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選挙中の私のブログは、今のアメリカに批判的な事ばかりを記事にしてきたが、私はアメリカの光の部分もとても評価している。私の息子がアメリカとの出会いで、青年期前半に自らを鍛え、自立への学びとすることが出来たのもアメリカであり、アメリカの懐の深さに親として感謝している。日本の大学では絶対にできない、青春の葛藤を大きな、広い心で見守って、励まし、成長させてくれたのはアメリカであった。広い視野で人生を、世界を見ることを可能にしてくれたアメリカがある。その息子もこの7月から社会人となり、日本の企業で見習い期間をしており、素晴らしい人々の出会いを体験して、さらなる研鑽をしている。更に大きな、広い世界をみるチャンスを与えられ、日々学び鍛えられている。このような基盤を作ってくれたのもアメリカである。その息子、3ヶ月の見習い期間をまもなく終えようとしている。以下は其の息子が自分のブログに書いた記事の一部である。息子がどのように社会人として、感じ成長しようとしているかを記録しておきたい。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー2005.08.21 Sunday 12:46「ゆとり」ってなんだ?気がつくと、もう1週間もブログを更新していない。忙しい日々が理由の一つかもしれないが、それ以上に誰かに伝えたいような言葉が湧き上がってこない。世の出来事に無関心になった訳でも、思考を止めているわけでも訳でもないが、気が付くと仕事のことばかりが頭の中を占拠している。アメリカ在学中も今と同じくらい忙しかったが、いつも何かに感動したり、悩んだり、心のアンテナに素直でいられたように思う。アメリカ人は矢もすると自己の幸福のみを極端に追求する、マイペースなハッピー馬鹿集団だと批判されがちだ。しかし、彼らは『個』として人生の楽しみ方を最も分かっている国民なのかもしれない。一方で、社会の規律を重んじ、恥の文化によって秩序を保っている日本において、マイペースという言葉は、ネガティブな意味で用いられることが多い。皆と同じ振る舞い、同じ歩調で歩けないものは徹底的に排除されてしまう。『社会人として~』とか『社会の一員として~』などに体言されるように、社会と調和しながら粛々と自分の人生を全うすることがこの国では美徳として根付いている。『ゆとり教育』なんて言葉が一斉を風靡した時代があったが、あの『ゆとり』が指していた意味は一体何だったのだろう?戦後豊かになった日本社会が個を尊重し、それぞれの人生を社会が受けいれて行くことではなかったのか?結局その答えを出せぬまま改革は頓挫してしまったが、僕らR25世代*1は、見せ掛けだけを輸入してきたきたアメリカの個人主義が引き起こした、文化摩擦、世代間の思想、価値観の隔たり中で自己矛盾を抱えて生きている。学校に行けずに苦しかった高校時代、なぜあんなに憂鬱だったのか渡米後に、その理由が少し分かった。仕事は楽しい。渡米前より東京の生活にも慣れてきた。それでも、疲労顔のサラリーマンと通勤電車に揺られているとふと思う。『ゆとり』ってなんだろう?世界第2位の経済大国にすら手にいれられない『ゆとり』ってなんだろう?*1 R25…リクルート発刊の25歳の男性をターゲットにしたフリーペーパー(無料雑誌)。この世代の文化(ファミコン<くそゲー特集など>、ビックリマンシールから最近の流行まで)特定世代を象徴する情報を前面に押し出し一大ブームとなった。(関東圏のみで配布)ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー日本では、今も子供たちが悩み、苦しみ、頓挫している。閉塞した日本で私たち親子も苦しみ、悩んで、ここまで来た。このように成長させてくれたアメリカって何だろう。何故日本の学校は、このような息子に学ぶ機会を与えてくれなかったのだろう。私も教育に関る一人として、この問いは重い。
2005.09.17
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写真:談山神社の秋の蹴鞠祭笑えない笑い話。 このHPに時々登場して頂く、まほろばさん、古代飛鳥文化の地・奈良県明日香村でボランティア観光ガイドをしておられます。其のガイドのある日の出来事。女子高校生のグループを案内したある日の会話。ガイド:「万葉集は4500もの和歌を集めたわが国最古の歌集で、花をテーマにした歌が2000首、花の種類は170種にも及びます・・・ この天井のガラス細工は、その中の代表的な花であり・・・ 最初が梅、その次のが桜、それからこの黄色の小さな花はなんでしょう?」女生徒達:「キュウリ!」ガイド:「ブー! 山吹です」(確かにキュウリの花にも似ている??)女生徒達:「そんな花、見たことな~い」(この子たち山吹の花を見たことないんだ!)ガイド:「次のこの大きな傘みたいな花は分かる?」女生徒達:「ユリ!」ガイド:「ブー! 朝顔です!でも、万葉の時代には《かおばな》と呼んでいました」それから、壁の絵を指して、ガイド:「この”朝顔”の和歌に描かれている紫色の花、みなさん何か分かりますか?」女生徒達:「わかんな~い!」ガイド:「これは”桔梗”という花で・・・」というようなチグハグ問答で、古代の花の名称と現代の呼び名の違いの面白さを説明するこちらの意図が不発・・・(今の子供たちには、その言葉遊びはちょっとガイドする目標が高すぎますよ)それでは、ならじと気を取り直して、ガイド:「そこで質問です!万葉集の中で、にいちばん沢山歌われているのに、このガラス細工や、壁の絵には描かれていない花があるのですが、それは何でしょうか?」女生徒たちは口々に、「バラ!」「コスモス!」 「分かった!チーリップ!」 などなど。益々迷路にはまり込んだ新米ガイドは、力なく「萩の花で~す!」 女生徒達:「エッ? ソレって、どんな花?」ガイド:「・・・・・・・」(エッ、萩の花など知らないんだ、今の女学生は)かくしてボランティアの爺さまガイドと女子高生は花問答をおかしくも繰り返すばかりでありました。 (高松塚公園和歌銅版) 高松塚守れる美女ら出てきませ 若葉さやける 水無月の野に ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー今の子供たちは本当に植物に無関心ですね。無知です。身の回りの草花にまるで興味、関心がないのです。《山吹》を《きゅうり》と答えた女学生など、まだあっぱれな方。《きゅうり》の花を知っているとはすごい、すごい。偉い、偉い。しかも黄色どうしで山吹の花と共通の色で結びついている。子供たちは細やかな日本の四季の移ろいを歌に詠んだ古代の人々の心とは、遥か遠いところで生きている。生まれたときから自らの足で大地を踏んで、歩くことが滅多にない現代っ子たちは、生きる為の体力を育てていないだけではなく、生きていく為の豊かな感性の素となる知識まで喪失したまま、大人になっていく。車社会は、身体だけでなく、日本人の心まで深いところで蝕んでいる。「お金儲け」や「ブランド品」や「デズニーランド」には滅法強い。しかし、頭のなかは空っぽ「考える」ことなど生まれて一度もないという女子学生が日本の社会に蔓延している。ごく普通の、勉強もまあまあの女子学生たちのこれは姿なのである。今朝の散歩道、朝露にぬれた「萩の花」が朝の陽光にきらめいていました。可憐な花が、秋のむしの合唱のなかでやわらかな風に揺れていました。後3時間もすれば、中学生たちが学校へと三々五々とおしゃべりしながら通る道、でも「萩の花」は見向かれもせず、今と変わらず、きっと秋の風におだやに揺れている事でしょう。
2005.09.13
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日本の社会の到達点。衆議院選挙の選挙結果は小泉自民党の「改革」絶叫が日本を制圧した。とりわけ都市の浮動層が小泉の「改革」に期待している。閉塞的な社会、破滅に向かう社会は、いつも強力な「ファショ」的指導者になびいて行く。「考える」ことを拒否する「おまかせ」の市民がそこにはいる。過去の歴史もそうだった。第二次世界大戦前夜にヒットラーやムッソリーニの出現した欧州は「強大な力」の絶叫に大多数は流れ込み、日常の悲惨に巻き込まれていった。閉塞した社会の手口は、いつも繰り返される。この歴史から人間は学ぶ知性を磨かなければならない。アメリカもそうだ。アメリカの閉塞性はネオ・コンという超保守、最右翼。閉鎖的なナショナリズムがそのイデオロギー的支柱となっている。日本もその道を歩もうとしている。「能力のない者」の切捨てである。お金儲けで、国民が老いも若きもいっせいに「血眼」になる社会である。「負け組」の人々がその耳障りのよい「改革」の「絶叫」に旗振り、「おこぼれの」幻想に酔いしれる社会である。しかし、古い日本の半封建的な農村に代表される老人たちの土壌が音もなく崩れつつある。このことをはっきりと今回の選挙は示した。では、都市の浮遊する民はこれからどうするか。小泉自民党が何をし、どう自分たちの生活に変化を及ぼすか。得々と体験するがいい。若者の未来に希望があるか、希望を語れる社会が展望できるか、日々の生活の体験を通して知るがいい。それが一番の勉強だ。社会は確実に「個」の確立に向かって、動いている。これを、真に「人間としての尊厳」に裏打ちされた「個」の確立に向けて、創造的に変革していく為には、教育や子育てや社会制度そのものの粘り強い改革のための時間がいる。明治の近代化がやっとここまできたのである。まだ道半ばであり、更なる道のりは、かなり遠いのである。蛇足ではあるが、小泉は「人気取り」のための最後の仕上げとして「女性だけの内閣」を組閣したらどうか。きっと世界中の注目を浴びますよ。髪振り乱して「改革だ。改革だ」自らに酔っている小泉さん。もう一肌脱いで、人気取りの「オール女性内閣」という一幕はどうですか。「佐藤ゆかり」は次期総理ではどうでしょう。日本の女性史の1ページを飾ること請け合いですよ。
2005.09.12
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選挙権を持てることのありがたさ。選挙権は天から降って湧いたものではない。選挙権は、先人たちの命をかけた戦いや血のにじむ思いの活動の中で獲得された歴史を持っている。それは人間らしい生活、生き方を求めての熾烈な戦いのなかで確立された権利であり、ただ受動的に与えられたものではない。《選挙権の歴史》(1)総選挙の年(2)有権者数(3)全人口に対する有権者の比率(4)有権者の資格(1)、(2)、(3)、(4)の順に以下記載。1890年(明23) 45万人 1.1% 直接国税15円以上の納税者で25歳以上 の男子1902年(明35) 98万人 2.2% 直接国税10円以上の納税者で25歳以上 の男子1920年(大正9) 307万人 5.5% 直接国税3円以上の納税する25歳以上 の男子1928年(昭3) 1241万人 19.8% 25歳以上のすべての男子(普通選挙 制度の成立)1946年(昭21)3688万人 48.7% 20歳以上のすべての男女明治、大正の時代は、女はもちろんのこと大部分の男たちも選挙権はなかった。日清、日露の戦争も、第二次世界大戦中でさえ、国民が戦争について意思を表明する権利はなかったのだ。ただ、赤紙が来たら、黙って戦場にいって、人殺しの列に加わるのみ。お上から与えられた1票は、与えられた1票ではない。先人たちが勝ち取ってきたものなのだ。深く考え、未来を思う1票は、先人たちの苦労を命を未来につなげる1票だ。おろそかにしてはいけない。人間の尊厳をきっぱりと示す時代を築いてくれた先人たちの思いを受け継ぎ、はっきりと意思表示の1票を投じよう。私はこの10日間、老いる肉体に鞭うち、私の思いを記事にしてきた。どうぞ、この婆さんの思いを、主張を一読され、参考にされて、投票所に足を運ばれんことを。(以下の選挙関連13個の記事のご一読を)特に若い人々が、自らの頭で考え、自らの意思をきっぱり示す投票をすることを期待したい。棄権などしてはいけない。棄権することは、自由で民主的な社会に自らで墓穴を掘っているようなものだ。
2005.09.10
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小さな政府とは何か。小泉首相のキャッチフレーズの一つに、財源がないと国民を脅しつつ「民営化は小さな政府を作るために断行すべきこと。改革の手を緩めるな」というのがある。小泉のいう民営化の行き着く先はどこか?私の早朝散歩コースの途上に、この秋に吸収合併されて、世界でもトップの規模となる予定の巨大銀行の陸上競技グランドがある。このグランドは半年前までは全国レベルで活躍しているマラソンランナーの練習上であり、宿泊施設であった。グランドはよく整備され、周囲はさくらの巨木の並木道にもなっており、さくらの咲く季節は見事なものであった。さらに巨木の楠や松などよく手入れされ、この地域の森林ゾーンを形成していた。しかし、不良債権処理とかでこのグランドはこの4月で閉鎖され、それまで管理をしていた庭園業者はお払い箱となり、荒れるにまかされていた。この夏には、あっという間に芝には雑草が背高く生い茂り、松の巨木も枯れ始め、さくら並木のさくらの葉っぱは暑さのためか茶色に枯れている。これだけでも私には胸痛むことであった。あんなによく手入れされていた樹木が、無残な姿になっていくことの早いこと早いこと。しかし、更に追い討ちをかける衝撃的なことが起きたのである。このグランドは近々取り壊され、120個の建売住宅が建てられるというのである。この田舎の町では、こんな立派な設備の整った陸上競技上は、ここにしかないのである。市営の競技場の何十倍もの高価な諸施設を備えたグランドなのである。付近には県立の高校もあり、小学校、中学校もあり、この若い子供たちがこのような立派なところで練習をしたり、大会に使ったらどんなに子どもにも好い影響をあたえるだろう。市もこのグランドの競売の入札に参加したが、金に物言わせた某不動産が落札した。市が公共の施設として、市民に開放して使うことが最も長期的に見てよい。地域の環境破壊を防ぐという点でも。若者たちに一流の施設で練習を体験させるという点でも、行政の力で管理していくことが理にかなっている。何でも民間に任せれば好いというものではない。官が必用なところには、手厚い人員、優れた人材がいるし、お金がいる。そのお金を工面するのが政治の力ではないか。そのために我々は税金を払っているのだ。自民党が長年築いてきた、わいろと汚職、縁故就職(能力ないのに)の職員の水ぶくれなど、自ら築いてきた悪の部分には全くメスを入れないで、《改革》だ《民》だと国民に幻想を振りまく自民党。もっとも改革しなければならないのは、自分たちの構造そのものなのに。「小さな政府」などという言葉に翻弄されてはいけない。やりたい放題やってきて、行き詰るたら「お前たちにも責任がある、痛みに耐えろ、財政難だ、我慢しろ」とは、チョット虫が良すぎませんか。お金を工面するのは君たち政治家だ。無駄遣いしているのは、自民党の官民癒着の長年の政治構造そのものなのだ。それに対しては何もメスを入れていない。温存されたままだ。おそらく120個の住宅となれば、50坪前後に土地を細分化して、恐ろしく薄い合板で積み木細工のごとく、1日で出来上がる安普請の虚栄の塊の住居が立ち並ぶはずだ。しかも敷地の空きの大部分は、車庫となりセメントで塗り固められる。人口は減少に転じ、このような劣悪な住宅は過剰気味というのに、どこまで環境を破壊する儲けをしたいのだろうか。この再開発で、多少は建築関連の働き口は広がり、景気のにぎわいになるというのか。この景気の賑わいは、日本が高度経済のなかで突っ走って金儲けしてきた構造そのものだ。「改革」と叫んでいるが、なにも構造など「改革」されておらず、旧態のままだ。これが小泉の「民の活性化」の行き着いた先の姿だ。「改革」と叫べど、経済構造は以前のままなのだ。「金儲け」だけでは、人間らしい暮らしよい社会はできない。子どもが豊かに育つ社会は出来ない。「金儲けにならない」ところに、税金を使って市民の暮らしを守り発展させるのが、政治の役割であり、税金の使い道ではないか。「民」と同じ論理で儲けに走れば「改革」ができるわけではない。郵政民営化論者たちの「小さな政府」とは、金儲けにならぬもの、金儲けにとって非効率なものはすべて剥ぎ取れということだ。小泉の掲げる郵政民営化とは、旧来の構造はそのままで、金儲けのためにさらに効率のよい構造に政府を改革しようという「改革」なのである。勝ち組と負け組みの構図を益々鮮明にする改革なのである。
2005.09.09
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ハリケーン「カトリーナ」災害が意味するもの何か。台風一過、今日の日本は天高いさわやかな秋晴れとなった。台風14号が日本の各地に記録的な豪雨をもたらし、日本各地に大きな被害をもたらした。1週間前には、アメリカ南部の都市ニューオーリンズはハリケーン・カトリーナに襲われ、あの母なるミシシッピ川が暴れ狂い氾濫した。都市全体が水没、未曾有の災害となった。これらの災害は、人間の驕りに対する自然のしっぺい返しである。人間の存在が、自然の大きな営み、大循環のひとつであることを忘れて、お金にまみれて生きる人間たちへの見せしめである。とりわけ世界一の金持ちを自称するアメリカで、引き起こされた今回のハリケーンによる災害は、ほとんど人災といっていい。予算難を理由に水害に対しては、被害想定されながらも対策は手付かずのままであった。社会の最下層の貧困層などは、かまっておれないのだ。避難命令が出ても、非難する車や資金をもたないという貧しさ。町は暴力と略奪の無法地帯と化した。更に恐ろしいことに、災害が発生してから2日間は組織だった救援もされないままだ。アメリカは危機管理に巨額の資金をつぎ込み、世界にその機能の優秀性を誇示している国ではなかったのか。そのアメリカが、このような甚大な災害が起きても、軍隊や警察が、速やかに国民の生命や安全を守らない国、それがアメリカであるということをこれは世界に暴露した。これがアメリカ軍の本質だ。アメリカ軍の最前線で、敵と対峙しているのは、これまたアメリカの貧困層の若者たちだ。大学に行きたくとも行けないような下層の貧しい階層の子女たちだ。戦争を指揮し、其の背後でぼろ儲けしている支配層は、優雅に夏の休暇と洒落込んで、その息子、娘たちは誰一人として戦場などに出て行ってはいない。これが今のアメリカだ。そして、それを認め許しているアメリカがある。「自分には関係ないよ」と連帯を拒否する富裕なアメリカの中産階級のインテリゲンチャ層がいる。居住区まで貧民層とは区別して、彼らは生活している。彼らの子弟もイラクには誰もいってはいない。《思考停止》状態の貧民層がいる。彼らにとっては「アメリカンドリーム」は見果てぬ夢である。せめて「軍隊」で高い収入を稼ぎ出すことが彼らに残された道なのだ。そして、其の軍隊は、かれら貧しき者を守るものではない。貧しきものを見放し、逆に銃を向けられるのは彼らの略奪に対してだ。これがアメリカ軍の本質だ。実態だ。このアメリカの市場原理で経済を繁栄させよう。改革の手をゆるめるなと絶叫しているのが、小泉「郵政民営化」論者たちだ。このアメリカの市場原理が行きつく先がこれだ。こんな論者の候補者たちに日本の未来を託していいか。アメリカのニューオーリンズのあの実態は、日本の近い将来図なのだ。浮遊するフリーターや無業の若者たち、この若者たちがどんどん歳をとり老いて行ったら、日本にも年収200万前後の貧困層がかなりの割合になるはずだ。そして、その階層の働き口は軍隊である。支配層はそのような階層が出来上がるのを望んでいるのだ。今のままでは、若者たちは軍隊に就職はしないし、軟弱過ぎて使い物にならない。貧困という鞭で若者を鍛えなくては軍隊で使い物にならないのである。そして、その向こうに待っている物は何か。憲法9条の撤廃である。日本の国民ではなく、イラクの支配層を支援する軍隊を作るという将来図が待っている。「自分の娘や息子を軍隊に入れない」から関係ないといえるか。戦争をやる軍隊など何も人間に益をもたらさない。ごく普通の市民が平和で穏やかに暮らせる社会、そんな社会を守る自衛組織なら必要であるが。少なくとも現在のアメリカの軍は国民の命や財産を守るものではない。日本の自衛隊は深くアメリカ軍の指揮系統に組み込まれている。郵政民営化の果てにある物は何か。目を凝らさなければいけない。
