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写真;散歩の小径(by fujiko) 春を待つミモザ。 もう花芽が膨らんでいる。封印された『電車男』安藤健二著(大田出版)昨年、インターネット2chの掲示板で進行した、もてないオタク男の純愛物語が「電車男」というタイトルで単行本となり、話題となった。作品は3つの漫画雑誌で漫画化され、6月にはテレビドラマ化され、更に映画まで公開されたのである。「ネット発の純愛物語る」が売り物のこの単行本、電車男。電車男を支援するネットのギャラリーと交わした掲示板の文言がそのままストリーの展開になっている。『電車男』の核心は、見ず知らずの他人がネットを通じて、ひとりの男を応援するという「擬似共同体」の友情や信頼を描くことにある。ネットの若者たちが多用している絵文字文を用いて描いている。現代の若者たちが実生活の中で否定している、人が助け合い生きていく人間関係や男女の純愛を「掲示板」のやりとりを通じて描くことで、リアリティーを持たせようとしている。しかし、本当に今の若者たちの生きている姿、友情や愛の日常を描いているか。その愛の成功を描いているか。安藤健二著;《封印された『電車男』》は、単行本「電車男」のできる経緯を2chの掲示板に投稿された膨大な記事を分析することで、単行本「電車男」の意味を世に問うている。安藤健二氏によれば、2chとは日本最大の掲示板のグループで数十個の掲示板の集合体からなり、それぞれ異なるURLを持っているという。電車男が報告していたのは、その掲示板群ではマイナーな「独身男性@2ch掲示板」だ。2chの掲示板はさらにテーマ別に数百ものスレッドに分かれているという。「独身男性版」であれば、「もうすぐバレンタインでー雑談」、「ダウンタウンととんねるずの全盛期の人気」「スノーボードに行った毒男(独身男性のことを指す)」と言った具合で、それぞれのスレッドを参加者が勝手に立てて、他の住人と意見を戦わせるのだという。「電車男」の報告の舞台となったのは「毒男がうしろから撃たれるスレ」というスレッド群から生まれたものだという。「うしろから撃たれるスレ」の母体となっているのは、「カプール板のレスをコピペして欝になるスレ」という別のスレッド群で、これは、「女性にもてない独身男性が、あえてカップル向けの掲示板でのラブラブな投稿を転載して欝に浸る」という自虐的なものである。しかも「電車男」が報告したスレッドへの投稿数は、全部で29862であり、単行本「電車男」に収録されたのは、何とその6.4%の1919であるという。電車男そのものが実在したかどうかは定かでないが、投稿者はすべて実在である。単行本「電車男」があたかもネットが発信した「純愛物語」「オタクな若者を世の中に皆の力で押し出した誠実で気弱な支援者たちの物語」と描くことで、2chの掲示板に世間の注目を集めようと故意に組み立てたストリーはないか。投稿者の記事も「電車男の」ストリー展開に都合のよいものだけをピックアップしている。「電車男」のストリーを人畜無害な浅い「純愛」物に仕上げることで大衆を獲得している。2chに世間の目を向けさせようとしている。パソコンに弱い世の親に安心感を持たせようとしている。単行本「電車男」に収録されなかった95%の投稿者の記事の中に、今の若者たちのおかれている姿があり、その若者の群れこそ、親や社会が知るべき姿ではないのか。2ch掲示板が若者たちにどんな存在で、どんな影響をあたえているか。私はこの記事を書くにあたり「独身男性@2ch掲示板」にも足を運んでみた。夜通し2chの掲示場とむきあっている若者も私の身近にいる。そして、その子供たちがどんな問題を抱えているかも知っている。親たちも一度2chの若者がよく行く掲示板を覗いて見たらどうでしょう。今の時代は、掲示板が庶民の胸をすかっとさせる諧謔や風刺あふれるものでなくなっている。病的に社会の暗部にもぐりこんでいる。若者がその中にいる。
2006.01.30
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写真:散歩の小径(by fujiko)今朝は厳寒のこの冬に珍しく、穏やかで暖かな日和。雲ひとつない青い空に蝋梅がふくらんで、香りかぐわしい。1月27日はマイブログ「日々草」の誕生日である。満1歳となった。この1年間、書くことが次々と溢れ、書いた記事は165に達した。更にダンホセさんの素晴らしい写真が、視覚的なメデァであるインターネットの特性を、十二分に発揮させ、「日々草」に変化と広がりを与えてくれました。又、まほろばさんの「明日香便り」は、中学生の教科書レベルの私の知識を、生き生きとした知識として蘇らせ、古代に生きた人々へと思いをはせる機会を与えてくれました。古代のロマンをただ単なる懐古趣味や名所案内に終らせないで、現代人に通じる何かを感じることが出来るような切り口の記事を心がけてきましたが、その私の思いはまだまだ未熟、勉強不足と痛感しています。このご両人のお力をお借りして満1歳を迎えたことに感謝したい。時代は予想もしなかったスビードで変化しています。インターネットの発展が人間の暮らし、とくに労働の形態や社会のありさまを人類が今まで経験したことのないものに変えようとしています。18世紀後半から約1世紀にわたり、イギリスに始まった産業革命は、人々の生活に大転換をもたらした。技術革新とそれにともなう社会組織の変革は、それまでの人々の暮らし方を壊滅的にした。その延長上に現代の資本主義社会があり、しかも現代はその産業革命に匹敵する技術革新の時代。第二次産業革命の時代と言っていい。私たちは、今までの暮らし振りや、生き方を根本のところで根こそぎに破壊するような大革命の時代に生きているのではないでしょうか。そんな時代の転換点に生きていることに、とても私は感激している。感動している。時代の生きた証人として、この時代をどのように見、どう生きたらいいのか、模索を続ける暮らしは興味深く、楽しいことである。更に又1年、そんな時代を映し出せる記事を書き続けことができればと思っている。この婆さん、こうやって齢を又ひとつ重ねていく。これからもどうぞ宜しく。
