ミッドナイトドリーム

ミッドナイトドリーム

取引所の日々の泡風呂敷―PART2



僕はフロアにあがって来る。
何か何時もと雰囲気が違うような・・・。

僕はいぶかりながら指定席に座り、
マシンのスイッチを入れる。

やはり、妙な雰囲気。

僕は体を捻って、カウンターの方に視線を向ける。
カウンターに一人の男が座ってる。

いやあ、凄いオーラ。
この空気の原因はこいつ。
後姿からだけでも、特別な人間だって分かる。

彼女もそうだけど、公道でF1マシンに出くわした感じ。
フェラーリなんてもんじゃない。

一瞬で僕は気づく。
彼女の昔の男に違いない。

なんともお似合い。

彼女の為に作られた彼。
彼のために作られた彼女。

彼は彼女に何か頼みごとをしてるらしい。
彼女はノーと言わなければならないと感じてるのに
ノーと言えない自分も感じてる。

もう暫くすると、多分、彼女は「いいわ」と呟く。
でも、彼女にそれを言わせちゃいけない。
僕の六感。

彼女一人の力では無理。
誰かが助けないと。

お前だよって?
相手、レベルが違いすぎる。

これから彼女と一緒に生きて行くつもりなら
やらなきゃ話にならない?
うん。

びびって席を立てない僕。
でも、やらなきゃ。

これだけレベルが違うとピエロでしかないけれど
でも、彼女のいない人生なんて要らない。

僕は椅子から立ち上がる。
彼女の驚いた顔。
彼女はまさか僕が立ち上がるなんて思ってもいない。

彼女の視線につられて男が僕に振り向く。
予想通りのいい男。
パーフェクトって奴。

居るよね。世の中には。こんな男。

僕は自分の存在のみっともなさを感じながら、
彼に軽く会釈する。

彼は一瞬で全てを理解する。

そして、僕にではなく、僕の蛮勇に敬意をこめて
軽く会釈を返してよこす。

男が彼女に振り向く。

「ごめんなさい。私、力になれない」
悲しそうな彼女の声。

「うん」
男は気づかない程度にうなずく。

一つ呼吸する間が有って、
男はゆっくりとカウンターから立ち上がる。

去っていく男の背中が、彼女に何かを語ってる。

一瞬が永遠に感じられてる。

終わった。

何かが終わった。
もう二度とやりなおせない。

彼女はぼんやりと立ち尽くしてる。
僕の全く知らない彼女。

二人は似合いすぎてる。
僕はそんな風に感じてる。
だから、二人には、出会いがすでにゴールだった。

美しい彼女。
恋人の前の彼女。

今なら彼女を抱ける。
ふらちな事を僕は感じてる。

目にもとまらぬ速さで、
彼女の乾いた唇が僕の唇に触れた気配。

上手に育てればまともな男に育つかもしれない。
資質は彼女が思っていた以上かもしれない。

彼女がそんな風に思ったのが僕に感じられてる。

-23-

彼女が言う。

「貴方に彼を見せられて良かったわ。
 何時か見せたいって思ってたの」

僕は頷く。

「いい男だね。
 僕なんか、比べ物にならない」

「あら、私、貴方の顔、結構、好きよ」

僕は苦笑する。

彼女の美意識は狂ってる。
彼女にしたら、男を落とすなんて造作も無いこと。
僕は密かに彼女の事を『必殺男ったらし』って呼んでる。

だから、彼女は
美しい男なんかにはすっかり飽きてしまってる。

「彼に貴方を見せられて良かったわ」

僕は又、苦笑する。

でも、僕が彼女に誠実なのは伝わったと思う。
昔の男とジャニスに取ったら
誠実な男が何よりだから。

「でもさ、大丈夫だとは思ってるんだけど・・・」

ほら、来た。

彼女は少し前から、先生の香水の移り香に気づいてる。
でも、わざわざ、切り出すほどの事じゃないと
言えずにいた。

「コットン・クラブのバック歌手」
彼女は首を振る。

「ムーラン・ルージュの衣装係」
彼女は首を振る。

「分からないの。全然イメージが浮かばないの」

「ブレーン理論の物理学の先生」

彼女は一瞬息を呑む。

「それ!
 まさに、ぴったり」

ああ、言わなきゃ良かった。

-24-

彼女が少し深刻そうな顔。

「分からないの。全然、イメージが浮かばない」

僕は答える。

「コットン・クラブのバック歌手」
彼女はマジな表情のまま首を振る。

「ムーラン・ルージュの衣装係」
彼女はマジな表情のまま首を振る。

「ねっ、これ、命かかってるよ。
 昨日もテムズ河で死体が二つ浮いた。
 これでよ。

 ブラッディ・マリーがこんな馬鹿な事をする訳が無い。
 じゃ、誰なの?
 分からない」

彼女は画面の僕の約定を指で叩いてる。

僕が全ての資産で米ドルを買った瞬間、
米ドルは一円上げてる。
そこで僕は売り抜けて
次の瞬間、今度は全ての資産で売りに走ってる。
今度も見事、一円抜いてる。
僕の資産はどかかーーんと増えてる。

