢を近くで見ているのもイヤだし、そうすると自ずと応援したい気持ちも萎えてしまいますから、けっきょく周囲の人たちも協力してはくれなくなります。それに対して、誰を蹴落とすこともなく無欲に淡々と生きている人がいたら、むしろそういう人を支援したくなるのが人間というもの。たしかに「もっと欲しい、もっと欲しい」という気持ちを削ぐことは、みんなに応援してもらいながらよりよい人生を切り拓くための一つの方法と言えるのかも知れません。ただし、気をつけなければならないことは、我欲を捨てることが消極的な生き方へとつながってしまわないことです。「わたしにはこれも要りません。あれも要りません・・・」そうやってあらゆるものを手放していくうちに、いつしか失くしてしまってはならないものまで捨ててしまうことは少なくありません。悟ったような顔をして、自分はどんなことにも執着がないと誇らしげに構えている人は、本当の意味で悟ってはいないでしょう。ひどい場合には、それはただの無関心だったりします。自分本位な欲求を捨てることは、本当の生き方を目指すためのほんの第一歩なのだということを教えてくれる本は、意外と少ないものです。自分自身のために求めることをやめた後、次に必要なのはどんな姿勢なのでしょうか?それは、他者に善きものを与える生き方でしょう。自分のために何かを追い求めるのではなく、むしろ自分以外の人々が必要としているものを積極的に与えていくことが、人間にとって真実の生き方なのだと思います。この世の中はうまくできているもので、人間は成熟するにつれて必然的に他者のために生きるように仕向けられます。分かりやすい例が、「人の親になる」ということでしょう。「この子だけは命に代えても守っていく」という存在が生まれたら、自然と自分よりも子どもにいいものを食べさせたいと願うし、自分だけの時間なんてどんどんなくなって、その代わりに子どものために費やす時間が増えていきます。子どもを持つということは、人間らしい生き方を身につけるための好適なプロセスなのではないでしょうか?もちろん子どもを持たない人は、また別の方法で人に与えていく生き方のレッスンを積むことが大切なのだと想います。「あれも、これも」と求めるのをやめること、そして、その代わりに他者が必要としているものを与えていくこと。心に留めていきたいと想います。ありがとうございました!!【三文日記】以前受けた健康診断の結果が出ました。嬉しかったのは、お腹まわりが昨年より少なかったこと。「信じられない」、「計測ミスでしょ」と妻は驚いていました(笑)。●今日の天気雨のち晴れ。●今日の運動ジョギング30分。
2010/06/23
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真っ赤に燃える夕陽を浴びながら、日課のジョギングをしました。朝はうす曇りで空は真っ白だったのですが、今では目が痛むほどの青が頭上を覆っています。道端に咲くアジサイたちはどことなく恨めしそうに、しかし魅惑的な淡い色を呈してたたずんでいます。全身がうっすらと汗ばんでゆくのを感じながら、ふとある人のことを想いました。昨日、自分を導いてくれた先生のことを書きましたが、わたしにとってその中の一人が山川先生でした。わたしと同い年の娘さんを持つ女性の先生で、中学一年生のクラスの担任をしてくれました。当時わたしが通っていた中学校は荒れていて、三年生のなかにはタバコはもちろんのこと、廊下を原付バイクで疾走するやんちゃなヤツもいました。しかし、そんな子どもたちも山川先生には一目置いていて、なついていました。というのも、山川先生は女性ながら空手の使い手で、「あの先生を怒らせると本当にひどい目にあわされる」という話が、学校全体に浸透していたのです(笑)。でも、今から思えば、みんなが山川先生のことを慕っていたのはもっと別な理由があったように感じます。一本筋が通っているというか、一人の人間として魅力がありました。自身が担当する音楽の授業では、のどに持病を抱えながらも声を張り上げて歌い、生徒たちを巻き込んでいました。風邪を引いたって決して休むことはなく、病院で注射を打ってもらってから学校へやって来て、いつもと変わらぬ豪快さで生徒たちを指導していました。教師という仕事に対して、山川先生ほど誠実に自分自身を捧げている人を見たことがなかったような気がします。教師にとって、授業がうまいとかノウハウ的なことももちろん大切ですが、もっと根本的には人間としての生き様に共感できるかどうかが、生徒を惹きつける力の差になるのでしょう。残念ながら、その年を最後にわたしは他校へ転校しなければならず、また山川先生も転勤することになり、ほんの一年間でお別れすることになってしまいました。それから十年の月日が流れ、大学生になっていたわたしは、ひょんなことから山川先生の話を耳にすることになりました。奇遇なことに、家庭教師をしていた子が通っていた中学校に、山川先生が赴任していたのでした。その子ももう高校三年生だったので数年前の情報ではあったのですが、やはり山川先生は相変わらずのハツラツさで生徒からの信望を得ていたそうです。しかし、ショッキングなことも聞きました。山川先生はその後乳がんを患い、療養していたというのです。その話を聞いたとき、本当に胸が痛みました。山川先生が回復されたのかどうかわたしは知らないのですが、いま思えばどうしてあのとき先生を見舞い、自分が今でも先生の存在に励まされて生きているということを伝えなかったのかと悔しくなります。当時は少々目が悪くなっていたけど今よりずっとよく見えていたし、耳だってよく聞こえていたから、先生と会ってお話しすることには何も問題はなかったのです。もちろんいまお会いできるのだとしても、わたしが先生と別れわかれになって以来どんな経験をし、今どんな仕事をしているのかなどなど、お話ししたいことがたくさんあります。愛する先生に胸のうちのすべてを聴いてもらえたら、どんなに楽になるでしょう。山川先生が今も元気に教壇に立っていることを信じて、いつかお会いできる日のために恥ずかしくない日々を送りたいと思います。今日も健やかに過ごすことができて感謝します。ありがとうございました!!【三文日記】妻が「ほうとう」をこしらえてくれました。わたしは今まで「ほうとう」を食べた記憶がなかったので、とても新鮮でした。平べったい熱々の麺を、汗を流しながらつるつると食べ続けました。●今日の天気くもりのち晴れ。●今日の運動ジョギング30分。
2010/06/22
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テレビの情報番組では、連日のようにサッカーワールドカップにちなんだ話題が取り上げられています。次回対戦する国の分析だったり、前回の試合の秘話だったり、日本代表サポーターの裏側だったり・・・。そんななかでわたしが特に興味を感じるのが、日本代表選手を指導した恩師の話題です。「あの子は当時から才能はあったけど、やる気がなかったんです。だから、私が一喝したんです」たしかそんなことをインタビューでおっしゃっていたような気がするのですが、今でも電子メールのやり取りをしたり、年に何度かは選手から挨拶に赴いたり、とにかく恩師はその選手にいい影響を与えているんだなぁと感じます。サッカーに限ったことではありませんけれども、いい先生に巡りあうことによって、子どもは思いも寄らぬ大きな花を咲かせることがあるものなんですね。そういう意味では、良い出会いを呼び込むことも、実力の一つと言えるのかも知れません。自分自身のことを振り返ってみても、あの先生に出会ったことで大きく成長できたよなぁ、と実感できる先生が間違いなく存在します。それまでは根無し草のようにふらふらと揺らいで生きていたのに、あの先生がそばにいてくれただけで、あらゆる物事に対して前向きに集中することができるようになった。そういう経験って、きっと多かれ少なかれ誰しも覚えがあるのではないでしょうか?しかし正直なところ、それはとても稀なことだったような気もします。つまり、小学校から大学まで、良い出会いよりも、むしろ良くない出会いのほうがずっと多かったように感じるのです。もちろん一つひとつの出会いを良いものにできなかったことはわたし自身の問題でもあって、一概に「イヤな先生ばっかりだった」とは言えないと思います。でも、先生との相性とか、求めている技量などがうまく噛み合うことって難しいですよね。だから、欲を言うなら、何人かの先生から指導を受けてみて、一番自分に合っていると思う先生を選ばせてもらいたかったなと感じます。今もそうなのでしょうけれど、普通の学校では勝手にクラスと担任の先生が決められて、否応なしに一年かそれ以上を付き合わなければなりません。