2006.01.29
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万葉の里、明日香だより(7)まほろばさんから、新春万葉歌留多大会のお便りが届きましたので紹介します。奈良県立万葉文化館では毎年「新春万葉歌留多大会」を行っている。今回は5回目である。(写真右:万葉文化館)この歌留多大会は、万葉文化館が所蔵する万葉創作日本画(現代日本画家154人の作品)の中から厳選した50枚の館独自の札で競われる。たとえば、人気札の一つでもある、額田王の歌あかねさす 紫野行き 標野(しめの)行き 野守は見ずや 君が袖ふる にきたつに(熟田津) 船乗りせむと 月待てば 潮もかないぬ 今は漕ぎ出でな (額田王) あをによし 奈良の都は 咲く花の にほふがごとく 今盛りなり (小野老)采女の 袖吹きへす 明日香風 都を遠み いたづらに吹く (志貴皇子)などが人気札です。小学生などのちびっ子も多数参加し、とても盛況でした。まほろばさんは、その審判役として活躍しました。 幼い時から日本の古典ともいうべき歌や文を暗誦する習慣はとてもいいことですね。日本語の響きを身体の中に浸み込ませることは、後の日本語の形成に無形の財産となり、豊かな日本語の土台と成るはずです。人生の経験が豊かになるにつれて、子ども時代に身体にしみこませた言葉は、生きた言葉となり、色をつけ、輝きを増し、その人の人生を深いものにしていくはずです。半世紀前の農村の子どもの大部分は、大きな声で、繰り返し朝晩お経を読んでいました。私の住んでいた農村地域では、朝晩、家族全員でお経を唱和する習慣があったのです。又お正月などは「百人一首」など、家族や親戚が集まって、盛んにやったものです。この習慣があったからこそ、高い学歴などなくとも読み書きに高い能力を持った庶民(百姓)が多かったのではないでしょうか。キリスト教が生活の中に深く根づいている欧米などでは、幼い時から聖書を暗誦する習慣があります。それが母語の土台にあり、後の国語教育に大きな力となる。洋の東西を問わず、このように時代の中を生き延び、鍛えられた美しい言葉を幼いときから身体の中に浸み込ませることを、私たちの祖先はやって来ました。現代においても、このような言葉教育が、現代人の感覚にふさわしい形で継承発展するといいですね。生活のなかに根付くといいですね。
2006.01.26
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ライブドアの商行為は、本当に不正か。ライブドア事件をめぐりマスコミはまたまた、大騒ぎをし、ワイドショーもどきの低俗な番組を繰り返し流している。伝えるところによると、堀江貴文社長は「不正はなかった」と容疑を否認しているという。堀江貴文社長の「不正は無かった」というこの認識は、現在の日本の資本主義下においては正当なのでは無いかと私は思う。さらに「皆がやっていること」とも言っている。ただやり過ぎただけなのではないか。小泉自民党がめざす、従来のもろもろの規制を緩和して、アメリカ流のなんでもありの自由主義、資本主義下では、今回の事件のような商行為、マネーゲームは適法ではないのか。規制を設けず、何でもありの自由を認めるということは、想定外の新しい実態が次々に起こると予測できる。その想定外の出来事に対して、今まで経験した事例がないのだから、監視のしようがないし、法に外れているとも言い難い。限りなくグレーな部分をいち早く嗅ぎ分けて、法で規制される前に莫大な儲けををする、というのがアメリカ流マネーゲームの本質ではないか。そして後から「あれのやっていることはけしからん。人の倫理にも反する」などと大衆にささやいて、やり過ぎた無知な大衆を犠牲にして、本当に莫大な利益を得たものはどんどん太り、影でほくそ笑む。これが小泉自民党のめざしている真に自由な「新資本主義」の本質なのだ。ホリエモンは、無知な貧しい大衆を投機的市場に大量に参加させるために必要な広告塔だった。だから自民党は利用するだけ利用し、この後に及んで、躍起にその蜜月を否定している。「個人投資家」の急激な増大は、従来の「間接金融」から市場で資金を調達する「直接金融」への流れを加速した。小泉がめざす規制緩和が目標としたのが、この「直接金融」である。それを加速させる力のひとつが、今回のホリエモン事件に象徴されるマネーゲームだ。ホリエモンはその申し子なのである。「郵政民営化」の行き着く先も全くこれと同じなのだ。その背後に、てぐすを引いてほくそ笑む強大なアメリカのハゲタカファンドがいる。国民がせつせつと溜め込んだお金は、けして庶民には返ってこない。その証拠に、もうすでに今回の事件で、「国民が1日に何回も取引を繰り返すディトレーダーが悪者である」かのような風潮が出てきていることを警戒し、それを非難する声が起きている。増えた個人投資家を退場させてはいけないという声が起きている。今回の事件は日本の資本主義社会が、今までとは質的に異なる新しい段階に入りつつあることを示した。今回の事件は、本来なら、証券取引法違反なので、金融庁が証券取引監視委員会と協力して、不正を摘発し、刑事罰の場合は検察に告訴、告発すべきが筋であった。そのように成らなかったのはなぜか。金融庁はライブドアはすべてすれすれで、違法ではない、と言う姿勢のため、証券取引等監視委員会は手をだせないままであった。このような金融行政に、検察から「ノー」を突きつけられた。今の日本の状況が、現在の金融行政を否定せざる得なかったという意味でも新たな資本主義の段階に社会が突入している。最も倫理に欠け、人間としてあるべき法に触れているのは誰か。逮捕されている連中などは、小者、見せしめにされている哀れな庶民たちなのである。事の本質を見失ってはならない。