ようやく、僕はただ事じゃないなと気づき始めてる。

僕にこんな事が出来たのは、
僕が前もって情報を持っていたからだと、誰でも気づく。

組織が情報を漏らした人間を許すわけが無い。

「これ・・・、これ・・・」
約定を指差して、おろおろの僕。

「大丈夫よ、会社の記録には残ってない。
 私が消した」

僕は安心して、へなっとなる。

「相手が誰であれ、
 貴方の体には指一本触れさせない」

うわっ、頼もしい。
って言うか、何か、地が出てる。

「君の妹」

恐る恐る僕はつぶやく。

「私の妹?
 いないよ、私に妹なんて」

「だって、これ、婚約祝い」

「婚約祝い?誰の?」

「君と僕との」

「訳の分からない事、言ってないの」

「めぐみ」

「めぐみ・・・・・?  
 あの、お馬鹿」

めぐみと言うのはブラッディ・マリーの右腕。

でも、めぐみは彼女をとても慕ってる。
僕には彼女の妹だって、自己紹介した。

いや、この前、
ブラッディ・マリーにチョコレートを返しに行ったとき
ブラッディ・マリーが皆に振り向いて言った。

「あの男ったらしがこの子にたらしこまれてるの。
 ちょっとした見ものよ」

「いや、未だ、そこまでは・・・。
 何時の日か、絶対そうして見せると、
 思ってはいるけど・・・・・」

僕が帰るところをめぐみが追って来た。

「たらしこんじゃって下さい。
 グーの音も出ないほど。

 女なんだって、嫌って程、
 思い知らせて上げてください。

 それまでは我慢です。
 何を言われても、
 何をされてもじっと我慢です。
 姉は気が強いですから。

 でも、絶対、離さないで。
 姉を幸せにして上げて下さい」

随分と似てない姉妹だとは感じた。

しかし彼女のような固体は
突然変異でしか生じようが無く
両親のDNAは彼女には無関係と思われるから
そんなものだろうと、僕は思った。

「お金が欲しいなら、私に言って。
 こんなはした金でみっともない事しないで」

「でも、結婚資金を貯めて・・・、
 将来の生活設計をそれなりに立てて・・・」

「ばくち打ちが、何、健全な夢見てるの?
 私のヒモになればすむ事でしょ?」

「いや、男のプライドと言うか、
 台所にエプロン姿で
 貴方、お帰りなさいとか・・・」

「ヒモになりなさい」

「はい」

「って、未だ、ずーーーーっと先の話よ。
 来るか来ないか分からない未来の話。
 私、これからめぐみを泣かせてくる」

「あっ、何も、暴力は。
 悪気があったんじゃなくて、君と僕の・・・」

「暴力を振るうなんて誰も言ってないよ。
 『なると』の一巻目を読ませるの。

 するとあいつ、必ず泣くの」

-25-

僕の部屋はテラスに下からの階段が続いてて
窓から人が出入り出来る。

今、僕の意識は少しずつ覚醒してる。
そして、一気に現実の世界へ。

昨日、寝る前に人から貰った日本酒を飲んだ。
この所寒くて寝つきが悪いし
今日は買出しに出かけるつもりだからぐっすり寝ようと。

しかし、酒を飲むのは久しぶりで
どうせ飲むのなら、酔わなければ意味ないと。

最後のコップ一杯が余分だった。
安い日本酒に慣れてる僕は
高いお酒は度数が強いのを忘れてた。

もう、こんな時間。
ベッドの上で琴美と香が跳ねてる。
新馬戦を録画して、それを繰り返し見ては跳ねてる。

「起きろー、寝ぼすけ」

こんな騒動の中で寝てられるかって。

「勝ったか?」

「二番人気で、二着」

「いいね」

「次のレースが楽しみ」

琴美の馬はハーモナイザーの息子で
シンセサイザーって言う。

競争馬の名前にシンセサイザーはないだろうって
思ったんだけど、結局、その名前になってた。

ローエングリンもシャラポワも
本当なら受け付けられない名前なんだけど
チエックする人間達も
全ての事を理解してる訳じゃないから。

嵐の去った日曜の午後のベッド。

僕は酒の残ってる体で物憂げに起きだす。

僕はぼんやりと
可愛い、男ったらしの女の子の事を考えてる。

♪ウイル・ユー・スティル・ラヴ・ミー・トゥマロウ

彼女の歌う声が心に聞こえてる。

-26-

「ねっ、昨日、私、男に抱かれたよ」

「うん、知ってる」

「昨日だけじゃないよ、この所、ずっと」

「うん、知ってる」

「相手は誰だと思う?」

「彼」

「どうして怒らないの?」

「君が彼に抱かれたという事は
 僕とやってく決心をしたからさ」

「あんた、それでいいの?」

「どうして?」

「自分の女が、自分から他の男に抱かれてるんだよ。
 私に腹が立たないの?」

「立たない」

「怒りなさいよ。怒って私を叩きなさいよ」

「そんな気分、僕の中には一欠けらも無い」

「なんで?
 私、やだ。
 あんた、何時も優しすぎる。私、やだ」

「優しくなんてないよ。
 僕は君なのさ」

「ねっ、今夜、私を抱いて。生でして」

「いや、どさくさ紛れは止めとこう」

「それじゃないと、私、耐えられない。

 あんた、他の男の子供を
 育てる事になるかも知れないんだよ。
 それで、いいの?」

「子供の父親が誰だろうと、僕には無意味なんだ。
 僕には君の子供。
 僕に意味が有るのは君だけ」

彼女は両手の拳で僕の胸を叩いて泣きじゃくる。

「私、あんたが思ってるような、そんないい女じゃない。
 でも、私の中にも、そんな所はあるの。
 何時もは忘れてるけど、
 でも、それは全部貴方のものだから。

 私がそれを忘れてる時は、思い出させて。
 きっと思い出させて。

 約束して」

「うん、約束する」

-27-

夕方の入り口、世間じゃ、ちょうどサパタイム。
子供たちが道路の上でゲームをしてる。

アスフアルトの舗装だから、釘うちは出来ない。
それで彼らは市販のボードゲームをしてる。

まず、さいころを振って、
自分が選べるカードのランクを決めるらしい。

勝気そうな女の子がさいころを振る。

「やったあ、Aランク」

彼女は裏返しにされてるAランクの札の中から一枚引く。

「うわーっ、ブラッデイ・マリー」

「ええーーっ、ずるーい」

ブラッディ・マリー?