2005.09.08
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小泉首相のキャッチフレーズの一つに「自民党をぶっ壊しても郵政民営化を断行する」というのがある。これは都市の浮遊する無党派層に受けている。今までの自民党の強力な支持基盤は地縁、血縁を背景に強固に結ばれた半封建的な農村であった。(もちろん巨大な企業もであるが)しかしこの従来の自民党支持層は、高齢化による死亡と農業の壊滅的な破壊による農業人口の衰退、農村文化の死滅でこの社会から姿を消しつつある。私の実弟(自民党)は地方都市の議員をしており、私はこの30年余り地方選挙には常に狩り出され、弟の選挙運動を心ならずも支援する立場にある。私はその都市の住民ではないが、選挙の度に、私が生まれ育った町の人々と懐かしい対面をしてきた。前の地方選の時、とりわけ痛感したのは弟を支持する地盤の老いと崩壊が着実に進んでいるなということである。これは止めることの出来ない流れなのである。そしてその子供たちは、大都市の給与所得者であったり、今流のフリーターや無職となって、今までの農村文化の地縁とは無縁なところに生活基盤をおいている。結婚していない30代の息子、娘もとても多い。従来の農村の「家を継ぐ」という考えかたからは大きく逸脱した村の崩壊がそこにはある。今まで自民党は、この地縁で結ばれた地方の議員たちの網の目のように張り巡らされた日常活動の基盤の上に成り立っていた。この農村は政策とは無縁である。日常の生活のなかで結合している「結い」の結社のようなものである。選挙にでもなれば、村は有力者の派に分かれ、激しく争うこととなる。地方で投票率が90~80%にもなるのは、この国家の一番、下位層の住民のこのような熾烈な戦いがあるからである。しかし、この村は今はない。高度経済成長とともに壊滅した。自民党はこの浮遊する農村出身の若い世代に照準を合わせなければ存立も危うい。郵政民営化の金儲け話はこの若い世代には目新しく魅力的に見えている。現在、田舎に唯一残存している組織は何か。農協と「全国特定郵便局」で代表される基盤である。明治政府が郵便制度をスタートさせた1875年(明治8)以来、農村に延々と君臨している巨大で強力な組織なのである。なにしろこの組織のルーツは、戦国時代の「地侍」「地方豪族」に由来する地方の名主・庄屋の協力を得て、その屋敷の一角に郵便局を置いたのが始まりだという。130年余り延々と続き、ある時は「日本列島改造論」の高度成長期の資金の金庫となり、又今度はアメリカの一儲けに貢献しようとしている。(其の政策によって、農村だけが破壊され痛めつけられている。)この巨大な世界最大とも言うべき金融システム、生活互助会を自民党に有利に作り変えていくことは正に小泉首相の言う「命がけ」の戦いなのである。自民党の存立基盤に関る生命線なのである。今までの集票マシンは老いて死に絶えようとしている。もう今までの集票マシンには頼れないのである。この老いぼれ層は見捨てなければならないのである。そのために小泉は「命がけ」なのである。都市で浮遊する若い世代に希望を与える為には、儲け口があるという「幻想」をふりまかねばならないのである。我々庶民の豊かな生活、人間らしい生活とはそれは無縁な改革である。アメリカ流の金儲け第一、国民は其のおこぼれで満足しろと言う、これは政策転換である。日本の農村の衰退と退廃、精神的にも非常なダメージを受けて今、高齢者たちが寂しく片隅で暮らしているという事実が、この金もうけオンリーの路線の行き着いたところである。若者たちは都市で、する仕事もなく、仕事をする気力もなえて浮遊している。これが金儲け好きな政策の行き着いた先だ。其の路線を益々強固にし、推し進めようというのが今回の郵政民営化法案なのだ。このような現実を突きつけられても、尚アメリカ流の金儲け、「勝ち組」と「負け組み」に分かれて争う社会になることを望むのか。深く現実を観察し、この4年間の日本はどう変わってきたか見て一票を投じよう。しかし、私は、農村の集票マシンが破壊され、都市の労働組合の集票力が落ち、多量に浮遊する票が行き場を探しあぐねていることは、社会が、大きく「個」というものを構成単位とするものに変化しつつあることを示していてとてもいいことであると思う。民主主義はレベルの高い「個」の集まりでしか成り立たない。市民として自分の頭で考え、行動する柔軟な知力、知性を養う学力こそ21世紀を生きる子供たちが身につけなければいけない。「学び」の根拠がここにある。他人まかせ、お上まかせの親の世代の論理を打ち破る若者たちの台頭が、今こそ待たれている。そして、社会の奥深いところでは、もうすでにそういう若者が活動している。流れとなって社会の表面にはまだなっていないけれど。そういう社会の担い手になるべく、今日も若者たちが学び、働いている。この若者の列に一人でも多くの若者が加わることを望みたい。そういう学びをして欲しい。
2005.09.05
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刺客・落下傘候補、佐藤ゆかり女史の意味するものは何か。小泉首相は郵政民営化は改革の本丸、改革の突破口などと叫び、この法案に反対した候補者の選挙区に、刺客として其の地に縁もゆかりもない候補者を立て選挙戦を戦っている。其の中には女性候補が多く、選挙区で当選できなくとも比例ブロックで、必ず当選できるように手当てまでしての女性候補者たちである。なぜそこまでして、小泉は女性候補をたてるのか。自民党は、今まで働く女性に対して冷酷な仕打ちをしてきた。私たちの世代は、働きながら子育てする女は犬畜生にも劣ると攻撃されながら、子育てをしてきた。その自民党がここに来て、次々に女性候補を縁もゆかりもない田舎に、突然立てて選挙戦を戦っている。その女性候補の一人に、岐阜1区、野田聖子候補の刺客、対抗馬として立っているのが、佐藤ゆかりである。佐藤ゆかりとはそもそも何者であるか。もちろん岐阜県民はおそらく誰も知らない。もちろん私も知らない。(私は岐阜県民ではないが)佐藤ゆかり氏の経歴:83年上智大学外国学部からコロンビア大学政治学部に編入。88年にコロンビア大学大学院で修士号取得。98年ニューヨーク大学大学院で博士号取得。同年日本に帰国して日興シティ証券でエコノミストとしてスタート。02年JPモルガン証券に転職、04年にはクレディ・スイス・ファースト・ボストン証券の経済調査部長兼チーフ・エコノミストに就任。この佐藤ゆかり氏の経歴は何を意味するか。佐藤ゆかり氏自身、選挙区で「小泉首相の郵政民営化実現をお訴えするために、私は立候補しました。」と街頭演説で訴えている。この佐藤ゆかり氏の経歴は、郵政民営化の本質がどこにあるか最もよく表している。まさに国民の大切な資産350兆円を誰のために使うか。だれが最もそれを欲しがっているかを、この佐藤氏の職歴は見事に物語っている。膨大な350兆円の資産をくいものにするに際しての指南役としては、この佐藤なる人物は適任だ。おそらく郵政民営化実現の暁には、大臣になることが約束されているのだろう。国民の巨額な資産を、民のために有効に使えるようなシステムに作り変えていくことは重要だ。しかしこの怪しげな、渡り歩く自称・エコノミストに手渡しては、金儲けで食い物にされるだけだ。現在刺客として立候補している女性たちは、女性としての命を産み育てる輝きや、慈しみや、喜びから縁遠い野心家たちだ。そのためにはどんな変節もする。男社会の中でもみくちゃにされて、媚を売っている。社会の先頭で活躍する女たちが、男のたちのおぞましい権力欲や金銭欲に泥まみれの論理でしか自分を武装できずいると、女たちはマドンナなどと囃し立てられ、見世物にされ、自らの性を売り物にして生きていかざるを得ないことを、これらの現実は物語っていまいか。女たちが社会に進出し、ごく当たり前に仕事をし、子どもを育てる。そこにこそ人間らしい輝きや優しさのある家庭があり、社会がある。これらの刺客たちの女性が、ことさらに女だからと騒がれ、候補者として立候補させられているのは、社会の中での女性の地位がまだまだ日本は低いことの現れである。私たちの世代は、子育てしながら働く女たちを「犬畜生にも劣る」と攻撃されながら生きてきた。その30年前と今の自民党と本質は何も変わっていないのである。その女性蔑視の自民党が「マドンナ」作戦をせざるをえないとは。自民党もなりふり構っておれないのである。衆議院選挙には、女として人間らしく生きるにはどんな社会にすべきか、この「マドンナ」たちの生きざまをよくみて決めよう。この女たちの身につけている、「ブランド」に惑わされてはいけない。
2005.09.03
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老いる町と老いた若者の住む町アメリカなどは地方の都市でも、通りによって、そこに住む住人の階層が違い、ストリートによって住み分けている。低所得者層の住む通りは治安も悪く、不慣れな外国人などは危険で住みにくい地域となる。これは所得格差が大きく、貧富の差の大きいアメリカならではの現象であると思っていたが、日本も田舎の町において、このような現象が起きつつある。先週の日曜日の朝5時の出来事。私はひんやりとし始めた朝の空気を心地よく感じながら、愛犬(犬種はパピヨン、小型の室内犬)と散歩を始めようとしていた時だ。まだ家を出たばかりであったので、我がワンちゃんは、あちこちにクンクン臭いを嗅ぐのに忙しかった。私は、時々通る路地に向けてゆったりと歩いていた。この路地は小型車も通れないほど狭く、両サイドには平屋の昔のままの長屋がひしめき、現在はお年寄り(70~80歳代)が夫婦で、或いは一人で肩を寄せ合うように生活している。日常の生活がそのまま路地にあふれている。所々は主がいなくなり空家もある。そんな路地を私は、(この家のおじいちゃんやおばあちゃん今日は元気かな)と思いながら、お年よりに出会えば「おはようございます」とか「こんにちは」と声をかけるようにして、私はこの路地を通っている。ところがである、その朝は上下とも赤いトレーニングウエア着た、変な男がこちらをジッートみているではないか。そして、ワイングラス片手にこちらに近づいて来るではないか。おお恐い。なんだか変だぞ。空気がいつもの穏やかさがないぞ。殺気だっている。そうしたら、この男、まだ寝静まる早朝の静けさをつんざくように、響き渡る怒鳴り声で、「こんなところで犬の散歩させるな。おれはここに家を借りて住んでいる。おまえたちが犬を散歩させ、しょんべんやふんをしていくので俺は被害者だ。こういう事しているお前の子どもはろくなものに育っていないだろ。。。。」などなど罵詈雑言を浴びせられ(もう、何を言われたか思い出せない)、少しでも何か私が意見を言おうものなら、自分が攻撃されたと思い、さらにいきり立って、大声でわめく。私は、今にも殺傷事件に巻き込まれるのではと、ただただ恐ろしくなって退散した。(確かにマナーを守らない犬の散歩者は多く。私も頭にきているが。)そして、他の散歩仲間に聞けば、この男の恫喝に遭っている人は多数いたことが分かった。しかも、恫喝されているのはマナーをきちんと守り散歩させている、弱い者ばかり。本当にマナーを守らぬけしからぬ御仁には掠めてもいない。この男、年齢30歳半ば、神経質そうな青白いやせ男。生真面目なサラリーマン風。朝の五時から酒を飲み、近所迷惑おかまいなし、ただただ自分の事ばかり主張し、被害者であることをやたらに強調している。若い者が、この老いたる町で傍若無人にわめき散らしている。(この子どもを育てた親はどんな親だろうと私もふと思った)この男はきっと、職場では過剰に几帳面で、自分の上司にぺこぺこして、尻尾ふっているはずだ。自尊心をずたずたにされても尚、しっぽをふって権力にしがみ付こうとしているに違いない。世間の一般論にも、異常に自分が攻撃されていると思いこんで攻撃的になっている。精神が壊れる寸前だ。なぜ、毅然と自分を苦しめている本当の敵に立ち向かわないのだろう。早朝で、眠っている静かな老いた町、一番弱い者たちが寂しく暮らしている町で、傍若無人にふるまって気分が本当に晴れるのだろうか。その日は一日中、この男その路地に立って犬の散歩者を見張っていたという。働き盛りのはずの若者が、寝巻き姿で路地に立ち、住民を監視している。なんと恐ろしい光景ではないか。(頑固頭の半分棺おけに足をつこんでいる老いぼれ爺さんなら、まだご愛嬌だが、30うん歳の若者がである)戦争になったら、このような人間が住民の言動を監視する犬になる。今も、きっとこの男は、強い者の前では犬になっているはずだ。自分の上司が路上に犬の糞を投げ捨てたままにしておいたら、この男きっと見てみぬふりをするに違いない。犬の散歩仲間が一様に感じていることは、いつか殺傷事件が起きるのではないかという恐れである。そして、皆、犬のことを罵倒されたことよりも、自分の身近にこんな男が、住むことになったことにショックを受けている。日本が追い求めてきた豊かさのはてに、たどり着いたこれは風景である。この田舎の町にも、確実に豊かさの格差が忍び寄っている。アメリカのようにストリートによって住み分ける街が、日本の田舎の町にも出来ようとしている。寅さんの町は日本から消えようとしている。小泉自民党の推し進めようとしている路線は、今まで日本が走ってきた金儲けオンリーの路線をさらに強化しようという道である。(でも今までの方がまだ封建的なものであったが情はあった)益々弱いものには、自分の身の丈にあった暮らしを黙ってしておれ。自分の子供は自分の力ですべてやれ。老人も自分で自分の老後はすべてやれ。町がどうなろうが、金儲けがまず大切。350兆円をどう儲けに活用するかを考えることが先ず重要、そうすれば景気も良くなり、おこぼれが国民にもいくよ。というのが今の路線だ。どうして皆、こんな路線を支持しているのだろう。自分は貧しい心の生活しかしていないのに。お金なぞ、人間が作り管理しているもの。私たちが力を合わせればどうにでもなるもの。人間が人間らしく生きることを否定するお金などあっても仕方がない。私たちは衆議院選挙で私たちの老い行く町が、穏やかに静かにくらせるにはどの路線の政治をめざすべきかで投票しよう。弱きものに冷酷な今の政治に、、今の路線に「ノー」を突きつけよう。
2005.09.01
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理科と数学の教科書からみる今の学校は?子供たちと勉強していて、一番ひどいなと思うことは「理科」と「数学」の中学の教科書の新課程後の変化である。旧課程に比べ教科の内容を3割削減しているので、教科書が薄くなったのはいたし方がないとしても、それにしてもひどすぎる。当地域は「数学」1年、2年、3年(計三冊)は啓林館の教科書、 理科は「新しい科学」1分野上・下、 2分野上・下 (計4冊)は、 東京書籍の教科書である。特に理科のこの教科書は、B4版(教科書としては大きめ)で1分冊が100ページ余りで、内容は写真やイラストや絵がほとんどで、その合間を縫って説明文があるという構成である。以前には小学校低学年に使用されていた「りか」の教科書がこのようであった。いくら文字離れの現代っ子が、動画やイラストなどの絵を好むからといって、ちょっと子どもに迎合しすぎでなないか。相手は中学生なのである。この教科書で子どもの理解力が向上し、理科が好きになったというのならまあこの教科書も「良し」ということである。がしかし、この2年間の中学生は恐ろしいほど理科の出来が悪いのである。理科嫌いが倍増しているといっていいほどだ。(学ぶ内容を3割削減したら益々学力が落ちた)例えば「生物」分野に、植物の生活とからだのしくみ:動物の行動と体の働きなどの章があるが、子供たちは身の回りの植物がどのような仕組みで生きているか、全くといっていいほど理解していない。理解できないでいる。さらに人間のからだ、自分のからだであるのに、どのようなものから成り立ち、どんな働きをしているか恐ろしく無知なのである。(学習した後なのに)何よりも自分のからだの仕組みを知ろうという好奇心がないのである。そして教科書は、非常に基本的な事柄でも、教科書で調べようとしても調べようがないほど情報量も少ない上に、何よりも体系的に記述されていないため、知識として蓄積していくことが困難になっている。数学の教科書も、この教科書で数学を理解し、力をつけることは出来ない、と断言できる。何をどう教えたら子供たちは数学がわかるかという、観点からは編集されていない。ただばらばらな知識の羅列。例題の典型性も優れているとは思えない。何のための教科書なのだろうか。出版社の儲けのためなのか。教科書なんていい加減でいいのだろうか。しかし、教科書を神様のごとく奉り、信奉している親が結構いる。教科書通りやってくれと、教師に抗議する親さえいる。教師も教科書を教条的に信奉している。地方ではこのような教師がかなりいる。教科書のやり方しか認めないという、硬直した教師である。(最近はこういう教師は減る傾向にあるが)理数系の義務教育の教科書がこのように支離滅裂であるという事は、日本は科学技術立国を目指すことをやめたのだろうか。仮想世界でお金を売買して、あぶく銭を儲けて生きる人間が賞賛され、羨望される方向にこの国は転換したようである。庶民が科学的な知識を身につけることは無用になったのだ。株の取引の勉強を子どもはしなければならないのである。このようにひどい教科書を子供たちは使って教えられている。分からないのは当然なのだ。しかも、今の子供たちには、ひとりひとりに自主独立的な精神が育っておらず、とても手がかかり、丁寧にかかわらないと理解できないのである。そんな子供たちには、30人学級でさえ大所帯すぎる。このクラス規模では、ほとんど勉強は成立していない。このような子供たちが、しっかりした知性を身につけ成長していくことのできる社会。そのためにはお金がかかるのである。その子供たちのためには経費を惜しまない政府。私たちはそんな社会を目指すべきだ。今、郵政民営化を叫んでいる小泉自民党では、このような子供たちの豊かな成長を保障しないことは請け合いである。昨日のお昼のテレビで村上ファンドとかの若造が、得意げになめらかな弁舌で「340兆もの国民の資産を、国が管理しているような国は、世界にはどこにもない。民にお金を持ち込むことは、お金をどう使うか国民が選ぶことであり、たとえリスクがあるところに使われたとしても、それは国民が自分で判断して選び取ったことであり、自分で責任を持ってやるべき事」と言っていた。国民は何も知らない無知のほうが、笑いが止まらぬほど儲かる人たちがいるのである。国民が利口になっては困るのである。このまま進んでいけば子供たちの学力の格差は益々ひろまり、お上の教育を信頼して任せている庶民はひどい目に遭う。良い教育を受けるには膨大なお金がかかることになる。衆議院選挙が始まった、子供たちが健やか育つ社会を妨害しているものは何か、親は目を凝らし見つめることが必要だ。財源がない。このままだと国の財政は破綻すると国民を脅しているが財政はすでに破綻している。ゼロからやり直せばよいこと。予算を根本から組み替えればいいこと。それをやったからと言って庶民にはなにも害はない。混乱したっていいではないか。恐れることはない。これ以上悪くなりようはないのだから。