それでは、たとえ先生に指導力がなかったり、人格的に問題を抱えている人だったとしてもタダでお客さん(つまり生徒)を与えてしまうから、いつまでたっても改善はされません。そうではなくて、生徒が先生を選べるようになったら、先生は選んでもらうために指導力に磨きをかけるだろうし、選ばれなかった先生は自身の能力を高めるための努力をはじめるでしょう。もしもあまりにお客さん(生徒)がつかない先生が出てしまったら、担当する生徒が多すぎて困っている優秀な先生が、授業のノウハウや人間としてのあり方などを伝授することでしょう。そうやって先生の指導力が底上げされていけば、きっと日本は魅力ある人たちでいっぱいになるでしょう・・・。というのは現実にはなかなか難しいことなのかも知れませんが、自分にとって必要な人と巡りあえる機会がもっともっと増えるような世の中になって欲しいと願う今日この頃です。今日も健やかに過ごすことができて感謝します。ありがとうございました!!【三文日記】妻がパリのガイドブックを買ってきました。しかし、見てみると本体が大きくて持ち運びには適さず、内容もいまいちだとか・・・。別のガイドブックを買うか、それとも図書館から借りるか、考え中です。●今日の天気くもり。●今日の運動ジョギング40分。
2010/06/21
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日曜日の午前8時、JR有楽町駅前はひっそりとしていました。アスファルトにはわずかに雨の名残が色づき、もう空は泣くことをやめてしまったようです。うっすらとレースのカーテンのような雲が頭上を覆い、その向こう側にずしりと重苦しい熱気を伝える太陽が輝いています。空気はたっぷりと湿り気を含んで重く、ただそこに立っているだけで汗が噴き出してくるような圧迫感を覚えます。開店前のビッグカメラからは何かの宣伝アナウンスが流れているのですが、その音声はわたしの意識に具体的な文脈を形作ることはありません。街全体が額縁に収められた静止画のようで、非現実的に見えました。いつもならひっきりなしに人々が横断しているスクランブル交差点には人影がなく、青信号が点灯しているのに足を踏み出すのがためらわれるほどでした。視界を覆いつくす無機質なビルディング群は普段より一層よそよそしい雰囲気を湛え、住民がいっせいに姿をくらました村落を想像させます。人の気配だけがうっすらと居残ってはいるものの、肌に伝わってくる温もりみたいなものはまったく感じられません。あと数時間もすれば、むせ返るほどの人いきれに包まれるであろう街を前にして、ぼんやりと立ち尽くしていました。「いやいや、ここで留まっているわけはいかない、オレには行かなければならない場所があるのだ」そう気を取りなおし、何かを払うように頭を横に振りました。コツコツ・・・とやけに甲高く響いてくる自分の足音を聴きながら、駅前の横断歩道を渡って皇居の方に進んでいきました。ビルディングの間に挟まれた路地は光が乏しく、静けさがいっそう重く感じられました。歩道に寄せて停められた自動車の中にも人影はなく、窓ガラスをつたう水滴以外は動きというものがありません。コンクリートで閉ざされた都心の真っ只中にも、気持ちばかりの緑はあります。オフィスビルの入り口に設けられたささやかな花壇に生い茂る植栽、帝国劇場や丸ビルへ続く道沿いに据えられた並木。丸の内の並木道それらは昨夜来の雨のおかげでしっとりと潤い、やわらかな色合いを呈して目に映す者の心に安らぎを与えてくれます。そのまま歩を運んでいくと、背筋が伸び表情は厳格な警察官が仁王立ちしている丸の内書にさしかかり、前方には日比谷通りに隔てられたお堀が見えてきました。そこを通りかかっただけで悪事を働いているような、居心地のよくない思いに浸って警察署前を通り過ぎ、対角線上に日比谷公園を眺めました。目前の馬場先門交差点を渡って公園に進み、木陰のベンチに腰かけて本でも読んでいられたらどんなに心安らぐだろうと思うのですけれど、そういうわけにもいきません。朝のジョギングを楽しむ人々に羨望の眼差しを投げかけながらも、すぐ傍らにある東京メトロ日比谷駅へと続く階段を下っていきました。何はともあれ、今日も健やかに朝を迎えられたことに感謝します。ありがとうございました!!【三文日記】冬を越してからというもの、葉っぱが黄色くなってどんどん衰えていった我が家のハイビスカス。このところの陽気と手入れの甲斐あって、つぼみが膨らみはじめました。ハワイアンイエローのあの花を、今年もお目にかかることができそうです。●今日の天気くもり時々晴れ。●今日の運動お休み。
2010/06/20
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一日の仕事を終えて帰宅した妻から、その日に起きたさまざまな出来事の話を聴くのが好きです。毎日毎日よくもまぁ、そう面白いことが起こるものだと感心しながら、熱心に語ってくれる話の続きに引き込まれます。わたしだって同じ時間だけ曲りなりにも社会の片隅へ出て行って働いているわけですが、とりたてて誰かに伝えたいと思うようなことはそうそう起こるものではありません。あるいは起きているんだけど、鈍感で気づいていないだけなのかも知れませんが・・・。最近一番面白かったのは、妻の会社で働いているボンボンくんの話です。二十代半ばの彼はお金持ちの息子で、父のあとを継げば別に今のようなサラリーマン生活をする必要はないのだけれど、「社会勉強」として働いているのだそうです。実は彼、あまりに扱いづらいために同じ職場の同僚たちから距離を置かれているのです。例えば、ある女性の先輩が「午後一番に会議が入ってしまったから、申し訳ないけどあなたも同席してくれる?」とお願いしたとき、彼からはこんな答えが返ってきました。「いや、友だちとランチに行く予定が入っているので、無理っす」はぁ!? 友だちとランチって・・・。それ以来、その女性はボンボンくんに何かを頼むのは止めようと誓ったんだとか(笑)。要するに、ボンボンくんはボンボンゆえにマイペースで空気が読めず、周りの人たちからすると一緒に行動するのが面倒くさい子らしいのです。しかし、彼は彼で仲間に入れてもらえないのが寂しいらしく、近頃は昼休みにスイーツを買ってきてお姉さま方にみつぎ物を始めました(笑)。同僚たちにランチへ誘ってもらえる日はやって来るのか? 仕事帰りに飲み会へ誘ってもらえる日が来るのだろうか?顔を見たこともない、わたしにとっては赤の他人のボンボンくんですが、今後の動向が気になります。ボンボンくんの他にも、「笑わない女」や「卑屈な部長」などなど多彩な登場人物が奇想天外な役柄を演じ、日々脈々と我が家に笑いをもたらしてくれます。妻にとっては笑えないことも多いみたいなのですが(笑)。少なくともわたしは、それらの愚痴や回想に大いに笑わされ、癒やされていると感じます。人間にとって、笑いはとても大切です。笑うことで嫌な気分をどこかへ洗い流すことができるし、活力が戻ってきますから。日々の暮らしの中にささやかな笑いを持ち寄って、家族みんなが和やかに過ごすことができるといいですね。今日も健やかに過ごすことができて感謝します。ありがとうございました!!【三文日記】今日は仕事へ出て、帰りが21時を回ってしまいました。駅構内はどこか慌しく、それぞれの目指す方に向かって疾走する人をよく見かけました。もちろんわたしも急いで帰宅して、妻とともにビールを飲みながらサッカーをみました。●今日の天気雨のち晴れ。蒸し暑い。●今日の運動お休み。
2010/06/19