僕はゲームの箱の字を読もうとする。
ゲームの箱には『FXゲーム』と書いてある。

FXゲームならブラッディ・マリーが出てきて当然。
僕は納得する。

次の小さな女の子のおぼつかない手つき。

彼女のさいころはCランクのカードを引き当てる。
眉間に皺を寄せて、不満そうなおちょぼ口。

彼女は人生の不条理を感じてる。
うまくやるのは何時も姉達。
自分にはCランクばかりが回ってくる。

嫌そうにカードを引いた彼女の顔、
一瞬にして笑いがこぼれる。

「やったあー、ミッドナイト・ドリームだ」

「ええーっ、ずるーーい」

えっ、ミッドナイト・ドリーム?

でも、さっきの女の子の笑顔。
ゲームの中の僕と同姓同名のミッドナイト・ドリーム氏は
愛されてるらしい。

「ミッドナイト・ドリームが出たから
 モスコミュールを頂戴」

「ずるいよ、そんなの」

「Aランクでモスコミュール引いて
 ミッドナイト・ドリーが ついて来てもずるくないけど
 ミッドナイト・ドリーム引いて、
 モスコミュールを連れてくの滅茶苦茶、ずるい」

興奮した女の子が手を振った瞬間、
箱にかかっていたハンカチがずれる。

『FXゲーム・・・取引所の日々の泡風呂敷』

えっ・・・・。
嘘。

僕はもう一度、箱に書かれた字を読み直す。
確かにそう書いてある。

「ミッドナイト・ドリームとモスコミュールは
 恋人かい?」

恐る恐る僕は聞く。

「そう、熱々なの」

「ミッドナイト・ドリームは役に立たないけど
 一緒にして置くと、モスコミュールに元気が出るの」

そうか、彼女の通り名はモスコミュールと言うのか?
って、僕は彼女の本名を知らないことに今、気づいた。

「で、何かい、二人はプラトニック・ラブなのかい?」

「えっ、二人は人間で、プラスティックじゃないよ」

「そうじゃなくて・・・」

いや、やめとこ。
僕に抱かれてる彼女なんて、想像もつかないから。

-28-

「私の名前がモスコミュールなの?
 変なの」

「いや、僕も変かなとは思ったんだけど
 後はスクリュー・ドライバーしかないから。

 それだと、君の一面しか表現できない気がして。
 モスコミュール・・・、悪くない。
 慣れればしっくりする」

「はい、はい」
彼女は何時ものやわらかなオーラに包まれてる。

「あいつ、ニューヨークに行っちゃった」
彼女は現在完了形で言う。

「あいつ、考えるのが面倒になると
 すぐニューヨークに行っちゃうの」

彼女は静かにコーヒーを立てて、僕の前に置く。

「生理来なかったら、結婚しましょう」

僕は見事にコーヒーを吹く。

「やなの?」

あわてて喋ろうとして、今度はむせる。

「やなら・・・」

「やじゃない」

「やじゃないの?」

「結婚したい。君と結婚する」

むせながら、僕は言葉を吐き出す。
需要と供給の関係で、彼女には幾らでも替えがあるのに
僕には彼女しかいない。

たとえ、彼女が彼女のナンバー・ワンは僕だと
自覚していても
彼女なら平気でナンバー・ツーと結婚する事位はする。

怖い女。

と、言うか、彼女は僕を鍛えてる。
僕が一人前のロックン・ローラーになれるように。
シンプル・リアル・ストレート。

ああ、結婚、するんだ・・・・。
僕は夢見心地。

アース・エンジエル・・・、
スイート・リトル・エンジエル・・・

BB・キングなんて怖くない。
世界中で、僕の女の子が一番可愛い。

「うれしそうね」

「ああ、息が止まりそうな程」

彼女の柔らかなオーラも幸せそう。
こんな幸せそうな彼女、初めて見る。

「どんな結婚式にする?
 思いっきり派手にやる?」

「いや、二人っきりで・・・」

「うん」

「僕が君に『けっこんしてくれませんか』って聞く」

「うん」

「君は僕の言葉を聞きながらくしゃみを二回する」

「二回ね」

「そして、僕の言葉が終わるか終わらない内に
 君は『はい』って答える」

「うん、分かった。
 練習してみようか?」

「しない!!」

-29-

「兄さん、姉さん、何処?」
目を上げるとめぐみの笑顔にぶつかる。

「君のおかげでひどく怒られた」

「あら、姉さんがついてて、まずい事なんてならないよ。
 私も久しぶりで姉さんにしかられた。

 私、姉さんにしかられるの好き。
 一生懸命怒るから、ああ、愛されてるって感じる。

 その内、兄さんも姉さんに叱られるのが快感になるよ」

「姉さんって言うのやめた方がいいと思うよ」

「あら、どうして?」

「君が勝手にそう決めてるだけだろ?」

「だって、これをちらっと読んだ人が誤解して
 私たち、本当の姉妹かと思うかも知れないじゃない。
 それに、姉さんが腹を立てて
 叱ってくれるかも知れないし」

「ねっ、どうも気になるんだ」

「何が?」

「彼女にしても、君にしても。

 君はブラッディ・マリーの右腕。
 そんなおちゃらけた様子で
 あんな仕事ができる訳がない。

 なんか、一皮も二皮も皮を被ってるような生き方
 納得、出来ない。

 君達に比べたら、ブラッディ・マリーの方が
 余程、素直でストレートな気がする」

「あっ、言っちゃおう。姉さんに言っちゃおう」

「別に構わないよ。否定するだけだから」

「なら、ブラッディ・マリーに言っちゃおう」

てい!!

