全5件 (5件中 1-5件目)
1
臭木 (クサギ)葉っぱをちぎって、においを嗅ぐと強烈な何とも言えぬいやな臭いがするクサギ伐採地や崩壊地に真っ先に根づくパイオニア樹木クサギ廃墟となったくずれた廃屋の庭にクサギの木がはびっこって林になってしまっていた。秋風に見事な深い色になった実が揺れるさまはなんとなくわびしい。その一枝を手折って描いてみたクサギの実秋にはガクは一層深い赤となり、その真ん中の熟した実は秋の深まりとともに瑠璃色に輝いてゆさゆさと晩秋の風に揺れている。(クサギの花:赤いガクから白い繊細な花が咲く。長いめしべと雄しべ突き出している。芳しい香りを放つ。晩秋の激しい風に揺れていて、写真の焦点がなかなか合わずピンボケ) クサギの花は普通は7月から8月の夏の盛りに咲くけれど今年は気象の異常からか10月になって盛んに花も咲き、同じ枝に実もつけ、花と実が共演している そのクサギ茂る足元見れば、可憐なノギクが淡い紫に染まって咲いていた。イヌタデの花も群れて咲いているよ。その葉っぱは色づきはじめている。幼い日、おままごとに、おこわ(赤飯)にして遊んだアカマンマ金木犀の香りが町のそここに香り始めると10月だと気づく。どんな気象条件でも必ず、10月の声をきくと咲く花金木犀今年も忘れずににぎやかに秋を告げに来た。木全体が金色に燃えて輝くほどよく咲いたよ今年の金木犀は。でも、香りが弱いというのがこの秋の特徴であった。今年の金木犀は匂わないという人さえいた。 クサギ(臭木)は、ごくありふれた木。ほっておいてもどんどん伸びて繁茂する。宅地開発された住宅地では、夏草といっしょに絶えず刈り取られ、なかなか秋の実にまで至らない。ところが、高齢化していく町には、だれも住まなくなってしまい、何年も経過して、お化け屋敷になっているところが所々にある。そんな屋敷には、このクサギが繁茂して林のようになってしまっている。ふと見ると紅色のガクの上に藍色の実が、びっしりとつけて風に激しく揺れているではないか。何かあわれを感じたこの婆さん。これは歳のせいか、秋のせいか。秋の花々の色は深く、色づく実は豊かで美しい。
2011.10.30
コメント(2)
Danjoseの南米紀行(20) 北部アルゼンチン・フォルクローレを訪ねる旅雛菊とパンパスグラス乾いた澄んだ風が山を谷をパンパを吹き抜ける秋荒々しい赤や青の山肌を背にやさしげに揺れる野の草花ほら、こんなに可憐な野の花々が明るい陽ざしをあびて揺れているこの黄色いキク科の花この旅では高度の高低にかかわらず、どこでも見かけた花現地の最初に出会った運転手に名前を聞くと「ピキジン」3日目の運転手に聞くと「マルガリータ・デル・カンポ」(Margarita del campo)アンデス山麓に咲く雛菊とでも言おうか。サンテアゴ巡礼街道にも 地中海のセネキオ;サンティアゴ草(Senecio Jacobaea)というキク科の花がどこにでも咲いていた。巡礼人の疲れた体とこころを癒してくれた花。それぞれの土地でそれぞれの進化を遂げて咲き続ける野菊たち。ヒナギクやヒマワリやタンポポなど世界各地に見られるキク科の植物の起源は南米にあるのではないかということが最近発表された。米科学誌サンエンス電子版によるとアルゼンチンやスウェーデンの研究グループが南米のパンタゴニア地域北西部の約4750万年前の地層の保存状態の良い花の化石を分析した。その結果、その特徴がキク科特有であり、化石の年代から推定できたという。キク科の植物は、その種類の多さや分布の広さから地球上の花をつける植物で最も変化に富んでいるとされる。しかしながら、花粉以外の化石が少なく、その起源はよくわかっていなかったのだという。このアンデス山麓に咲くヒナギクはその数万年前から風雪に耐え、変化し続けて今、ここに咲いているのかも知れない。