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最近出合った低学力の子供たちは、ほんとうに低学力なのか? 先週から今週にかけては、中学、高校ともに、1学期の期末試験期間となり、この婆さんも子供たちとねじり鉢巻で勉強いている。まさに、数学、英語、はたまた国語と教科勉強の頭をフル回転、脳の血管が働きすぎて破裂するのではと思うほどである。老い行く身にはこの頭の使い方は応える。過度の局部疲労は禁物禁物。 最近の大学、とりわけ地方の私立大学には、恐ろしい程の低学力の子どもがどんどん入学している。定員を充足させるためには、なりふりかまっておれず、指定校推薦という名のもとに、まったく大学の勉学に耐えない生徒もスイスイと合格させている。 私の所にも最近、今まで経験したこともないような低学力の子どもが、抜き差しならぬ状態に陥り、やって来ている。 私は、子どもたちが、知識不足で点数が取れないことは、余りたいした問題ではないと考えている。ないものは、いくらでもその気になれば補い身につけることができる。他人より遅いか早いかだけの差異である。 例えば中3生で、少数の割り算や分数計算(通分ができない)、掛け算の九九も覚束ないとなれば、そのつまずいたところまで遡ってやり直せば済むこと。(今までのこどもはそれで十分挽回して、立派に生きている) しかし、最近出会っている低学力といわれる子供たちは、以前のそれとは、少し様子が異なっているように見える。このような子供たちに出あって、私が驚いたことは、彼らは学力が低いということではなく、知識を溜め込む脳を今まで働かせた経験がなく、ほんの少しの作業(10分ぐらい)で、ぐったりと疲れてしまい、先に進めないということである。プラクティスが全く出来ないのである。今まで、この子供たちは、生活の全般にわたって、その年齢に応じた困難を自力で切り抜けた達成感を経験したことがないように見える。その精神的高揚の体験がほぼないと言っていい。幼いときからの達成感や充実感の高揚した精神の積み重ねが、子どもを人として生きるときの粘りや忍耐力を育てている。そのことが、中学生レベルの子どもなら、乗りきることができるであろう困難を乗り切るエネルギー(気力)にもなっている。このような生育過程を全くといっていいほど踏んでいない子どもたちが大量に存在し始めている。 スポーツも疲れる、面倒くさいといってやらないし、家事労働をしたこともないし、友達とぶつかり合って思いっきり遊びほうけた経験もほぼない。大人たちに与えられたものを一方的に享受する、結構な身分で幼い時をすごしている。好きなものだけを食べ、まずいと言って捨てること平気。欲しいものは、黙って待っておれば祖父母や親があの手この手で用意する。幼い時期をこのように大人たちの消費的刹那的な生活の付録物として育ってられてきた子どもたちが、今、育ちそびれて、とても人間の精神構造とは、程遠い状態に置かれている。しかも、社会のなかで層となってかなりの量存在している。私が出会っている子供たちは、まだ比較的恵まれた子供たちだ。崩壊した現状を構築し直そうと必死な大人たちが周りにいる子どもたちなのだから。現実には、貧困と結びついて更なる悲惨で困難な状態に置かれている子供たちがかなりの数いるということだ。 彼らの得意分野はモノにたいする知識である。商品知識である。しかも、その知識も世間がコーマシャルしている程度のもの。ゲームやパソコンのサイトでは遊んでいるらしい。これが唯一の彼らのやっている生活といえる。親のどちらかも、だいたい子どもと似たような生活をしている。親自身が幼児的なのである。順風のときは、これでやってこれたが、自分の親が死亡したり、生活が立ち行かなかったりすると、たちまちにその若夫婦の生活は行き詰まる。破綻する。義務教育は、このような低学力の子供たちの問題を深く掘り下げ、それに見合った学習計画を立てて教育活動を行なうべきではないか。通り一辺に「わからなかったら聞きにきなさい」式のやり方で、解決できるほど単純ではない。何が分からないかも分かっていない子供たちに「質問に来なさい」では、なんの解決にもならない。深刻な社会問題がそこには横たわっている。極めて、21世紀的な問題であり、爛熟した資本主義社会がもたらしている問題でもある。子供たちはここまで追い詰められている。マイケル・ジャクソンが最近死んだ。この天才的な才能の持ち主が、最期はあのように醜悪な容姿になって死へと向かっていかざるを得なかった悲惨は、何か今の社会の底辺で痛めつけられている子供たちの心と通じているものがある気がしてならない。
2009.07.02
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現在の世界を深く洞察する能力を 今年度の新卒の就職活動は、世界的な不況のなかで、困難を極めている。 今、30代前半の青年たちの就職活動を、世間は氷河期などと名付けて、就職難の象徴にしようとしたが、就職難はまたまた到来したのである。その氷河期以降、急速に青年たちの働き方に質的な変化が起きている。要するに就職難は頻繁に起きているのである。 この現状は、単に景気の動向によって起きている、青年の就職問題なのだろうか? もっと大きな社会全体・経済構造そのものにおきているシステム的な転換が底流にあり、それに起因するのではないか。 現在、自公の麻生政権が進めている景気浮揚策がたとえ、部分的に効果が出て、彼らの言う景気が好転したとしても、その後に又、今よりも、もっと厳しく深刻な社会混乱や景気後退が起きる事は必然のように思われる。 益々若者にとって、就職困難は今以上のものが来るにちがいない。 今、社会が若者たちに求めている能力は何か。資質は何か。 この問いに答える、自己分析をすることなしに就職活動をしても良い結果など期待できないのではないか。 今、社会は、歴史的にみても大きな転換点にある。 私たち親世代が生きてきた価値観、仕事観では、もう立ち行かなくなっている。 封建的社会が、近代的な市民社会に変化した時、社会がさまざまな革新、革命をおこして、次の社会に進んだ。それに匹敵するような質的な変化が、社会の中では起きつつあるのではないか。特に、資本主義が高度は発達しているような社会においては。このように考えていけば、青年達に求められている資質、能力は、自ずと親世代のそれとは異なるはずだ。 新しい価値観で社会を切り開く能力・度量・資質を、企業や社会は、青年に求めている。一流の大きな企業も中小の企業にも、真剣に今の状態を打破して生き続けようと思っているところはそうではないか。今の大学や高校の学校教育は、余りにもこの社会の要請に鈍感で、的はずれな教育しか行なっていない。特に、高校の教師のやっっている進路指導には激しい怒りを感じている。その親たちも、実に陳腐な価値観で子どもの進路を指導しており、うまく行かない原因がどこにあるのか、まるで的はずれなのである。子供たちに適切な指導が出来ていないものがほとんどである。一番、滑稽な指導が、今の子はコミュニケーション能力が乏しいので、その能力をつけるための練習を課していることである。コミュニケーション能力など、その根底にある人間としての価値観や人生観と深く結びついており、付け刃的に教え込んでも世間で通用するものではない。採用する側には、足元を見られて弱みを見せているだけのこと。それよりも、若者が現代の社会を深く見る目、深く見通す力、その基盤となる教養をしっかり養うことの方が先決ではないか。そこからコミュニケーション能力などは、自然と溢れ出るもの。 社会の底辺を担うはずになる学校序列の中以下にいる若者の能力も、非常に問題あり、社会を背負っていく労働者としては、使い物にならないのが現実の姿ではないのか。余りにも真の意味での勉強をしていない。ひどい。 民営化の急先鋒、竹中平蔵氏などは企業が海外に出てしまうことの原因に、規制緩和が、生ぬるいことや税制の問題や社会が構造改革をやり続けないことを挙げているが、ただそれだけとは思えない。企業は日本の若い労働力の能力に失望し限界を感じているのだ。安くて優秀な能力の若者がいくらでも世界にはいるのだ。社会が深いところでシステム的に変化しつつある。そのような社会に対応でき、更には組織を切り拓いて行く創造的で柔軟な能力を啓発できる資質をもった青年を社会は要求している。そのような人材は不足している。そのような能力はどのようにして育つのか。これは子育てや教育の問題であるが、それに応える学校や家庭になっているかは、はなはだ疑問である。全国学力テストで競わせて子どもに知識を身につけさせるような学校のやり方では、このような社会が要請している学力や人格は育たない。それは親世代がすでに実証済みの失敗なのである。社会は、今後も混乱が続き、若者にとって困難な道のりになりそうだけれど、困難だからこそ、自らを鍛えるとき。就職し、仕事をすることで、次の社会が到来した時、存分に力発揮できるようなキャリアをつめる、組織や人と出会える選択を、就職活動を通してするように、自分を磨く必要がある。転職するたびに、社会から疎外されていくような選択はくれぐれもせぬように。今、自分のやりたいこと、やれることは何か。広い視野から考えて欲しい。もっと自分を大切にして、自分を成長させていくような選択をすることが必要なとき。 私の塾に中学から来て、すでに社会に出て、仕事をしているもの、今、就職活動しているものと多々あるが、なかなかうまく行かない。うまくいかなくとも、将来に向けて、自分の生きる道が切り拓けるような仕事の仕方を、切に望むのであるが、それも中々うまく行かないのが現実である。高校や大学の教育の在り方にとても疑問を感じている。現実の社会の困難をどう切り開くのか、その能力の育成などほぼなされていない。社会が好調なときに、受身的に生きることだけを想定して教育が行なわれているとしか思えない。あるいは、そのような教育は時間がかかり困難すぎて、放棄されているのかもしれないが。いづれにしても、「お上の言うまま」の教育や子育てでは子どもは大人になれないということだ。社会の風潮に翻弄されているだけでは、子どもは育たない。育っていない。
2009.04.23
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脆弱な日本語の基礎で、世界に通用する英語を身につけること出来るか。 このところ日本の首相は、その品性、その教養において、とても日本を代表するにふさわしい人格を備えているとは思えない人が三人続いている。共通するのは、その生まれが育ちが、日本の超上流ということを自慢している階層の人々である。日本の超一流のエリート階級はこのような人格の持ち主しか育ててこれなかったのかと驚いている。今回の就任して、まだ2ヶ月の麻生太郎首相は、とりわけ大金持ち、素性も日本の超エリート、華麗なる麻生一族である。麻生太郎氏は、漫画愛読者で、それを自慢し、秋葉原のオタク族に人気があることが売り物で登場した。これは、自民党に若者の人気をつなぎとめておく方便、戦術かとはじめは思っていたが、最近の麻生太郎氏の発言を観察していると、戦術ではなく、根っからの漫画族であることをさらけ出している。 まず語彙の貧困。これは、現代の多数の中高生と全く同じ、瓜二つなのである。首相は7日の衆院本会議で、自らの歴史認識を問われ、「アジア諸国への侵略を認めた1995年の村山富市首相談話をふしゅうする」と答弁。踏襲(とうしゅう)と言うべきところをふしゅうと読んだ。 読み違いというより、「とうしゅう」という日本語を知らないのではないか。その他、自分の母校学習院大学で開かれた日中両国の交流事業での挨拶で、首相は、用意した文書に目を落としながら、12月の日中韓首脳会談に触れ、「1年のうちにこれだけハンザツに両首脳が往来したのは過去に例がない」と語った。このハンザツとは「頻繁(ひんぱん)」の読み違いなのである。まあこれは、漢字「頻」が読めなかったのか。さらに、今年5月の四川大地震に関するくだりでは、「ミゾユウの自然災害」と言い、「ミゾユウ」とは「未曾有(みぞう)」のことなのである。これは「未曾有の自然災害」などという時の「みぞう」という日本語を知らなかったのだ。 更に、傑作は、経済の麻生と自らを宣伝誇示しているのに、株式取引の「前場(ぜんば)」を「まえば」と発音しているのである。真面目に言っているのだからお笑いだ。さらに、さらに、「詳細」を「ようさい」と読んでいる。などなど、これが日本を代表する政治家なのとは、情けない。 中学生と漢字の勉強をしていると、このようなことは日常茶飯におきて、笑えるようなことが多く、子供たちと一緒に大笑いしている。彼らが読めなかったりするのは、大部分その日本語を知らなく、生まれてはじめて、その「語」に出会ったからである。たとえば中学生たちは「みぞう」とか「とうしゅう」という言葉は、それまでの人生で使ったり、聞いたりしたことなく、「未曾有」という漢字に出あってはじめて、その「語彙」を獲得するのである。これが現代の子供たちの「日本語」の現状だ。中学・高校ぐらいの年代から、本を読まない。読んでもその年齢にふさわしいものはほとんど読んでいない。漫画だけはよく読んでいる。ゲームは猛烈にやっている。だから、「抽象語」の獲得が極めて貧困なのである。これでは、勉強もできないし、「思考」する頭脳もできない。それらを行なう道具、「言葉」が無いのだから。 さらに麻生太郎氏の問題は、話す日本語の文体である。麻生首相の話し言葉の文体は、高校生の書く論述文の文体と同じなのである。例えば、こうだ。19日の全国知事会議で、医師不足に関して発言したくだり、 「地方の病院での医師の確保という話だが、自分で病院を経営しているから言うわけじゃないけど大変だ。社会的常識がかけている人がかなり多いんで。とにかくものすごく価値判断がちがうから。そういう確保をどうするかという話を真剣にやらないと。小児科、婦人科が猛烈に問題だ。患者が多いから、急患が多いところは皆、人がいなくなる。だったらその人たちの点数上げたらと、5年ぐらい前、自民党政調会長のときから指摘している。必ずこうなると申しあげて、そのままずっと答が出てこない。医師会も厚生省も。ちょっと正直、これだけ激しくなってくれば、責任はおたくら医者の数を減らせ減らせ、多すぎるといったのはどなたでしたっけ、という話も党として激しく申し上げた記憶があるので、臨床研修医制度の見直しなどに関しては、改めて考えなければならない。医師不足を真摯に受け止めなければならないと思っている。」 これが一国の首相が全国知事会議という公式の場で発言した日本語なのである。その内容に関しては、世間が騒いでいるので、ここでは問題にしないとして、この文を一つ一つ検討すれば、かなりの分量の論述文ができそうである。 3行ほどで言える内容をだらだらと思いつくままに、勝手気ままにのべて、論旨が一貫しない。方向が定まらない。まさにマンガの吹き出しの「ことば」のように、全体の論旨を無視して、次々に支離滅裂に口から出てくるのである。絵があるときは、それでも良いのかもしれないが、政治家が公式の場で論戦する言葉ではとうていない。語彙も乏しい。成熟した大人の言葉とは到底思えない。 高校生もこのような文章を書くもの多い。大学入試の論述文など、まさにこのレベルのオンパレード。こんなレベルの文章しか書け者を大学に入学させて、大学は大変だなと思っていたけれど、日本の首相がこうなのだから、高校生がこのレベルは上出来というべきかと最近思いはじめている。 麻生首相は、英語が出来ることを自慢しているが、このレベルの日本語しかできない人が、英語などで相手国の首脳と談話や論戦が出来るのだろうか。麻生氏の英語文はどんなものであるか、一度聞いてみたい。見て見たい。この麻生太郎の日本語の文脈では、英語ではちんぷんかんぷんな意味の通じない英語にしかならないのではないか。英語は日本語に比べても、さらに論理性を要求される。まして、経済や政治を英語で論戦しようとすれば、この麻生太郎の日本語レベルでは、とうてい英語にはならない。 このように日本語力貧困な首相は、「マンガ」だけで育っている世代に、どんな言葉上の問題があるか、それが子供たちの学力にどんな影響を与えているかを生きた鏡として、国民の前にさらけ出しているのである。現在の日本の首相・麻生太郎のこれが学力の基礎なのである。このような基礎で、経済や政治などの本が読めるのか疑問だ。
2008.11.22
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民主的で自由闊達な環境の中で学んだ学生時代 2008年度のノーベル物理学賞の共同受賞者たち、小林誠さん、益川敏英さんが学んだ名古屋大学理学部の坂田教室は、「教室憲法」というものがあった。研究者には教授・助教授・講師・助手などという上下関係はなく、民主的で自由な研究と討議する環境にあった。両氏は、学部生・大学院生時代のその自由闊達な研究室の雰囲気が、理論を考えるモチベーションになっていると言っておられる。 今年度の物理学賞の業績は、1960~70年代の両氏が学生であったころにその基礎が築かれたものである。30年余りの長い年月に耐えて、その実が実り、脚光を浴びたことになる。大学はまだ貧しく、学生も貧しい者が多かったが、自由な雰囲気と基礎研究を重んじる気風にみなぎっていた。教養課程の教科が重んじられ、学生は、広い視野を持って、世界を見ることが出来るよう、あらゆる場面で鍛えられた時代であった。 実は、私、この冨士子婆も、同じ時代に同じ大学で学んだ一人である。当時、田舎から出てきた世間知らずの小娘の私には、この自由は、重荷過ぎ、どう対処すべきか戸惑うばかりだった。余りにも、それ以前との世界観が違いすぎ、わけが分からない状態であった。学生であったそのころは、右往左往しているだけで、何も得ぬまま、社会に放り出されたように思われ、大学時代のことに余り良い印象を抱けぬままであった。しかし、30余年経った今、やっと大学時代に体験したことや学んだことが、自分の人格形成の基礎となって、しっかり根をはり、その上に色々な人生経験を積むことで、今日の自分があるように思える。大学時代に学んだ事が、じわじわと私の心に響いてくる。私の血肉にやっとなって、人生の導きとなっているように思われる。そして、それは、わが子供たちにも何らかの形で受け継がれているようにも思える。こんなに長き時間が必要とは、我ながら驚きである。余りにも成果が現れるのが遅すぎた。このことは、基礎とは、その成果が何十年も経過しないと現れないものということを物語っている。ノーベル物理学賞受賞者の基礎研究も、30余年の歳月に耐えて実った。そして、その基礎研究を育む環境は、民主的で自由闊達に議論し異分野と交流しあう雰囲気にあった。名古屋大学理学部・坂田昌一教授門下生の教室は、とりわけ名大の中では、自由闊達な、徹底した民主主義を貫いた憧れの教室であった。そしてその教室は、学生を未知のわくわくする広い大きな世界に導いた。その学びの環境が旺盛な好奇心を湧き立たせ、研究活動を活発なものにした。その教室から、長い研鑽と労苦の末に、次々にすぐれた学者を輩出したことは、現代の私たち学ぶべきこと多い。これこそが大学の持たねばならない自由と真に民主的教育と研究の理念ではないだろうか。私も、同じ大学で学んだことが、私に、自分の知らなかった広い大きな世界があることを教えてくれた。そして、それが今日の自分を導いた指針となった。それが生涯学び続け生きることの大きな動機付けとなっている。そのことに、60歳をはるかに超えた今、やっとわかったのである。ノーベル賞受賞者のような華やかな立場に登りつめた人たちだけではなく、一人の貧しい市井の人間にも、この大学で学んだものは、じわりじわりとボディパンチとなって効いてくる、生きていくための薬となっているのである。これが教育の真骨頂ではないか。学ぶことの醍醐味ではないか。しかし、現在の日本の大学の現状は、これと対極のところにあるように見える。 現在の大学は基礎研究や教養教育を軽視している。 大学の教養課程や教養科目は次々に廃止され、今日に至っている。 深く考え、未知の世界へと導くわくわくするような教育や研究がなされているか。 社会に出たらすぐ役立つ技能を身につけることに熱心なのが今の大学である。以前は専門学校が行なっていた教育を大学がやろうとしている。要するに、いかに金儲けが効率よくできる人間を世に送り出すかという即効性が、大学にも求められている。 「科学技術白書」(2007年版)によれば、研究費総額に占める基礎研究費の割合は、主要国の中で最低である。(日本の基礎研究費の割合:14.3%、 アメリカ18.7%、ドイツ20.7%、フランス24.1%)日本は、現在「科学技術創造立国」の旗をたて、科学技術新興のため、5年間で25兆円投資している。これは緊縮財政の中、異例のことである。この基本計画の重点分野は情報技術・生命技術・新素材・環境などと応用的な技術に偏っており、現在華やかにもてはやされている目先の利益が得られるものに重点が置かれている。長期の視野に立つ基礎科学への投資は先細りの状態である。基礎研究の上に、応用科学が花咲くことが無視されている。更に、2004年の大学法人化以降、運営交付金は毎年削減され、削減額は602億円にのぼっている。自民公明政権は、来年度の交付金をさらに3%削減しようとしている。このことには、大学の研究環境が劣悪になるだけではなく、父母負担は一層重くなることを意味する。経済協力機構(OECD)の資料によれば、日本は教育への公的支出は、加盟30カ国中最下位である。(国や地方自治体の予算から教育機関に出される日本の公的支出の国民総生産比3.4%。)日本の高等教育や研究を担う大学がこのようでいいのだろうか。ノーベル賞受賞者たちが学んだ時代の大学から学び受け継ぐものは何か。このことを国が深く問いかけ施策しなければ、日本の大学の未来は暗いといわざるを得ない。