-30-

フロアーにエレベーターで上がって来て
自分の席に着く前に
僕は各陣営にどんなメンバーが揃ってるか確認する。

平穏に過ぎる日なら、
それで大体の値動きの感じが掴める。
それぞれ個性があるから、美味しかったりする。

フロアーに人間の数は多いけど、大抵は組織に属してる。
あるいは自分達で大きな組織を作ってる。
一匹狼はまずいない。

買いのグループに何時も加わってるのは
ブラッディ・マリー、太っちょのサム
銀行つぶしのマディとか。

一方、売りのグループの中心は
アイスマンとか、キンキン声のトムとか
マンノウオーとか。

ほかの人間達はその時、その時で、
どちらかの陣営に加わる。

僕は指定席に座ると自分のマシンのスイッチを入れる。
机の上にコーヒーが運ばれてきてケーキが置かれる。

今日の値動きは膠着する。
僕はそんな風に感じてる。

えーと、買いのグループに
ジャックナイフのビルはいたっけ?
ああ、いた。

およそブロンドらしからぬビルのブロンドの髪を
僕は思い出す。
なら、美味しい場面が何度かあるかも。

「えーと、このコーヒーは
 何時もお客様にお出ししてる・・」

僕の横でいきなり声がする。
なんだ、こいつ?
何時も客に出すコーヒーを入れてるマスターらしい。

何で今日に限って?

僕は微笑みながら画面を指差して
今はそんな話に付き合ってられる時じゃないと
婉曲に伝える。

お辞儀をしてマスターは去る。

「えーと、このケーキは
 多分、アン嬢やがお好みになられて、ドロシー様には
 二番目に素敵と感じられるだろうと・・・」

又だ。
こいつは被り物から判断するに、ケーキ職人だ。

僕は微笑みながら画面を指差して
今はそんな話に付き合ってられる時じゃないと
婉曲に伝える。

お辞儀をしてケイキ職人は去る。

「おうおう、何時の世にも風見鶏たち」

いつの間にか僕の横にバイトのプッツン恭子がいる。

「私はこうなって、本当に良かったと思ってます。
 もっと早く貴方がしっかりすべきだったんです」

僕は微笑みながら画面を指差して
今はそんな話に付き合ってられる時じゃないと
婉曲に伝える。

「幾ら負けた所で、猫なで声一つで、
 損の何倍も補充できるんだから、
 そんなのは博打じゃありません。

 男らしくもありません。
 そんな男、私は好きではありません。

 でも、今回は例外として、
 一応、婚約おめでとうと述べておきます」

彼女だ。

きっと、初々しい、可憐な花嫁の役を楽しんでる。
まっ、一生の内でそう何度も楽しめる役でもないから。

値動きは案の定、こう着状態。
ジャックナイフのビルが焦れて、何度か跳ねた。
僕は頭を叩いて、軽くし止めた。

その内、フロアの雰囲気が変わる。
フロアが人であふれてる。

戦争だ。

買い側が仕掛けた。
売り側が慌てて召集をかけてる。
あちこちで、一斉に電話が鳴ってる。

戦争には付き合えない。
僕はマウスを離して席を離れる。

僕の天使は何処?
僕は彼女の甘い微笑を探す。

僕の天使は今日は天使を休業してる。
とても声なんかかけられそうにない。

『フロアのミュール』は唇を硬く結んで
フロアの様子を眺めてる。

「行くよ」
彼女は側近に声をかけると、中の部屋に消える。

中の部屋には何があるんだろう?
きっと、大きなダブルベッドと怪しげな照明と・・。
はは、なっ訳、有ったら笑う。

-31-

僕は気分転換に喫煙所に入る。

喫煙所も幾つかあるから、それぞれに雰囲気は違う筈。
何処がとんな雰囲気かなんて僕は知らない。
余程、場違いなら出てくればいい。

ドアを開けて中に入ると、豪華で静かな空間。

部屋の中央に並んだテーブル席に老人が一人座って
葉巻を吹かしてる。
なんともいい匂い。

彼の連れは?

あっ、いたいた。
黄色のコルベットみたいな女の子が太もも露に
カウンターにはすに構えて座ってる。

ほかに客はいない。

僕は入り口に近いテーブルに座ると目の前のケースから
葉巻を一本手に取る。
全く似合わないけど仕方ない。
まさかここでハイライトは吸えない。

でも、葉巻ってどう吸うんだ?
僕はしばらく両端を眺めてる。

老人が僕を手招きしてる。
風格からしてかなりの大物臭い。
僕としたらお近づきになりたくないんだけど。

何故かって?
それでなくても、最近、僕は
自分の実力より随分高い所にランクされちゃってる。

僕はブラッディ・マリーとさえ、面識が有る。
それって、とんでもない事。

考えてもみてくれ。
誰がブラッディ・マリーのお友達に
ちょっかい出そうと思う?