2006.01.26
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写真;白い寒椿(by fujiko)昨日に続き「丸山健二」の本の紹介。丸山健二著(朝日新聞社)生きるなんて昨日の「花々の指紋」がどちらかと言えば年配の者たちへのメッセージとするなら、この「生きるなんて」は現代の若者、青年たちへのメセージである。この両著作ともが人間の「自立」をテーマにしている。「花々の指紋」が、同種同根の花でも微妙に異なる差異(花の指紋と作者は名付けている)をはらみながら自己を完結するそのいのちの営み、完膚なき自立に作者は驚嘆し、限りなく愛でている。「生きるなんて」は、次の11章からなる、若者への語りかけである。第1章:生きるなんて。 第2章:時間なんて。 第3章:才能なんて。第4章:学校なんて。 第5章:仕事なんて。 第6章:親なんて。第7章:友人なんて。 第8章:戦争なんて。 第9章:不安なんて。第10章:健康なんて。 第11章:死ぬなんて。この章の構成からも分かるように、生活のあらゆる場面を語るなかで「自立」するとは如何なる事であり、自立した人間の生活は、人を人としてどんなに豊かにしていくものかを具体的に語っている。現代の日本社会のなかにあって、もたれあい、自己で判断をせず(できず)村や会社や学校や家族集団のなかに、甘え、安直に生きることに埋没している生活の欺瞞を厳しくあばいている。とりわけ若者たちにたいして、個の確立と人として自立を強く訴えている。丸山健二さんの自立とは、親に頼らず生活できる能力を身につけたこと、いわゆる自活を単に意味しているのではない。勿論、自立の根っこには、自分の力で生活できることが大前提である。今の若者たちが自活できない根底に、人間として自立のなさ、貧弱さをあげている。この混沌とした現実にあって、何者からも左右されない確かな自己の確立、その実現のため四苦八苦しながら、紆余曲折をたどりながら、その高みまで到達していくプロセスに生きる意義があり、そのとき初めて人は自由で有りうる。人間が人間らしくあるためには知性が不可欠とまで言い切っている。私がこのブログで、再三再四、書いて来た「学力」とは、この丸山健二の「自立」の根底を形成していく能力、知力のことである。現代の社会があらゆるシガラミから解き放たれたにもかかわらず、そのしがらみから自由になり切れない人間が、さまざまな混沌や挫折の中で混乱している。なぜか、丸山健二さんの主張しているような「個の確立」、真の「自立」を達成できる人間の成長、育ちが無いからではないだろうか。このような人間が、真に自由で豊かな国家や家族を作り出すことはほとんど不可能だ。子孫の存立の危機にさえいる。その根拠はこのような人間の人として立つ根源的な問題を無自覚なまま、私たちが日々の生活に追われ暮らしている事に大いに関係しているのではないだろうか。社会にでることに臆病になっている若者たちや、社会に出る準備をしている大学生に、ぜひ読んでもらいたいこれは本である。生きることに道を見失っている若者にぜひ読んでもらいたい本である。そして、その若者を育て最中で苦悩している親にもぜひ読んで欲しい本である。
2006.01.23
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花々の指紋;丸山健二(言葉、写真、作庭)。求龍堂1966年芥川賞を受賞した作家、丸山健二は、その後長野県に移住し、文壇とは一線を画して、独自の創作活動を行ってきた。最近デビュー40年を記念して、小説「貝の帆」(新潮社)、エッセー「生きるなんて」(朝日新聞社)、写真集「花々の指紋」(求龍堂)の三冊を一挙刊行した。私と全く同年代のこの作家は、創作はもちろんのこと庭作りにも若々しい飽くことのない情熱を注いでいる。どう老いていくべきか、模索の続く私にとって、とても励まされる作家である。こういう風に生きてきた人がいたと言うことにとても感銘を受けている。今日はその3冊の一つ、丸山健二氏が精魂傾けて作っておられる庭の写真集「花々の指紋」を紹介したい。この写真集はただ単なる美しく咲く花々の写真集ではない。この花々を撮影しているのは、作庭家、丸山健二その人である。丸山健二さんの花への並々ならぬ思い入れ、愛情が写真の隅々まで溢れている。花々の最も美しい時、もっともいのち輝かせているときを、微妙に変化し、戯れる光と影のなかでシャッターを切っている。まさに美の狂乱、いのちが光と戯れ踊っている。黒を基調にした背景に浮かびあがるこの花々の輝きは、思わず見るものに息を飲み込ませる。そして、丸山健二さんが添えている言葉が、その花々の輝きとマッチして、写真の花々と微妙な調和をかもし出している。花の生命の輝きが完全なる自己完結であり、何者にも媚びない、しかしけっして背をむけない。その花々は美の尊厳をあくまで貫き通して完結する自由さを持っている。そしてその花々の目くるめく美の極致で、丸山健二はたと立ち止まり、己の精神の自立、完全なる自立を厳しく自らに課して生きている。生きようとしている。自らの、肉体的、精神的固体としての重い立場貫こうと自らに鞭をうつ。丸山健二さんの庭は日本版ターシャの庭である。日々、金まみれで、金儲けがこの世で一番価値あるもの。「稼ぐが勝ち」と世間を騒がしている小太りのにごりきった眼の御仁の対極の人生が、そこにはある。なりふり構わずアメリカに身売りすることが、もっとも金儲けに役立つと「なんでもあり」の政治家たちの曇った濁った眼には「この花々の輝き」は見えまい。そんな世界が小さく、小さく見えてくるこれは写真集である。
