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老いていく日々との闘いのなかで高齢者が集う我がサークル「アートの集い」の作品展を今年も12月17日・18日の2日市の文化センターで行った。このグループ展は今年で12回目、このサークルは20年余り続いており、発足当初からのメンバーの最高齢は95歳のご婦人。80歳代70歳代が主なるメンバーである。このサークルを20年間の長きにわたって指導して下さっているのは講師の端山操先生。その先生の作品はエネルギーに満ち満ちて力強い。「心は悩む」先生も御年84歳、とても若々しいエネルギーに満ちた大作を描き続けられています。二科の会友でもあります。サークルメンバーの絵心を引き出し、その個性を伸ばす指導がお上手で、どんな初心者も楽しくのびのびと絵を描くことが出来ます。「どうしよう」でも、先生の絵はちょっと難しすぎて。私たちには真似しようにも真似できません。次はサークルメンバーの最高齢95歳のご婦人の作品「三つの道」何気ない日常の風景、自分の住んでいる近所の風景を絵にするのがとてもお上手です。画題はどこにでもあることを気づかせて下さいます。「ちいちゃん」ひ孫のちーちゃん無邪気でかわいらしいひ孫さんのポートレート。ひおばあちゃんに描いてもらうなんて素敵ですね。「サイクリング」この絵は東南アジアの日常の一コマです。この絵の作者は東南アジアでボランティア活動をされており、時々東南アジアに出かけられます。その時の風景です。力強く鮮やかに描かれています。(絵具はアクリル)次の絵はパステルを使った作品「正ハリスト教会」パステルでこのように深い色がでるとは。高齢者にとっては、パステルはとても手軽。どこにでも携帯し、どんな場所でも描けることは年寄りにはとても合っている絵具。次の2点は油絵ですが、このご婦人は、このところ認知症を発症され、少しづつ進行しています、が、その絵は、以前のものよりさらに素敵な独特のものになってきました。「小判草」背景の濃い青と小判草の白、花瓶の陰影、油絵具でしか描けない深い色合いが素晴らしい。次の作品も絵の構図がユニークで個性があふれて素晴らしい。「一杯飲みましょう!」陶器産業の盛んであった我が町の風景「えんごろ小屋」今は衰退気味の陶磁器・瀬戸物の街街のあちこちに傾き廃墟になりつつある工場の風景「初夏の御嶽山」上の2点は油絵です。この夏、自宅で看病されていた91歳のご主人を亡くされました。それでもなおサークルに集い絵を描き、前に向かっておられます。次の作品は紙粘土と寄木細工の猫たちです。 この猫たちの製作者はお母さまをこの数年、自宅で介護されていた男性の作品です。とりわけこの1年間は、病状が思わしくなくサークルもお休みになっていましたが自宅では製作して作品展に出されました。「アートの集い」は、文字どおりアートなら何でもござれ。油絵、アクリル、パステル、自由な画材で自由奔放にやっています。これらの作品はそれぞれが個性豊かで、明るさに満ちていると思いますがどうでしょう。私は、このメンバーの中では初心者、参加している年月も四年と浅く、先輩たちにいろいろ学びながらやっています。私は、まだ水彩画しかやっっていませんが、来年は油絵に挑戦出来たらいいなと思っています。私の作品「晩秋の森林公園」この作品は、毎朝散歩しているコースの一つ森林公園の風景です。12月の始め、霜の降りた寒い朝、燃えんばかりの紅葉が池に映え、朝の陽光を浴びて輝くさまはとても絵に描けぬ美しさでした。「ソーラン節を踊るこどもたち」これは孫の運動会。4年生の孫たち、学年全員で、力強く踊り、ナルコの音が運動場に響き渡りました。そのエネルギーの爆発を描きたかったのですが。さて、どうでしょう。これは25号の大きな作品です。「早春の窓辺」静物画とりわけ花を描くことは私の好きな画材のひとつです。これはクリスマスローズ、とりわけ白のクリスマスローズを描きたかったので描きました。わがサークル「アートの集い」はどのメンバーも高齢者にありがちな様々な日常を抱えながら踏ん張って集っています。講師の先生を先頭に、衰えていく肉体に向き合いながらも新しいことに挑戦しようとしています。さて、来年はどんな作品展になることでしょう。60歳代の人たちが新しく参加してくれるとなお活気が出るのですけれど。参加お待ちしています。
2017.12.22
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ヘビさん寒かった長い冬やっと目を覚ました ヘビさん、ぽかぽか暖かな陽だまりでじっと日向ぼっこああ、明るいなああ、まぶしいなでもビュービュー北風さんはまだいるよ。、道端ににょろにょろとのびているのに出会ったら驚いた驚いた怖くなって驚いた。このヘビさんは毒ヘビの蝮ではないだろうね。(この辺りはマムシが多い。)でも、春だぁ~。思わずシャッター切ってみた。
2012.03.23