2005.08.30
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「絶対評価」は子供に何をもたらしているか?前の日記:「思春期のゆれを認めない社会」で「おとなしい子」が過剰に学校や社会に適応しようとして、思春期をしなやかに乗り越えていけないで、力尽き事件を起こすのではないかと書いた。学校に過剰に適応しようとしていることの一つに、学校の成績の評価がある。現在の学校の評価の仕方は、その教科への「関心」「意欲」があるかどうかという視点が大きなウエイトをしめている。しかも一応、絶対評価なのである。子供たちは「関心」「意欲」があるように見せかけようと、無理をして「挙手して発表している」やたらに授業中に手を挙げ発表したがっている。教科に対する興味や関心、勉強する意欲などなくとも、とりあえず授業に積極的に参加する必要があるのである。明るく元気に授業に参加しなければならないのである。そうしないと5段階評価の「2」などという点が通知表に並ぶからである。特に実技を重んじる「音楽」「美術」「体育」「技術家庭」などはひどい。評価基準が明らかにされないまま(子供たちは納得していない)、教師の恣意的方法で子供たちに点をつけている。しかも公立の高校では、この内申点というものが重視され、先ず内申点で序列化され、上から順に高校を選ぶ制度なのである。(地方の大部分の公立高校が優勢な県はどこも同じようなもの)このような高校選抜システムがある以上、教師は子どもの将来を左右するような権限を行使している場合もあること認識して、子供たちに点をつけているだろうか。そもそも「興味」「関心」「意欲」などというものは、教師の側がどれだけ子どもに深いところで、「興味」や「関心」を引き起こさせる授業を展開できているかで、大いに変わるものである。学習「意欲」などもっとそうだ。どんなに意欲のなそうに見える子どもでも、心の奥深いところには「学ぶ意欲」の泉がある。それを探り当て、子どもの心に流れの道筋をつけることが教育の本来の在りようだ。それに、わけの分からぬ授業で「意欲」「関心」が湧かなくとも、その子の将来には関係ないこと。人生のどこかで、すごい「興味」や「意欲」を湧くこともある。それを子どもに、おまえは「意欲」が無いからだめだ、などと烙印を押すとは余りにもひどすぎる。本末転倒もはなはだしい。子供たちが騒いだり、走り回って授業が成立しないのを、「意欲」「関心」という評価を振りかざして、子どもたちを縛りつけ、子どもたちに静かで、元気な明るい授業を強要している。《数年前は子供たちは授業に関心なく、騒がしく歩き回ったりして、授業を成立させることの出来ない教師たちもいた。(高校は今でもそんな授業も多いが)今、現在は不気味なほど静かで無表情(特に中3)。子どもたちがやたらに挙手している授業風景にしばしば出会うのである。》挙句の果て子供たちは恐ろしく「低学力」で、益々「学ぶ」ことに意欲をなくしている。まじめで、おとなしい子は懸命にその学校に適応している。そして、親も学校と全く同じものさしで子どもを見ている。おとなしい子、無口な子は「問題を起こさない子」として日常では「忘れ去られている」子である。でもその子のこころの中は「問題を起こしている子」、抗議の反抗を続ける厄介な子と同じ「怒り」や「悲しみ」の嵐の感情が吹き荒れている。大人は忘れている。自分の思春期の心の嵐を。親や教師や友だちに「依存」したくも、誰からも「こころの内を」知ってもらっていないので出来ないのである。親たちに訴えたい。学校と同じ価値基準でこどもを見るな。学校の評価など、実にいい加減なものだ。その評価にふりまわされてはいけない。子どもは、その自らの内に伸びようとする何かを必ずもっている。それを見つけ出す、手助けをするのが親の務めだ。それを育てるのが社会の大人たちの役割だ。どの子もが粘り強く生き抜く力があれば、人生のどこかで素晴らしい力を発揮する。
2005.08.27
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またまた17歳の高校生が殺人犯であった。またまた犯人は「おとなしい、めだたない、成績もまずまずの少年」であった。愛知県岡崎市で3年前、自転車で帰宅途中の女子大生が男に刺され死亡するという通り魔殺人事件があった。犯人は特定されないまま3年が経過していたが1昨日逮捕された。犯人は、当時17歳の高校生で、親子4人で暮らすごく普通のサラリーマンの家庭の子供である。しかも、犯行を犯した翌日も学校に登校していたし、現在も大学生として通学して、普通の市民生活をしていた。そして又、昨日、中学三年生が宮城県の田舎町で、交番の警官から拳銃を奪い警官を刺すという事件がおきた。またまた、目立たないおとなしい普通の少年だと世間は驚き、なげかわしい事だ、と騒いでいる。この数ヶ月間に、類似の中学、高校生による事件は、山口県の光高校3年生が教室内に爆弾を投げ込む(一人重傷)。東京、板橋区では高1の男子が両親を殺害して自宅をガス爆発させる。福岡市では中3生が兄を殺害。高知の明徳義塾高校国際キャンパスでは、3年生男子が授業中に同級生を切りつける(一人重傷)と、こんなにも次々に少年殺傷事件が起きているのである。そして、その度に「あんなに真面目でおとなしい、良い子」がどうして?当の学校の教師すら「なにも問題のない子がどうして?」と首をかしげている。「なにも問題のない子」がどうしてこんな悲惨な事件を冒すだろうか。自分の中に抱えきれない問題があるから起こすのである。内面の問題が爆発したのである。その子供たちの「内面の嵐や葛藤」を大人たちが知らなかっただけだ。教師や親が、子供の現状を深くとらえることが出来ないでいるだけの話なのだ。では、これだけ次々に類似の悲惨な事件を少年たちが起きている背景には何があるのか。。この事件を犯した子供たちの共通項は、「めだたない、おとなしい、まじめ」である。しかし、この子どもたちのもう一つの共通項は「過剰に学校や、大人社会に順応しようとしている。」のである。その過剰に順応していこうとする余り、しなやかに思春期を乗り切ることが出来ないでいるのだ。親たちは、教師たちはこの年代の子供たちが「思春期」という成長過程の真っ只中に生きていると考えて、子供たちを育てているだろうか。教育しているだろうか。では「思春期」とは何か。広辞苑では「二次性徴があらわれ、生殖可能となる時期、11~12歳から16~17歳ぐらいの時期」と主に身体的な特徴を定義している。身体的な著しい変化、成長とともに、精神的にも「新しい自分」をつくる時期、親から自立しようとあがいている時期、親や教師への依存を断ち切ろうとするけれども、自立のための精神的力はまだ育っていない時期。友だちに依存したり、ある時は親に甘えたりと誰かに依存しつつ自立への力をつけている時期ともいえる。無口でおとなしい子、友だちの少ない子の中には、そういう依存場所がもてない場合、怒りとかプライドを傷つけられたことが大きく影響して鬱積して爆発したりする。現代社会は、このような面倒で、効率の悪い思春期を認めようとしていないのではないか。認めたくないのだ。学校や社会が「数値目標」をかかげて突進していく時、このようなことは欝としい邪魔な時期として切り捨てているのではないか。子供たち一人ひとりの人格の成長のプロセスや悩み、後退のようにみえる行動のなかに潜む成長の成果などはすべて切り捨てられ、(これこそ思春期の特徴なのに)明るく元気に従順に親や教師の前で成果を出している時だけ、子供たちは評価され、ほめられている。無口でおとなしい子はとりわけ皆から忘れられてさえいる。ニートなどのなかにも思春期の葛藤を経ないで、青年期に到達し、社会に出る20代後半に思春期を始めているものもかなりいるのではないか。人間は発達のプロセスを省略しては、人として自立できないことをこのことは物語っている。子ども時代を、丁寧にひとつひとつ乗り越えていく子育て、教育のできる社会をめざすこと先ず必要だ。個人的には限界がある。そして、何よりも社会がそのような長い目で子育てや、教育への評価することのできるゆとりをもつことが必用だ。そのような社会を目指さなければ、益々子どもは持ちたくないつまらない者となる。
2005.08.24
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郵政民営化は本当に税金の節約になるか?小泉首相が郵政民営化を叫んでいる論拠の一つに、民営化により小さな政府をめざす。公務員の削減と税金の無駄づかいを減らす、とお経の題目のごとくとなえ、国民の意識を扇動している。本当に小泉提案の郵政民営化は、「小さな政府」を実現できるか?否である。郵政公社は郵政公社法第1条で「国営の公社」として「独立採算制の下」で業務を行うことを定めており、職員の給料などは事業収入から支出されている。戦後まもない時期のインフレ対策を以外に郵政事業に税金が投入されたことはない。竹中郵政民営化担当相も国会の答弁で、「直接投入されている税金、そういうものはないとと承知しております」(2月4日の衆議院予算委員会での答弁)と答えている。税金が投入されて、国家財政を圧迫している事実はないのである。さらに民営化すれば税収が増えて国の財政に貢献すると主張している。たとえば、「税金が減免されていることは隠れた国民負担」(自由民主、8月23日号)「民営化により新たな税収が年間5千億円」(公明党のHP)などなどである。郵政公社は現在でも、利益の50%を国庫に納付している。これは国と地方を合わせた法人税率よりも高いものである。政府の試算によれば郵政の民営化後の会社の納税額は2007年度から16年度の累計で、民営化会社は郵政公社より4300億円も少なくなるということである。公社のままのほうが郵政自体に残る利益も5209億円(10年間の累計)多いという。郵便貯金事業も、16年度には公社のままなら黒字が続き、民営化されれば600億円の赤字になるという政府の試算もある。赤字になれば法人税はゼロである。民営化は国の財政にも、郵便事業にもお金の面からはなんらプラスではない。このような事実をねじまげ、郵政が改革の本丸、これを認めないものは国賊のように宣伝し、扇動している小泉自民党。正しいのは自分だけである。げに恐ろしや。真実をねじまげ、自分の意見を認めないものはけしからんと自分の強大な権力で押しつぶす。まさに全体主義への匂いがする。戦争へのきな臭いにおいもする。テレビや新聞もいっせいに選挙の争点は民営化だとはしゃいでいる。日本中がはしゃいでいる。郵政が本丸では何もかわらない。少なくとも庶民の我々は。私たちの日常の重大事は、郵政の民営化などではない。340兆円にたかって、ひともうけしようという儲け話は私たち庶民には関係ないこと。最もおこぼれに遠い、働きづめの人生を生きてきた、人の良さそうなお婆ちゃんが、「難しいことはわからないけど、小泉さんでないと」などとインタビューで答えていた。社会のことなどメンドクサイと一度も考えたこともなく、親のすねをかじって気ままにその日ぐらしのギャルたちが小泉の街頭演説にキャーキャーと騒ぎたて、人垣を背伸びして、携帯電話で撮影している。その風景をニュースで流しているテレビ局がある。報道の使命は何か。これが今、日本の街や村で起きている風景である。その奥深いところで、この現実に「ノー」の声を上げている人々がいることを信じたい。
2005.08.22
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真の郵政改革とは何か。小泉首相は今回の解散を「郵政解散だ。民営化に賛成か、反対かを国民に問いたい」と宣伝している。「小泉(事実上は竹中)の提案している郵政民営化に賛成か、反対か」と言うべきところを「民営化に賛成か、反対か」と言葉を一般化することで国民を騙そうとしている。竹中経済相の掲げるアメリカ流の市場原理にまかせて、郵貯、簡保の350兆円の資産を運用して、経済を活性化させるというこれは法案であった。しかし、修正に修正を重ねたが、市場に350兆円を放り出すというところだけは死守している。他の部分では市場原理どころか、手厚く税金を投入して保護していくというところに妥協に妥協を重ねて、官民の癒着を温存していくという、従来の官の弊害はそのままだ。その弊害とは第一にJRやNTTの民営化の時、行った「地域分割」を行わなかった。第二に手紙、はがきの独占温存と全国一律サービス維持する為に、新たに基金を創設して、国が財政補助を行う経済負担までするというおまけつき。(これって小泉のいう小さな政府に矛盾、)第三に郵政、郵貯、簡保、窓口ネットワークの4株式会社を一体で経営する持ち株会社を設置し、国は持ち株会社への3分の1超の出資を維持していく。これで民営化といえるか。要するに、民間の中小の企業に自由に参入できないようにして、350兆円が無残に食い荒らされ、どうにも成らなくなったら国税を投入して救おうという保護政策だ。即ち、巨大な独占的、半国営企業の誕生だ。さらにそれに群がる輩を今以上に増やそうと言うだけの話だ。ホリエモンのように学歴なく(学歴社会は依然として変わっていない)、貧乏からスタートしたお金儲けを生きがいとする人間には、これは絶好の機会なのだ。彼は先日の立候補の記者会見で「日本の閉塞した気分が打破できるようなものを感じる」と言っている。国民の多くは本当にこの法案に賛成なのだろうか?郵貯や簡保の資産は、こつこつと真面目に働き正直に生活している国民の資産だ。(最も私などは、貧乏すぎて郵便局に貯金もなく保険もないので、失うものは何もないのであるが。)今まで日本が築いてきた富、さらにはその富のうえに花咲いているあだ花のような消費オンリーの社会。その社会のなかで、とりわけ子供や、青年たちが育ちそびれ、健やかではない。物があふれ豊かに見える社会で皆が苦しんでいる。このような現状の日本に、さらに今までと同じ手法で莫大なお金を使う道を突き進むことが本当の繁栄だろうか。小泉首相は言っている。郵政の民営化こそ改革の本丸である。郵政公社の職員を民間にすれば公務員を減らす「行革」になる。(今でも職員の給与は国の税金からは支払っていない)郵政を民営化すれば経済が活性化し、税収増え(今でも収益の5割は国に収めている)、税収増えれば財政再建に結びつき、財政が健全化されれば社会保障制度の安心につながる、と。これは、言葉をもてあそぶことを得意とする小泉首相の詭弁である。私たちは、更に今までひた走ってきた消費と浪費の文明をさらに推し進めていくのか、それとも、人間が人間らしく生きていく為の社会を模索できる社会に舵を切りかえるかの選択を迫られている。
2005.08.21
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ホリエモンの立候補が意味するものは?今まで選挙には行ったことがなく、政治には関心がない、複雑なことを考えることはメンドクサイと公言してきたホリエ氏が選挙に立候補した意味は何か?彼の今回の立候補は、郵政の民営化の本音を見事に国民のまえにさらけだした。即ち350兆円とも言われる、国民資産、郵貯により集められた資金を、誰がどのように使うか、だれがこの資金を市場原理にまかせて儲けの餌食にしたいと思っているかを、彼の立候補は見事に語っている。アメリカは、日本は貯蓄しすぎる、儲けのためにお金をもっと自由に使えるように諸々の規制を排するべきと再三日本に向けて発言し、自由化を要求してきた。その最も大きな狙いは、国民資産の4分の1にも相当する340兆円にのぼる巨大な郵貯に代表される資産である。この資産管理を民営化して、本当に国民の生活を豊かにする為に使われるだろうか。もちろん国民の豊かな未来を作り出すために使われる資本になるなら、何も異論はない。もろ手を挙げて賛成である。今、金融の最先端はアメリカが主導するヘッジファンドの時代である。資金の需給関係で金余りの余剰資金がハイリスク.ハイリターンを求めて世界を駆け巡っている。要するに、インターネット上の仮想世界で一夜にして何億の儲けを出したり、損をしたりの世界である。日本でも、高額納税者一位に躍進した投資ファンドの部長が、今年の高額納税者の話題としてニュースをにぎわしたが、米国では所得が1千億を越すファンドマネジャーが登場しているという。人間の生活を豊かにするような生産的な企業に投資するのではなく(厳しく査定されお金は中々借りられない)、妖怪のように世界をかけめぐるファンドの餌食に350兆の巨大資本が狙われているのは言うまでもない。要するに、小泉の民営化とはこの340兆を誰が管理し、自由に使えるかということではないか。その手法をめぐって対立しているだけで、自民党内部の抗争だ。どちらが勝っても基本的に日本の政治は変わらない。確かに郵貯の資金をどうするか。今後の郵便業務をどう発展させるかは重大で、その経営に民間の優秀な人材を獲得し、真に国民の利益になるように経営すべきだ。それに私の最も頭にきている、官民癒着による膨大なお金の無駄づかい。これを何とかして欲しい。しかし、いまの郵政民営化法案では、なにも変わらない。今でも郵便局の職員の身分は確かに公務員だが、その給料は税金からはびた一文も支払われていない。独立採算制である。何も国には損をさせていない。郵政民営化を選挙の踏み絵にすることは、国の政治を大きく変えることではなく、今のままの政治で、透明性を欠いた金儲けに身を投じるかどうかと言う選択だ。ホリエモンはそのおこぼれを最も欲しがっている若者のひとりだ。生きる機軸が金儲けのみの人間は、どんどん自分をカメレオンのごとく周囲の色にあわせて変節できる。一度も選挙権を行使したことがなく、政治を考えるのは面倒なこの青年が、このように変心するのが今の日本の教育や子育ての実態である。このような青年をアイドル投票のごとく選ぶ日本とは、国民とは、、、、ここで私たちは、一国民として、子供たちの未来を深く考え、必ず大切な1票を選挙権ある全員が、行使すること願わずにはおられない。
2005.08.20
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中学生と勉強していて、一番面白い(?)のが国語の「言葉」学習である。最近の子どもたちは「本当に日本人?」と思うほど日本語を知らないのである。「本当に君、日本人? 英語は日本語よりもっと出来ないしナニジンとして生きていくの?」と言うと、みんな大喜び。そんな子供が日本語の中にあることさえ知らない言葉に「玄人」というのがある。生まれてから一度も耳にしたことがない、今始めて聞いた、と皆が口々に言う。もちろん「くろうと」と読める子供は皆無である。白川 静著「常用字解」によれば、「玄」は、糸たばをねじった象形文字。白色の糸束をねじって染め汁の入った鍋に漬けて染め、黒色になった糸。「玄」は「くろ」の意味になる。「玄」は6度漬けしたもので赤みがかった深いクロ色で「奥深い、ふかい、しずか」の意味になる。また、糸束の端のくくった部分は素(もと)の白色のままであるので素(しろ)という。玄人(くろうと)、素人(しろうと)という言葉の原義がここにある。ここ数日、テレビや新聞は小泉首相率いる自民党が、郵政民営化法案に造反した議員の小選挙区に対立候補をぶつけ、比例区に著名人を立てる、そのなりふり構わぬ選挙前哨戦を鳴り物いりで騒ぎたて報道している。官僚、大学教授、料理研究家、ホリエもんなど次々に出馬の構えだ。皆、全員政治には素人ばかりである。皆、全員その専門分野においてどんな業績を上げているというのか。専門分野でこの方々は真の「玄人」といえるか。各分野の人たちに聞いてみたい。皆、全員、彼らに共通するのは、主にテレビという媒体で全国にすこし名前が知られているということである。さらに「金儲け」に執着し、金儲けがうまいという事が共通項なのかも。皆、全員、小泉のグループが立案した「郵政民営化法案」に賛成か否かが候補選定の踏み絵になっている、その候補者に選らばれている人々だ。彼らに文化人としての良心はあるのか。現在日本で起きている、政治の狂騒は、空騒ぎはとても見るに耐えない、聞くに堪えない実態だ。そして国民はその事の本質を「深く」「静かに」見つめているだろうか。小泉首相が国を率いるようになって、何か良い方に変化したことがあったろうか。構造改革とか、民営化とか掛け声ばかりかけているだけで、一層、人々の抱える問題は混迷化している。根本のところで、人が人らしく生きていく社会環境は劣化している。政治家として、日本をどういう方向に導いていきたいのかという大きな理念、哲学が全くないといえる。口先達者で中味のない、格好つけたがりやの人格しか見えてこないけれど。今の日本で、この人格が一番人気を博す意味はとてもうなずける。日本の様々の集団の先頭でよく見かけるタイプである。現代の日本は「玄人」は好まれないのである。何度も何度も釜のなかで染色され深い味をだす「くろ」は、面倒な厄介者である。邪魔者なのである。子供たちから「くろうと」という言葉が死語となっているが日本の大人たちの社会からもこの言葉は死語なのである。私たちは岐路に立っている。自分の息子や娘、孫やたちの未来が人として豊かに生きる社会であるためにはどうあるべきかという大きな視点から主権者としての権利を行使する責任を私たちは負っている。
