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コロナのため、私の陶芸教室や絵画教室は、3月初めより4月15日までお休みとなり、もっぱら自宅での引きこもりである、 幼子の習作。モデルは我が娘と息子の幼いときである。 老若男女の人物像のデッサンと 油絵の練習、絵具の使い方に慣れること、使いこなせるようにする事が、当面の課題である。 少女と少年の習作。孫たちがモデル。現在は高齢者の人物像を習作中。 人間を描き分けることは、とても面白い。人への深い思いが深化する。 コロナウイルスが日本でも、この数日は新たな段階での広がり 見せて、日本中が自粛ムード強められた。 大量消費することが好景気の指標。 虚飾の繁栄を謳歌している現代、 その脆弱性を露呈した。 この災害は、私たち自らが招いたもの。 でも自粛ムードの都市の静けさ、 これこそが、人間らしい街の姿では? ここで私たちは立ち止まり 静かに思いをめぐらすとき、 人間のあるべき未来のかたちを。 断じて、 この災難の果てには V字の景気回復を強力に 押し進めると 早々と大声で宣言している 安部首相の経済政策ではない。 お金をどんどん放出しジャブジャブ お金で世界は支配しようとするのか。 利益のために効率優先のグローバルリズムの脆さと危うさ。 金儲けのための異常な観光客の呼び込み。 これが好景気と謳歌したアベノミクス。 その脆弱性をあらわにした コロナウイルス それでも、また v字回復の経済とは。
2020.03.29
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2018年明けましておめでとうございます年末の忙しい中、空き時間の合間を縫うようにして製作した、「犬と幼子」平和な年になりますようにと願いをこめて。(まだ、泥のまま、乾ききっていないけれど、素焼き、絵付け、本焼きの工程を経てどう変化していくか楽しみ。)75回目のお正月を迎えて我ながら長い時間が経過したことに驚く。時代は大きく激しく変化した。若いとき想像だにしていなかった速さで激動している。歴史が大きく転換している。そのダイナミックさを目の当たりして生きている。これってすごいことではないだろうか。私は65歳から、自分が楽しめる趣味というものを持とうと思い立ちまず、陶芸を始めた。それまでに仕事としてやってきたことも面白くはあったが、1から始めたこの土いじりは今まで体験したことのない喜びがあり、その数年後には、デッサンや絵を描くことにまで発展し、益々深みにはまっている。思春期の少女身体は年齢相応に衰えて行く。頑張ってあれこれ努力し体力維持をはかっているが、劣化、老化はあがらえないものがある。しかし、新しいことに挑戦し、深めることには年齢に関係なく面白く興味つきない。語学などは一応私の専門であるが、この年になって、英語など学ぶこと面白くなり楽しくなってきた。若いときに見えなかったことが、見えてきて感動する。趣味を含めて学ぶことが楽しい。高齢になって、このように自分のやりたいことを思い存分にやれるのは、若いときからずっと平和な社会があったかからこそ。2017年は、なにやらきな臭い方向へと突き進もうとする動きが急であった。我が母や父が大きな価値観の転換を迫られ歴史に翻弄されて生きた時代が再び来ないような社会でありたい。朝の散歩道今朝も霜で寒い朝この穏やかな朝が変わらぬ日常である2018年でありますように。今年もどうぞ宜しくお願い致します。
2018.01.02
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春に谷川俊太郎この気もちはなんだろう(私の朝の散歩道、森林公園。今藤の花が爛漫と咲く。私が生まれた日にも盛りと咲いていた花。)目に見えないエネルギーの流れが大地からあしのうらに伝わってぼくの腹へ胸へそしてのどへ声にならないさけびとなってこみあげるこの気もちはなんだろう(むせかえる新緑のエネルギー、公園の新緑の鮮やかさ。)枝の先のふくらんだ新芽が心をつつくよろこびだ しかしかなしみでもあるいらだちだ しかもやすらぎがあるあこがれだ そしたいかりがかくれている(何万年前から生き延びてきたこの地域に自生するシデコブシの花、繊細な花びらが天候不順のため、ちちこまってしまっている、絶滅危惧種)心のダムにせきとめられよどみ渦まきせめぎあいいまあふれようとするこの気もちはなんだろうあの空のあの青に手をひたしたいまだ会ったことのないすべての人と会ってみたい話してみたいあしたとあさってが一度にくるといいぼくはもどかしい(マメナシ:この木も何万年物いのちをこの地でつないできた)地平線のかなたへと歩きつづけたい大声でだれかをさけびたいそのくせひとりで黙っていたいこの気持ちはなんだろう4月28日は私の74歳の誕生日であった。谷川俊太郎のこの詩は74年を生きてきた私の心にびんびんと響く。春は生きようとするものたちのエネルギーが満ちあふれる。いのちの華やぎいのちの混沌老いていこうとしている身にはまぶしすぎる。若いときには感じる事のできなかったこの気持ち。そしてもどかしさ、はてしなく広がる世界。青春をともにした友、幼いころ遊びほうけたいとこ父や母や叔父や叔母や地平線のかなたへと歩み去っていったひとたちみなそれぞれの思いを抱いて。大声で誰かを呼んでみたい。そのくせ一人で黙っていたい。この気持ちは何だろう。残されたいのち弱っていくからだ好奇心に満ち満ちたこころ深い強い探求心そのくせ草の上でじっとしていたいこの気持ちはなんだろう74年間生きて初めて深く共感した気持ちである。谷川俊太郎のこの詩「春に」は、理論社1983年刊「どきん」という詩集に掲載されているものである。谷川俊太郎が50歳前半の詩である。85歳の今なお旺盛な活動をしておられる。中学三年の国語教科書(光村出版)の冒頭を飾っている詩でもある。連分けがなく、初めから終わりまでを一連で構成されている詩であるが、私が自分の気持ちに沿って、自分勝手に連分け、行変えを行ったことをお断りしておく。(一連で一気に読むことがこの詩のリズムだし、心に突き刺さってくると思うが、あえて解釈してみたかったので。)中学の国語の先生には、この詩の授業を行うとき、中学生のこころにひきよせて、広く深く宇宙に生かされた自分を意識して鑑賞できるような授業にしてほしいとお願いしたい。多くの中学生が、テストのために、言葉の意味や表現技法を暗記している。その暗記を苦痛に感じている。これからの人生のどこかでこの詩が彼らの心に響くこと願うばかりである。
2017.04.29
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明るくエネルギーあふれる作品の数々私の属する絵画サークルは年に1回市民センターのギャラリーで作品展を開催し、日頃の成果を披露している。今年は11回目を迎えた。講師の 端山 操先生の作品ボルネオエネルギーにあふれた先生の作風、お歳は81歳ですが、若々しく元気いっぱい。サークルの最年長93歳のご婦人の作品翔ご高齢とは思えない力強さ、サークルで一番多作。その生きざまは、みんなの目標です。絨毯織る女(ひと)81歳のご婦人の作品。油絵。ノコギリ屋根わが瀬戸物の街の町工場の風景ノコギリ状の屋根は工場内に光を取り入れるためのもの。この景色は消滅しつつあります。画材はパステル。陶の匠邸幸兵衛窯の邸80歳代の男性の作品です。画材はアクリルひがんばな彼岸花の版画です。6版刷り。70歳代の男性の作品です。次の作品も同じ男性の作品です。ホウズキ手前の真っ赤なホウズキは木彫によるものです。何と生き生きとしていることでしょう。とても木によるものとは思えない。次から作品の画材は水彩絵です。松島80歳後半のご婦人の作品です。水彩絵の具の特性を思う存分発揮した柔らかで優しい色使いが素晴らしい作品です。大地の人定光寺の秋これは定光寺の展望茶屋の紅葉を描いた、私、富士子婆の作品。これらの作品はその一部を紹介したものですが、高齢者ばかりの集まりと思えないほどに明るくエネルギーに満ちていると思いますがどうでしょうか。講師の端山先生のお人柄が反映した絵の数々です。画材を、油絵、水彩、パステル、アクリルと何を使って描いても自由。画風も、それぞれの個性を発揮してまちまちバラバラ。先生のご指導により、一人一人の個性を伸び伸びと発揮している作品ばかり。私はこのサークル参加して、4年を経過したばかりの初心者ですが、私の奥深くに眠っていた絵心を巧みに引き出して下さった先生のおかげで、絵を描く楽しみを知りつつあります。私がこの作品展に出した作品は、上の「定光寺の秋」と次の2点です。秋桜静物子育てや仕事でてんてこまいで、趣味などとは程遠く過ごしていた私が、70歳代にこのような技術を獲得し、絵が描けるようになるとは驚き。歳を重ねるとともに、意外性多く、楽しみも多くなるとしみじみと思うこのごろである。
2016.12.01
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寒中お見舞い申し上げます昨年3月に私の母が90歳でその生涯を閉じました。その為、親しい友人、実家の幼馴染、親戚などには、年賀の挨拶を控えました。その代わりに、寒中見舞いを出しました。( さざんか咲く道: 水彩画 。by fujiko)母は昨年の12月に介護付き住宅から、肋骨が折れたという理由で病院に入院。3か月間、無意味な治療?を受け続け3月25日に亡くなりました。せめてこの3か月間は、慣れ親しんだ自宅で静かに満ち足りて最期を過ごさせてあげたかった。それが今も心残りです。病院に入院した日、外は厳しい冬空の青に山茶花が満々と咲き切っていました。そのときの気持ちをこめて、描いた山茶花。 わが足で独り起つ道 霜降りてはらはらと散り 紅の山茶花人は最期は独り逝く。この孤独に耐え、毅然と最期を全うする。この歌は、母の気持ちになって私が詠みました。母の最期の孤独や悔しさ、今なお私の心に疼きます。余りにも長すぎる人生、ハイスピードの社会の進み方、その間に価値観は大きく変わり、母は自分の価値観をすべて否定されたまま半ば諦め、無念のなかで、逝ったのではないか。これは、高齢化した社会の高齢者たちが、共通して抱える気持ちでもあるのではないか。私の中にはそんな母の気持ちを想う私がおり、私は、今なお苦しいのである。その思いは、私が残された人生のなかで、私自身がどう生きるかによって、答えをだしていくべき宿題でもあると、最近は思い直して、厳しく自己と闘い生きることを肝に銘じている。押し寄せる老いに立ち向かうことは、想像していた以上に厳しい。ともすると、老いるに任せて、怠けて安易に生きたがる自分がいる。例年になく厳しい寒さの日々が続いております。どうぞ、お身体をご自愛下さい。 関連記事:私の母の日(2013.5.13)
2014.01.14
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2014年明けましておめでとうございます2013年には古稀を迎えた私。身体の老化は一段と厳しく老化防止のためにたゆみなく身体や頭を働かせる必要を痛感した昨年でした。(昨年は水彩画に挑戦。これは年末に描いた「駆ける馬」そして、昨年、3月には母が90年の生涯を閉じ、親しい従弟の連れ合いが63歳で逝き、親しい同級生が3人も亡くなり、小学校の大好きだった恩師が逝き、、、私の人生のそれぞれの場面で、それぞれの色合いで影響しあった人々の死は死というものが一段と現実味を帯びて私に突き刺さってきました。人の最期を看取るという体験も母の死で初めて当事者として向き合うこととなりました。まだ、母の最期の有り様や死から立ち直れていませんが、これから私がどう生きていくかで解答を出していこうと決意新たにしています。この1年のなかで、私が学んだこと数多く、残された私のこれからの人生に深い影響を与えることでしょう。すなわち最期まで、生き切るとはどういうことか。残された命を大切に燃焼しきって最期を迎えるとはどうあるべきか。このような課題を突き付けられた昨年2013年でした。(絵の先生が、フィンランドに旅行された時、購入されたお人形を写生した絵。「ムーミン谷」70代を70代でしか発揮できない賢明さでいきいきと生き切る。今までの人生でできなかったことに挑戦しつづける。社会とは、仕事を通して繋がり続ける。70代はまだまだ出来ることがある。私の場合は、若いこどもたちと勉強を通して私自身も成長を続けること。この社会の窓はとても波乱に満ち、エネルギー溢れている。70代だからこそ子どもたちと向き合える向き合い方がある。子どもが人らしく成長することの困難は以前に増して多くなっているこれは、高齢者が人らしく老いて、人生を全うしていくことにも通じる困難でもある。アベノミクスとやら、世の中は、から景気に浮かれ気味、から騒ぎしている間に不吉な黒雲が垂れ込め始めている昨年の秘密保護法を初めとして一連の右傾化は、過去の歴史から何も学ばない愚かしいこと。孫たちの生きる社会が人間が、真に人として豊かに開花できる社会でありたい。そんな未来を実現するためにも老体に鞭打って、厳しく現実の社会も見つめ続け意志表示したい。年の初めにあたり、70代を気力、体力ともにいきいきと過ごせるように休むことなく、頭と身体を活動させ続けるための自己との闘いを厳しくすることを決意したい。これも、フィンランドのクリスマスの人形たち。今年も細々とブログを続けることが出来ること願って。今年もどうぞよろしく。
2014.01.03
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白い花園5月12日は母の日でもありましたが、3月25日に亡くなったわが母の49日、忌明けの日でもありました。49日の法要があったで実家に行った。驚いたことに、母が急に体力失くし、弱り始めた2年前から大好きだった野菜作りや花栽培が出来なくなりそのまま放置されて誰も手入れする者なく、荒れ放題の畑がなんと一面、真っ白なお花畑になっているではないか。他の野の草を追いやって一面に咲き競うマーガレット白の花園のなかにかすかな母の名残り芍薬の花母が丹精こめて豪華に咲かせ続けていたシャクヤクの花が花園の片隅で、息絶え絶えにひっそりと咲いていた。そして、白いマーガレットの花園に淡い淡い紅紫のヒメジオンが群生してやさしいやわらかな色合いを添えている おかあさん!この花園はきっとおかあさんのプレゼントですね。晩年の2年間は母にとっては不本意な不遇なものだった。母の生き方そのものが全面否定されたその孤独その哀れ悔いを残してあの世へと旅立ったのではないかと未だにこころに引っ掛かり突き刺さるものある娘のわたし。後味悪く母の死から私は立ち直れていない。そんな私にこの思いがけない白い花園の出現は少しこころ和ませてくれる。畑のわずかなスペースに残っていたマーガレットすさまじい生命力で畑一面に広がって母の忌明けに咲き乱れているとは。 きっと母は苦しみの果てに悟りひらいて朗らかにあの世へと旅立っていったにちがいない。その白い花園はそのことを私に教えてくれている。3月25日に母が亡くなってから49日がたった。寺の坊守ととして、寺を守ることだけを必死に貫いて生きた母私はこの母の生きざまが嫌いである、激しく抵抗して生きてきた。絶対に妥協したくない。私はその受け身的な女の一生を嫌悪している。母と反対の生き方をしてきた。しかし、寺を守り、家をまもり、自分の親や夫を介護し看取り、最後に残った母。最後の2年間は、母の生きざまを理解する者なく孤独であった。最も不幸なことは、あれほど必死に守ってきた家の中で晩年2年間を過ごせなかったことである。その悔しさを最期まで抱えて死んでいった。なんという不条理、子どもとしては、そんな母が哀れである。母逝くで母の死について書いています。母の晩年の介護生活から学んだことは最後まで生きるとはどうあるべきかということである。昨今、大規模で高額なあらゆる種類の介護住宅や施設が出来ている。その内容の一部もよく観察できた。大病院の実態もつぶさに知る機会を得た。ここから得た教訓は高齢者だからといって、受け身で生きていては命は全うできない。この世界をどう受け入れ、最期まで自立してどう生きるかを絶えず模索し自分の肉体や精神と戦い続ける必要があるということだ。命尽きるまで、人は闘って死んでいくということが少しわかった。夫の父、母、私の祖父母、私の父など今まで出会ってきた死のなかで、母の死は現代の高齢者がかえる様々な問題を集中的に孕んでいた。良きも悪くも私の死はその問題の先にある。この意味からも、母の最期からさまざまなことが学べた。
2013.05.13
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母が3月25日に亡くなり、何かと慌ただしく、常ならぬ心持の日々のなか、はっと頭上げれば、すでに桜の花爛漫と咲き、散り始めるものもいる。私の早朝の散歩道のひとつ森林公園朝靄のなかに、淡い紅のソメイヨシノや濃い紅の枝垂れ桜純白の花びら若緑の葉っぱに映えて朝の陽光に輝くオオシマザクラ近づけばこんなに清楚な色合いオオシマサクラそして例年ならソメイヨシノの後に萌黄色の山肌のアクセントとなって彩るヤマザクラまでもが他のさくらと競演してすでに満開うっすらと紅帯びた花弁ベージュ色した若葉萌える4月の雑木林の微妙な色合いを代表するかのように優美に咲く。さらに見上げればヤブツバキの大樹には紅色の洪水足下は赤の絨毯ヤブツバキの遥か向こうに広がるさくら並木は朝靄の中にピンクに煙るいのち溢れ厳寒から解き放たれて華やぐ花、花、枯葉に覆われた柔らかな大地から可憐なスミレの花点々と咲き、ウグイスもあちこちの雑木林から整った美しい声で鳴き、ものみな4月の朝を謳歌しているオゾンいっぱいの早朝の空気を胸いっぱいに吸い込めば、心の虚ろ、心の疼き、何かしら和らぐ。自然の力の大きさよ。母は帰って逝った。白骨となってこの大きな大地に。 5時半にはもう外は明るい。今週やっと朝の散歩を再開。今年は気が付けばもう春半ば。初夏へと季節は移ろうとしている。