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プロフィールをどう利用する? 私のこのブログは、世間にブログというものが出始めた頃の2005年1月から始めたものである。気づけば足かけ7年もの年月が経過していた。その当時、私のような世代がブログをやっているのは少数派で、訪れてくれる人たちは若い人ばかりであったが、近年は同世代の高齢者も多く、心強い。更に、ここ数年は数行の手軽さで、タイムラインで発信するtwitterやfacebookなどが隆盛している。ますます発信の仕方が、簡便で即時的となりつつある。私たちの年代にとっては、世間の人々が読む文は、推敲して書くのが当たり前。この感覚からすると、これらの発信の仕方は、何か馴染めないものがある。あまり好きではない。とは言うものの、この冨士子婆さんもtwitterとfacebookは利用している。ブログ「日々草」の読者獲得のために、初めは始めたこれらのネットワークであった。しかし、facebookでは、始めるや驚くべきことが起こった。facebookチームやらから私のところへ送られてきたメール:この人、あなたのトモダチでは?と紹介されてきたのが、何と我が息子のkenなのである。「えっ、どうして? 恐ろしや」なんで私の知り合いがkenと分かったのか?恐るべき情報収集力。母親の私は息子のkenがfacebookをやっていることさえ知らなかったのに。こんなわけで私はkenのトモダチとなり、その嫁の小雪ちゃんともトモダチとなり、彼らの知り合いのトモダチのトモダチとなっている。 この若者たちがどのようにfacebookを使っているのか、色々参考になり勉強している。とりわけkenのfacebookの使い方には、さすがアメリカの大学で鍛えられただけあって、「なるほど」このようにして、facebookは使うものかというよき典型例として納得した。仕事やプライベートで、どんどん輪を広げ、世界をまたにかけて情報収集している。(確かに私たちの若い時には、このように瞬時にグローバルに、さまざまな情報や友達とつながることできなかった。) でも、コンピューターを使う技術が未熟で、遅れをとっている私には、このようなコミュニケーション手段は生活に馴染まないし、必要性も低い。 楽天ブログはそのような未熟な初心者に易しいということで、楽天を選んで私はブログを開設したのだが、楽天はソーシャルネットワークの流行に遅れまいとしてだろうか、このところ次々に改変を行い私としては気が重い。 その一つにプロフィールというのがある。今までのプロフィールを独立させて、twitterやfacebookのような機能をもたせようとするものらしい。さて、これを私はどう使うべきか?ただ改変だけ認めて放置しておけばいいのか?などと思い惑っている。昨日思いついたのだが、使わないのはもったいない。日々のメモ代わりに使うというのはどうだろう。いつもメモがたまりすぎ、どこで書いたか必要なとき思い出せなくなっている。ふと、思いついたことをメモするには役立つかも。プロフィールとあるのだから、私のひととなりを丸出しにすることは趣旨にあっているのかな。あまりさらけ出すのは好きではないが、まあ、そんなこと気にする歳でもないし。 というわけで、プログ開始から満7年、ブログのサイト自身が時代に合わせて、猛スピードで進化(?)する上に年齢とともに、書くモチヴェーションやエネルギーが細ってくるが、それに負けないよう、ぼちぼち細々と寿命尽きるまでやり続けたい。と願っていますが。。。さて、どうなることやら。 素晴らしい写真を飾るMr.Danjoseも私よりさらに高齢です。お互いに弱っていく身体と闘い、いきいきと輝けるよう頑張っています。 プロフィールのフォローもよろしくね。これからは、その時々の思いもメモしますので。
2012.01.19
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2012年明けましておめでとうございます昨年は東日本大震災やフクシマ原発事故など今までの人生では経験したことのないような災害や事故、政変や経済の世界的破綻などに遭遇し、私たちの築いてきた高度経済成長の行き着いた先をまざまざと見せつけられた1年でした。(鉛筆画:竹。2011年9月より」始めた鉛筆画。80歳代の女性ばかり10数名のサークルです。60歳代と若いのは私ひとりです。)日本の社会は、これから、本格的な高齢社会に突入する。個人を主体とした核家族が高齢社会へと突入していく。これは、今までの日本が経験したことのないまったく新しい家族のありようであり、高齢者社会をどう構築していくのかを模索していかなければならない。(鉛筆画:ノアザミ。)私自身も今年は69歳となり、いわゆる高齢者のひとりである。私はどのような老を生きていくのか?この問が切実で現実的な意味をもって迫ってきている。(鉛筆画:ナナカマド 写真ではよくわかりませんが、だいぶん鉛筆画に慣れて、私としては良くできた作品です。)1昨年より、私自身の予期せぬ体力の老化、80歳代の高齢者たちとの交流(鉛筆画サークル)、我が母の最期の生きざまをどう貫くのか、などなど、具体的にさまざまな体験をすることで、私自身、今まで無関心、成り行き任せであった「老人」ということを意志的に考え勉強する必要を感じ、自分の残された命の時間をどう切り拓くか模索し始めた。(鉛筆画:ハナウリグサ、別名トレニア。夏の終わりごろ私の散歩道に咲いていた花。濃い紫が印象的。2012年は更に裸婦のデッサンを木炭で描くグループに入れてもらい木炭画をやることになっています。楽しみです。)今年はますますこの「老い」のテーマを掘り下げ、私が若い時から追及してきた個として自立した新しい人間性の確立にむけて、老人の生きざまを模索する年のスタートとしたい。社会のお荷物としての高齢者ではなく、社会を建設していくひとりとして役割を果たせるような人間性を磨くことはできないのだろうか?2011年家というものに縛られ、その中で完結した我が祖母の人生、家のためにのみ、献身した人生の最期に、その価値観から見放されよとしている我が母の人生、この2人の先輩の女とは質的に異なる最期を迎えることができるような老人をめざそうと心新たにした新年である。今年もどうぞよろしく。
2011.12.31