2005.08.19
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今日は終戦記念60年。敗戦により、占領政策によって行われた「農地改革」は日本に何をもたらしただろうか。万葉のまほら明日香.大化の改新で公地公民となった農地。過去の日本の歴史は土地所有の形態を色々変えてきた。高松塚古墳公園 (写真撮影:まほろば) 連合軍の占領下に置かれた際の占領政策の重要な一つに、「農地改革」(1946~50)がある。戦前、日本の農業は日本の資本主義的経済を発展させる為に重要な役割を果たしていた。すなわち、工場に安い労働力を供給するための農村である。当時の日本の農村は全耕地面積の半分は小作地であり、70%の農家は土地を借りる小作農民だった。小作地については収穫米の半分に達する高額現物小作料を徴収されていた。農業所得だけでは最低限の生活維持すらできず、農家の子女は安い賃金、過酷な労働条件のもとで働く労働供給源であったのだ(のむぎ峠などの女工哀史にその姿がある)。この安い労働力が、遅れていた日本の産業の発展には不可欠であったし、農家も生活を補填する意味で、子供の現金収入に頼っていた。この農村の貧しさが日本の産業を発展させ、日本を海外へ進出させ、後には日本軍の兵隊の補給庫ともなっていく、人的資源であった。農村は近代日本の工業発展の担い手であったのだ。(農業発展ではありませんぞ)これは私たちの曾祖父母、祖父母の時代のことであり、今の若い世代にとっても古くはない自分の肉親たちの歩んだ時代の話なのだ。今の子供たちはこの歴史の認識からは一切遮断されており、想像してイメージして知ろうとする学びからは全く無縁の世界で育っている。敗戦によって、日本は連合軍の占領政策の思惑から、これらの農地の改革は徹底的に小作農民に有利に改革された。零細な自作農家の出現である。農地改革で自分の土地を取得した農民たちは、とても生き生きと米作りに励んでいた。稲の成長ひとつひとつが喜びであり、楽しみであった。幼い時、村のお百姓さんたちが稲作りの話を村のあちこちで議論し、寄り合いをして日々生き生き暮らしていたのを私は思い出だす。明るく開放感にあふれていた。しかし、これは今から思えば一時のこと。日本の経済の目覚しい発展とともに農村は再び農で生きることが出来なくなってきた。容赦なく資本主義経済の論理が農村にも押し寄せた。零細な農家はすべて兼業農家といってもいい。農に情熱を注いではいない。単なる土地管理者。とりわけ大都市近郊農家にとっては、土地は莫大なお金のなる木になった。土地を売れば法外なお金が転がり込む。現在の農家世代にとって、土地は自らが辛苦して、獲得したものではない。占領政策によって得たおこぼれだ。そのおこぼれを得た祖先の土地を頑迷に細々と守っている。一体、土地は誰のものだ。農業をしない者が農業の土地を管理する事が適切だろうか。自然破壊から土地を守る為にも、個人が勝手に切り売りして、土地は荒れるにまかせておいていいものだろうか。戦後60年目。この土地改革についてもう一度考え直し、日本の特殊性にあった第2次土地改革をすべきではないだろうか。日本の農業は、本当に農業をやりたい情熱ある人材を育て、其の世代が思い切り自由に革新的に農業をやれる基盤につくりかえないと、どうしようもない深刻な状態にあるのではないか。現在の農家ではそれは不可能である。現在の大部分の農家は農業においても、子弟を育てるという意味でも非常に保守的で時代から取り残され、滅びつつある。自分の祖先たちが血のにじむ思いで切り拓いてきた農を退廃と堕落に追いやっている。都会の人々もほぼ80%は、自分の祖先が農業従事者であり、その祖先があり、今の自分たちがあること忘れていないか。郵政の民営化などが今後の日本を左右する一大事ではない。要するにあれは金儲けの話だ。どうやったら郵貯を民に引き出せるか。そのお金で一儲けしようとするのは誰か。どの道、日本の国家財政は破綻する。(今も破綻している)破綻してもいいではないか。リセットしてやり直せばいいではないか。敗戦ですべてをなくし、リセットして今日を築いた。もう一度リセットすれば済むこと。その陰に隠れて、とても根源的な人間の尊厳に関る退廃や堕落がどうにもならぬ状態に陥っている。次の世代を担う子供たちにどんなものを我々は残すべきか。郵政の民営化などでは断じてない。8月の紅焼けつく庭に咲き続ける百日紅。60年前の今日も、私の生家の庭には変わりなく咲いていた大木の百日紅。高松塚古墳公園の百日紅 (写真撮影:まほろば)
2005.08.15
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今日8月14日はポッタム宣言無条件降伏受諾した日。そしてお盆。私の世代の幼年期は敗戦後の混乱した時代。農村地帯でも食料事情が悪く、ほぼ自給自足の状態であった。私の生家も自宅の庭や畑に、サツマイモ、かぼちゃ、などを作り庭木や垣根にカボチャのつるが這い登り、かぼちゃの黄色の大きな花にじりじりと太陽が照り付けていたのを思い出す。私は年齢を重ねるごとに食生活があの食料事情の悪かった幼い日々のそれに還っていくのに驚かされる。とりわけ夏になると、私は毎日でもカボチャを食べたくなる。体が要求するのである。幼い日、毎日カボチャを食べていた。それ以外に食べるものがないのである。おやつさえも今流に言えば「かぼちゃのクレープ」である。小麦粉を溶いて薄く延ばし、カボチャをあんの代用(もちろん砂糖などなかった)にして、くるくると巻いて焼いたものである。祖母がいつもコンロに炭火をおこしてフライパンで焼いてくれた。きっと今の甘いおいしいグルメの時代にはまずくて食べることの出来ない代物である。そして、カボチャも今のカボチャのようにホクホクとした甘みはなかったように思う。薄黄色で水っぽいものでなかったろうか。でもなんだかとても美味しかった気がする。私のこころや体を育てる元素みたいなものであった気がする。この貧しさから脱却することが戦後の日本の目指したものでものであった。そして日本は確かに目覚しい物質的豊かさを獲得したかにみえる。しかし、今の子供たちはカボチャが夏に実をならせることを知らない。ピーマンやナスやトマトやきゅうりが夏の野菜だということを知らない。夏の照りつける焼けつく太陽の恵みが野菜のいのちを育み、私たち人間のいのちを育てる源だということを知らない。無関心なのである。知る必要性を感じないのである。夏の厳しい暑さのなかで育つ野菜はエネルギーがありすぎアクが強すぎ、現代の好み、嗜好には合わないのである。子供たちは、高知や宮崎が野菜の促成栽培をする産地であり、八ケ岳や浅間山の山麓が高冷地の野菜産地だということを暗記してテストに備えている。しかし、なぜ促成栽培をするのかに関しては思考を停止している。これが今の子供たちの知識であり、学力の実態だ。いのちを育む食生活を実感していない、受身的なただ消費する食生活をしている子供たちにとって、野菜がどのように、どこで育つかなどということはどうでもよいことなのである。満腹ならば、嫌いなら食べずに捨てることになにも心痛める必要のない子供たちである。自分のいのちを育むもの、自分のよって立つ根源的なもの、食べ物にたいしてかくも無関心、無知であることは将来の社会に重大な危機をもたらすのではないか。貧しさから立ち上がり、今日に至った過程で失ったものの大きさに目をむけ、私たち大人が何を受け継ぎなにを守り発展させていくべきか、今一度考え直すべき時がきている。敗戦60年目、平和や豊かな生活は守るべき大切なもの。しかし、それを許さないものに対して、もっと厳しい目を向けるべき時だ。何よりも、子供たちが心豊かに育つ、教育や育児は重大だ。
2005.08.14
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昨夜の11時の時間帯のニュース番組の中で、若者が就職先で定着できず、無業やフリーターになる若者の問題をとりあげていた。昨夜登場した青年たちは、地方の農村で「農業従事者育成計画」というプランで、6ヶ月間研修し、農業体験をするというのである。其の青年の中には、大手の商社やIT関連企業を辞めて、農業体験に参加していた青年もいた。彼らは大きな組織が若者に希望を与える職場ではない、自分の生きがい、やりがいある仕事が与えられない、などと言っていた。1年たらずの就職で、その職場や仕事の何がわかるというのだろうか。そのような若者たちが農業を6ヶ月体験しただけで何が見えてくるというのだろう。かつての会社勤めより、さらに今の農業の現状は厳しく、やりがいや生きがいを見つけにくい産業であるという、現実を認識しないまま、農業者としての体力も知力もない若者が農村にたむろして何を見つけることができるというのか。農業の現実を客観的に判断して、それでもこの農業の中で何かを切り拓きたい、作り出すために生きようという、認識すらできない青年に農業に従事できるほど現実は甘くない。お粗末な知性しか持ち合わせていないと言わざるを得ない。困難を創造的に切り拓くことに生きがいを感じる気概なくして、全くの未経験者が農業などやれない。しかし、これは農業を体験しているこれらの若者だけの話ではない。外国を自分探しの旅と称してさ迷っている若者もしかり。生活費には何の苦労なく、専業主婦として子育てと趣味で楽しいマイホームを夢見ている若い女性しかり。この若者たちは恐らく何も見つけることはできないであろう。自分の希望する仕事など彼らにはない。そのまま老いていくばかりだ。彼らの生きる態度は、自分、自分と自己のことばかりを中心に考え、自分探しをしている。本来、自分の中には探すほどのものは何もない、何も築いていないのに、何かあるかのごとく錯覚しているだけだ。幼い時から、自らの力で生きていく体力や学力のトレーニングをしないまま大人になっている。絶えず受身的に、出来るだけ失敗は避けるように、効率よく最短距離を歩むようにプログラムされた親や学校の用意したレールを歩いてきた。そのため、自分の血肉化した実力を確信できず、彼らは自信がないのだ。学校を卒業したら、ほぼ自動的に就職し、そこで仕事人間として鍛えられ一生を過ごすという親たちの時代は終わったのだ。その親たちに育てられた子供たちは一層、怠惰になり、刹那的に消費行動を得意とする大人になっている。或いは又、極度に自閉的になって生きている。人と人の関りの中で、自らを鍛え、自らで関係を切り結べる能力を幼い時から育てていない。現在、無業者やフリーターの若者が社会的にも問題になっているが、其の原因は複雑でさまざまである。豊かな社会で、育ちそびれている若者たちもその一群を形成している。
2005.08.12
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昨日は暦の上では立秋。日本列島は30度を軒並み越える猛烈な暑さ。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー秋立つ朝。美ヶ原のマツムシ草 (写真撮影:ダンホセ)今朝は昨日の焼けつく暑さが嘘のように、かすかにひんやりとした朝。見上げれば空はもくもくと高く昇る入道雲はなく、薄く刷毛で掃いたように、やわらかなすじ雲が流れていた。午前5時。しののめの空はほのかにオレンジ色にそまって、朝の陽光がかすかにきらめいている。夏草生い茂る公園の草原には白露がきらきらきらめいていた。午前5時、1週間前には日が高く昇っていたのに花々は、木々はぐたりと息絶えていたのに、今日の朝は、お日さまは低く、木々はほっとして、青々と呼吸している。この里にも秋が頬をなでる風のなかにやわらかな空の青さと雲の動きにかすかに感じられる朝。細やかな自然の移ろいが感じられる朝。美しい日本の朝。
2005.08.08
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今日は広島被爆60周年。今日もあの日と同じように、じりじりと夏の太陽が照りつける焼けつく真夏だ。一瞬にしてごく普通の市民の生活が奪われた。今なお語ることの出来ないほどの悲惨な死や街の壊滅があった。1昨日、NHKの生活ほっとモーニングで、3人の青年が戦争と平和についてどう考え生きようとしているかをドキュメントしていた。これら3人の青年の共通点は、現在イラクで起きていることを、自分の目で確かめたいという好奇心からイラクを訪れて、現地の人々と交流した体験がある、ということである。3人の青年たちが、戦争や平和という大きなテーマを、自分の体験を通して考えようとしている点では好感がもてる。しかし、私はこの3青年の中に、現代の子供たちや青年が教育や日常の生活のなかで何をどのように学び成長しているかという点で、共通の危惧を感じた。其の中の一人の青年は、イラクを訪ねたことで戦争の見方が変わった、と語った。イラクの戦争が正しいかどうか、彼らに会い、見て、彼らに聞かないと分からない。簡単に結論を出すよりも、もっと色んな人々と出会い、見て考えたい。また、ある青年は戦争のテーマも大切だが、他にも自分にとって大切なことがある。その3青年のひとりに、自衛隊派遣直後にイラク入りして拘束され、日本中からバッシングを受けた当時19歳の今井紀明君もいたのだが、彼も物事はそんなに簡単ではないということがわかった、と語り、イギリスへの短期の語学留学を経て、今は大学受験めざす受験生になっていた。要するにこの3青年は、人としてどう生きていくかという自立への道を模索している。青年としては模索する行為は当然の事、素晴らしいこと。でも、その模索する道の途上に、テレビや新聞でたまたま騒がしく取り上げているイラク戦争があったので、ちょつと覗いて見たかっただけなのだ。平和で豊かな生活体験しかない若者にとって、世界の貧困や戦争も自分探しのひとつのテーマなのだ。これは今なお貧困で苦しみ死んでいる人々や、圧制で自由を奪われている世界の人々に対しても失礼なこと。とても日本の若者は高慢で自己中心ではないのか。千人の人がおれば1千の暮らしがあり、見方があり、考えがあることは自明のこと。何もイラクに行かなくとも分かること。その1千の暮らしから、何が人間として全うか、何が社会を前向きに前進させるか、予測し考えることが学びであり、人類が今日を築いてきた原動力ではないか。私たちが住み、生きている日本の社会の過去から学び、その過去の曽祖父母や祖父母たちの苦しみや不幸を、どうしたら現代の社会の真の豊かさにつなげていけるのかを考える。このような考えを可能にするような学びを青年たちや子供たちはすべきではないか。今の学校はこういう学びが出来にくくなっている。これでは満ち足りた子供たちが勉強嫌いになるのも無理からぬこと。日本での学校の勉強が、そのような学びにつながらず、自分探しに行き詰った若者たちが外国にいけば何かがあるのではないかという幻想を持っている。日本の親もこのように外国に期待して、幼い精神年齢のわが子を外国に送り出している。子ども自身が真に豊かな生活体験や、豊かな学びをしないまま、青年らいい精神的成長を獲得しないまま世界をさまよっても何も得ることは出来ない。何も見えてこない。しかも、生活は親がかりというのが多いのである。自立への旅ではないのである。このような日本の若者が今、世界にたむろっている。世界の心ある人々のひんしゅくをかっている。今日は、広島被爆60週年。何と長い月日が流れていることか。曾お爺さんや曾おばあさん、おじいさんやおばさんがどんな暮らしをし、どんな社会の一員であったか、聞いたりするだけではなく、歴史の本をひらいて、自分たちの今を深く思いめぐらしてみるのはどうでしょう。おじいさんやおばあさんの暮らしがなかったら、今の自分もなかったのです。親が、年配の大人たちが、子供たちに自らの生きざまを大いに語り、明日を考えることの出来る子供を育てること今こそ必要な時ではないでしょうか。
2005.08.06
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孫娘のことねに英語教材を与えたいということねのママの依頼で、ネットのなかの幼児英語にかかわるところを覗く機会を得た。驚いた、驚いた、熱狂的な英語育児をしているママたちの狂騒がそこにあった。まさに恋のから騒ぎならぬ、英語のから騒ぎ状態である。若いママたちの子育ての関心はここにあったのだ。このオババの日々草など見向きもされぬ理由がわかった。「英語育児」という言葉があるのも始めて知った。「英語育児」とは、言葉を獲得し始める0歳から、英語のテープ、ビデオを使用して、たえず英語を赤ちゃんに流して、脳に英語をインプットさせる。赤ちゃんの言葉の発語も英語であるという。(英語圏で生活しているのではない。日本に生活し、純粋日本人の夫婦の子供にである)そして其の教材DWE(ディズニーの英語システムの頭文字らしい)は、驚くほどの高額であると言う。サイトの中に、英語子育て最中のママたちのおしゃべり広場 なるものがあり、其の中で、自分の英語子育てをHPで公開しておられるお母さんがおられる。0歳から8年間の記録である、と言ってもこの方は英語の出来ない普通の専業の主婦ではなく英語を教える側におられる、英語に関してはかなりのプロの方だ。まぁこの教材のオピニオンリダー的な方だ。この方の公開されている「英語子育てノート」から私の感想と、中高生に英語を教えて、私自身が日頃実感していることを述べてみたい。この「英語育児」教材の論理的根拠は、アメリカの言語学者、ノーム・チョムスキーの理論に裏づけられているらしい。この理論は人の脳には生まれながらに言語習得機能装置(LAD)があり、言語運用能力は幼い時、たとえば英語などをインプットすると脳の中の「ウェルニッケ感覚言語野」に日本語とは別の独立した言語中枢を作る、しかもこのLADなるものは5~6歳で完成され13~14歳で劣化する、と言うことである。赤ちゃんの時から英語を垂れ流すのは、このLDAなるものの発達を確保し、複数の独立した言語中枢を赤ちゃんの脳に作るためだという。このお母さんは、この理論の実験をわが子でしておられる。赤ちゃんから習得させれば、モチベーションなくして英語が習得できるからと言っておられる。しかし、この言語学者の脳の発達のメカニズム論が本当に真かどうか、どうやって実証出来るのだろうか。もしこの理論が真実なら、わが息子などは言語習得機能装置が全く劣化し、たぶん脳の中で死んでしまっている時から本格的に英語を勉強し始めたことになる(高校卒業後)。言語習得機能領域は死滅し、言語習得は不可能ということになる。確かに、英語習得に苦労はしたが日本の青年層のなかでは、どこに出しても通用する役立つ英語を身につけることが出来ている。アメリカの大学でも悪い成績ではなかった。自分の専門領域はもちろんのこと、文化、芸術分野も学べるまでの英語力に到達できた。人間の脳がどのように発達し、言語や運動能力や論理的思考などの複雑な能力をどうやって獲得していくかと言う問題は、専門家の間でも両極端といっていいほどかけ離れた理論を闘わせているのが現在のレベルではないのか。(私は専門家ではないので詳しくはわからないが)先日、紹介した脇 明子さんの「読む力は生きる力」のなかでもこの問題に論及している。赤ちゃんが自分の生まれた環境に合わせて、必要な能力をバランスよく発達させていく為には、余分な回路まで無理に残しておこうとするとバランスがくずれて色んな問題が生じてくる、と。一般の家庭の赤ちゃんが、すべて他を投げだして英語の習得に時間やお金をかけるほど、生きていく時、英語が大切だろうか。英語など出来なくとも優れた、充実した、楽しい人生を送っている人は多い。広い深い人生観で生きている人はいくらでもいる。母国語以外の言語中枢を作るために、他の発達をそこなってまで赤ちゃんに英語を垂れ流して生活しなければならないとは。百歩譲ってこの理論実践が赤ちゃんの発達に好ましいとしても、この赤ちゃんたちが社会で活躍する30年後に英語は今ほど重要でないかもしれない。一般の人々は母国語で充分、という時代が来るかもしれないし。現代の社会は、予測できないスピードで変化している。そういう未来を予測して、どんな大人に育てるべきかが、まさに今親たちは問われている。現代の青年たちが、いざ社会にでる時期になったら、其の親たちが子供に身につけさせたものはいらなくなっていた、ということも現に起きている。サイトをにぎわしている英語育児はまさにそれ。その赤ちゃんたちが大人になった時、このわけの分からぬ英語力はいらないのだ。これは、現代の英語コンプレックスの親たちにつけこんで、儲けをたくらむ巧妙なビジネスだ。日本のお母さんたちが、「英語育児」ではなく「日本語育児」にこれほど熱狂してくれたきっと、今ある子供の問題の多くは解決できるはずだ。今の日本の子供たち、中高生たちの日本語力、特に、書いたり、読んだりする力がどんなものか親たちは知っているか。其の母語の貧困が子どもたちの人格形成にどんな影響を及ぼしているか知っているか。とても深刻なのである。この問題については、又機会を改めて書きたい。