2008.11.07
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最近の大学入試あれこれどんな学力の生徒が大学生になっているか。 11月から12月にかけては、指定校推薦や公募推薦やAO入試などにより、来年度の大学入学者がぞくぞく決定する。中から下の学力レベルに位置する高校の生徒はほぼこの推薦入試で大学に入学しているのがこの数年の傾向である。とりわけ地方の私立大学は生徒獲得のためには、何でもあり、とても学びの場とは思えない至れり尽くせりのサービスぶりなのである。お客様である生徒の方は、そのサービスを当然と受け止め、何ら疑問感じることもなく入学して晴れて大学生になるのである。 このレベルの大部分の大学入学者は、ほぼ入学の為の試験勉強はする必要もないし、していない。では、日常的に、好奇心旺盛な実のある勉強を高校でしているかというとそれも「NO」なのである。ほぼ勉強らしきものはやっていない。 中間や期末などの定期テストに「与えられた範囲の与えられた問題を暗記して解答する。試験が終ったとたにきれいさっぱり忘れる」という勉強をしている。さらに、学校の推薦を貰う為には、「遅刻しない。化粧をしない。髪を染めない等々の高校生らしい身だしなみや規律ある生活をする」を3年間遣り通すのである。後は、内申点3.2以上などというものさえ確保しておけばよいのである。 このような生徒をいち早く大量に獲得した大学は、この子供たちをどのように教育し社会に送り出そうとしているか。 このような低学力で、批判精神の乏しい子どもばかりを集めてどうしようとしているのか。何もしようとしていない。気取ったファッション誌のような大学入学案内の冊子には、あれこれ綺麗ごとが並び立てられてはいるが、その嘘を見抜ける親や生徒はどれだけいるというのか。大学の学びをおこなう基礎学力の根底となる「読み書き」など、ほぼ中学生並、場合によってはそれ以下の生徒たちを集めて、大学の授業など成立しない。まず、この事実認識に立ったカリキュラム編成、授業計画をすることが、大学側に求められている。社会人としてまともに働ける知性、能力を身につけさせることが今最も求められている。なのに、ほとんどの大学は応えていないのではないか。(一部にはすぐれた実践をしているだいがくもあるが)楽に簡単に卒業して行ける大学なのである。大学というよりも、高校の延長の教育のやりなおしが必要なのである。もちろん勉強だけではなく、諸々の活動を通して、人格形成させるための活動が大学で行なわれているかも極めて危うい。 文部科学省の調査では、07年度の大学進学者のうち、推薦入試やAO入試での進学者は全体の4割を超える約25万8千人。一部の大学では学力検査なしで受け入れている。 これは、国公立の進学者を含めての数値であるので、私学の大部分は、入学定員の8割ぐらいを推薦で、ほぼ無いに等しい学力検査で受け入れているといっていい。(一部の難関といわれる大学のみが学力検査で入学している) 私立大学情報教育協会調査によれば、「学生に基礎学力が無い 」と感じている私立大学の教員は56%にのぼる。初等レベルの数学や読解力の不足は授業を進めるうえで大きな障害となっており「入学してすぐに組織的な対応が急がれる」と指摘している。《基礎学力がない》を分野別にみると、理学系70.4%、工学系66.1%、人文科学系60.2%なのである。 入学試験勉強を一概に肯定するものではないが、では、それに変わる高校生としての真の学力形成、人格形成をおこなう高校教育が行なわれているかといえば、必ずしもそうといい難い。 むしろ、このレベルの生徒が通う高校は、学校崩壊を起しており、まともな授業など行なわれていない、そればかりか、教師達は依然として旧態然たる、入試勉強を目的としたカリキュラムのまね事の授業を繰り返している。親たちは、この事実を知っているか。これは中学の内申点が3ぐらいのレベルの高校で起きていることなのだ。自分の子どもが、社会に出たとき、まともな職につけず、自立できないなのは、社会が不景気なだけではない。働く人間としての能力をどこでも教育されることなく、社会に投げ出されているからだ。このような育ち方をしてきた青年を雇っても使い物にならない。社会もそのような若者を育て働き手にするという余裕を失っている。汗水たらし、劣悪な労働条件のもと、必死に働いている親たちの子どもが、受けている教育がこのような惨憺たるありさまである。(先日、中国に進出して工場を経営している日本の中小業者が言っていた。中国には優秀で勤勉な労働者がいくらでもいると。ということは日本にはいないということ) 社会の中間層を将来担うであろう子どもたちがこのような状態の日本。 少子化で子どもが少ないといいつつも、子供たちはこのように粗末に商品として扱われているのである。全国学力テストに毎年税金を無駄に浪費している場合ではない。全国民に給付金などといって、2兆円ものお金をばら撒いて、国民を買収して、政権を維持しようとする、自公民の政治が作り出してきたのが、この教育のありさまなのだ。そして、それに追従している親たちが居る。 このような大学推薦入試制度はアメリカの模倣であるが、入試制度を形式だけ模倣しても、生きた豊かな制度になるとはとうてい思えない、世界中から優秀な頭脳が集まるアメリカの大学の推薦制度の厳しさは並みのものではないし、卒業するのも大変なのである。 何も勉強せず、何も勉強しなくともスルーしていける日本の大学とは大違い。 私は、今、大学推薦入学をめざすのこどもたちと、論述問題を書く練習をやっている。問題は結構、厳しい今日的な問題が多いが、高校での教育は、そのような問題を考えたり、討論したり、文章として書かせたりという教育は、日常的には全くやっていない。むしろ避けている。急に試験になったからといって、やれるものではない。 現実の社会問題に何も考え及ばないような教育で、基礎学力などつくわけがない。たとえば、こんな問題、 現在、日本では、「格差社会」の問題が広がりを見せているが、この問題について、1)「都市と地方の格差」 2)「富裕層と貧困層の格差」という2つの視点から論述しなさい。 といった問題をまともに論述できる高校生はきわめて少ない。こんな問題を出題する方はまだましな大学。紋切り型の志望動機を800字書くだけで合格という大学が圧倒的。(高校の教師は、この志望理由書を生徒に書かせる時、相手の大学のことを「貴大学」と書くように添削する。教師自身が、大学を就職先の企業と間違えているのではないか。しかも生徒は貴大学などと書くような文体では書いていない。幼い小学生の文体だ。)日本の中間層の行く大学の現状はこのようである。
2008.11.06
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生きるために必要な真の学力とは何か。 (ある農業をめざす青年の作文から考えること) 昨日に続き、学力問題について。 もし、全国学力テストを受けたら、その正解回答率の足をひっぱり、学校側が嫌って、テスト日には欠席することを望むにちがいないようなタイプの青年の話。 この青年は、現在、有機農業家をめざして日々頑張っている。私は彼の野菜を購入しているのだが、最近はやっと美味しいよい野菜が収穫できるようになってきた。実家も農家とは全く無縁であり、最初は農地も借地、試行錯誤しながらの失敗の連続であり、なかなか売れるようなものが出来なかった。10年ばかり経た最近やっと、有機野菜を販売するルートに乗せたり、有機野菜を使って料理をだすレストランや料亭に販路が拓け始めた。しかし、採算が取れているわけではない。 彼の農業への愛着はすごいものがあり、まさに土にへばりついて、黙々と農作業に日々励んでいる。その青年が、自分の「農園だより」に書いた一文をここで紹介したい。(原文のまま) 《欝蒼農園便り》 なぜ? そしてどこへ? 秋になり、秋・冬野菜のタネまきと植えつけで忙しいです。 これから、タネから双葉が生え、本葉が出て、1~3ヶ月で小松菜、大根、キャベツなどの形に育っていきます。 これらの生長を見ていると「不思議だ!」と見入ることタビタビ。野菜だけでなく、アリ、バッタなどの昆虫、ヒメシバ、スベリヒュなどの雑草にも。見れば見る程、精巧にできていて美しい。とても作れるモノではない。 ふり返って自分自身。生まれ、生長し、生きています。この今も勝手にヒゲや爪がのび、食べれば勝手に消化して排泄。心臓も勝手に働き続け、そしていつか勝手に止まるハズ。自分で生きているのではなくて、生かされているとしか言いようがない...なぜ?そしてどこへ?答えがでないまま、害虫を潰し、雑草を抜き、耕す毎日。 2007.9.18 これは、つたない文字で手書きで書かれた2008年9月の「農園だより」である。原文のままであり、文に拙いところ、誤字、日付が間違っているところあり、添削したいところであるが、内容は素晴らしい。30歳を少し超えた青年が書くには、幼い文かもしれない。しかし、ここには、彼が自分の手足をしっかり使い、頭を使い、土にまみれて、作物と格闘し、その生産物を消費者に届けることのできるようになった自信、生きている確かな息遣いが文に満ちている。力強い文である。又、このご両親がすごい。このような息子を粘り強く援助し、あくまで自立するまで見放さないで陰になり日なたになり支援している。今時の親たちがもっとも出来ないことである。親も全く農業には無縁のサラリーマンである。老いてゆく自らに鞭うち励まして、息子の自立にむけて精魂傾けておられる。この青年は、仕事の質がレベルアップすれば、さらなる研究や工夫が要求される。その中で、彼はどんどん成長しているし、これからもしていくであろう。生きた学力の基礎は、このようにして築き上げるものではないだろうか。だが、現実は、このようなタイプの子どもは、学校では、嫌い邪魔者扱いされている。いじめの対象になっている。どんくさいと笑いものに皆がしている。 そして、つい最近、私の身近で、同じような年代の一人の若者が自殺した。 少なくとも高校までは、優等生。大学卒業後も人が羨む企業に就職した。 しかし、繊細なこの青年は、社会に出て躓いた。長い引きこもりの果てに自死した。 周りの者たちはこの現実に言葉がでない。 若いものが自らの命を絶つことの衝撃に、皆、言葉を失った。 若者たちがこのような状態に置かれている今の社会。 全国学力テストで競わせて、実際にはない学力をあるかのように錯覚させて、権力者を満足させるような教育政策に追従しない確かな目、賢さを親たちはもたなければ救われないことをこれらの若者たちは告発している。公教育の尻馬に乗って、競争に駆り立てられている親は、悲惨な状態に追い詰められている。 農業青年の未来も消して明るくはない。このような、しこしこと個人で努力する零細な農家を国は潰して、規模を巨大にして企業化した農業を推し進めようとしている。生産コストを下げ、世界の農業に価格で競争できる農業をやれ、と叫んでいる。日本の農業政策にあっては、この青年の農業の先行きは暗いのである。このような青年が希望を持てない国、それが今の自民党が60年かけて築いてきた国なのである。総選挙が近づいている。大砲を米に変えて、大臣に居座った石破とかいう政治家の饒舌なおしゃべり農業とは、国民の営む農業は全く別ものである。農業に未来があるとしたら農業はどうあるべきか深く考え行動する、国民の知性の側にあるはずだ。
2008.09.30
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全国学力テストを政争の道具にする政治家たち 麻生内閣が発足してすぐに中山成彬国土交通相(すぐ辞任)が、数々の恐ろしい発言を連発した。この人物は改正された教育基本法作成に関った中心人物であり、全国学力テストの提唱者でもある。今回の中山成彬なる自民党衆議院議員の一連の発言は、ほんとうに健やかな子供たちの成長や基礎学力の定着をめざして、教育改革を推進したのではないことを暴露した。即ち、学力テストの結果を使って、教師を脅し、国家のイデオロギーを注入して、自分たちに従わないものを排除する為であることが判明した。自分の極めて偏狭な世界観を子供たちに強要する極めてファッショ的なものである。子どもの学力形成とは何ら関係がないことを暴露した。 さて、その全国学力テスト、毎年200万人余りの子ども(中3と小6の全員)を動員し巨額な税金を投入して行なっている。では、どんな内容のテストか。 小6・国語A、国語B、算数A、算数B 中3・国語A,国語B。数学A,数学BであるともにAの方は基礎学力を見るもの。Bの方はその応用力を見るもの、である。今年度は昨年度(07年度)に比べ、問題の難易度が上がり、大幅に全国平均点は低下した。都道府県の順位はあまり大きな変化は見られなかったが。学力テスト正答率の全国平均 (%・カッコ内は07年度)は以下のようである。[小学校] 国語A 65.6 (81.7) 国語B 50.7 (63.0) 数学A 72.3 (82.1) 数学B 51.8 (63.6)[中学校] 国語A 74.1 (82,2) 国語B 61.5 (72.0) 数学A 63.9 (72.8) 国語B 50.0 (61.2)更に、このテスト結果では、都市部にある公立の平均正答率が町村部、へき地を上回り、学校の就学援助率(経済的理由で学用品や給食費を補助)が高いほど、正解率が低い傾向にあることが分かったと報じられている。 地域規模や家庭の所得などが子どもの成績と関連していることが、2年連続して裏づけられた。 この結果に基づいて、とりあえずは、成績のふるわなかった地域や学校に手厚い教育の支援をすることが政治のやるべきことではないのか。 それが、全国くまなくテストを実施した意義ではないのか。 (それに、この程度の点数結果は全国テストをやらずとも、日々子どもと接して勉強している教師や親なら知っている) しかし、実際、政治家たちがやりたかったのは、この点数の序列化により、学校を点取り競争に駆り立て、教師たちの能力査定の物差しにしよとしていることが次第に明らかになってきた。「日教組の強い所は学力が低い」「日本の教育のがんは日教組」だなどとわめいているが、全く根拠のないデタラメの戯言だ。(日教組の組織率が1割に満たない高知県は、中三の全科目でワースト2位。組織率が9割と全国1位の福井県は中3で3科目1位。小6で全科目1位、中3もすべて上位3位以内の秋田県は組織率5割以上。)大阪府知事の橋下知事も、大阪が学力テストの順位で低迷していることを取り上げ「このざまは何だ」と罵倒し、テスト結果を市町村向け補助金の査定に反映させる意向を示している。更には、中山成彬国交相の発言に「本質を突いている。学力テストの問題も教員が反対を仕掛けている」と橋下知事はエールを送っているのである。 それほどに、この学力テストの点数が「子どもの教育」に重要なものだろうか。 このテストで高得点をとることが、本当に勉強ができることであろうか。 全国学力テストの点数を上げるために、子供たちの尻を叩いて、繰り返し類似の問題をやらせて点数を上げたところで、子供たちに真の学力をつけることになるだろうか。むしろ、このような勉強の仕方を繰り返してきた日本の公教育が、現在の低学力の原因ではないのか。そのような始めから解答ありきの暗記主義オンリーの教育で育てられた青年や子供たが、現在深刻な危機的な状態に陥っている。日本社会にも暗い影を落としている。このような暗記主義の成れの果ての公立の高等学校の教育は、退廃と危機的状態にあること、世の大人たちは知っているか。学校の授業などほぼ成立していない。膨大な解答集を与えられ、ただ忙しく量をこなして暗記を強いる教育。最も深く思索できる時期にさしかかった青年たちに与えられている貧弱な教育。解答を始めから与えられ、それをいかに早く暗記するか。それが勉強が出来るかできないかの評価基準になっている。いかに、教師の言う通りの解答をするか、行いをするかが子供たちの成績評価基準になっている。このような教育を受け続けた優等生の生徒が社会に出たとき、どんな問題が起きているか、ご存知だろうか。応用力のHow toまで、指示している現在の公教育。 今年3月に改定された新学習指導要綱では、具体的な指導法を細かく書き込んでいる。たとえば、今回の学力テストでは「国語の授業で段落や話のまとまりごとに内容を読む児童生徒のほうが正解率が高い」と授業の方法まで踏み込んだ結果が公表されている。このような指示に従い暗記して、正解したとして、子どもの成長にどんな役に立つのか。親や教師の虚栄心を満足させるだけだ。新指導要綱に対応して、文科省がやらせようとする特定の指導法に現場を誘導する意図が、全国学力テストの実施には垣間見える。全国学力テストの結果から、「応用力がない」という結論を誘導して、点数を上げるために、このような場合は、こう問題に対処せよと子どもに教え込もうとしている。点数をあげることが至上命令の現場の教師たちは、とりあえず子どもを駆り立てて、そのHow toを繰り返し叩き込むことになる。(後は野となれ山となれである。無責任)このような指導法で子どもが点数を上げたことが、教師の指導能力の査定につながるとしたら、恐ろしいことである。教育は益々荒廃するばかり。このような学力は、子供たちが真に自立して社会で生きる基礎学力とは無縁のものだ。 実際、今、実社会では、国策の要求する点取りで高得点を挙げ続けた子ども時代を過ごした優等生達は、あまり役立っていないばかりか、社会に出て、頓挫して、その現状を自力で切り開いて立ち上がるエネルギーや能力を持っていない。そのツケが、悲惨な状態に親子を追い込んでいる。苦しんでいる例は、枚挙にいとまがない。子ども時代は、親や教師の自慢となり、大人たちの虚栄心を満足させてきたが、実力は何もついていない子供たちが世間に満ちている。子どもが成長し、大人になる道すじは、1年ごとに繰り返し実施するテストの点数などと全く無関係。子どもの成長の成果を見るには、長いスパンが必要だ。高校生や大学生になったときに、一番勉強意欲が湧き、一番深く考え応用力を発揮する力をつける教育や子育てが今、日本の子供たちに強く求められている。そして、そのような成果をだすためには、粘り強い長期の教育活動や親たちの子育ての日々が必要だ。そのような子育てや教育は、むしろ失敗の連続のなかにあり、成果など簡単に目に見ない。まして小学校や中学校においておや。このような子どもの育つ過程を無視した成果主義、それによってめちゃくちゃにれているのが子どもであり、それに追従している親たちがいる。今の日本の高等教育でおきていることは、日本の中間層は、まともな学力をつける必要はないという教育である。この層のこどもたちは、社会に出れば、せいぜい派遣の身分で、使い捨てにしなければならないので、自分の生活のありように、文句もいわず、あきらめて、刹那的に生きる学力でよい。そういう中間層を育てている。職がないなら、軍隊にでも入ってお国のため戦え。身分を保証してやるよ。そのためには、国の言うままの学力でよい。これが、今、国が推し進めている教育政策の根幹である。中山成彬衆議院議員の一連の発言は、麻生内閣の体質そのもであり、彼らは国民の見えないところで、あのような一連のおしゃべりをしている。彼らが見ている風景は、我々国民の大多数が見ている景色とは全く違うのである。そして、希望がなく出口の見えない若者たちの多くは、この麻生内閣の主張に共感している。これこそが、自民党政権が教育の中で60余年かけて築いてきた教育の成果なのである。これでいいのか。日本に未来があるのか。
2008.09.28