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「あっ、こいつと連れ添って、もう丸十年になるんだ・・・」シャンプーを泡立てて丹念に頭皮を揉み洗いしているとき、その事実に気づきました。いま自分は三十二、こいつがわたしの元へやってきたのは大学を卒業してすぐ、二十二の春でした。人生のおよそ三分の一の年月を、ともに歩んできたと思うと感慨深くなります。申し送れましたが、「こいつ」というのは、わたしの両眼の機能を少しずつ蝕んでいった「病」のことです。大学院の朝一番の講義に出席し、いつものように最後列に座っていました。先生が電磁気学にまつわる話をしながら、こむずかしい概念を黒板に図解しています。自分の身に生じている異変に気づいたのは、そのときでした。いつもならそんなことはないのですけれど、黒板に記された数式や図が、ゆらゆらと霞んで焦点が定まりません。「おっかしいなぁ・・・」そう思ってようく目を凝らしてみるのですが、そのあやふやな見え方は改善されませんでした。「オレもそろそろメガネをかける頃なのかもな」それまでずっと裸眼で過ごし、しばらく検査などしていなかったので、知らぬ間に視力が低下したのだと呑気に構えていました。近所の眼科を訪れてみると、意外なことにお医者さんの表情はこわばりました。その様子を見て取って、これは大きな病院に行った方が良さそうだと感じたのでした。そうして以前祖母が手術を受けたことのある眼科専門の大きな病院を受診したところ、「ぶどう膜炎」という思いも寄らぬ仰々しい病名の病と診断されたのでした。お医者さんによると、原因は不明、治癒する見込みのない難病だということでした。その症状には個人差があり、なかにはほとんど何も損なうことなく生活している患者さんもいますよ、とお医者さんはフォローしてくれましたが、自分の置かれた状況がそれまでとはまったく別の様相を呈しはじめたことをひしひしと感じていました。それからは定期的にやって来る炎症の発作が視力を着々と奪い、白内障や網膜剥離も重なってめまぐるしく視環境は変転しました。そして見え方の変化は、わたしという人間そのものの変化を要求し、それに応えなければなりませんでした。思い返してみると、その「変化」は何か新しい個性を獲得するとかそういうことではなくて、むしろ変質しつつあった自分を本来のものへと矯正する圧力だったかも知れません。だから、たしかにものが見えにくくなって不便なことも少なくないけれど、本質的には好ましいものなのだと受け止めるようになりました。そう、ちょうど10年前にやって来た「病」はわたしにとって必然的なもの、言わば出会うべくして出会った親友なのです。それまでの何倍も濃密な人生をもたらし、本物の自分自身へと導いてくれたわたしの「病」。決して「戦う」ことなく、これからも共に寄り添って生きていきたいと思います。今日も大切なことに気づくことができて感謝します。ありがとうございました!!【三文日記】先日のお義父さんへの父の日プレゼントにつづき、今日は我が父への贈り物を買いました。わたしたちが選んだのは、デジタルフォトフレーム。自称・淋しがり屋(アホですね)の父も、自分のデスクに写真を飾って心を慰めてくれることを願っています(笑)。●今日の天気晴れのち雨。●今日の運動お休み。
2010/06/18
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サッカーワールドカップ南アフリカ大会。強豪ひしめく欧州予選を無敗通過、専門家のあいだでは今大会優勝の有力候補として挙げられているスペインが、初戦で敗れました。終始主導権を握り、華麗なプレーで何度も好機を作るものの、終わってみれば一点も奪うことなく惜敗・・・。もちろんスペインを不甲斐ないと見る向きもあるでしょうけれど、わたしはあえて別の見方をしました。それは、相手のスイスが勝ち方を心得ていたということです。来月ヨーロッパへの旅行を計画していて、途中アルプスの山々を眺めながらスイスを北から東へ移動する予定です。スイスという国には、なぜかずっと憧れに似た印象を抱いていました。今回の旅行を機にちょっとだけスイスという国について調べてみて、その「憧れ」が「尊敬」へと変わっていったのです。というのも、牧歌的に映るこの国は、建国以来ずっと周囲の強国からの防衛という宿命的な課題を引き受け、対処し続けてきました。特に象徴的なのは、お金で雇われて戦争に参加する「傭兵」という仕組みでしょう。ルネサンス期、都市間の戦争が絶えなかったイタリア半島でスイスの人々が傭兵として参戦し、一時は最強の軍団と称されたほど活躍したのだそう。他国で起きる紛争を鎮めて自国の安寧を守り、その報酬としてお金をもらって帰ってくる。つまり、自国の平和を保ちつつ経済的な発展を実現するという、スイスが生き残りをかけたシステムが何百年も前から形成されていたのです。それはきっと、常に侵攻の危険と隣り合わせだったスイス人の知恵の結晶なのでしょう。彼らは自ら武器を取って戦うだけの腕力と勇猛心を持ち、さらにその上他国との関係性もうまく取り持っていく知恵も兼ね備えているのです。そんな事情から推察して、サッカーワールドカップ南アフリカ大会の初戦で強豪スペインを退けたスイスの戦いぶりは、彼ららしいものだったのではないかと感じます。裏を返せば、隣国と海で隔てられ、長い間領土を争うことのなかった我が国には、スイスのような発想が参考になるのではないかと思います。本当に自国を守り抜く決意があれば、それに必要な武力を獲得し、その使い方の工夫を考えることが必要です。いざ国の大事とあれば、国民みんなが立ち上がり、断固戦う気概を養わなければなりません。またスイスの戦い方は、あさって強豪オランダと一戦交える日本代表にとっても大いに参考になるでしょう。小さな国が、強国に負けないための考え方。スイスは、それを教えてくれているような気がします。今日も健やかに過ごすことができて感謝します。ありがとうございました!!【三文日記】さいきん妻は伊坂幸太郎さんの小説にはまっているそうです。映画化された作品を見て興味を感じたようで、仙台を舞台にしていることも親近感を覚えるみたいです。わたしもそのうち読んでみようかな。●今日の天気晴れ。真夏日。●今日の運動ジョギング30分。
2010/06/17
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ふと気づけば、年に一度の海外旅行まで一ヶ月を切っています。一昨年はイタリア、昨年はタイのプーケット島と旅をし、さぁ今年はどうしようかと思案しました。この辺りでアメリカ大陸に上陸してみるのもいいかも・・・と考えてはみたのですが、夫婦ともにそれよりはヨーロッパのほうがいいということで意見が一致しました。妻は当初、北欧数カ国周遊や、スペイン・バルセロナのサグラダ・ファミリア、フランスのモン・サン=ミシェルなどなどいくつか候補を挙げていました。もちろんそれらに異論はなかったのですが、わたしの個人的な興味としては、スイスののどかな湖のほとりやアルプスの山々を散策したり、ドイツの森のなかにたたずむお城を訪ねたり・・・なんていうイメージがありました。お互いの望みをうまく汲み取ったパッケージツアーはないものか・・・と妻が熱心に探してくれて、けっきょくドイツ・スイス・フランス三カ国を巡る旅に決めたのでした。ということで、生きている間にたった一度きりしか訪れることができないであろう稀有な機会を最大限に味わいたいと、残された時間は限られてはいますが勉強をはじめました。なにしろたくさんの見所を駆け抜ける弾丸ツアーなので、ポイントを絞っておかないととても学習し切れそうにありません。そこで、まずは自由行動できるパリについて調べようと思い立ちました。パリと言えば、地理に疎いわたしでさえ小学生の頃から知っていた超有名な都市ですから、きっと色んな情報がそこここに転がっているのでしょう。そう思ってわたしがまず探したのが、「パリを舞台にした小説」です。ごく個人的な思いなのですが、見知らぬ土地へ旅したときにもっとも胸が熱くなるのは、そこに眠る「物語」に触れたときです。それは歴史的な物語でもいいし、完全なフィクションでもいっこうに構いません。とにかく、パリのナントカ通りのカフェで誰々がクレームブリュレを食べていたとか、主人公がナントカ広場の前に建っているアパルトマンに住んでいたとか、そういう目には見えないけれど想像をかき立てる何かが欲しいのです。そこでわたしが手に取ったのは、「パリよ、こんにちは」でした。林 真理子さん、椎名 誠さん、唯川 恵さん、盛田 隆二さん、松本 侑子さん、狗飼 恭子さんという物語の名手六人が紡ぐ、パリを舞台にした六篇が詰まっています。その内容については別の機会にご紹介したいと思いますが、パリを楽しむための読み物として正解だと感じます。これから調べようと思っているドイツやスイスでも、その街を舞台にした興味深い物語があるとよいのですが・・・。そんなこんなで、これから一ヶ月は旅行の事前準備として学んだことをここに記す機会が多くなると思います。ただ、正直なところ本当に旅行へ行けるかどうか、まだ少し不安に感じています。というのも、4~5月にアイスランドで火山噴火があって欧州各所の空港が閉鎖されたり、ギリシャで経済危機があったりと、トラブルが持ち上がらないとも限らないからです。とくに妻は、自国へ帰ることができずに勤め先から解雇通告を受けて泣いている男性の映像をニュースで見たときに、「やっぱり沖縄旅行に切り替えたい・・・」などと弱音を吐いていました。楽観的なわたしが「大丈夫だよ」と押し切ったわけですが、まぁ、このご時勢なにが新たな問題が持ち上がらないとも限りません。そのときは・・・しょうがないですよね。無事に出発して帰国できるよう、毎日祈っていたいと思います。今日も健やかに過ごすことができて感謝します。ありがとうございました!!【三文日記】日中の気温が上がるにつれて、朝晩もずいぶん暖かくなってきました。暑がりのわたしはすでにタオルケット一枚で寝ているのですが、妻は羽毛布団を使い続けていました。妻の様子を見て「暑くて気持ち悪くないのかなぁ・・・」と常々思っていたのですが、さすがに今日から夏蒲団に替えたようです。●今日の天気雨のち晴れ。●今日の運動ジョギング30分。