2013.04.05
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春の雪舞い降りたかのようにユキヤナギの花一面に咲き乱れる3月に(芽吹き始めた雑木林。いのちのざわめきが聞こえる朝の雑木林。さくらと雪柳の競演見事)我が母冬子さん静かに眠る(母と私が生まれ育った寺。母の葬送の日、境内から今盛りと咲く雪柳いっぱい採ってきて、庫裏の床の間をユキヤナギの生け花でいっぱいにした私。花栽培好きだった母。ユキヤナギノ真白な狂乱の中、母は静かにわが家を去っていきました。)寺に生まれ、そこで育ち、坊守として一生を終えた我が母92歳の生涯を静かに閉じました。頑固に寺を守る縁の下の礎になることを貫いた生涯。92年の歳月は長い、余りにも長い。社会は激しく変動し、価値観も何度も大きく転換した。しかし、母は何も変わることなかった。ただ一点母は坊守の勤めを頑固に貫いて去って行った。、頑迷に保守した生きざま、その偏狭さその世界の狭さ(繊細かつ華やかなシデコブシも満開)その母の生きざまは私の反面教師であり続けた。(いのち凝縮しているシデコブシの花。花蕊にはムシさんもやってきた。おいしい蜜を吸っている)葛藤しながら別の方向を観ながら歩んだ母と娘その確執が深いものであるがゆえにますます、母の喪失感は深い。101歳の医師、日野原重明先生は「今日の言葉」で(フェイスブックで毎日配信)「死が何であるかを子どもに伝えるのは、おとなの役目です。」☆いのちを教えるということ☆看取りという経験は、子どもにいのちの尊厳や、いのちが消える不思議さ、寂しさを実感させ、人として大きく成長を遂げるきっかえを与えるはずです。この日野原先生の言葉は、「いのち」の終わりを身近に深く体験することの大切さを教えてくれている。70歳になって、やっと私にはこの「言葉」の意味を少し理解した気がする。母の最期の看取り、母が最期まで貫いた坊守としての生涯を慈しみ敬う葬送。浄土真宗の「葬儀」の深さ、親鸞の教えとは何か身を以て教えてくれた「葬儀」私の残されたこれからの生きざまにもこの出来事は深い影響を与えるであろう。(厳しかった今年の冬。その厳寒を耐えてやっと咲いたヤブツバキ。母の大好きな花。さくらもやっと咲き始めた。椿の花と桜の蕾の競演)2013年3月25日 母は4か月あまりの入院末、肺炎で静かに92年の生涯を終えました。色々あり、ここではまだとても書く気力出てきませんが、最後まで頑固さを貫いて生き切ったのはあっぱれ。3年前我が父が亡くなっています。その時父は自分の葬儀の仕方を真宗の教義典礼に基づいてかくすべしというものを書き残していました。今ではほとんどやらなくなっている葬儀の式です。母の葬儀もその父と同じやり方で行われました。とても感動しました。父の葬送の様子を次の記事で書いています。2009/04/05 あっぱれな死への旅立ち
2013.03.29
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敬老の日に、「現代の姥捨山の悲惨」という記事をアップした。これは、その続編ともいうべきもの。あの記事の中で、25年前の私の祖母の死に際、生きざまについて書いた。あの当時でもすでに、最期を自宅で看取るということはまれなる出来事となっていた。現在では、事故でない限り、病気や老衰死のほぼすべてが病院などにお任せの最期となっている。ここで紹介する本は、その祖母の終末の在り方が医学的にも理にかなった人として人らしい尊厳に満ちたものであったのだと納得させてくれる内容の本である。 【送料無料】「平穏死」10の条件 [ 長尾和宏 ]価格:1,400円(税込、送料別)長尾和弘著 「平穏死」10の条件この本は尼崎市で町医として、自宅療養、自宅での看取りを実践しておられる医師・長尾和弘先生が書かれた終末期医療についての本である。現代地域医療の先進的な取り組みが豊富な実践例を通して述べられている。その実践を通して、現代の高齢期を迎えた人々がどのような死生観を育みどのような心構えや準備をすることが、穏やかな満ち足りた最期を迎えることになるかを述べておられる。どのような最期を迎えたいかは残された命をどう生きるかという生き方の問題である。この「平穏死」という言葉で表されている意味は人が人らしい穏やかな気持ちで満足して最期を迎えること、かっては「尊厳死」という言葉で表された。尊厳死などという大層な言葉で表さなくとも、ごく自然に穏やかな静かな死を迎えることができるという生きものとしての「死」が、ごく普通に日常のなかにある暮らし。そのような死に方、生き方はどのようなものなのか、この本のなかで、具体的に知ることが出来る。最期の最期まで七転八倒の苦しみを与え、最期の最期まで、自然の摂理に反した過剰な医療、それに使われる医療費の巨額なこと。この医療の現実を厳しく浮き彫りにするのが、この本である。「死は怖いもの、忌べきもの、高額な医療を受け、1日でも長生きすることが幸せな最期」このような観念に憑りつかれている現代の日本人の現状の非合理、愚かしさを相反する豊富な実践を具体的に語ることで厳しく告発する書にもなっている。24時間体制で、在宅医療を実行できる体制と人材を配置して、自宅で穏やかな最期を迎える地域医療が現在、日本の街に存在しているという事実も私にはとても驚きであった。超高齢化社会を迎えようとしている今、このような地域医療が日本のどの地域でも受けられるならこれほど、地域を優しく再生出来るものはない。死と真正面から向き合って暮らす社会は生きるということを深く考えいのちを大切にする社会ではないか?このような先進的な地域医療の実践が広く日本全国に広がるためには、まず、それを受け取る私たち高齢者自身が老いへの生き方、生死感を根底から変革することが必要だと実感した。長尾和弘先生のこの「平穏死10の条件」という本は、これから老いて最期を迎えんとする私たちだけではなく、我が息子や娘たちの次世代もぜひ読んで、親の介護はどうあるべきかを 考える時のすぐれた指針となる。老いも若きもぜひこの本を読んで日本のこれからの社会のあるべき姿の具体例を学んでほしい。この本、長尾和弘著:「平穏死」10の条件はこのブログの相棒、Mr.Danjoseの推薦本である。Mr.Danjoseはもう10年ばかり、ボランティア活動で、慰問演芸グループに属し、ギターの弾き語りで童謡や懐メロなどを歌って、介護老人ホームを月平均3~4回のペースで訪問しています。この体験から、Mr.Danjoseの到達している現在の心境は いつまでも元気よく慰問する側で頑張りたい。 そこで働く若い人たちを見て思うことは(ご本人たちがどう思っているかどうかはともかく)・・・不景気な社会で雇用を創出しているという意味はあるが、若い労働力に(敢えて言えば)このような非生産的な仕事に従事させてよいのか? もっとクリエイティブな仕事に活用する術はないのか? 長寿を善とする価値観はぼつぼつ見直す必要がある。70歳を過ぎたらもう十分に生きたのだから、高額な延命治療は不要ということ。ということです。願わくは、老人ホームに入らず、在宅で人生の終末を迎えたいと望んでいます。ということは「在宅医療」ということになりますが、ぼつぼつその心構えをする時期かと思っています。Mr.Danjoseの近況でした。
2012.10.05
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敬老の日という祝日が今年もまたやってきた。最近では敬老どころか高齢者も金儲けのターゲットお金を持っている高齢者をねらって、介護ビジネスに雨後の竹の子のごとく色々な業者が参入しこれでもかこれでもかと老人の懐を狙っている。貧乏な庶民の我が家などには残念ながら、高値の花。死に至るまで、自力で生き切って、静かにこの世を去っていけるよう努力し続けるより他ないのである。私の祖母この人物画は、私が描いた「私の祖母」である。(初めて描いた祖母、気丈で孤高な品格が出ており、全体的には我ながら満足。しかし、手は失敗。働き者のがっちりした手を描きたかった。何枚か描いてみたが、最初に書いた祖母がどうしても描けないので1回目のを掲載。)25年前、90歳で亡くなった。明治生まれの気丈な女の人生であった。医者嫌い、最期の最期まで医者に行くこと拒否。最期に1週間ばかり床に着いただけ。「風邪が少し重いのかな、でも、又すぐ回復するよ」と周りの物が安易に考えていたので、私など、死に目にも会えず。自宅で息をひきとった。働き者、食べ物はほぼ菜食だけ。日本が戦争を幾つも経験した激動の時代を寺の坊守として歴史に翻弄されながらもただ、寺を守り継承していくことが自らの務めと信じて疑わず、ひたすら頑固に家を守った女の一生である。最近、昔のモノを整理していたら、その祖母の最期の日常のメモが書かれた手帳が出てきた。老いゆく日々、多方面に興味関心を示していた事がメモからわかる。たとえば、こんなメモ(原文のまま、誤字もあり、メモなので前後の脈絡もない。ボケ防止に必死に生きていた姿がしのばれる)「出発点に帰る喜び近づく。老人ということは こわれ行く見苦しくなる 此の世の幸福はこわれる」そのすぐ下蘭には「高校野球 ピーエル学園 取手高 2校。とか県大会NHK音楽コンクール最優秀校大垣北中学」などと書かれている。あるいは「伊吹山いり日の如くあかくと燃やし尽くさん残る命を」と歌までメモしてある。祖母の住んだ地は濃尾平野の真ん中、伊吹山の四季折々を遠景に眺めて暮らした。この歌を心で歌い、心の鬱積したものと闘っていたのか。最後のページ字が乱れて読めないが「信人の智慧に入りてこそ死して悔いなき仏恩報ズル人と□なり・・・・ などなどこれらはほんの1例。 祖母は親鸞の教えを見事に体現した人現生の欲や憎しみも人一倍強く、激しく生きた人、その傍らで自然と「念仏」が口に出る人。このような人間は現代にはほぼ皆無。私の子供の頃には、こんな農民はいっぱいおり、寄り集まって、いろいろな行事をやっていた。冠婚葬祭すべてが村の営みであった。その中心に寺があったといっていい。しかし、祖母の晩年は孤独であった。社会の価値観が大きく変わり、地域社会は崩壊、祖母がそれこそ命をかけて守ってきたものは、ことごとく無価値と見なされ、祖母自身の生きた存在すらも低められた。その価値観だけに縛られて生きてきた人間にとって、これは過酷な仕打ちだ。今になって、私はこの祖母の心境が理解できる。もっと優しい言葉がけをすればよかったと悔やまれる。もちろん私自身も、そのような祖母の生きざまや、その価値観で縛られで生きる女の一生は嫌だと激しく抵抗し反旗を翻し、自らの生き方を求めて彷徨っていた。しかし、今、顧みれば、祖母が育ててくれた人間としての土台があり、その土台の上に私の人生を切り拓いてきたと思える。祖母の生きざまは私の中にも形をかえて生きている。死に至る直前まで、己と戦い続けて自らの生命を閉じた祖母。波乱に満ちた生涯を家という暗い重圧のなかで最後まで貫いたその一途さ。これは、現代の私たちが見失っているものかもしれない。 現代の高齢者この祖母の娘、すなわち私の母であるが、母は現在90歳、有料の介護付きホームにいる。この母の生き方は、祖母のいうまま、逆らうことなく家の奥まったところで育てられ、家を守り続けた人生であった。90歳にして、初めて世の中に出たといってよい。集団のなかで初めて暮らしたといってよい。「こんなはずではなかった最期を迎えようとしている」祖母よりもさらに、寂しい悲惨な最期ではないのか。この介護施設は1か月20万円ほどもかかる。このような施設について私は今まで全く無知であったが、この1年間母を通してつぶさに観察して感じたことは、このような施設に、私はご厄介にならぬようにしたいということである。私自身は、祖母のように最期までほんの少しの介助さえあれば自立して生きられるよう自らと闘い続けなければいけないと強く感じたのである。身体の維持と同時に精神の自立を老いて持ち続ける困難さを母のホームの人々をみて強く感じたのである。 ここにいる人々は一見経済的に恵まれているように見える。余裕があるように見える。しかし、老いて、体が衰弱したときこのような施設に辿り着かなければならない必然は個人により多義であるとはいえ、現代の異常をそこに私は感じた。病んだ老人ばかりを同じ場所に何十人、何百人と集めて暮らすことの異常。このような状態の中で私は静かな気持ちで死んでいけない気がする。様々な企業が今、豪華なビルを競って建て介護付きの様々な老人施設を作っている。あのビルの中に病気でうつろな老人が何百人も、日々暮らすってなんだか恐ろしい。昔の姨捨山の方がまだ健全では。その山で、自らの暮らしを協同で創り出して暮らしていたというのだから。どう老いていくべきか自然に任せていたら死ぬこともままならぬとはまことに現代は生きづらい。この点からも私の祖母の生きざまは学ぶべきもの多い。死ぬことも最後の人生の一大事業なのである。
2012.09.20
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私の家の犬ではないが、この1年ばかりは、我が家の住人となっていたチワワのモカちゃん、5月19日の夜に静かに息を引き取りました。この写真は息をひきとる数時間前に撮ったもの。前日から舌をこのように出してばかり、歩くのも、急に、よろよろ、食事も食べなくなくなっていました。急激なこの変化は驚くばかり。ほとんど苦しむこともなく(のように見えた)自然にだんだんと弱り、命が消えていきました。動物ってこんなに、いつもの日常と変わりなく淡々と消えていけるのかと驚嘆するばかり。眼は白内障になっています。年齢は13歳です。、孫のことねのママ、私の娘が大学時代から結婚するまでの間に、親の反対を押し切って、3匹もの犬を飼いました。パピヨンのユメちゃん、シーズーのアンナちゃんと、今回死んだモカちゃんです。(パピヨンのユメ:とても賢く静かなユメ。ユメもあっという間に静かに去っていきました。)アンナとユメの2匹も3年前に次々に死にました。その悲しみを以前のブログで書きました。最後にやってきた3匹目がこの小さなモカちゃんです。モカちゃんは他の2匹に隠れていつも迷惑にならぬよう静かにしている一番下の順位の犬でした。晩年は予防接種もしていません。獣医師には全くかかっていません。しかし、3匹の中で、自分の生きる力を最も穏やかに閉じることができました。最も多く獣医師にかかっていたのはシーズーのアンナです。(シーズーのアンナ:この写真は死ぬ数週間前のもの。眼もうつろ。心臓病ということで、長い年月薬を飲み続け、挙句の果て肝臓やすい臓も悪くなり、最期まで手がかかり、介護も大変。本人も苦しみました。)薬も7歳から5年間途絶えることなく飲んでいました。そして、苦しんで苦しんでやっと死んだのです。アンナの教訓からモカは病院には行かぬように意識的にしてきました。(動物が備えている生きる本能的な力を尊重して生活させる。)現在のペット病院は、健康検査を定期的にやり、何処かが悪いと言えば、すぐに血液検査をし、レントゲンをとり、あれやこれや病名をつけて投薬したり手術したり、この病院の罠にはまると、自力で治るものも治らず病気のオンパレード、病気の限りない連鎖に落ち込む。挙句の果て、苦しんで苦しんで最期を迎える犬が多い。老犬の介護が人間の介護以上に大変という珍現象が起きている。これって人間も同じではと、病院や介護施設にいる高齢者を見てつくづく思う。自分で病気を作り、血圧が上がれば薬の飲み、下がれば又飲み、食が通らなくなれば、管で液物を流し、高い医療費を使い、増々次々とあらゆる病魔に襲われ地獄の苦しみを味わって死んでいく。アンナちゃんたちがかかっていた獣医師の態度ややり方を見て、初めのころは、よく分からなかったので、言われるままに治療を受けていたが、晩年になって。「変だぞ、おかしいぞ」と思った。ユメちゃんモカちゃんはそれ以後かなり飼い主の判断で医者に行くべきかどうか判断して医療を受けていた。その結果、ユメもモカも豊かで穏やかないのちの終わり方が出来た。モカちゃんの死にざまには悲しみや寂しさを超えて感銘をうけた。(安らかに眠るモカちゃんは、孫たちのお手紙と、孫たちのお家の庭に咲いている花を摘んだ花束と一緒に天国へと旅立ちました。)何という平安、何という静けさ静かにロウソクの火が消えるようにいのち尽きていった。これが生きものの死に方ではないのか。わが夫の一言。これで子供たちの後始末はすべて終わったなぁ。犬の後始末には15年もかかったなぁ。もう生きものを飼うのはやめよう。別れはもうこれで終わりにしよう。としみじみと言った。3匹の犬たちがそれぞれのやり方で最期を閉じた。その一つ一つから、私たちは死とは如何にあるべきかを学んだ。その学びは老いていく私たち夫婦にとって貴重な体験であった。娘が無責任に犬を飼った後始末ではあったが、老いていく者が犬を飼う生活で得たものは多い。さようなら、モカちゃん!ありがとう。関連記事 2010/07/13 さようならアンナ2010/01/24 さようならユメちゃん!2010/01/22 ユメちゃんの静かな最期 2010/06/18 老犬介護の日々
2012.05.29