あの屈強なボディガードたちでさえ、
僕には手を出さない。

それ所か、ピンチに陥ってる僕に出くわしたら
助けてくれるだろう。
そうすれば、ブラッディ・マリーに貸しが出来る。

「そんな安物、吸うもんじゃない。
 これを吸いなさい」

老人はとても、とても高そうな奴を
僕の目の前に一本差し出す。

僕はちょっと、うろたえてる。
ますます、僕には似合わない。
老人は吸い口を切って、僕に手渡す。

僕はぎこちなく葉巻に火を付け、煙を吸い込む。
やばい。
なんとも言えないおいしさ。
多分、麻薬が入ってる。
体が蕩けていく感覚。

「長生きはするもんだね。
 ブラッディ・マリーに
 バレンタインのチョコを返してる男を初めて見たよ。
 他の男たちはあの子の靴にさえキスするって言うのに」

僕はなんて答えていいか分からない。

「で、どうなんだい?
 あの子の股はもう開かせたかい?」

僕は驚いて目を丸くする。

「はは、流石に難儀してるらしいね。
 あの子に股を開かせるのは至難の業。
 モスコミュールなら簡単なんだけどね」

いや、難儀してる男がここに一人。

「彼女をご存知で?」

「うん。ご存知なんてもんじゃない。
 すっかり、存じ上げてる。

 あの子の花を散らしたのはこの、わし」

おい、おい、おい、おい。

「彼女、幾つでした?」

「15」

「15?」

「意外かい?
 わしに会うまで、あの子はあんな風じゃなかった。
 ただ、体が大きいだけの、ぼんやりとした子だった。

 今のあの子を作ったのは、このわし。
 わしと、あの子の体を通り抜けていった男達」

「その辺の話、詳しく聞かせて戴けませんか?」

「いいとも、
 今じゃわしの話を喜んで聞きたいなんて人間に
 滅多に、お目に掛かれないからね」

「最初の時、彼女、どんなパンツ履いてました?」

-32-

僕のテーブルの横で上機嫌の彼女。
今日の服も素敵。
流石って感じ。
彼女はなにを着ても似合う。

なぜかって?
服の下が上等だから。

僕は未だ彼女の名前を知らない。
流石にそれはおかしいんじゃないかって感じてる。
これから結婚しようって言うのに。

どうせ結婚届の彼女の欄は彼女が書くんだから
別に支障はないんだけど。

「ねえ、君の名前はなんて言うの?」

「その質問には答えられないわ」

「秘密なの?」

「ううん、そんな事、無い」

「じゃ、どうして答えられないの?」

「貴方が未だ考えてないから」

うっ、僕は言葉に詰まる。

「言葉に詰まるよじゃ、恋も終りね」

「勝手に終わらせるなよ」

「まさか本名は書けないから、
 イメージに合うような名前を探すんだけど
 いいのが見つかっても、
 すぐに現実にその名前の子が居たのを思い出して
 一度思い出してしまった以上
 その名前はその子のイメージを喚起させるから
 もう、その名前をつける訳にはいかなくなって、
 そんなこんなで苦労して
 とりあえずモスコミュールなんて
 苦しい名前をつけて・・・」

「全てお見通しって訳?」

「あら、貴方は私なんでしょ?
 なら、私は貴方」

「まっ、その内、なんとかなるでしょ」

「初夜までには間に合わせてね。ダーリン」

初夜と言えば・・・

「ミッキーマウスのバックプリントのパンツが
 世に存在するだろうという事は容易に想像がつく。

 なら、熊のぷーさんはどうだろう?
 有りそうだけど、必ず有るとは断言出来ない」

「あら、私。それ、持ってた気がする」

「熊のぷーさんのかい?」

「うん」

「ミツバチに周りを囲まれながら
 蜂の巣を食べてる奴だよ」

「ええ、そう」

「可愛い花柄のブラ、水色かなんかの。
 それが世に存在するだろうと言う事は想像に難くない。

 でも、ペパミント・パティにきつくハグされて
 目を回してる スヌーピーの絵柄のブラなんて、
 果たして存在するだろうか?」

「あら、それ、持ってた・・・」

「プリティ・ベイビーの中で
 あの女の子が着てたスリップ。

 実はあれ、特注品なんだ。
 この世に三枚しかない」

「・・・・やめて。
 恥ずかしい。
 他の男なら、フンで済むけど、
 貴方だと恥ずかしくてたまらない」

おお、彼女、本気で恥らってる。
この際、一気に攻めて・・・・。
僕は身を乗り出す。

「ねっ、私たちの結婚の条件、覚えてる?」

「うん、生理が来なかったら、結婚しましょう。
 えっ?
 生理が来たら、えっ、なしなの?」

「そうでしょ?普通」

「それはないよ。頼むから」

「子供、生まれて来て欲しい?」

「うん、絶対、生まれて来て欲しい」

「何がなんでも、生まれて来て欲しい?」

「うん、そうじゃないと、生きていけない」

「子供が生まれてきたら感謝しないとね。
 お前のお陰でお母さんと結婚できたんだよ、って」

「感謝する」

「何時も感謝する?」

「する、する」

「二人の可愛いベイビー」

「うん、うん、うん、うん」

-33-

値段はせめぎあいの末のこう着状態。
延々とそれが続いてる。
流石に、皆、焦れ始めてる。

かと言って、余程の馬鹿じゃない限り
簡単には動けない。

でも、どんな世界にも馬鹿は居る。
この世界じゃ、そいつの名は
ジャックナイフのビルと言う。

トーンと値段が跳ねた。
すかさず僕は頭を叩く。
ストーンと値段は下がる。

「上手ね」
彼女のやさしい手が僕の頭をなでる。

「今よ、買って」

慌てて僕は買いをクリックする。
値段はぐぐぐっと競りあがる。

「ねっ、ビルの頭を叩くだけじゃだめ。
 あいつは突撃隊なの。
 言ってみれば買い屋のラッパ手。
 皆、状況が許せば、
 彼の心意気に応えたいって感じてる。
 それが人情。
 分かった?」

「うん」僕は頷く。

頭を撫でてる彼女の手が心地いい。

ビルが跳ねたのを合図とするかのように
値段はそのまま上がり続けてる。

彼女はさっき花びらが風に漂うように
ひらひらと中の部屋に消えた。

値段は相変わらず上がり続けてる。
上がるのは一向に構わないんだけど
売りをかけても利益が出るシーンがない。

強力な上げが入ってる。
多分、ブラッド・マリーは絶好調。

「誰が好調なんだって?」

驚いて顔を上げると、なんと、ブラッディ・マリー。
えっ、この展開で、彼女はここで何してる?