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移民の子たちの日本語教育 先日、名古屋の地下鉄に乗っているとき、保育園児が20名余り乗り込んできた。私の娘や息子たちが幼いとき通っていた懐かしい保育園児スタイルの子供たちだ。思わず声をかける「年長さん?」。「うん」と肯く。「何処にいってきたの?」と私。「保育まつり」と答える。電車に乗り込んだ保育園児ひとりひとりを見回して驚いた。その中の12名ばかり(数えた)は日本人ではない。南米やイラン系の可愛らしい顔、顔、なのである。 私の住む隣の市は、自動車世界一を自慢する自動車の街・豊田市である。その市の西保見小学校は、全校生徒195人中、107人が外国籍の子供たち。特に今年の1年生は77%が、外国籍、大半がブラジル人の子供たちである。 日本の製造現場や、肉体労働を支えている移民の労働者の数は、近年その比率を増している。日本の外国人登録者数は、07年、年末、法務省調査では215万人を超え、人口100人あたり、1.7人が外国人ということになる。私の住む地方は、製造業が何層にもなって(下請けのさらに下請け)存在しているので、他の地域に比べて移民比率は高い。 6/29付けの朝日新聞の記事に、移民の子の教育問題をルポしたものがあった。(ルポにっぽん) 豊田市・西保見小学校は、自動車だけでなく外国人教育でも「日本一」と言われる公立小学校だ。27名の1年生のクラスの国語には、担任の教師を含めて大人が5人配置されており、ひとりひとりに見合ったきめ細かな「ことばの学習」が展開されている様子が紹介されていた。 移民の子供たちの日本語教育の難しさを、現実の場で経験している教師たちが、そのひとつひとつを解決するために、苦闘している現場の姿は、外国語を獲得することの道すじはどうあるべきかのお手本を見ているようでとても興味深い。 とりわけ日本人としての生活習慣や、体験が乏しい子どもたちが抽象語を獲得していくことの困難や、母国語も不安定、未熟なままで、言葉の核となるものが育たず、日本語教育もうまく行かないという現場の発言には、とても頷くものがある。共感する。 日常会話は1~2年で身につくが、学習言語能力の習得には、5~7年が必要だ、と指摘している。これは、日本に在住して生活している外国人の日本語教育の話であるが、そっくりそのまま日本人の中高生にもあてはまる。日本人でありながら、日本語の学習言語能力が極めて乏しく、とても日本人とは思えない中高生がかなりの割合で存在している。低学力の子どもが蔓延しているのは、この国語力の貧困にあることは、自明のこと。日本の子どもたちにも、この移民の子供たちにしているような手厚い熱心な言葉教育を必要としている。 来年度の新学習指導要綱の実施から、小学校での英語が義務化される。日本人が、早期に英語に慣れ親しみ英語力を向上させることは、望ましいことであり、異論はないが、現在の公立小学校の英語指導のあり方や国語教育のあり方をみて、本当に子供たちは、言葉の力を伸ばすことが出来るのか危うい。 公立の英語教育は、どのような英語力を身につけることを目標にしているのか、はなはだ曖昧である。自分から発信できる深い考え、物を述べる論理性など、子ども自身が持たなければ言葉は、上達しない。そのための基礎的な学力が必要だ。外国の観光地に行った時、買い物したり、道を尋ねたり、「元気?」とか挨拶を交すだけの英語を習得するために、小学校から英語を義務化しようとしているのでは、まさかないと思うが、そのようになる可能性疑いたくなる。きっちりした思考する言葉、中高の学習に耐える母国語をもたずして、国際社会のなかで、使える英語など身につかないと思うのだけれど。 私が、高校生に英語を教えていて一番困難を感じるのは、それを説明する言語(日本語)を高校生が持っていないということである。説明の仕様がない。説明しても、その説明の日本語が理解不能なのである。英語で説明したら、もっとわけが分からない。こんな状態で、子供たちに、どんなレベルの英語を身につけることを国は、目標としているのか。 移民の子供たちの日本語教育には、豊田市の教育委員会は、特別に追加配置した教員5人、指導員4人、国語と算数には全学年に、6年生には、社会科でもこのような指導者の配置をして、教育している。さらに、逆に遅れている子には、数人を「別教室」に「取り出し」して、教えるという手厚さなのである。さらに年2回、日本語力テストで理解度を調べ、指導法を個別に決める検討会があるという徹底ぶりである。このように、丁寧な指導をしても、日本語力がついたと思って、「取り出し」指導をやめると、「授業をみんなで聞くのは難しい」という能力にとどまってしまうという。これは、日本人の子供たちにもあてはまる。「中位」ぐらいの高校から下の学力の子供たちは、ほぼ「授業をみんなで聞くのは難しい」日本語力しかない。高校や大学で授業が成立しない原因はいくつかあるが、そのひとつに「授業をみんなで聞くことが難しい」国語力にあることは、確かなことである。この移民の子供たちに、なされているような手厚い言葉指導こそ、日本の子供たちに、今一番求められていることである。高いレベルの日本語を身につける教育、これこそ、これからの社会の主体者として、生きて社会の構成者になるためには必要なこと。そのような個人の育成なしに、民主的な社会など出来ないし、豊かな国を創造することは出来ない。移民の子どもたちが、日本の社会のなかで、生きていく能力を形成する教育の精神こそ日本の子供たちにも通ずるもの。そのための手厚い教育予算をくむことが必用である。あまりにも貧しすぎる日本の国の教育費。今の子供たちに何が必要なのか。何が子供たちの成長を阻む原因か。現実に即した解明こそ必要である。英語教育も、この点での子供たちの現状を踏まえて、方針や目標を立てるべきではないか。
2008.06.29
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現代の英和辞典あれこれ。 新学期が始まり、高校生は新しい教科書や辞書の山に囲まれて、これから始まる新しい世界に期待で胸ふくらませている新入生もいるはずである。 この時期になると、本格的な英語の辞書を始めて、自分のものとして購入した高校生も多い。多くは学校の推薦する辞書を購入する。しかし、高校3年間、辞書を使いこなして次のステップに進む高校生は限られている。大部分(7割ぐらいは)の高校生は、購入するのみで、真っ白のページのまま高校を卒業する。最近は、電子辞書のみ購入する高校生も多い。なぜ、多くの高校生は英和辞書を使わないまま卒業するか。勿論、教科の英語の勉強をしない。教室でやるだけ(それさえ本気ではやっていない。)予習や復習をほとんどしていないということもある。よって、辞書はいらないのである。これは中位以下の成績の生徒が入学してきた高校は、ほぼこの状態である。しかし、この見るに耐えない現状は、6万語レベルの英和辞書が、このレベルの学習者の学習要求に応えていないことも原因ではないか。 スーパー・アンカー英和辞典(第3版): 学習研究社私は、最近この学研の「スーパー・アンカー英和辞典」に出合って、とても感銘を受けた。この辞典は、ある公立の高校(学習困難校と言っていい、レベル)が、この辞典を生徒たちに推薦し、春休みの宿題に、この英和辞典の使い方が分かるような「英語プリント」(30ページほど)を出した。この英語プリントは学研が出しているものであるが、どの辞典のトップにもある「辞書の使い方」のたぐいを「単語を引き、意味を調べる」作業をすることで、覚えていくように編集されたものである。 生徒は、単語を辞典で引くという行為そのものを「めんどうくさい」と言って、非常に嫌がっている。勿論、中学では一度も辞書を引いたことの無い子供たちばかりだ。更に、「なんだ、こんな宿題、答が辞典に書いてあって簡単だ。」と言ってやらないで、解答集をまる写しをして学校に提出している者も多い。しかし、実際に自らの手で引き、調べてみると、中々奥は深く、そんなに簡単ではないことが分かってくる。私と一緒に勉強した高校生も「辞典って、こんなものとは知らなかった」という感想を漏らしているし、「辞典を引く」ことの意味が理解できてきたら楽しくなってきた。 私達の世代は、英和辞典といえば、「研究社の英和」であり、三省堂の「コンサイス英和」であった。更に最近では大修館の「ジーニアス英和」を使ってきた。これらの辞典から、私は多くを学んできたし、ぼろぼろになるまで使った辞典もある。高校の英語教師の多くもこのような辞典で学んできているはずだ。 これら従来の辞典に比べると、この「学研のスーパー英和」は、極めて日常性の高い語彙にそのレベルをおき、話し言葉の英語を重視して、日本語への訳語もスピーチレベルを意識して、よく練られた日本語をあてている。英和辞書に書いてある日本語が分からない高校生、大学生が多い中、これは中々親切な分かりやすい日本語訳なのである。日本人が英語を使うとき、疑問に思っていたり、その微妙な差異が分かりにくいところなどを、英語を母国語としている人の立場からだけでなく、日本人の立場からも解説しているのもとても使い勝手がよい。「語」を立体的に、生きたものとして解説する工夫が随所に見られ、外国語の「言葉」への関心、興味を、その文化の差異にまで展望できるように編集されている。しかも、記号や図やイラストをふんだんに効果的使い、ヴィジュアルなものに慣れている若い世代にも親しみやすいものになっている。若者に、至れり尽くせりのサービスなのである。 まさにこの「スーパーアンカー英和」は、現代の高校生、大学生に必要な辞書である。これぐらいの英語の語のレベルが、これからの社会を生きていく時必要ではないか。その意味からも、時代が要請している辞典であるのかも知れない。 このようなよい辞典が世にでて、購入までしているのに、机で埃をかむったまま放置している高校生、大学生が多いのは残念である。 この辞典に関する「英語プリント」の宿題を丁寧にやる生徒はわずかというのは残念なことである。学校は宿題を出す時、なぜ「解答集」を一緒に渡すのであろう。自分の手で丁寧に根気強くやることを嫌っている。あるいは根気よくやることに意義を見出していない若者たちに「「解答集」付きをなぜ与えるのだろうか。「教育」を学校自らが放棄していることにならないか。「低学力」の原因は、学習時間削減や学習内容3割削減に主なる原因があるのではなく、与えられたものを時間をかけて粘り強くやる時間を保障しない勉強の仕方にある。次々に量を表面的にやった振りで済ませている子供達がいる。それを容認している親がおり、学校がある。
2007.04.12
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当地域は、今週は公立の入学試験である。 高校の入学試験から見えてくる現在の学校の姿とは。 当県の公立入学試験のシステムは複雑で、簡単には説明出来ないが、我が地域(尾張地方)を2つの地域群に分け、その地域内の公立(県立&市立)を更にAグループ、Bグループと分けて、受験生はA 日程、B日程と2回(2つの高校)受験することが可能である。今週の前半12日がB日程の学力試験日であった。後半A日程は、明日15日である。すでに終了したB日程の試験問題について、今日は感想を書いてみたい。 学力試験は、英語、数学、国語、理科、社会の5教科、それぞれ20点満点(20問づつ)合計100点である。点数は20点満点と低いように見えるが、どの教科も中々骨太なしっかりとした基礎学力と加えて原理原則を運用する力が要求される問題が多い。しかも1年から3年までの全ての領域が満遍なく出題され、盛りだくさんなのである。 今回のB日程の問題は、数学と理科がかなり高度な能力が要求される問題が多く、難しい。 とりわけ理科は、昨年度までの傾向から、一歩踏み出して、問題文を読む国語力、実験結果から、表やグラフのデータを使って、問題の意味を読み解く力や、一つの現象を視点を変えて考え答を導きだす柔軟性など、とても高い学力が要求される問題となっている。しかも問題文が、だらだらと長く、込み入っているように見せかけている。解答の選択肢も6個と多く、その差異を見分けて、選択するには、かなりの国語力が要る。 数学も、一つの問題の中に、幾つもの定理や性質を使って、論理的に思考を組み立てて問題を解きほぐし解答する能力が要求されている。関数の性質と図形の性質を結びつけて考察する能力などなどである。しかも、今回は、それらの問題を解答していく過程で、高度な計算力が要求されている。正確に解答するためには、高い計算力がいるのである。これらの問題の傾向は、中学生がどんな学力をつけるべきかという観点から見れば、おおむね好ましいことである。しかし、現実の中学生の多くはどんな学力を身に付けているか?この要求されている方向とは、かなり差のある、反対の方向の学力しかない。定期テストのとき、指示された範囲を、暗記してなんとか切り抜けて、試験が終ればハイさようならと忘れてしまうような知識の暗記に終っている学力では、これらの問題を解く能力は形成されにくい。さらに、実生活の貧弱がそれに拍車をかけている。例えば、理科など、今回、天体の問題で、春分の日、夏至、冬至の日の影の長さを使って、太陽の動きを地表から見たり、宇宙空間から見たりと視点を変えて考える問題が出された。この問題を考える時、生徒の側が影の問題を自らの生活実感のなかで捉えてみることが出来れば、理解しやすい。例えば、子供たちは、影は冬が長いのか、夏が長いのかに関心がなく、影の長短についての生活体験が乏しい。影が朝や夕方が正午に比べ長いことにも実体験的な関心がなく、知らないのである。自分の生活とは関係のない暗記した知識として、影の問題があるので、視点を変え、あれこれ文章化して書かれると、何が書いてあるのかさえ理解不能となってしまう。これが、多くの中学生の学力の現実である。では、なぜこのような高度な問題を出題するのか。この公立高校の学力選抜の意味は、学力上位の進学校(全体の1割ぐらい)の生徒を選抜するための問題であるといっていい。愛知県の今年の全日制公立高校の入試の実質競争率は1.08倍である。定員割れしている高校さえ幾つかある。要するに大半の高校では、競争倍率は、ほぼゼロといっていい。学力選抜をする必要はないのである。必要ないのにしているのである。だから、各高校は新学期が始まったらすぐに独自の学力テストを行って、現状を把握せざるを得ないので、どの高校も新学期早々にテストを実施している。確かに進学上位高は競争倍率が高く、志願者数の半数から3分の1ぐらいは不合格になっている。しかし、この上位者も真の意味での柔軟な思考力や高度の論理性を身につけた勉強をして得点しているかどうかは疑わしい。テレビで大手塾の解答速報なるものを見てみたが、解くテクニックを懸命に強調しているのが多かった。このようなことばかりで勉強していると、いずれつまずく時がある。要するに成績上位者も、今の中学校の学習の仕方では、公立上位高に入学する為の能力を身につけることができない。学校だけでは、対応しきれていないというのが現実の姿なのである。増して、成績中位以下の子どもは、自己の能力とは、かけ離れた暗記学習を強いられている。このような公立高校の入学試験の現実は、中学は公教育としてどうあるべきかの数々の問題提起をしていないだろうか。教科学習の内容自体をどう構築し直すことが、中学の教育を実りあるものにするかの方向を暗示してはいないだろうか。これは、中学だけの問題ではなくなってきている。成績中位で入学してきた高校でも同じことが起きている。普通科高校は、あいも変らず国立や有名私立の大学受験を意識したカリキュラムで、行おうとしているが、空回りだけして、子供たちは益々勉強から遠ざかっていく。大部分の子どもはもう入試とうい学力試験を必要としていない。上位の大学進学者だけが入試を必要としている。このような現実から考えるなら、今こそ、真の学力とは何かを考えた授業を、高校は展開して欲しい。そのような授業を展開する為の発想の転換をぜひして欲しい。高校は今とても大変な状態に陥っている。少なくとも授業を成立させるという点で。その対策に追われて教師自身が病気になってしまっている。 学ぶことで、世界が拓け、生きる力が獲得できる能力をつけさせることの出来るのは、学校がやるべき独自の行為であるはずだ。それをしない学校なら存在する意味がない。公教育の意義もここにあるはずだ。今、子供たちの多くが質的に大きく変化している。勿論、これは、子供たちの生きている家庭やその家庭が拠って立っている社会に劇的な変化、変質が起きている事からきている。だからこそ、学校は、敏感にその変化に対応した教育、子供達が学校で学ぶことに意味を、やりがいを感じることの出来るものに作りかえる事をしなくてはいけないのではないだろうか。現在、教育再生会議なるものが出している教育に関する数々の方向は、この現実認識において、現場のそれと大きくかけ離れている。うわべの現象だけを高みから捉えている。過去への復古では、子供たちは学びの場へは帰ってこない。勉強しない学校、すぐ剥げ落ちる学力だけを、しりを叩いてやらせる学校。それは、ストレスでイジメが蔓延する学校になるだけだ。学校が地域から消えてなくなる時さえ来そうである。
2007.03.14
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今日は中学の卒業式。中学生たちは、どんな学力を身に付けて巣立っていこうとしているか。この2年間ばかりの高校生、中学生の進学状況は、大きく質的に変化している。いわゆる偏差値上位の大学や高校に行ける3割ぐらいの成績上位層は、従来の受験勉強的な「基礎学力」を一応見につけて進学していく。しかし、成績中位以下の子供たちは、受験勉強をほとんどしなくとも大学や高校へ進級できる。受験勉強的な「基礎学力」は必要ないのである。よって、あまり勉強をしていないし、することに意味を見出していない。高校進学にについてみてみよう。我が地域は「公立優位」といわれて久しい県であるが、この数年は、必ずしもそうではない。私立の高校が生徒を早い時期に獲得しておきたいので、推薦入学者を大量に出し、公立までもが推薦入試で、一定の率で合格者を早い時期に決めている。その合格基準も極めてあいまいで、子供たちの何を見ようとしているのかはっきりしない。簡単に安易に進学が決まる半数近い子どもがおり、卒業式の段階まで進学先が決まらないのは、成績上位の公立高志願者とその他の少しである。これなら、入試などやる必要なく、全員を振り分けて入学させればいいのでは。このような状態で、どんな勉強をすべきか、はっきり定まらぬまま、ざわざわと3学期は過ぎる。要するに日本の今までの学校が学力として、追求してきた事は、進学のための「知識の暗記」「公式の適用」「計算の習熟」などである。7割の子供達が高校や大学への進学に際して、このような「基礎学力」を必要とされていないのだから、勉強などする必要性を感じないのは当然の帰結である。これでいいのか。 安倍内閣の進めている「教育再生会議第1次報告」では、「ゆとり教育」を見直し、「学力向上」のため授業時間を1割増やし、読み書き計算など基礎・基本を反復・徹底するという報告をした。「教育再生会議」が基礎学力というのは、知識の暗記、抽象的な記号操作の早さの力である。分けが分からなくてもとにかくやれ、子供たちを競争させて尻を叩く勉強のさせ方を復古させるということである。子供たちは、ゆとり教育でラクをしているのでもっと締め付けろというものである。その親たちが受けた「教育内容」、その結果達成が成績や学歴を決め、それがその後の社会的地位を決めた「基礎能力」を子供たちに押し付けようとしている。親達が受けてきた教育内容が、本当に「基礎学力」を身につけた教育といえるのだろうか。子供たちは知っている。自分の親達の「学力」の低さを。自分たちの親の学力が中学のレベルの問題さえ解けないものだということを。そして、進学をしてしまえば、その「暗記された知識は」すかり忘れ去られてしまうもので、生きるのに役立たないことを。子供たちは、親の身につけている学力の「嘘っぽさ」を直感的に見抜いている。そして、自分たちが大人となったとき、その学力では生きていけないことを直感している。 社会は消費化、情報化して、働く質や構造が質的に変化している。その社会の中で生きていくとき、自立した人間としてどんな知識や技能が必要か。「学びの基礎」が、そのような生きる事と結びつくような学力であるためには、どんな学びが必要か。 自分の生きる世界と深く関る学び、学ぶ意欲や、創造性や、対人関係を切り結ぶ社会性などを身につけて成長できる学びを公教育が担わなければ、益々公教育は荒廃するばかりではないだろうか。 このようなことが実践できる公教育は、安倍政権が進めようとしている、子どもを競争させて点取りのための過去の問題を反復させて暗記させる教育では出来ない。「市場原理」を教育の場に持ち込んで、競争と淘汰で学校を競争させることでは実現できない。そのような方向の改革は、教育再生ではなく、益々教育を荒廃させるばかりだ。 公教育が地元で高い質を獲得してくれることが、親としてもっとも望ましいし、社会としても必要なこと。でも、現実は中々厳しい状態である。 子どもを持つ親達は、自分の子どもにどのような「基礎学力」や技能を身につけさせべきか、今こそ深く考える時だ。国家と同じ価値観の「子育て」は、その子どもが、20年後どんな大人に育つか想像力を働かせ、よくよく考える必要がある。
2007.03.07