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NPO法人「森は海の恋人」代表であり、気仙沼で牡蠣養殖業を生業としておられる漁師である・畠山重篤さん、 今日朝日新聞の記事でご無事であることを知りました。 生粋の漁師、たとえどんなことがあっても海から離れられないと語っておられるお姿に心打たれました。 約20年間にわたり5万本以上の木を植え続け、やっと気仙沼湾が豊かな生き物の棲める海になり、牡蠣やホタテの養殖はこれから盛期を迎えるという矢先に今回の大震災となった。畠山さんが津波で失ったものは、70台の養殖用のいかだ、5そうの船、いけす、作業場、作業機械など、被害総額は約2億円にのぼるとのこと。毎年実施している植樹祭も、今年は開催できるかどうか分からない。 瓦礫と化した町や村を目の当たりしてかくも甚大な被害をこうむりながらもなお、強く「どんなことがあっても、漁師は海から離れては生きられない。」 と言い切って立ち上がろうとされているその姿は清々しい。毎年千人あまりの子供たちが、畠山さんのもとを訪れ自然の在るべき姿を学習している。 自然への深い洞察力、その知性、漁師として生きることをとおして、その人間性を獲得されて今がある畠山さん。 その生きざまは、その人間性は現代に生きる私たちが見失ってしまっているもの。 今回の大震災のなかでもその深い人間性を体現して力強く再生への道を模索されようとしている。 どうぞ、健康にはくれぐれも留意され、更なる高みに向かって復興へ歩みを続けてくださることお祈りしております。 日本社会がオリンピック開催に湧き立ち、高度経済成長期へと突入しようとするまさにその時、 「海がやせた原因は、森にあるのではないか」と感じて、1989年から気仙沼湾に流れ込む大川の上流に落葉樹を植え続ける活動を続けてきた漁師・畠山重篤さん。 私は、10年ばかり前だと思いますが、小学校の国語の教科書で畠山さんの活動を知った時とても新鮮な驚きと衝撃を受けたのを今でも鮮明に思い出します。 その畠山重篤さんのスタッフが私のブログ記事「ブナの森・獅子ヶ鼻湿原」(2009.09.11)に昨年訪れて下さいました。 (鳥海山麓の伏流水:苔むす谷川となる伏流水。それは豊かなブナの森が育むもの。この水が海に注ぎ込むと、海の生き物たちのゆりかごとなって、豊かな海となる。)(この紀行エッセイのMr.Danjoseの写真は力作多く、私のお気に入りの写真でもあります) この記事はMr.Danjoseが山形県の鳥海山山麓を訪れた時の写真紀行で、気仙沼とは反対側の日本海側のブナ森のエッセイです。畠山氏の活動を少し紹介したのがご縁で、私のブログに書き込みをしてくださいました。私も氏のエッセイブログをお気に入りに登録して、時々拝見させていただいておりました。しかし、畠山さんのブログエッセイは昨年暮れには、突然休止され、削除されてしまいました。そうこうしているうちに、今回の東日本大震災がおこり、畠山さんのことが気になっていましたが安否を知るよしもなく今日にいたりました。ところが、今日の朝日新聞に93歳のお母さまは津波の犠牲になられたとのことですが、ご一族はみなご無事との報道があり、「ああ、よかった」と安堵しました。 1世紀に及ぶ苦難の生涯を気丈に生きてこられたであろうお母さまのことを思うと胸が痛みます。ご冥福お祈りいたします。
2011.03.28
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2011年明けましておめでとうございます 私の散歩道・森林公園の山道には、今、フユイチゴが盛りと実っています 地を這ってからまりあって何処までも伸びる旺盛な生命力フユイチゴ落葉して明るくなった枯れた雑木林にひときわ濃いグリーンの葉っぱをひとり大地に張り巡らして可愛らしい赤い実をそこここに、まき散らしてルビーのように光る果実でもその実にもその茎にも荒々しいトゲがいっぱい厳しい寒に耐え、みのる実は人を毅然と拒んでいる 私の母や祖母の一生にも似て。 またひとつ齢を重ね、残された生きる時間ははっきりと目に見えて来た。 2020年代には国立社会保障・人口問題研究所の推計では、団塊世代が後期高齢者になり、毎年の死亡数は150万人台に達し、出生数の2倍になるという。高齢化率は30%に達する。 2030年代にはこの時期、中高年となる団塊ジュニア前後の男性の単身化がとりわけ進み生涯未婚率は男性3割、女性2割を超えると予測されている。1990年生まれの女性の場合3分の1以上が子をもたず、半数が孫を持たない計算になるという。現在農村部で起きている高齢化とは質的に異なる極めて多くの中高年の単身者が、都市部に溢れ深刻な都市問題が起きると予測されている。これは私の孫・ことねやちさが成人して社会に巣立つ頃の社会情勢である。 現在も社会は激しく変動しているが、まだまだ目に見えている部分は少ない。見えていないがために人々の多くは気づいていない。しかし、今、社会の深部で進行していることが孫たちが社会に巣立つ頃には誰の目にもはっきりと見えてくる。その時の備えを私たちはしているか?もし、いのち永らえていたら私たちは高齢者として、社会のお荷物になっているのか?そのころになって、私たちはどのような生をまっとうしよと、今を生きているか。今何を準備しつつあるか。よくよく考えて、人生最終ランドの身支度をしなくては。子に継がせる財もなく、はなはだ心細い余生ではあるが、若い者たちに、ほどほどに迷惑をかけつつも精神的に毅然と自立して生きる人生でありたい。そのためにもまずは健康、加齢とともに弱り故障する肉体を労わりつつ鍛えてまずは健康、 今年もこのような心がけで日々進化しつづける老人をめざしたい。 遅ればせながら、明けましておめでとうございます。今年もどうぞ宜しく。 