2010/06/16
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湿り気をたっぷりと含んだ生暖かい風がぼんやりとした感触を伴って吹き寄せ、息苦しく感じられました。なんとなく居心地悪さを覚えて指と指とを摺り合わせると、まるで塗りたての塗料に触れたみたいにベタついています。ただ歩いているだけなのに、全身から汗がにじみ出てきます。雨は降っていないのですが、空は一面灰色に塗り広げられて、今日も夕陽は見えません。どんよりとした曇り空を頂いた通勤路を歩いていると、道端に見覚えのない物体が横たわっているのに気づきました。それは、草むらに横転した原付バイクでした。誰かが停めておいたにしては不自然な場所だし、ある程度の期間放置された気配が漂っています。よく見てみると、車体の一部は破損しています。とその時、ある記憶が蘇ってきて、ハッとしました。きっと目の前に転がっている原付バイクは盗難に遭ったもので、わたしも十数年前に愛車を盗まれたことがある・・・。あまりに遠く昔のことだったので記憶の引き出しの奥深くにしまわれていたのですが、学生の頃、所有していた原付バイクを盗まれたことがありました。当時は大学生で、アップダウンの厳しい仙台の街を移動するのに原付バイクは生活必需品といってもいい存在でした。それなしでは学校へ通うのもタイヘンだし、授業が終わってからアルバイト先へ向かうにも時間が間に合いませんでした。ある日の午後、愛車が忽然と姿を消してしまったことに気づいたときには、すぐに警察へ通報しました。そして自家用車を借りて近隣をパトロールし、黒いヤマハのDuoを血眼になって探したものでした。実を言うと、運転している軽自動車の後部座席には、金属バットが転がっていました。もしもふてくされた高校生たちがわたしの原付バイクを盗み、そして乗り回しているのを見つけたときには、その金属バットでぶん殴ってやろうと思っていたのです。当時のわたしは自制心がなく幼稚だったので、万が一盗難した連中の姿を見かけたら、本当に金属バットを振り回していたと思います。野球部に属して日々練習に取り組んでいましたから腕力はそれなりに充実していて、金属バットを手にしていたら、その辺の高校生を傷つけることくらい簡単にできてしまったでしょう。幸いにしてほどなく犯人が逮捕され(やはり隣町の不良高校生でした)、破損した原付バイクの修理代金や慰謝料をもらって事なきを得ました。でも、あのときのことを思い返すと、自分が犯罪者に限りなく近づいていたのだということを感じ、ぞっとします。たしかに被害者はこちらだったけれど、怒りに身を任せて加害者の身体を完膚なきまでに打ちのめしてしまっていたら、わたしの痛手はもっともっと大きかっただろうと思うのです。もしかしたら大学を辞めていたかも知れないし、そうなれば就職だってうまくはいかなかってでしょうから、今の暮らしはあり得ないはずです。これまで出会った愛すべき人々とも出会うことはなく、むしろ悪いご縁に導かれてまっとうな道を踏み外していたかも知れません。そう思うと、車を駆ってパトロールをしたとき、犯人に遭遇しなかったことはとても幸運なことだったと思います。現にあのとき、犯人が住んでいた地域も巡回していたのですから。人生は、そのときの感情や巡り合わせによって大きく左右されるものなのだということを、道端に横たわった原付バイクにあらためて教えられました。心にとどめておきたいと思います。今日も大切なことを教えていただいたことに感謝します。ありがとうございました!!【三文日記】妻の友人は、近々出席する結婚式の余興でAKB48に扮するのだそう。ということで、いまさらですがYouTubeで「会いたかった~会いたかった~・・・」を見てみました。妻は気に入って口ずさんでいますが、わたしは「う~ん」と唸って思考停止に陥りました(笑)。●今日の天気くもり時々晴れ。蒸し暑い。●今日の運動ジョギング30分。
2010/06/15
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梅雨の到来を告げるさめざめとした雨が、一日じゅう街を濡らしていました。粉のような雨粒が宙を舞い、傘をさしていてもいつの間にかワイシャツやズボンがぐっしょりと湿っています。もちろんそんなことはお構いなし、仕事から帰るとすみやかに着替えてジョギングへ出ました。いつもなら猛烈な光線を投げかけているはずの夕陽はそこになく、たっぷりと湿気を含んだ分厚い雲に覆い尽くされて、世界は全体的にくすんで見えました。車輪が水を切る無声音が絶え間なく鼓膜を震わせ、いつしかそれは耳になじんで意識に上ることはなくなります。住宅街を抜けて河原へ出ると、人影はほとんどありませんでした。遊歩道にはところどころに水たまりが浮かび、うっかり足をとられないように注意しなければなりません。たとえ霧のような雨の日でも、川沿いのグラウンドや遊歩道はどこへ出しても恥ずかしくない、大きな水たまりを湛えています。きっと地面はもともと水気を多く含んでいて、もうそれ以上はたくさんだと、空からやって来る水分を拒んでしまうのかも知れません。足元のぬかるみとにらめっこしながら、すれ違う人のいない灰色の道のりを淡々と駆け抜けました。雨雲が光を吸い取ってしまうのでしょうか、辺りは刻々と薄闇が降りてきます。遠くのものはぼんやりと霞み、目に映るものは色を失っていきます。そんな色褪せた道端にひときわ眩しく目を刺すものがあって、意識をそちらに向けました。それは、民家のブロック塀を乗り越えてこぼれ出した淡い水色のアジサイでした。まるで自ら光を作り出してその色を発しているように、暮れゆく路地の片隅で輝いて映ります。お隣さんのほうに目をやると、そこにはほんのりと紫色を呈したアジサイが群れを成して咲いていました。そう言えば、昨年の今頃もこの辺りで雨に濡れるアジサイに目を奪われたっけ・・・。雨の季節は鬱陶しくてなんとなく気分もしんみりしがちだけれど、アジサイの花だけは、むしろあらん限りの生命力を燃やして輝いているように見えます。こうして夕闇迫る薄暗い道端でも、いや、だからこそいっそうその色は鮮やかに輝き、清らかな息吹を見る者の心に吹き込んでくれます。きっとアジサイは、今このときに花を咲かせるために、一年間のほとんどを準備にあてているのではないだろうか?足を緩めてその可憐な姿を目に映しているうちに、ふとそんなことを思いました。アジサイは、アジサイとしての生命をひたむきに生き、多くの時間を誰にも目を留められることなく過ごして、ほんの短い間だけ自分らしい花を咲かせる。それに比べて人間は、「お前はチューリップだ」と他人から決め付けられて戸惑い、「いや、オレはバラになりたいんだ」と夢想して迷走し、けっきょく自分という花を咲かせることなく気づいたときには活力を失っているものなのではないでしょうか?たとえ脚光を浴びなくても自分としての最善を尽くしてコツコツと努力を重ね、ほんの短い時間でも自分らしいいい色の花を咲かせることができたら、このアジサイたちと同じくらい人間も美しく輝けるかも知れません。雨に煙る道端で出会ったアジサイの花から、そんなメッセージをもらった夕暮れでした。今日も健やかに過ごすことができて感謝します。ありがとうございました!!【三文日記】「日本が先制したよ」という妻の声に起こされました。けっきょく気になって仕方がないのでむくりと起き上がり、リビングでサッカーをみました。翌朝はもちろん寝坊です(笑)。●今日の天気雨。●今日の運動ジョギング30分。
2010/06/14