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今週から期末テスト週間。 テスト週間になると、学校の授業の進度は急にスピードアップされ、子供たちは、未消化のまま、分けもわからぬまま、暗記して、何とかテストを切り抜ける。こんな勉強が繰り返される。こんなことでは、益々、勉強嫌いの子供たちが増すばかりである。中学2年生は今、三角形の合同の証明にはいったばかりだ。この証明の導入部は、これからの図形問題を解くための大切な入り口であり、分かっているものを使いこなして、論証して、未知なることを証明していく、そのプロセスは、人生においても大切な能力のひとつであるはずだ。この導入部をもっとじゅっくり、時間をかけてやることが、次のステップでの理解を容易にする。しかし、学校のカリキュラム編成は、満遍なく時間数を割り振っているだけ。一人ひとりが理解しているかどうかなど問題にほとんどされていない。子供たちの、理解の道順など無視されたままだ。 こんなに大切なことをやっているのに、7割あまりの子供たちは、ほとんどその中味を理解せぬまま、自分の能力へと高めることなく、次へと進んでいく。テストの出題形式も「論証」などということは、ほとんど問題にされていない。パズル式に記号を当てはめていくものだ。「仮定」、「結論」を問題から読み取り、定理を使いこなして、論証していくプロセスを、きっちりと文章化することは、数学だけではなく、国語力の養成にもなるはずだ。このような勉強が、子供たちに真の学力をつける近道だ。しかし、このやり方は、最も軽視され、今の学校はそれを敬遠している。子供たちも、このトレーニングは苦しいので、「そんなことやっても、テストに出ない」と言って、避けようとする。なぜ、今の学校は、テストに「文章で書いて答える」ことを要求しないのだろう。日常のテストなど、すべて記述式にしてもいいはず。これだけでも、子供たちの学力の基盤はかなり今とは違った好ましいものになるはずだ。要するに、今、学校が行っている「テスト」は、子供たちが如何に理解しているか、どこまで理解しているかを見るのではなく、子どもが「どの位置にいるか」という評価点数をつけるためなのである。 来春から、40年ぶりに「全国学力調査」が復活し、07年4月24日に、国公私立の小6と、中3を対象に国語、数学の全国規模のテストを一斉の行うことが決まっている。実施に約96億円、調査後にとる改善策に約16億円を見込んでいる。このような膨大な税金をつぎ込んで、点取り競争をさせる意味はどこにあるか。子ども個人だけではなく、学校そのものを、「評価」するためのテストである。このテストで低学力を、ほんとうに回復することが出来るか。もうすでに、その「学力テスト」なるものを、先行して実施している自治体があるが、そこで何が起こっているか。テストの平均点の学校ごとの序列化を小学校、中学校の段階でおこなうことによって、益々教育とはかけ離れた実態が次々に起きている。子どもは、点数を上げるために、繰り返し、過去問題的なものを練習させられ、テストの日には、出来ない子供を休ませたり、遅刻させたり、その極みは、こっそりテスト中に答えを教えるなどなど。そんな時間があるのなら、ひとりひとりの子どもが何処につまずき、何が分からないのか、子どものところまで、降りていって、丁寧に教えて欲しい。今の子供は、親からも教師からも、子どもが心の奥深い所で必用としているものを与えられていない。そのため、とても心が空ろになっている。この空洞は「全国テスト」などでは、診断できない。そんな所に税金をつぎこむのなら、図書室や司書教諭や30人学級や子供たちが生活意欲、学習意欲を高めていけるような諸条件の整備をしたほうが、学力向上に役立つのではないか。このような「全国テスト」に点数をあげるための勉強は、益々子供たちを低学力、生きていくための学力の基礎を奪うだけだ。40年前に「全国テスト」を経験してきた大人たちの「学力」の実態を見れば、それは明らかなこと。小学生や中学生に、競争させ、尻を叩いて勉強させても、害こそあれ益はない。そんな勉強は、しないない方がまし。徒党を組んで集団のなかで、思いっきり、遊ばせた方が、まだ子どもの学力向上に繋がるのでは。 最近の一連の「国家」が出してきている教育の方策や理念は、今、子供たちが直面している問題点を、子供たちが人間として、自立して生きていける大人へと成長させる方向とは、逆の方向へばかり向かっている。益々、村的な閉じられた社会のなかで、物言わぬ卑小な人間を作り出そうとする方向へと向かっている。まさに、21世紀に生きる世界とは逆方向である。「国家の教育」に縛られている限り、子供たちの学力向上はない。教科内容を教える自由度が極端に制限されているところでは、子供たちに学力をつけることはできない。今の子供たちが低学力の原因は、「国家の方針」を無批判に請負い、それに従う学校の授業にあるのではないか。
2006.11.24
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小中学校音楽祭を見学して。 Believe 詞・曲 杉本竜一 たとえばきみが きずついて くじけそうになった時は 必ずぼくがそばにいて ささえてあげるよ 世界中の希望のせて この地球はまわっている いま、みらいのとびらを開ける時 かなしみや 苦しみが いつの日か よろこびにかわるだろう I believe in future 信じてる私の住む市は、人口13万、かっては中小の商売を生業としていた市民が多数を占めた町であったが、現在は、大都市のベットタウン化しつつある里山である。その町の小中学校が学校代表として、発表する音楽会が開催された。我が塾に来ている子供たちが、3つの中学からそれぞれ出場したので、子供たちから請われて音楽会を聴きに行って来た。子供たちの歌う姿から、その学校の雰囲気がこぼれていて、とても興味深い。小規模の中学校は、学校全生徒で出場し、素朴で温かいメロディーを奏でた。中規模の中学校は、3年生全員が出場して、「この星にうまれて」「名づけられた葉」という合唱曲を大きくのびやかに力強く歌たいあげた。又、ある中学校は、日頃からその校区の小学校とともに活動しており、その成果をジョイントで合唱した。我が校区の中学校は、大規模校であるので、学校祭の合唱コンクールで優勝した3年生の一つのクラスが出場した。クラスとしてのまとまりがとても合唱によく反映されていた。「きこえる」という曲を力強く、のびやかに大きく合唱した。子供たちのひたむきで輝く姿がそこにはあり、大人たちの心に深く訴えるものがある。今の子供たちは、歌やダンスが得意で、自分をその中に開放して、浸ることがうまい。得意としている。エンターテイナーなのである。ここに出場した子供たちは、合唱曲を歌い上げる過程で、さまざまな困難や忍耐強い練習を通して、全員がひとつになって、作り上げていくことの楽しさや充実を体験したはずだ。それは、きっと、快感でもあるだろう。しかし、この体験を子供たちは、自己の将来の生きる力に結びつけて行けるのだろうか。歌が生きるための血や肉となるように、歌と向き合っているだろうか。歌の言葉が、子供たちの生きる力となるような活動になっているか。子供たちの歌っている歌の言葉が、ほんとうに子供たちの生きる勇気や希望となるような学びがなされているか。その事が、一人ひとりの大人たちに厳しく問われている。子供たちが社会で生きていく時、自分の人間性が卑しめられても鈍感で、おぞましい現実に卑屈に生きている。歌の詞のように、高らかに人間性を主張できる人間を育てる日常があるか。そのような高い知性をひとりひとりに育てる教育が実践されているか。挫けそうになった時、ささえる肩があるか。困難を乗り越えようとあがいている子どもは、放置されたままである。世界中の希望をのせて地球はまわっているか。哀しみや、苦しみや、卑屈がいつの日か喜びに変る日があるか。誇りに変る日があるか。声を合わせて歌い上げることで、現実の苦しみや悲しみから逃避しているのであるなら、その歌はドラックに過ぎない。このおぞましい現実をしっかり見つめて、深くその本質を見抜く知性を育てる学校なくして、未来の扉を開くことはできない。教師や親が今、教育の世界に何が起こりつつあるか、真剣に考え向き合う日常があるか。この日常に無関心では、子供たちの未来を切り拓く扉など益々重くなるだけである。開けることはできない。おぞましい現実から逃れる、単なる麻薬としてのエンターテイメントとしての音楽発表に、終らせてはいけない。指導している教師たちの自己満足で終ってはいけない。冒頭のBelieveは、最後に、会場にいる全員で歌った歌である。最も、今、社会が学校が欠けているもの、Believe。
2006.11.19
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朝露に垂れて咲く萩 (子供たちの朝の通学路に咲き乱れる萩の花)知性を育てる真の学力がなぜ身につかないか。《ある日の塾風景(テスト勉強)から》 9月ばかり、夜一夜降り明かしつる雨の、今朝はやみて、朝日いとけざやかにさし出でたるに、前裁の露こぼれるばかりにぬれかかりたるも、いとをかし、で始まる「枕草子」(130段)の過去問題を使って、テスト勉強をしていた時のこと、この次の段落は、 すこし日たけぬれば、萩などのいと重たげなるに、露の落つるに枝のうち動きて、人も手ふれぬに、ふとかみざまへ上がりたるも、いみじうをかし、と言ひたることどもの、人の心にはつゆをかしからじと思ふこそ、またおかしけれ。この本文の下には、口語訳がつけられており、その現代語訳と照らしつつ問題を解くのが、公立高入試の定番なのであるが、中学生たちは口々に「何を言っているにかさっぱりわからない」、「現代語訳を読んでも分からない」と言うのである。子供たちの質問の一つに「萩ってなんですか」 があり、全員が「萩」を知らないのである。さらに、「露」というものを見たことがないと言う。これでは、枕草子の「をかし」を味わうどころではない。試験問題の一つに、「ふとかみざまに上がりたるも」とあるが何が上がったのか、原文中の言葉を使って、3字で答えよ。とあるが、情景を思い浮かべることの不可能な子供たちにとっては、答えはちんぷんかんぷんで訳がわからないのである。 最近の子供たちの「言葉」の貧困は、子供たちの幼い時からの実体験の貧困からきており、感性そのものが「変質」している。いくら言葉を暗記して、その場で覚え、テストで答えたとしても、ここで獲得された言葉は、子どもの血肉となりえず、すぐに忘れ去られてしまう。蓄積ということが出来ないのである。今の子供たちはこの意味で、無意味な、徒労だけの勉強に膨大な時間を費やしている。ただ疲労だけが堆積する勉強である。学ぶことが子どもの世界を広げ、感動となるような勉強をしている子どもは極めて少ない。「萩」などは、子どもの通学路に今、咲き乱れている。部活の朝錬で、早く家を出る子どもは、朝露にきらめく萩に、毎朝遭遇している。しかし、誰もその萩に関心を示していないばかりか眼中に入っていない。このような子供の生活のありようは、すべてに渡っており、「学ぶ」子供たちの基盤、土台が作られぬまま、かなり高い知的レベルの学習を強要されている。中学生の学習に必要な語彙、かなりの抽象度の高い言葉を獲得せぬまま、中学の勉強をしている。以前の生徒は、教科の学習を通して、言葉を獲得できるものが多かったが、近年の中学生は教科の学習を通して言葉が獲得できないのである。言葉が貧困という事は、自分の思いを言葉にすることが出来ず、会話が成立しないことにも通じている。これは、幼い時からの育ち方に関係していると思わざるを得ない。その親たちは「勉強」の意味を「何点取れたか」に目標を置いている。学校で「何点取れるか」で一喜一憂して、「勉強」を点をとる事に矮小化している。それでいて低い点数しか取れない子どもを育てている。子どもに何を望んでいるのかとても疑問に思っている。子どもをどのような大人に育てたいのか。「下流に転落していく階層」が話題になっているが、今まで中流を自認していた大衆は、このままでは、非常に退廃した知性を欠いた群集になるのではないか。刹那的に楽しく気楽に生きておれば満足している大群が出現するのではないかと危惧せざるをえない。大学入学も、この階層が目指しているレベルは、何も勉強しなくとも入学を許可する大学が、すでにかなり出現している。これが少子化高齢社会を担う子どもたちの現実である。
2006.09.08
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共通の会話の基盤としての言葉の貧しさ。 暑い夏、受験生にとっては勉強の正念場、ここでどう踏ん張るかが、2学期以後の成績の伸びに大きく左右するといっても過言ではない。というのは、少し前までの受験生の話。最近は受験生といえども、随分ノンビリしている。とくに大学受験生などは、一部の難関大学をめざしている学生以外、特別に勉強しているわけではない。それでも大学は「いらっしゃい、いらっしゃい」と学生獲得に懸命なのである。子供たちもその足元を見透かしている。今日はわが教室の勉強風景を紹介しよう。わが教室の高校受験生(ほぼ全員が県立高校志願者)たちは、受験勉強を春休みからスタートしている。今日は社会の地理の勉強風景を紹介してみよう。読めない文字、意味のわからぬ言葉など、まず学習する前提としての日本語の学習を丹念にすることを目標においているわが教室としては、この部分にかなりの時間をかけている。自分で調べたり、私に質問したりして、分からない言葉、はじめて出会う言葉を明らかにする作業を丁寧にやることにしている。生徒たちは、恐ろしいほど、笑えるほどに日本語を知っていない。たとえば、「八ヶ岳、浅間山山麓、菅平」という地名をほとんどの子どもが読めないのは当然として、「山麓」という語を読める生徒は極めて少数。読めないだけではなく「さんろく」という日本語を聞いたことが無い、今はじめて知ったというのである。「促成栽培」の「そくせい」も読めないだけでなく、「促成」の意味がわからない。自分の日々食べている「野菜の旬」について考えたことのない子供たちにとっては、キュウリもナスもピーマンもトマトも夏の野菜であり、冬に出回るのが変だ、おかしいと思う子どもは一人もいないのである。そんな子供たちにとって、促成栽培という言葉は無縁な言葉であり、「聞いたこともない、始めて出会う言葉」なのである。「石畳」というような言葉はほとんど死語で、砂利道ぐらいに想像できる子はまだましだ。。「欧米人」って、何?と聞く子どももいる。このように次々挙げれば、枚挙いとまない。これは中学3年生の話である。つまるところ、日本語の言葉を通して、会話する共通の基盤がないのである。 今の中学、高校、大学の多くが、このような子供たちの言葉のレベルを無視して、一方的に知識を垂れ流しているので、益々空回りして、子供たちは低学力のまま社会に放り出されている。更に地名と実際の場所が結びつかないのは、ほとんど全員であり、結びつくような子どもはマニヤックに地図ばかりみているオタクぽい子どもなのである。たとえばリンゴの産地を青森・長野と理解していても(それさえも知らない子が多い)、青森が九州地方にあると思っている子さえいる。外国となるともっとひどい。キューバやブラジルがアフリカ大陸にあると思っている子もいる。中国が海を隔てた隣国で、今、急成長を遂げている国であることを知らないものが9割である。アメリカの理解もお粗末。デトロイトが自動車工業の盛んな町であるとか、ヒューストンが宇宙産業の都市であるとか、シリコンバレーという言葉などほとんど知らない。石油の産地であるペルシャ湾岸の国々と日本がどうかかわり、今、どのような情勢になっているかなど、子供たちにとっては夢のまた夢の世界。子供たちの視界には全くない。そもそも石油が自分たちの生活にどんなに深く関っているかなど考えたことも無いものがほとんどである。南アフリカ共和国が、白人と黒人とを厳しく区別し、差別する「アパルトヘイト」と呼ばれる状態があった、ということを知る子どもは勿論いないが、色々説明していく中で、黒人がこわい、黒人が白人をいじめているとさえ思っている子が多数いる。このような子供たちに、言葉の意味から一つ一つ教えていく事は、とても労力のいること。そして、学べばそれなりに理解力は前進し、子供たちの世界も広がるのである。この子供たちは、学校で劣等性ではない。普通の成績を得ている子どもたちだ。5段階評価なら、4や3を取っている子供たちだ。テストのときは暗記力でなんとか切り抜けている。そんな子供たちだが、驚くことに「下流クン」という言葉を知っている。「先生、下流君という言葉知っている?」とこの婆さんに問いかけて来た。以前、このブログの本の紹介で三浦展著「下流社会」という本を紹介したことがあったので、「知ってるよ。」と言って、本の「下流社会」から、「下流君」という流行語が生まれたのじゃないと話したら、みんなエッと意外に感じている。 新たな階層集団の出現として、三浦展氏が分析している「下流社会」の若者像は、まさに今ここにいる子供たちの未来の姿なのかも知れない。 三浦展氏の分析によれば、東京の郊外ですべて生活を完結させて、郊外という「村」で気楽に過ごしたいという価値観の若者たちが「下流君」である。公立の地元の小中高に通学し、大学は郊外にある二流の大学に自宅から通い、その土地で、働き、買い物し、都心に出ることもない若者たちが大量に出現しているという。居住地が固定化し、郊外の安穏な暮らしに慣れてしまうと、そこから脱出しようという気力はなくなり、いつも同じ仲間だけと会っている若者は、狭い村社会に住んでいた昔の「農民」と変らぬ「井の中の蛙」の世界で、携帯やインターネットという手軽な自己愛的なおもちゃに依存して生活している。団塊ジュニアの下流ほどこの傾向は強いという。このようなタイプの若者に共通の気質が10年先には、日本的な規模に拡大するのではないか。いわば「新しい農民」なのである。このような子どもや若者は、自分の住む地域以外の世界を知る必要もないし、知る欲求も起きないのは当然である。今の子供たちや若者は、私たちの頃に比べれば、はるかに多くの情報に触れ、広い行動範囲を生活しているように見える。幼い時から外国に旅行さえしている子も多い。しかし、その知識や外界への認識は、我々昔の人間に比べてとても狭くうすっぺらである。インターネットの普及によって、遠く離れた地域と瞬時にコミュニケーションができ、広い世界は縮小したかに見える。しかし、実際には、狭い世界は更に狭くなっているのである。子供たちの実体験の貧弱、人との交わりの希薄さは、インターネットによって更に加速されている。実際に歩き回る行動範囲は驚くべきほど狭いのである。その日常の狭さのなかで、気楽に暮らしている。海の向こうに何があるか思い巡らす子供は、極めて少数なのである。 与党が、今改定しようとしている「教育基本法改定案」の「伝統を重んじ国を愛する態度を養うこと」はこのような今の子供たちにとって、どのような意味を持つか。このような子どもたちに「愛国心」を、学校の場で教え込むことは何を意味するか。自分の「国を愛する」気持は、他者や他国を広く深く知る学びから、現実の豊かな体験から生まれてくる。それが、かくのごとく偏狭で言葉の脆弱な子どもや若者に「言葉」で「愛国」を説教することは恐ろしいことでないか。「時の統治権力」の思いのままになるのである。それよりもむしろ丁寧に子供たちに「日本語」を、他者のことを学べる「日本語」を教えることが、まず必用だ。人が人として、対等に会話できる共通の基盤「日本語」の習得がまず大切ではないか。国民として、広い見地で物事が考えられる言葉を持つような学校教育がまず必要ではないか。「サル回しのサル」よろしく、調教するにしやすい子供たち。今、そのような子供たちが大量に生産されようとしている。「下流社会」の著者、三浦展氏はこの本を次のような言葉で結んでいる。 少数のエリートが国富を稼ぎ出し、多くの大衆は、その国富を消費し、そこそこ楽しく「歌ったり、踊ったり」して暮らすことで、内需を拡大してくれればよい、というのが小泉-竹中の経済政策だ。つまり格差拡大が前提とされているのだ。即ち、大衆は馬鹿でよい。そして、そのように子供たちに、現になりつつある。親たちは、自分の子どもをどのように育てたいのだろうか、最近、疑問を感じること多いのである。
2006.08.13