お正月は、息子夫婦が東京から帰省し、私の実家の姪や甥の家族と若者たちが一同に会して、にぎやかに過ごしました。特に、息子のKenは30にしてようやく、自分の目指したい、自分に合っている仕事で、将来設計を落ち着いて見通せる位置にたどり着き、これで自分のキャリアをどんどんつけるべく努力邁進出来そうな予測可能なところに到達して、親としては、ほっとしたお正月を迎えました。肩の荷がやっとおりました。 息子と色々話す機会を久しぶりに持ち、青年として、しっかり自分の足で立てるよう成長しているさまに、親の出る幕は、もうないと実感でき嬉しく感じました。 そして、日本の経済の最前線であがいている青年達はその組織に対する考え方、組織との距離のとり方、自分のキャリア形成の仕方など、私たち親世代とは質的に異なる見通し、実践を着実にしており、この青年達が、やがて日本の指導層になっていったとき日本もかなり変革できているのではないかという明るい希望も持てました。そのような青年達の一群が日々必死に未来にむけて格闘している世界があるということを実感でき、とても勇気をもらいました。 日本の社会は今、最前線では古いものとそれを否定する若いエネルギーの厳しいつばぜり合いがあり、まだ、表舞台には出てきていない新しい力が徐々に形をなしつつあることも見えてきて、頼もしく感じました。 生まれる命よりも、死亡する人数の方が2倍も多くなり、超高齢化社会になる20年後以降の日本、私たちが超高齢となったとき、今の巨大組織の企業のあり方は多分崩壊へとむかっているでしょう。新しく生まれ変われない企業は退場していることでしょう。 その時社会を創造的に変革していける価値観が何よりも要求され、より民主主義的な感性の人間像を社会は要求するのでは。 今の学校教育はその20年先30年先を見通したものであるか?子育ては、20年後30年後の社会をを見通しておこなわれているか?2011年は、新しい創造的な人間を育てる価値観はどうあるべきか、益々、身近な課題として、厳しく問われている。
2011.01.04
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2010年明けましておめでとうございます 当地方は今粉雪が深々と降っています。久しぶりに雪のお正月となりました 教えることは希望を語ること学ぶとは真実(まこと)を胸に刻むこと(ルイ・アラゴン) 昨年は歴史が確実に転換していることを目の当たりにすることが出来た年。今年も更なる激動の歴史が展開される予感がみなぎっています。半生紀を越えて生きることのこれは醍醐味です。 しかし若者たちには、とても厳しい時代になっている。重苦しい暗雲がたちこめている。 社会の奥深くで、大きな変革のうねりがあり、そのうねりが必ずや表舞台にあらわれる。そのとき若者たちが社会の担い手として活躍できるはず。数十年先を見通す「学び」と確かな能力を蓄える今は時期闇のなかでこそ、身につくものもある。 だが、今の日本の社会の学校教育の主流の「学び」は相変わらず、皮相な暗記学習、テスト点数主義 このような学校教育の中からは将来を見通す力、今社会に何が起こっているかを考える力は育たない。社会を自らが主体者となって切り拓く市民は育たない。 マニュアル通りに動くロボットのごとくまさに機械の手足となって働く労働にはこのような教育はもってこい。 戦後の日本の教育が作り出してきた人間は順調に高度経済が成長しているときは問題なさそうにみえた。 しかし、技術革新やグローバル化でそのような人力は不必要になりつつある 今、若者に起きている失業や就職の機会が少ないのは、その彼らのしていた労働のあり方そのものが不要だという証明ではないのか単なる不況などという生半可なものではないもっと、構造的なもの 未来を見据えた学力を形成していないところにこそ今の若者たちの就職難の問題があるのではないか それでもなお物言わぬ、本当の学力が、からっきしない子供たちを育て続けている学校教育や家庭 さらに最底辺にいる子供たちはどんな意味でも労働力には成り得ない驚くべき子どもたちが出現しつつある その従来の能力さえ身に付けず学校からドロップアウトしている。 知力は勿論のこと体力、気力、ともに育っていない 社会にでても働けない働く意欲あっても、働く力ない麻薬の売人か、万引か、詐欺かでしか命をつなげない そんな子どもたちが育っている彼らはモラルが低いからではない 人としての、社会的な「人間」としての人格を幼い時から、その年齢にふさわしく大人たちから養育を受けてこなかっただけ。 金儲け第一の文化の餌食となって幼い時から生活してきただけ 学校でも彼らはお荷物扱い こんな子どもたちが層となつて社会の底辺によどむ国其れが21世紀の日本 貧困と格差 この克服なしに未来の展望は語れない若者のこの状態は大人自身の問題でもある 子どもの「貧困」とは何か。昨年はこの問題を深く自己にひきつけて考えざるをえない子どもに出会い格闘してきた。勿論、生計もなりたたない貧困のなかで育っている子どももいる。しかし、親世代は「貧困」とはいえない状態であるが、その子どもは確実に「貧困」層に転落せざるをえないだろうと予測できる子どもたちの出現である。幼い時から、生活習慣の基本をトレーニングしておらず、人としての体力さえ育っていない若者である。「モノを消費」することだけが肥大している。テレビ漬け、ゲーム漬けの幼い日々知能が低いわけではないが、「学力」は何もついていず、人と交わることさえ面倒でできない。幼い時から遊びなどを通して人と交わる術も身に付けたことがない。恐らく社会に出てもどんな意味でも役立たない。そういう子どもが出現している。ゆるやかに一からやろうとしても、それもできないほどの幼さなのである。 こどもの教育や子育てについて、根底のところで対策たてて実行していかないと、少子化のその質のところでも、とても危ういものがある。それが、変革のうねりのなかに内包する日本の今である