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我が家へ遊びに来てくれた妻の友人をもてなそうと、ずっと気になっていたイタリアンのお店を訪れました。その界隈はそれほど繁華ではないのですが、なんでも有名レストランで修行を積んだシェフが腕を振るっているという噂を耳にしていたのです。早めに入店したせいかテーブルはほとんど空いていて、落ち着いた雰囲気のなか近況を語り合っていました。彼女は看護師をしていて、未婚。ジョギングやガーデニング、それにマクロビオティックなどなど、顔を合わせるごとにその時々にホットな趣味が移ろっている、非常に活動的な女性です。最近気になっているという美容師の男性の話に耳を傾けながら、めらめらと炎が燃えている石窯を眺めていました。なんでもその石窯で焼き上げるピッツァが人気のようで、わたしたちも注文していました。厨房では、真っ白なユニフォームに身を包んだシェフが小気味よい動作で調理に取り組んでいます。皿に載せられたピッツァに盛り付けしているのかも知れないし、茹で上がったパスタの水を切って、フライパンで炒めているのかも知れない。あるいは石窯の火加減を見て、ピッツァの焼け具合を計算しているのかも知れない。こちらからは何をしているのか分からないけれど、そこで行われている一つひとつの身動きが洗練されているということは、ひしひしと伝わってきます。ほどなく注文したペペロンチーノとマルゲリータがテーブルの上に運ばれてきて、わたしたちは少しずつシェアしていただきました。パスタは旨味をたっぷりと含んだソースが麺によくからんで味わい深く、ピッツァも表面はカリカリ中身はモチモチと絶妙な食感で、盛り付けられたチーズの塩気とトマトソースの風味がじつに均整が取れています。「あぁ、もっと前から訪れていれば良かった」妻と二人でそう語り合いました。そして、テーブルに並んだ料理だけではなく、こちらのお店には別の「味わい」があります。それは、厨房のなかで調理に励むシェフのひたむきな姿です。料理という一つの技能を高めるために研鑽を積み、その結果ふつうの料理人には生み出すことのできない味を表現し、食べる人を幸せにする実力を身につけた一人の男の姿が、見る者に「何か」を訴えかけてくるのです。わたしが取り組んでいる仕事は料理とはまた別の世界のものだけれど、いま目の前で黙々と調理しているシェフのように「職人」を目指さなければいけないなぁ・・・。そんなことを感じて、シェフから目が離せなくなっていました。それはきっと、どんな仕事をするにしても(主婦や子育てなども含めて)同じことが言えるのだろうと思います。自分の持ち場で尋常ではない「何か」を生み出すために、たゆまぬ精進を続けること。明日からまた職場で仕事に勤しむわけですが、シェフの働く姿に大切なことを教えられたような気がしました。友人との再会を美味しい料理で祝うことができて、心から感謝します。ありがとうございました!!【三文日記】三年前から使っているデジタルカメラを買い換えたいと思っています。というのも、扱い方が粗っぽいためにブラウンのボディがところどころ剥げてきているのです。人に見られるたびに、「ずいぶん年季が入っているね」と苦笑されます(笑)。●今日の天気晴れ時々くもり。●今日の運動お休み。
2010/06/13
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真っ青な天井を頂いたフジテレビの社屋が、刻々と小さくなっていきました。洋上から眺めるフジテレビ妻とわたしはお台場海浜公園発着所で日の出桟橋行きの水上バスに乗り込み、屋外ベンチに座っていたのです。時刻は17時をまわり、青を基調とした東の風景とは異なって、西は傾いてゆく真っ赤な太陽があらゆるものを漆黒のシルエットに変えていました。そして、海面に降り注いだ光線は気ままに揺らめく波に反射されて、品川埠頭へとつながる金色の道が描かれています。洋上から見上げる夕陽我が家へ遊びに来てくれた妻の友人のリクエストで、お台場のヴィーナス・アウトレットを訪れました。東京テレポート駅で友人と別れてから何とはなしにぶらぶらと歩き、ふと気づくと水上バスの発着所にいました。「そうか・・・これに乗って浜松町へ向かうのも悪くないな」船が好きなわたしたちはその気になってしまい、次の便の出発時刻もちょうどいい頃合いだったので、迷うことなく乗船券を買い求めていました。そして気づけば、洋上で潮風に吹かれていたというわけです。見晴らしのよい屋外席は人気があり、同じサークルの仲間といった雰囲気の大学生グループや、中国語で語り合うカップルなど想像の余地に満ち溢れた空間でした。台場が遠ざかっていくと前方にはレインボーブリッジが近づいてきて、ほどなくそれを見上げ、橋下をくぐり、そして後ろに見送ります。洋上から眺めるレインボーブリッジ右手には有明や晴海の不揃いな人工物が、左手には芝浦埠頭とその背後にそびえる高層ビルディング群のシルエットが流れ過ぎていきます。西日が伝える暖かさと吹き寄せる海風の涼しさがなんとも言えず心地よく、いつまでもこうして揺られていたかったのですけれど、終点の日の出埠頭はすぐそこに迫っていました。20分足らずの短い船旅でしたが、人間のたゆまぬ営みを象徴する東京港の風景を存分に味わうことができました。好天に恵まれ、心楽しい休日を過ごすことができて感謝します。ありがとうございました!!【三文日記】父の日のプレゼントを買いました。お義父さんには、最近お義母さんとよくやっているというWiiのソフト「Wii Sports Resort」。少しでも楽しく体を動かして、健やかに長生きして欲しいと願っています。●今日の天気晴れ。暑い。●今日の運動お休み。
2010/06/12
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会社帰り、同僚と焼き鳥を食べにいきました。「焼き鳥を食べる」というのは隠喩的な表現で、要するに美味しくお酒を飲んだのです(笑)。これまで通りがかりにそのお店の存在に気づいていたのですが、なんとなく暖簾をくぐる決心がつかずにいました。しかし今回は仲間がいっしょだったので、思い切って入ることができました。店内はそれほど広くはないのですが、各テーブル間に格子戸のような仕切りが設けられていて、集った人々と親密な時間を過ごすには好適な空間でした。そして入店したのが18時前だったためか、お客さんの入りがまだそれほどでもなくて、居酒屋特有の永遠に続く絶叫のようなざわめきは感じられませんでした。メニューはそれほど多くはなく、揚げ物もなければ鍋料理もなく、わき目も振らず焼き鳥に専念している感じが伝わってきます。何よりもまずは生ビールを注文し、それからネギマやモモ、つくね、ささみ、スナギモなど定番のものを親父さんに頼みました。はじめは同僚と男三人で、後から妻も加わって四人でのささやかなひととき。それぞれに何度も顔を合わせたことのあるなじみの間柄で、自己紹介することも、基本的事項の確認も必要ありません。しおりの挟んだページを開いて続きを読み始めるように、自然な流れに沿って思いおもいの話題を持ち出し、みなでそれを共有します。そして、そうすることが暗黙のルールで決まっているかのように、最後は必ず笑いの合唱で締めくくられることになります。このところ初夏の陽気に恵まれて暖かくなってきたせいか(あるいはそれを口実にしているだけなのかも知れませんけれど・・・)、ビールが快感のツボを強くつよく刺激します。ふと気づけば、四杯目のジョッキを右手に握りしめる自分がいました。たしかにお酒は体にあまり良くないし、わたしの場合、それが具体的な形を伴って現れます。お酒を飲んだ当日はそれほどでもないけれど、翌日目を覚ますと音の響きがいつもより弱々しくなっていたり、また視界には無数の蚊が飛んで見えることもあります。だけど不思議なことに、気持ち的には抱えていた重荷を下ろしてしまったみたいにスッキリとして、代わりになんとも言えない安らぎを手にしていることに気づきます。まぁ、不節制は、ほどほどにこなしておくのがよいのでしょう。生ビール四杯が「ほどほど」なのかどうかは、明日の体が教えてくれることになるわけですけれども。何はともあれ、まだ見ぬ未来のことを気に病んで鬱々とするよりも、目の前に流れている愛する人々との暖かな時間を味わい尽くしましょう。今日も心楽しい時間を過ごすことができて感謝します。ありがとうございました!!【三文日記】風呂から上がってテレビの電源を入れると、サッカーワールドカップ南アフリカ大会のオープニングゲームが始まっていました。その時点で普段より夜更かしをしていたのに、テレビの前に座ったまましばらく動けなくなりました。日本代表の不振もあっていまいち興味が湧かなかったのですけれど、蓋をあけてみれば夢中になって観戦している自分に気づきました。●今日の天気晴れ。●今日の運動お休み。
2010/06/11