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2007年度から実施される全国学力テスト(1/11の日記続き)についての続き。政府は全国学力調査(テスト)を2007年度から実施することを決め、06年度予算に調査費29億円を計上した。諸外国はこの種のテストをどのように導入しているか。まず、フィンランド。2003年のOECD(経済協力開発機構)が行った国際学力調査で総合一位になり、学力世界一の評価を得たフインランドは、全生徒を対象とするテストではなく、生徒の5~10%が学力テストを実施している。地域・学校の成績は公表されない。特に成績が落ち込んでいる学校に対しては財政的、人的支援が手厚く行われている。成績低迷の学校の要請を受けて地方の教育委員会が派遣する支援教師は学級担任よりもさらに高い専門性を身に付けており、学習の遅れた子のサポートにあたっている。フィンランドの教育実践は、学習の到達度をテストで判定するよりも、教師と生徒の相互交流の積み重ねを重視して評価し、競争と比較をやめて発達を強調するやり方である。このような教育実践は、教師の力量の向上なくしては実現できないし、そのための教師の養成の経費や少人数のクラス編成など、公的な教育費がかなり多く必要となる。このような評価の仕方を「形成的評価」といい、従来のテストに代わる評価方法として、その意義をOECD(経済協力開発機構)は高く評価している。「子ども自身がなぜ勉強するのか理解しているとよく身につく」とヘルシンキ大学のマッティ・メリ教員養成学科長は述べている。(フィンランドに学ぶ教育と学力)日本の子供たちも、現在このような教育実践、評価の仕方を行う必要のところにいる。今の子供たちは、競争させて、尻をたたいて勉強させるには無理がありすぎる。物質的に恵まれていて、大部分の子どもは、学歴を自分の生活の糧にしようという切実な欲求はないのである。ある意味でこの現象は人間の歴史の優れた前進、進歩を意味するのではないだろうか。「学ぶ」ことの本来の意味、「学び」の原点に立ち返って学ぶことを子供たちは心の深いところで望んでいることになる。「学び」の原点に立ち返った教育をする必要があることを意味している。次にイギリスとアメリカはどうか。イギリスはサッチャー政権時代の1988年に「全国学力テスト」を導入。「イギリス病」と呼ばれた長期不況のなかで、社会の活力低下の原因として教育が批判を浴びたことから、学力向上策の一環として導入された。特徴は学力テストによって徹底した学校評価を行うことにある。中学卒業までに4回の到達度テストを行い、学校ごとの成績をすべて公表。成績の悪い学校は全職員の入れ替えや、それでも成績が悪いと廃校もありうる。併せて学校の選択性も導入した。成績の結果は入学者の増減に直結し、学習障害児や移民の子の入学を断るなどの現象が起きている。アメリカもブッシュ政権のもとで導入。全児童を対象とした学力テストを州ごとに義務づける。テスト結果の悪い学校にはさまざまな制裁がある。これらの制度を導入、実施したことでどんな問題が起きているか。試験の点数を上げるのに役立ちそうにない実地見学や他の教科活動を中止し、かわって機械的な暗記と反復練習に集中するなどである。「成功している」学校に生徒が集中して、教育活動に支障がでるなどである。日本が2007年度から実施することになる「全国学力調査」はもちろんフィンドランド型ではなく、イギリス型である。さらに将来、バウチャー制度の導入も視野にあるのかもしれない。バウチャー制とは、家庭に教育サービス引換券を配って公私立学校を自由に選ばせ、学校に集まった生徒数(引換券数)に応じて予算を配分する制度である。この制度と全国学力テストと結びついたら、テストの持つ意味は恐ろしいものになる。テストの点数が教育の価値を決める唯一の物差しになったとき、どういう子どもたちが育つかは、今の大人たちが一番よく知っているはずである。
2006.01.12
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写真:雪をかぶったナナカマド(by Danjose)2007年度実施「全国学力調査」は真の学力向上に役立つか。この地域では昨日が3学期の始業式となり、いよいよ入学試験本番の学期に入った。今日は学校も始まり、私は、ほっと一息。冬休み中、酷使した我が体と心のメンテナンスをしようと朝から、ゆったりと散歩したり、お茶を飲みながら新聞を読んだり。しかし、新聞を読み始めたら、またまたゆったり出来ない記事が一杯で、心が急くのである。文科省は2007年度から、小学6年生と中学3年生を対象に「全国学力調査」を算数(数学)と国語で実施することにしてる。いわゆるこの学力テストは学力低下対策の一環として2004年に打ち出されたものである。しかも学校ごとに成績を公表して、学校評価と結びつけ、人事考課や学校の点数化をはかるという。これは時代錯誤もはなはだしい。高度成長期の画一された教育を押し付けるやり方が、こんなにも破綻しているのに、又同じことを再生しようというのか。今、子供たちに起こっている、育ち方の問題の深刻さは、再三このブログでも述べてきた。そしてその責任の一端は、学校教育のあり様にも大きく起因している。子供たちが、今、身に付けなければならない学力はなにか、今こそ学校は深刻に問われている。学校が子供たちの現状とは全く無縁のところで、お上の言うままにカリキュラムを展開し、そこからの逸脱、自由な発想を許さないことが最も学校をだめにしているのではないか。教師が、今、子供に何が起こっているか、社会に何が起こり、どのように動いていこうとしているかに無頓着なことが、今の教育の荒廃の原因ではないか。現場にいる教師たちの現状認識のお粗末さ、また真の姿を認識したら、とても学校の現場には居れないという息苦しさ。お上の顔色ばかり見て、子供たちと向き合っていない管理主義の横行。上に向かって物言わぬ教師集団のあり方。これらこそが、子供たちに真の学力をつけることを困難にしている原因である。この状態に輪をかけ、さらに強化するのが、2007年度から実施される「全国学力テスト」になるのではと、私は危惧している。わが教室の中3生たちは、中3になった春休みから受験を年頭において、1年間の長いスパンで基礎学力の充実をめざすカリキュラムでやっている。今の時期、数学などは、基礎力を複雑に組み合わせたかなり高度な問題に取り組む時期にさしかかっている。ここで中3生に求めている力は、複雑に絡み合っている基本的な命題を自分の力で解きほぐし、解法を見つけるための論理立った考え方をトレーニングすることである。いまの子供たちが一番苦手としているこれは思考の回路である。しかし、子供たちがこの思考回路を自分の身体のなかに作り出すと飛躍的に成長する。学ぶことに疲労感を感じない。学ぶことに時間の長さを感じない。たどり着くのに時間はかかっても、成果は大なのである。このような学習の取り組みは、本来学校がやるべきことで、この婆さんが個人でしこしこやることではないはずだ。国民の税金で成り立っている学校がやるべきことだ。今の学校や親たちは、すぐ答えを要求し、分からないと答えを見て、それを暗記して覚えれば勉強はしたつもりでいる。これは、点数や成績をすぐにあげることを要求されるからである。今回の「全国学力テスト」の実施が、親たちが身に付けてきた学習方法の再生産にならない事を祈るばかりである。このような勉強の仕方で育った大人は、今の社会では立ち行かなくなっているのではないだろうか。高度成長期の社会では、むしろそれは大部分の大衆に求められた学び方であった。しかし、今時代が要求している能力は大きく変化している。真の実力ある能力を要求している。時代や社会を切り開ける応用力ある実力を要求している。これこそが生きる力となる学力であるはずだ。未来に生きる子供たちに、未来を切り拓ける力を育てる教育や子育てをしないで、子供たちが生き生きと育つはずが無い。育ちようが無い。学校自身がその社会から、大きく遅れをとり、無用の長物となっている。学校自身が「子どもの深刻な育ちそびれ」や「学力の問題」に真っ先に声を大にして叫び、親や国に訴えるべきであるのに。今回の「全国学力テスト」にも現場の教師たちが何らかの声を上げるべきなのに、何の声も聞こえない。
2006.01.11
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今日は2学期の修了式。通知表が家庭に渡される日である。子どもたちにとっても親にとっても気になるもの。場合によっては、子どもの人格に打撃を与えるような重みを通知表に感じている子もいる。新課程になってから、成績の評価の仕方が相対評価から絶対評価に変わった。この変化によって、成績の評価の仕方はどうようになったか。 (写真:ハナミズキの赤い実 )旧課程の時は、ほぼ学業の(試験の成績)評価であり、偏差値によって5段階評価にパーセンテージを決めて、振り分けていた。絶対評価になったら、学業以外の要素、興味、関心、意欲などを評価の基準に加味し、試験の結果は評価の一部として加えられるということになっている。しかし、評価基準が曖昧で、見えにくく何をどう評価しているのか、子供たちは納得していない。私も納得できる成績にまだ一度も出会っていない。子供たちのどこをどう評価しているのか、とても分かりにくい。教師が、どういう授業を展開しているのか、子どもは、その授業のどこまで到達しているのか、ということが明らかにされないまま、5段階で子どもを評価することは、子供にとってどういう意味があるのか。何処をどうして行けば、今後の成長に繋がるか見えてこない評価など、絶対評価といえるか。以前のように、ただテストの点数が、そのままほぼ5段階の評価になる方が分かりよい。テストの学力を評価されているのだから、ただそれだけのもの、それ以上の何ものでもない。テストの点などは、どうにでもなるもの。たいして意味あるものではない。現在のように、意欲、関心、興味があるかないか、までに踏み込んで教師が点数をつけるとなると、点の低い子どもは、意欲無く興味関心が低いといことになる。このようなことが評価できるほど、教師は子どもを深く多面的にみているか。興味、関心、意欲を呼び覚ます授業を教師は展開しているか。これらのことは黙認されたままで、子どもの内面にまで打撃を与えるような評価を下すことが妥当といえるか。いずれにしても、学校時代の成績などは、長い人生のなかで余り意味が無い。子どもが、どんな力をどのようにつけようとしているかこそ重要なことだであり、問われている。点数が高い子どもが、真の意味で力を付けていると言えない場合も多々ある。長い目で子どもの成長をみる必要がある。人生の後半でぐんぐん伸びる子もいる。子ども時代に、その芽を摘むような今の評価は問題だ。子どもも親も、成績が下がったら、未来が閉ざされたような鬱積した気分になり、子どもの人格までダメになったような気分になる。よければ有頂天になる。教師が下している評価など、子供の未来にとってそれほどの値打ちはない、というぐらいに、おおらかにまず親が構えるべきだ。一人ひとりの子どもは、それぞれ違った顔をもち、成長のスピードもちがう、とても深い発達のプロセスを持っている。そのことを親がまず肝に銘じて、子どもの成長を促すように励ます側に立つべきである。
2005.12.22
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今日も期末テストがらみのお話。現在中学生の数学のテストの出来は極めて悪く、出来る一部の生徒と出来ない大部分の生徒の二極分布をしている。その苦肉の策か、定期テスト前に、予想問題なるものを生徒に配布する教師がいる。予想問題といっても、テスト当日に出る問題と全く同じ、問題数まで同じというものである。その実例を一題紹介してみよう。(今回は1次関数、図形がテスト範囲)予想問題1:(図形、グラフは割愛します。)右の図のような直角三角形ABCがあり、点Pは、Bから出発して、毎秒( )cmの速さで、周上をAを通ってCまで移動する。直角三角形ABCは、ABは( )cmACは( )cmで、点Dは、辺BC上の点で、BDは( )cm である。 点PがBを出発してから、x 秒後の三角形PBDの面積 y とするとき、x, y の関係を表すグラフを解答用紙に書きなさい。この問題の( )の部分は、具体的な数字が入るところであるが隠してある。自分で予測して問題を作り、回答する練習をして試験に臨めばいいのである。しかも問題数も試験本番の出題数と同じで、すべてを予想プリントに予告しているのである。(中間テストの時はそうだった。今回は?)しかも、上記の問題は、当県の公立入試に出題されたそのままなのである。だから子供たちは、どう言っているか。「もう数学、勉強しなくともいい? この予想問題プリントだけやっておけば良い点とれるから。」と言っているのである。子供たちの点数が悪すぎ、教師の勤務評定に響くので、良い点を取るための苦肉の策かも知れないが、これはあんまりだ。数学の学びを通して、子供を育てるという教育の視点がなさすぎるのではないか。子供は自らの頭で考え、回答することに、とても達成感を感じている。子供の目が輝く時である。論理的思考を模索しながら、新しい問題に挑む時、子供は大きく成長する。この子供の成長の機会を教師自ら潰している。どんなに子供の歩みがのろくとも、一歩、一歩学ぶことを通して子供の力を高めることが、今、子供たちの育ちの中で、強く求められている。効率よく成果を上げ、数量でその成果を評価することだけでは、教育や子育てはできない。このような教育や子育ての破綻が、現在の子供たちの低学力にもなっている。このような形で、数学のテストの平均点を上げて、本当に子供の学力がついたと、教育委員会や、国に報告され、教育の効果が上がっていると見なされるのなら、とてもじゃないけど益々子供たちの育ちは、悲惨な不幸なことになる。親たちも、内容がどうであれ、点数がよければ、満足している親がいる。子供の成長には何も役立っていないのに。むしろ子供の育ちに弊害になっている。
2005.11.24
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(写真:京都・清水寺の紅葉)今日も中学校の教科書の話。中2の国語教科書(光村図書)には、向田邦子さんの『死んだ父は筆まめな人であった。』で始まるエッセイ「字のないはがき」を載せている。中学生にはこのエッセイは、とても評判が悪い。「何を言っているのかさっぱりわからん。こんなのテストに出たら、また悪い点しか取れない。」とか「筆まめって何のこと?こんな言葉、聞いたことない。何で筆と豆が関係あるの。バァ~カみたい。」など等、さんざんなのである。しかし、私たちの年代の者にはこのエッセイはとても共感出来、感動する文である。家庭では、ふんどし一つで家じゅうを歩き回り、大酒飲みで、かんしゃくを起して母や子供にたちに手をあげる父が、女学校に進学し、親元を離れた作者に、一点一画もおろそかにしない大振りの筆で、「向田邦子殿」と宛名書きした手紙を3日にあげず出すのである。文面も、折り目正しい時候の挨拶に始まり、新しい東京の社宅の間取りから、庭の植木の種類まで書いてあるという。日常の罵声やげんこつとは、全く異質の威厳と愛情にあふれた父の姿に出会い、女学生の作者は感動し、父の像を修正するのである。そして、大人への階段を一歩登り始める。今時の若い家族は、一見、仲良しそうである。お出かけや家族行事が好きである。しかし、それはただそれだけのこと。この家族の繋がりは、ディズニーランドの人工的な華やかさに似ている。ディズニーランドの冒険は冒険でなく、すべてが初めからプラン済みのきらびやかさであり、ショーなのである。見せる為の冒険なのだ。なんの危険も伴わない冒険だ。現代の若い夫婦の家族関係は、予測済みの計算された範囲内では、かっこうよく夫婦や親子を演じている。泥まみれを恐れている。一度ほころびると修復が困難になる関係なのである。子供は生きた生身のものだ。しかも今、発達しようとしてる、正にその途上にいる。予測不可能な部分をいっぱい持っている。その子供に、予測可能な表面だけきらびやかに装ったディズニーランド的冒険を与え続けても、子供は育たない。実際、今、子供たちは育ちそびれ、大人に成りそこなっている。この現代の対極にある家庭像が、向田邦子さんの家族像である。思春期の子供のこころに深く突き刺さるような衝撃や、驚きを父の手紙は与えている。そしてそこに、父親の深い愛情を読み取っている。父は、娘を一人の人間として、きっちり人格を認め、対等に対峙して手紙を書いている。こんな父親は今の時代あまりいない。このエッセイのテーマは、まだ字の書けない末の妹が学童疎開するとき、父が、おびただしいはがきに几帳面な筆で自分の宛名を書き、「元気な日は○を書いて、ポストに入れなさい」と末の妹に持たせる話である。ここにも父の並々ならぬ愛情があふれ出ている。今時の中学生は、この父親の愛情を理解できないらしい。自分のために、1年分もの、あるいはそれ以上のおびただしいはがきに、丁寧に宛名を書いてもらった体験もないし、それに匹敵する親の自己犠牲的な愛情を注がれたことがないからではないだろうか。今の親は実に子供に冷淡である。情が薄いのである。子供が失敗や困難に陥った時、子供を冷たく突き放す。子供の「自己責任」を強要する親が多い。子供を大人のように扱っている。そして、一方では、成人した子供を何時までも親の従属物として子ども扱いしている。これらの現象は、真の意味で子供の人格を認めない親の表と裏である。子供が困難に陥っている時、地獄の果てまで付き添って子供を見守り、励まし、解決の方向を示唆する親は、とても少ない。「字のないはがきの」の父親象は、確かに現代の中学生には理解不能な父親像かもしれない。しかし、その時代に制約された横暴で素直でない男性像を除けば、そこには現代が見失っている父親としての深い子への情愛や人間としての尊厳を具えている。この国語の授業を、子供たちは、分けのわからぬ面白くない授業だと言っている。これは本当につまらぬ教材だろうか?それを教える教師の方にむしろ問題ありではないか。親たちも子供の国語教科書を一緒に読み、子供と議論するのもいいですよ。
2005.11.18
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今時の若者にとっての歴史の授業とは何か。公立の中学校は来週からは期末テストが始まる。今時の公立中学生の多くが、嫌いな教科の一つに社会がある。社会科は歴史、地理、公民の三分野に区分されており、それぞれ別の冊子となっている。地理の無知には驚くばかりである。今の子供たちは、よく行楽にでかけるし、テレビ、インターネットなど情報が簡単に手に入るので、さぞ知識豊富だろうと予測していたこの婆さんにとっては、これは驚きであり、ショックである。豊富な知識のある子はマニアックな変人と見られている始末だ。自分の隣県・岐阜県を知らないし、まず読めない子供が多いのである。山形県が四国にあると思ってもあまり変とは思っていない。もっと驚くべきことは、東京都に色んな市や村があることに、驚き、初めて知ったと妙に感動している子さえいる。(小学校では地理はやっていない)このような例は枚挙いとまない。歴史の授業はもっともつまらないもの、テストの時、難しい漢字を覚えなくちゃいけないし、年号の暗記もいやだ。テストが終れば、ハイさようなら、きれいさっぱり忘れてしまうのが大方の中学生の昨今である。彼らには、日本の歴史を知りたいという要求がまずないのである。「こんなこと覚えても大人になったら役立たないし、学校の授業がつまらない」と皆口々にいっている。公民はどうか。公民こそもっと分けの分からぬ教科である。憲法の言葉などは、今まで一度も聞いたことの無い言葉のオンパレード。憲法前文の言葉、「恵沢、惨禍、厳粛な、信託、享受、普遍、詔勅、恒久、崇高、信義、隷従、などなど」聞いたことのない言葉ばかりが並んでいる。まあ、今時の公立の中学生の7割はこの状態である。無知は、これからの学びによって解決できるものなのであり、好奇心の源ともなり問題ないとしても、これらの教科への関心が全く無いというのが、とても心配なことである。前回の選挙でも、今まで投票行動をしたことのなかった若者たちが、小泉自民党に投票しているという調査結果がある。狭い日常のなかで、テレビやゲーム携帯電話などだけの世界に閉じこもり、日常を完結している若者たちがいる。今を刹那気に気楽にやっておればいいのである。歌舞伎役者よろしく「大見得きる」小泉のパーフォーマンスは彼らには魅力的である。「負け組み」の自分たちの状況が改善される幻想を抱くのである。学校が教育の場として、再生するためには、子供たちが自分たちの生きる今を、現代を深く学ばせ、過去の歴史が現代と深くかかわっていることを、実感できる授業を体験させること必要ではないか。ただ単なる、知識の切り売り、詰め込みだけをやっている授業やテストでは、子供たちは社会科を学ぶ意義や楽しさを知ることは出来ない。実体験が衰弱している現代人にとって、過去から学び取り現代を生きる知恵を身につけることのできる学びを、まず大人が、教師が、子供たちに示す必要が今ほど求められている時代は無いのではないか。現代がどんな状況であるか、何が問題かに全く関心をしめさない若者たちには、現代史、近代史から歴史を学ばせ、過去の歴史へとさかのぼる勉強のやり方も一案ではないか。
2005.11.17