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現代の「絆」愛知・南医療生協の取り組み。私は1月の始め、名古屋市にある南医療生協の病院や介護施設を見学した。南医療生協は名古屋市の南部を中心に11地域に40事業所、900以上の班組織、約6万5千人の組合員を擁するかなり巨大な組織である。事業収入は100億にも及び、病院経営においては、日本では黒字経営を維持している稀有な病院のひとつなのである。病院内の見学もしたが、すべてにおいて、利用者の視点から利用しやすい明るい広々とした院内である。一階などは、町並みの延長という感じで、災害の時は、直ちに避難者の治療をできるスペースに転換できるように初めから設計されている。病院内にあるフィトネスの施設は、イタリア製の立派な設備を備えているが、それを支えるソフト面がうらやましいほど充実している。マシンの品質が最高だけでなく、「スポーツ科学」を取り入れた確かな健康づくり、確かなだけでなく、「医学、病院」がサポートする安心の健康づくり、安心だけでなく「コープ健診、ドックセンターとの連携」で安定した健康管理、管理だけでなく、南医療生協組合員と協同で、地域で「健康作りサポート」運動、健診、医療が三位一体となって、健康な体作りを総合的に日常的にできるという。「みんなちがってみんないい。ひとりひとりのいのち輝く街づくり」を理念として掲げ、医療従事者や職員だけでなく、多くの組合員ボランティアらが患者や施設利用者の支援をしている。組合員の自覚的な意識がとても高い。私が、その日、見学した施設に認知症の患者さんのグループホーム「なも」がある。介護施設とはどうあるべきかの一つの典型をそこに見た。その地域には高齢者の割合が多く、介護認定高齢者の7割以上が何らかの痴呆症状があり、行き場なくて見守りの必要な高齢者がいて、在宅介護やグループホームの必要性の強い要求から、民家を改修して低コストでのグループホーム「なも」創設が実現した。地域の組合員との協同で実現したグループホーム「なも」その準備過程で、住民のネットワーク化、地域の福祉空間化によって、地域の介護力を高めることが出来、地域と一体となった」介護施設の運営が可能になっている。古い頑丈な民家(農家)を回収して、庭も昔の農家のそれ、患者の方々もその地域で長い歳月住み続けてきた人たち。夜の戸締り以外鍵をかけず、徘徊センサーを使用しなくても、入居者が出ていきたくならない居心地のよい場にするよう工夫されている。育った環境に似た環境で、家族のように生活し、それぞれの得意分野を引出し、伸ばすことで、生活を営む当事者としての自覚や自信を呼び覚ます介護が展開されている。このホームで暮らすようになって、認知症のお年寄りがどのような変化を遂げていくかは、現在、東京シネマネストJAPANで上映中の映画「だんらんにっぽんー愛知・南医療生協の奇跡」という記録映画のなかで描かれている。地域社会に開かれたグループホーム「なも」は健康な高齢者も障害のある高齢者も地域のなかで安心して暮らし、介護されたり、介護する人々とともにある。「介護のものさし」がその人が人として尊厳ある最期まっとうするためには、どうあるべきかという観点から「介護者」が学び力量を高めて日々介護しているという現場に出会い眼からウロコ、明るい気持ちになった。更に「生協ゆうゆう村」を見学。この村の建設には1年間で延べ2万人の組合員から2億3千万円近くの出資があり、まさに組合の知恵や要求によって、組合員の協同でつくりあげたものである。隣接して、グループホームやディサービやショートステイの施設訪問看護ステーション、小規模多機能ホーム、多世代共生住宅(この住宅から必要あればディサービスやショートステイの施設に出向きサービスを受けることが出来る)などなど、この村の住宅に住みながら、色々な介護サービスを受けたり、孤立しないで、多くの配慮や見守りのなかで暮らすことが出来る。社会から孤立しないで生活することが出来る。 南医療生協を見学して、一番強く思ったことは、ここには民主主義とは何かのモデルがあるということである。もちろんこの医療生協を率いる指導者が優れていることもあるが、組合員が徹底的に、その建設にかかわり、その運営にかかわり、いろいろな形で、色々な場面で自分の出来ることで参加している。高齢化社会の到来で発生するであろう諸問題を先取りして、どのような社会を建設していきべきかを組合員それぞれが試行錯誤しながら実践していることである。 受け身でないのである。国や地方自治体の支援を受け身的に待っているのではない。自らが、自らの知恵や力を出し合って、新しい共同体を築こうとしている。新しい理念によって結ばれた絆の協同体である。今、この医療生協の記録映画が東京で公開されている。次々に全国で上映されるという。「だんらんにっぽんー愛知・南医療生協の奇跡」この医療生協についてまとめた本「協同っていいかも?」 西村一郎著 (合同出版)民主主義的な社会の実現には、このような市民一人一人の高い自覚、高い力量の協同による組織が無数に社会の中で作られる必要がある。上からのおこぼれを待つ市民、何かをやってもらうことがサービスと考えている人々の集まりでは民主主義的な社会は程遠い。現代の社会に生きる人々がどのような「絆」で結ばれることがより人間らしい豊かな生活を送ることになるのか?この愛知・南医療生協の組合員が結んでいる協同による「絆」は現代の社会が実現すべき「絆」の一例ではないだろうか?現在日本社会は混迷している。それにつけ込んで、強い権力乱用者が人気を博している。強い権力者に従順になって、その人物にすべてをお預けするような政治では真の人間の尊厳は貫けない。「民主主義」は一人一人の個人の力量の高さが要求される。「民主主義」はひとりひとりの智慧の深さが求められる。「民主主義」は時間がかかるのである。
2012.03.14
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老いることの哀しさ朝ドラ「カーネンション」は3月に入ってから、配役人を一新、主人公の糸子の70歳代を描いている。主人公の糸子を演じる夏木マリが、老いていく哀しみ恐れ不安を体当たりで熱演。にわかにドラマが活気づいた。今日(13日)は特によかった。老いて行くとはどのようなことかを深いところから照らし出している。糸子は腕のよい洋裁師として数十年かけて築きあげてきたものに、自信満々。満ち足りた日々を送っていた。豊富な経験を誇示して生活していた。そんな時、突然起きた階段からの転倒による骨折。今まで当たり前に出来ていた事が次第にできなくなっていることへのくやしさ、哀しさ、これから、当たり前に出来ていた事が出来なくなるであろう事に対する不安、恐れ、怖さ、日頃、自信満々、怒鳴り散らして、超多忙、てんやわんやの暮らしの強気の糸子さん、独りで歩んでいく寂しさの深淵をこころの奥深くに不覚にも覗き込んでしまった。突然の骨折で、身動きできない日常に出会って、糸子は煩悶する。トドメは娘たちが、親の自分に毎日のように頼って電話してくる仕事は、「老いていく母をいたわる気持ちから仕事を与えてくれていた」のだと知った時である。娘たちは、仕事上ではもう親を必要としなくなっていた。親の届かぬ先を行っていた。療養のベットでその事実に遭遇し、糸子さん、はっと我をとりもどす。毅然と背筋を伸ばして、仕切り直して、前を向いて生きなくてはいけないときっぱりと自らに言い聞かせる。娘たちに頼っていた自分の不甲斐なさに気づく。その潔さ、そのまっすぐさ、最期まで、自らの足で立とうととするその強さ。これは、老いゆくもの私の今の生きるテーマでもある。その強さはどこから生まれてくるのか?これは、ドラマではあるが、糸子演ずる夏木マリは老いの哀しみ老いの孤独を毅然と背筋まっすぐに伸ばして演じて見せている。孫と糸子の無言の場面が特にいい。画面のなかに深い哀しみが鎮静している。それでいて、画面のなかに明日へのひたひたと押し寄せる静かなエネルギーがある。このドラマは今日のこの場面で終わりにして欲しいくらいだ。(安ぽいHappy Endにしないで欲しい) 80歳代の高齢者が集うサークル・鉛筆画昨日、私の所属している鉛筆画の新年会があった。なかなか暖かくならず延び延びになっていた。このところ春の陽気であったが、昨日は寒の戻り、冷たい北風がぴゅーぴゅー吹いた。このメンバーはこのあたりの商店街(今はほとんど閉めている)で、働きづめに働いた女たちである。彼女たちは、もう20年あまり鉛筆画を描いてきた。このおばあちゃんたち、それぞれ必死に生き抜いてきたのはみんな同じ。そして、今も元気、元気。彼女たちの話を聞いていると、それぞれのお方が寝たきりにならないため、1) 食事は自分でできる。2) トイレは自分でできる。 3) お風呂は自分で入浴できる。この3つの事ができるために、いろいろな努力をしておられる。ただ、老いていくのを、なすがままして暮らしているのではない。かなりの強い意志で努力して送っておられ、今日に至っているのを知り、とても私自身学ぶこと多い。感心した。彼女たちは、表面は元気、元気。元気そうであるが、その心の奥深くには人生の曲折したひだをそれぞれが抱えているはずである。 そうであっても、果敢にみんな生きようとしている。69歳、ひとりだけ若く、鉛筆画もまだやり始めて8か月のわたし。(鉛筆画「ケイト」ウ・2月に描いたもの。鶏頭の頭の微妙な濃淡が難しく、時間がかかった。)私はまだ8か月ですが、他の先輩のおばあちゃんたちは、このような鉛筆画を20年間もやり続けています。すごいでしょう。傲慢で独善・橋下徹の恐怖政治 民主的な感性欠落した、恐ろしい人・橋下徹なる人物。朝ドラ「カーネション」の舞台、岸和田市にある大阪府立和泉高校の卒業式で、橋下の友人で民間から登用された副校長が、卒業式の最中に「君が代」を斉唱しているかどうかを口元をひとりひとり見て、チェックしていた。3人の教師が口元チェックで歌っていないと判明したとして、処分されるという。橋下徹大阪市長は「職務命令を守っているかどうかチェックするのに、口元を見て、チェックして何が悪い。それ以外にどんな調べ方がある。ルールを守るとはどういうことか、示しただけ。」と言っている。何という恐ろしいこと!ようするに自分の意のままにならない者にはこのような罰をくわえるぞ。と脅しをかけている。権力者の顔色をうかがって、委縮する子供を創り出す教育。こんなものが21世紀の世界に通用する子供像だとは情けない。このような人物をやんやと囃し立て、おもしろがって支持している大阪の市民って恐ろしい。今、直面している困難を打開するには、社会の構造そのものを根底で変革することなしにはありえない。表面上の制度をいじくっても何も変わらない。橋下徹大阪市長の言っている制度改革が実施されたら、それを熱狂的に支持している20代~30代が最も悲惨な状態になるだけということは、小泉改革で実証済み。小泉改革で増々社会には貧困層が増大した。しかも小泉を熱狂的に支持した青年層が悲惨な状態になっている。その当時、世間が囃し立て、メディアが熱狂的に取り上げたのは「ホリエモン」若者たちもこのホリエモンに心酔して、日本中が「ホリエモン」をめざした。このから騒ぎの結末は、皆が見た通りだ。橋下徹の改革は、それを衣替えして、もっと性急に独善的にやろうとしているだけ。それで、ほんとうにいいのか?
2012.03.13
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最期の選択と看取りをどう選ぶか?先日(2/12の日記)、山田太一のドラマ「キルトの家」について書いたが、またまたNHK土曜ドラマスペシャルに「高齢者」をテーマにしたドラマ「家で死ぬこと」を放映した。今回は、世界遺産「合掌造りの里・白川村」を舞台に、そのムラ社会に18歳で嫁にきて、大舅(おおじゅうと)から夫まで、次々に介護して看取り、過酷な農村の労働のなかで家を守って生きぬき、今、独り暮らしで最期を迎えよとしている老婆・中村ひさ子の物語である。そして、その娘・恵美はそんな母親のただただ狭いムラ社会のなかで、身を粉にして働きづめに働いて、老いて、死んでい行く生きざまに嫌悪し反抗して東京で家庭を築いている。母と娘の確執は、母の最期まで続き溶けることはない。癌で余命3か月と宣告された老婆・ひさ子。東京の病院へ入院させようと娘は強要するが、母ひさ子は拒否。その説得役に娘の夫(リストラで役職を失い給料は3分の1に。失意の日常を送っていた)と大学を出たが就職浪人中の孫の2人が白川村にやってくる。この東京から来た婿や孫たちと余命わずかなひさ子との心の葛藤とふれあいを描くことで、最期をどう迎えることが、人として尊厳ある人生かを問いかけているドラマである。ひさ子の一生は、過酷な労働の連続であった。その暮らしの中で培われた強靭な心根。人を寄せ付けぬ自信あふれる孤高。その老婆に忍び寄る病魔は、次第に自立した生活を危うくしていく。自分の身体的な弱り、他人の介護なしには暮らしが成り立たなくなっていく。そのような老婆の心理状態の揺れをひさ子演じる渡辺美佐子が繊細に演じて心打たれる。老いてゆくものの悲しみ、寂しさやくやしさ。そのこころの陰影を見事に演じて見せてくれる。東京の病院に入院するように説得役に来た婿・純一もひさ子の態度に戸惑いながらもその悲しみに深いところで次第に共感していく。そのひさ子との心の響きあいがある時は不協和音を奏でながら、ある時は遠慮がちに、自信無げに協和音へと響いていく。その微妙な心理変化を婿役の高橋克典が見事に演じている。病気が進行して寝たきり状態になろうとしていた時、ひさ子は村の介護施設「かえで荘」に入居することを決意するが、最後の最期にどんでん返し、婿殿に住み慣れた我が家に連れ帰ってもらって死を迎える。このドラマの最後の展開にはちょっとがっかり。思わず「ありえない」と私と私の連れ合いは叫んだ。ドラマ前半は、老いていくものの孤独、くやしさ、自分が生きてきたことの証でもある家にこだわり、そこに這いつくばって生きるようとする人としての意地や尊厳を見事に描いて、「老人ドラマ」としては真摯で見ごたえがあった。でも、最期の結末は嘘だ。安っぽい作り事だ。今、農村に何が起きているか、その悲惨と深刻さを知らない人が作ったドラマだ。ひさ子の生きてきた農村は確実に崩壊へと音を立てている。そして、そこに生きた老婆たちは、自分たちが生きてきた価値観の延長戦では最期を迎えられないでいる。大舅、大姑、舅、姑、夫の最期を看取り、彼らは自分の生きた家で満ち足りて死んでいった。大きながらんとした家には、今は、老いたひさ子しか残されず、我が子にさえ拒否されている。この不条理。この対立の悲惨さ。リストラで失意の娘婿と都会でさまよっている孫が、突然やってきて、(婿など今までに数度しか会ったことがない。孫も然り)そのおばあさんの最期を看取れるなどというほどに農村の家族問題は甘くない。誰が何と言おうと今、崩れようとしている農村の因習や伝統は止めることはできない。このドラマの母と娘の確執もドラマは本質に迫っていない。母の死を前にして、娘はどのように母の世界観と向き合い自分の人生の中でとらえ直そうとしているのか。何も描かれてはいない。ただ、あるのは、安直に都会の暮らしと田舎の暮らしの価値観の対立の融合を試みている。ムラの美しい景色とムラ人たちとの絆が都会の人のこころを癒して、人らしい生きざまを取り戻すなどという安ぽい皮相な世間話で人の最期をごまかそうとしている。ひさ子の歩んだ人生の重さと娘がそれに真っ向から反抗して都会で自立して懸命に生きている生活。この2つの価値観は現代の和解しえない対立軸なのだ。滅びゆくものとこれを受け継ぎどう発展させるのかという現代的な課題なのだ。、ただ、美しい雪景色の合掌造りの村、そこに生きる人々の暮らしに都会人のノスタルジーでひさ子の最期の看取りが完結するなどというのは嘘っぽい。ありえない。先日見た山田太一の「ケルトの家」の老人群像は都会の高齢者たちを描いていたが、この結末は、何か物悲しく寂しかった。しかし、そこには、自立して毅然と生きようという諦念にも似た心境に到達した老人像がほの見えた。この老人像は田舎で生き抜いて、最期を迎えたひさ子にも通じるものではないか。このドラマのひさ子と娘の確執は私自身の問題でもある。わたしの祖母や母との確執そのものだ。祖母はそれでもまだ満ち足りた最期を迎えることできたと思う。でもその娘の私の母は、のっぴきならない価値観の対立の渦に翻弄されて最期を終えようとしている。その孤独、混乱は悲惨であるとしか言いようがない。未曾有の東日本大震災が発生してから早1年が経過しようとしている。この間、人々が最もよく使った言葉に「絆」というのがある。そのひとつに「東北の人たちは家族の絆」が強い、都会のものは学ばねばならない。と盛んにメディアは宣伝している。あのような大災害、不幸が起きた時、百姓たちは今までの陰湿な争いや卑屈さその偏狭さを棚上げして、見事に団結する。これは日本の歴史のなかで数百年間虐げられてきた百姓根性のようなものだ。今も健在だ。その「絆」をどうとらえるかは、人それぞれで、今いる位置により異なるのは当然だろう。(私は好きではないが、隣組やら結やらの絆なんてまっぴら。)さて、1年経過した今、東北だけが日本の他の農村地域と異なるとは思えないので、現在日本の農村に起きている深刻な家族の崩壊の危機は東北でも起きているはずだ。その現実を踏まえて、どのように農村を再生していくのかを考えなければ、一層深刻な矛盾にみまわれるのではないかと私は危惧している。メディアはその現実を何も私たちに伝えていない。ただ「絆」「絆」と叫んでいる。今こそ「絆」の内容こそが問題にされるべきだ。新しい人間関係の構築、人の尊厳が豊かに発展するような人間関係。都会に生きる人々も納得できる人間関係。望郷や癒される風景だけでは、同じ意識で「絆」を結べない。薄ペラな「絆」しか結べない。
2012.02.25