「婚約、おめでとうって言いに来たのさ。
 絶対に離しなさんな。
 何があっても。殴られても、蹴られても。
 例え刺されて死んだっていいでしょ?
 好きな女の為なら」

「そのつもりは、そのつもりなんだけど・・・」

しかし、めぐみといいブラッディ・マリーといい、
彼女を愛すのは余程、危険な行為らしい。

「自由を。しからずんば死を」

ブラッディ・マリーは軽口を叩いてるんだけど
その存在感が僕を威圧してる。
剥き身のナイフのよう・・・・。

で、僕は気づいた。
めぐみのあの、おちゃらけた様子・・・。
彼女の春の光のようなオーラの存在理由。
剥き身のナイフか。

僕はブラッディ・マリーに画面を指して
この展開でどうして彼女がここにいるのか
不思議だと問いかける。

「もう、あたし達はとっくに抜けてる。
 モスコミュールが何をしようとしてるか、
 気づいたから。

 最近、西部地区にのして来た奴等がいるんだけど、
 こいつ等、ちょっと性質悪くてね。

 でも、後10分で、彼らは終焉を迎える。
 値段はここまで上がる。そしてここから一気に下がる。
 ストーンと下がって、ここまでは値段がつかない」

ブラッディ・マリーの細い指が
チャートを指しながら説明してる。

僕は少しきょとんとしてる。

「分かりやすく言うなら、
 私たちが大量の買い注文を出したとする。
 あの子がそれを受ける。
 それを受けたからって、
 あの子が実際に買わなければならない義務は無い。

 あの子が他の買い注文もストップさせたとしたら、
 値段はどうなる?

 当然、下がる。

 慌てて、損切りするやつ等も居る。
 なら、あの子は何もしないで、莫大な利益を手にする。

 損切りしなくても同じ事。
 安い値段で買えばその差額が利益になる。
 分かりやすく言うならね」

「彼女と結婚したら、
 僕もそんな事しなくちゃいけないんだろうか?」

「ううん、貴方の仕事は可愛い赤ちゃんのお守り。
 安心した?真夜中の小鳥ちゃん」

-34-

白く長い壁が日の光に輝いてる。

遠くから見れば
僕は白い壁の中に立てかけられた一本の細い棒。
デニムのジーンズ、髪には赤いバンダナ。 

通りの遥か向こうに
壊れたジーゼルエンジンが捨てられてる。

そのずっとこちら側の道路で、琴美が落書きをしてる。
それでも僕からはかなりの距離。

じゃ、今日の壁には棒が一本かって?
ううん。
実はもう一本。
プッツン恭子が壁に張り付いてる。

彼女としては気づかれないように尾行したいんだけど
なんせ長い壁で身を隠す場所が無い。

僕が歩き出すと恭子は僕の後から歩き始める。

僕が止まると恭子も止まる。

僕が恭子のほうに歩き始めると、
恭子は慌てて今来た方に歩き始める。

琴美が落書きを完成させるのを待ちながら
僕は恭子を自在に動かして遊んでる。

僕はゆっくり歩きながら、次第に、恭子から逃げ始める。
そして、少し小走りになろうとする。

僕の様子に恭子が慌ててるのが分かる。

僕を見失ったりしたら、彼女に怒られる。
怒られる事より、
彼女に役立たずと思われるのが恭子はつらい。

走って逃げると見せかけて、
(つられて走り出した恭子)、
僕は反転する。

「ギャーッ」と言う恭子の悲鳴。

何時来たのか、先生が恭子をハグしてる。
恭子はパニくって、もがいてる。

「捕まえました、ドリームさん」

僕は笑いをこらえながら、シリアスな声で先生に叫ぶ。
「そのまま、絶対、逃がさないで」

取引所に戻る道すがら
恭子の顔は未だ引きつってる。

「だから、素人が踏み込めるような場所じゃないって
 言っただろう?

 今日は二人だけで、未だ、いい方。
 あそこにはあんなのがごろごろ居る。

 それにしても、お前、香水臭いよ。
 もっと離れて歩けよ」

彼女がこの匂いを嗅いだら、どんな顔をするだろう?
しかし、恭子がちゃんと役目を果たしてた事は
証明できる。

-35-

僕は彼女の名前を考えてる。

ロって言う名前はいいと思うんだけどその名前は後ろに、
ロリー、ロリータ、ドロレスを引きずってる。

ロリーは安いロック歌手みたいだし
ロリータは幼児性愛を連想させるし
ドロレスと来たら悲しみだ。

僕の心にさっきからモーと言う名がちらちら浮かんでる。

この名前、どこかで聞いた覚えがある。
でも誰だったかどうしても思い出せない。

モー・・・、まるで牛さんみたいだ。
似合わなくは無い。
もう少しシャープな感じが出せれば。

ああ、やっと僕はその名前の持ち主を思い出す。
リトル・モーだ。

モスコミュールから、ミューっていいと思うんだけど
これだと彼女が持って生まれた母性の大きさが
表現できてない。

うーん。

よし、コーデリアだ。
たしかコーデリアと呼ばれたがってた女の子が
何処かに居た。

コーデリア?
本当に?