その時間の悠久さに思いを巡らすときこのごく平凡な花のいのちの旅に感動する。同じお花畑に咲いていたアンデスの空の青のようなブルーの花この花のつくりもキク科のそれに似ていますね。花の名前はわかりませんが、日本の秋の野に咲く野菊にも似た花。パンパスグラス(Pampas Grass:イネ科コルタデリア属。多年草植物。原産地、ブラジル、アルゼンチン、vヒリなど南米。雌雄異株。)日本の秋の野にもざわめくススキ同じイネ科の植物パンパスグラスはアルゼンチンの広大な平原(パンパス)に生育する。(プルマルルカの牧場:パンパはケチュア語で木のない草原を意味しており、19世紀までは、プレーリーに似た丈の高いイネ科草原が広がっていたが、その後スペインによるインディオ討伐後、パンパの開拓が急速に進み、広大な農耕地、牧場地帯に変化した。)アルゼンチンを代表する植物パンパの草 (パンパスグラスとサボテンを植え込んだリゾート・ホテルの庭)パンパスグラスはスペイン語では、Cola de zorro(コラ・デ・ゾロ・狐の尻尾)。日本のススキは「尾花」とも書きますから、名前の付け方は、お国違えどよく似ていますね。ちなみに、パンパスグラスの日本語名は白銀葦(シロガネヨシ)未舗装の大パンパ延々と走り、道中最高地点・4170mの峠を越えて大塩湖にいった日に泊まった麓の町プルママルカ。ブルママルカはウマワカ渓谷(2003年世界遺産登録)の入り口の町でもある。その町のホテルのパンパスグラスの庭。色々な種類のパンパスグラスの植栽が見事。巨大な背丈巨大な白銀の穂まさに壮観背後に迫る荒々しい赤い岩肌の断崖プルママルカのホテルの庭はサボテンとパンパスグラスが植栽され、見事に生育していた。 ホテルのドアーはサボテンの板で作られているコスモスも咲いているよ。パンパスグラスとコスモスが共演している秋の庭コスモスもキク科の花しかも、アメリカのアリゾナから南米のボリビアに至る広い地域に約30種が分布する。とりわけ花卉(かき)のコスモスはメキシコの高原に起源があるという。コスモスは日本では明治末(1909年)、文部省が全国の小学校に栽培法をつけて配布してから本格的に全土にひろまった。日本の秋に馴染んで、「秋桜」という文字さえ与えられているコスモスは以外にも日本では比較的新しい新参者であったのだ。日本の秋の花コスモスとススキの景色は北アルゼンチンの2000m級の厳しい気象条件のなかにその故郷があったとは新しい発見であった。花の優しげなのに似合わず、太い頑丈な茎、じりじりと照りつける灼熱の太陽にその葉っぱを焦がしても秋の涼風に花を咲かせる強さの秘密はこの南米の大地にあったのだ。(コスモス揺れる日本の秋:私の散歩道より。Photo by fujiko)日本では今、秋コスモスが群れて庭で垣根で道端でにぎやかに咲き競っている。
2011.10.23
コメント(0)
10月の森林公園今年の萩の花は10月になって、一斉に咲き始め今が盛り。萩は万葉人が愛でた花。万葉集のなかで最も多く詠まれた花は萩の花。万葉集には142首の歌が登場する。花を愛でただけではなく、染料に家畜の餌に屋根葺きの材料にと万葉人たちの生活の中に深く溶け込んで存在した萩。 今、私の朝の散歩道は朝露にぬれた萩の花がこぼれ咲いている。高円の 野辺の秋萩 いたづらに咲きか散るらむ 見る人なしに笠金村歌集(巻2・331)万葉人のこの歌のごと野山に優美に咲く人知れずに咲く山野のグリーンにほのかな薄紅白露に光る萩の花咲きこぼれる私の散歩道はイヌタデの赤い穂が秋の風にざわめいて、その下草は赤み増しやっと秋めいてきた。 イヌタデの群れに交じって、アメリカセンダングサやミズヒキソウなどやがて鮮やかな草紅葉となる私の散歩道 ススキの穂も黄葉した木々をこき交ぜて秋風に群れて揺れるよ 今年の萩の花の咲く時期は狂っている。