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名古屋圏の教育風土でどんな子どもが育っているか。大垣共立銀行のシンクタンク、共立総合研究所は28日に「名古屋圏の教育風土と好調な経済との関係」に関するリポートを発表した。それによると、25歳以上の高等教育(短大、高専、大学など)修了率は、東海三県;32.3% 首都圏;41.7%、 関西圏;36.2%国立・私立の中学校への進学率は、東海三県;4.8% 首都圏;12.1% 関西圏;9.7% 全国平均;7.4%大学進学費用を差し引いた大卒と高卒の生涯所得の差は、愛知県:1644万円 全国平均;8549万円これらの数字から、リポートは、東海三県の「非学歴志向」の背景として、大卒と高卒の所得格差が小さいので大学に進む経済メリットが小さいが為に、大学進学を望まない人が多いことを指摘している。さらに、高卒の所得が相対的に高いことから、東海地方の主力産業であるモノづくりの現場に良質な高卒者が安定的に流入し、強い経済を支えていると指摘している。又、公立志向が強いので教育費の負担も軽く、名古屋圏は他の大都市に比べて、子どもを持ちやすい環境にあり、少子化も抑制されている、と言っている。この銀行のシンクタンクの発表した進学に関する数値は何を意味するか。その実態はどのようであるか。名古屋圏が何代にもわたりその土地に住み、その圏内を出ることなく生活しつづけている人々が、この地域には多数いることを意味している。小中高とすべて徒歩圏内、せいぜい自転車で通学できる範囲。大学も自宅から通学できる範囲で選択する。(ある意味でこれは理想的なことかもしれないが)親も子どもが「頭がよすぎること、勉強が出来すぎること」をあまり歓迎していない。「ほどほどにできる」ことを望んでいる。たとえ、東京の超難関大学に進学したとしても、名古屋に帰り家を継ぎつつ、「トヨタ」に勤めることが一つの理想的「モデル」として推奨されている。「親孝行息子」と褒めそやされる「子ども」像である。トヨタが本社を東京に移転しないのは、そこに勤務する中核部分は、地元のこのような子弟から成り立っているからである。現代の社会が無くしてしまっている、「質素」「勤勉」がこの階層の生活価値観であり、様々な古くからの地縁でその家が結ばれているという点でも、前近代的な半封建的な人間関係が特異な形で現代に生き続けている。このような尾張・三河の「百姓根性」が、トヨタの「労務管理」として、営々と現代に生き続けている。黙々と働き、カイゼン、カイゼンとたえず無駄を省いて働きつづける魂は、私たちの祖父母や曽祖父母たちの暮らしぶりそのものだ。夜なべをし、日の出前から働きづめた百姓の仕事ぶりが、現代にも脈々と生きており、全世界に輸出さえされている。城主が「徳川」から「トヨタ」に変わっただけと言ってもいい。不条理、不合理があっても、黙して語らず生活していくことが骨の髄まで浸み込んでいる安穏な生活。考えることを停止して生活することに慣れきっている暮らし。ストレスを「パチンコ」で安上がりに解消している暮らし。働くことも、消費することも、家庭を営むことも、すべてその地域で完結してしまう社会である。封建時代の「農民」が土地にしばられ、狭いその土地だけで一生を終ったのと余り変わらない。このような現実を支えていく教育を名古屋圏は求められている。このような現実を支えていく子育てが求められている。これは結構な、幸せなことなのだろうか。この土地の閉鎖性、この土地の保守性。そして、この土地には、女子高生を誘い出し殺害し、その翌日から市役所に平気で通勤し続ける青年がおり、通り魔的に大学生を殺した高校生が、何年も平気で大学に通学していたり、親が教師で、祖父母に育てられた高校生の息子が無差別に町内の老女を殺すなど、異常な悲惨な事件が次々におきて、忘れられていく。しかも、その事件を起こしているのは、この土地に住み、立派に暮らしているように見える家に多い。ひきこもりの若者も多い。この土地にくらししている人々の心の闇は深いのである。狭い世界の中で完結して生活している間に、その壁の向こうの広い世界が、ある日、牙をむきだして襲い掛かっている。学歴などと言うものは、確かに無意味なものである。しかし、現実を深く見通し、そこからどう生きるべきかを考える知性。何が人として、生きるに足るものかを判断できる感性。人としての尊厳を育てる「子育て」や「教育」は、広い世界を認識する知性を育てることなくしてありえない。それ以外に「生きる」意味などあるのだろうか。偏狭な「田舎」で安穏にくらしす事に価値を見出ている「若者たち」を大量に育てる名古屋圏教育風土。その「壁」の向こうに何が起きているか知っているか。
2005.10.31
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親にとっては長い夏休み、子供たちにとっては楽しい夏休みに入った。夏休み中は、今時の子供たちの様子と学習について時々書いていこう。今年度の中学1年生から、子供たちの質が一段と変化しているのが感じられる。一段と幼くなったようにみうけられる。たとえば、数学の文字式の学習時。文字式の意味から始まって、文字式の性質、約束事を使っての四則計算練習。とてもシンプルなところから次第にレベルアップして複雑な計算へと進む。学校の教科書では練習問題で数問しか出てこないような難しいレベルまで習熟する為にはかなりの反復練習が必要である。学習の最終目標は具体的な事柄を文字を使って表現できる。いわゆる抽象化できる能力を身につけることである。このような思考を身につけることは大人になって生きる時、とても大切なことである。又、中学の数学の入り口としては、かなりこれは重要だ。文字式を自由に操ることが出来ることは、以後の数学が好きになれるかどうかの分かれ目といってもいいくらいだ。このようなことは毎年やっていることだけれど、最近の子供たちは体系立てて順番に階段を上るように学ぶことが苦手で、ただ断片的に暗記している細切れの知識で頭の中は満杯になっておる。そのごった煮で混乱しているのものをぶち壊し、新たな体系を学ぶことの出来る頭脳に作りかえるのになりのエネルギーがいる。でも、教える側が熱心にやれば何とかなってくる。子供たちは変わってくる。成長してくる。しかし今年の1年生はまず取り組む前に、「こんなの無理」「出来ない」を連発して、挙句の果て「こんなの学校ではやっていない」となるのである。本当に学校の授業は簡単、何も勉強しなくても分かるほど簡単。それで分かったつもりでいる。教科書もとても簡単。数ページで一つの単元が終わっている。でも、分かったつもりであったのに定期テストなどをやると、中1年生でも驚くほど悪い点数しか取れないのである。部活動においても今年の1年生は、与えられている課題にたいして自分の今ある力でしかこなさず、精神的に耐えて、自分の身体能力を高めようとすることに積極的でないらしい。私から見れば全く似たもの同志と思える上級生があきれているのだから、その変化はやはり大きく、今までには見られなかった幼さではないのか。「あつまれ、ご意見ネット」というサイトの「子育てについて」のアンケートによれば、最近の若い親は子育ての目標を「叱りすぎず、のびのび」育てる。「勉強」よりも「人間性」「社会性」という項目に高い支持をしているらしい。しかし、この中学生たちの姿をみると、たしかに「叱りすぎず、のびのび」と育てられてはいるようですが、「人間性」「社会性」は何も育ていませんよ。深く学ぶ「勉強」なくして人間性や社会性など育たない。常に自分の能力の限界に挑むことの出来る体力や気力を育てることなくして、Happy Life(若い人はhappyやsweetという言葉が好きらしいが)など有り得ない。頑張り過ぎない運動や勉強ってどんな運動や勉強なのでしょう。自己の能力に挑戦することで、こどもは生きることの素晴らしさを体験するはずである。伸びることを実感する時、その過程には必ず、耐え、頑張った自分がいる。限りなく自己の能力に挑戦することを否定する、子育てや教育では子供は育たない。現に今、子供たちは育ちそびれて苦しんでいる。人が人として生きるとき「学ぶ」ことは最重要の課題である。学びを軽視した「人間性」や「社会性」など嘘っぽい。
2005.07.24
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昨日に続き再び、大村はま先生の言葉から。 大村はま先生は教師の専門性を厳しく磨き鍛えることを訴え続けてこられた。戦後の教育に失敗があるとするなら、「教える」ことをしない教師が蔓延していることだおっしゃっている。時まさに教員採用試験が近い今、教師を目指している若者たちにぜひ耳を傾けて欲しい先生の言葉がある。教師志望の青年がその動機を聞かれて、「自分には何も出来ないけれど、教育への愛がある、真心がある、これでやっていくのだ」と答えた。 はま先生は、「熱心と愛情、それだけでやれることはないのです。子供が可愛いとか、よく育って欲しいとか、そんなことは大人がみんな思っていることです。教師だけのことではありません。そんなものを教師の最大の武器のように思って教師になったとしたら、とてもやっていけません。 教師としては、人を育てる能力、教師の技術を持っていなければ困ります。」ここにはプロフェショナルであるとはどういうことなのか、プロとしての専門性とはいかなるものかの深い示唆がある。 現代では初等中等教育においては、知識の量とか、深さ、広さで教師よりも親のほうが優れている、という子どもがそれなりの数、存在している。しかもお母さんにそんな人が結構いる。このような親を持つ子供は、知識の切り売でしか展開していない授業なら学校に行く必要がない。テストの点数だけで競わせ、評価を子どもを教師に従順に従わせる為の道具に使っているだけの学校なら行く必要はない。アメリカなどでは、すでに学校に行かなくても個人でカリキュラムをつくり家庭で学ぶことを州に申請さえすれば学校と認められ、色々な規模の個人的な小中学校があるという。工場で一斉に同じ品質の製品を大量に生産するように、学校が規格品を作って子供を社会に送り出す役目はもう終わった。高度成長期までは、こんな規格品が必要だったのだ。教師もあまり個性的に教師の力量がありすぎることは嫌われたのだ。個性尊重などといいつつ、実は花屋の店頭に並んでいる、無個性な色とりどりの花を社会は必要だったのだ。同じ葉の数、同じ花びらの形、均一な色の花々、完璧までに規格統一された花々がオンリーワンともてはやされているのだ。このような花々はけしてオンリーワンなどではない。物言わぬ従順な、無個性な花々なのだ。野に咲く花の色とりどりは嫌われていたのだ。虫にくわれた葉、風にさらされた紅、風にちぎれた花びら、の花々は嫌われているのだ。しかし、21世紀は、厳しく教師としての専門性が要求される時代になっているのではないだろうか。そして、子供たちが大人となって生きる20年後に、どんな能力を発揮できる子供を育てればよいか、どんな人格で社会の一員として生活を営む子供を育てていけばいいか、という、未来を展望できる教育、人を育てる学びこそ今最も求められている。過去の人類が築いた文化を受け継ぐ仕事、これは教育の支柱である、と同時にこの遺産をどう学び、現代の生きる力につながる創造的な学びに出来るか。ここに教師としての専門性、力量が厳しく問われる時代になっているのではないか。お母さんたちも、わが子どもを遠い未来を見つめて育てているか、問いたい。その未来に、豊かに生きる自立した人間として我が子が育っている姿を思い描いているか。その為には、今何をなすべきか。
2005.05.31
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伝える言葉:「考える力」を育む国語力(2)昨日の日記の続き 私が教室の教材としてぜひ使いたいと思っている記事に、ノーベル賞作家、大江健三郎氏の「伝える言葉」という連載シリーズ(月に1回掲載)がある。 大江氏は昨日10日の新聞に「知的な明るさ:光の新しい作曲の習慣」というエッセイを書いておられる。 これは知的障害を持っているご自身のご子息、作曲家の光さんが、三枚のCDを出した後、作曲に興味をなくしたようにみえたけれど、それ以後どのように音楽と向き合い新たなる地平に到達しようとしたかという7年間の家族の闘いを書いたエッセイである。 大江健三郎氏は「光の最初のCDは、感覚的なきらめきと記憶によるものでした。私らは美しさ懐かしさを喜びましたが、その上での成長と発展は思いませんでした。次のCDで、光がかれ自身の感情的な経験を音楽にしているのを知りました。それが演奏家に、彼らの人間的な表現を呼び出すのに驚きもしました。 そして、もう作曲することはないのだろうと思うこともあった7年の後、音楽理論のレッスンや、妹が考え出した言葉の訓練の方法で、何より言葉の力をしっかりさせた光が、新しいCDを作りました。私はそこに彼自身転換期をひとつ乗り越えてのものを聴き取るように感じています。」と書いておられる。 そして、光の作品に知的な明るさ(知的な悲しみ)を聴き取るとも言っておられる。初期の音楽には、光の心と音楽の間には直接のパイプがあり、言葉は入りこまないものであったが、伝達する言葉を獲得した後での音楽の変化は「知的な明るさ」と語っておられる。 大江氏のこの言葉の意味は重い。 大江氏は、人が人として成長していく時、言葉を獲得して、それを自分自身の生きる力とすることの素晴らしさを力強く語っておられる。 現代の若者たちは大江氏が語っておられるような意味で言葉を獲得し、生きる力にしていこうとしている者は極めて少ない。 とりわけ、幼い時から受験体制の勉強を余儀なくされ、競争に翻弄され成長した若者の言葉は一見、饒舌に見えるが感覚的な言葉の単なる羅列に過ぎない事が多い。言葉を学び獲得していくことが自分の生きる道を切り開く力になってはいない。 人生を切り拓き前進しようとする時、幾多の障害物に出会うはずである、その時、言葉で深く考え、先人たちから学び、自らも創造的にそこから行くべき道を見出していくのは、この光さんのような言葉の獲得ではないか。光さんは障害を持っているからより鋭い形で現れているが、ごく平凡な普通の我々にもこれは普遍な真理であると思う。 私が、若者たちに願うのはこのような生きる力となる言葉の獲得である。 こんな言葉をわが教室の子供たちに、触れさせてあげられたらどんなに素敵だろう。 しかし、高校生、中学生の多くが大江健三郎を文学史上の暗記人物の一人、「えっ、そんな作家いたっけ」と言うのにはまいった。氏がノーベル賞作家と言う事を知っている子供はほとんどいない。 小説は現代の子供たちにはかくも遠い疎遠な存在なのか。最後に大江氏が「老年の私が思うこと。自分が立ち去る時、妹は起きたことを言葉で光に理解させ、光は知的な明るさの音楽を作る。」と結んでおられる。 老い行くわが身にもこの言葉は堪えました。大江氏の父親としての光さんへ深い愛が溢れている。 光さんの音楽が澄んだ静けさの中に知的な明るさをたたえて父の死を奏でる日がいつかあるのか。死は皆にやってくる。
2005.05.11
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私の手作りの小さな教室の今年度の学習目標の一つ、国語力の向上。 今日は、この3月から今日までに取り組んだ内容をまとめてみたい。取り組みの対象は中学3年生のグループと大学受験の現代国語の強化をめざす高校生。 教育に新聞(NIE)をという取り組みがあるが、この取り組みに刺激を受けて私の教室にふさわしいやり方に作り変えて取り組んでいる。現在までに教材として使用した記事は以下のようである。(すべて朝日新聞の記事)(1) 頭脳・技・スピードが武器。作家、石田衣良のエッセイ。 「海を越えるアスリートたち」という特集記事の中から選んだ記事で現在外国で活躍している日本のスポーツ選手が体格やパワーの劣勢を跳ね返し,対等に活躍し、成功しているのは何処に理由があるか、何がすぐれているのか、と言う内容をとても的確に凝縮して簡潔に論じている好エッセイある。さらに、結論部分では日本の経済、政治が見失っているもの求められているものと結びつけてとても広がりのある文章で、中学生ぐらいの年代の若者にぜひ考えてもらいたい内容でもある。(2)「先」を見つめる視線、新たな壁をのぞむ。 この記事も(1)の記事同様「海を越えるアスリートたち」という特集からで「篠原大輔」記者の署名記事。 この記事は大リーグ5年目のキャンプインしたイチローの取材によって書かれたものである。取材の中で「今シーズンやっていく中で、新しい壁みたいなものが現れてくるのを期待する」と答えたイチローのプロ根性とその実践におけるストイックな努力の積み重ね、その柔軟な思考過程に天才を見出している。 日頃、考えることをめんどうに感じている中学生にとってこの記事はとても深く思索し実践するイチローを知る機会を与える好エッセイである。さらに、「新たな壁」というテーマで作文を書くところまで到達した生徒もいた。 この2つの記事は日頃ほとんど新聞を読んだ事のない、あるいは読んだとしてもテレビの番組欄とスポーツの勝ち負けの結果欄だけというという中学生に、新聞にはこんな記事もあるよ、という事を知らせるためにとても良い記事であった。身近な話題の記事のため、内容はかなり難しいものであったがそれぞれのレベルで取り組みやすかった。 先ず第一段階は、読む、読みきるということが課題であるので、細部は無視して、読んだ内容を200字ぐらいにまとめる作業から始めている。この作業は読んだ内容を短くまとめ文章にするということであるが、かなり皆、苦労した。内容の良し悪しは問わず、まず普通の、きちんとした日本語で書けているかどうかを問題にした。あるレベルの日本語に達するまで何回も書き直した。回を重ねるごとに上達するのがよく分かる。 第二段階、細部の読解、ここで漢字テストなどもやっている。 第三段階、テーマに対しての話し合い。記事の内容の理解を深める。 第四段階、テーマを決めて作文を書く。この第四段階はまだ実践されていない。他の教科が忙しく時間がない。夏休みになったらこのレベルまでやりたいところである。これ以外に次の記事をやった。(3) 正しい時刻いらんかーい。 (安田朋起、署名記事) 「正確な時刻」が商品になった話。現代の仮想社会を考えさせる良い教材。 (4) いつまでも走り続ける列車。 時の墓碑銘シリーズで「アウシュヴィッツ以後、詩を書くことは野蛮である」アドルノの墓碑銘をアウシュヴィッツ収容所跡に訪ねたエッセイ。(朝日新聞コラムニスト小池民男記事) これはかなり難しかった。何が書いてあるのかさっぱり分からんと子供たちの評。(5) 現実と非現実を結ぶ放物線。 これはアメリカのセントルイス市にある建造物、ゲートウエーアーチについて建築家、隈研吾氏のかなり長文のエッセイ。 この論文の教材としての素晴らしさは、アメリカの歴史の今と昔をこの建造物を論じる事で描いていることである。現代のアメリカ文明にまで言及していて、中学生の知的な興味を刺激し、さらには現代のアメリカ、開拓時代のアメリカへと興味、関心を広げる事が出来る。 子供たちは、読めば読むほど理解深め、楽しくなってくる。時間があれば文章もかなりのところまで上達する。 学校でもこのような、読む、考える、書く、取り組みを色んな教科の中でぜひやって欲しい。
2005.05.10
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今日は日本国憲法が施行されてから58周年。 憲法改正の動きがここに来てにわかに急を告げている。この動きについてどれだけの若者が関心を持ち、自分の問題として考えているだろうか。 日本では中3の社会の公民で、憲法の項目を1章設け、ページ数にして30ページほどで扱っている。授業時間にして6~7時間ぐらいだろうか。しかも、中学生、憲法に関心薄く前文に書いてある文章の言葉などはほとんど馴染みなく、何を言っているのかさっぱり分からぬ状態である。一応試験のために暗記したりして点をとっているが試験が終われば、はい、さようなら憲法なのだ。これ、何のための勉強。これ、何のための知識。 日本が歩んできた明治、大正、昭和の歴史を深く学ぶなかで憲法を学ぶ特別の科目が必要なのではないだろうか。その中から、自分がどのような日本国民になるべきかというイメージも湧いて来るし、どういう市民になるべきかと言う模索をする基盤になるはずなのに。 大学では、憲法は教職単位を取る時のみ必修で他の学生は憲法や日本史とは全く無縁である。特に日本の戦後史を青年たちはもっと学ぶべきだ。大学生こそ必修単位として日本国憲法を学ぶべきではないか。そのような国民的な共通の認識があって、憲法問題をどうするか議論するなら納得できるが、一部の政治家や経済界の要請で国民が無知なのをいいことに強行しようとするのは日本の将来に禍根を残すであろう。 息子の学ぶ米国の大学では、アメリカ史は必修、さらに驚いたのは黒人やマイノリティーの文化に関する教養科目も必修になっており、卒業単位として他の教養科目では代替できない厳しさである。これってとても素晴らしい事ではないか。体育系の息子は教養科目を取る事が嫌いで、母親がせっかくアメリカで学んでいるのだから、出来るだけ多く教養科目を取るように薦めてみたのだが最後の最後まで後伸ばし、卒業単位科目の不備を指摘された。 日本も大学生に日本の戦後史と憲法を必修単位にして、その単位を取得していないものは卒業不認定ぐらいにしても良いのでは。アジアの中の一員として、これは当然の国民としての責務でないか。世界の中での日本を考える時、自分のアイデンティを何処に見出すか、今こそ日本に問われている事である。アメリカ文化の懐の深さ、ごった煮的なエネルギーの力強さはアメリカが世界の中で大きな力を持ち続けている原動力ではないか。国家が不本意な過ちを犯しても、色々な価値観の市民たちが生活している。全国民が同じ方向を一気に向かない多様性が国民の中にある。多様な文化が共存できる基盤を教育の中にも制度化している。これはすごい事ではないか。さすがアメリカ。 日本の若者たちの憂慮すべき現状は、「若者を軍隊にいれて鍛えろ。そこで愛国心を鍛えろ」という声が憲法9条第2項改正論者の強力な援軍になりつつある。そして、その声に一気に見事になだれ込んでいく国民がいる。ニートやフリーターたちの職場としては軍隊は最適である、という声がすでに聞こえている。日本の若者たちの多くにはこの声は聞こえていない。今日は憲法記念日、若者たちはどんな一日を過ごしているか?