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高齢者の自負心NHKの土曜ドラマスペシャルで2回にわたって、山田太一作のドラマ「キルトの家」が放映された。高度経済成長期には、「モダンな近代的なビルが建ち並ぶ巨大団地」は、ニュータウンの名のもとに若者たちの憧れであった。その団地は今、子供たちは成長し、団地を出ていった。老朽化した団地には、孤独な老人たち取り残された。70代80代の高齢者たち。その老人たちが集う家「キルトの家」保護する対象、介護する対象者として社会からひとくくりにされて見られている老人たち。身体機能や知能の老化による劣化から、社会から無用のもの、厄介者と扱われている高齢者たち。このような世間の風潮に対して、老いてなお個としての自負心をこころの奥底に沈めて生きている老人たちの魂に光をあて、一人一人の高齢者の描いている。いかにも山田太一らしい視点である。無用となったと切り捨てられた老人たち。やることもない毎日。ただあるのは死を待つ毎日。そのような老人たちが大量に社会に出現しつつある。このような時代はかってなかった。社会から孤立したままで死んでいく。このような老人の巨大な塊は今まではなかった。このような社会の老人群像に山田太一は光をあてようとした。青春時代は戦争、敗戦と貧困、戦後の高度経済成長とバブル。まさに歴史に翻弄され続けて、生きてきた80歳代90歳代の高齢者たち。働き働き働きづめの人生。そして、今、取り残されて寡黙に生きている。山田太一はわけありの若い夫婦を登場させて、この老人たちとのこころとの接点を見つけようとしている。とりわけ後編では、逃避行中に東日本大震災に遭遇した若夫婦の心の傷の深さが、孤老たちの琴線と触れ合う。全員がまったく見ず知らずの他人同士がこころふれあわせる。ここで、ドラマは終わった。未来に光はあるか?私も高齢者のひとりとして、この老人群像には共鳴できる。資本主義社会の高度な発展が半封建的な家制度を徹底的に崩壊させつつあり(崩壊してしまった)、家族のありようを夫婦単位の核家族として定着させた。この家族のあり方には、私としてはとても気に入っている。人が人らしい人格を、自我の確立を通して実現できる。この家族関係は、夫婦、親子の関係も純粋に人格で結びつき、人間関係を深め豊かにもできる。これこそが近代がめざしたもの。しかし、壊れるともろい。増して、80代以上の人々の多くは、半封建的な家父長的な家制度の中で、幼い時、若い時代を過ごしてきた人々である。その世代が、今、核家族も失って、独り暮らしをしている。育ってきた土壌との余りの落差。これから、私たちも高齢になればなるほどどのように社会と関わり、老いを全うすべきか?とりわけ、身体の自由が利かなくなったとき、どうすべきか?山田太一は、「キルトの家」の老人たちを、それぞれが生きてきた人生を持つ人間としての心のひだを描くことで、生きることを語らせている。 私の母は、昨年の10月から、介護付き有料老人施設に入居した。私は母の生き方を真っ向から反対し、反抗して生きてきた。しかし、死ぬ間際に、生まれ育ち、守り続けてきた家を捨て、初めて社会のなかに放り出されて、そこで最期を迎えるとは、余りにも残酷悲惨なような気もする。娘としては心が痛む。(母の生き方は大嫌いだが)その施設は、すべて有料で、食事や介護もかなり行き届いている。とても個人の家庭ではできない良好な介護環境にあり、不満に思うのは贅沢と一笑されそうである。しかし、どのような心の状態で最期を迎えるか?私は、この点で、母と、毎日、朝、電話して励ましている。その施設の入居者や介護の仕方の詳細について、毎日の電話で色々分かってきた。このような最期の迎え方でいいのか?山田太一は、団地にドラマの場を設定することで、都会の高齢者に光をあてているが、母の住む田舎地方でも、高齢者問題は深刻である。家族問題はある意味でもっと深刻で崩壊へと向かいつつある。 今回の山田太一の「キルトの家」に集まった老人たちの心の深いところが、母のそれと重なり、考えさせられること多かった。出演者も懐かしい錚々たる俳優陣。佐々木すみ江や織田順吉の老人はよかったなあ。高齢者問題を自分の問題として日々考える様にならざるを得ぬ最近である。
2012.02.06
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身体の老化について、目からウロコの本そうだったんだと思わず明るい気持ちになる本 富田重樹著 : 「死ぬまで寝たきりにならない体をつくる」 (すばる舎) 筋肉の老化はすでに30代から始まっているという。この本は、要介護の身体に陥って行くメカニズムを、科学的に実証的に分析し、衰えていくのを防止するには、どうしたらよいかの予防プログラムを具体的に解説している。 日本人の平均健康寿命は(生活するための基本的な諸能力があり自立して社会生活を営める)76歳であり、平均寿命83歳との間におよそ7年の開きがある。この7年の期間をもっと短くしていけば、要介護の高齢者は少なくなり、寿命がつきはてるまで、いきいきと生きることが出来はずである。特に私の場合は、この本の 「肉体の錆びつき」の部分を「我が事」としてとても役に立った。人間の体は加齢とともに体のすべての機能が一様に低下していくのではなく、体のなかで使われていない機能が劣化していくのだという。このような機能の劣化を「廃用症候群」という。廃用症候群になってしまうと、骨折や転倒、関節痛、老衰などの肉体的なケガ・病気をしやすくなる。それを防ぐためには、肉体的に体の筋肉や関節をまんべんなく使うことの必要があるという。この「まんべんなく使う」ということに関しては、今まで誰にも指摘されてこなかった。私は初めて聞いた。そして、そのことが、寝たきりの晩年につながる原因の大きな部分であるとは、驚きである。私は歩くこと(1万歩散歩、食事の改善)など健康に老いたいという一念からかなり自覚的に取り組んできた。40代から50代にかけてはエアロビクスの体操などもかなり取り組んでいる。あれこれと取り組んでいるつもりであった。それでも変形性膝関節症、椅子からの転倒、つまずき易く捻挫するなど、今まででは考えられないような出来事が次々に1昨年は続いてショックをうけた。それから、1年間、老人学に関する本をあれこれ読んでみて、自分にとって必要と思うこと実践してきた。その結果わかったこと。この本が一番役立ち、この本の予防プログラムを日々、紆余曲折しながらも続けてきた。そして、信じられないことが起きている。膝痛は全くなくなり、階段も軽やかとまではいかないが、手すりに頼ることなく、歩くリズムで交互に足をだして昇降できるようになった。歩行も体幹がぐらつかなくなり、まっすぐスピーディ(前に比較して)に歩けるようになってきた。もちろん、少しの段差で躓くこともなくなった。更にである、昨年の冬は、夜、足が冷えて電気あんかを入れても暖まらずなかなか寝つけなかったのが、この冬は、足の冷えは全くなくなり、電気あんかもいらず、ぽかぽかである。(このようなことまで解消できるとは想定外であるが、足、脚の筋肉は第2の心臓というほど大切とは知らなかった。)これは予防プログラムの筋肉トレーニングのおかげである。このトレーニングのおかげで、私の廃用筋肉はどの部分で、どこを使うべきかが認識でき、生活の中でもその筋肉を使うよう努力するようになった。散歩のときにも筋肉の使い方を意識して歩いている。40代ぐらいからこの理論を知っていたら、もっと積極的に筋力を鍛えていたのにと思うと少し残念。筋力と医療とを結び付けて老化を考える理論が確立されたのは最近のことなのだろうか?さらに筋力を科学的に専門的に分析解説し、より若者向けに予防プログラムを展開している本:石井直方著 : 「スロトレ」 (高橋書店) これも筋トレに関して目からウロコの本。この2冊の本は、どこでも気軽に生活の中で、体の老化を予防できる点で、大いに私には役立っているのである。 世間では老化防止のためという宣伝文句で関節や骨のためのサプリメントが洪水のごとく出回っている。これほど氾濫しているということは、老化に悩んでいる高齢者が多いということでもある。(テレビで有名な俳優や女優が、コウジュンとかいうサプリメントを宣伝している。1か月に1万円ちかい費用がかかるという。それほど切実ということか?でも、ほんとうに効果あるのかな?)老木が、寿命つきて、いつの間にかこの世から姿を消す。そんな寿命をまっとうしたいなら、それなりに自己と戦い続ける必要ありということが分かってきた。生きるとは、大変なことなのだ、休みがないのだ、えらいことなのだ、とつくづく感じる今日このごろである。
2012.01.16
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オブラートにつつまれたやさしげな日常に真の幸福はあるか?NHKの朝の連続ドラマ「おひさま」は好評のうちに完結したというのが大方の世評であるが本当にそうだろうか? 私が参加している鉛筆画のサークルの面々は私以外の全員が80歳以上である。その彼女たちが、毎週、集うと、朝ドラ「おひさま」の話題が出る。このドラマの時代設定は、まさに彼女たちが生きたそれである。自分たちが生きてきた道そのものである。彼女たちは口々に言う、「あのドラマは嘘が多い。あんなものじゃなかった。」戦時中のときなど、小学校の場面が多かったが、その時は、特にみんなが口ぐちに「あのドラマはおかしい、間違っている。陽子のような師範学校を出た教師が、やめさせられるなどということ絶対ありえない。教師は不足していて、教員養成の学校を出ていない先生がいっぱいいた。辞めさせるなら、その人たちで、陽子などは肩たたきにあうことはない。」とか「姑と嫁の関係など、あれは絵空事ありえない関係を描いている。あのころの嫁は朝の3時から働き働きづめ、嫁など働き手のひとりにすぎなかった。言葉づかいもおかしい。ありえない。」などなど、そして「今の嫁さんは楽している」という話に発展する。鉛筆画:「野葡萄」(鉛筆画:野葡萄 鉛筆画サークルに参加して3か月の私が描いた鉛筆画。80歳代の彼女たちは20年そこそこ鉛筆画をつづけており、風景画など、スケールの大きな作品を描いています。80代の女性ばかり15名ほどいます。全員、働きづめの厳しい現実を生きてきた女たちです。歴史を切り開いて生きてきた先輩たちです。)あの美しい穏やかな映像は、平凡な一人の女性の平凡な日常にも歴史に逆らわずに、誠実に生きれば太陽が輝くよというテーマかもしれないが、これは現代社会の問題意識をあいまいにする麻薬だ。そしてそれを毎朝見ている人々は癒された元気をもらったとNHKにメールを送っている。このメールからも、このドラマには現実に起きていることを麻薬のように溶かす毒物が含まれていることを証明している。 あの時代には、農村では、過酷な労働と闘ってきた女たちがおり、厳しい女性蔑視と差別の中で、職業婦人として生きる道を選びとり、今に生きる道を切り拓いて来た女たちがいる。その現実にオブラートをして、高見の見物で眺めて、美しくおだやかに見せかけている。そのまやかしが現実の不安や孤独や悲惨の現実から目をそらす、あいまいにする。高齢者たちが、今社会のなかで遭遇している孤独や悲惨、若者たちが置かれている閉塞状態。フクシマ原発事故の深刻な現実。すべてにオブラートをかけて、やさしげな押し花にして眺めさせる。現実が困難に満ち苦しいから、ひとびとはオブラートをかけて眺めたがっている。 ドラマの主人公・陽子のいきざまに「元気をもらった」などという人はまだまだ「幸福な恵まれた人々」なのだ。その自分の立ている位置をお忘れなく。今、時代は大きく転換しようとしてもがいている。先の見えない状態にある。 混沌のなかにいる。それを切り拓くのは私たち市民なのだということを忘れないようにしよう。
2011.10.03
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今日は敬老の日総務省の発表によれば、高齢者推計人口(9/15)は65歳以上が24万人増の2980万人。総人口に占める割合は23.3%(0.2ポイント増)80歳以上、38万人増の866万人で総人口に占める割合は6.8%(0.3ポイント増)日本の社会は急速に高齢化が進んでいる。その中に私もいる。 (ホウノキ・朴木:モクレン科モクレン属の高木。葉の長さは20~30cmと大きく、花も直径30cmと巨大。私の住む山野にはホウノキはよく見かける。初夏にクリーム色の花を咲かせるが、秋にはこのように真っ赤な実がなる。朴葉味噌、朴葉寿司、朴葉焼きなど日本では古来より料理に使われている。食べ物をこの葉で包むと特有の風味がでて、殺菌作用がある。日本産樹木としては最大である。)日頃、若い子供たちばかりにと接していた私としては老人という世界からは無縁という感覚で過ごしてきたが、一昨年ごろより、色んな面から老人を意識し、自らも残された命をどう生きるべきか、具体的にかなり厳しく問われた日々であった。 (今私の散歩道は、フジマカバに似たヒヨドリ草(写真手前)があちこちに咲いている。すすきがそのヒヨドリ草の合間に揺れる。初秋の風情の野である)老を意識せざるを得ない第一に体の老化がある。それは、ある日、突然にやって来た。転倒やつまずき、膝関節痛などである。その中でも、土踏まずの消失で偏平足になっていたのには驚いた。ショックを受けた。つま先に力が入っておらず、足の指が固くなり内側に固まっていってしまうなど、自分が知らない間に進行していたのである。(自分の足の弱点を補って歩ける靴を整形外科病院で作ってもらい自分の足の状態を客観的に認識できた。)私はそれまで足腰を鍛えてきたつもりでいた。毎朝の散歩、一万歩前後を歩いていたし、自動車には極力乗らず自転車で走り回っていた。それなのに、足腰の故障が続出。自覚せぬ間に骨を支える筋肉の劣化が急速に起きていたのを知りこれが老いるということかと自覚した。 (ヌスビトハギ:私の散歩道は、盗人萩も今盛り。強い生命力で野の草のなかで生きている。朝露にやさしい淡いピンクや青の小さな花を濡らして光る。) それ以後私は自分の体の劣化と意識的に闘っている。体の柔軟性の維持、筋力の維持など毎日、体調に合わせたメンテを続ける努力をしている。なぜ、努力を続けるか?自分の最期をロウソクの火が自然に燃え尽きて消えるように終えたいからである。過剰な医療の御厄介にもならず、若い者たちに過度な介護で悩ませることなく自然に命燃え尽きる。適度な医療の助けと適度な若者たちの手助けだけで穏やかにいのち尽きたい。これがわが願いでもある。(ヌスビトハギの実。人の衣服や犬の毛にしっこく、くっついて、一度くっついたら取るのが大変。)まわりの病んでいる高齢者たちの姿を見るにつけその悲惨と不幸には衝撃を受ける。死ぬということはそんなに簡単なことではないのだと思い知らされる。 (エノコログサも朝の初秋の風になびく。透き通る穂先に朝の陽光がきらめく、私の散歩道。)そして、もう一つの側面は、高齢者たちが社会のかなり大きな塊となって社会に存在していかねばならないこれからは、社会のなかで高齢者たちが担う役割は何か?という課題である。ただ若い者たちのお荷物社会のお荷物になって生きるのは心苦しい。豊かな人生の終わりとは言い難い。自分のやり続けてきたことが年配らしい思慮深さで社会に役立つような晩年でありたいが中々これは難しい。 (余りにも猛暑だった夏の名残りだろうか、ひまわりは朝夕の冷気に元気を得て、今、私の散歩道では、真っ盛り。)社会は猛スピードで前に進んでおり、そのなかで起きている人間の問題も複雑で新たな質を獲得しておりそれに適応して老人らしい智慧で周囲に影響力を与え続けることは並みの努力ではできないこと。ゴミとして捨て置かれてしまう老人にだけはなりたくないが。今の社会は若い者は若い者老人は老人と孤立して没交渉で生きている面がとても強い。繋がっているのはお金である。お金がなければ一挙に崩壊という関係である。これでは明るい未来はないのではないか。年配者としての知恵や経験が活かせない社会が今だ。必要にされていないのが現実だ。この現実を私たち高齢者自身が自らを変革していくエネルギーに変えていく気力を持ち続けること今こそ強く求められている。(東本願寺大谷祖廟の山門:先日9月10日、私の父の納骨のため、京都にある東本願寺に行った。そのとき息子夫婦にも同伴してもらい、私たち夫婦が死んだ後は、東本願寺に納骨して、墓などを作らないように、と頼んでおいた。これで、わが夫婦の行先は決まったと思ったらなんだか、すきりと落ち着いたから不思議である。とりわけ大谷祖廟のほうは宗派も問わず、俗名のままでも、納骨できるのはいい。)ーーーーー★ ★ ★ーーーーー★ ★ ★ーーーーー高齢者とは何歳からなのか?私はこの7月から鉛筆画のサークルに入って活動している。前にもこのブログで書いたが、このサークルの展覧会の絵に魅せられて入会させてもらったが、 メンバーはすべて80歳以上の高齢者で女性ばかりである。唯一男性は講師の先生である。先生も同様のご高齢である。私一人が68歳と若く、他の土地から転入してきたよそ者である。他の全員がゆうに半世紀以上をこの地に暮し、生き抜いてきた人々である。私は、このメンバーたちに出会って、老いるとはどういうことかを身近に感じるようになった。老人とは80歳代をいうのではないかとも思う。80歳からどう生きているかということが高齢者としての意味があるように思える。さらに、この4月から始めたことに小学1年生の孫・ことちゃんの勉強を見ることがある。共働きで忙しい私の娘から依頼され、ことちゃんとその友達、数名でグループ学習会をやっている。なにしろこんな小さい子を教えるのは初めてで、試行錯誤を続けている。中々一筋縄ではいかず、悪戦苦闘しているが、ひとつだけ確信できたことがある。若い者たちだけでは、子供は人間に育たないということである。いろいろな場面で、年配者たちの気づきや智慧や経験がいるということである。厳しく大きな視野から見る目も必要ということである。最近、共働きの世帯が多く、孫育てという言葉が流行している。孫育てにかかわる高齢者が多くなっていると聞く。未来にはばたく幼い子たちが、成人するであろう21世紀の社会で自立してしっかり歩めるように、祖父母たちは人間の土台を作る手助けをしているのだという自覚をもって孫たちとかかわる必要があるのではないか。祖父母たちの智慧が、ここでこそ輝くものでありたい。
2011.09.19