ススキに交じって黄葉している木は実は、ハギの葉っぱなのである。この傾斜地の萩は、8月の半ばにすでに花咲き、9月初めには、花は散っていた。今、盛りと咲いている萩の花は、例年の1か月遅れで、もう今年は咲かないのかと思いきや10月に入り一斉に咲いた。これも、異常気象のせいだろうか。秋は実が熟す季節この山に多く自生している自然薯(じねんじょ)の実・むかご(ヤマノイモ: サトイモ科。山野に自然に生えているので「自然薯」の名がある。芋の部分は茎が地下にもぐり肥大化したもの。ナガイモの仲間でともにとろろ芋として有名)ほろほろとぬかごこぼるる垣根かな 正岡子規木々に巻き付いて伸び、むかごも豊かに実っています。この地方では、その昔、お正月には、暮れに山に行って掘った自然薯をとろろにして食べる風習がありました。(細くて長い山芋。固い山土から芋を掘る作業がたいへん。熟練と技がいります)掘り起こす先の先まで自然薯 稲畑汀子むかごは、むかご御飯として食べると自然薯の凝縮された味と、とろっとしたした山芋の感触がありとても美味しい混ぜご飯。山の幸です。白萩白萩は自生するものにはほとんど見られない。この写真の白萩も森林公園内に管理者によって植栽されたものである。数年まえまでは、この周辺は見事に白萩が咲きこぼれる道であったが、今年は、夏草の刈込時に萩の木も同時にあとかたもなく刈り込まれ、秋になってやっと再生した貧弱な枝に申し訳なく咲いているばかりである。近年、夏の草刈りは、草刈り機ですべての植栽をも根こそぎ刈り込んでしまう。草を刈っている人はそれで満足なのだろう。たぶん作業する人が、臨時雇いのアルバイトで植物の知識がない者が作業しているのではないかと思わざるを得ない場面にしばしばであう。特に萩の木はそうである。いつも生木は、夏草といっしょに一網打尽。萩はいまどきの人には人気がないのである。白萩の株を花を待たずに根こそぎに刈り取ることに心の痛みを感じないのである。万葉人の心は通じないのである。これは現代文明の一つの姿である。 今年の中秋の名月には萩の花は、早く咲きすぎたか、遅れて咲いたかのどちらかで間に合わせることができなかった。総じて、花の咲く時期が狂っており、今夏の盛りに咲く花は、秋の花と一緒に咲き競っています。この数年、このような現象が続いており、日本の四季の繊細さが、益々失われつつある。タイにも大洪水があり、数多くの進出している日本の企業がここ数日、操業停止に追い込まれているという。操業再開のめどが年内には立たないほどの大災害だという。世界的に異常気象なのである。地球異変なのである。
2011.10.13
コメント(2)
自然観察して絵を描くことことちゃんの挑戦10月9日は暦の上では「寒露」朝晩は本格的に冷え込み、草花に冷たい露が宿る季。暦の上では晩秋となる。異常つづきの日本の気象先週は急に冷え込み10月に入るや日本列島に強い寒気が流れ込み北海道や標高の高い山では初雪が観測されたほどの寒さである。 夏のままかと思いきや冬という乱高下を繰り返す気温である。この異常気候のためか葉物野菜が高騰して、庶民の口には入らないほどである。今日、ことちゃんの住む町の文化会館で開催されている、「町の自然2011」というイベントを見に行った。その会館の庭にあった椿の大木すでに椿の実はこんなにも茶色に熟していた。見事にたわわに熟してゆれていた。このイベントは、町の自然を守り保持していこうと、日頃活動いているいろいろな団体やボランティアが集まって啓蒙活動をするためである。その催事のなかに「植物画観察展」というのがあり、ことちゃんが、小学校低学年の部で文化会館長賞という賞を貰ったのである。まさか、ありえないことが起きたのである。