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「これはテストに出そうだから、しっかり覚えておかなくっちゃ・・・」脳裏に焼きつくことをイメージしながら記憶の引き出しにちゃんとしまっておいたはずなのに、悲しいかな人間の脳はそうやすやすと言うことを聞いてはくれません。覚えよう、覚えようと強く念じたとしても、いざそれが必要になったときに、あっさりと忘れてしまっていることに愕然とするものです。人間の脳みそって、つれないものです。そして、それとまったく逆のこともまた真実です。人間は、忘れたいことを思うように忘れられません。忘れたほうがずっと楽に生きられるのに・・・と思うことって、けっこうあります。職場で上司に叱られたとき、まるで存在そのものを否定されるようなことを言われて深くふかく傷ついたり、親友だと思っていた友だちが自分のことをひどくけなしているのを耳にしてしまい、誰のことも信じられなくなったり、尊敬していた人がロクでもないことに絡んでいるのを知ってしまったり・・・。そんなこと知らなければ安穏と生きていられたのに、一度その事実を引き受けてしまったために、辛く悲しい気持ちにさいなまれることっていくつも思い当たります。その出来事や知識が衝撃的であればあるほど、記憶としての定着が深くなってしまうものです。わたしは、とくに人が感情的になって投げかけてくる言葉に弱いと思います。こちらの話に耳を傾けようともせず、こちらの立場を尊重することもなく、ただ思いつくままに発せられた言葉がどうしても忘れられなくて、苦しい日々を過ごすことがたまにあります。そんなこと早く忘れてしまえばいいんだと分かってはいるのですけれど、そのときの映像と言葉がなかなか頭から離れてくれなくて、途方に暮れてしまいます。相手のことを憎悪してイライラし続けるのも嫌だし、どうすればこの状態から脱することができるのでしょう?そう考えてわたしが思いついたのは、「その忘れられない記憶を上書きしてしまうくらい、別な記憶を詰め込んでしまえ」ということでした。例えばわたしは本を読むことが好きなので、自分の好みに合う本を片っ端からドンドン読み進めていくのです。そしてできることなら、ただ字面を目で追っていくのではなく、そこに記された言葉を一つひとつ声に出して音読します。そうすると、声に出さなければならないから意識は紙面に集中するし、発せられた言葉は耳に響いてくるので内容の染み込み具合が増強されます。すると忘れたい記憶を思い出す余裕もなくなり、同時に自分の好きな文章に没入して、後者の記憶が忘れたい記憶を薄めてくれます。その作業を繰り返すことで、忘れたい記憶の薄れ方は、ずいぶん加速するんじゃないかと思います。忘れたい記憶を抱え込んでしまったときの対処法。これからも自分なりに研究してみたいと思います。今日も健やかに過ごすことができて感謝します。ありがとうございました1!【三文日記】このところ毎日のように夢のなかで高校時代の友人が現れます。彼らのうちの誰かが、何かを伝えたがっているのかも知れません。そのうち「結婚することになった」とか連絡があるんじゃないかと身構えています(笑)。●今日の天気晴れ。●今日の運動ジョギング30分。
2010/06/10
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会社から帰宅するとすみやかにハーフパンツとシャツに着替えて、ジョギングへ出かけました。昨夜来の雨は昼過ぎには上がり、アスファルトはところどころ乾いてまだら模様を呈しています。空気にはたっぷりと湿り気が含まれていて、手足を動かすとまるで薄布がさすっているようにくっきりとした感触が残ります。西の空に夕陽は見えないけれど、空全体がほのかに光を帯びて、白っぽく輝いて見えます。道端のツツジが鬱々とした雲を振り払うように勢いよく桃色の花を咲かせ、それにつづけと言わんばかりに黄緑色をしたアジサイの花がうっすらと色づき始めています。じめじめとして恨めしい雨季が、着実に迫っていることを物語っています。そんな季節の移ろいを感じながらのジョギングでしたが、足取りはいつもよりずいぶん鈍いようでした。というのも、実は昨夜はなかなか寝つけず、いつもの半分くらいしか熟睡できなかったのです。恐らく寝る前に飲んだ濃厚なアイスコーヒーが交感神経を刺激し、興奮状態に陥っていたのだろうと思います。ベッドで横になっていると、普段より物音は耳に甲高く響いてくるし、いつもは気にならないほの明かりも網膜をチカチカと刺激して意識を捉えるのでした。おかげで朝起きたときには自分のものとは思えないくらいに身動きはぎこちなく、耳のなかに何か詰まっているみたいに音声が遠くに聞こえました。食後に決まって飲みたくなるはずのコーヒーも、今日ばっかりはただの不吉な色をした液体にしか見えません。そんなこんなで一日じゅうけだるさを抱えながら過ごしていたわけですが、汗をにじませながら走っているうちに、不思議と意識がすっきりとしてきました。まるで澄み渡る空気を浴びながら鎮守の森をくぐり抜けて全身が清められていくように、節々にわだかまっていたものがサラサラと流れ出すのを感じました。走ることは、わたしにとってどうやら「お祓い」のような効果をもたらしてくれるようです。もちろん体調は良好とは言えませんが、少なくとも滅入ってしまうほどのけだるさからは脱したように感じます。心身の調子は日々異なっていて、ときには今日のように「最悪」と呼んでしまいたいくらい不快さを抱えながら過ごさなければならない日もありますけれど、何はともあれこうして手足が動き、前に向かって進んでいけることは幸せなことです。今日も生きる力を与えていただき、ありがとうございました!!【三文日記】そろそろ父の日のプレゼントを考えようと相談をはじめました。デジタルフォトフレームやDVDなど候補を挙げていますが、決定的とは言えません。週末に家電量販店へ出かけて、実物を見てこようと思います。●今日の天気くもり時々雨。●今日の運動ジョギング30分。
2010/06/09
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早く身支度をして出かけなければならないと焦っているのだけれど、なぜか色々なことが持ち上がって、なかなか出発することができない。始業時間に間に合わせるためには、もう少しも残されている時間はない。学校までは自転車でひと山越えなければならず、どんなに急いでも50分はかかるだろう。どこからともなくいつもつるんでいる仲間三人が現れて、彼らも学校へ向かおうとしている様子。しかし彼らは再び音もなくどこかへ消え去り、わたしはもう遅刻することを覚悟しはじめている。弁当かなにかの支度ができて、ようやく家の玄関を出たところで、自転車の鍵を持っていないことに気づく。さらに悪いことに、肝心の鍵のありかが分からない・・・。どうしよう、完全に遅刻だ。・・・・・・。眠っているのかいないのか分からないくらい虚ろな意識のなかで見たロクでもない夢のあらすじが、上のようなものです。思い返してみると、そのときどきによって細部は多少異なってはいますが、ほぼ同じような筋書きの夢を定期的に繰り返し見ているような気がします。夢のなかのわたしは頭から足先まですっかり高校生で、いつも早く学校へ行かなければと焦っています。今回のようにけっきょく出かけられずじまいのこともあれば、また別のバージョンでは、学校に着くとクラス替えされていて、自分が向かうべき教室が分からず途方に暮れるということもあります。いずれにしても、たどり着くべき場所に達することの出来ない、なんとも気持ちよくない夢なのです。いつからこの種の夢を見るようになったのかは分からないけれど、いつまでも同じところを俳諧させられるタチの悪い迷路にはまり込んでしまったような、そんな感じがします。やれやれ・・・。しかし、きっとこの夢には、潜在意識のなかに浸かっている何か大切なものの暗示が含まれているのでしょう。心理学者でも夢占いの使い手でもないので自分なりに推測するしかないのですが、ちょっと考えてみました。今回見たのと同じような夢を見るとき、わたしはたいてい何かしらを強く強く求めているのではないだろうか?それが、わたしなりに最も納得のいく仮説でした。強く求めているものとは、具体的なモノであったり、大切な人との信頼関係であったり、はたまた仕事での成果であったり、色んな対象が考えられます。もちろん時間をかけて着実に努力を積み重ねれば手に入れることができるのかも知れないのですが、どうもわたしの性分で「早く手に入れたい。いま手に入れたい」と気ぜわしく求めてしまうようなんですね。そんな精神のありようが、意識の断片の連なりとして夢という形になったのではないか?だから、こういう夢を見るときには、グッと自分自身を抑えることが肝心なのだと思います。ご飯を目の前にして箸をいそがしく動かしたり、早口でしゃべってしまったり、あるいは頭に染み込むのを待たずに文章を読み進めてしまったり、日ごろ必要以上にスピードアップしてしまっている行動や思考を、意識的にグッと減速してみることが必要です。気持ちをじゅうぶんに落ち着かせ、身の丈にあったペースで歩き出そう。そんなことを教えられたロクでもない夢の話でした。今日もよい一日でした。ありがとうございました!!【三文日記】妻が、東京ドームでの巨人戦のチケットを取ってくれました。なんと当日は「小笠原デー」。売店で小笠原選手のシャツを買って、今年初めてのナマ巨人戦を大いに楽しみたいと思います。●今日の天気くもり時々雨。●今日の運動ジョギング30分。