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平均年齢80歳余のサークル私の住む近所の銀行のギャラリーではその地域の教室や個人の絵などを順繰りに展示する。その中に、鉛筆画を時々展示するグループがあり、冨士子婆は、この鉛筆画の展示作品にとても感動し、自分もやってみたいと以前から思っていた。 今回、縁あってそのサークルに入会することが出来た。 会に入会して驚いたことはその会のメンバーは全員女性でなんと平均年齢は80歳を越えているのである。展示されている絵からは溌剌として繊細、とても80歳を越えたよぼよぼのおばあさんたちの作品とは思えないのである。 私の始めての鉛筆画クサキョウチクトウ 2枚目の鉛筆画ムクゲ 初心者の私はまだ先生のお手本をみて描いているがこれから10年ぐらい続ければあの先輩たちのように描けるのだろうか。でも鉛筆と紙だけで手軽に絵がこのように描けるとは素晴らしい。これからどんどん年をとっていくわが身としては油絵や水彩画のように身構えて、道具をあれこれ広げてやらなくてもよいのはありがたい。(経済的にも安上がり。これ高齢者にとって大切)病気になってベッドにいても描けそうである。 何よりも私が今一番勉強したいと思っているデッサン力を試され、とても我が要求と一致している。 (6月の絵手紙より:雨にぬれてしっとりと咲く花菖蒲) 私、昨年12月に出窓のカーテンを洗濯のため外していた時踏み台にした椅子から足踏みはずし転落。その後、少しの段差につまずいて足首捻挫。4月には、右膝痛に突然襲われ、変形性膝関節症と判明。5月には、風邪をひき、長引き1ヶ月間も治らず、咳のみが残り長引いたのでお医者さんにいくと、何とその日の血圧160-90と高血圧。(今までありえなかった血圧値) とこんなわけで、一体これは何?私の身体どうなっている?我ながらショックを受けて暗い気持ちになっていた。それから、私自身の身体の状態を点検してみた。そこで分かったこと、自分の身体の老化に無頓着であった自分がいたということ。転倒したり、少しの段差につまずいて捻挫したり、膝痛になったり、これらは、すべてわたしの身体の柔軟性の喪失。とりわけ足首の硬化。筋力の弱体。足裏など自分の足がいつの間にか偏平足になってしまっていることを知って驚いた。 それ以後、老化を食い止めるための身体のメンテナンスをはじめた。ストレッチや柔軟性を維持するための体操。散歩も歩き方を考えて歩くようにした。整形外科で、私の弱点を補うために作ってもらった靴は大いに助けになっている。 血圧の高いのにはかなりこたえたので、医師の指導のもとに毎日血圧を測り日常生活を管理するように努力している。 いろいろの努力の成果が出てきて現在は血圧は120-70ぐらいで安定。少しの段差でつまずいたりすることもなくなった。 70歳になると足腰が弱るということを聞いたことがあるが、まさに私が70歳を目前にして、足腰が弱ろうとしていたのである。老いていくとはこういうことであったのかと気づかされた半年であった。老いていくのは日々であり、老いるわが身を意識して、それと闘うことは必要であったと気づいたのである。 今回、鉛筆画がサークルの仲間に入れてもらったが、サークルのメンバーは全員が75歳以上で私が最も若いのである。私が最も若いので、当然のことながら姿かたちは一番シャキッとしている。腰が曲がったり、よぼよぼと歩いたりはしていない。しかし、この大先輩の女性たちの創造力ほすごいものがある。どこからそのエネルギーは来るのか。これらの秘密をこれから彼女たちと共に絵を描くなかで探っていこう。彼女達から学んでいこう。 気力充実して、生を最後まで全うできる老いとはどういうものであるのだろう。私自身に今課されているテーマである。 (5月に入梅7月初めに梅雨明け。爽やかな5月がほとんどなく、梅雨期も夏日の暑さが続く日多く、紫陽花が雨にぬれて輝く日が少なかった。そんななか、早朝(5時ごろ)の朝露にぬれた紫陽花はいきいきしていた。)
2011.07.06
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人はどのようにに葬られることを望むか今日は国民の祝日・敬老の日「敬老の日」とは、「多年にわたり社会に尽くしてきた老人を敬愛し、長寿を祝う」ことを趣旨に設けられた「国民の祝日」だという。この夏は、あり得ない暑さが続いて、熱中症で死亡したお年寄りが続出した。クーラーもつけず、窓を閉めたままの部屋で誰にも見取られること無く死に至るという、寂しい高齢者の姿がそこにある。 更に、驚かせたのは、東京都の男性の最高齢者111歳は、30余年まえに死亡していたのに、死亡届けが出されていないばかりか、自宅にミイラ化した白骨となって、自室に放置されていた。その間、娘、孫などが、その死者の年金を受け取って生活していた。その後、次々に所在不明の高齢者がいること明らかとなった。葬式はおろか、火葬もされず、廊下に寝かされていたり、タンスに入れて放置されたり、リュツクに白骨化された骨をいれて引越しをともにしたりと、いう事例が次々に明るみになった。人も生物のひとつとして、死と共に大自然の生態系のなかに還っていくことが最も自然なことではないか。自然のなかで生かされているもののひとりとして古来から人類は、死者を土葬にしたり、火葬にして灰と化し、大自然のなかに還して来た。その自然の摂理にも反して、いかなる事情があるにせよ、死者を私物化して勝手気ままに処理するとは。あまりにも傲慢といわざるを得ない。ここまで、従来の家族のありようが崩壊していたとは。ここまで、人としての尊厳が卑しめられているとは。家父長的な家族のあり方、半封建的な地域での共同体の中でのみ機能した家族の有り方。葬儀などは、隣組が中心となって取り仕切る村共同体の祀りごとであり、家族はその流れのなかにおれば、葬式は自然に済ませることが日常であった時代。この歴史的な縛りが崩壊している今、人はどこに向かおうとしているのか。これら事件の高齢者たちは、ほぼ全員が半封建的な家父長的な家族のあり方を是として、生きてきた人々だ。何回もの戦争に翻弄されて生きてきた人たちだ。彼らの壮年期、初老期には、高度経済成長で、個人主義的な家庭のあり方、いわゆる核家族が、主流になりつつあった時代だ。男は外で仕事、女は家庭内で子育て、家庭は社会から閉ざされて、競争させられていた時代だ。次々に変わる時代のありよう、真逆の価値観に翻弄されながら生きてきた人々だ。このように、歴史に翻弄されて生きてきた高齢者たちが、今、行き倒れになり、放置されている。その果てに見えた風景がこのような荒涼とした姨捨山であるとは。都会という荒野に捨てられた屍に蛆虫わき、カラスが群がって啄ばんでいる。 (深沢七郎の楢山節考の世界のほうが、まだまし、人としての尊厳に満ちている。)そしてその光景は過去への復古、家制度への回帰などによって、解決できるような問題では、もはやなくなっている。家長を中心にした主従の家族関係で一家をまとめるなどということは、現代ではほぼ不可能である。高度に発達した資本主義社会のシステムそのものがそのような家族制度では、機能しないところに到達している。社会そのものが成り立たない所にきている。では、 どういう家族のありようが、次の世代を育て、バトンタッチして、この世を去っていけるか?個人が人として結びつく家族とはどうあるべきか?このような問いかけこそされるべきであった。近代的な自我の確立と、そのような個に根ざした、性愛や家族のあり方。人として人間らしく生きるとは、どうあるべきかを試行錯誤しているのが現代ではないだろうか。この答えは、そんなに単純ではない。新しく創造されるべき価値観でもあるから困難が伴う難事業でもある。しかし、その新しい人間関係に基づいた夫婦や家族の萌芽はすでにあちこちに芽生えつつあるのではないだろうか。その試行錯誤のなかで、人々は混乱し苦労している。私たち老年者の生活もその新しい家族像を創造していく最中にある。どのように最期を迎え、この世から去っていくべきか。このテーマは私たち夫婦にとっても今、進行中の問題多き悩ましいテーマなのである。しかし確かに言えることがひとつある。それは、譲るべき財もなく、継承すべき村共同体も持たない私に死に意味があるとするなら、周りの残された者たちの心に、生き続け、継承発展させて行けるに足る何かを持ち合わせて、私が生涯を終えることができた時であろう。そのような価値ある何かを作り出すことを要求されているのが今という時代ではないだろうか。現代の葬儀の主流が次第に家族葬に移行しつつあるという。身内だけの小規模な葬儀。これは、葬儀の大型化・高額化への反省からの必然としてある。しかし、最近の「家族葬」の中には「直葬」というものが含まれており、「時葬」とは、葬儀を行なわず、直接火葬場に運ぶこと。炉前で、身内や友人が別れを告げるだけのもの。これが急増しているという。東京のある葬儀社グループの調べでは、2009年9月から4ヶ月間に施行した162件中、80件が直葬であったという。このような葬儀の変化の背景には何があるか。もちろん「貧困」というものが第一の原因かもしれないが、ある意味で「核家族」の現代が行き着くシンプルな形態かもしれない。我が家の犬たち。今年相次いで亡くした犬たちは、まさにこの「直葬」であったが、私の心の中には、この2匹「ユメ」と「アンナ」が益々やさしい気持ちで生きている。死に方を私に教えてくれた犬たち10余年ともにした生活が心に優しくよみがえる。あたたかな気持ちになる。これが、死というものでないか。これで良いのではないか。関連記事:さようならアンナ(2010/07/13)さようならユメちゃん(2010/01/24)ユメちゃんの死(2010/01/22)父の死について書いています。あっぱれな死への旅たち(2009/04/05)
2010.09.20
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枇杷の実みのる頃 (梅雨入りし、ぐずつく空模様、欝とおしい梅雨空に枇杷の実が黄金に輝く私の散歩道) 1月の末日にパピヨンのユメが急死したことは前に書いたユメあくまで控えめで物静かな犬であった。その死に際もまさにその生きざまそのものに控えめで物静かあっという間の死であった。我が家には、もう一匹、シーズーのアンナがいるこも犬は元々ことちゃんのママ、私の娘が大学生のとき飼い始めた犬である。働くママとなった娘が飼いきれなくなり、私のところに無責任に丸投げして、飼育放棄した。現在14歳、我が家に来て7年あまりが経過している。このアンナ老嬢、我が家に来た7歳ころより心臓病と診断された。小型犬によくある心臓病で、僧帽弁閉鎖不全症というのだそうである。僧帽弁というのは、左心室と左心房の仕切りのところにあり、心臓の血液の流れを一定に保つ弁でその弁に異常が起きることにより血液の逆流がおき、左心房の肥大による気管の圧迫による咳、呼吸困難。逆流の影響による肺水腫。血液を送る能力低下のための血圧の低下、血管の収縮などなど、ことごとく心臓に加重な負担がかかる病気である。 アンナ老嬢はユメが死んでから急激に重症となりこの5ヶ月あまりは薬づけでお医者さんに通い続けている (6ヶ月前に撮影したアンナ老嬢。この時も重態になり、もうダメかと思い撮影した。目に元気がない。) とりわけ、ここ数日ははさらに重篤になっている夜通し咳をし、止まらない。動作を変えるだけで、咳がでたり、呼吸困難に陥るなどである。そんな状態であるが頑張って生きている。 私たち夫婦としては、出来るだけ穏やかに最期を迎えさせたい。苦しまないで最期を迎えさせたいの一心であれこれ手を尽くしているが現在の医学では、この病気は完治することはありえない。ただ、進行を遅くしたりすることしかできないということである。犬などあまり好きでなかったこの冨士子婆などアンナ老嬢の不安気な訴えかける澄んだ瞳に毎日凝視され、胸が痛いのである。咳がやまない時など、どうすることも出来ずただ、ただ、さすったりしながら見守るだけである。はぁ、はぁと呼吸が荒く、苦しそうに喘いでいる時などもうお手上げ状態。アンナ老嬢は、末期の病状であるので、このような病のものを看護するとはどうあるべきか、犬のことながら、人間の晩年の介護とだぶり、私たち夫婦は色々考えさせられそこから学んでいる。 私たち夫婦の親や祖父母たちは、皆、長い患いもなしに最期を全うしており、介護の問題で具体的に悩んだりした経験が無い。 今回のアンナ老嬢の介護は私たちとって、病人を本格的に看病する始めての体験である。 老いるとは何か。眼前で、次第次第に重症化していく姿を見ることで死へと向かっていく生き物の姿に明日のわが身を見る思いである。 最期は医療の力は無力なのだということをしみじみと感じている。最期は独りなのだ。 では、どうやって最期まで生ききることが本人や周りのものを満ち足りたものにするのか。死するときの尊厳とは何か。 肉体が劣化し、消滅へと向かうことは避けられない。では、どのようにその肉体の劣化と向き合って最期を生きることが、人として相応しいのか。などなど、さまざまな想念に捕らわれる。 最期に独りとなることへの心の準備をしているか。われながらおぼつかない。ユメの死から6ヶ月が経過しようとしている。最近やっと、ユメと歩いた散歩道を呼吸困難に陥らず、静かな懐かしい気持ちで歩けるようになってきた。「ユメちゃんと歩いたときも、ねむの花が満開だったなぁ」などと、一緒に歩いた道を懐かしむことが出来るようになってきた。ユメの犬としての賢さ、その良い点だけが思い出となり、私の心にユメは益々強く鮮やかに生きている。(享年13歳 2010/1/21没、落ち葉散り敷く散歩道で)それに比べ、アンナ老嬢は始めから最期まで手のかかる犬である。しかし、憎めぬ愛嬌ある犬である。まぁ、でもアンナ老嬢は、私たちに人生の最期について、色々教えてくれている。
2010.06.18
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私の生まれた日 今、私の散歩道は日毎に芽吹きの萌黄色からまぶしい新緑の林に変貌しつつある アケビの蔓からは葉っぱがぐんぐん伸びて散歩道に覆いかぶさるように葉を茂らせ始め可愛いらしい花を咲かせている (アケビの蔓茂る散歩道。黒紫色の花をつけている。秋になると、果実が熟し厚い皮が裂けて、多くの種子が露出する。果肉は乳色の白。甘い) アケビの花をアップするとこんな花 黒紫色の花びらのように見えるのは 三枚のガクと円柱形の雌しべ。その下にある数が多くて小さいのが雄花 人目にはつかない地味な花たちが初夏の林では次々に咲きそのいのちを繋ぐ営みをしている サルトリイバラ (ユリ科 スミラックス キナ(中国の) スミラックスはギリシャ語の「引っ掻く」という意味。昔から葉っぱはお団子を包んだ。人々の暮らしの中で生き続けてきたサルトリイバラ) アップするとこんな美しい花 これはサルトリイバラの花の雌花淡い黄緑色が美しい 1週間後には花は、もうこんなに実となっていた 秋には赤く実って 小鳥が啄ばみにやって来る その葉っぱの付け根は勢いよく巻き髯が伸び美しい紅いろの力強い巻き髯伸びて木々に巻きつく生きるそのいのちあふれる色 目を凝らさないと見えないほどに小さく地味な色の花たちが初夏をつげる林ではひそかに息づいている 見上げれば淡い紫に煙るヤマフジの花見事に咲き乱れ 新緑の燃える林に大木のヤマフジが燃える大きな丸っこい蜂クマ蜂がぶんぶんうなるヤマフジの咲く道 散歩道の途上の家々の庭の藤棚から爛漫と咲きこぼれる藤の花 (知り合いのお家の庭一面に咲く見事なヤマフジ。夏には葉っぱ生い茂り、涼しい風を部屋に運んでくれる藤棚。クーラーいらず。) 辺りには芳しい藤の花の香り満つ めぐり来た藤の花咲く頃私の生まれた日1943年4月28日 (私の誕生日に母に送った絵手紙。老いて孤独な母と共有できる感情。母にとっては、そういう人々もめっきり減ってきた。) 敗戦色濃く若い前途ある青年達が次々と学徒動員され特攻隊となってその短い生涯を絶ち斬らざるをえなかった日々。 1942年:塩、みそ、しょう油、衣料品の配給制:「欲しがりません勝つまでは」の標語。1943年:英語の雑誌名使用禁止、英語の野球用語使用禁止。 こんな時代に私は生まれた。私が生まれた時私の父も四国の連隊におり恐らく死と日々直面する暗い不安のなかにあったのではないか。その父が連隊で藤の花爛漫と咲くの見て「フジコと命名せよ」とデンポウが来たという 明日のいのち分からぬ日々に誕生したいのちフジコ巡り巡りきて67回も淡い紫に煙る藤の花さく季節が来た 役所の広報のお知らせなどで高齢者という言葉盛んに使われているが、私自身もその年齢になっていることに、我ながら驚いている。高齢者とは80歳ぐらいからでいいのではないかと最近では思っているのだが。 家族の誰も私の誕生日が今日であること気付いていない。私自身も敢えて気付いて欲しくないので黙っているが。(私個人としては年取ることは楽しいこと。歳重ねるごとに見える景色異なり、味わいは一層益す。素晴らしいことと感じて日々くらしているが。)しかし、私の親たちや同世代の年寄りたちの現状みると必ずしも年寄ることが幸福で良いとは言いがたい。 高齢者たちの孤独や死いろいろ身につまされ考えることは多い。 私たちの世代は親たちも含めてどこかで狂って、今に来たあの戦争をどう受け止めどう生きるかという総括の仕方がどこか間違っていた。 戦争へと国民を駆り立てた同じ土壌でしか親たちは生きていなかった。長いものにまかれろ式の生き方自らの知性で考えて生きる自立した個の欠如。戦後を生きてきた基盤はあの戦時下と同じ農村の半封建制のまま。社会のシステムだけはどんどん近代化している。 とりわけ高齢者たちはその歴史の激変に翻弄され孤独で悲惨な最期を迎えている人が多い。 そして今再び戦争をやりたい人々がうごめいているあの戦争は正しかったと声高に叫ぼうとしている人々がいる5月3日は世界に誇る不戦を高らかに掲げた日本国憲法が施行された日 現実とは何か今こそ眼凝らして世界に起きている事実を見る必要がある。
2010.04.28