2006.01.22
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写真:可憐に咲く寒椿 (by fujiko) ホリエモンの記事を4度書くことになった。ホリエモンこと堀江貴文氏が社長を務める「ライブドア」が東京地検特捜部の家宅捜査を受けた。自社の株価をつりあげる目的で、違法な商取引を次々に重ねてきた容疑がかけられている。事有る毎に「自分には経営理念などはない、ただ市場原理に従って、淡々とやっているだけ」、「金をかせぐことが生きがい、お金が唯一価値あるもの。稼ぐが勝ちが生きる信条」「勉学することに価値はない」とマスメディアに向けて公言してきた。従来グレーな部分、ダーティな部分とされて来た事を堂々と公言した事が、社会から喝采を受け、時代の寵児とテレビや小泉自民党はこの若者を持ち上げてきた。いかにもこの閉鎖的な現代の社会を打ち破る風雲児かのごとくに描き出して、はやし立てたマスメディアの責任は大きい。ホリエモンを改革の旗手と持ち上げた自民党の本性が如何なるものであるか、この事件は図らずも世間に知らせた。小泉自民党が進める、金融・証券の「構造改革」規制緩和推進計画による「なんでもあり」の市場原理にまかせた資本主義社会の行き着く先が、現在の株式市場の狂乱である。その狂乱、狂騒の渦中の人物、堀江貴文氏の末路がかくのごとくとは哀しい。その背後にぼろ儲けして、ほくそ笑んでいるものがいる。何事も無かったように動き回る巨大資本のファンドがいる。その錬金術のからくりを学ぼうともせず、熱に浮かされたように投機に明け暮れ、金をまきあげられている若者集団がある。小市民がいる。1日20~30回も売り買いを繰り返す個人投資家がいる。それを認めている社会がある。私はブログを開設してから、このテーマで3回書いてきた。第1回目は2005・2月20日「ホリエモンは何処へ行く」第2回目は2005・3月28日「再び、ホリエモンは何処へ行く」第3回目は2005・8月20日「ホリエモンの立候補の意味するもの」である。今回この3回を読み返してみて、私の予測通りに進行し、更に、それが猛スピードで転回するのに驚いている。苦労して勉強することに意味を見出さず、お金を労せずして稼ぎたい若者たちに、絶大な支持を得てきたこの青年の行き先が、こんなにも早く見えてくるとは。しかし今回のような事件が起きたことはとてもよかった。たいして勉強もせず、仕事もせず、法をすり抜けて金儲けに明け暮れる人間が、どういうう結末になるか、事実で若者の前に示したことはとてもよいこと。要するに、このホリエモンも現段階では、権力の中枢で時代の歯車を逆にまわしている勢力と本質において変らない。ごまかしや弁解で権力にしがみつき安穏としている保守勢力とホリエモンの本質は変らない。このホリエモンの本質は、時代を変革するものでは決してない。ただ資本主義の退廃的な享楽的なところで咲いているあだ花に過ぎない、ということを世間に示したことはとてもいい。学ぶということは東大に合格することではない。東大に入学して、いかなる大学生活するかが学ぶことの始まりだ。堀江氏は「東大」に合格したが入学しなかったことを「自分の売り」にしていた。高く売れる価値をそこに見出したからだ。彼らしい小賢しい計算がそこには働いていた。学ぶことに傲慢な人間の行き着く先だ。現代は教養的に学ぶことに価値を見出していない。金儲けに繋がらない学びに意味を見出していない。人間がどう生きていくべきか、社会は過去どうであったかなどを学ぶことは無意味という風潮である。「お勉強」をして東大に合格する程度の勉強が学ぶと言う意味である。「自立する」とは、自己の精神を育て、自分の力で考える力、人生を切り拓く力をつけることであるはずだ。そのとき過去において、人類の築いてきた文化遺産から学ばない学びなどどんな意味があるか。現代を生きる知恵を過去から学ばないで何処から学べるというのか。ホリエモンは過去から学ぶことを否定している。そこから創造的な現代を築く手法は生まれない。ただ現代社会のあぶくを耳学問して、日々暮らしている。それが知識と錯覚している。今回の行き着いた先は必然の結果であり、初めから予測できたことだ。ただ余りに速すぎたが。これは現代の若者の多くの姿だ。これからホリエモンの末路がどうなるか、見守って生きたい。同世代の若者たちがこの事件をどう受け止め、自分のこれからの人生の礎とできるかも、若者自身がどんな学びを日頃しているかで大きく分かれるだろう。若者たちがこの事件を自分の人生と重ね合わせて、生きる意味を、今一度深く考える機会にしてくれることを期待したい。
2006.01.19