2010/06/08
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突如として意識が立ち上がり、枕元に置いているケータイのディスプレイを覗くと、時刻は午前3時でした。胃の辺りにもったりとした不快感がわだかまり、頭の奥のほうに鉛でも詰め込んだような重みが感じられます。そうだ、ゆうべは妻が長野のお土産に買ってきてくれた日本酒を飲み過ぎてしまったんだっけ。やれやれ・・・。不思議と意識は冴えていて、仕切りなおしにトイレで用を足し、コップ2杯の水を飲み干しました。もう一度ベッドへ戻り、眠りに落ちようと思ったのですけれど、困ったことになかなか寝つけなくなってしまいました。なんとなく苛立ち、しばらくの間無意識の浅瀬に膝くらいまで浸かっていて、それからロクでもない夢を二つほど立て続けに見たところで本物の目覚めを迎えました。案の定けだるさが全身にしみ渡り、まだ始まったばかりの一日をどうやって乗り切ればいいのか、途方に暮れました。たとえ仕事は楽しくても、体は重く、ハムスターが回し車の上でカラカラと走っているみたいに頭が空回りしていては、やっぱり辛いですよね。こういう日って、たまにあるんです・・・。まぁ、嘆いていても始まらないので、前を向いてこの境遇を引き受けようではありませんか。なにごとも辛抱、辛抱・・・。でもせっかくなら、清らかな気持ちで、前向きに耐え忍びたいもの。いったいどうすればよいのでしょう?そこで思いついたのが、心のなかで「呪文」を唱えるということでした。身体的な苦しみも、この「呪文」を唱えていれば、やわらかい風に吹かれているようにスゥ~とやり過ごすことができます。「ありがとうございます」誰に対して、どんな点についてそう言っているのかは大した問題ではありません。強いて言うなら、自分自身のなかにいる「誰か」に向けて、「苦しいことは苦しいけれど、こうして生かしてくださってありがとうございます」と心のなかで呟くのです。そこに自分なりの温かみや光を感じ取れる言葉なら、「ナンマンダブ」でも「ラッキー」でも「呪文」はどんなものを口にしたっていいのだろうと思います。言葉の力というのは偉大なもので、ただ頭のなかにそれを響かせるだけで具体的な苦痛や悲しみを和らげ、積極的に受け容れるのを促進してくれます。何かしら辛く苦しい境遇に出遭ったときには、自分なりの「呪文」を心のなかでつぶやき、乗り越えていきましょう。今日も一日無事に過ごすことができて感謝します。ありがとうございました!!【三文日記】風呂上がり、なかなか熱がひかなくて、今年初めてウチワを手に取りました。パタパタと扇いで自らに風を送り、空気が熱を奪い去ってくれるのを心地よく感じています。梅雨を越えなければならないけれど、少しずつ夏を感じはじめた今日この頃です。●今日の天気晴れ時々くもり。●今日の運動ジョギング30分。
2010/06/07
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まだ空高くに輝いている17時の太陽を見上げながら、河原の遊歩道をジョギングしました。川沿いのサッカーコートや野球グランドからはそれぞれに球を打つ鈍い音と何かを指示する鋭い声とがこだまし、人々がまだ活動的であることが伝わってきます。やや向かい風が強く、なびいた前髪やら地面から吹き上げられた砂粒やらが顔を刺激し、目を細めながら進んでいきました。いつもそうしているように、ある地点でくるりと向きを反転し、今度は追い風に背中を押されるままに来た道を引き返します。全身に血液が行き渡って手足を動かしつづける状態に体がなじんでしまうと、それまで働かせていた意識の余白を埋めるためなのか、様々な思念が去来するようになります。こういうことは今日に限ったことではなくて、ジョギングしているときはたいてい同じようなことが起こります。そのときとくに気にかかっていることを何度も何度も反復したり、ずっと昔に経験した記憶がどこからともなくフッと湧き上がってきたり、あるいは何かの小説の登場人物が発した言葉が蘇ってきたり・・・。頭のなかで誰かが語りかけてきて、あるいは自分自身がその役割を務め、それに対してわたし自身が返答する。その不完全な対話は、ときには問答が幾度も繰り返されるのですけれど、たいていはほどなくプツッと途切れて中空に消えてしまいます。しかし、稀にそのとき浮かんできた言葉が、心を捉えて離さなくなることもあります。「人間のだれもが、すべての人、すべてのものに対して罪がある」傾いてゆく太陽を見据えながら走っている最中にとつぜん現れた上の言葉が、今日のわたしにとって妙に心に響いたのでした。それは、「カラマーゾフの兄弟」に登場するゾシマ長老のお兄さんが、生前口にした言葉だったと思います。ゾシマ長老より八つ年上のお兄さんは、十七歳の頃に悪い病気にかかり、床に臥しました。それまでは神様など信じない、古いしきたりになど意味はないと言い放っていたその人は、病を得たことで人が変わってしまいます。庭で囀る鳥に涙を流しながら許しを請うたり、召使いたちがこれまで自分にそうしてくれたように、これからは自分が召使いたちに仕えるんだと言い出したり、自分はもうすでに天国にいるんだと言ってみたり・・・。病床にあるなかでその人が発した言葉が、上の「人間はあらゆるものに罪がある」という言葉だったと思います。「カラマーゾフの兄弟」を読んだのはずいぶん前のことで、あらすじすら忘れかけているというのに、どうしてそのなかの一節が心を捉えるんだろう?淡々と走りながら、不思議に思いました。一読したときから、その言葉が強く心に響いていたのはたしかです。なぜなら、わたし自身も容易に治癒することのない病気を得たときに、ゾシマ長老のお兄さんと同じような感覚を味わったことがあったからです。何を与えられなくても、何を成し遂げなくても、わたしたちは生きているだけで幸せなんだ。すべてのものに対してへりくだり、慎ましく生きていたい・・・。ゾシマ長老のお兄さんが言わんとしたこととまったく同じではないかも知れませんが、何か深いところで共鳴するものを感じたのだと思います。今のわたしにとってその言葉が何を示唆するのかはまだ分かりませんけれど、じっくりと噛み締めてみたいと思いました。今日も健やかに過ごすことができて感謝します。ありがとうございました!!【三文日記】妻がお土産に日本酒「茜さす」を買ってきてくれました。佐久酒の会が有機農法で作ったお米を使用して仕上げたお酒です。飲んでみると風味に深みがあり、焼き鳥とともに美味しくいただきました。●今日の天気晴れ。●今日の運動ジョギング30分。
2010/06/06