2005.08.01
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不快指数95の朝午前5時、早朝の愛犬ユメとの散歩。早朝のあの涼やかな風はどこに行った。早朝のあのひんやりとした空気はどこに行った。そよりとも揺るがぬべっとり湿った不快指数95の朝。2つの山はブルドーザーで削られ何百年もの間、その山で生きてきたクヌギやカシやヤマモモの大樹が濃い緑の黒々とした山波の松林が瞬時になぎ倒されて、子供たちが遊んだ沼や、池は、渡り鳥たちの、羽を休めた池は、カメや、フナや、ドジョウや、メダカや、アメンボやザリガニやカエルの棲みかの沼は瞬時にして、削られた山の土砂で埋め立てられた。何千年もの自然の営みがあっけなく消え去った。そして誕生した、900戸の住宅街が。この街のキャッチコピー“花のある暮らし、みどりの風そよぐ フローラルタウン“道路はきれいに舗装され、まだ葉の茂らぬ若いハナミズキの街路樹が水やる主もなく、息絶え絶えにうなだれてどんよりとした朝を迎える。民営化されたUR都市機構が20年前の開発プランそのままに、50坪余りに細分化された土地に、ひしめく建売住宅を売り出した。人々はその町につつましく、いじましく暮らしている。早朝の涼やかな空気を奪われて、朝露が陽光にきらめいた夏草の散歩道は今はない。この街の早朝は窓のシャッターをかたく閉ざしたまま、クーラーの室外機の音を低くうめかせてまだ眠っている。不快指数95涼やかな朝をこの山里から奪ったものよ、知っているか、この喪失の重さと大きさを。
2005.07.30
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夏休みは、受験生にとって暑い夏である。公立の中学生にとっては、中学3年生は人生において、初めて対社会との関係で何かを選択することを迫られる。狭い意味においてではあるが、自分の能力を第三者に容赦なく審判される。14歳前後の思春期にさしかかった少年少女たちにとって、この受験という体験をどう捉え、どのように取り組むかは、その後の高校生活、大学生活、さらに職業人としてどう生きていけるか、どう成長していけるかを左右するとても貴重な時期ではないだろうか。自分で目標を設定して、その目標に向かって今まで体験したことのないような頑張りをやってみる事も子供の成長にとって、またとない良いチャンスである。子ども自身が進路に悩んだり、成績が思うように伸びず苦しんだりしながら、自らの設定した目標に挑戦する体験は、大人へと成長していく段階としてもとても大切な機会である。だが実際は、現在では受験が子供の成長につながるものになっていない場合が多い。なぜか?今の中学生たちは、どのようにして高校を選んでいるのだろうか。今の子供たちには選択の基準の幅は狭いものである。高校選択の現実は、その子供の発達のスピードは無視され、子供の潜在的な能力を引き出すものではなく、今ある点数で子供たちは序列化され高校に振り分けられている。この現実を追認する形で子供は高校を選択せざるを得ない。受身的にしか選択していない(できない)のである。自分で目標を設定することは無理という諦めが子供の心にある。とりあえず点数を1点でも多く取ろうというところに止まっている。高校は長い人生の一つの通過点に過ぎない。でも、高校は、子供の大人への入り口としてかなり重要な通過点だ。高校で何を学び、どんな友人を得、どんな内容の濃い青春を過ごすことが出来るかは、とても重要なことである。以後の人生のあらゆる芽がはらんでいるのが高校生活だ。そして、受験勉強は、高校生活を高校生らしい充実したものにするために必要な基礎的な学力のトレーニングの時期だ。この基礎学力は後、社会に出た時必要なものでもある。現在の公立の入試問題はとても良い問題が多く、子供たちに学力の基礎となるものを深く理解し、使いこなす思考能力を要求している。これは21世紀に生きる子供たちにとって、最低限必要なことばかりだ。これをただ単に受験のテクニィクとして、ばらばらの知識として暗記して其れが終わればすっかり忘れ、はいさようなら、では余りのも情けない。人生は開けない。自分で目標を設定し、その目標に向かって粘り強く1年間もの長期に渡って勉強し続け、目標を達成した子供は、其の体験から生きていく為の力を獲得している。高校生活も更には大学生活もその子、その子の力に応じて自らで切り拓いている。親はそのような子供を励まし、忍耐強く見守ることが必要だ。親は子供がなかなか成績を上げることが出来ないと、いらだちすぐ子供に「だめじゃない。もっとがんばらねば」などと言う。私は、親がもう少し長い目で粘り強く子を見てくださったら、この子はもっと良くなるのにという現実にしばしばぶつかっている。子供が失敗したり、行き詰まったりする体験はとてもよいこと、そのような時、子供を見守れる忍耐力を親は求められている。中学校の点数で子どもをみる進路指導は、あくまで参考にして子供の長い人生の一通過点を、子どもとともに悩みながら模索していく親と子の関係が中学生には必要である。点数の良く取れる、いわゆる優秀だといわれている子にも、これはもっと大切で必要なことである。
2005.07.29
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親にとっては長い夏休み、子供たちにとっては楽しい夏休みに入った。夏休み中は、今時の子供たちの様子と学習について時々書いていこう。今年度の中学1年生から、子供たちの質が一段と変化しているのが感じられる。一段と幼くなったようにみうけられる。たとえば、数学の文字式の学習時。文字式の意味から始まって、文字式の性質、約束事を使っての四則計算練習。とてもシンプルなところから次第にレベルアップして複雑な計算へと進む。学校の教科書では練習問題で数問しか出てこないような難しいレベルまで習熟する為にはかなりの反復練習が必要である。学習の最終目標は具体的な事柄を文字を使って表現できる。いわゆる抽象化できる能力を身につけることである。このような思考を身につけることは大人になって生きる時、とても大切なことである。又、中学の数学の入り口としては、かなりこれは重要だ。文字式を自由に操ることが出来ることは、以後の数学が好きになれるかどうかの分かれ目といってもいいくらいだ。このようなことは毎年やっていることだけれど、最近の子供たちは体系立てて順番に階段を上るように学ぶことが苦手で、ただ断片的に暗記している細切れの知識で頭の中は満杯になっておる。そのごった煮で混乱しているのものをぶち壊し、新たな体系を学ぶことの出来る頭脳に作りかえるのになりのエネルギーがいる。でも、教える側が熱心にやれば何とかなってくる。子供たちは変わってくる。成長してくる。しかし今年の1年生はまず取り組む前に、「こんなの無理」「出来ない」を連発して、挙句の果て「こんなの学校ではやっていない」となるのである。本当に学校の授業は簡単、何も勉強しなくても分かるほど簡単。それで分かったつもりでいる。教科書もとても簡単。数ページで一つの単元が終わっている。でも、分かったつもりであったのに定期テストなどをやると、中1年生でも驚くほど悪い点数しか取れないのである。部活動においても今年の1年生は、与えられている課題にたいして自分の今ある力でしかこなさず、精神的に耐えて、自分の身体能力を高めようとすることに積極的でないらしい。私から見れば全く似たもの同志と思える上級生があきれているのだから、その変化はやはり大きく、今までには見られなかった幼さではないのか。「あつまれ、ご意見ネット」というサイトの「子育てについて」のアンケートによれば、最近の若い親は子育ての目標を「叱りすぎず、のびのび」育てる。「勉強」よりも「人間性」「社会性」という項目に高い支持をしているらしい。しかし、この中学生たちの姿をみると、たしかに「叱りすぎず、のびのび」と育てられてはいるようですが、「人間性」「社会性」は何も育ていませんよ。深く学ぶ「勉強」なくして人間性や社会性など育たない。常に自分の能力の限界に挑むことの出来る体力や気力を育てることなくして、Happy Life(若い人はhappyやsweetという言葉が好きらしいが)など有り得ない。頑張り過ぎない運動や勉強ってどんな運動や勉強なのでしょう。自己の能力に挑戦することで、こどもは生きることの素晴らしさを体験するはずである。伸びることを実感する時、その過程には必ず、耐え、頑張った自分がいる。限りなく自己の能力に挑戦することを否定する、子育てや教育では子供は育たない。現に今、子供たちは育ちそびれて苦しんでいる。人が人として生きるとき「学ぶ」ことは最重要の課題である。学びを軽視した「人間性」や「社会性」など嘘っぽい。
2005.07.24
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このところ孫娘のことねが熱のため、登園できない回数が多く、オババの育児支援の回数もその分増えることとなる。だから、我が家に来た時に遊ぶ玩具を少し揃えてみた。その中の一つに三輪車がある。まずサイトのおもちゃ屋さんを見てまわることにした。あるわあるわ、選り取りみどり、さてどれを選ぶか。迷いに迷いおばばが選んだ三輪車は、 これである。日本の玩具メカーが売り出している三輪車は、本来の三輪車としての機能に関係ない、ごてごてとした装飾物が多すぎる。おしゃべりをしたり、メロディーをかなでたり、ビグレットと汽車が回転し、LEDが光メロディーを流す。などと説明書きがあるがこのおばばには何のことやらさっぱり飲み込めぬのである。更に、更にである。足でまだ漕げない子どものために、足載せステップ。前輪とペダルの連動を切り替えるつまみ付き、とかロック&フリーなどなど。 (日本のメカーの三輪車)何のための三輪車か、子供のどんな発達を促すおもちゃなのか。足でまだ漕げないからこそ、足がぶらぶらして車輪に巻き込まれそうになることを子供が体験して、危険から身を守る術を覚えるのではないのか、又その子に体で体験させ教えるのが大人の役目ではないのか。いくら言葉で危ないよと言っても、幼子は本当には理解していませんよ。親が口やかましくなるだけだ。私たちの子供の頃や、わが子の時は、たしか乗れない数ヶ月間は色々危ないので監視して子供に教えるのに苦労した。しかしこの体験が貴重だ。すべて安全にして、はい、ぞうぞお乗りなさい、と幼い子に与えるとはあまりのも情けない貧しい玩具である。親が監督する煩わしさを省いて楽をしたいのか。すいすいと自由にこぎ乗り回せるようになった時の喜びや達成感は半減する。危険から身を守る術を身につけるチャンスもみすみす失った。この2つのことは子どもが育つ上で最も大切なことである。こんな状態では、やはり今時の子どもは生きる力を身に付けることが出来ないのでは。大人たちが寄ってたかって子供に生きる力をつけないようにしているとしか言いようが無い。何も、たかが三輪車で大げさだと、言う声もきこえそうだが、これは子供のとりまく商品すべてに当てはまるのではないか。フランスルノー社が出している三輪車である。一切の無駄を省き、洗練されたデザインで三輪車としての機能だけを追究している。何世代も使用に耐えそうである。ママやパパが使った三輪車をその子どもが使うということさえ出来そうである。子が育つとはそういう息のながい持続が必要ではないか。 (フランスルノー社の三輪車)さて、三輪車のお値段は、ごてごて飾りつき、デザイン最悪の日本が売り出している三輪車の定価は15000円。写真のフランス製も15000円。ちなみにオババの買った三輪車は定価7500円であったが5割引きの3900円である。オババは安いから買ったのだけれど。
2005.07.21
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昨年孫娘が誕生した時、新米ママの娘とこのオババは赤ちゃんの扱い方で対立、衝突を繰り返した。その新米ママの娘が信奉している育児の書は、「シアーズ博士夫妻のベビーブック」。その対立、衝突の一番は、「赤ちゃんの抱きぐせ」は良いか悪いかである。新米ママは「抱きぐせ」という言葉は今では死語で育児からなくなっている、と言うのである。赤ちゃんが泣いたらすぐにママは反応して赤ちゃんとコミュニケーションを取るべきだと言う。そこで、私もシアーズ博士夫妻の『25 Things Every New Mother Should Know 』を読んでみることにした。Dr.William Sears は、 カリフォルニア大学アーヴァイン校医学部助教授。妻の Martha は、看護婦で自らは8人の子供達を生み育てた母親でもあった。そして、現在その子供の長男と次男とともに家族で小児科病院を開業していると言う。まさに、生み育てる事を自ら実践して、それを職業にして生きている家族がそこにはいた。このシアーズ博士夫妻の本は、私にとても驚きと感動をあたえた。この本はただ単なるhow to 的な育児書ではない。21世紀の家族はどうあるべきか、母性はどう育てるべきかを驚くべき新鮮さで私に問いかけてくる。家族のありようが激変し混乱している今日の世界に、人間とは何か、どう生きるべきかという根源のところから母性の素晴らしさ、母性を育て、確たるものにすることの困難さ、しかし、やりがいのある楽しいものでもあることを私たちに語りかけてくれる。ごく普通の一人の女性が、出産、育児を通してどのように母性を獲得して豊かにしていけるかを妻マーサがその経験から述べている。夫のビルもところどころで、父親としてどうあるべきかをアドバイスしている。彼らが主張している育児は、生まれた時から、赤ちゃんに寄り添い、泣いたらこまやかにこたえ、赤ちゃんを身にまとい、添い寝をし、母乳育児をすることである。このような膨大な、気の遠くなるような日常の赤ちゃんとの暮らしの積み重ねが、母性を磨き、豊かにする。同時に母親との濃密な密着をたっぷり体験した赤ちゃんは、成長してからの後の独立心が信頼や安心感にもとづいた確かなものになる、と述べている。更に赤ちゃんの時のこの濃密な、細やかな愛情で結ばれた親子関係は大人になっていくとき、他者と良い関係を築ける私を一番、驚かせたのはシアーズ夫妻の述べている、赤ちゃんに寄り添い、身にまとい、添い寝し、などというのはアメリカ人の最も好まない、批判してきた育児ではなかったのか。子供に独立心を養うには最も悪いやりかたではなかったのか。そのようなやり方は子供を甘やかしだめにする、というのが確か私たちが子育てをしている時代に言われたことだ。しかし、そのアメリカで、このシアーズ博士の育児書は1993年発行以来ベストセラーを続け、その育児方法はもっとも支持されているという。シアーズ博士夫妻のこの主張は、私達の日本の祖母や曾祖母の時代には極々当たり前のこと、誰もがしていた事ばかりだ。すなわち、生まれた時から赤ちゃんに寄り添い、泣いたら細やかに応え、赤ちゃんを身にまとい、添い寝をし、母乳を育児の中心にする、というものである。日本の私達の母や祖母たちは貧しかった、1日中背中に赤子をおんぶして野良で仕事をしていた。添い寝する意外にやりようがなかった。庶民にはミルクなどというものがなかったので、赤ちゃんは母親のおっぱいにぶらさがっている以外に術がなかった。子供の人数も多かった。シアーズ博士の言を待つまでもなく、日本の私たちの母や祖母は濃密な母子のアタチメントのなかで子育てしてきたのだ。その子どもたちが私たち60歳代より上の世代である。しかし1970~80年代の育児は、日本経済の高度成長とともに、このような親達の貧しい惨めな育児から解放される物質的基盤が出来、ことごとくこれらとは反対の事が主張され、よしとされたと思う。すなわち、抱き癖はいけない。幼い時から一人で寝かせなくては自立心が育たない。母乳よりミルクに高い栄養価があるので、病院がミルクを推奨していた。家庭で出産する自然分娩など、もっとも惨めな貧しい非文化的なものとして拒否された。ことごとく母性を育てない育児、母子の関係に信頼と自己犠牲的な愛情を細やかに育てない育児である。その時代に生まれた子供達が今結婚し、出産する適齢期を迎えている。そして結婚をしないことを選択している女性も多い。現在、社会では赤ちゃんが泣き止まないから投げて殺す、育児に自信が持てないから子を殺す、などわが子への虐待によって親も子も深い傷を負う暗澹とさせる事件が次々におきている。これらの事件の根底には、共通してその親や子供の育ちの問題が潜んでいるのではないのか。どんなに追い詰められ、妄想に駆られ、殺意や、自殺に追い込まれても人間は心のどこかにそれを拒否する何かがある。たっぷりとした、無償の愛情に育まれた人間は、自分が追い詰められれば追い詰められるほどそういう目に見えぬ抑止力を心のどこかで感じてはいないだろうか。私の年代が育てた、息子や娘達、さらにその子供達の多くは希薄な愛情しか知らない。事件の抑止力となるような肉親の深い無償の愛を知らない子供達だ。昔の日本の母は本当に情の深い、無償の愛を子供に注いでいた。どんなに高いレベルの問題を抱えていようと、あくまでわが子の成長に向けてあらゆる可能性を求めて日夜、子供と関っていた。自己犠牲などと感じてはいなかった。当然の事として普通にやっていた。母の悲しい顔が思い浮かぶと道を踏みはずせない、自殺はできないという母子の信頼関係である。シアーズ博士はこのような親子関係を築く育児を提唱している。自らも8人の子供をそうやって育ててきた。「その子の必要なレベルに応じる」育児。たとえば、いわゆる手のかかる子どもには、その子供に必要な高いレベルの要求に応じる育児の技術を、親が自ら創造していかなくてはいけない。他の親がやったことのないような育児の技能を親が開発し、子と関ることで高いレベルのしっかりした親子関係が築ければ、子育てを成功的に導き、親自身も其れによって多くを得る豊かな人生になる、と彼は言っている。シアーズ博士のめざす子供像は、他者と良い関係を築ける子ども、他者と絆を結んでいける子供を育てること、そのためのツールをお教えすること、と言っている。このシアーズ夫妻の提唱している親子関係も、昔の日本の母たちがごく普通にやってきたことで、さして新しいものではない。よくよく振り返ってみれば、私自身も別にシアーズ夫妻の育児論を読んでいた訳ではないが、彼らが提唱していることを私は無意識にやってきた。祖母たちから刷り込まれた子育ての技能みたいなものだ。そうしなければ子供が育たなかったからである。このごく当たり前の人間の育ちの技能が、現代社会から失われている。とてもシンプルなこの母性の父性の育ちを促す子育てが見失われている。シアーズ博士のこの育児がアメリカで多くの支持を得ているということは、この現代が陥っている混迷を何よりもよく物語っている。アメリカの子供たちも健やかに、人としての絆を他者と結んでいける子供に育ちにくい社会状況があることを意味している。日本の子供たちは、さらにこの健やかさの育ちが困難になっている。今日本では、少子化の問題点がかまびすしく論じられているが、それ以前に今を生きている子供たちが健やかに、しつかりと社会のなかで人と絆を結んで生きていける大人に育てる社会環境や、大人たちが支援することの方が緊急にして必要不可欠な課題ではないか。そして其れはとてもシンプルなこと。母が母となり、父が父となる子育てをすることではないか。21世紀の育児は巧妙なビジネスにさえなっている。何が子供の育ちにとつて本物かを見抜く、母性を父性を育てる必要が現代はあるのだ。大変な時代なのである。シアーズ夫妻(Dr.William Sears & Martha Sears)の育児書。現在日本で翻訳されている書籍は以下のようです。シアーズ夫妻の本は出産や結婚のお祝い、恋人などに贈るといい本かも。日本のおばあちゃんの「言い伝え」みたいな本ですよ。1)「ママになったあなたへの25章」 岩井満理訳 (主婦の友社) この本は若い娘をお持ちの年配の方や、未婚の男女が母性や父性について考えるのにとても参考になる良いほんですよ。2)「シアーズ博士のマタニティブック」3)「シアーズ博士のベビーブック」4)「シアーズ博士のチャイルドブック」