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孫娘ことね(1歳9ヶ月)への遅れてやってきたお年玉。ケーセン社 ジルケ人形(小)女の子黒髪黒目赤服 (お人形の座っている椅子は、コトネのママが赤ちゃんの時のもの。30年も前の古いものである)このバアバは、自分からは孫の玩具を買わないことにしている。今の赤ちゃんたちは、ジジババの4つのポケットを持っている。その祖父母たちからのプレゼントぜめで、部屋の中がわけのわからぬオモチャで溢れている。かたづけが不可能なほどオモチャのひっくり返る部屋のなかに今の子供たちはいる。それへの反省から、このバアバはことねのママが購入を要求するオモチャしか買わないことモットーにしている。クリスマス兼お正月のプレゼントとして、ことねのママから要求されて買うことにしていたこのケーセン社の抱き人形。売り切れで手に入れること出来ないまま、お正月は過ぎてしまったがやっとコトちゃんの元にやってきた。最近のコトちゃん、ひとりでぶつぶつつぶやきながら、お人形を使っておままごとを飽くことなく続けている。ほとんどがママや保育園で大人たちがやっていることの模倣である。保育園では自分から遊びを見つけて、もくもく一人遊びに夢中のコトちゃん。そんなコトちゃんの遊びの世界を、一層豊かにいろどってくれるお友だちになってくれそうな可愛らしい抱き人形がやって来た。媚を売らない素朴でシンプルな顔立ち。身体にぴったりとフィットする柔らかな抱き心地。まるで赤ちゃんを抱いているように柔らかな温かみがある。モノの乏しかった私の幼い時、祖母や母が作ってくれた抱き人形の雰囲気に似たお人形。裁縫の仕方、型紙まで似ている。バアバのお人形は、時々、手や足がちぎれて補強したり、なかの詰めもの(綿)が出てきたり、遊びに酷使され、さんざん傷んだお人形であった。それを母が直し直ししてくれたもので遊んだものだ。当時としてはお人形を持っている子供は珍しく、おままごとには大活躍であった。しかし、モノの豊かな時代のこのドイツ生まれのジルケ人形は頑丈そうだ。少々の乱暴な取り扱いにも耐え得るしっかりとした布や裁縫。ドイツの職人魂がこもった厳しいが優しさのあふれた抱き人形である。長い歴史のなかで鍛えられ、愛されてきた可愛らしさがある。その上、もう少し大きくなったら、洋服をどんどん自分で作って、着せ替え人形としても遊べそうである。夢と想像力とを自由に羽ばたかせて、コトちゃんの成長といっしょに成長していけそうなコトちゃんにぴったりのお人形。時間の経過と共にコトちゃんの心の中で生きていくことの出来るお人形。時が経つほどに愛着が湧いてくるお人形。そんなお人形になるように、コトちゃんのママがことねと一緒に育ててくれること期待しているよ。コトちゃん、このお人形大切にしてやってね。仲良くしてね。2006年のお正月、もうすぐ2歳になることねへのバアバからの贈り物である。
2006.01.18
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万葉の里・明日香だより(6)まほろばさんからの、奥明日香・栢森(かやのもり)の綱掛け神事のおたよりを紹介します。 1月14日、15日は全国でどんどん焼きなどの行事が行われています。私の郷里では15日に村の青年団が小豆粥を村の神社でつくり、どんどん焼きを囲んで村人がおかゆを食べながら、その年の農作物の豊穣を祈ったり、占ったりする行事がありました。(今は消滅)奥明日香・栢森の雌綱、雄綱掛け神事は、とても雄大で厳粛な古式ゆかしい行事です。今尚、その神事を守り継承している村人たちがいることも素晴らしいことです。 (雌綱を運ぶ村人) (飛鳥川の源流・栢森) この神事は「子孫繁栄と五穀豊穣を祈ると共に、悪疫などをこの道と川(飛鳥川)を通って浸入するの押し止め、住民を守護する...」ものであり、上流の雌綱とその下手の雄綱が対となっています。雌綱は仏式で行い、雄綱は神式でおこなうなど、その当時の神仏混合の様式もうかがえて興味深い。張り替えられた新しい雌綱と仏式による行事 奥明日香・稲淵の入り口勧進橋に張られた雄綱。 背景は全国の美しい棚田百選のナンバーワンに輝く稲淵の棚田。勧進橋の銅版。南淵請安先生に講義を受ける中大兄皇子と藤原鎌足の図。
2006.01.13
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2007年度から実施される全国学力テスト(1/11の日記続き)についての続き。政府は全国学力調査(テスト)を2007年度から実施することを決め、06年度予算に調査費29億円を計上した。諸外国はこの種のテストをどのように導入しているか。まず、フィンランド。2003年のOECD(経済協力開発機構)が行った国際学力調査で総合一位になり、学力世界一の評価を得たフインランドは、全生徒を対象とするテストではなく、生徒の5~10%が学力テストを実施している。地域・学校の成績は公表されない。特に成績が落ち込んでいる学校に対しては財政的、人的支援が手厚く行われている。成績低迷の学校の要請を受けて地方の教育委員会が派遣する支援教師は学級担任よりもさらに高い専門性を身に付けており、学習の遅れた子のサポートにあたっている。フィンランドの教育実践は、学習の到達度をテストで判定するよりも、教師と生徒の相互交流の積み重ねを重視して評価し、競争と比較をやめて発達を強調するやり方である。このような教育実践は、教師の力量の向上なくしては実現できないし、そのための教師の養成の経費や少人数のクラス編成など、公的な教育費がかなり多く必要となる。このような評価の仕方を「形成的評価」といい、従来のテストに代わる評価方法として、その意義をOECD(経済協力開発機構)は高く評価している。「子ども自身がなぜ勉強するのか理解しているとよく身につく」とヘルシンキ大学のマッティ・メリ教員養成学科長は述べている。(フィンランドに学ぶ教育と学力)日本の子供たちも、現在このような教育実践、評価の仕方を行う必要のところにいる。今の子供たちは、競争させて、尻をたたいて勉強させるには無理がありすぎる。物質的に恵まれていて、大部分の子どもは、学歴を自分の生活の糧にしようという切実な欲求はないのである。ある意味でこの現象は人間の歴史の優れた前進、進歩を意味するのではないだろうか。「学ぶ」ことの本来の意味、「学び」の原点に立ち返って学ぶことを子供たちは心の深いところで望んでいることになる。「学び」の原点に立ち返った教育をする必要があることを意味している。