2009.12.31
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明けましておめでとうございます新しい社会の胎動を奥深い所で予感する春2009年・元旦 (会津張子・福ベコ) 昨年の暮れにNHKテレビで《ターシャからの伝言:夢を生きた絵本作家最期の日々》というドキュメンタリー番組を放映した。昨年の6月にターシャ・チューダーは92歳でその自由で奔放な生涯を閉じた。老いて益々、心しなやかに羽ばたき、老いて益々、魂、解き放たれて自由に生きることを楽しむターシャ・テューダー ターシャの最期の日々の映像から自分のやるべきことをやりきった最期の日々その静けさ、その美しさ苦難を厭わず、時代に迎合せず、大きな自然の懐深くにいり込んで自然の営みのなかで、そのの営みに逆らわず生命の誕生や死を深いところで共感し自らの血肉として自らの人格のなかに結晶させて最期へとむかっていく老い バーモント州の山奥の厳しい長い冬のあとにいちどにどっとめぐり来る春筆舌できないほどの妙なるやさしい色合いのチューリップ咲き乱れる庭で「まぁ、あなたたちはここが気に入ってくれているのね」と群生して咲くチューリップに穏やかに話しかけるターシャ 「このように花が咲くまでには12年の歳月が必要ね。チューリップの気に入る土を作るには長い年月が必要なの」 冬の到来の前、何百という球根を植えつけながらターシャは 「枯葉の上に雪で覆われた長い冬が球根たちには必要なの。雪の下の土のなかで春の準備をするの。待つことが必要ね。今の人たちは、待つのがきらいだけど。」 ターシャの一つ一つの言葉のなかからは本物の美しさ、本物の強さとはどのようにして生まれるかがこぼれ落ちている。 ターシャは私のおばあさんの生きた時代の生活の知恵や技を延々と受け継ぎ発展させた。20世紀の科学技術万能の時代に頑固にターシャが守りぬいたものターシャが1世紀に及ぶ長き人生のなかで最期まで孤高に貫きとしたものその高み、その大きさその自立する姿の確かさこれから後を追うわが身としてはただ深く頭を垂れるばかりなのである。 ターシャが生きたアメリカその同じアメリカで、その同じ時代に ターシャの生きざまとは全く異なるアメリカがあった果てしない消費を繰り返し、インフレで将来値上がるであろうことを当てにして借金をして家を買い、その値上がり分でさらに借金して車やら旅行やらと消費をし続ける社会物欲の限りない肥大。消費を無限に拡大していくことが好景気の指標となるアメリカの資本主義社会世界中がアメリカの消費欲望を当てにしてモノを作り続ける社会そのおこぼれで工場労働が成り立っていた世界これがアメリカの繁栄であり世界の富みを集め続けたアメリカの豊かさの実態バルザックのあら皮アメリカ版欲の塊 そのあら皮は 2008年9月破綻した その破綻によって富める者と貧しきものの姿がはっきりと目の見えるかたちで露呈した 貧しきものは急坂を転げるように奈落の底へと沈んでいった 富める者たちは息を潜めてほくそ笑んでいる この結果はアメリカ資本主義の必然であり予想されたこと。余りにも劇的に早急にそれが事実となった 今、マスコミは連日連夜、その社会のありように非を唱え弱者の擁護者かのように喧しく騒いでいるが、彼らは、金にまみれた好景気のつい数ヶ月前まではアメリカの新自由主義に賛辞を送り続けていたではないか。裏を返したように不景気だ、倒産だ、派遣切りだ、失業者がかわいそうだと連日連夜今になって騒いでいる。 混乱や、破綻はどの社会にもあることそれは歴史が繰り返して来た事むしろ破綻は、その内部に次の社会への胎動がある 新しい社会への 潮流が社会の底流にあるはずだその流れがすぐに表面に現れなくとも必ずや主流となって流れるはず。 その流れに耳澄まし皆の前に照らし出し、励ますのがマスメディアの使命ではないのか。 2009年は そのような歴史の転換点の始まりの年ではないだろか。その歴史の主体的な創造者として自らを鍛え、力を蓄えていくことが今、私たちに強く求められている。 若者も、老いたるものもこの予感に満ちた意義深い元旦をこころ新たに祝おう ターシャ・チューダーについて、2005/10/7の日記で書いています。興味のある方は、併せてぞうぞご一読を。
2008.12.31
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2007年明けましておめでとうございます(私の散歩道:孫娘ことねと)私の歩いてきた道大きな戦争が終結してみんなが貧しく食べるものも十分でなかった幼なかった日々電話は村に一軒しかなかったし、急用は、いつも電報だった時代。真夜中に「デンポウですよ、デンポウですよ」とどんどんと雨戸をたたく配達夫の声に家中のものが起きて来て心配顔で電文をのぞきこんだ夜があった。あれから半世紀電話は一人ひとりが携帯しインターネットのウェブに乗って世界の果までその情報や私信は瞬時にかけめぐる。幼い日々にこのような日々があると予想できたか。大晦日には新しい肌着、新しいセーター、新しいズボンなどすべてを新しくしいのがうれしくって枕元に置いて寝た幼かった日々。元旦の早朝は真新しい服を着てお参りして、家族全員でお雑煮を食べた「おめでとう」と口々に言い合って。