2005.07.18
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今週は、孫娘のことねが夏風邪で熱がでて保育園に登園できず、オババが育児支援する日々となりオババは大変なのである。オババの好きな新聞を読むこともままならず、夕方からは夜遅くまで、わが教室の若い子供たちとわいわいがやがやと勉強し、1歳児から高校生まで幅広い年齢層と一日中、濃密にこころをタッチさせて、くたくたなのである。このオババはこのところ子どもたちとしか会話していない日々が続いている。しかし、若い人たちとの交流は確かに大変であるが、伸びゆくもののエネルギーが満ちあふれ、私もそのパワーをもらい未来を見つめることが出来る。有難いことである。今日は1歳2ヶ月の孫娘ことねと60何歳かのおばばの交流を書こう。ことねは日々が成長、日々が新たなる発見の日々。まさに伸びようとする若芽そのもの。パワーがみなぎっている。わが子のときは、私自身が人生経験乏しく、母親としても未熟で余裕がなかったからか子供の素晴らしさが見えていなかったことを思い知らされる。改めてまじまじと1歳児を観察してみると1歳児のすごさに驚かされる。まず、2足歩行である。2本足で歩くことをごく普通のことと思い、日頃あまり2足歩行について思いをはせることはないが、1歳児には2本足で立ち、歩くためには何千回、何万回の飽く事のなき反復のトレーニングがあるのだ。転んでも転んでも起き上がりトレーニングを止めない。自らの身体を歩行にふさわしいものに創りあげていく努力を止めない。詩音は今、手、特に「指」を自分の意思で自由に使いこなせるようになる遊びに夢中である。即ち小さな箱の中に物を出したり入れしたり、鍵を鍵穴に入れたり出したり、親指ほどのループの中に棒を差し込んだり出したりと家の中に存在する物ことごとくが興味の対象でおもちゃとなっている。この指のトレーニングも実に粘り強く、飽く事を知らない。人類の進化の歴史を非常に濃縮した形で、自分の身体を自分の意思で自由に操れるようになるべくトレーニングを根気よく、飽くことなく繰り返している詩音なのである。これはすごい事、とても感動的なことではないか。このエネルギーはどこから湧いてくるのだろう。人間が本能的に持っているものだろうか。身体機能が日々老いに向かうわが身としては、このエネルギー、パワーは羨ましい。わが老い行く者は、自らの意思で厳しく己と闘ったり、律したりしてしか身体機能保持を手に入れることができないと言うのに。この幼児の発達を私たち大人は、根気よく、辛抱強く待っているだろうか。私自身が、余りの同じことの繰り返しを退屈に思い中止させたり、大人の側にやるべき仕事があると時間を気にして止めさせようとする。待てよ、ことねの発達の時間と大人の日常の時間を同一に考えて焦ってはいけない、と自からを戒め、ゆたりと構えようと思いなおす。老いたものは比較的スローな時間で過ごしているが、さらにスローなたっぷりとした時間が幼児には流れているのでは。現代のスビー度感溢れる忙しい日常は、幼児の発達には適さないのではないかとさえ思えてくる。子供は本来、このように自らの中に発達する力を持っている。その力を引き出し、伸ばすのが親の、大人たちのやるべきことではないか。余りにも大人の促成栽培的な働きかけに、伸びる芽は何か、何処に隠されているのかさえ探しあぐねているのが現代の親たちではないのか。どういう親であるべきか、親は何をすべきかは、子供の姿を、子供自身の発達するさまを、混じりけの無い眼で見据えるならば、こども自身の内面にその答えはあると思える。ことねと遊ぶことで、私自身が子供たちの中に在るものを引き出す授業を子供たちとしていたかを改めて原点に立ち戻って反省させてくれた。しかし、この育児支援は実に大変である。老い行く身には重労働である。
2005.07.15
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今朝のNHKのテレビ番組、生活ほっとモーニングで認知症のお年寄りのケアについての番組を放映していた。その番組の中でアメリカの最新のケア理論を取り入れて実践している介護施設とある介護家庭をドキュメントしていた。この介護方法は、徹底して人間の尊厳を介護の中に貫くという方法、技術である。言葉を失い、現実の記憶を失い、この現実世界から徹底的に排除され、哀れみと同情で辛うじて介護されてきた今までのケアの仕方を根本のところで覆したものである。この番組は、記憶を破壊し、言葉を失った老婆と介護者がこころとこころをタッチさせて、コミュニケーションするとどんな世界が作り出されるのかをとても感動的に私たちの眼前に見せてくれた。世間が痴呆と言い、厄介者として扱われているお年寄りの心の闇が、わたしたち老い行く者の心の悲しみや、孤独と深いところで通じているのに、その心と心を通い合わせる技術や方法を知らなかっただけだったのだ。極めて人間的な心を、お互いに通い合わせることの出来る技術を磨くことを私たち介護者が怠っていただけなのだ。 このテレビ番組を通して、もっとも印象深かったのは、そのケアを学び実践し、研究し続けている若い介護者たち自身が、介護を通して人間的にも大きく成長していく姿だ。介護を汚いもの、厄介なものとして家族からさえ排除されている病む老人が多いこのご時勢、介護することを通して、介護者自身も生きることの尊厳と、素晴らしさを実感して成長していく。日本の介護の実践や研究が、トップレベルではこのような水準にまで到達しているのに深い感銘をうけた。 大学を出たばかりの若い、しかし情熱的に介護に取り組もうとしている女性が自信をもって介護の現場に就職してきた。しかし、彼女の一見、優しいお年寄りへの言葉掛けや態度は、彼女の一方的な、独りよがりの優しさであり、相手を人間として対等に心をタッチさせてコミュニケーションしていないことが、実践の中で明らかにされていく。そのことが介護者として、介護の限界を壁をつくっていることを若い介護者は認識していく。彼女がどう自らを変革していけば介護の専門性を獲得していけるのか。とても困難ではあるが明快で、やりがいのある実践的な課題と絶えず彼女は向き合い、格闘している。 人はこのように仕事を通して、新しい価値を創造し、自らの尊厳を高めることが出来る時、立ちはだかる困難を乗り越えるエネルギーが湧いてくる。ただ疲労だけのイライラする落ち込む日常ではない。金儲けが第一義的目的であり、そのためには効率の悪いものは容赦なく切り捨て、消費を大量にすることが豊かさの基準である現代の社会において、弱って行く老人、病んでいる老人は無用の長物となっている。早くこの世から去って欲しい厄介者なのである。その無用の厄介者たちから、深い人間の豊かな感性を逆に学び、鍛えられている、成長している若い介護者たちがいる。まだ、わずかな数であったとしても、そのような青年たちが育ちつつあることは、とても明るい未来を感じる。そして、そういう青年を育てている大人たちもいる。未来を作る人々の確かな足取りがそこにはある。しかもこのケアの実践と技術はアメリカ生まれであると言う。落日のアメリカにもこのような実践や理論が生まれているとは。アメリカはやっぱり奥深いものがある。未来の社会を担っていくのはどのような人々なのか、ここに、そのかすかな答えが垣間見える。
2005.07.11
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連載してきた読書の記事は今日は休み。この関連記事はさらに書きたいこと、書くべきこと沢山ありますがもう少し時間をおき、考えを温めよう。 さて、今日は気分変えて、このブログで写真を飾ってくださっている、まほろばさんの老いてなお活動的に生活しておられる近況です。人生70歳にしてこんなに活動的活発なクラス会がもてるとはすごいですね。それぞれが人生の深い味をにじませて、集えるとは豊かな人生ですね。まほろばさん、今なお学びつつ社会にお役にたて得るべく自己の能力をたえず啓発しておられます。《まほろばさんのおたより》 「神々の国ギリシャに集う」 大学のクラス会で先日1週間ほどギリシャを旅しました。50名くらいのスペイン語学科のクラスでしたが、5名が他界、残りが東京20名、大阪15名、名古屋5名、海外5名と散らばっています。その内のひとりがギリシャ在住20年弱で、彼の企画でエーゲ海クルーズ含めて、この神話と神々の国を訪れたのです。バンコック(2000年)、スペイン(2003年)についで、海外クラス会はこれで3度目です。来年は国内の順番で、明日香村&吉野桜と決まりました。次回の海外クラス会はペルーの空中都市マチュピチュを考えていますが、それまで体力が続くかどうか? いや、そんな高い目標を持って、頑張って生きていくのだ!と気張っています。(パルテノン神殿) (サントリーニ島へのクルージング)(エーゲ海の海水浴)磯の香りしない海、エーゲ海。ニガリを含ます、プランクトンがいない為、べとつかずさらさらの海の海水浴です。 今回のギリシャ旅行のもうひとつの初体験は乗馬(ロバ)。海抜6百メートルの山頂までの8合目ほどの急な登り坂でしたが、人間に手綱を引っ張られてではなく、リーダーの先頭馬に続いて一定間隔を保ちながら馬が勝手に登ってくれるのです。3ユーロ半のお代で20分間ほどの冒険でしたが、バランス崩して振り落とされそうになったりで、これも忘れられない楽しい体験でした。 まほろばさんのお気に入りの言葉、サミエル・ウルマンの座右の銘を以下に引用しました。 老い行く肉体と戦い、精神をいつもフレキシブルなエネルギーで保つことが、老いを生きると言うことではないでしょうか。サミエル・ウルマンの詩は老い行く肉体と精神と日々戦う私たちに、老いてなお毅然と生きることへの警鐘を鳴らしている。サミエル・ウルマンの言葉より。青春とは人生のある期間を言うのではなく、心の様相を言うのだ。優れた創造力、逞しき意志、炎ゆる情熱、怯懦を却ける勇猛心、安易を振り捨てる冒険心、こう言う様相を青春と言うのだ。年を重ねただけで人は老いない。理想を失うときに初めて老いが来る。年月は皮膚のしわを増すが、情熱を失う時に精神はしぼむ。苦悶や狐疑や、不安、恐怖、失望、こう言うものこそ恰も長年月の如く人を老いさせ、精気ある魂をも芥に帰せしめてしまう。年は七十であろうと十六であろうと、その胸中に抱き得るものは何か。曰く、驚異への愛慕心、空にきらめく星辰、その輝きにも似たる事物や思想に対する欽仰、事に処する剛毅な挑戦、小児の如く求めて止まぬ探求心、人生への歓喜と興味。人は信念と共に若く 疑惑と共に老ゆる、人は自信と共に若く 恐怖と共に老ゆる、希望ある限り若く 失望と共に老い朽ちる。大地より、神より、人より、美と喜悦、勇気と壮大、そして偉力の霊感を受ける限り、人の若さは失われない。これらの霊感が絶え、悲嘆の白雪が人の心の奥までも蔽いつくし、皮肉の厚氷がこれを堅くとざすに至れば、この時にこそ人は全く老いて、神の憐れみを乞うる他はなくなる。
2005.07.08
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7/28の日記 脇明子著「読む力は生きる力」本の紹介7/29の日記 我が家の場合(1)娘の場合-読み聞かせの効用は?7/2の日記 我が家の場合(2)孫娘、ことねのブックスタート7/5の日記 我が家の場合(3)息子の読書遍歴 読むこと苦手な息子の読書遍歴ー読み聞かせの効用は? 今日は、「我が家の場合」の第3回目、我が息子の登場である。 この日記にもすでに何回も登場した息子(社会人)、幼い時から運動能力抜群、赤ちゃんの時から活発に動き回る子であった。じっと静かに本を読むなどということは最も嫌いで、不得意とするところであった。小学生の時は少年野球ではスター的華やかな活躍ぶり。父親などプロ野球の選手にするのが夢であった。中学、高校とは水泳の競泳選手であり、勉学は落ち着いてはほとんどやっていない。むろん読書など遠い世界のことであった。読む力、書く力は同年代のレベルに達せず、国語など最悪の成績の中学、高校時代でる。マンガは読みに読み、今では多分かなり玄人好みのマンガ論を書けるほどのマンガ通では。我が家には、昨今はやりのマンガ喫茶を開業できるほどのマンガ本が多量にある。ゲームはプロ中のプロ。あらゆるゲーム機、初期のものからすべて買ったのでは。ゲームソフトもかなりの量(現在は大部分破棄)。少年期から青年期の息子はこんな状態で、今時の社会の風潮にどっぷり浸り、良いにつけ悪いにつけ現代の最先端の電子メディア、映像文化の影響を強く受けて育った子どもである。高校卒業時の書く力など、今時の日本の大部分の高校生の例にもれず、稚拙で大学入試に耐え得る代物ではなかった。その当時、彼には青年らしい深い、論理的な思考する力など全く無いかにみえた。少なくとも表面的には。 ではこの息子にどんな読書遍歴があるのか。 このような思春期青年期を過ごした彼が、現在、生きる力としての読書を最も必要と感じて、これまた、かなりヘビーに本と付き合う日々となっている。最も親に近い読書をする大人になっているではないか。このように変貌を遂げえたのはどうしてなのか。この根拠を、今ここで分析し述べることは難しい。まだ進行中のことであり、今後、彼にとって本はどのようなものになって行くのか未知の部分でもある。しかし、ひとつだけ確かなことは、読書は、彼の人生を大きく転換し、切り拓く力となったということである。深く思考する力、現実を深く洞察する力、さらには本のなかで自らの生きるエネルギーを得たのは確かなことである。 彼の赤ちゃん時から小学5年生までの本の読み聞かせは、質量ともかなり膨大で母親自身もかなり楽しみ学ぶもの多かった。自分で読まない読めない分、この就寝まえの読み聞かせの時間は、彼にとっても唯一落ち着いて、本の世界に遊んだ知的な時間だったのかも。その頃、岩波少年文庫の超長編の物語など何ヶ月もかかって読み終えた。ロフティグ作のドリトル先生の冒険シリーズなど、全部で12巻翻訳されているが、すべて読んだ。一見ありそうにないお話が次々展開されるのに、ただ単なる空想ではなく、おそろしく科学的なところがあり、とてもわくわく楽しかった。母の方が感動したのを思い出す。斉藤惇夫作のガンバの冒険シリーズもとても重厚で長編なのだが、彼の大好きな本であった。すなわち「ガンバとカワウソの冒険」「冒険者たち」「グリックの冒険」などなど。ミヒャエル・エンデの「ジム・ボタンの機関車大旅行」や「ジム・ボタンと13人の海賊」など楽しかったなぁ。その他、J・ベルヌ作、「海底2万海里」などなど。数え上げればきりが無いほどの冊数になる。しかも、読み書きの苦手な小学生の息子にとっては、とても自分の力では読解できない本格的な長編ばかりだ。彼が自力で読書らしいものに取りくむようになる大学生以前に、彼が読んだ(?)本らしき本は、この少年期の読み聞かせの本たちなのである。それのみである。しかしその本の内容はかなり膨大な本格的な読み物ばかりであった。読み聞かせた量も膨大であった。脇明子氏が「読む力は生きる力」のなかで、展開されている「想像力」、言葉のかたまりから「イメージ」する力を息子はこの時期にかなり本格的にトレーニングしていたのかもしれない。長じて大人になったとき、このときのトレーニングがあったからこそ本の世界から、自らの生きる力となるような読書力を獲得することが出来たのかもしれない。この息子が、本が身近にあり、そこから生きる力を得ていける大人になるとは、あの読み聞かせている幼年時には考えられないことであった。さらに、その時の読み聞かせがこのような成長に関ってくるとは、とても信じられない。とても長い時間がかかった。時間が掛かりすぎている。この読む力がなかったら、彼は少年期に、少しばかりスポーツで栄光の座にいたというプライドを捨てきれず、社会からドロップして、すねて生きる今流のニートになっていたかもしれない。この息子についてはまだ分析しきれない発展の途上にあり、今後どのようなスペシャリストに成長していけるか、前途はけわしいのである。
2005.07.05