次にイギリスとアメリカはどうか。イギリスはサッチャー政権時代の1988年に「全国学力テスト」を導入。「イギリス病」と呼ばれた長期不況のなかで、社会の活力低下の原因として教育が批判を浴びたことから、学力向上策の一環として導入された。特徴は学力テストによって徹底した学校評価を行うことにある。中学卒業までに4回の到達度テストを行い、学校ごとの成績をすべて公表。成績の悪い学校は全職員の入れ替えや、それでも成績が悪いと廃校もありうる。併せて学校の選択性も導入した。成績の結果は入学者の増減に直結し、学習障害児や移民の子の入学を断るなどの現象が起きている。アメリカもブッシュ政権のもとで導入。全児童を対象とした学力テストを州ごとに義務づける。テスト結果の悪い学校にはさまざまな制裁がある。これらの制度を導入、実施したことでどんな問題が起きているか。試験の点数を上げるのに役立ちそうにない実地見学や他の教科活動を中止し、かわって機械的な暗記と反復練習に集中するなどである。「成功している」学校に生徒が集中して、教育活動に支障がでるなどである。日本が2007年度から実施することになる「全国学力調査」はもちろんフィンドランド型ではなく、イギリス型である。さらに将来、バウチャー制度の導入も視野にあるのかもしれない。バウチャー制とは、家庭に教育サービス引換券を配って公私立学校を自由に選ばせ、学校に集まった生徒数(引換券数)に応じて予算を配分する制度である。この制度と全国学力テストと結びついたら、テストの持つ意味は恐ろしいものになる。テストの点数が教育の価値を決める唯一の物差しになったとき、どういう子どもたちが育つかは、今の大人たちが一番よく知っているはずである。
2006.01.12
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写真:雪をかぶったナナカマド(by Danjose)2007年度実施「全国学力調査」は真の学力向上に役立つか。この地域では昨日が3学期の始業式となり、いよいよ入学試験本番の学期に入った。今日は学校も始まり、私は、ほっと一息。冬休み中、酷使した我が体と心のメンテナンスをしようと朝から、ゆったりと散歩したり、お茶を飲みながら新聞を読んだり。しかし、新聞を読み始めたら、またまたゆったり出来ない記事が一杯で、心が急くのである。文科省は2007年度から、小学6年生と中学3年生を対象に「全国学力調査」を算数(数学)と国語で実施することにしてる。いわゆるこの学力テストは学力低下対策の一環として2004年に打ち出されたものである。しかも学校ごとに成績を公表して、学校評価と結びつけ、人事考課や学校の点数化をはかるという。これは時代錯誤もはなはだしい。高度成長期の画一された教育を押し付けるやり方が、こんなにも破綻しているのに、又同じことを再生しようというのか。今、子供たちに起こっている、育ち方の問題の深刻さは、再三このブログでも述べてきた。そしてその責任の一端は、学校教育のあり様にも大きく起因している。子供たちが、今、身に付けなければならない学力はなにか、今こそ学校は深刻に問われている。学校が子供たちの現状とは全く無縁のところで、お上の言うままにカリキュラムを展開し、そこからの逸脱、自由な発想を許さないことが最も学校をだめにしているのではないか。教師が、今、子供に何が起こっているか、社会に何が起こり、どのように動いていこうとしているかに無頓着なことが、今の教育の荒廃の原因ではないか。現場にいる教師たちの現状認識のお粗末さ、また真の姿を認識したら、とても学校の現場には居れないという息苦しさ。お上の顔色ばかり見て、子供たちと向き合っていない管理主義の横行。上に向かって物言わぬ教師集団のあり方。これらこそが、子供たちに真の学力をつけることを困難にしている原因である。この状態に輪をかけ、さらに強化するのが、2007年度から実施される「全国学力テスト」になるのではと、私は危惧している。わが教室の中3生たちは、中3になった春休みから受験を年頭において、1年間の長いスパンで基礎学力の充実をめざすカリキュラムでやっている。今の時期、数学などは、基礎力を複雑に組み合わせたかなり高度な問題に取り組む時期にさしかかっている。ここで中3生に求めている力は、複雑に絡み合っている基本的な命題を自分の力で解きほぐし、解法を見つけるための論理立った考え方をトレーニングすることである。いまの子供たちが一番苦手としているこれは思考の回路である。しかし、子供たちがこの思考回路を自分の身体のなかに作り出すと飛躍的に成長する。学ぶことに疲労感を感じない。学ぶことに時間の長さを感じない。たどり着くのに時間はかかっても、成果は大なのである。このような学習の取り組みは、本来学校がやるべきことで、この婆さんが個人でしこしこやることではないはずだ。国民の税金で成り立っている学校がやるべきことだ。今の学校や親たちは、すぐ答えを要求し、分からないと答えを見て、それを暗記して覚えれば勉強はしたつもりでいる。これは、点数や成績をすぐにあげることを要求されるからである。今回の「全国学力テスト」の実施が、親たちが身に付けてきた学習方法の再生産にならない事を祈るばかりである。このような勉強の仕方で育った大人は、今の社会では立ち行かなくなっているのではないだろうか。高度成長期の社会では、むしろそれは大部分の大衆に求められた学び方であった。しかし、今時代が要求している能力は大きく変化している。真の実力ある能力を要求している。時代や社会を切り開ける応用力ある実力を要求している。これこそが生きる力となる学力であるはずだ。未来に生きる子供たちに、未来を切り拓ける力を育てる教育や子育てをしないで、子供たちが生き生きと育つはずが無い。育ちようが無い。学校自身がその社会から、大きく遅れをとり、無用の長物となっている。学校自身が「子どもの深刻な育ちそびれ」や「学力の問題」に真っ先に声を大にして叫び、親や国に訴えるべきであるのに。今回の「全国学力テスト」にも現場の教師たちが何らかの声を上げるべきなのに、何の声も聞こえない。