悪くない。とてもいい。しかし、やはり奇抜かも。

あの子はなんて名前だったっけ?
トルーマン・カポーティの小説に出てくる
オードリー・ヘップバーンに似ている子。

オードリー・ヘップバーンだって?
なんて名前。
小説家なら絶対考え付かない。

「名前、決まった?」

「うーーーーん」

「生みの苦しみね。
 私、生理も軽いし、つわりも軽いし、
 多分、生みの苦しみも軽いと思う」

「軽いと思う?」

「うん、流産しちゃったの」

「あいつの子かい?」

「うん。
 それでふんぎったの。
 本当はその時、ふんぎってるんだけど、
 結果が出るまでに時間がかかってるの」

「幾らでも時間をかければいいさ」

「何時も優しいのね」

「君を相手にしたら、
 世界中の男がライバルだってのは分かってる。

 一つの事にこだわってたら足元をすくわれる。
 僕はもっと、もっと成長しないと」

「頑張ってね」

「うん」

-36-

夕方の入り口、世間じゃちょうどサパタイム。
取引所に続く道路の角、
子供たちが遊び疲れて話し込んでる。

「世界の三大美人って言ったら、誰?」
「モスコミュールでしょ?ブラッディ・マリーでしょ?
 えーーと、・・・」

「えーと、ブラッディ・マリーに、
 モスコミュールに・・・、えーーと・・・・」

何回やっても、三人目が出てこない。
子供たちは何とか思い出そうと懸命。

僕は見かねて声をかける。

「スクリュー・ドライバー」

子供たちは一斉に僕の方を見る。

「それも取引所の人?」

「さあてね。わからんね。わしには」

僕は赤毛のアンのマシュウの真似をしてるんだけど
流石に、こんな小さな子達じゃ通じない。

「ねえ、マシュウ、知らないのにどうしてその
 船と運転手が三番目に入るの」

おっ、通じた。

キラキラした目に僕は出くわしてる。
如何にも頭の良さそうな女の子。
この手の人間は最早、この国では絶滅種。

「適当な説明が欲しい?
 それとも、本当の説明を聞きたい?」

「本当の奴」

僕は言葉を尽くして、物理学の元素記号の説明をする。

何とか分かってもらえた。
今は未だ発見されてなくても、
それがそこに有るのは分かってる。

ついでに僕は言語調査の話を付け加える。

「アンヌ・ビアゼムスキーと言う有名な言語学者が居る。
 言語学者ってのは言葉を研究する人たち。

 ビアゼムスキーは助手のマレーネ・デートリッヒに
 トロイ人たちの言葉の調査をさせる。

 デートリッヒはトロイまで出かけて、
 色んな人にあって言葉の表を作る。

 で、デートリッヒが作った表を一目見るなり、
 ビアゼムスキーは言った。

 ここと、ここが違ってる。
 もう一度、調べなおしなさい。

 ビアゼムスキーはトロイの言葉を聞いたことすらない。
 でも、表を見れば、間違いは分かる。
 それが学問って奴」

「うわーっ。凄い。
 私、大きくなったら、
 アンヌ・ビアゼムスキーになりたい」

「どうせなら、パラス・アテーネーになった方がいいよ」

「その人、凄い?」

「うん、ブラッディ・マリーより凄い」

「うわーーっ!!最高」

-37-

メッセンジャー・ボーイが彼女に何か耳打ちしてる。
彼女は僕を目で示す。

メッセンジャー・ボーイは僕の席に歩み寄ると
身をかがめて小声で話す。

「会長が六号喫煙室に来るようにと」

「会長?」

誰?

僕は彼女に聞こうと彼女の方を見る。
彼女が真っ赤になってる。
それで僕は会長なる人物が誰か分かる。

メッセンジャー・ボーイは僕から去ってく。
彼女が彼を呼び止める。

嬉しそうに戻ってくる彼。
彼女はメッセンジャー・ボーイに20ドル札を渡す。

「メルシイ・マドモアゼル」

僕は彼女にお金を返そうとポケットをまさぐるんだけど
一万ちょっとしか持ち合わせてない。

彼女が僕を手招きする。

「これ、持ってて。
 私がみっともないから」

僕は彼女から受け取った20ドル札の束を
ポケットにねじ込む。

仕事をしてる振りなんかしながら
彼女は何とか恥じらいを隠そうとしてる。

「コーヒー下さい」

僕はカウンターの椅子に座ると、彼女に言う。

「早く行った方がいいと思うわ」

彼女は目を上げない。
僕は微笑みながら、彼女の表情を楽しんでる。

「きっと貴方は私に全部、話させる」

「うん」

「何から何まで、その時の全て」

「その時の事だけじゃないよ。
 君が抱かれた全ての時を、僕は知るつもり」

「まあ、あんたって人は!」
彼女の大きな目が呆れてる。

「今の内から思い出しといた方がいいよ。
 じゃないと、
 君はとても恥ずかしい思いをすることになる」

「もう!あんたって人、信じられない」
あきれ返って僕を見つめる彼女は唇をかんでる。

僕はフロアをうろつきながら
喫煙所の並ぶコーナーにたどり着く。

六号喫煙室。
あっ、分かった。
その前にだけ、ボディ・ガードが二人いる。

ボディ・ガードたちは僕に気づかない振り。
僕も彼らに気づかない振りでドアを開ける。

テーブル席にブラッディ・マリー。
会長の姿は無い。

ブラッディ・マリーが僕を手招きする。

「爺さんに呼ばれたの?」

「うん」

「何をたくらんでるのかしらね」

僕は分からないとちょっと肩をすくめる。
ブラッディ・マリーが面白そうに僕を見てる。
僕はぜひ彼女に言わなければならない事を思い出す。

「僕も世間の馬鹿の例に漏れず、
 ヴィーナスが最高だと思ってた。
 理想の女だと信じ込んでた。

 パラス・アテーネーを知るまでは。

 でも、パラス・アテーネーを知ってしまうと
 ヴィーナスなんて、何処か嘘臭くて、
 胡散臭くて・・・。

 で、僕は心に決めてた。
 僕の恋人はパラス・アテーネーにするんだと。

 でも、現実は・・・」

ブラッディ・マリーは心地良さそうに笑い出す。

「それが、まさに、現実って奴」

愉快そうにブラッディ・マリーは笑い続けてる。
僕は少し、しゅんとしてる。

「あんた、いいセンスしてる」

ブラッディ・マリーが笑いながら言ったけど、
素直に褒め言葉として受け取っていいんだろうか?