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序(6/28日の日記) 脇明子著「読む力は生きる力」本の紹介第1回(6/29日日記)我が家の場合(1)ー我が娘の本との出会いと成長第2回目(7/2日) 我が家の場合(2)ー孫娘「ことね」のブックスタート今日は、我が家の場合(2)ー孫のことねが絵本とともに歩んでどう成長しているかを書きたい。詩ちゃんのブックスタート(絵本とともに) ことねが初めて絵本に出会ったのは、生後4ヶ月の頃であった。パパやママと絵本を媒体としての心地よい心のスキンシップの始まりである。 ことねが、絵本を通してどのように豊かな人間らしい感情を育んで成長しているか、人との濃密なコミュニケーションが出来るような能力をどのようにして獲得していくかは、このオババにとってとても興味深く、楽しみな観察である。「ことね」のママは、「ことね」にとても豊かな本の環境を作ろうと日々努力している。絵本を母子で父子で楽しみを分け合いながら、とても暖かで、情感豊かに、ことねワールドを作り出して遊んでいる。ことねは、好奇心に満ちた輝く目で絵本の世界にあそび、人としての心を日々育んでいる。自らの意思をコミュニケーションする言葉を感性を日々成長させている。絵本はそのような「ことね」の成長の力強い援助者である。絵本は未熟な若いママとパパの育児の頼もしい支援者となっている。絵本は「ことね」と若きパパとママのこころを通じさせる太いパイプとなっている。 以下の文は最近の「ことね」が絵本とどのように関り、母子との情愛をどんなに深めているかを示す好例である。(ママのブログから抜粋)ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー「ことね」の最近のお気に入り絵本 最近の詩ちゃんのお気に入りの絵本は、福音館からでている012絵本シリーズの「てんてんてん」。この絵本とってもいいですよね~。かなりオススメします。1ページ目に赤と黒の丸い点がてんてん・・と。てんてんてんとその点をなぞっていくと、次のページにてんとう虫。すると詩ちゃんの目がぱっと輝きます。そして、てんとう虫の点々模様をゆびさして、おつむをテンテン(笑)テンテンは先におつむテンテンで覚えているので、それと結びつくようです。そして次のページにはぐるぐると渦巻き模様が。私がぐるぐるとと言いながら渦巻き模様をなぞると、一緒になってぐるぐるなぞります。そして次のページをめくると、今度はカタツムリ!すると詩ちゃんがまた大喜びして、カタツムリの背中をぐるぐるとなぞります。次のページはきいろい色だけで描かれたちいさな蝶々がたくさん。私がヒラヒラと言いながら、手を蝶々のようにヒラヒラさせると、詩ちゃんも真似してヒラヒラ。そして、その次のページは、黄色い大きな蝶々が一匹。そこで、また詩ちゃんがその蝶々を指差して、自分の手をヒラヒラさせるのです。ちゃんと、前のページにでてきた模様を覚えて、次のページを同じものを見つけることができるのです!すごいですよね!詩ちゃんはその発見がとても新鮮なんでしょうね。何回も何回も繰り返しても、そのたびに目をキラキラさせて喜びます。絵本にもよりますが、最近はこんなふうに、絵本自体を楽しみながら読むことができるようになってきました。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー ここには母と子のほほえましい心の語らいがある。心のスキンシップがある。幼い時このような心の濃密なスキンシップを体験した子供は必ず「自尊」の心をしっかりと身につけ社会のなかで毅然と生きる力を獲得できるのではないだろうか。 母の子への虐待など痛ましい事件が多い昨今、幼い時から、母が子に豊かにコミュニケーションする力を育んでいたら、あのような悲惨な母子関係は防げるのではないだろうか。子が母に意思を通わせる力を育んでいたら、子の可愛らしいさが困難を乗り切る力になる。テレビ漬けや教材名目の高額なビデオ漬けの赤ちゃんには、豊かな情感は育たない。赤ちゃんの目線で、赤ちゃんと心のキャチボールしながら言葉をかわすことでしか赤ちゃんの心は人として育たない。そのために赤ちゃん絵本はとてもよい援助者である。面倒な時間のかかる其れは仕事だ。しかし、その子の成長は可愛らしく頼もしい。そして何よりも母はその子育てを通して母性を育てる。豊かな母性を育む。この子と母の相互の育ちがない子育てはただ疲れるばかりである。子は苛立ちわめき、母はうつ病になる。現代は母子だけの密室で育児が行われている。赤ちゃんも窒息しそうなのである。そんな親子に良質の絵本は、親と子のコミュニケーションする能力を切り拓くよき手助けとなる。絵本は勉強のためにあるのではない。赤ちゃんと親の人としての豊かな成長を手助けする道具としても存在している。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー ことねのママの絵本のブログをリンクしてみました。(Livre d’image,) 母と子が絵本とどのように関って成長しているかとても心豊かになる良質のブログです。今後どのように成長していくか楽しみです。赤ちゃんのいるお母さんはぜひご覧あれ。
2005.07.02
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これは昨日の日記、脇明子著「読む力は生きる力」の続き、我が家版である。第1回目は娘(一児の働くママ)の幼い時からの本との出合いと成長である。第2回目は息子(この7月からやっと社会人、体育系の読書嫌い)の読書遍歴について。第3回目は孫の詩音(ことね)1歳、のブックスタートについてと3回に分けて書いてみたい。我が家の場合―読み聞かせの効果は? 我が家の子供たち(娘と息子)が小さかった頃、子供たちには本好きの母親、私の影響でかなりヘビーな読み聞かせをしていた。とりわけ娘はその影響をかなり強くうけ、本好き、書くことが好きな少女に成長した。彼女は、幼い時から文章を書くことにおいて、同年齢の子供たちに比べ格段上のレベルに達していた。小学校の時など担任に「○○ちゃんの文は小学校の評価基準では評価できないレベル」といわれながらも冴えない普通の点数をいただいていた。(なぜ?小中は個性のない普通の文が評価対象なのか?)さてこの娘、高校ぐらいから若者らしい知性の光る文が書けなくなった。本も余り読まなくなった。もっぱら新しい高校生活の友人たちとのミーハー的なな世界にどっぷり浸り、高校生活を楽しんでいるように見えた。大学生活も似たり寄ったりの生活だったと思う。さらに世界が広がった分、友人たちとの関係を築き楽しむのに多忙であった。高校以後、親の考える、予想していた世界から大きくずれ、親の手の届かぬ別の価値観の世界へと行ってしまったように私たちには思えた。この娘の子育てはどうもうまく行っていない、親の考えるイメージと大きくかけ離れていると私たち親は思う時期があった。しかし、今から思えばこれは思春期から青年期への移行を順調に行っていたというべきか。親から自立しようとしていたというべきか。人としてのコミュニケーション能力を年齢にふさわしく育てていたということか。親が世俗にまみれた人付き合いが苦手で、お宅っぽいコミュニケーション能力未熟なのに反発して、たくましい生きる力を身につけていたというべきか。そして、現在は一児のママであり、保健師として地域のかなり厳しい現実問題を解決する事を、日常的に要求されるハードな仕事で日々に鍛えられ、働く女としてかなり成長してきた。とりわけ一児のママとして働くようになってからは、かなり人として目覚め、子育てに仕事に以前とは質的に異なる新しい発展を遂げようとしているようにも見える。母親の私が時代の制約を受けながら困難な中で色々できなかった事を、娘は若い新しい感覚で乗り越えようとしているかに見える。さて、「本を読む」という点に話をもどそう。この娘の場合、小学校までは親の整えた読書環境にどっぷり浸かって生活していた。幼年期にはテレビやマンガなどほとんど見ていない、ゲームはまだなかった時代なのでゲーム漬けということはなかった。俗世界からかなりかけ離れた幼児期というべきか。絵本や本の世界で遊んでいた穏やかスローな日々であった。確かにこの幼年期に獲得された力は彼女の現在の土台になっており、今もその力が大きな役割を果たしているのは実感できる。まさに、脇明子氏がいっておられる「想像力」、イメージして全体を見通す力、文字を通して情感をイメージして、その世界を理解する力の基本をこの時代に獲得していたのかも入れない。しかし、中学時代の読書は全く親の手の届かぬところとなった。安っぽいオトメチックな少女小説(何百冊と読んだ)やトレンディとかと世間が騒ぐテレビドラマにどっぷり浸かっていた。高校時代はほとんど読書などしていなかった。別に受験勉強で忙しく本を読まなかったわけではない。友人との交友の嵐のなかにいた。大学も高校時代に続き、友人との交友関係の嵐のなかにいたはずだ。看護大学であったので、勉強はかなりハードにやっており、その関係の本はそれなりに読んだかもしれないが、他の本はほとんど読んでいないのである。即ち、本格的な読書とは程遠い大学時代ではなかったかと思う。要するに彼女は、大江健三郎氏や脇明子氏が提唱されている、本格的な古典を読み続ける読書生活へと移行することなく現在に至っている。なぜこのようになっているか。彼女は職業柄、ひろく世界に社会に目を向け、広い視野で人間を見ることを要求されているはずだ。高い専門性が求められているはずだ。そのためには、経験だけに頼るようになってはだめだ。彼女の人生はまだまだ長い、先がある。その途上で、いつか読書によって新たな自分を築き展望の糸口をみつけなければ成らない日があるかもしれない。壁にぶつかる日があるかもしれない。その時に彼女は、再び本の世界に立ち止まり戻っていけるだろうか。幼い日に築いた読書への入り口が、更に本格的な読書へと発展するような人生を、実践的に歩んで行くことができるだろうか。一人の人間の成長や歩みは、かくも長い気が遠くなるような時間なのかもしれないと親としては自らに言い聞かせている今日この頃である。
2005.06.29
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『読む力は生きる力』 脇 明子著 (岩波書店) この本は、人が赤ちゃんから幼年期、思春期、青年期へと成長していくとき、本を読むことの意味は何か、人が人として成長していこうとするとき本を読むことがなぜ必要なのか、さらに、現代の青年たち、子供たちはどんな本をどのように読むべきかを著者、脇明子氏の長年の実践と研究の中から書かれた本である。 現代の日本の大学生の多くは、「本が嫌いなのはあたりまえ」「読まないのが普通」「読もうとしても頭に入ってこない」「自分で読むのはめんどう」と言って、ほとんど自分からは読書らしき読書はしていない。脇明子氏の教えておられる教職につくことを目的としている女子大の学生ですらこのありさまである。この学生たちが将来、日本の次世代を担う子供たちを教えるのである。私たちの世代に比べても、この大学生世代は多彩な絵本が世にあふれ、子供に絵本を読み聞かせるべきだという環境の中で、絵本の読み聞かせにたっぷり浸ってきたはずだ。絵本をたっぷり読み聞かせることが読書の入り口にプラスになっていないのではないか、ではどこにこのように至った問題点があるのか、それが人間形成にどのような影響を及ぼしているかをこの本は論じている。 脇氏は万人が人として生きていく上で必要な能力にイマジネーション(想像力)をあげている。想像力とは頭の中に「イメージ」を作り出す力。その場にないものをイメージする力、思い浮かべる力。現実の世界で先を予想して計画を立てたり、さまざまな人とうまくコミュニケーションをとったりして社会生活をしていくためにこの「想像力」なくてはならぬものである。この想像力をトレーニングしていけば、やがて言葉による描写から人物や情景を思い浮かべることが出来るようになる。これは本を読むのに不可欠な力である。読書が苦手だという子供の大半はこの力がうまく身についていないのである。この能力は自然発生的に身につくものではなく、トレーニングなしには育たない人間にとって、高度な知的活動なのである。日本語の場合、文字(ひらがな)を音に変換することはさほど困難なことではない。しかし、それを言葉のまとまりとして理解し、その内容に沿って想像力を働かせ、感情を動かし、一つの体験にしていくという一連の行為はむずかしいことなのである。幼い子に文字を読めるようになったから自分で本を読みなさいという大人が多い。しかし、文字が読めるようになったら、本当に本は読めるのだろうか。否である。文字から内容をイメージして、理解しその筋の展開を追っていくということは困難な行為なのである。この難しい事を始めたばかりの子供には、大人の手助けがいる。大人が読み聞かせることによって、想像力や感情の動かし方のお手本を示してくれる事が子供にとっては必要なのである。読み聞かせは子供が文字をまだ読む事が出来ないからやっているのではない。子供が「ことば」から豊かにイメージする能力を育てる手助けをしているのである。この過程をたっぷり体験する事で、『文字』を読む行為から想像力を働かせイメージする力へと発展していく。読みたい本はたくさんあるのに、どうしても本の中に入り込めず、「字は読めるのに、本が読めない」若者たちがあふれている。これは『文字』を読む行為から内容をイメージする想像力を育ててこなかったからである。幼児期から思春期にかけてのこのトレーニングを充分にする時間や機会を与えられないまま青年期に到達した。 現在、少年や青年の痛ましい、凄惨な事件が連日報道されているが、ほとんどの場合思春期から青年期の時期にこの「想像力」を育て身につけることが出来ないでいたのではないか。 「本を読まない」でも立派に社会で生活する大人に育った時代があった。狭い意味での同一文化の共同体が大人全員で子どもを育てていた時代である。社会である。語りべの文化があり、語りべのお話が子供たちにその生きる力を育んでいた。現代ではこのような共同体は、ほぼ崩壊している。 では何故、現代の子どもたちは『文字』からイメージする想像力を育てる事ができないでいるのか。脇明子氏は「映像」の氾濫。ゲームやコンピュータの影響をあげておられる。絵本も読む絵本ではなく「見る絵本」の影響力の強さをあげておられる。文字から想像力を働かせイメージする能力が育っていない幼い、未熟な子どもたちが、映像メデァや電子メデァの受身的な映像にどっぷり浸って育つことの弊害である。自分の想像力で思い描いた世界の楽しさ、面白しさを体験しないまま楽なほうに子供は流れていく。絵本も見るものであり、読むものでない。親も見る絵本を好んでいる。この段階から、大学生の読む力は進展していないままである。見る絵本の中で、ぬくぬくとまどろんでいるばかりだ。読むという精神活動は、書き言葉レベルの言葉を使う力であり、次に想像力であり、第三に全体を見渡して論理的に考える力である。この活動は映像メデァでは置き換える事のできない独自のものである。そして、この読むという精神活動はトレーニングなしには獲得できない能力である。子どもにとって読書とは、知識や楽しみを得る手段であると同時に読む力のトレーニングでもあるので、他の手段に置き換える事のできないものなのである。そして、その力は人が人として社会で生きていく力でもある。ではどんな絵本や本が、子供にこのような読む力を育てるのか。この「読む力は生きる力」の本の中には、この観点から子供たちの成長を助ける本が沢山リストアップしてありますのでぜひ参考にしてください。親がまず『読む力』を鍛えたいですね。わが家の場合(3) 息子の読書遍歴 幼年期の読み聞かせが、青年期の読書にどう繋がったかをまとめています。
2005.06.28
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すいか、 ぎらぎら照りつける 乾いた畑で スイカは 滴る水を蓄えて じっと耐えている。 あの血の赤と、ほんのり甘い水分は 照りつける焼くように熱い夏の太陽のエネルギーだ。 スイカは 今日も焼けつく日照りの畑で 暑い夏を生きる。 すいか: (写真:まほろば)
2005.06.26
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我が家の息子が5年ぶりにアメリカから帰国し、7月からの入社準備のため何かと慌ただしく、我が家は普段の夫婦だけの静かな生活が大混乱に陥り、若いエネルギーにかきまわされ、老いていくものが若者と生活する事の大変さを思い知らされています。パソコンもほぼ若者に独占され、いざ始めようとしたら何時も使っていたローマ字入力から日本語変換ができず、あれこれいじりまわしてやっと前の状態に復旧。こんな、あんなで息子は新しい職場へとやっと旅たって行き、私たち夫婦の静かな生活も今日からは少しづつ元のペースにもどりそう。でも、久しぶりに我が家は社会の最前線で日々暮らし、仕事している若者たちの空気が流れ込み、熱気むんむん。しかし一方で日本の若者たちが今、おかれている状況の厳しさを改めて痛感した。とりわけ、誠実に懸命に働く優秀な若者がとても困難な状況に陥っている。世間ではニートとかフリーターとかの若者に注目し、何とかしなければという声がやっと大きくなろうとしている。だが、正規に雇用されて働く正社員の若者たちも、とても大変な状況におかれている。入社間もない青年に過大な仕事が与えられ、それをこなすための指導や助言は何も与えられず、個人的な奮闘で仕事をこなさなければならない。そんな状態が長期(といってもせいぜい6ヶ月~1年)に続き、心も体も疲れ果て仕事に復帰できないで辞めてしう若者が続出しているという。自殺者まで出る厳しさである。中間管理職の年配者たちは仕事の内容、その質、スビードについて行けず、仕事を部下に丸投げして、指導を放棄している。若者を育てる事を放棄している。若者を育てる管理職が育っていないのではないか。高度経済の成長期に30代、40代で会社勤めしていた人たち、更にその上層の管理者たちは、管理職としての見識や能力を磨き、蓄えることを行っていないのではないか。特に世間が羨み、利潤を上げている企業の現状がこのようである。生産ラインを管理する側に採用されている若者がこのように粗末に扱われていいものだろうか。高度成長期以前までは、高校や大学を卒業し企業に就職してしまえば安泰で、ある意味で一生が保障されていた。今、この産業構造はすごいスピードで崩れつつある。安眠をむさぼっていた間に、社会はすごいスピードで変貌していたのだ。中高年が時代の先端について行けずにいるのみならず、自分の歩んできた経験や知恵さえも役立たなくなっている。そんな会社人間が多いのでは。次世代を担う若い柔軟な頭脳が、この中間管理者たちの無能によって無残に破壊されている。いくらでもスペアがあるといわぬばかりに。本当に仕事のスペアは無限にあるだろうか。否である。このように若者の才能や人格を粗末にする会社や国は必ずそのしっぺい返しをくらうだろう。若者たちは確かに懸命に働き、何とか打開の道を見つけようと課題に応えている。ひたむきに応えようとしている。しかし、そのようなひたむきな青年ほど心を病み、ぼろぼろにされている。ぼろぼろにされながらも、なお会社への復帰の道を痛々しいほどまじめに模索して、自らに鞭打っている。狭い閉じられた世界のなかでもがいている。自分が全否定されたと思い込み極度の自信喪失に陥っている。会社からはじき出されたら、再び社会へ復帰できないと必死に復帰への道にしがみ付いている。これで若者の人生は拓かれるだろうか。もっと世界に目を向け自分の生きる視野を広げ、新しい価値観の模索の旅をした方がいいのでは。この今の社会の価値観もいずれ大きく転換するはずだ。30年前と今が大きく価値観を転換したように。若者は未来の価値観を展望して生きる道を模索したほうがいい。今の価値観にしがみ付いていたら、心を病み死が待っているだけだ。子供たちや青年たちの生きる社会は、この今の日本の社会ではない。子供たちや青年たちが生きる未来の社会に耐え得る人間性や、人としての尊厳を実感できる人間像を模索し創りだしていくことが私たち親の仕事ではないか。そして、それは青年たち自身の課題でもある。自分の人間としての尊厳をひどく痛めつけられているのに、それに毅然と立ち向かわない若者たち。そんな若者たちには自殺や、うつという病への道があるばかりだ。力強く生へと立ち向かうエネルギーなど出てくるわけがない。頭の硬い、ちっぽけな権力欲に取り付かれている大人など相手にするな。いずれこの御仁は滅びる。このお方たちも哀れな犠牲者かもしれない。世界は広く果てしない。その世界に目を開こう。
2005.06.24