ことちゃんは保育園の年長組のころより、絵を描くとき「カワイイ」子や「カワイイ」動物「カワイイ」バラなど「カワイイ」という言葉で頭は占領され、いつもワンパターンの人形さんの女の子ばかり、ウインクしている女の子 この絵は、保育園・年長組のとき、おばあちゃんにくれた絵手紙の絵です。見てください!いつだって、片方の目は、ひらがなの「く」。これはウインクしているのですって。1年生になってからの絵。 左から、おばあちゃん、わたし、おじいちゃん、ちーちゃん。保育園時代よりは多少改善されていますが、いつも片目はウインクしています。ウサギや犬など実物とは程遠いマンガチックな描き方のものばかりです。お友達の多くがそうなので真似しています。さて、こんなことちゃん、夏休みにママがおばあちゃんと孫、とか、おかあさんと子などがペアで、描きたい植物を持参して、植物を観察して描く催事に参加を申し込みました。ことちゃん「私は花は描けない」といって参加をしぶっていましたが、この富士子婆と参加しました。当日、参加したのは、わずか4組。さびしいかぎり。ことちゃんは益々不安。でも講師の絵の先生が上手に誘導指導してくださって、ホウズキを描きました。その時の絵がこれです。 ホオズキその時は、まさか秋に開催される「植物観察画展」に出展されるとは思ってもいず。いつものことちゃんにしては、「よく観察して描けたね」ぐらいの気持ちでいました。それがなんと、幼児から大人まで800点もの出品があり、その中から低学年部の「文化会館長賞」に選ばれました。(指導してくださった絵の先生の指導が良かったから、描けた絵ですが。やっぱり専門性ということは大切ですね。)家族はビックリ!ありえないこと、いつもことちゃんの描いていたバラなんて、なんの感動も感じられないワンパターンの米粒ほどに小さいバラだったのに。今日、その展覧会を見に行ってきました。他の1年生の子の絵に比べると確かに1年生としては、ことちゃん、細かく観察して描いていました。特に描いている線が1年生としてはなかなかのものとこのお婆は改めてことちゃんの絵を眺めました。このご褒美によって、ことちゃんが「もの」をしっかり「見る・観察する」姿勢を身に着けることができるといいね。「目の前にあっても見ていない」というのが、今の子供たちの多くに見られる傾向である。このような傾向は、ことちゃんにもあるので、これから成長していく過程でこの性癖を克服していく契機にこのご褒美がなるといいね。ちなみに、一緒に参加して、傍らで、ことちゃんの質問攻めにあいながら、エノコログサを描ていた私の絵は、見事、選にもれました。トホホ。。。もうひとつもっとありえないこと一つ。妹のちーちゃんは4歳になってからピアノを始めました。といってもまだ何かが弾けるなどというレベルではありません。そのちーちゃん、初めてグレード試験を受けました。そのちーちゃんがグレード試験のとき、優秀な子に出される賞に代表、優秀、優良、と3段階あるのですが、めったにありえない初級「代表」という賞をもらいました。(ピアノの得意なことちゃんでももらっていません)時々、おじいちゃんが忙しいママに代わって、おけいこに同伴しているのですが、ちーちゃんは、自分の興味のないことになると、寝転がって遊んでいて、レッスンをまじめに受けていませんので、先生に「この子はやる気がないのでレッスンを首にしてやってください」と先日、言ったばかりなのです。グレード試験だというので、自分の名前を言って、よろしくお願いします。という最初の挨拶だけは好きなので、大きな声で何回も練習していました。この挨拶の立派さが評価されたのだねとみんなで言い合っています。もらった賞状を何度も何度も喜んで見せてくれ、読んで欲しいというので、おじいちゃんが「あなたは、練習の時、いっも寝転がって真面目にレッスンを受けていません。でも、挨拶がとても上手にできましたので、選ばれました。これからは、練習も真面目にやってください。」