「あたしは爺さんの娘。
 戸籍上はね。
 あの子も爺さんの娘。
 戸籍上はね。

 それってどういう事かと言うと、
 私たちにはそれぞれ、
 この世の富の四分の一ずつが約束されてるって事。

 あんたにはそんな物、
 あの子について来る付録に過ぎないだろうけどね」

-38-

「多分、爺さん、どこかで引っかかってる」

そう言い残すと、
ブラッディ・マリーはすらりと去ってく。

僕は暫く待ったけど、
結局、爺さんは来ない。

カウンターに戻った僕は彼女の前に座って微笑んでる。

爺さんから何か聞き出したに違いない。
そう思ってる彼女は僕の視線が恥ずかしくてたまらない。

僕は何も言わずに微笑んでる。
彼女は恥ずかしくてたまらない。

「ふーん」
僕は時々、気持ち良さそうににやつく。

「やめなさいね」
彼女の命令口調も恥らってる。

僕は、それなりに彼女を御せるかも、とか、考えてる。
いや、何か僕にも手がないと、この女の子は扱いかねる。
今でも僕は不思議。
彼女が僕の物らしいって事が。

彼女は全てを持ってる。
僕は見事に何も持ってない。

ただ、僕は世界中の誰よりも彼女を好きだって
確信できる。

僕の取り得はそれだけ。
だから、もし、僕の彼女を見る目が曇ったら
その時、僕は捨てられる。

でも、悪くない。
そんな恋。
自分から恋を潰しちまう奴なんて幾らでもいる。

「そろそろ、働いたらどう?」

彼女は恥ずかしくてたまらない。
まともに僕の相手をしない。

「君、ガーターしてる?」

「えっ?」

「いや、働く練習をしとかないと。
 僕も男になるんだから。

 君のスカートを捲り上げてガーターから札を抜き取る。
 ほうら、ここに。
 そして、ブラジャーの脇からも。
 ほうら、ここにも」

「あっ、それ、いいかも。
 私、ちょっと、憧れてたかも」

「他の男がそんな事をしたら、君は絶対、許さない。
 でも、僕なら、君は許す。
 僕にはそれが分かってる」

「ええ、そうね」

彼女は思いもしなかった僕の指摘に、
微笑みながら同意する。

彼女の同意に僕は気をよくして席を立つ。
僕の後ろ、彼女が小声でつぶやく。

「女ったらし・・・」

その言葉ほど、僕に似合わない物はない。
僕は何時だって真剣。
僕は彼女以外の女の子を好きになった事すらない。
僕は猛烈に抗議する。

彼女は僕の説得にしぶしぶ同意する。
良かった。

席に帰って、僕は画面の値動きを見つめてる。
彼女のスカートが僕の脇を通る。

僕は彼女の視線を捕らえようとする。
彼女は僕の動きを無視する。
傷つく僕。

彼女の後姿を追う僕の視線が彼女の小さな声を捕らえる。
「女ったらし・・・」

-39-

僕はエレベーターから降りる。
フロアの匂い。
それは何時しか生活の匂い。

フロアを横切り、僕は僕の生存領域へ。

改めて眺めれば、豪華なカウンター。
それにも何時しか慣れてる。

改めて眺めれば、飛び切り素敵な女の子。
こんな女の子がこの世に存在している事、自体、奇跡。
それにも少しは慣れたかも。

春の光のようなオーラ。
摩訶不思議な現象。
このオーラだけは眺める度に見事だと思う。

僕はカウンターに近寄り、嬉しそうに言う。
「ねっ、君の名前、決まった」

柔らかな春の微風は一瞬、僕を吹いて
やがて見知らぬ冷たさに僕は出くわす。

「あっ、そう?
 ポチでもタマでも、好きにすれば?」

彼女はクール。
彼女に冷たくされると、僕はたちまち、身も世もない。

彼女はおろおろしてる僕の胸元に
黄色のカードを突きつける。

そのカードには大きく、悔しそうに、
三日間と書かれてる。
多分、ペナルティー。

「三日間は長い・・・」
僕は弱々しく抗議する。

「長くない」
僕の抗議は一瞬で却下される。

「原因は?」

「鈍感」

鈍感が原因じゃなくて、僕が原因が分からないのが鈍感。
僕がもう少し楽天家なら、
僕は簡単にその原因に気づけたんだけど・・・。

女の子に取って恋をするって、いいばかりじゃない。
魂をごっそり持っていかれる事でもある。
勿論、鈍感な僕はそんな高尚な事にまで、
考えは及ばない。

何が理由か知らないけれど、三日間は長い、
何とか二日にならないだろうか・・・。
僕の考えてるのはその事だけ。

さっきから、僕はずっと、チャンスをうかがってる。
僕の気配は軽く悟られてる。

「だめよ。二日にはなりません」
う・・・・・。

♪ヘルプ・ア・プアー。
♪ベービー・ウオンチュウ・ヘルプ・ポー・ミー
♪君に心はないのかい?

僕は指定席でしょんぼりしてる。
値動きも可哀想な僕を見かねてしょんぼりしてる。

♪君がうまく行ってないと、僕も無性に悲しいのさ。

彼女はフロアで花と咲いてる。
恋するために生まれてきた女の子。
彼女の周りには
ミツバチの甘い羽音がひっきりなしにハミングしてる。

春の甘さ。
恋のときめき。

♪シュガー・ハニハニ。
♪シーズ・ユァ・キャンディ・ガール

彼女には相手にして貰えないし
値動きにも相手にしてもらえない。
見捨てられた僕は、
なじみのダチと白い壁に寄りかかるしかない。
メランコリーな心は白い壁に、さぞ似合うだろうさ。

僕が席を立つと、彼女が近寄ってくる。

「謹慎中は外出禁止」

はい、はい。
君はクイーン。僕はスレイヴ。

僕はすごすごと指定席に戻る。

「ねっ、謹慎三日の後にはご褒美があるよ。
 だから三日なの。
 絶対、二日にはなりません」

ご褒美って、なんだろう?

分かった。
きっとバレンタインのチョコレートだ。


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