お正月の料理は祖母や母が前日から準備して作ったものごぼう、さといも、くろまめ、金時豆、さつまいも、だいこん、にんじん、れんこん冬の畑の作物だけそれぞれ湯がいてから煮締めたものクチナシの実で色づけたサツマイモのきんとん動物蛋白質といったら卵、ぶりの煮つけ、たつくりの炒り煮ぐらいお雑煮は家でついたお餅にもち菜を青々といっぱい入れて。ただそれだけのシンプルなお雑煮。これら全てを女達が、もくもくと準備して作ったお正月。お正月三が日は女たちは台所に立たなくてもいいように大量に作り置いた。これが私達の幼い日々の貧しいお正月であった。(お正月の床の間には、よく寒椿が活けられていた)お正月が来るとその祖母や母の作った田舎の煮物の味を私もレンコンをサトイモをゴボウをしこしこともくもくと再現しようとする。おせち料理はお重にいれて、1万、2万円でデパートでスーパーで売られている。お餅もパックにいれて売られている外食ですべてが済むお正月。これでいいのか。幼い子のいる家庭は、若者のいる家庭はせめてお正月だけでも、田畑の作物を、家庭の手で調理して、ゴボウのニンジンのサトイモのレンコンの味を飽くほどに食べてみるのもいいのでは、こんなお正月は古臭くみんなの笑いものなのだろうか。私の歩いた半世紀余りの道この移り変わりの落差は、人の心をも大きく変えている。孫娘ことねの生きる半世紀後の社会はもっと激しい転変があるに違いない。時代は大きく変ろうとしている。
2006.12.31
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ユメちゃん(パピヨン)、セントバーナードに襲われ負傷し、手術する。このところ私は風邪をこじらせ、ユメの散歩が規則的に出来ずにいたので、我がつれあいに、このゴールデンウィーク中の散歩をお願いした。ところがである、我がつれあいは何時ものユメの散歩道ではなく、車で近くの大きな公園に連れて行き、そこで散歩させることに相成った。そして、帰ろうとして、駐車場の車に乗ろうとしたちょっとした隙に、山の方から四頭の大型犬(大人の腰あたりまで背丈がある)に、さっと囲まれ、ユメの背後からその中の1匹に噛まれた。この四頭の1匹はセントバーナード犬、我がつれあいは気が動転し犬の特徴をよく覚えていない。とにかくその犬たちから必死にユメを抱き上げた。飼い主は何処にいたか。数十メートル先で、大声を張り上げ自分の犬を制止しようとしていた。しかし、犬は飼い主のコントロール下にはいなかった。飼い主の制止に従っていない。そして、犬は、すぐに山の方に退散した。飼い主はどうしたか。我がユメには何らの声かけもせず、あたふたと自分の犬を追いかけて山の方に消えていった。この飼い主は、大型犬四頭を公共の公園で放し、リードもつけずに散歩している。このようなことが大きな公園で許されていいか。このような人間が犬を飼う資格があるか。犬が飼い主の無責任で、他の犬に危害を加えても、何の罰則もないという。これでは、幼い子どもが犬に襲われ、殺傷されることもありうる。余りにも、自分勝手、社会性の無い人間が犬など飼う資格がないのではないか。犬の大便や小便の躾についてもしかり。日本のような狭い敷地のなかで大型犬を飼うことが適切か?アスファルトの上に膨大な量の小便を垂れ流したまま放置して、散歩させている人々が多い。大便も始末しないで立ち去る人は多々いる。このような状態で、ただペットとしての犬がどんどん増え続けるニッポン。厳しい罰則を課さなければ、この状態が改善されないと云うのは情けない。しかし、このようなマナーの劣悪な飼い主の無責任を放置しないで、厳しく罰するような世論の形成が、今、必用な時ではないか。獣医師も言っておられたが、このような人には何を言っても通じない。されば、厳罰しかない。以前、ブログで紹介したパピヨンらしからぬ、凛としたユメちゃん、昨日は噛まれたところを手術し、筋肉を整える治療をしました。15針縫う手術でした。術後の経過は良好で一安心。飼い主の我が夫婦のうけたショックはかなり大きい。(手術等の出費は何と6万6千円でした)このゴールデンウィークは、かくして、わが家は散々の出足となりました。
2006.05.02
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トラックバックの機能停止はブログに何をもたらすか。私は、1週間前から、このブログのトラックバックの設定を排除した。写真:私の散歩小径より 満開のミモザ。ミモザの花言葉「真実の愛」「童貞を買います」とか「イルカちゃんの英会話教室云々」などなど、私のブログと全く関係のないトラックバックが相次ぎ、そのいかがわしいトラックバックを削除するため、絶えずブログを監視していなくてはならず、インターネット嫌いな私には我慢のならぬ精神的負担であり、遂に根負けして機能停止をした。トラックバックという機能は、今までのホームページに無い広がりをブログにもたらすという宣伝文句があるが、少なくとも現在のレベルのブログでは、質の低下や金儲けのための広告塔の役割をしているに過ぎない。被害を被っているものが、機能停止に追いやられ、害毒を流している者にはなんの処置もされないとは、本末転倒もはなはだしい。「楽天」はこのような者の氏名、住所、職業を公表すべきだ。これは言論の自由な社会の為にも必要なことだ。このような者を勝手気ままに泳がせることが、言論の自由を取り締まる口実になるのだ。インターネットというメディアは、確かに今までの人類が経験したことのない革命的なものである。しかし、この文化を人間がどう操り、豊かな文明に導いていけるかは、まだ未知数だ。人類を滅亡させる道具であるかもしれない。とりわけ、誰もが自分の意見や思いを自由に発信する場を、簡単に持てるようになったことは画期的なことである。