と賞状を読み上げたら、ちーちゃんは大喜びで、「ハイ、真面目にやります。」と、大きな声で答えました。さらに「おばあちゃん、ちーちゃんの挨拶、おばーちゃんの家にまで聞こえた?」一山超えた隣の市のおばあちゃんの家ですが、「聞こえたよ、ちーちゃんの挨拶は、しっかりと上手にできたね」「代表」という賞は確かに挨拶の立派さに頂いたものとえらく、ちーちゃん納得しています。このご褒美もちーちゃんが嫌いなことも我慢して挑戦してやる契機となるといいね。ことちゃん、ちーちゃんが小さかった時こんな愉快なことがあったとここに記しておくよ。
2011.10.09
コメント(0)
オブラートにつつまれたやさしげな日常に真の幸福はあるか?NHKの朝の連続ドラマ「おひさま」は好評のうちに完結したというのが大方の世評であるが本当にそうだろうか? 私が参加している鉛筆画のサークルの面々は私以外の全員が80歳以上である。その彼女たちが、毎週、集うと、朝ドラ「おひさま」の話題が出る。このドラマの時代設定は、まさに彼女たちが生きたそれである。自分たちが生きてきた道そのものである。彼女たちは口々に言う、「あのドラマは嘘が多い。あんなものじゃなかった。」戦時中のときなど、小学校の場面が多かったが、その時は、特にみんなが口ぐちに「あのドラマはおかしい、間違っている。陽子のような師範学校を出た教師が、やめさせられるなどということ絶対ありえない。教師は不足していて、教員養成の学校を出ていない先生がいっぱいいた。辞めさせるなら、その人たちで、陽子などは肩たたきにあうことはない。」とか「姑と嫁の関係など、あれは絵空事ありえない関係を描いている。あのころの嫁は朝の3時から働き働きづめ、嫁など働き手のひとりにすぎなかった。言葉づかいもおかしい。ありえない。」などなど、そして「今の嫁さんは楽している」という話に発展する。鉛筆画:「野葡萄」(鉛筆画:野葡萄 鉛筆画サークルに参加して3か月の私が描いた鉛筆画。80歳代の彼女たちは20年そこそこ鉛筆画をつづけており、風景画など、スケールの大きな作品を描いています。80代の女性ばかり15名ほどいます。全員、働きづめの厳しい現実を生きてきた女たちです。歴史を切り開いて生きてきた先輩たちです。)あの美しい穏やかな映像は、平凡な一人の女性の平凡な日常にも歴史に逆らわずに、誠実に生きれば太陽が輝くよというテーマかもしれないが、これは現代社会の問題意識をあいまいにする麻薬だ。そしてそれを毎朝見ている人々は癒された元気をもらったとNHKにメールを送っている。このメールからも、このドラマには現実に起きていることを麻薬のように溶かす毒物が含まれていることを証明している。 あの時代には、農村では、過酷な労働と闘ってきた女たちがおり、厳しい女性蔑視と差別の中で、職業婦人として生きる道を選びとり、今に生きる道を切り拓いて来た女たちがいる。その現実にオブラートをして、高見の見物で眺めて、美しくおだやかに見せかけている。そのまやかしが現実の不安や孤独や悲惨の現実から目をそらす、あいまいにする。高齢者たちが、今社会のなかで遭遇している孤独や悲惨、若者たちが置かれている閉塞状態。フクシマ原発事故の深刻な現実。すべてにオブラートをかけて、やさしげな押し花にして眺めさせる。現実が困難に満ち苦しいから、ひとびとはオブラートをかけて眺めたがっている。 ドラマの主人公・陽子のいきざまに「元気をもらった」などという人はまだまだ「幸福な恵まれた人々」なのだ。その自分の立ている位置をお忘れなく。今、時代は大きく転換しようとしてもがいている。先の見えない状態にある。 混沌のなかにいる。それを切り拓くのは私たち市民なのだということを忘れないようにしよう。
2011.10.03
コメント(2)
全5件 (5件中 1-5件目)
1