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駅の改札前で妻と別れたのは、まだ午前7時前でした。別荘を持っている会社の同僚のお招きで、妻は明日まで長野へ行ってしまい、短い間ですが一人暮らしがはじまりました。図書館へ行こうというのは決めているのだけれど、開館するのは9時・・・。あまりに閑散として違和感さえ覚える駅構内をぐるりと見回し、これからどこへ向かうべきかを思案してみました。どこかのカフェに入って、行き交う人々の流れを眺めながら時が過ぎるのを待とうかとも思ったのですが、なんとなく気乗りしません。まぁ、どうせ図書館へ行くのだから、とりあえずそちらの方へ歩いてみよう。そう思いを定めると、人通りもまばらな歩きやすい朝の街へと歩を運びました。駅を離れ、飲食店が建ち並ぶ繁華な路地にさしかかりました。たいていの店舗はシャッターが下ろされ、電源が切られて色褪せた看板が無音の呼び込みを続けています。視線を落とすと、路上のあちこちに得体の知れない無数のシミが浮かび、昨夜ここで熱狂した人々の残響が染み込んでいるように見えました。一週間の勤めを終え、会社の同僚と集まって手に負えない上司やタチの悪いお客さんのことを罵り合ったのかも知れない。あるいは、恋人と二人でスツールに腰掛け、それぞれに好きなカクテルをすすりながら、過ぎゆく時間を愛おしむように親密な会話を楽しんだのかも知れない。そういう色んな種類のざわめきが、辺りの空気にまだうっすらと居残っているように感じられます。通りかかったコンビニエンス・ストアに入り、ハムのサンドイッチとカフェオレを買って、駅からさらに遠ざかるほうへと歩きました。自動車の走行音が聞こえない方へ、無機質なコンクリートのビルディングが密集していない方へと歩き続け、ようやく落ち着けそうなベンチを見つけました。そこは外野フェンスのない野球グラウンドを含んだ公園の一角で、ときおり犬を連れて散歩する人々が通りかかるほか、人気の少ない場所です。サンドイッチとカフェオレというささやかな朝食をとり、カバンから本を取り出して読みはじめました。頭上はうっすらと灰色の雲が居座り、気まぐれに形を変えて、たまにじりじりとした感触を伴った朝陽が肌を刺します。昨夜降り注いだ雨が蒸されて空気に溶け出し、芝草の青っぽい匂いがフゥ~と鼻をさすります。朝、天井のない公園のベンチに腰掛けて、本を読む。そうしようと思えばいつだってできる、他愛もないことなのですけれど、どこか非日常的で愉快な気分になります。飛行機に乗ってどこか遠くへ旅をしなくても、時間と空間をいつもと少しだけずらしてみるだけで、味わい深い体験ができるものなんですね。いつの間にか練習をはじめた野球少年たちのグラブが奏でる快い音をBGMにして、風に吹かれながらの読書を楽しみました。今日も朝から素晴らしいひとときを過ごすことができて感謝します。ありがとうございました!!【三文日記】久しぶりに自分で味噌汁をこしらえました。キャベツ、じゃがいも、たまねぎ、それに豆腐を煮込んだだけの簡単な調理。でも、これがなかなか美味しくて、一人笑みを浮かべながらいただきました。●今日の天気くもりのち晴れ。●今日の運動ジョギング30分。
2010/06/05
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つい一週間ほど前のこと・・・。目線を合わせるようにしゃがみ込み、ショーケースに並んだ色とりどりのサラダを姪っ子ちゃんといっしょに眺めていました。エビやワカメをマヨネーズで和えた海鮮サラダもいい、太陽をいっぱいに浴びた真っ赤なトマトのイタリアン・サラダも美味しそう・・・。「どれが食べたい?」とショーケースを指さしながら微笑むわたし。「ねえ、子どもが欲しかった?」姪っ子ちゃんから突然発せられたささやかだけれど重みのある質問に、一瞬目を丸くしてしまいました。あどけない小さな顔を見つめ、サラダを眺めるその表情のなかに、投げかけられた質問の真意を探そうとしました。しかし、その奥に書いてあるものを読み取ることはできません。とにかくなにか答えなければ・・・。まぁ、無垢な小学一年生の女の子にそれほど気を遣うこともあるまい。胸に手を当てて、包み隠さず素直に感じることを語ればいいじゃないか。「うん。子どもが好きだから、欲しいなぁ・・・」ショーケースを見つめる姪っ子ちゃんに、そう伝えました。「ふうん・・・」と言ったきり、姪っ子ちゃんはその文脈の続きを求めようとはしません。いったいどうしてそんなことを訊ねようと思ったんだろう?広大な草原にぽっかりと開いた穴のように不可解で、そのことを考えないではいられませんでした。「もしも子どもが出来たら、あたしのことなんて構ってくれないんでしょうね」という牽制の気持ちが働いたんだろうか?それとも、パパやママがわたしたち夫婦のことを話しているのをどこかで聞いていて、そのなかの関心事の一つだった子どものことについて訊いてみたかったんだろうか?唐突にやって来た質問の真意を測りかね、手の届かないところで疼いているかゆみのように、その後もずっと気にかかって仕方ありませんでした。たしかに子どもは欲しいけれど、生み育てるためにはそれ相応の経済力が必要だし、またわたしの場合は毎日服用している薬もありますので、実際にはそう簡単な話ではありません。きっと事実をきちんと説明しようとすれば、そういう込み入った事情を整理して伝えなければならないんですよね。今はまだその必要はないけれど、姪っ子ちゃんがもう少し大きくなって物事の成り立ちをより深く理解したい年頃になったら、オジサンの置かれた状況や心境について順序立ててきちんと話したいと思います。それにしても小学一年生とは言え、気を抜いているとオトナをドキリとさせることを口にします。初めて出会った三歳の頃は、まともに言葉を発することすらできなかったのに・・・。子どもの成長の早さに感激しつつも、これからますます手ごわくなってくるのが目にみえていて困ったなぁ(笑)。人間的な後退を見透かされることのないよう、オジサンもしっかりと自分を磨いておかなければと感じる今日この頃です。今日も健やかに過ごすことができて感謝します。ありがとうございました!!【三文日記】眼の一部を務めてくれているルーペが、日々ハードに使い込んでいるためとうとう壊れてしまいました。革製の取っ手がレンズ部分からひきちぎられ、不安定にぐらついてしまいます。やはり年に一度の割合で新調しなければならないようです。●今日の天気快晴。●今日の運動お休み。
2010/06/04
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一昨日からドリス・レッシングさんの短編小説集「老酋長の国」についてお話しています。本書を手に取ったのは、アフリカという自分にとって未知の大陸の空気を感じ、旅した気分を味わいたかったから。その期待にそぐわず、本書にはドリスさんのいきいきとした描写がそこここに散りばめられていて、その大地に立って眼前の情景を目にしているような感覚を幾度も味わいました。そこで今日は、心に残っている風景についてお話したいと思います。まず、いずれの作品にも、風景の描写のなかで耳慣れない言葉に遭遇することがあります。なかでも頻繁に登場するのが、「溝(ガリー)」。「溝」というと、人工的にコンクリートでこしらえた道路の端っこにあるあれを想像してしまうのですが、きっとそんなものではないのでしょう。そう思って調べてみると、やはりそれは想像だにしていなかったものでした。雨季の激しい雨が軟らかい地面を削って雨水の通り道を作り、さらに豪雨がその通り道を集中的になぞって深くふかくえぐられて出来る豪快な谷間のことだったのです。ちょっと写真をお借りしてきました。ガリー侵食と呼ばれる溝人間の背丈の何倍も深いんですね・・・。自然の有する猛々しさが、アフリカではありありとした姿でもって表れるようです。こんなものを見せられたら、自然の営みとは縁の薄い都市化した社会に生きる我々は、人生が違って見えてくるんじゃないかなぁと感じます。また、溝(ガリー)と並んで頻出する言葉に「草原(ヴェルト)」があります。百聞は一見にしかず、これも写真をお借りしてきたので見てみましょう。草原(ヴェルト)そう、日本ではサファリパークなんかでお目にかかることのできる、だだっ広い大地にまばらな低木の木々が生い茂る原野のことなんですね。アフリカには1キロも先にいる猛獣を見える人がいる、なんて話を聞きますが、きっとこの草原(ヴェルト)に立って遠くのものを目視する訓練をしているからなのでしょう。30センチ手前のパソコンモニタばかり見つめている毎日が、なんだか後ろめたく感じられます。以上のように、本書にはアフリカらしい景色がたくさん登場するわけですが、欲を言えば現地に根づいている習わしというか、その土地ならではの空気みたいなものをもっと感じてみたかったなぁと思います。もしもそういうものを感じたいのなら、本当はどこかの部族のなかで生まれ育った小説家の作品を手に取るのがいいのでしょうけれど、そのような作家は恐らくいないでしょうね。そういう意味では、アフリカ小説はまだまだ食い足りていないという気がします。そのうちまた、別の作家が描くアフリカを舞台にした小説を読んでみようと思います。また一冊、素敵な小説に出会うことができて感謝します。ありがとうございました!!【三文日記】仕事をしているとき、ジョギングしているとき、だいぶ暑く感じられるようになりました。長袖のシャツを着ていると、息苦しくなってきます。明日から半袖のポロシャツで出かけようかな。●今日の天気快晴。●今日の運動ジョギング30分。
2010/06/03
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