2006.01.11
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写真:犬と戯れる幼児。今日は成人式。青年が切り拓くべき力とは何であるか。日本の人口は、昨年、始めて減少に転じた。一人の女性が生涯に産む子どもの平均数(合計特殊出生率)も昨年は1.28台となり、過去最低となり少子化に歯止めがかかっていない。少子化に歯止めがかからない原因を世間はあれこれ詮索し、その対策に効果が現れないことを嘆いている。しかしその原因や対策は至極シンプルなこと。真の男女平等を実現し、女性が安心して出産や子育てできる環境を、社会全体で作り出せば、少なくとも出生率には歯止めぐらいは最低かかるのではないか。歯止めがかからない、さらに深刻な原因のひとつに、戦前からの家父長的な半封建的な家制度が、崩壊して(崩壊しかかっており)、結婚や家族のあり方が、純粋に個と個の結合によってなされなければ成立しにくい状態が定着しつつあるからではないだろうか。これは人が半封建的なしがらみから解放され、真に自由な個人として、生きていける社会的状況ができつつあることを意味して、とても喜ばしいことと私は思う。私たちの時代は、結婚は家と家との結婚であり、本人の結婚する意思が薄弱でも、適齢期に達すれば周囲が結婚を整え、疑問を感ずることなく大方の若者が結婚していった。離婚も家と家の結婚であり、そんなに簡単には周囲が許さないし、家のために我慢をして一生を終った。子どもを産むことは、家の跡取りを作る意味で絶対条件として、要求されていた。産まない女などは、周囲から白い目でみられた。このような縛りの大部分から解き放たれた今、若者たちは個人として裸にされたままであり、男女の人間関係や、親子の関係を自分の力で創造していかなくては、すぐに崩壊するもろいものになっている。男女が人として、人格的にもお互いに深く関わり、二人の協同でつくりあげる人間関係が豊かでなければ、何十年もの長きを共に暮す必要もなくなってくる。この意味で、若者は人間として、新しい生きる価値観を創造することを求められている。現代は、今までの歴史のなかでは無かった新しい個の誕生を模索している時代ではないだろうか。現代の人間関係が混乱し、希薄であるのは、次の時代の人間像の模索途上であり、型がまだないというところにあるのではないか。労働の形態も大きく変わろうとしている。それにともない、人々の意識、とりわけ若い人々の生き方や考え方も大きく変化しつつある。この混沌、混乱の中から新しい価値観の人間関係や家族のありかたも作り出されなければならない。旧態然とした家族のありようでは立ち行かなくなっている。現在のような社会の在りようを固定して、「生めよ増やせよ」といっても若者は産まないし結婚しないと思う。離婚も益々増えるであろう。青年たちが、困難でも個を中心に据えた生き方に確信を持ち、青年自身が新しい生きざまを、個をささえる強靭な自己の確立をもとめる人生を選択したとき、結婚感や家族観も変わってくる。この意味でも青年たちは貪欲に学び、自己を確立して、自分の足で新しい価値観を創造しつつ生きる、真の意味での自己責任の時代に生きている。これはやりがいのある素晴らしい人生ではないだろうか。個と個が生きる基本の単位として、性愛や家族の絆を創造していく時、愛はいっそう充足した実りあるものになる。現代の若者や家族はまだその味を素晴らしさを体験していない。模索途上にある。他者に守られ、他者のレールの上だけをひた走る人生には見切りをつけ、新しい感覚で貪欲に学び未来を切り開く人材に若者たちには、ぜひなって欲しい。若者は未来に生きる人間なのである。そのための学びがある。そのための労働がある。
2006.01.09
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写真:八つ手の花(by fujiko)たくましく八手は花になりにけり(尚白)ローティーンの幼さの根っこにあるもの。昨年、私はこのブログで、中1年生の異変を数度書いてきた。最近、朝日新聞で『12』という連載を始めた。この連載に登場する12歳たちに、私が日頃感じている事と似たような現象が起きているのに驚いている。私が日頃接している中学生の育ち方の有りようは全国的に共通なものであり、個人的特殊なものではないということが分かった。この連載記事は、10代前半(ロティーン)の世代を「老ティーン」「降りる」「平気感覚」という言葉で言い表している。「降りる」とは、例えば受験。少子化で学校の方が過剰気味で生徒の奪い合いがあるとはいえ、偏差値上位の進学校の入学難易度は以前と余り変わっていない。あるいは自分の今いるレベルより上位学校を目指す場合は、それなりの紆余曲折に耐え、勉強する事が必要である。少なくとも1年間ぐらいのスタンスで自分の力を粘り強く向上させる努力をしなければ、到達できない。今の中学生たちは、まだ何も勉強らしきことやっていない早い段階で、自分の力に見切りをつけ「降りる」のである。数回テストの結果が思うに任せず不調だとすぐに自分に見切りをつけるのである。中学の教師が「君にはその高校は無理」と言えばすぐに「降りる」のである。奮起して頑張ってみようというところが、極めて希薄なのである。プレシャーに耐えて、前に進むことが出来ないのである。その結果、ほとんど勉強らしき勉強をしないまま高校に進学していくことになる。