2005.05.03
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地方公立中学校の理科の教師のお話。 この理科教師の定期テストの平均点はいつも30~40点台にあり、一番出来るグループでも70~80点で数名しかいない。昨年など中1年生なのに多くの生徒は20点代しか点が取れていない。これで義務教育のしかも公立の中学生の点なのである。中学の入り口でこの状態で理科の学ぶ面白さや理科好きの子を作ることができるだろうか。進学校などで全員がハイレベルの生徒なので、問題を難解にして全員が満点になるのを避ける学校なら平均点30点台ということはままあることである。しかし、これはごく普通の地方の公立中学において起きている事である。子供たちは、この教師の授業は分からない。質問してもそんな事は自分で考えろと言う。自分ひとりで、もそもそと小声で喋るので何を言っているか分からない。すぐきれて勝手に自分だけで授業をしている、と言う。私が「分からないなら、もっと大きい声で分かるに授業をしてください」と頼んだら、と言うと何時も返ってくる言葉は「あの先生は東大出なんだって」 ある時なんか保護者が担任に「理科の先生の授業が分からないと子どもが言っていますので、もう少し分かる授業をしてもらえませんか」といったら、何とその担任教師は「あの先生は東大出身で、実験には色々工夫されています」と言う回答なのである。保護者もその東大という言葉に驚き、納得してそれ以上何も言わなかった。私、その親に、「こんな田舎の中学に東大出で中学教師になっているような人は、よほど教育に情熱を傾け、現状の困難を何とかしようと頑張る金八先生タイプの人か、東大で落ちこぼれ、就職先がないから、その名前に後光を感じる田舎に都落ちしてきた来た人のどちらかですよ」と反論しておいた。 子供たちが今どのような状態にあり、その子供たちに学力を付けさせるにはどうすべきか、とても困難な問題が山積している。その教育の真っ只中で、ただ自分の世界に閉じこもり、出身大学のブランド名にすがって知識を切り売りしているとは情けない。そのブランド名の権威にすがって子供を抑えこんでいるだけなのだ。そして、それを認め許している親たちがいる、学校がある。東大だからということだけで、どんな事でも許す事大主義がある。その風土に甘えて生きている尊大な利己的な似非エリートがいる。 俗にいうエリート・ブランドの大学で学び、そのように世間に評価されている人間の活動は、少なくともその大学の学びで得たものを社会へ、その知識を現代的問題と鋭く対峙して自らの力で社会へ創造的に返していく責任がある。それが真の生きた学力ではないか。其れができない東大出身って何者?自分の学んだ専門性や教養が、自己の生きる力となってはいない。ただ切り売りして、ブランド名にすがって辛うじて息しているだけの生活だ。 ブランド名のない庶民は皆、自分の能力を磨く事でしか生きる事はできない。実力がなければ忽ちに飢えが降りかかる。 しかし、現代の若者たちの中にも、自己のエリートとしての存在をごく自分だけの個人的な問題としてしか見られない者たちが多い。選ばれている恵まれた条件の自分を社会の中に位置づけ、普遍化して見ることが必要ではないか。そうでなければその若者たちの発展性はとても閉ざされたものになるであろう。自分が生かされているのはあくまで社会なのである。それを考える事のできる知性をもてることがエリートの特権だ。 社会が学校が憂慮すべき困難に陥っているのに、それとは全く無関係に子供たちとさえ真正面から向き合えないで、目をそらしている東大出身の中学教師とは何者?このようなエリート校出身者を現代は多く輩出している。幼い時からの子供の育ち方とこれは大きく関っているのではなかろうか。学んできた知識が生きていく学力、知性となっていないのだ。 さらに現代の若者たちは、出身学校いかんに関らず、自分が世界の中心であり、それを否定するものにひどく傷つき、益々自己の世界のだけに生きている自意識過剰のひ弱な者が多い。このような若者は自分に対する評価が低く、自信がないのに自分だけは特別というエリート意識だけは人一倍強いのである。 子供の尻をたたいて早く早くとせかして、成長を急がせても子供は人として成長できないのである。人として成熟していくには、紆余曲折や挫折や失意や絶望の体験がいる。効率よく人とはなれないのである。 人としての成長、成熟と知力は相関関係にある。ただ暗記だけの知識は生きる力とはなりえない。ある知識を血肉化して知性にまで高めるには、その知識を獲得する子供の豊かな生活体験や、人としての成長が必要だ。 小学生のように幼い精神で大学の学びを、自らの生きていく力には出来ないのだ。こんな大学生が今日、日本に蔓延しており大学は機能不全に陥っている。この現実を親たちは知っているか。若いママたちよ、あなたの子供がこのような大人になる事を予測しているか?本当に生きがいのある人生を送るにはどんな能力を備えた子供を育てるべきか考えた事あるか。
2005.04.30
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今年度のわが教室の到達目標の一つに「国語力の向上」、日本語の能力を高めるというのがある。この取り組みについては、今後具体的にこのブログで書いていきたい。 現在、私のHPのトップページを飾っている写真「藤の花」の見事さにさそわれて、芭蕉の句・草臥れて宿かるころや藤の花、を選んで載せてみました。この句について、ちょっと一言。 この冒頭の「草臥れて」という言葉。読みはもちろん「くたびれて」。 「草臥」は疲れて草に臥す(ふす)意の当て字、「くたびれて」はだから意味はもちろん「疲れる」。 しかし、何と何と、中学生たちは「くたびれる」という日本語の意味を知らないばかりか、この語が日本語の中に存在する事も知らなかった。子どもたちは「くたびれるって、何処の言葉?方言? 聞いた事な~い。」 私などは幼い時から祖父母から「くたびれた」という語を頻繁に聞いていたので、この芭蕉の句の「くたびれて」はすんなりと、心地よく響いてくるのだが。 「くたびれる」は今ではほぼ死語なのである。 子どもたちは、このような今使わない言葉は、試験のために覚えるけれどすぐ忘れるので覚えたくないと言う。 確かに、現代は疲れて草に臥す(この臥すという言葉も聞いた事がないらしい)こともないので、死語になるのも肯ける。車の中でリクライニングシートで眠ればいいのである。 芭蕉が、一日中、歩き疲れてたどり着いた夕暮れ時、そろそろ宿を借りようと疲れた身体でふと見やると、薄暗い中にぼんやりと薄紫の藤の花が咲いてた。その藤の花のけだるい風情に旅の疲れも一時忘れるほどだ。 さらに「草臥れて」という語を使う事によって、もう季節は草の上に臥して休んでもよい春の終わりだなぁ、心地よい初夏の訪れももうすぐだなぁ、という思いが込められているのではないだろうか。旅人の芭蕉としてはこの季節の変化はとても命に関る大切な事である。だから「草臥れて」という語はこの句にとって、鍵となる大切な語である。芭蕉の命が溢れている語である。「草臥れて」と言う語はわずか5語で、しかも草に臥すという漢字を当てることで、情景や作者の深い心情を読み込む事ができたのではないか。 ここには言葉の持つ奥深さ、豊かさがある。芭蕉の生きるその事が言葉となってあふれ出る。言葉が生きている。言葉がエネルギーを持っている。 子供たちにとって、たとえ「くたびれる」という語が死語であり、外国語であるかのようであったとしても、芭蕉の句の「草臥れる」の語の力、言葉の持つ意義を学ぶのに、この語は現代の若者が学ばねばならぬエッセンスがいっぱ詰まっている。子供たちはこのように生きた言葉で自分を語る事ができない。子供たちはこのように自分の生活を、自分の未来をリアリティーある生活の中から生まれる言葉で語れる、日本語をもっていない。古典から学ぶ事の意味は、実に現代を生きる力となるものである。けして試験のためだけに学んでいるのではない。(芭蕉の句に関しては、私流の解釈を勝手にしており、芭蕉の専門家諸氏のご批判、ご非難を甘受。)
2005.04.24
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昨日はこの地域の県立高校の合格発表があった。 近年は、子供の数の減少で高校への進学も下位私学の受け皿高校は無風状態で、入学試験はかなり楽になっている。しかしこの地域の県立はドンドン入学定員を減らし、進学率を以前と同じに保とうとしており、それなりに難しい。偏差値上位の進学高校はかなり厳しい競争があり、これはかなり難しい。 わが教室に通っていた子供たちもそれぞれ目標とした高校に合格でき、私もとてもうれしい。ほっとしている。 とりわけ、いわゆる出来ない子、勉強の嫌いな子たちが、長い自己との格闘のなかで何かを獲得して、目標の高校に合格し、その達成感を人生ではじめて実感して、巣立っていく姿をみることはこの上もなくうれしいことである。 今年もそんな子供たちがうれしい春を迎えることが出来た。 今年はこんな子もいました。 中1の時、もうこの子は私の手に負えないと途方にくれている時、親御さんの我が子を何とかしたいという強い熱意に私自身も何とか応えてあげようと始めたものの、その道程は簡単ではなかった。まわり道ばかり、成果など程遠く、途方にくれるばかりの日々であった。 しかし、中3年になって、少しばかり学ぶ楽しさや、深く考える回路が頭のなかに出来始め、形になり始めた。 中々成果が出ないのに、辛抱強く待ってくださっている親御さんの姿勢にわたしも励まされ、3年の長き道のりをこの子と歩んだ。そして、やっと到達した。生まれて初めて苦労して到達した充実した喜びを彼は経験した。 どんな子供でも、時間の差はあるけれど、あるレベルまでは到達出来るのだ、と確信できる瞬間である。なかなか点数としては成果がでないけれど、着実に子供のなかに変化が起きていると確信できる瞬間である。 この変化を体験できた子は、必ず次の成長段階で自力で自らの状況を切り開く力をつけている。高校、大学と進むなかで自らの力で学び人生を切り拓く力を育んでいける。 そんな子供たちの能力を引き出し、創りだす手伝いをすることはとても教師冥利に尽きる。老いに鞭打ってでもやりつづけるエネルギー源である。 こんな子供たちの未来が希望に満ち、豊かなものであることを願わずにはおられない。大人たちの責任は重い。
2005.03.24
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2月18日の日記にも大学授業料の値上げ問題を書いたけれど、再び大学にかかる費用について。 大学合格の喜びと同時に親にとっては授業料をはじめとする大学への納付金は頭の痛い問題である。4年間しかも2人も大学生をかかえたりしている家庭は家計にしめる学費の割合は高く、パニック寸前というのが日本の平均的な姿であると思う。 我が家もその例外にあらず。 子供が小さい時思い描いていた、国立や公立の大学をそれぞれが4年で終了して就職すれば、これぐらいの予算で何とかなるだろうという甘い根拠のない予測はみごとにはずれて、 2人(女、男)とも、一人は(娘)私学の大学(しかも理系の私学は学校納付金高い) さらに、もう一人息子は、ストレートに日本の大学に入学できず、すったもんたした、挙句の果てにアメリカの大学に行くことと相成り、すべて、当初の予定は予定でなくなり、その日暮らしの自転車操業、親は飲まず食わず、ぼろ服をまとい、何とかカンとか生き延びてきた次第である。 他のお方からは、今、お子達に投資していることは、後で何倍にもなって返ってくるからいいですねぇ。とか老後は左うちわで安楽ですねぇ。などとお説をいただいていますが、さてさて、どうなりますやら。 リッチな老後とは程遠く、借金の返済におわれ、住む家もなく、自己責任とやらで老後も過ごさねばならぬこの国の老人としては実に心細い限りでござる。 しかし、 まあ、我が家のように無計画な能天気な親でも、いざとなると力が出て、なんとかなるものですね。 金策に走っている親御さんたち、 お子さんの能力を無限に伸ばす場を お金の為に塞ぐことは忍びないこと 針の穴のような小さな可能性でもあれば、探し出して何とがしてあげてください ね。 それにしても、 アメリカの大学は州立でも学費が高すぎる。わが息子の大学は1年の学校納付金は24000ドル、さらに生活費月、1800ドル。これ庶民にとつてはかなり厳しい。円に換算するのも怖いくらいである。 日本も、国立が法人化され、アメリカと同じようにこれから東大を先頭に上位の大学はドンドン授業料が値上がりしていくと思われる。10年後はきっと日本もアメリカ並みの高さになり、国立さえ誰でもがいけなくなると思いますよ。 これが、小泉首相の掲げる、自己責任の国の未来の姿である。
2005.03.19
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わが教室でのある日の中学生たちの会話: 「今日学校で先生が、今の子ども学力は低くなっていると言ってた」 「順位が下がったらしいぞ」 「総合学習の時間がいけないらしいと先生言っていた」 私:「学力が落ちてきているのは、君たちのことだよ。今の子供のことって誰の こと?。総合学習がいけないって、まだ2年しかやってないし、君たちほぼ旧課程と比べっても、何も総合学習なんてやっていないから、自分の学力のないこと総合学習のせいにしないでね。君たち自身に学力のつかない原因があるのに、他人のせいにしないで」 一応、語気を荒げて子供たちには反論しておいた。 今日の朝日新聞に朝日が実施したゆとり教育や学力問題に関する全国調査結果なるものが掲載されている。其れによると、 土曜日を休みにした学校週5日制には 62パーセントが反対。 ゆとり教育の象徴的存在である「総合的な学習の時間」を減らして主要教科の時 間を増やすことにも51パーセントが賛成している。 さらに、学力が下がっていると79パーセントが思っており、その中の6割がそ の原因は学校にあり、とみているという。 この結果をどうみるか。なかなか難しい、 しかし、はっきりと言える事が一つある。 学力が下がっているのは総合学習の時間のせいではない。 さらに、子供の育ちかたに大きな問題があり、これは家庭や社会が負っているも ので、親の責任が最も重い。 その親たち(教師も含めて)が子供たちの問題点がどこにあるか見えていない。 学校はこの子供たちの現状に踏み込まないで、学力をつけること困難というところまで追い込まれている。 小手先で時間を制度をいじくりまわしても何も変わらない。むしろさらに悪くなるだけだ。 それよりも、もっと今緊急に必要なことは、教育予算を大幅に増やして、優秀な教師を大量に増やし一学級の規模を小さくして、質の高い教育を構築できる専門集団を養成することではないか。これが、今最も緊急にやるべき課題だ。 いくら、りっぱな教育理念を掲げても、それを展開する最前線があまりにも貧しく、貧弱な人材しか確保できていないのでは。人材は巷に溢れているのに、学校の方に目を向けていないだけではないか。 お上のカリキュラムをただ、なぞっているばかりの教師ではなく、厳しい現実から創造的にカリキュラムを発展させ、作り出して教育の仕事を遂行を出来る若い力が要る。今までのように集団にお題目をとなえさせて満足している、一斉教育ではなく、自分の頭で考え、自分の身体で教育を実践できる若い力が要る。 そして何よりも、その自由をその柔軟性を許す国の教育政策が必要だ。 もし、公教育がそれを認めないなら、 お金や、能力のある階層の人々が自分の子女のために自分たちで学校をつくり、そこで育てるだろう。益々、勝ち組と負け組みの差はその持つ財力で差がつくこととなるだろう。親たちはこれでいいのか?と問いたい。
2005.03.15
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17年度の入学試験もすべて終了し、新しい学年に向けての準備が始まろうとしている。 小さな、わが教室にも、又新しい子供たちが少しづつやって来ている。 今日は、中1で新しく英語を始めようというグループのおはなし。「今まで英語は習ったことある?」「小学校で毎日、NHKの基礎英語をテープで聞いていた」「すごいねー!どれくらい?」「5年生から、6年終りまで2年間。私たちもテキストを学校からもらって、みんながそのテキストでやった。書くことはやっていないけど。」「じゃ、だいぶん基礎はしっかり出来ているんだ。中1終了ぐらいから始めていいのね。」 と、言いつつも、松香フォニックスの教材、Active Phonicsをつかって、アルファベトをフォニクスのルールを使って、復習することにした。 驚くなかれ。 日本語にはない、英語固有の音をアルファベトの中で聞き分けたり、発音し分けたりという基本中の基本の音を身につけているどころか、そんな話聞いたこともない。というありさま。 赤ちゃんの時から毎日使ってきた日本語の「pi」の音と英語の「p」の音ではこんなに違うよ。とか「fu」と「f」とかだってこんなに違うよ。などなどアルファベトの中の無声音をとりあげて、 どうやったら、それらの音を赤ちゃんじゃない中学生が発音出来るようになるか、口や舌や唇を総動員して、トレーニングしてみた。この練習を毎日家でもやってね、と第一回目は終わった。 この第一回目の私のレッスンはただ単なる英語のアルファベツトの名前を覚えるということではない。 子供が母国語として、毎日使っている日本語とはどんな言葉かを、身体の中に自覚させて、自分の使っている言葉とは異なる言葉がこの世界にはあるんだよ。全く体系の異なる言葉がこの世界にはあるのだよということを気づかせることにある。 自分の狭い世界にしかいない子供たちにもっと広い違った世界を垣間見せたいのだ。 わけの分からぬ幼児教室の英語やらを身につけて、生半可な英語らしきものを身に着けるいる(?)中1年生の授業をどう始めるか、生徒の言語体験に衝撃を与えて、新鮮な気分で新しい言葉に感動的に出会うにはどうすべきか、これが私の長い間苦しんできたテーマでもある。 それにしても、この地域の公立小学校が、やっている英語の取り組みはひどすぎる。ラジオの英語講座をテープで流して子供たちに聞かせているだけで、なにも解説もないという。ラジオの講座を聞くだけなら家庭でやれること。 子供たちに「英語の何をどのように」教えるのかという研究も、教師の力量もないまま社会のわけの分からぬ流行に巻き込まれて苦し紛れに、時間つぶしをしているとは情けない。 これで、専門性のある教師?教師の資格のない人の方がすぐれた教師だったりして。これが日本の英語教育の現状だ。 小学校から英語を義務化しろとかと親たちは要求しているが、こんなありさまでは日本の子供たちの英語力は高まるどころか、益々お粗末な学力に拍車をかける時間つぶしになるだけだ。 会話のテープを流したり、カルタとりをやることが英語の教育か? 外に出て、寒風の中に立ち 流れる雲を、枯れ草の中に懸命に咲き始めた、いぬのふぐりの可憐さに 感動する散歩の方が 教室でNHK英語テープを聴いているよりは 子供たちのこころが伸びやかに育つのとちがいますか。 こちらの方が余程、語学教育ではないですか。 詩のこころを育てる言葉の教育となるのとちがいますか。 次の一冊の本は 自分の子供に、英語を自在に操る「国際人」にさせたいと強く願望している、親にぜひ読んで欲しい一冊である。 「英語教育はなぜ間違うのか」 山田雄一郎著 ちくま新書
2005.03.14
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中山文部科学相は5日松江市で開かれた「教育改革タウンミーティング」で通学や仕事をせず、職業訓練も受けない若者「ニート」やフリーターが増えている問題について、 「競争は悪だとしてきたが、社会に出ると競争社会で子どもが落差に戸惑う。こういう今までの教育は、ニートなどの予備軍の『大量生産』に手を貸しているのではないか。」と語った。 この文部科学相の言葉には真実があるか? 否、である。 現代の日本の子供の姿や教育の現状と余りにもかけ離れた認識である。 現在の学校は競争の原理を否定しているか。 否、である。 子供たちは、絶えず他の子供と比較されながら競争にさらされている。全く学びとは無縁の競争にさらされている。 挙手して授業を盛り上げる競争。何回挙手したか記録までされている。 1点でも多く取ろうと、点取るためのテストに親と教師の両者から絶えずあおられている。 さらに、高校入試ではトップから最下位までいくべき高校を振り分けられ、トップの競争はかなり厳しい。 偏差値教育で育ってきた教師や親は、子供を成績でしか見ることが出来なくなっている。 これで『競争原理』が教育現場に機能していないと言えるか。 『競争原理』を悪としていると言えるか。 『競争原理』そのもので動いているのが今の学校だ。 絶対評価なんてまやかしだ。嘘ぱっちだ。 この現状が今の子供たちの抱えている問題の根源を見失わせているのだ。 子供たちの現状の正確な認識なしに真の意味の学力、知力をつける授業など展開することは出来ない。 真の学びや、知力を教育の場で子供たちにつけることが出来ないことが、子供たちにたくましい生きる力を育てることを不可能にしている。 国のトップの文部科学相がこの認識では、日本の教育は益々混迷するばかりである。 子どもたちは言っている。 「こんな事知っていなくとも生きていける。親だって知っていないけど生きている」と。 まさに、この程度の学びしか今の学校はやっていないし、偏差値教育の親たちもその程度の知性しか持っていないということだ。 この現状が、現代のさまざまな事柄を破綻に追いやっている根源ではないだろうか。
2005.03.06
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通知表をもらう季節がやってきた。 2年前から多くの都道府県で子供の評価をする基準を、相対評価から絶対評価と移行させた。子ども全体のなかでの自分のいる位置が明確な序列を基準として評価するものから、子供の学習到達度を基準に評価する成績表に移行した。 本当に成績評価の仕方は変わったか? 何も変わっていない、一層悪くなった。 子供たちが学ぶ意欲を高める成績表ではなく、益々学校が疲れる、勉強する場とはかけ離れたものに変貌しているのではないか。 その一つ、学習意欲があるかどうかを評価する項目が新たに導入された。 子供の学習意欲は、教師がどう授業の内容を高めるか、本来の学びの喜びや感動を子供たちに体験させる授業を展開できるかにかかっている。これは教師の力量にかかっている事なのに、 学習評価する基準に、授業中に何回挙手して発言したか(記録する)、提出物を必ず出したか(表にして貼り出す) このような事を成績評価に加えて、学習意欲を本当に高める事が出来るか。子供の学習意欲を評価できるか。 教師が、自分の授業に子供を振り向かせるために脅しに濫用しているだけだ。 今の子供たちは、確かに困難な問題を多く抱えており、たいへんだ。 授業を成立させることがとても大変だ。しかし、教師としての専門性がここで厳しく問われているのに、安直に成績を脅し使って、授業を成り立てようとするとは情けない。 子供たちは、学校の授業はわからない、と言っている。その子供たちが、学習内容の何処まで到達し、どこでつまずいているかを親や子供に分かるように示すのが絶対評価ではないのか。 この地域の学校の通知表からは全く子どもたちの到達度はわからない。
2005.03.06