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この1年の到達点とこれからの目標 陶板 教室の後半は陶板や置物などを制作することがカリキュラムであったので私は前回紹介した「陶人形・ちーちゃんと長靴」と陶板を中心にした作品を作った。この陶板も、孫のことちゃんの家をテーマにした。2人の幼子がママの後を追いかけて暮らしている様子である。 働くママの家は忙しくて、いつもてんやわんやの大騒ぎでも、どこか楽しさ溢れ活気に満ちているそんなマイホームであって欲しいという願が込められています。 次に挑戦したのが電動ロクロを使い、器を作ることですがこれは、いまだに四苦八苦ロクロという道具を使いこなすには程遠い状態ですが、とりあえず、そのなかで何とか器らしくまとまったものが次の3点です 志野湯呑み茶碗 この辺り(土岐・多治見)の伝統的な釉薬・志野を使ったものです。比較的よい色が出た作品です 次の2点は、瀬戸地方の定番釉薬黄瀬戸に織部を使ったもの抹茶碗のつもりで作りましたが、抹茶碗といえるかどうか?写真では実物の色が余り出ていませんがもう少し黄色がつよくでています。 湯呑み茶碗です黄瀬戸と織部の釉薬です 以上が陶芸教室1年生の私の到達した地点です。 来年の目標は、ロクロの道具を使いこなすことができるようにすること。さらにこの地方独特の「染付け」技法を使った絵付けの作品に挑戦することです。 次に、何年も陶芸をやり続けておられる先輩たちの作品を紹介します。作陶技術が私のレベルとは全く異なることが作品からも一目瞭然。 マグカップ カップの形も洗練されていますが釉薬も凝りに凝っています自宅に電気で焼く釜までお持ちの方の作品です 編み物をするおばあちゃん この作品も力作です。陶芸を始めて6年あまり。椅子も毛糸の編み物もすべて陶器です。細かいところまで行き届いた作品です。 可愛らしい靴これも陶器で造ってあるから驚きです 同じ作者の箱蓋と下の器をびったりサイズを合わせて焼き上げることはとても緻密な計算、技術がいります 文様もなかなかシック。 葉っぱは緑色に塗ったそうですが焼き上がりはその色が出ずと言っておられましたがこれはこれで、又、味わいのある作品に仕上がっていますよね。 パンケース この作品は使っている土といい、釉薬といいほぼプロです。 人形 この作品もほとんどプロこの地方は陶磁器が地場産業なのでその関連の仕事をしたり、家業の人が多く作品も素人とは言いがたいものがあり学ぶべきもの多くありますが、素人の私としては、売る必要はないので、初々しい斬新さを失わない心に訴えかけるものが造れるよう努力して行きたいというのが作品展を見ての私の決意ともなりました。
2010.04.07
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初めて陶芸に取り組んだこの1年間教室の1年間の成果をまとめる作品展が4月1日~4日に開催された。1年生の私も参加。その作品のひとつ、陶人形。孫のチサがモデル。 ちーちゃんと長靴 赤い長靴 ちーちゃんの長靴 ばあばが買ってくれた長靴 保育園のお庭の水たまり 浮かんでいるよ 青いお空に真っ白な雲が 赤い長靴 お空をお散歩 じゃぶじゃぶ 白い雲に乗って 赤い長靴 お空をお散歩 どろんこ長靴 楽しかったね お空のお散歩 こんな気持ちを土に込め、形を作り、焔に包まれ、色づけして出来上がった作品です。3ヶ月ぐらいかかりました。土からこのように造形できるとはすごいこと。土の柔軟さ、自由さは感動ものです。 その人形を別の角度からみるとこんな表情をしています 正面からみるとこんな顔に仕上がりました 生まれて初めて人物を立体的にとらえて造形してみて色々な経験ができとても学ぶこと多い作品です。 指導して下さっている先生がとてもすぐれており、私の内面にあるものを目覚めさせ引き出してくださいました。 とりわけ苦労したのは幼い子の肩のかたち先生から子どもの肩の造り、骨格はどのようになっているかよく観察しろと何度もアドバイスをしていただき肩の造りは何度もやり直し、なんとか幼子の肩に近づきました。 この人形を作り始めてから人間や動物を観察するときの視点が変化しました。しかし、観察すればするほど難しく人物や動物は描けない状態に今なっています。(1月に亡くなったパピヨンのユメを描けたらなぁ) デッサンに全くの素人一度も学んだことの無い私には人物や動物を描き、更にそれを立体化することは難しい。 先生にそのことをお話するとデッサンを勉強したらということになり今度の5月からデッサンの勉強グループにいれてもらい勉強することにしました。 デッサンを学ぶことにより物の観察力が、さらに広まり深まればもっと生きることも楽しくなるのではと期待してワクワクしています。 これは、陶芸教室に学んだおかげ私にとっては最も大きな収穫の1つです。 残されたいのちを更に豊かに生きるまたひとつの楽しみが増えました。 次回は陶芸作品展(2)で私のその他の作品と他のお仲間で先輩の方々の素晴らしい作品を紹介します。
2010.04.05
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さようならユメちゃん ユメちゃんが息をひきとろうとしていた正にその時、 孫のコトネから電話がありました。 なんという偶然。 その時ユメちゃんのこと告げると、 ことちゃん10分もするかしないかに 「ゆめちゃんとあそんでたのしかったね。 またこんどいきてきたらちかくにきてね。」 という文を添えて、 上のような絵を描いてファックスで送ってくれました。 5歳のことねもこんなに成長しました。昨日、ユメちゃんとのお別れを夫婦ふたりで静かにとりおこないました。 菜の花とまだ蕾硬い椿の花をいっぱい入れて市営の斎苑で火葬にしました とても、穏やかで静かなお別れです裸木の梢がレースを散りばめたように繊細に枝をからませて冬空の青にざわめき、天空に伸び、小鳥たちが、枝から枝へ飛交ってにぎやかにさえずっています ユメはこの天空に一筋のけむりとなり飛翔していきました。 骨はこの大地にかえり、今度は、椿の花となるでしょうか。さようならユメちゃん ペットの葬儀産業も盛ん、現代の人間のこころのゆがみを映し出したかのような葬儀のありよう。とても疑問に感じています。昨日、夫婦ふたりで簡素にお別れして今日はとても気分爽快。哀しみの深さは変わりませんが明日への生きる希望や勇気をユメからもらったようなさわやかさが胸に静かにみなぎってきます。
2010.01.24
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ユメちゃんの死 (これは、数年前に撮った写真ですが、今日のユメの姿も全くこの写真そのままです) いつも散歩の供であったパピヨンのユメ2010年1月22日の夜12年の命を閉じました まだ、今日のお昼にいつもの散歩コースを散歩したばかりですあっけなく、逝ってしまいました 1週間前まで、全く元気食欲も普通、散歩も大好き寒風のなかを私と2人で散歩していました 散歩で出会う人たちにもユメちゃんは元気だねぇ、年齢のわりには、若々しいねぇと言われていたばかりなのに。 毛並みも艶々ふさふさ愛くるしい眼もの静かな控えめなユメ 最期の最期まで控えめでものしずか この週、食欲が落ち、呼吸が急に荒くなったりした日があり、様子をみていたところ、この数日は持ち直し、このぶんなら大丈夫と思っていた矢先 今晩、急に食事しなくなり、呼吸あらくなり、しばらくしたら静かに逝ってしまいました こんなに命ってあっけないとは 幼い時、不幸だったユメちゃんいつも控えめで、他のひとの顔色を伺い生きていたでも、一徹な強い意志もあったユメちゃん毅然としたところも貫いたユメちゃん この冨士子婆を供として生きたユメ誰にも迷惑かけず、私たち夫婦に静かに見守られ最期を全うしました 1昨年、ユメは、背中に小さなコブのようなものが出来、医者にすぐ手術しなくては、悪性の癌の可能性があるから、といわれましたが、手術は拒否。その腫瘍のようなものは、その後、なにも変化せず(大きくもならず、化膿もせず、きれいなまま)、元気そのものでした。その後、健康診断で血液検査したときも、全ての検査値は良好でした。10年を経て、老いてきたので、静かにだんだん弱って,その先に、死があるのなら、それが一番よいと思って、その後は、最低必要な予防接種以外は医者に行かないようにしていました。ペットの医療のあり方に益々疑問を感じていたので。どんどん検査して、病気見つけて、薬やら食事療法やらと、人間の都合で犬をいじくり回しているようにしか私には思えない。犬の尊厳を無視した医療。ペット産業の金儲け主義。犬の生きざま、犬の習性を無視して、人間さまのおもちゃになっている。 ユメちゃんは、余りにも静かに、最期を迎えました。大往生しました。犬の生涯としては、これで良いのではないかと、わたしたち夫婦は納得しています。これは私たちの自己満足かもしれないが、ユメちゃんもそれを望んだと思っている。 私たち夫婦の老いもユメちゃんのように静かに、誰の迷惑もかけずにしかし、毅然とありたいと思います そうなれるよう残された命を大切に生きていきたい。
2010.01.22
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60の手習い この冨士子婆はこの5月から、絵手紙教室と陶芸教室に参加して習い事をほぼ生まれて初めてやり始めた。これ以外と楽しく、自分のなかにこのようなものを楽しむ素質があったのかと再発見して、我ながら驚いている。今の子供たちのように幼い頃から幾つものお稽古事に通いあれもこれもとやっている若い人たちにはきっと味わえないこれは新鮮な驚きなのである さて、絵手紙は、このブログでしばしば紹介してきたが、陶芸教室は、なかなか手ごわい相手、「土」は私の思う通りには、一分たりともなってくれず、目下のところ、てんで相手にされていないのである。「土」に見放されているのである。 土練りなど、菊練りと言い土をねると手元に綺麗な菊の花びらが出来ていくのが正統だけれど私など、「お萩」もちにもならない、全く土に翻弄されて、皆から笑われている さてさて、その私めの作品?が10月に釜焼きがあり、一応出来上がった。 叩き割って、もとの大地に帰したい見るのも嫌な作品であるが失敗は成功のもと自分に言い聞かせ、何処が問題なのかを毎日使いつつ観察している お見せするには恥ずかしいものであるが陶芸初めての、第一番目ということで一応記録しておく カップ手に馴染み、使いよい形にはできたが、土の地肌はでこぼこ、釉薬は自分のイメージしたものとは全く異なり見るのもいやであるが、次の教訓とすべきことは多々あり、学ぶべき教科書と思い使っている。(タタラというやり方で作ったものであるが、タタラは力仕事で中々、土は思うように伸びてくれない) この小皿もタタラの作り方でつくったもの絵が得意だと思って書いてみたが全く筆が動いていない色の出方が悪いでも使い勝手はそれなりによい 以下のものは「てこね」や「紐」という縄文土器のような原始的な作り方でつくったもの 黄瀬戸などの釉薬を使っているが全く釉薬はその色を出していない この小鉢も形はまずまずだが日常使う器としてはとてもじゃないが使える代物ではない 我が夫、日頃使っている食器にはあまり関心を示していないがこれらの食器を所々で食卓にだして使うと「これ、お前が作ったものか、そんなに悪くないなぁ。わが家にないもので変化があっていい。」とのたまった。これって、ほめ言葉それとも皮肉か。 とりあえず、この5ヶ月の勉強の成果がこれなのである。わが町は、陶磁器の町。先生は、それこそ国宝級から多数の中堅職人あり、若い前衛的な作家ありと多彩であり、陶土、陶芸の道具、などなんでも揃っている。 こんな恵まれた環境にいるので、この陶芸はこれから粘り強くやり続けたい 土が千数百度の高熱でこのように堅牢な器になる魅力自然のなかの鉱物の釉薬が熱に反応して微妙な色合いになる不思議 陶器を作るということは自然とのたたかいでもありなかなか奥が深い 私のやりたい事は「青」を思いのままに操って描く染付けである 瀬戸は染付けでもすぐれた技術者や作品を多数輩出している まず、土と仲良くなること土練り、これこそがいまやること。土に負けない体力が先ず必要。 65歳を越えてはじめた手習いはとりあえず、このようなてんやわんやで始められたのである。
2009.10.15
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余生20年をどう生きるか 私の朝の散歩道の庭々からは石榴の実が色づき実って弾けて透き通った紅色の実がこぼれ落ちる (たわわに熟れたザクロの実が秋風に揺れる。はじけて道に落ちる。まさに実りの秋。) 「敬老の日」にちなんで総務省は15日現在の人口推計を発表した。其れによると65歳以上の高齢者の人口は2898万人、総人口に占める割合は22.7%となり、過去最高となったという。女性高齢者は1659万人で、女性人口の25.4%、4人に1人を占めた。25%を越えたのは統計が残る50年以降はじめてという。高齢者が1人でもいる世帯は1821万世帯 高齢化が進むとともに、家計の苦しさも数字に出始めている。総務省の数字では、世帯主が65歳以上で無職の世帯の1ヶ月の平均消費支出は20万6千円。これに対して可処分所得は16万4千円。4万円足りない。不足分は00年の2万円に比べ倍増している。その最大の要因は税金と社会保険料の増加で、00年の1万7千円が08年は2万4千円で4割ほど増えている。不足分は預貯金などの金融資産などの取り崩しで賄われているという。 この統計調査結果には、現在の高齢者たちの現実を的確に反映されているよいうに私には思われる。とりわけ、小泉政権以後の8年間には、高齢者層の貧困は徐々に確実に進行している。今後、団塊世代が65歳に次々になっていくので、このまま進めば、この傾向はさらに増大するのは必然である。 これは、物質的な観点から見る、貧しさの傾向であるが、精神的な面からの高齢者の現状はどうなのか。 更に深刻で豊かではない現実が待ち受けているように思えてならない。 私の近辺では、最近、死、病気など高齢者にまつわる出来事が次々に起きている。その1つ1つが、「人生の最期の生きざま、死にざまは、まさにその人の人生の総決算であり、それまでをどう生きたかをこれほどはっきりと示すものはない」という現実に出会っている。偶然とか運の良し悪しなどという曖昧なものではなく、その人が人生の最期にたどり着いたところは、なるべくしてなったという重い現実に次々に出会っている。そして、一つ一つの場合は、それぞれの独自性をもっており、同じものは一つとしてない。しかし、その行き着いた先の根底にある共通性は、すざましい孤独や悲惨、まさに餓鬼地獄ではないか。飽食と浪費の波間に漂った人生の行き着いた先がこれとは、何と言う皮肉。大人たち、とりわけ年寄りたちの多くは、今の子供たちの価値観や生活様式にあきれ、驚き、悪口をいっているが、この子どもや孫たちの姿こそ、病んで死んでいく高齢者たちの鏡なだ。子供たちの現実は己の姿を写しだしているに過ぎない。子を見て我が振り直せである。という事を実感した。最近色々な病む人々を目の当たりする機会多くなって、初めて知る現実である。わが身の数年先の現実である。 (ヒガンバナ:私の幼い時は村の墓地周辺にヒガンバナの群落があり、不吉な花、毒があり子供は近づくななどと大人たちに言われていたが昨今は、ヒガンバナの群落は人集めのための観光用になっている。ヒガンバナが有毒な物質をもっていることは変わらないし、あの燃えるような赤は不吉さえ感ずるが、時代が変われば嗜好もかわるのかでも、一方で浄土に咲く花:曼珠沙華(マンジュシャゲ)の名もある。梵語で赤い花の意味。見る人により、さまざまな姿をみせるヒガンバナ) 私は、8月27日から29日にかけて、高野山の宿坊に宿泊し、その近辺を観光してきた。宿坊の精進料理は、私の毎日食している、豆腐や揚げや菜っ葉や芋類であった。一膳の量も少ない。わずかな日程であったが、この山の生活は、私の胃や腸の調子をすこぶる良好にしてくれた。胃腸がいつになく軽い。人間はこれぐらいの量で快適に生きられる。これぐらいの食品で快適に生活できる。改めて、自らの食生活を反省した。年寄りは腹7分ぐらいで、体調良好なのだろう。 食生活や生活習慣を今変えれば、病院でうめいて苦しみもがいている高齢者の病人の7割ぐらいは、病気から解放されるのではないか。高額医療費の削減も簡単にできるのではないか。高齢者だけを対象とした医療保険など必要なくなるはずだ。病院に入院しながらも、カップラーメンやスナック菓子や甘すぎる添加物いっぱいの菓子など持ち込んで食べている老人がいるから驚きである。病院食はまずくて食べれないと配膳係りに抗議している。これでは、老いて病気に苦しむの必然ではないのか。自らが播いた種である。(最近の病院食は、昔に比べれば、味つけもよく、食べる適温まで考慮して配膳されているから驚きである)健康に老いるとはどのようであるべきか。 (吹く棉の実:この絵手紙は偶然に9.11の日に描いた。あの世界同時多発テロの起きた年の9月11日は雲一つない恐ろしいほどの真っ青な秋空であった。産業革命の初期、綿花栽培は色々な出来事や事件を歴史に刻んできた。アメリカの南部の農場では、黒人奴隷たちが、大地に鎖でつながれて、労働した過酷な綿農場があった。資本主義の初期の繁栄を作り出してきた労働である。そして2009年には、その奴隷の黒人を祖先にもつオバマ大統領がアメリカに誕生した。2009.9.11のこの日の空もあくまで青かった。) 高齢になればなるほど、身体の諸機能が低下して、衰えるのはごく自然の流れ、それを、自らが受け入れて、逆らわず、しかし受身ではなく生きる事は誠に難しい。弱っていく体力、気力に挑戦し続けることはなかなか難しい。私の理想とする、弱り朽ち果てていく時、少しだけ手助けを受けて、毅然と死へと旅立つには、どんな余生を送ることが必要か。まずは健康維持、これが第一そのための節度ある食事や運動。精神的な緩急ある生活の維持あくまで自尊、あくまで自立、朽ち果てるまで、心は自立 そのためには、自分のいままで蓄積した知識や技能を世の中のため細々ながらも役立てる実践を怠らない自分を維持すること死の直前までそうあらばもっとも理想的であるが 我が余生を残されたいのちをこのように生きたいが さて、出来るかどうかははなはだ心もとない心惑う日々である 「敬老の日」になると、65歳以上が高齢者という範疇に入れられてポイントされていることを思い出し、私自身がその1人に数えられる年齢ということに驚く。しかし、今年は、周りの親戚縁者の高齢者が死亡したり、癌などの病に次々に倒れておりいつになく高齢者の世界にどっぷりとひたる時間が多くなっている。老いについて、深く考えざるを得ない現実に直面している。 日頃、中高生に接することの多い私としては、若者の問題ばかり、悩んだり考えたりしていたが、ここにきて、年寄りの現状を垣間見ることにより、若者たちと年寄りの問題には共通項があることが見えてきた。心の貧困である。其れは又、私自身のこれからの残されたいのちをどう生きるかの問題としても問いかけられているように思えてならない