この意味では、このメディアは民主主義社会のシステムに、今までの社会システムとは異なる広がりや質をもった新たなる発展の可能性を与えるかもしれない。しかし、私は、現在のインターネットのあり方やその内容と質に、必ずしもばら色の未来を感じていない。むしろその内容に悲観的になっている。りわけ若い世代にとって、インターネットは、有害な面すら出てきている。過去の文化から思想や業績を学び、自分の血肉にしていくことは、学びの中心的な中身である。そのためには、ボリュームのあるものを持続して読む能力や言語が必要だ。これは、幼い時からの粘り強いトレーニングなしには獲得できない能力だ。インターネット世代はこの能力をトレーニングする機会を著しく損なっているように思う。最近の学校教育は、インターネットで調べることに非常に高い価値を見出している。教師さえそうだ。インターネットで調べることを宿題にさえだしている。パソコンが使いこなせない親の世代は、それだけで子どもはすごい勉強をしたかの錯覚に陥っている。確かにインターネットは、どんなに遠く離れていても即座にやりとりできるという点では、今までの文明が持ち得なかった革命的なことである。しかし、その中味は、まだまだお粗末。部分的であり、このような断片的な知識では、本当の意味での学びはできない。インターネットの普及で、広く遠かった世界が、とても近く狭いものに感じられるようになっているのに、今の子供たちは日本の地理の知識にさえとても疎いのである。日本にどんな県がどこにあるか知らない中学生はとても多い。まして韓国や中国がどこにあるか知らない中学生は普通である。大学生でもイラクが何処にあるか指摘できないものは結構いる。さらに、インターネットにはまっている中学生や高校生は、現実の世界で自分を発揮するための居場所を見つけることができないので、インターネットの世界に集合し、非常に限定的な特異な閉鎖した場で自分を確認している。しかも、このような世界に集まる少年少女たちの数は膨大である。バーチャルな世界で、人と直に接しないでも、人と付き合える世界に幼い時から身をおいて、どうやって人として生きていく力を養えるか。インターネットの世界は、全体像をつかむことがとても困難で、全体と部分の関連性を思考するには不適な世界だと私は思っている。このような媒体に無批判に、無条件にはまっていくことはとても危険なことである。むしろ、未来に生きる子供たちが、今、すべきことは、このメディアをどう人間らしいものに作り変え創造的に進化させて行けるかという、高い次元から考えることのできる人間としての深い学びではないか。断じて、パソコン操作の技術を身につけることでない。そんなものは子供たちの生きる20年後にはどんな人も簡単に操作できるものになっているはずだ。自動車を運転するよりも簡単になっているはずだ。
2006.04.12
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エルクさんの「エルク日記」で紹介されている、動画で見る「100人の村」(NPO OASIS製作)、現代の社会を地球規模で考える事の出来る、とても素晴らしい動画です。文字を読み、そこからイメージして理解すること不得意な現代の若者たちに、ぜひ見てもらいたい動画です。100人に縮小された小さな村にたとえて、この地球全体をを眺めたら、私たちの住む社会はどうなっているのでしょう。自分のいる位置を世界全体の大きな視点から眺めたら、自分のいる位置のモノの豊かさに驚くでしょう。そして、未来の社会がめざす方向が浮かび上がって来る。私たちが何を学び、どんな人生を生きる為に、どんな力をつけなければいけないか、何が人として生きるにふさわしい生きざまであるか、おのずと浮かび上がってくる、それは、素晴らしい動画でる。ぜひ、ご一覧を。「動画でみる100人の村」
2005.10.09
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昨夜の11時の時間帯のニュース番組の中で、若者が就職先で定着できず、無業やフリーターになる若者の問題をとりあげていた。昨夜登場した青年たちは、地方の農村で「農業従事者育成計画」というプランで、6ヶ月間研修し、農業体験をするというのである。其の青年の中には、大手の商社やIT関連企業を辞めて、農業体験に参加していた青年もいた。彼らは大きな組織が若者に希望を与える職場ではない、自分の生きがい、やりがいある仕事が与えられない、などと言っていた。1年たらずの就職で、その職場や仕事の何がわかるというのだろうか。そのような若者たちが農業を6ヶ月体験しただけで何が見えてくるというのだろう。かつての会社勤めより、さらに今の農業の現状は厳しく、やりがいや生きがいを見つけにくい産業であるという、現実を認識しないまま、農業者としての体力も知力もない若者が農村にたむろして何を見つけることができるというのか。農業の現実を客観的に判断して、それでもこの農業の中で何かを切り拓きたい、作り出すために生きようという、認識すらできない青年に農業に従事できるほど現実は甘くない。お粗末な知性しか持ち合わせていないと言わざるを得ない。困難を創造的に切り拓くことに生きがいを感じる気概なくして、全くの未経験者が農業などやれない。しかし、これは農業を体験しているこれらの若者だけの話ではない。外国を自分探しの旅と称してさ迷っている若者もしかり。生活費には何の苦労なく、専業主婦として子育てと趣味で楽しいマイホームを夢見ている若い女性しかり。この若者たちは恐らく何も見つけることはできないであろう。自分の希望する仕事など彼らにはない。そのまま老いていくばかりだ。彼らの生きる態度は、自分、自分と自己のことばかりを中心に考え、自分探しをしている。