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前回の算数から数学への移行期における問題に続いて、今回は中学で使われている数学の教科書について物申したい。 この地域の公立中学校の数学の教科書は「啓林館・数学」1年、2年、3年である。この啓林館の数学は全国的にも広く使われている。 新課程になり内容が削除(3割)された分、教科書が薄っぺらになったことは仕方がないとしても、その記述の仕方に系統性が益々なくなり、大人が読んでも教科書からだけでは内容が理解できないということである。 その上、説明部分に掲載している例題の典型性も妥当とはいえない上、ただ簡単なだけ(易しくとも深い原理の理解できるものならよい)。この教科書では子供はこのレベルのことが分かれば良し、と判断してそれ以上の事を発展的に学ぶことを拒否する。 子供の口ぐせ「そんな難しいこと、学校で習っていないので、やらなくてもいい」である。 本当にそうか? 一見、難しそうに見えることが実は極めてシンプルな原理原則の積み重ねであると言うことを子供に考えさせて初めて、教科書レベルの基本も身につくのではないか。この思考過程を子供に拒否させるのが、この啓林館の数学である。 さらに、これは国の定める指導要綱によるのであるが、 教科書の編集の仕方が細切れで、単元がめまぐるしく次々に変わることである。 例えば、関数の単元は、1年で比例、反比例、2年で一次関数とその利用、3年で2次関数。と言った具合である。 1年生に比例、反比例の学習を通して、関数の考え方を苦労して教え、やっと分かってきたな、面白く感じてきたなと思ったら、はい、この単元は終わり。次は図形です。いつもこの調子である。 1次関数は1年後、忘れた頃にやることになる。 少なくとも2年の1次関数までは一気に教えたいところである。そうすることで関数の理解をより深い確実なものになるのでは。 そういうカリキュラムの柔軟性を現場の教師に課さないのが日本の公教育の一番の弊害ではないかと私は思っている。 これでは数学の力はつきませんよ。子供は数学嫌いになるばかり。 さらに、いわゆる文章題、応用力を養うところのページ数が極端に少ないことである。 1年生の1次方程式の応用問題のところはわずか4ページで終わっている。授業時間にしてせいぜい2時間である。これでは大部分の子供は学校の授業だけではとうてい理解できませんね。他の「~の利用」という項目も似たようなものである。 要するに、教科書など頼らないで自分で勝手に力をつけろ。というのが、小泉首相のいう自己責任の意味なであろう。 私立の中高一貫校などが使用している教科書の一つに、 数研出版の体系数学1・2(代数編・幾何編)計4分冊 がある。 この教科書は私も気に入っている、納得のいく教科書であるが、文部科学省の検定を受けることが出来ないので正式な教科書ではない。もちろん公立は採用することは出来ない。最低でもこれくらいの教科書がたとえ3割削減された現行でも必要である。
2005.03.01
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日本人は世界の中でも数学好き、数学得意の民族に今までは属していた、と言われている。 しかし、数学もOECDの国際学習到達度調査の結果1位から6位に転落した。 では、ごく平均的な地方の中学生の数学の学力は現在どのような実態であるか。 新課程に移行してからの中学生の数学の学力ははっきりと下降している。やるべき内容は3割削減され、楽になったはずなのに、現実は計算力はまずまずとしても、数学的思考を要求されると8割の生徒は思考停止の状態で、理解不能に陥っている。 テスト結果の分布は平均のところで山になる分布ではなく、逆に谷となり、できる一部の生徒とできない大部分の生徒に二極化している。 これが庶民の子供たちの実態である。 新課程を実施してからまだ2年しかたっていないので、必ずしもそれのみに原因を求めることは誤りかもしれないが、子供の成育の仕方が大きく質的に変化していることが根本にあり、新課程の数学はその子どもの質的変化に拍車をかけ、相乗効果で数学を出来なくしている。数学を嫌いにしている。 世の中は、数にあふれている。 しかし、幼年期から小学低学年にかけて子供たちは具体的な生活のなかで、十分に数を量的なものとして体験していない。 たとえば時間、これは60進法で子供が理解するにはかなりの難度だ。今の子供たちはデジタル時計に慣れており、日常的に文字盤の時計を読んだ体験に乏しく、2進法、5進法などと思考を発展させて、数の不思議や柔軟に数を捕らえることがほぼ困難になっている。 割合も最も理解困難な内容だ。 買い物に絶えず親に同伴している子供が多いのに、3割引きの意味さえ分かっていないで買い物をしている。これで数学の成績に4とか3の到達度をもらっている子供なのだ。それ以下の子供がどういう常態かは押して図るべし。 距離とか量の感覚も自己の体で具体的に捕らえられない子供が多い。 幼い時から、自分の足で大地を踏みしめて遊んだり、歩いたり、走ったりと思い切り自らの体の中に距離感を感動として浸み込ませる体験が少なすぎる。 これらは、幼年期の生活が子供の身体を使った体ごと人と人のぶつかり合いの中での生き生きした実体験が不足しており、満ち足りて次の発達段階に移行せず、細切れの知識だけを注ぎ込まれていることに起因してはいないだろうか。 算数から数学へと数を抽象化して考える中学の段階で大きくつまずいている。思考不能、理解不能に陥っている。 この思考不能の壁を打ち破り、新たに思考する回路を作るのにすごいエネルギーがいる。以前の子供たちには、浸み込むように入っていた論理が全く跳ね返されるばかりである。 中学の教師たちはこの子供たちの思考の質的変化にメスをいれることから始めなければ、数学の授業は成立しないのではないか。小手先でのカリキュラムの変更だけで真の意味の学力をつけることは出来ない根源的な、人間の育ちの問題がある。 中学生の言い分は「かったるい」、そんなことを考えると頭がパニックなる、と言って本当に頭が痛くなるのだ。 抽象化は人間にとってはかなり高度な知的活動だ。 それに耐え得る幼児期の豊かな人間の育ちが必要だ。 もちろん現在の教育課程にも欠陥があり、中学の数学教師にも言いたいことが多々ある。 でも、もっと言いたいことは幼年期から思春期にかけてどのような子供を育てるかという、親自身の生活観、人生観が厳しく問われている。
2005.02.26
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OECDの国際的な学習到達度調査で日本は「読解力」が00年の8位から03年は14位に転落。文科省はこの結果に衝撃を受けてか「読解力向上プログラム」を策定することを打ち出した。 この結果を待つまでもなく、日本の子供、青年が日本語の読み、書く能力を年齢に相応しく育てていないということは10数年も前から分かっていたことである。 日本の国語教育は書く事を極端に軽視してきた。 近年,日本の大学は多様な受験の仕方を取り入れることで、色々なタイプの学生を獲得しようと躍起になっている。 その一つにアメリカの模倣のAO入試なるものがある。その他に公募推薦や、課題を与えて其の論文をを審査して合否を決めるなど、などである。特に私大にこの選抜の仕方が多い。学力テストの比重は年々小さくなってきている。 これらの選抜に共通なのは、学生に小論文を書かせることである。学生たちは学力テストよりこの推薦方式の方が楽に合格出来るのではと期待して、応募しようとする。 学生に本気で文章を書くという機会を与えていると言う点でとてもよい。 さて、高校生たちの小論文のできばえはどうか。 大部分の高校生の書く文章は小学生並みに幼い。 文章そのものも日本語として、とうてい青年期の人間が書くものではない。 さらに、深刻なのは書くべき内容がない、書くべき物を自分の中に育てていないということである。 この生徒たちは教科の学科試験の点数では、それほど劣等な子供たちではない。中の上ぐらいの成績か、高校によってはトップの生徒だ。 大学受験のための論文の書き方などの「HOW TO」もので解決できる以前のレベルの子供たちが多い。 私は、我が教室の子供たちと小論文の書き方の勉強や練習をする時、何時も書くテーマについてかなり時間をかけて討論することにしている。本来なら生徒みずからが本を読んだり、関連の資料を調べて書くべきだが、そこまでの道程が遠すぎてとりあえずテーマについて、その子供の関心やレベル、その取り組みでその子供をどう成長出来るか、そのために何を今その子供は必要でやるべきか具体的に、一人一人違ったやり方でやることにしている。書き始めてからも、何度も書き直し、書き直し、ある質に達するまで、やり続ける。妥協しないでやり直しを続ける。子供たちはこの作業で、生まれて初めて本格的に文章を書いた。こんなことは今までやった事がない、と言う子どもも多い。さらに、現代国語がすごくよく分かるようになり、点数がよく取れるようになった、と言う。 これはごくシンプルな書くという作業を実行しているだけで、とりわけ目新しい事をしている訳ではない。 書くことが読解力の向上にも繋がるし、社会の見方、自分の生活、ひいては自分の将来についてまで考える契機になっている。論理的に考える力の訓練にもなる。 どうしてこういう単純なことが学校の教育課程の中で幼い時からやれないのだろうか?作文の指導が系統的になされることが今こそ重要である。 言葉を豊かにし自分のこころを言葉で表現できる力。自分の未来を、言葉で語れる力。この能力は人間が基本的に人として育つ上で最重要の課題だ。 私の息子はスポーツ万能で、活発な子どもだった。幼い時から、じっと座って勉強したり、本を読むことができないこどもであった。国語力の貧困は上で述べてきた子供たちと同様でった。とりわけ高校卒業時の文章は小学生のように幼さなかった。 この息子は日本の大学には一度も行ったことがない。 現在アメリカの大学に在学中であるが、アメリカの大学は文章を書く機会がとても多い。書く能力をとても鍛えてくれたのではないかと思っている。宿題や、テストのための膨大な読書やおびただしいレポートが書く力を鍛えてくれた。日本の大学に行っていたら多分あの稚拙な書く能力のまま、今日に至っていると思う。 日本人が英語圏で英語で書く能力を伸ばした事が日本語の書く力の向上にも繋がった。まだまだ彼の日本語は英語の文体からの訳という感があり、日本語の熟達には程遠いかもしれないが、書く基盤はかなり強固なものになった。 アメリカの大学が日本語の能力を高めてくれたとは余りにも日本人としては寂しい限りだが。(フリーページに彼の最近の授業のレポートを転載してみました。興味のある方はご一読を) 日本の大学も青年にドンドン大量に書く機会をあたえ、厳しく鍛えることを課すべきではないか。 幼い時から系統的に書くということを鍛錬すべきではないか。その事が学力向上の一番の近道である。
2005.02.25
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現在行われているの学習指導要綱の主要な特徴の一つに、従来の教科の枠を取り払い、生活科(小学校低学年)や総合学習の時間を設定し、子ども達に学習意欲の動機付けとしようとしたことにある。 この改定により子ども達の基礎学力が低下したと世間ではやかましく騒ぎたてているが本当にそうだろうか? 低学年に「あさがおを育てる」という時間がある。 私は散歩の道すがら夏になると子ども達のアサガオがどのように育っているか、時々覗いてみる。草花を育てることの好きな私にとっては、子ども達の育てているアサガオは余りにも無残、悲惨な状態にしか育っていないものが多い。今まで見事に育っているアサガオに一度もお目にかかったことがない。 土も、種も、容器も「一式何円」とまとめて、教材業者から取り寄せたものを、ただ袋から取り出し、容器に土らしきものを入れ種をまき、水をやり、校庭の片隅においているだけ。夏休みになったら家に持ち帰らせてはい一丁出来上がり。 暴風で鉢が倒れても数日間放置されたまま。散歩のお年寄りが見かねて鉢を整理整頓しているありさま。 これで教育といえるか。 あさがおの栽培を通して、命の不思議や種から花を咲かせる大変さ、困難さを幼い子らに学ぶ機会を与えてはいない。 土を作り、肥料を与えるその作業の中に学ぶべきもの、学習すべきものが多くある。実際に花を育てることは自らが泥にまみれて、汗してこそ、生き物に対するいとおしさを、育つことの大変さを学ぶことが出来る。病虫害にも侵されるときもある。雑草もはえることもある。それら一つ一つが幼い子のこころに浸み込んだ時、色々なことをもっと知りたい、学びたいという強い気持ちにもなる。 非常に高度な学習内容にまで組織できるのに、教師はただカリキュラムをスケジュールとしてこなしているだけだ。子だもたちも又しかり。 花を育てることが子ども達の感動になるような、見事な花を咲かせた時にこそ、子供の人格形成にまで影響を及ぼす教育が出来るのではないか。植物に対する深い知識も身につく。 そしてこの事が今の子ども達にもっとも欠けていることだ。特に幼い子ども達には泥んこになり虫やミミズにまみれて自然と格闘しながら花を育てることに学びの深い意味がある。 この過程を無視、あるいは省略しては本当の意味の学ぶ意欲、学力はつかないと断言できる。 今の子供たちが、勉強嫌いで学力がついていないのは色々な問題が複合的に絡まって入るが、その主要な問題のひとつは生きることを幼い時から一つ一つ丁寧に、やっていないからだ。成長過程を一つ一つ丁寧に乗り越えていないからだ。 いくら知識だけを断片的に垂れ流しても子供には害があるばかりである。 いくら形式的に計算練習の時間を増やしても益々勉強嫌いの子供を作るだけである。 学ぶことの楽しさは無限であるのに、幼い時から学ぶ苦役だけを意味もなく押し付けて子供が育つはずがない。 実際、育っていない。 本当に学ぶことの楽しさを知った子供はどんな困難な課題も粘り強く克服していける。学ぶことの嫌いな子供などいない。 教育の指導要綱にも問題が多々あるが、教師や大人の側にもっと根源的な問題がある。
2005.02.23
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現在日本では、私立中学の入試真っ盛り。合格して胸膨らませている小学生も多いことでしょう。 東京などの大都会では状況が異なると思いますが、地方都市の私立の中学校について私論を述べてみたい。 公立も中高一貫校を作ろうという動きが最近急である。 子供の数の著しい減少は、生徒を獲得するための私学の個別化を各学校は打ち出そうと必死である。その個別化の中に、有名大学への進学率を上げる、と言うのがある。もっとも分かりやすく、保護者の関心、希望にかなう教育方針である。 確かに、私立の教育内容は義務教育の中学においてさえ、カリキュラムに柔軟性や、一貫性があり公立中学よりより確かな学力を身につけることが可能なように見える。教師も子供たちに点数のとれる学力をつけると言う点でとても熱心であるようにも見える。 しかし、10歳ぐらいから子供たちは受験用の知識の詰め込みを18歳ぐらいまでずっと続けることになる。 これで本当に大部分の子供たちは学力がつくのだろうか。とりわけ思春期から青年期のもっとも多感な、こころの成長を遂げる時期に中学1年から、ほら英検だ、漢検だ、模試だと休む間なく知識の切り売りをしいられている。 なぜそんなに成長を急がせなければならないのか。急がせることで大きく伸びる可能性をも摘み取っているように思われてならない。人それぞれの成長のスピードがあるはずだ。それを無視して人は大人になれない。 子供はスポーツや、さまざまな諸活動で大きく成長する。 私学のスポーツは全国レベルで活躍するような選手の集団であることが多く、他のごく普通の子どもたちは同じような年齢の子ども達の中で切磋琢磨して、運動能力を磨く機会が極めて少なくなっている。子どもがこころや体を鍛え、社会性を身に付けていく場がとても貧弱と言わざるを得ない。 スポーツ以外の活動においても、子供の生きていくための能力を伸ばすようなものになっているとは到底思えない。もっとも今の子ども達は面倒な事を嫌うのでこの私学の方針はその子どもたちにはぴったりなのかもしれない。 物事を、真実を知るということは学びの原点だ。ただやたらに急いで子供を駆り立てても子供はどこかで破綻する。 その子の資質がどこで開花するかはそんなに単純なことではない。教師は未来に花開くかも知れない大切なつぼみを預かって教育をしていることを肝に銘ずるべきだ。 中高一貫教育がただ単なる受験の効率化をめざし、子供を評価する尺度が「勉強が出来るか否か」(非常に狭義なテストの点数で)が重要視されているのなら、その中で大人へと成長するためのこころの葛藤や育ちさえ認めない現実が、八方塞がりの中で悩み苦しんでいる中学生や親たちを益々増やすばかりである。
2005.02.07
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英語教育について、昨日に続いて私論を述べてみたい。 人にはそれぞれの発達の仕方があり、その多様性を無視しての子育てや教育は子どもを自立した大人に育つことを不可能にするのではないでしょうか。 英語の習得もしかり。世間の喧騒にあおられて幼い子に誰れ彼れかまわず英語もどきを与えることは逆にマイナス要因ではないでしょうか。 我が家の息子は現在アメリカの大学に在学中ですが、この息子は中学、高校と英語が嫌いで、英語の成績もひどいものでした。私も何も教えてきませんでしたし、高校までは英語の先生も付けていません、塾にも行っていませんでした。高校卒業後英語の成績が悪すぎ、思うように進路も切り開けずとても苦しみました。 しかし、ある時から急に英語の力がついてきました。このタイプの子どもは一度力がついて来ると真の実力となり、逆にそれまでの長い無駄に見えた道程が豊かに開花してきます。 日本の教育や日本の親はこのようなタイプの子を「出来ない子」と切り捨て前に進みます。親でさえわが子を切り捨てています。子どもの可能性は至る所に有るのに、親は澄んだこころで其れを見極めることがとても困難な時代になっています。 息子の大学に在学している日本人は(30名余り)、99パーセントまで幼い時から外国の教育だけを受け、日本の教育を受けたことのない子女です。英語力のより低い息子がそのお子さんたちと勉学で劣ってはいません。もちろんアメリカ人とも対等に勉強できています。 むしろ、人格や言語の形成期に日本で生粋の日本人として育ったことは彼の確固たるアイデンティーになっており、アメリカの文化をより柔軟に、創造的に受け入れることの出来る基盤ともなっている。それが彼の個性となり、他国の人々から評価され、認められる根拠ともなっている。 このような例から見れば、流暢なきれいな英語を幼い時から身に付けていなくとも、十分にバイリンガルに生きていける。その人が主張できる何を持っているかが問われ、その内容如何で高く評価される。 伝えるべき中味にこそ、幼い時から人としてその子どもがどう育っているかの総体として厳しく世間から問われ、評価されるものであると云うことにもっと目を向けるべきである。 若いお母さん、お父さん、 お子さんとしっかり向き合って、どのような人間にわが子を育てたいのか、じっくり考えてみてください。いたずらに幼児英語の喧騒に惑わされないように。英語の力が必要なのはお母さんではなく、子ども本人の人生の中においてですよ。
2005.02.03
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今日も日本列島は超一級の寒気団に覆われ、各地で大雪。この地方でも今冬初めとの積雪となった。 この日記サイトに時々英語教育に関心のお有りの方が訪問してくださるので、語学教育に、長い年月恥ずかしながら携わってきた者として私見を述べたいと思いますます。 英語教育、とりわけ幼児の英語教育について世間は喧しく宣伝し、早期の英語教育云々が叫ばれている。今、日本で幼い子を駆り立て英語を学ばせることが本当に英語習得にとって意味があるのだろうか? 私も含めて、語学教育に携わる教師の側の問題、レベルに多々問題をかかえている事は事実であるが、日本の語学教育の発展途上の問題として、それは次の世代が止揚していく問題でもある。若い世代に素晴らしいレベルの指導者たちが現れて来ている。 言葉は人を人として成長させるための重要な要素の一つである。言葉を豊かに育てることは、言葉を使って想いをめぐらすこと、言葉を使って自分を表現するこ、言葉を使って他と交わるこのできる人間を育てることである。又、自分の狭い体験の世界だけでは知る事の出来ない広い世界へと言葉は誘ってくれる。 今の子どもたちの多くはこの言葉の習得が余りにも貧弱すぎる。色々なことを学ぶ基盤が出来ないまま青年期に達している。 又、言葉を習得するには苦しい粘り強い持続が必要だ。それは母国語である日本語の習得においても同じことだ。自然発生的に身につくものではない。 観光に行って買い物したり、タクシーに乗る時の言葉を話す事が出来ればよい、というレベルでしか日本語(英語ではないですぞ)を使いこなせない若者が街には溢れている。日本語も英語も観光地で客として使いこなすレベルしか身についていない青年たちが日本には大量に生産されているという事実にもっと目を向けなければならない。 日本はこんな英語教育を目指しているのか? 子どもたちが人として育ちきれていないのに、子どもたちが生きる豊かなエネルギーを育てていないのに、幼い子に英語を教えて何処へ子どもを駆り立てようとするのか。 もちろん英語を話せる環境にある子どもはどんどん身につければいい。しかし、あせって貧しい、いかがわしい英語教育を幼い子に与える必要はない。 言葉は人間を豊かに育てるためにある。 外国語を学ぶことは世界に自分とは異なる生活や、文化の人々が暮らしているのだという深い理解への窓なのだ。 話すことと同時に読むこと、書くこと、日本人の青年たちは日本語においてこの力を育てていない。 日本語がこのありさまで、英語の能力がどうして伸びると言うのか。幼い時にお遊びの英会話もどきを、貧しい家計を切り盛りして習わせてきた青年の多くの行く末はこれなのだ。 高校生の学力に、生きざまに大人たちはもっと関心を示し、幼い時の子育ての教訓にすべきではないか。
2005.02.02
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サクサクと霜柱を踏んで朝の散歩。吐く息が白い。サクサクと霜柱を踏んで学校に通った幼い日の通学道を思い出す。今の若者たちの多くは霜を見たことがないと言う霜という字が読めない。「車のフロントガラスにくっいているあれが霜なんだ」と驚いて納得する。今の若者たちの95%は露を知らない。お日さまが高く上ってからしか起きない、アスファルとビルヂングの中の若者たちは露を見たことがないと言う。理科で露点の学習をした日、彼らにとって露点とは試験のときに点を取るための知識の羅列のひとつに過ぎない。露をコロコロとサトイモの葉っぱの上を転がして遊んだ幼い日々の体験が「露点」という概念を学んだとき露や霜のことがストーンと胸に落ち感動したあの学びの楽しさを今の子どもたちは知らない。現代の子どもたちに、学ぶ楽しさを生きる力にする事の困難さがここにある。しかし、私たち大人は学ぶ感動を生きる楽しさを子どもたちに伝えなければならない。霜がふる、露がおりる。この言葉は現代ではほぼ死語になろうとしている。
2005.01.28
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