2009.09.30
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生ききって満足して死んでいける人生とは ペットと人間の医療を同じにしては問題かもしれないが、最近、私は父の死に遭遇した。その父の闘病と死直前の1週間の入院生活。その前にわが家の愛犬ユメの腫瘍に最悪の場合を宣告され、すぐ手術しないと、ダメだと宣告されていた。ともに、この2つのケースの共通項は、老いているということである。老いと病気。このような場合、医療機関とどうかかわることが、生き物としての生を全うするにふさわしいのか、命の尊厳を守ることなのかについて、あれこれ思い悩み考える機会を与えられた。そのような思いにいる時に出合って本が、中島みちさんの次の本であった。 中島みち(著) 「尊厳死」に尊厳はあるか 岩波新書 2006年3月、富山県の射水市民病院で入院中の末期患者7人の人工呼吸器が取り外され、死亡していたことが明らかになった。マスメデアは、この人工呼吸器取り外し事件の実行者のX外科医師を「尊厳死」の実践者として祭り上げ、センセーショナルに取り上げた。しかし、実際には病院のなかで何が起きていたのか?著者・中島みちさんは、1年4ヶ月にわたる厳しい取材の末にたどり着いた現状を、この本のなかで、事実を積み重ねて、丁寧に追っている。なかでも、人工呼吸器取り外しされた7人の患者ひとりひとりのカルテの分析、どんな医療が行なわれていたかの事実の解明の部分に全体の3分の2ほどを費やしている。その一つ一つの事例のなかには、その当時、この医師によって行なわれていた高齢者患者に対する医療の現実に私は思わず「なんてひどいことを」、高齢の末期患者の「苦しみ、痛み」を思うと胸が張り裂けるほどであった。要するに手術好きの医師が、外科病棟を取り仕切っていることによって起きていた医療の「退廃」をそこに見るばかりだ。患者の家族たちも、この医師の言うまま、医師の言葉に「ご無理ご最も」と納得している。まぁ、これは田舎によくあることではあるが。自分で無用な手術を繰り返し、自分の都合で人工呼吸器を着けさせ、自分の都合で呼吸器をはずしていただけの現実なのである。このような現実に、何も声を上げない周囲の医療従事者。マスメディアには、この医師は「尊厳死問題に一石を投じた赤ひげ医師」として登場、院長や市と闘う姿勢を鮮明にした。マスメディアは「尊厳死」の話題性にとびついて、連日センセーショナルに取り上げた。それによって、「尊厳死法制化」をめぐる動きにまで発展したのである。この射水市の「人工呼吸器取り外し事件」の事件の真相が明らかにされないまま、ただ「尊厳死」という言葉だけが、ひとり歩きしているのである。この事件のなかには、今の医療が抱えている問題、現代社会の私たちの病にたいする問題などすべてが含まれている。真相を明らかにするとなしに「尊厳死」など語れない。むしろこの医師やマスコミが騒いでいる「尊厳死」は尊厳な命の終末を意味していない、ということをこの『「尊厳死」に尊厳はあるか」という本の中で、中島みちさんは告発している。 私の父の場合であるが、この本を読んで、改めて「あっぱれな死」であったと再認識した。死の1年前、2008年3月 父は、解離性胸部下行動脈瘤57mm、腎動脈下腹部大動脈瘤47×57mm が見つかった。この時の診断は、手術する危険と、このまま放置して残された命を生きていくかの選択肢を示された。医師は術後の危険、大変な生活を考えて、何もしないほうがより良いということを参考意見として述べた。しかし、選択は、本人家族にまかせる。といものであった。この時点で、すでに父の受けた医療行為は、「人工呼吸器取り外し事件」の外科医師よりは、高レベルなものであったことは幸運なことである。この時、この事件の医師なら、手術をするのである。さて、父は、その後1年間、普通に生活しながら、闘病した。最後まで自分に与えられた仕事をやり抜こうとするその意志の強さ、頑固さには、周囲のものも半ばあきれ、半ば迷惑に思っていたが、今から思えば、誰にでも出来ることのない、あばれな生活ぶりであった。さて、死の1週間前、脳内出血が起きて入院した。この時、父のベットの姿に私は少なからずショックを受け、このまま、ずーと何年もこのような状態なら、たまらないと思った。しかし、残された機能をフルに回転させて、みんなにつぎつぎ別れの挨拶をして、し終えたら1週間目に静かに息をひきとった。入院に1週間は、皆に別れを言うためのものであったのだ。周囲の者たちは、このような状態ではまだ死なないというので、のんびりしていたが、あっというまに逝ってしまった。 私が見舞いに行った時、たまたま主治医の往診に出くわしたので、父の病状について、談話した。そのとき、私は、娘として、その若い医師に「これは、私自身についても思っていることですが、穏やかで静かに、自然に最期を迎えることが願いなので、過剰な医療はやって欲しくない。痛みなどで、苦しい場合は、緩和する治療はしてほしいのですが、とにかく、おだやかに最期を迎えたい」といったら、若い医師は「まだそのような時期ではない。これこれの治療をまだしなければならないが、もう治療がないという段階では、そうします」と言ってくださった。私のこの言い分がどのような影響があったかは定かでないが、父の入院した病院は、まあこの点でも、全うな医療を追求している病院であった。今の病院のレベルはこれなのか。(私がこのように医師にとっさに言えたのは、愛犬ユメの獣医師が、やたらに手術したがり、患部だけしか診ていない医者だったので、色々疑問感じ、悩んでいたので、人間界も同じことが起きているのではと思っていたからである。) いずれにしても、父の直接の死因は肺炎であった。最期まで、自らの意思で生を選びとり、死を自らの力で呼び込んで、静かに眠っていった。なんというあっぱれな死。父の死。これこそが「尊厳死」ではないか。私もこの父に学んで、死を自ら選び取って死ねるような「生」を生きて生きたい。 それに比べ、「人工呼吸器取りはずし事件」に登場する、高齢者の患者ちの最期は、医師の勝手によって傷つけられ、失敗し、治らず、人工呼吸器を取り付けられ、さんざん無理に生かされて、のた打ち回って苦しみ最期を迎える。まさに、生き地獄。それに対して、有難がっている田舎の人の良さ。無知さ。これを「尊厳死」と騒ぎ立てているマスゴミ。一人ひとりの死を法律で線など引けるのか? この中島みちさんの本は、私たちに今の医療の現実と命の尊厳とは何かを深く考えさせてくれる。
2009.04.26
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老僧逝く 願はくば花のしたにて春死なむそのきさらぎの望月のころ西行法師のこの歌そのままにさくら咲き乱れるしたで最期まで渾身の力ふりしぼりひとりひとりに別れを告げて穏やかに深い眠りについてしまった 釈迦入滅のさくら咲く如月の望月の日に。 享年90歳その波乱万丈、苦難連続の人生は爛漫と咲き乱れるさくらの花びらがはらはらと散る春の嵐が吹き荒れる日に閉じられた 崩れ行く意識のなかで残された脳細胞をフル回転させて静かに死にむかって死を自らの力で呼び寄せて息をひきとった 重荷から解き放たれて軽やかに浄土へと旅たった 最期には残された者たちに毅然と生ききるとはどういうことかを自ら体現して旅たった あっぱれな死に際その最期がこの老僧の人生のすべてを物語っている 死支度致せ致せと桜かな 一茶 桜の花にさそわれて見事な死への旅支度をして私たちの前から旅立っていった 幾重にも積み重なる満々と咲き満ちるさくらのむこうに谷深く渡る花爛漫の最果てに穏やかに逝ってしまった私の父 最期にはこう生きよと 私に教えて逝ってしまった あっぱれな死写真:嵐の吉野千本桜(by Danjose) The End ビートルズの最後のアルバムAbbey Roadの最後の3曲のメドレー曲Golden Slumbers, Carry That Weight, The End そのままにビートルズのメンバーたちも「The End」では、背負っている重荷をふっきったかのように、明るく力強く「love you」と愛を謳いあげている。 The EndOh yeah, all nightAre you gonna be in my dreams tonaight Love you, love you.Love you, love you. And in the end, the love you takeis equal to the love you makeAh, このビートルズのThe Endの歌詞そのままに大きな愛、それは慈悲ともいうべきものそんな大きな愛に満ち満ちて最後を全うして旅立って行ってわが父 わが父の法名は?照院智幸?はあまねくである。智恵や幸をあまねく照らし出すという願が込められている (初七日の4月7日桜満開:境内裏のさくら道、幼い日遊んだ小川はメダカやフナやドジョウなど豊かに生息する農業用水でもあったが、半生紀経た今はコンクリートで固められた堤防の桜道となっている。でも今日は、父の死を寿ぐかのように花爛漫・by fujiko) 父は、一年前、腹部に6ミリほどの動脈瑠が2つあることが見つかった。死の1週間前には脳内出血をおこし、脳の4分の1ほどは機能しなくなっていた。直接の死因は肺炎の併発ということである。 入院する3日前まで、檀家の法要を勤めていた。この不屈の意志には敬服する自分に残された機能をあくまでフルに回転させて尚、意志的にに生きようとする姿には感心する老いて行くものにこう生きよと手本を示してくれたわが父 しかも死の1年前に、自分の葬儀式のプログラムを細部に渡り、すべて作成していた。 商業的な請負葬儀を厳しく排除して、檀家、ご同行の人々の和を結集して自らの仏法に則って、質素に葬送するものであった。 喪主の長男(現住職・私の実弟)は、田舎の街の要職にあり、国会議員から地方財界まで、雑多なつながりがあり、その参列者多数いたが、香典や供物の花など一切お断りして、飾りつけは、祭壇の白菊とシキビのみである。質素ではあるが、檀家ご同行の固い結束で生前の父の生きざまがしのばれるみごとな葬儀であった 町の人々に葬儀とはどうあるべきか示した最後の人となるのではないかと思う 恐らくこのような葬儀はこれからは2度とみられない 祭壇の作り方まで、イラスト入りで指示されていた逝った人との深い慈愛で導かれた人々の和のなかで寄り合う昔あった葬儀。寺の境内はお義理で参列した町の要職者たちのものではなく「法」のもとに参集した人々で満ちた。 このような葬儀式はおそらくこれが最後である 享年90歳老僧見事な往生であった 合掌 「壮絶なる死への旅路」を書いた日より1週間で父は死はどうあるべきかのお手本を残して浄土へと旅立ちました。
2009.04.05
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壮絶な死への旅路 幼いときに両親と死別し幼い時から他家で修行し、 青春は戦時下にあり 戦後は己を育て縛った価値観から解き放たれて貧しいながらも民主化と復興の明るい活気あふれた社会建設のなかで教職と僧職の二足わらじで懸命に生き抜いてきた古老が今、死への旅路を最後の力をふりしぼり生きている 私は知らないこの古老の生きてきた孤独を 私は知らなかったこの古老の背負う荷の重さを 彼は生きたか自分の価値観を実現する人生を 彼は生きたか自らをしばる重みを解き放って軽やかになる生を 私は知らないこの人の心の闇を この人は今、最後の自尊を崩れ行く自尊を消え入りそうな自尊を 混濁し、拭い去られようとする現実のなかで頑固に貫いて生きる 重すぎる荷Carry That Weight 私はこの人の病床のベットへと歩み寄れない 病室のドアーをノックすることができない 治療を拒否しはねのける手足をベットにしばりつけて偏屈で強固な最後に残された自尊までを傷つけている医療 壮絶に最後の最後まで生きている父よ この人の背負ってきた荷は重すぎる 父よあなたは最期をどうして欲しいか何も語らぬ父よ 父と子のこの距離はなんだろう 私は涙あふれて父の心の扉をノックできない 消え行く記憶のなかでも壮絶に仕事に生きようとしたこの古老の人生は何だ 死と立ち向かうとはこのように壮絶なことなのか 私は涙あふれて立ち尽くすばかり (私の散歩道は今、春めいて華やぎはじめる。シデコブシもその繊細な花びらを花冷えの空に震わす)by fujiko・携帯で撮影 ビートルズの最後のアルバムAbbey Roadの終わりのメドレー3曲:Golden Slumber; Carry That Weight; The End ビートルズのメンバーたちが栄光と名声とを背負ってグループをThe endと向かわせていく。その時の彼らの思いが複雑に重く絡んでメンバー4人があらぬ限りのエネルギーで刻むリズムCarry That Weight Boy,you're gonna carry that weigtCarry that weight a long timeBoy,you're gonna carry that weightCarry That Weight a long time この繰り返しのフレーズが今の私の心にも重く響く人々が背負って生きる荷とは何かその荷の重さに耐え切れない人生とは何か 私は、自分の背負う荷が軽やかにに昇華される最期を迎えたいけれど そのためにはこれからどんな老いを日々、紡ぎだしてゆくべきか。 わが父の最期のいのちの闘いはそんな問いを私に投げかけている。
2009.03.25
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長い時の流れが人を育てた 前回・2/16日の日記(枝垂れ梅咲き乱れて)に輝子さんの死を悼む詩を書いたが、さらにその続きである。 日頃、明るく元気に奔走し、一人息子のダイちゃんを女の細腕で育てているシングルマザーの輝子さん。その彼女が、あっと皆が驚く早さで、この世から逝ってしまった。周りの者たちの衝撃の深さは言葉で表せない。 息子のダイちゃんは、アメリカで医師になるための勉強中。現在、カリブ海のある病院で勉強中。その地中海から急遽帰国。あとニューヨークで1年ほどインターンをすれば晴れて医師になれるという矢先の母の死。まさに、お母さんとの2人三脚で、困難な道を切り拓いてきたダイちゃん。わが家の息子Kenもダイちゃんと全く同じ時期にアメリカに渡り、自力で大学に入学し自分の道を切り拓かねばならない暗中模索の青年期を過ごしていた。同年代のダイちゃんも同じような疾風怒涛のなかで、迷い苦しみ力を蓄えていた。 日本の高校を卒業し、しかるべき高いレベルのアメリカの大学に入学し、卒業するのは並みの困難ではない。語学力の壁が大きく立ちはだかり、まず大学の勉学に耐えうる英語力の習得にかなりの時間・労力が必要で、ここで頓挫する若者が多い。そして、それを支える家族たちの経済的負担もかなり厳しい。精神的なサポートもかなりの強靭さがいる。それを輝子さんは、女手ひとつでやり抜いていた。その強さ、しなやかさ、明るさ、仕事に生きる厳しさ、言葉では語りつくせぬ68年間の重さがある。 ダイちゃんは勉学のためアメリカに渡ってから、ほぼ10年の歳月が経っている。あと2~3年すれば、なんとか医師として独り立ちできそうなところまで来ていたのである。そのダイちゃんを物心両面から支え励ましてきたお母さん。10年余りも支え続けるなんて並では出来ないこと。(わが家など5年間サポートしたが、最後の5年目は、親の方が飢え死にして倒れそうだった)ダイちゃんは、まだ修行途上というのに、母の死に遭遇した。謙虚で知的な風貌さえ出てきたダイちゃん。医者の卵としての自信と落ち着きさえ出来ており、私は安堵した。「ちゃんとした医者になりますから。」とお母さんに向かって何度も繰り返したダイちゃん。もう、あと数年、生きて息子の成長を見届けて欲しかったと、同じ年代の息子を持つ母親として、私も悲しいやら口惜しいやら。 輝子さんの葬儀に参列した人たちも、主に彼女の仕事関係の人々であるが、生前の彼女の生きざまをこもごもと皆が語った。元気で明るく活動的な彼女に、周囲の者たちは頼り切っていたので、「まさかこんなに突然に逝ってしまうなんて」と、とても信じられない人々ばかりである。失ってみてその大きさを知るとはこのことか。喪失感の大きさが心に染み入る。お棺のなかで、静かに眠っている輝子さん。今にも話しかけそうなお顔。その輝子さんが、数時間後に白骨と灰に帰して私たちの前に現れた時には、とても衝撃を受け、この現実をにわかに受け入れがたい気持ちでいっぱいになった。死、死、。。。これが死ということなのか。私は、私の祖父母や義父母の死には遭ってきた。でもそれとは又、異なる感情に私は襲われていた。私自身も死に向かって歩いている。自分の死というものが身近に感じられた。私はどんな死に方が出来るか。私の死にはどんな意味があるのだろう。などなどいろいろな想念に駆られている。死は、その人の生きざまそのもであるようにも思えた。輝子さんの死はそのことを私に教えてくれている。ダイちゃんは、来週、今、学んでいる異国へと再び飛び立っていく。ダイちゃんやkenたちの30代前半の世代は、歩みはのろく時間がかかってはいるが、確実に次の社会を担い創造してく世代として、確かな歩みを始めている。そのことを輝子さんの葬儀に参列した親世代も一様に確信した。人が人として育つには長い時が必要なのである。 2/23の 朝日歌壇の入選短歌、私の今の気持ちそのままを歌ってくれている。 別離とはあっけないもの音たてて扉がしまり互いに追わず (熱海市)三澤 房江 扉が事務的に閉まったとき、後に残された者たちの「唖然とした心の空虚」、哀しみを超克した寂寥。その思いを三澤房江さんが見事に歌い上げてくれている。悲しみは深い。