本来、自分の中には探すほどのものは何もない、何も築いていないのに、何かあるかのごとく錯覚しているだけだ。幼い時から、自らの力で生きていく体力や学力のトレーニングをしないまま大人になっている。絶えず受身的に、出来るだけ失敗は避けるように、効率よく最短距離を歩むようにプログラムされた親や学校の用意したレールを歩いてきた。そのため、自分の血肉化した実力を確信できず、彼らは自信がないのだ。学校を卒業したら、ほぼ自動的に就職し、そこで仕事人間として鍛えられ一生を過ごすという親たちの時代は終わったのだ。その親たちに育てられた子供たちは一層、怠惰になり、刹那的に消費行動を得意とする大人になっている。或いは又、極度に自閉的になって生きている。人と人の関りの中で、自らを鍛え、自らで関係を切り結べる能力を幼い時から育てていない。現在、無業者やフリーターの若者が社会的にも問題になっているが、其の原因は複雑でさまざまである。豊かな社会で、育ちそびれている若者たちもその一群を形成している。
2005.08.12
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我が家の息子が5年ぶりにアメリカから帰国し、7月からの入社準備のため何かと慌ただしく、我が家は普段の夫婦だけの静かな生活が大混乱に陥り、若いエネルギーにかきまわされ、老いていくものが若者と生活する事の大変さを思い知らされています。パソコンもほぼ若者に独占され、いざ始めようとしたら何時も使っていたローマ字入力から日本語変換ができず、あれこれいじりまわしてやっと前の状態に復旧。こんな、あんなで息子は新しい職場へとやっと旅たって行き、私たち夫婦の静かな生活も今日からは少しづつ元のペースにもどりそう。でも、久しぶりに我が家は社会の最前線で日々暮らし、仕事している若者たちの空気が流れ込み、熱気むんむん。しかし一方で日本の若者たちが今、おかれている状況の厳しさを改めて痛感した。とりわけ、誠実に懸命に働く優秀な若者がとても困難な状況に陥っている。世間ではニートとかフリーターとかの若者に注目し、何とかしなければという声がやっと大きくなろうとしている。だが、正規に雇用されて働く正社員の若者たちも、とても大変な状況におかれている。入社間もない青年に過大な仕事が与えられ、それをこなすための指導や助言は何も与えられず、個人的な奮闘で仕事をこなさなければならない。そんな状態が長期(といってもせいぜい6ヶ月~1年)に続き、心も体も疲れ果て仕事に復帰できないで辞めてしう若者が続出しているという。自殺者まで出る厳しさである。中間管理職の年配者たちは仕事の内容、その質、スビードについて行けず、仕事を部下に丸投げして、指導を放棄している。若者を育てる事を放棄している。若者を育てる管理職が育っていないのではないか。高度経済の成長期に30代、40代で会社勤めしていた人たち、更にその上層の管理者たちは、管理職としての見識や能力を磨き、蓄えることを行っていないのではないか。特に世間が羨み、利潤を上げている企業の現状がこのようである。生産ラインを管理する側に採用されている若者がこのように粗末に扱われていいものだろうか。高度成長期以前までは、高校や大学を卒業し企業に就職してしまえば安泰で、ある意味で一生が保障されていた。今、この産業構造はすごいスピードで崩れつつある。安眠をむさぼっていた間に、社会はすごいスピードで変貌していたのだ。中高年が時代の先端について行けずにいるのみならず、自分の歩んできた経験や知恵さえも役立たなくなっている。そんな会社人間が多いのでは。次世代を担う若い柔軟な頭脳が、この中間管理者たちの無能によって無残に破壊されている。いくらでもスペアがあるといわぬばかりに。本当に仕事のスペアは無限にあるだろうか。否である。このように若者の才能や人格を粗末にする会社や国は必ずそのしっぺい返しをくらうだろう。若者たちは確かに懸命に働き、何とか打開の道を見つけようと課題に応えている。ひたむきに応えようとしている。しかし、そのようなひたむきな青年ほど心を病み、ぼろぼろにされている。ぼろぼろにされながらも、なお会社への復帰の道を痛々しいほどまじめに模索して、自らに鞭打っている。狭い閉じられた世界のなかでもがいている。自分が全否定されたと思い込み極度の自信喪失に陥っている。会社からはじき出されたら、再び社会へ復帰できないと必死に復帰への道にしがみ付いている。これで若者の人生は拓かれるだろうか。もっと世界に目を向け自分の生きる視野を広げ、新しい価値観の模索の旅をした方がいいのでは。この今の社会の価値観もいずれ大きく転換するはずだ。30年前と今が大きく価値観を転換したように。若者は未来の価値観を展望して生きる道を模索したほうがいい。今の価値観にしがみ付いていたら、心を病み死が待っているだけだ。子供たちや青年たちの生きる社会は、この今の日本の社会ではない。子供たちや青年たちが生きる未来の社会に耐え得る人間性や、人としての尊厳を実感できる人間像を模索し創りだしていくことが私たち親の仕事ではないか。そして、それは青年たち自身の課題でもある。自分の人間としての尊厳をひどく痛めつけられているのに、それに毅然と立ち向かわない若者たち。そんな若者たちには自殺や、うつという病への道があるばかりだ。力強く生へと立ち向かうエネルギーなど出てくるわけがない。頭の硬い、ちっぽけな権力欲に取り付かれている大人など相手にするな。いずれこの御仁は滅びる。このお方たちも哀れな犠牲者かもしれない。世界は広く果てしない。その世界に目を開こう。
2005.06.24
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