この現象は、中高一貫の中学校を目指す有名な進学塾でも起きていると言う。成績が下がり、成績の下位の順位を読み上げても、「発奮せず、下のクラスに飲み込まれる」「我慢のしどころで親が手をさしのべる」。自ら「降りていく」のである。だからある有名進学塾も戦略を変更して、「常在戦場」という看板を降ろしたという。更に夢がとても実利的で、子どもらしい未来への飛躍が望めない。連載記事『12』の第1回目ハタラクに登場した中学1年生(男子)は幼い時から車好きであった。惹かれるのは大衆車。地元のトヨタ、中でもカローラがお気に入り。2001年まで33年連続で国内販売台数1位だったという理由から、カローラが好き。将来の夢は「トヨタのチーフエンジニア」と決めている。準備は、12歳から。トヨタの新卒採用者は例年名大が多い。少しでも近づく為に、名大付属中に入った。次のハードルは5年後の名大受験。土日も通信教育を受けるなど勉強漬けの毎日を送っていると言う。これが中学1年生の少年の夢であり、日常であるとは。正に「老ティーン」である。愛知万博でも紹介されていたけれど、最先端の科学技術はデンソーなどが開発しているI-UNITという夢のような車である。複雑な動きをしても決して衝突しない、海の中を群れて泳ぐ魚のような車である。車体は成長が早い樹木を加工して作っている。環境にやさしい原材料を開発しようとしている。科学技術をより人間的なモノ作りに応用しようとして日夜奮闘している技術者や研究者がいる。中学生がそのような技術者や研究者にあこがれてエンジニアの夢をふくらまし、勉強に励むというのなら納得できる。それなら少年らしいエネルギーで勉強にも立ち向かうことが出来る。勉強の苦しさにも立ち向かう力も湧いてくる。困難を突破する気力も持続できる。トヨタへの就職率がよいという理由で、カローラの売り上げが日本一だという理由で、5年も先の名大入試を目標にするとは余りにも夢がなさ過ぎる。そのような動機づけで、最も多感な中学高校時代を5年間も受験勉強ができるのだろうか。たとえ出来たとしても、目的を達成した時には、精神は生気を失い、生きた屍となる。さらに創造的に活動できる気力は出てこない。勉強で挫折したら、簡単に「降りる」のは、このような動機づけで勉強しているからではないか。スランプに陥ったり、挫折した時、後に残るのはただ疲労感ばかりだ。痛ましい、悲惨な青年期が蔓延するのもうなずける。10代前半の少年少女たちが、もっとも鍛えるべき、磨くべき大切なことは沢山あるはずだ。人間的に豊かな感性を磨かないでは、世界を制覇する車などできるはずがない。そのような事に気付かせるのが中学や高校の教育ではないのか。親の役目ではないか。「平気感覚」とは、どんなことが起きてもへっちゃらだと言い聞かせ、心の均衡を保つ技術を言うのだという。裏切られたくないから、期待しない。挫折したくないから、挑戦もしない。摩擦をさけるためのエネルギーは惜しまないのである。10歳前半の子供たちに共通して見られる現象がこのようであるとするなら、この子供たちが社会に出て行く2015年はどんな社会になってしまうのだろうか。超保守的な青年と大量の高齢者の社会になってしまう。この現実を大人たちはもっと深刻に受け止め、教育や子育てに立ち向かわなければならないのではないだろうか。
2006.01.04
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写真:鎌倉・東慶寺の蝋梅(ろうばい) by Danjose咲き満ちし蝋梅を透く朝日かな (小森 黎) 「息子はへの年賀状」2006年明けましておめでとう。この5年ばかり毎年、アメリカの大学にいた息子にメールで年頭の書簡を送り続けてきた私だが、今年は帰国し、東京で就職したので、改めて年頭の書簡を送る必要がなくなった。これは息子が、親からほぼ独立し、自分の道を自分の足で歩み始めた記念すべき、喜ばしい新年の年であるのだが、親としては一抹の寂しさもある。日本の経済の最先端で、その渦中で、日々厳しく、激しく戦っている息子の成長は、確かにうれしいことではある。さらに大きく成長していける展望を切り拓く道すじを展望して生きようとしている姿は頼もしい。しかし、まだ学びの修行の道半ばにいる。青年期後期の修行の時期にさしかかったところだ。ここでさらに力を蓄える学びをひき続きやって欲しい。青年期後期の学びは労働という社会的実践と深く関った生きた学習だ。今までの学びの蓄積が目に見えぬところで生きているはずだ。その学びを土台に枝をはらせる時期だ。ここでしかりと実践と結びつけて学び、実力を蓄積することは後の壮年期の大きな飛躍になる。青年期は激しく学び、激しく働くことのできる、体力やエネルギーが溢れている。この時期にしか出来ぬ学びがある。この時期を逃してはできぬ仕事の仕方がある。青年の若々しい感覚や知性には、私たち老い行く者には無いものだ。その新しい感性を豊かな実践と知識で、新しい時代にふさわしい能力に創造していける時期に青年はいる。それは青年の特権だ。この青年期の特権を十分に生かしきり、さらなる飛躍できる2006年になることを願いたい。健康な身体管理も忘れずに。健康な身体は、学力や、仕事力の最も重要な要素だ。健康管理を自分の力で出来て、始めて一人前の大人であること肝に銘じて生活して欲しい。2006年、ここまで成長してくれた息子にありがとうと感謝したい。私たち、父、母も老いに向かって、どう生きていくべきか、どう生きることが老いにふさわしいのか、模索の日々が続いている。父も母も新しい老いかたを創造していけるような日々を、若者たちと競いたい。
2006.01.03
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