2009.02.20
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我が老いを映しだす鏡のユメわが家のペット:2匹のワンちゃん 生まれてから13年目のシーズーのアンナと 12年目のパピヨンのユメ 人間の年齢にすると60歳代か犬にしては高齢というべきかこの2匹、私の娘(コトネのママ)が大学時代に飼ったもの親の反対を押し切って彼女が飼った(コトネ1歳7ヶ月のとき。ユメと舐めっこして仲良し。コトネもう4歳になりました)その娘は二児の働くママとなり、育児に仕事にてんやわんやの毎日。犬たちは、私たち老夫婦に押し付けられ、これらの犬の主人は、この冨士子婆にあいなった。それから10余年が経った。 犬ぎらいだった私も10余年の年月が犬たちと気持ちをツーカーを通わす仲にした。 とりわけパピヨンのユメは物静かで主人には絶対服従、散歩大好き。まさに私の分身のよう。 そのパピヨンのユメ に今週、ショツキングな事件が起きた 定例の予防接種に医院に行った。その時、背中にある小さな腫物を先生が見つけて異常とみなされ検査した、なんと、まだはっきりしないが悪性腫瘍ではないか?グレーゾーンにある腫瘍と診断され早く手術して取り除くべきと言われた。 飼い主で、今はその主人である冨士子婆はショックを受けて動揺する。元気で機嫌よく食欲あり何も悪い所ないのになぜ? シーズーのアンナも心臓病で毎日、薬を2種類も飲んでいるわが家は私たち夫婦と老犬2匹の4人ともに年老いつつあり、犬たちには人間さまよりも医療費がかかっている薬を一番多く飲んでいるのは犬のアンナなのである 犬に血液検査を時々おこなったり、レントゲンをとったりとこのように細部まで検査をして、異常を見つけだし、手当てをする必要があるのだろうか。何種類もの予防接種を毎年する必要があるのだろうか。私は最近疑問に思っている生き物は老いて行けばあちこちに故障がでてくるの当然のこと油がきれて動きが悪くなるの当然のこと仲良くその老化と付き合いながら生き力尽きたら自然に火がきえるごとくに滅んでいくそれでいいのではないだろうか。少なくとも私の老いはそうありたい まして犬もっと自然にまかせて穏やかに弱って行きその先に死があるのならそれでいい 老い先わずかなユメが全身に麻酔をかけて20針もぬうような大手術をするなどとうてい納得できないこれこそ過剰医療ではないか。今、元気で、穏やかに日々暮らしているのに。ユメのことを思うと私が衝撃を受けて胸痛み立ち上がれない 我が家のペットたちの老いと私の老いた父母。それぞれがこの瞬間にも病と闘い日々、死と立ち向かっている それは老い行くものが誰でも通る道 2008年暮れようとする師走暗雲立ち込める世界情勢打ちのめされている若者や老いたる者たちがあふれる日本列島 2009年はもっと厳しい年になりそうその暗雲をはねのけ、力強くこの困難に立ち向かえる老いを生きることそれは私の願でもある
2008.12.20
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老いたるものの深い傷心・悲しみあふれる歌 (朝日歌壇の「後期高齢者」の歌) 朝日新聞の文化欄に「朝日歌壇」がある。 私は、この歌壇の読者でもある。 いつも投稿される歌が、その時々の世相を的確にぎりぎりの文字のなかに、あふれる思いを沈めて、読込まれている。とても感動する。 最近の投稿に「後期高齢者」の歌の入選が目に付くと思っていたら、今日の朝日新聞の文化欄に、こんな記事が載っていた。 『投稿歌数は、毎週平均3千首。四選者が週一度の歌壇俳壇面に10首を選ぶが過去2週間にわたって「後期高齢者」の歌の入選が顕著。4月13日付け紙面には5首。例えば 懸命に生きたる罪か人間の枠外されし後期高齢者 三池淑恵 三池さんは73歳。「20年来りウマチで、保険証を使い通し。どこか申し訳ない気持ちであった。今回、身体障害者として、75歳未満だけれど「後期高齢者医療制度」の対象者と分かった時には、生きていくのがはばかられる、そんな思いがした」4月21日付けは6首。その中の一つ、 「後期高齢者」手話表現に迷いつつおわりは近いと手を動かしぬ 渡辺裕子 サークル活動で手話を学ぶ77歳の渡辺さんは、被保険証を手にした瞬間、とっさに「後期高齢者とはどのような存在かを手話で伝えるのはどうしたら? と手を動かしてみた」という。「人生の終わりに近い人たちのこと、そう表現するしかなかった」更に、もう1首。 「後期高齢者」言わしておけば言うものぞ憤然として春の雪かく 小林勝幸76歳の小林さん。4月初旬、被保険証が届いた。小林さん住む長野・伊那谷の春はまだ浅い。怒り心頭に発して残雪を掻いたという。』 (朝日新聞4月24日の記事より抜粋) この3首の歌には、戦中戦後を必死に生きてきた人々が、「後期高齢者」と区切られ、生きる尊厳を踏みにじったものたちに対する深い悲しみ、憤りが満ちている。老いゆく者たちの深い傷心がある。このような政治を許して、子や孫たちの生きる未来に希望があるか? 自民党・公明党は、「次の世代に迷惑をかけない医療制度」とか言っているが、財源などというものは、今の枠組みを根底から変革すれば、どうにでもなるもの。根底の変革をしないで、あれこれ目先の制度をいじくりまわしても、何も生まれない。益々、弱いものに、しわ寄せがいくだけ。お金など、あるところにはいくらでもある。それをどう使うか、大きな視点から策を練るのが政治だ。 この後期高齢者医療制度の発端は、世間が『世直しの救世主』のごとく、持ち上げた「小泉政権」にあり、その崩れ行く政権に絶えず、歯止めの役をしてきた公明党が決めたものであることをもっと国民は知るべきだ。官僚を頂点にした政治制度の「構造改革」も本質的なところでなにも変わっていない。その制度維持に強力な後ろ盾になっている政党のひとつが公明党ということも益々はっきりしてきた。 公明党の口ぐせ、「社会が混乱する。責任ある党のすることではない」 公明党が与党の政権下の日本は、もうすでに十分混乱している。 変革のための混乱は当然のこと。混乱が何が悪い。 混乱や闇を恐れてはいけない。 社会が大きく変わるためには、混乱が必要なのだ。人が人らしく暮らせる社会とは何か。その実現のためには、時間がかかり、混乱や闇を潜り抜けないでは実現できない。今のままを許せば、若者達の未来はますます暗く、困難な生きづらい社会になるだけだ。 後期高齢者医療制度については、3/15 「仕組み」について 4/9 「アメリカの高齢者医療制度と日本」について 書いています。興味のある方は、どうぞご一読を。
2008.04.24
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姥捨ての国、ニッポン 「後期高齢者医療制度」が4月から実施されようとしている。 「後期高齢者医療制度」とは何か・この仕組みが目指しているものは何か。 「後期高齢者医療制度」とは、2006年6月「医療構造改革」の名で、小泉内閣と自民、公明が強行実施した制度である。この制度によれば75歳以上の人は機械的に「後期」高齢者と区分され、現在の医療保険から追い出して、高齢者だけの別枠の医療制度を確立するものである。そして、高齢者たちに「負担増と治療制限」を強制する。 この制度のしくみの主なる点は次のようである。まづ第一は、 保険料を年金から天引きする。 年金が年18万円(月1万5千円)以上の人からは、強制的に保険料を天引きして徴収する。すでに介護保険料は天引きされている。月1万5千円の年金しかない人が、医療保険と介護保険料の両方を支払うと、大阪府の場合、合計が4千4百円となり、年金の3割にもなる。合計が5割になる人は、介護保険料だけ徴収され、医療保険料は免除されるという。いずれにしても、年金の5割までは、自分で支払えということである。 まともに暮らせる年金も支払われていないのに、更に、そこから強制的に天引きするとは。あんまりだ。もっとも天引きしなと、誰も支払わない恐れがあるので、弱いものから手っ取り早く、天引きしようとしているのだろうけれど。 さらに、保険料を払えない75歳以上高齢者から保険証を取り上げるしくみが導入された。(現在は75歳以上の高齢者は保険証の取り上げが禁止されている。)保険料を1年以上滞納すると「悪質滞納者」とみなされ、保険証が取り上げられ、代わりに「資格証明者」が発行される。その場合は、病院の窓口で医療費の全額(10割)支払うことになる。(全額払える人なら保険料滞納していない。) しかも、保険料は2年ごとに改定される。その時、高齢者の医療費が増えたり、75歳以上の人口が増加したりすると、自動的に保険料が上がる仕組みになっている。患者数の増加や医療技術の進歩などで医療費が増えると、それが75歳以上の保険料に跳ね返ってくるという仕組みである。しかも、新制度は「後期高齢者が払う保険料10%」「健保・国保なだ他の医療保険からの支援金40%」「国・自治体負担約50%」という財源割合でスタートする。しかし、後期高齢者の負担割合を12%、15%、…というように引き上げていくことが決められている。では、75歳以上が受けられる医療はどうなるか。 75歳以上の診療報酬をそれ以外の世代と別立てにした。 後期高齢者診療料は、検査、画像診断、処置、医学管理全てを含んで「月1回6千円」の定額制を導入。複数の病気を抱える75歳以上の患者を担当する医師を一人に限る方向に誘導し、複数の医療機関を受診しないようにすることをめざしている。要するに、診療においても、75歳以上の老人は、受診をひかえろ。高度な医療は受ける必要がない、と言っている。 厚生労働省は「後期高齢者医療のあり方に関する特別部会」で「診療報酬体系の骨子」を07年10月にまとめた。その中で、後期高齢者の特性を次のように規定している。1) 老化に伴う生理的機能の低下により、治療の長期化、複数疾患への罹患、特に慢性疾患が見られる。2) 多くの高齢者に、症状の軽重は別として、認知症の問題が見られる。3) 新制度の被保険者である後期高齢者は、この制度のなかで、いづれ避けることのできない死を迎えることになる。 このように高齢者の特性を規定し、もう死ぬ時期なのだから、お前達には、お金も手間もかける事は出来ないので、患っている者は、早く死んでくれといっているといっていい。これこそが、今回の新制度のめざすものである。何とひどい国家だろう。何とひどい経済システムであろう。人生の果にこんな仕打ちを受けるとは。75歳からは、「生きるな」と言っていると変わらない。 そして、彼らの口癖、「財源がない、財政の危機だ」と言い、国民を脅すのが彼らの手口である。財源など、今のままの政治・経済システムでは、どうやっても出てくるわけがない。根底のところの社会のあり方、暮らし方そのものの変革なしに、財源などでてくるわけがない。その根底を変えることなしにありえないのに、その社会変革は、出来ないと国民に思い込ませ、洗脳し、脅し続けている。 この新制度は4月から実施されるのであるが、余りのひどさに憤っている国民の世論に押されて、政府・与党は、保険料徴収の一部先送りする「凍結」策を打ち出した。公明党は「負担増凍結」「公明の主張を大きく反映」とポスターで大々的に宣伝して自慢している。 「凍結」といっても。75歳以上の対象者約1300万人のうち、子どもなどの扶養者だった約200万人だけ。国民保険に入っている大部分の人は4月から強制徴収をされることには変わりない。 しかも、この新制度は、2006年、自民・公明の与党が国会で強行した医療改革法によって決められたもの。自分で決めておいて、「凍結」させたと、あたかも自分の手柄であるかのように国民に宣伝をしている公明党、「自作自演」とはまさにこのこと。あたかも国民の利益の守り手は公明党といわんばかりに演じて見せている政党・公明党。 際限なく消費をし続けなければ、好景気が維持できないような経済システムが続く限り、財源など捻出できない。どこかで破綻するのは自明のこと。そのような経済システムの追従者であるかぎり、財政再建などない。 若者と老人が、人間らしく生きていくことを許さない国。 それが、今の日本である。 この理不尽に老人パワーを炸裂させるとき。 老人を甘くみるな。 財政危機をあおって、「お前らが無駄をしている、おまえらが無駄を省くよう我慢しろ」と、威勢よくまくし立てる政治家たち。そして、この政治家たちこそが、その背後にいる「巨悪」には沈黙し、そのおこぼれで権力を振りかざして威張っている。 長い人生の果に、病と闘い懸命に生きる老人達も多い。 いのちの尊さを若者達に身を持って示している老人や病人は多々いる。 それを許さない国、日本。そんな国に未来があるか。 財政の帳尻が合えばいいなど、わめき、どなり息巻く政治家たち。財源など、今の政治の仕組みを変えてしまえば、どうにでもなること。ただ、みなその変革を恐れているか、出来ないこととあきらめているだけだ。過去の人間の歴史を見れば、変革し、改革して、権力の交代を絶えずしながら、継続させてきたのだ。質的に転換する時は、混乱や闇はつきもの。粘り強くその闇を突き破る、庶民の自覚や力が必要なときが今ではないだろうか。 「アメリカににおける高齢者医療」の現実について書いた記事も併せて一読を。
2008.03.14
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老いるからだ参議院選挙の日、私の目の前に「急に」小さな虫が現れた手で振り払っても、振り払ってもブヨのような小さな虫が浮遊するこれ、一大事。わが大切な眼、いのちの次に大切な眼新聞の文字だって小さな小さな英々辞典の文字だってびっしりと書き込まれたフランス語の百科辞典の文字だって老眼鏡の助け無しでスイスイと読めていた自慢の健康な眼に異変が起きている。この1ヵ月間、参議院選挙に急かされて、若者に伝えておきたい事、書き留めねばと、5千字前後の記事を10本も書き続けた。期末試験と夏休みで子供たちと勉強しすぎて眼を酷使し過ぎたのかな。驚いて眼科を受診する日曜日で、休診ばかりのなかをかき分けてとある眼科を探し当て。その医院の院長先生私より更に年配らしき女医さん、働き続けてきた女同士の親しみを感じて少し気が楽になる院長先生は、静かな、もの慣れた口調で「これは、加齢とともに起きる生理的な現象、心配はいりませんよ。」と言い、眼球の模型を使って説明して下さった。病名は「飛蚊症」。そして、メガネで矯正した視力がこの年齢で、1.2とはとても素晴らしいとお褒めいただいた。だが、だが更に眼底をあれこれ検査するうちに、「あれ、こんなところに。。。」ぶつぶつ言いながら上、下、斜め右、斜め左、・・・などと眼球をくるくる動かすよう指示されて検査は続いた。そして、「網膜に何かできています。このモノの正体が何か、もう少し角度を変えて調べてみたいので明日の午前、今川ドクターの診察を受けてください。このドクターは、この専門ですので」と宣告されたのである。えっ、どうして、私は、こころ深いところで、かなりショックを受けている。今まで、時々受けていた目の検査では、いつも良好であったのに。翌日、今川ドクター。中年の働きざかり、育児真っ最中らしき女医さん。両眼の瞳孔を開いたままにする処置をしてからまたまた、眼球をあれこれ検査分かった事。眼底にある異物は母斑症のようなもので現段階では悪性のものでないようなので今後、経過観察してチェックしていくことになった。この斑点は、「飛蚊症」とは関係なく、たまたま今回の検査で見つかたものとのこと。「飛蚊症」は、純粋に加齢による生理現象であり、網膜はく離や網膜裂孔などの病気からきたものでないと説明されほっとする。やれやれ。しかし、私の体の器官は、確実に老化しつつあると改めて思い知らされた。老化に見合った生活を積極的に闘って作り変えて行くことの必要を改めて痛感した。しなやかに老いをどう生きていけるか難しい重い課題が私の目の前にまたひとつ現れた。目が見えなくなってもしなやかに生きることが出来るか。わがこころにこっそり問うてみる。《飛蚊症》とは眼の前を浮遊する「物体」の正体は。眼球の大部分を占める、硝子体(ショウシタイ)と呼ばれるゼリー状の透明な物質が何らかの原因で《濁り》が生じ、その濁りの影が網膜に映り、虫や糸くずのような「浮遊物」が飛んでいるようにみえるのだという。「浮遊物」どうしてできる。母体内で胎児の眼球が作られる途中で、硝子体に血管が通っていたのが、眼球の完成とともに、この血管はなくなるのが普通であるが、産まれた後も、この血管の名残りが硝子体に残存したような場合、これが加齢とともに「濁り」となって、網膜に映るのだという。このような「飛蚊症」は健康な目の生理的現象であり、症状が進まない限り、余り気にしなくてもよいとのこと。その「濁り」が視野から消えれば、眼前の《浮遊物》は見えなくなったりするが、無くなったものではないので、又現れるを繰り返す。
2007.07.31
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