NO25 ゆうの 25年間の記録



そして、家族で話し合った結果、ゆうが今 一番したい事!『極真空手』を、させようと 決めました。

(小さい頃から、格闘技が大好きで 中でも極真空手が 大好きだったので・・・(ノ_< ;) )

それまで、一人で何処にも行けなかった ゆうが、バスや電車で無事に通えるの
か? と言う心配はありましたが、今まで 命が大事な為に やりたい事をさせていなかったので・・・とにかく、思い通りにさせました。


T作業所は、ゆうの事を考えて 辞める事にいたしました。


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極真空手の福岡道場に12月1日から、入門しました。

週3回の練習は、夜からだったのですが 雨の日も 雪の日も通い続けました。
(後で、分かった事ですが その時は 躁状態だったのだと思います)


ある程度、頑張ってはいましたが 元々頭に病気のある子なので、一番したかった組み手は、させて頂けませんでした。
(当たり前の事なんだけどね~~~( ゚ー゚)( 。_。)ウン♪)


やりたい事を、出来ないジレンマに 心の病気が また ゆうを苦しめだしました。

道場に行くと・・・痙攣が起きるようになってきました。


その為、しばらくお休みを 頂き 自宅で療養をしていましたが・・・
段々と悪くなるばかり・・・眠れないように 成ってきました。


余りいい状態が 続かないので 精神科の病院を 変えていましたので、そのY先生と相談の上 しばらく 入院を(精神科に)させる様にしていました。


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そして、私も 心のバランスを崩し、精神的に参ってしまっていました・・・

ゆうの事、自分の病気(癌の再発の恐怖)・・・元夫のギャンブルによる 借金・・・生活苦・・・父の死・・・


毎日、朝起きて目が覚めると、生きている事さえが辛く もう何も考えられなくなっていました。


そして、3日間、部屋に引きこもり・・・食事もせず 睡眠薬を何錠も飲んで ずーっと 悲鳴に近い声を上げて 泣いていました。


そんな姿の私を見て、ゆうも 傷付いた事でしょうが、その時の記憶が 今も思い出せません。



ゆうが、私にしてくれた事は、自分が行っている精神科の先生に、私の事を話してくれて、私も受診する事が出来ました。

生まれてからのそれ迄の 人生を淡々と語り 黙って聞いて頂き

「お母さんも きつかったね・・・お薬を出しますから きっと楽になりますからね!」

と・・・精神科の薬を頂 帰って来ました。


診断はうつ病でしたが、心の病気は レントゲンにも映らず・・・手術も出来ない病気であり 自分がそんな病気になるとは 夢にも思っていなかったので、初めは 戸惑いましたが、治療を受けた事で 少しずつ楽になっては行きました。


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それから、6日後の事・・・・


私も、3年前の手術の時から 睡眠薬を飲んでいましたので、次の日が呼吸器科の検診のため、ゆうと一緒に薬を飲んで 休みました・・・


朝方の5時ごろ、母の悲鳴・・・


「ゆうが、ゆうが~~!!」


との、声に飛び起きましたら、台所に立って包丁を手にして 左の腕を24箇所も切って、血だらけに成って ぼーっと、視点の定まらない目をして立っていました。


直ぐに、包丁を取り上げ 傷の具合を確かめ
(余り 切れない包丁だったので良かった・・・)

縫合の必要ありと、判断をし 長男も起きてきて・・・いましたので

直ぐに いつもの外科に連れて行きました。


朝方の事ではあり、当直の新米の先生しか 居られ無くて・・・まず ポラドイドカメラで、傷の写真を撮り・・・縫合が始まりました。


ゆうは、痛みも感じないのか 目の焦点が定まらない状態で・・・


(新米の先生は、用心深いのか、不器用なのか・・・見ていて(`ヘ´)イライライライラ・・・・・私が、します!って 言いたかったのを懸命に堪えていました・・・)


時間ばかりが どんどん経って・・・朝に成り 院長先生が来られました。


院長先生は、何も言われずに新米先生と変わられ・・・・あっと言う間に、縫合を終わられました。


ゆうが、1週間足らずで 精神科に入院が決まっていましたので、他の事は何も言われず、見送って頂きました。



それから、精神科に連れて行き 入院の日まで、再行為を心配して 出来るだけ寝せている事にしました。


夜は、 みんなで交代して ゆうを見守り また 入院の日まで、 家中の刃物は隠して、一瞬も目を離さないで 一日 一日を 過ごしていました。


やっと、待っていた国立医療センターに、入院する日が来ました。


閉鎖型の病棟でしたので、ゆうも 恐怖に脅えていましたが、イメージとは 全く違い とても明るく 開放的な感じさえしました。


その様な 環境だったので、ゆうも 安心して入院させる事が出来ました。


だけど、暫くしたら・・・病院内で、タオルによる自殺未遂を、起こしました。


希死念慮・・・が強く起こり 発作的に自殺未遂に至る・・・

(これは、私がうつ病になった事を ゆうが自分のせいだと 思い悩んでいたので・・・起こした行為だった。)


精神科の先生も、私とは 離れていたほうが良いとの事で、面会に行っても10分だけ会って 後は ロビーで、ずーっと家族が 帰って来るのを待っていました。


その頃の、私も ゆうから 離れていた方が良いとの事で・・・


確かに、その頃の私は そんなゆうを 受けとめられる 状態ではありませんでした。

私自身が、希死念慮に取り付かれた 状態でしたので・・・


以前にも書きましたが、死ぬ事を止めるために はさみで手首を切っていました。



そんな状態の時に・・・元夫が、また ギャンブルで借金をして・・・


今度は、ゆうの貯金も勝手に使い また 長男の名前でも借金をして、とうとう 2度目の離婚を致しました。


子供の為にと また 同居をしていたのですが、本当はもっと早くに 離婚をしていた方が、 子供に親を憎む心を・・・深い傷を負わせずに済んだでしょうに・・・始めて 後悔をして 自分を責め続けていました。



明日へつづく



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