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これは社会に巣立っていくわが息子に伝えたい言葉である。現代は教養を身につけることが非常に軽視されている。蔑視さえされている。現代社会では知識人は無用の長物なのである。何の利益も生まぬ社会の穀つぶしなのである。本当に無用の長物か?効率よく利益を生むものが尊重されている。教育でさえ、子育てでさえ、効率よく手軽に育てることがもてはやされ、そのためのHow toものが氾濫している。大学においても然りである。特にバルブ崩壊期から十数年間、日本の大学は教養科目を次々に削減、1年生から専門科目を学ばせようとしてきた。その結果、日本の大学はどうなりつつあるか、どのような若者を社会に送り出そうとしているか。日本の多くの大学はどこへいこうとしているか。作家、大江健三郎は現代における知識人について深く思索し、自らも知識人として生きようとしている。大江健三郎は自らの青年期について、高校2年のとき読んだ岩波新書の著者、渡辺一夫に感動し教わろうと思い立った。四国の山の森の谷間から上京し、東京大学に入学した。しかし、田舎の青年にとってはフランス語の壁は高く研究者への道は遠かった。大学院を断念した彼の思いは卒業式にでられないほど屈折したものであった。大学生時代に小説を書き始めていた彼に、渡部一夫先生は、卒業後の4月に彼に研究室に来るように葉書を出された。現れた大江健三郎に、《小説を書いているだけでは退屈します。ある作家、詩人、思想家をきめて、その人の本、その人についての研究書を、3年間読み続けるように。きみは小説家になるのだから、専門の研究者になる必要はない、そこで4年目には、新しいテーマに向かって進むように。》と、専門機関とは無関係にひとりで仕事をする卒業生に「独学」の方法を示された。大江健三郎は先生のこの言葉通りに勉強を続け、この4月から15回目の3年目に入るという。なんという膨大な、気が遠くなるような時の流れであろう。大江健三郎の作品が時代とともに進化し続ける秘密はここにあったのだ。古典の中からの汲めども尽きないこのような膨大な読書の時間の連続があったのだ。何の実用にも結びつかず、なんらかの専門家になれる補償もない、膨大な時間の浪費のようなこの読書法。これは現代の教育や子育てが久しく見失っているものである。実用的な手軽なマニュアル本、才気や誇張のちらばったコーヒータイムにおしゃれに読む本。重厚で長い目で読書に導くようなものは敬遠され、嫌われている。手軽な心の慰みを求めている。それを癒しと錯覚している。その刹那だけ癒されたと錯覚し、さらに強い刺激をもとめる麻薬のような読書だ。本質のところでは何も変わっていない。むしろさらに深刻に蝕まれている。大江健三郎は現代の知識人のあるべき姿を《現代の知識人はアマチュアたるべきである。アマチュアというのは社会の中で 思考し憂慮する人間 のことである。その上での活動が、国家や権力、また自国や他国の市民の一般的な風潮と対立する事があっても、こうでなければならない、と知識人はモラルの問題を提起する資格を持つ。》と言っている。そして、現代の青年たちに、《アマチュアとして個々それぞれに楽しみ、積み上げた読書をもうひとつの新しい習慣として、専門分野で仕事を重ねつつ、社会に憂慮せざるをえなくなれば、再会して頼りに成る批判層を形成する知識人になることを》期待している。そうして彼は、すでにそうした青年たちに巡り合っている、とも言っている。現代の大学は病んでいる。社会はさらに深刻に病んでいる。社会の弱者である幼子や、若者たちが、人として全うに育ちそびれている。この意味からも大江健三郎の知識人としての生き方は多くの示唆を私たちに与えている。この大江健三郎の読書法は、大学が青年たちにどんな教育をすべきかという教訓に満ちている。古典の読書に耐え得る強靭な知性を現代の大学は育てようとはしていない。社会を深く洞察する知性を育てる事が、専門知識教育と同時に大切な事なのではないか。そうして、子育てや教育はこのような膨大な時間の積み重ねだ。効率よくは子供は育たない。効率よくは人は大人にはなれない。
2005.06.15
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今日は息子の大学の卒業式(Commencement)親子ともども、とても苦しい長い道のりであった気もするが、親としてはこれで一区切り。息子が自らの力で、社会人としての道を切り開いていく基盤を、親は子につける義務は果たし終えたのでは。感無量。学位授与式をアメリカの大学では、Commencementという。息子の大学はその行事が3日間続くということだ。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー卒業おめでとう。Commencement!君は今日、カリフォルニアの青い空の下で学位授与式に臨んでいるか。どこまでも青い輝く海と、どこまでも明るいぬける空、濃いブルーの陽光のきらめくキャンバスで、今日から、君は独りで立つ旅立ちを始めるのだ。Commencement ! なんて素敵な言葉 Commencement ! 卒業式。Commencementは 開始。まさに今日は、自らの足で自らの頭脳で独り立ち、生きる旅立ちの始まり。世界の若者たちが出会う十字路で、沢山の若者たちと感動的な出会いがあり沢山の友人との語らいがあり、学びあいがあった。多くの素晴らしい師との出会いは君を学ぶことに目覚めさせた。水泳の競技選手としても、アメリカは君の心と体を鍛えてくれた。競技者としての栄光や挫折は青春の輝く一ページだ。そして、アメリカは君に、日本人としての繊細さや賢さを目覚めさせ、これからの人生の行く手を照らす灯台となった。日本での高校時代の挫折や失意から社会からドロップしそうであったあの時を君が、逆風に頭をあげて、前を見つめて歩むことの出来る高みにまでアメリカでの幾多の出会いや体験が引き上げてくれた。君のその粘り強い意思力と青年としての溢れるエネルギーが道を切り拓く源となった。父も母も、君を支え励まし、ここまで来た。でも、もう私たちは無用になった。君は自らの足で歩める青年に成長した。ありがとう。父も、母も今日のこの日がこんなに素敵な形となって、やってきてくれた事に感謝する。さぁ、君はもう私たちから旅立っていく時だ。新しい世界が君を待っている。新しい出会いが君を待っている。新しい世界に大きく羽ばたいていけよ。Commencement!卒業、おめでとう。
2005.06.12
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昨夜、ジーコ・ジャパンは北朝鮮に勝利し、日本はサッカーのWC大会の出場権を三たび獲得した。近年スポーツの世界では、日本の若者が世界の舞台で活躍することが珍しいことではなくなってきた。世界の中で決して物怖じすることなく、堂々と対等に戦っている。私たちの世代が若い頃には到底考えられない目覚しい活躍である。私たちの世代が、体格やパワーで欧米に劣ることを言い訳にしていた時代とは隔世の感である。しかし今尚、体格やパワーで必ずしも優位にたったわけではない若者たちが、かくも目覚しい活躍をなぜ世界の舞台ですることができるようになったのか。サッカー日本代表の主力選手の半数が欧州のプロチームで活躍している選手たちである。野球のイチローや松井秀樹選手などは、まさに世界の最高峰で活躍している。その他にもゴルフや水泳、フィギュアスケートなどなど世界の最高レベルに挑み戦っている若者たちは枚挙にいとまがない。しかも、世界の最高峰に挑んでいる若者たちはとても深い思索をしている。イチローなど哲学的とも思えるほど成熟した思索をしている。まぁ、若いのにこんなに考えているのかと驚くことが度々である。老成した思考である。技を磨き、たえず限界に挑戦し続けるとかくも人間を成熟させるのか。イチローは大リーグ5年目のキャンプインに、今年の抱負を聞かれて、「今シーズンやっていく中で、新しい壁みたいなものが現れてくれることを期待します。」と言っている。 〈やっていく中で新しい壁を期待する。〉 この思考の柔軟さ。世界の最高峰で記録に挑戦し続けるイチローのすごさは、この言葉のなかにある。日々の現実を深く的確に判断して読み取る能力、そこから自己の越えるべき課題を壁を直視する勇気、壁を超える為の自己との厳しい戦い。壁は自分の主観的な固定的な観念から決して設定されていない。やっていく中で現れてくるものなのだ。しかもそれを期待すると言っている。 31歳の青年がこのような認識に到達しているとはすごい。 サッカーの日本代表ジーコ・ジャパンの方針は、それぞれの選手が自らの判断で自らの能力を発揮し、その総意として勝利へとつながる事を、戦略の第一義的な課題にしているという。選手一人ひとりの自主的な判断力、その判断に基づいて瞬時に行動に移す高い身体的能力、しかもあくまで個人はチームとしての総力にむけて力を発揮しなければならない。個人プレィは許されない。高い身体能力と賢さ、あらゆる場面に的確に判断できる柔軟な思考など、人として全人間的なトータルな力の開花を厳しく要求され続けている。最高峰にいる選手たちは、これらの能力を身につけて成長している若者たちである。それは、日本の現代の学校教育や子育てが久しく見失っている能力である。日本の多くの若者が幼児的で、一人の人間として自立できずあがいている。一番でなくていい、オンリーワンになろうなどと若者はおだてられているが、その内容は無個性な物言わぬ規格品、自分が世界の中心と錯覚している幼い思考の若者たちだ。一人ひとりの個人の賢さが高い技能が組織を動かしていく単位であり、誰からも指図されなくとも機能し、すぐれた実践ができる総体としての社会こそ未来の理想とする社会ではないか。これこそが自由で民主的な社会だ。個性が限りなく豊かになり、それが社会の利益や平和にもつながる社会だ。そのような社会の担い手になる子供たちを育てることが、教育の意義ではないか。これはとても時間のかかる、お金もかかる仕事だ。しかし、今このような一人ひとりが、高い知性と柔軟な身体をもった子供たちを育てることをしなくては、社会は衰退し、やがて滅びるのではないか。日本の社会は、教育は、真の意味での自主性ある高い知性を身につけた子どもを育てる事を拒み続けてきた。勉強はせいぜい学校を通過する為のその場かぎりの知識の切り売りを、詰め込んでいるだけ。其の子供が「出来る」とは、わけの分からぬテストに点をとること。暗記力ある者が勝ちなのだ。其の程度の勉強を国民はしてきたのだ。その結果がいまの有様である。そしてそのように育てられた若者は今、社会で病んでいる。道を見失っている。ジーコ・ジャパンの勝利が意味するものは日本の教育や子育てに深い教訓を与えてはいまいか。とても時間の掛かる、お金のかかるチーム作りを成功に導いたジーコ監督もすごい。だが何よりも彼の戦略が、日本の若者たちをどんどん成長させて素晴らしい選手に育てているのはもっとすごい事。この選手たちが日本の未来を拓く一人に一人にやがて成ってくれる。頼もしいことである。かっての我々の世代が、そして今も底辺では、根性と暴力で服従させることで選手を鍛えようとしている。其の世界は狭い経験主義と教条主義に陥っている硬直した世界だ。其の世界からはすぐれた選手は育っていない。若者たちの頽廃と悲惨な人生が待っているだけだ。WC大会でもジーコ・ジャパンが成功をおさめる事を祈りたい。さらに自立した大人として世界の選手たちと堂々と戦う選手たちに、一回り大きく成長して世界の最高峰の舞台で活躍する日を楽しみにしている。
2005.06.09
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このところ小泉首相の靖国神社参拝をめぐり、マスコミは様々な報道を流している。政治的に微妙な問題でもあり、あまり発言したくない問題であるが私自身の問題としてもどうしても引き下がれない、主張しておきたいことがあるので、今日はこの靖国神社問題について書いてみよう。 私の生家は300年余続いてきたお寺である。私はその寺で祖父母たちに育てられた。(フリーページ、私のおいたち)その祖父母たちに言われ続けたことの一つに、日本の社会で行われている冠婚葬祭が神仏混合であり、お寺の子供は仏教の教義に則して行わなければいけないということであった。今のように靖国神社について、世間が喧しく騒いでいた時代ではなかったが、戦争で亡くなった人々が一様に神社に奉られるのはおかしい。神社で手をたたいて拝むな。手をあわせ拝むということを安易に考えてはいけない、というようなことを幼い私は聞かされていた。死者の心までその本人や家族の意思に反して、神道によって縛ることはおかしい、間違いだと私は聞かされてきた。 明治の新政府は江戸時代以降、仏教内部に吸収、融合されていた神道を分離・独立させ、神道による国民の教化・統合をめざした。 1868年(明治元年)、神仏分離令を発して神仏混淆を禁じて神道の独立をはかった。そこで勢いづいた神官や平田派国学者は各地で寺や仏像・経典を破壊させた。世に言う廃仏毀釈である。 1870年には大教宣布の詔が発布され、翌年の1871年には神社の社格が定められた。このような歴史的な状況のなかで靖国神社は作られた(明治2年)。日本は国教として神道を祀り上げてきたのである。欧米列強に対抗して、国を近代化する為には、富国強兵を一刻も早く実現する必要が明治の新政府にはあった。手っ取り早い国民教化策として、神道は格好の史観であったのだ。これって、近代民主主義国家といえるか。形式上も信教の自由を認めないで、真に自由な国家といえるか。国民一人ひとりの心の中まで国家が干渉するする国家は、まだまだ民主主義的な社会ではない。そして、1945年(昭和20年)年、靖国神社は他の神社仏閣と同等の一宗教法人となるまで、78年の長きわたり戦死者を悼むと同時に、戦死をほめたたえる、いわゆる顕彰の目的で日本国民の中に存在してきた。そして、宗教法人になった今も尚、靖国神社は自らの靖国史観をかかげて国民に宣伝強要している。靖国神社の中に「遊就館」というのがある。ここでは戦争史の展示と自らの史観を宣伝するための書籍やグッズが販売されている。「大東亜戦争」はアジア民族を日本の軍の力で解放する戦いであり正しかった。中国や台湾を日本の領土にしたのは、朝鮮や台湾の人々に恩恵をほどこすため日本領にしたのであり、植民地などではない。等々の歴史観は今も戦時そのままである。 もちろん、この靖国史観に賛成で、この神社に祀られたいという人々は大いに祀ってもらったらいい。その信奉者たちが靖国を参拝するのは全くの自由である。おおいにお参りされたらよろしい。 しかし、日本国の首相がこの神社を参拝するとなれば、それは少し意味合いが異なるのではないか。国が外交上、世界に発信してきた平和国家としての反省や行動(小泉首相も戦没者への追悼、平和を願う気持はおおいにあると常々発言している)とさえ、靖国の史観は反している。相容れていないのである。むしろ靖国神社は歴代政府の戦争に対する反省を非難している。靖国側は自分たちの教義は現代も変わる事がないと言っている。最近、戦争責任者と一般兵士を分祀して祀れという論調があるがとんでもない。靖国史観から分祀など有り得ないし、国民にとっても迷惑な話だ。外国向けの辻褄あわせに過ぎない。神社に祀ること、それ自体を個人の自由意思にすべきだ。死者の魂まで国に縛られたくない人もいるのだ。一宗教法人が国家や国民を代表しているかのように振舞うとは何と傲慢なことか。近代の民主主義国家の理念からも逸脱している。近代国家の根幹は思想、信条の自由を認めるか否かにある。このことが否定されている。小泉某が個人的に靖国を参拝しようがしまいが全く自由である。どうぞご自由に。しかし小泉首相が参拝するとなると其れは少し違うのではないか。中国や韓国にもそれぞれ主張があるのは当然だし、大いに主張すべきだ。しかし、国民としての信条の自由という観点でも国民は大いに発言すべきだ。 国民の中には、無宗教の人もおれば、キリスト教の人もおり、神道の人もおり、仏教の人もおり、様々な人が様々な考えで生きている。その人々すべてにとって、安らかに眠れる場所でなければ、戦死者を追悼することにはならない。何よりも先ず、アジア全体が豊かで平和になるための粘り強い模索をすることが戦死者への供養ではないか。そうでなければ無駄死にだ。 たかが78年間日本の歴史の全面に出たからと言って、それが何だと言うのだ。どうしてその史観が正しいと言える。学問的にもなんら検証されてはいない。傲慢すぎる。歴史はもっとダイナミックに動いている。
2005.06.07
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今時の若者は現代のテレビ、ゲーム、漫画、インターネット、等々私たちの世代にとっては馴染みにくい、理解不能のところのある文化に浸って育ってきた。その若者たちのの感性がいかなる物に育っているかは興味あることである。 我が息子はこの意味で全く現代っ子のひとりである。現代の文明に良くも悪くも洗礼を受けすぎている。健康的な部分も、退廃的な部分もすべて清濁あわせもっている、我々の世代には、わけの分からぬ若者の一人である。この御仁、米国でのかなりハードな武者修行を余儀なくされ、かなり自立した大人に成長した。効率の悪い、無駄ばかりに見える青年前期を歩んできた。遊びの天才、スポーツの天才であった子供時代を経て、今はかなり勉学に目覚めてきた。その子供時代や青年期の無駄に見えた体験が、今、肥やしとなって一つの形をとろうとしている。親世代ではかなり理解不能であるが、なるほど今の文化はこういう感性を育てるのかと妙に納得できる部分もある。以下は、息子のブログからの現代芸能(?)論もどきのエッセイである。この5年間ほとんど日本には不在なのに、どうしてこんなに日本の現代に詳しいの(?)。お金がかかっていますねぇと、親としては愚痴りたいところですが。それが青春というものなのでしょう。膨大な無駄な時間と出費、それが人間を成長させている。〈息子のブログより〉感性は大事 その(2)2005.05.31 Tuesday以前に書いたが、僕にとって松本人志は人並みはずれた感性を持ち合わせた天才である。実は、もう一人天才だと思っている人物がいる。それは脚本家の宮藤官九朗である。「池袋ウエストゲートパーク」、「木更津キャッツアイ」「GO」「ピンポン」「マンハッタン・ラブストーリー」などの脚本で有名な彼は、最近『タイガー&ドラゴン』というドラマの中で、IWGPと木更津キャッツの主演男優「長瀬」「岡田」のジャニーズコラボのキャスティングによって『古典落語』という全くジャニキャラには全く相容れないテーマを描き話題を呼んでいる。彼の作品に共通していることを書く(1)キャスティングする役者は、みな個性派俳優であるが、これを彼の手腕によってさらにアクを出している。にもかかわらず全体として脚本家の独特な世界観の中で絶妙に調和しており、個性が決してぶつかっていない。『タイガー&ドラゴン』においても、ジャニーズが古典落語を語って全く嫌味ではなく、むしろ新鮮さを持って若い世代が受け止められる辺りが彼の凄みだと思う。(2)世の常識や大衆の価値観を斜めから切り込み新たな視点を与えていること。「世の中が誰もが価値を置いていない物」「アウトローな人々」の中に現代社会が持てはやしているものと共通する部分を見い出し、本質的なところで人の求めるものは、(大衆が批判しているものと)なんら変わりないことを痛烈な批判を込めて訴えている。『IWGP,キャッツアイ』でも池袋、木更津、商店街、銭湯、果物屋、床屋(≠美容院)などの設定ですら、官九朗ワールドではとてもお洒落で、若者にも受け入れられる活力のある文化に替わってしまうから不思議である。(3)(1)と(2)は彼の天才的な感性に裏づけされており、おもろいものを嗅ぎ分ける嗅覚は半端ではない。『氣志團』、『酒井若菜』、『古田新太』『森下愛子』『中村獅童』『岡田義徳』などの発掘した感性にはただただ感動。このおもろい物を嗅ぎ分けるセンス・感性というものは、お笑いで言えば『つっこみ』のに通じる才能なのだ。「つっこみ」とはボケに対してどこが笑いどころか、どうして面白いのかという笑いの視点を観客に伝える役目だからである。「つっこみ」が持っている(1)世界観の広さ(2)ボケに対する切り口の鋭さ(3)独特の視点によって『おもしろさ』の可能性は無限大に広がる。松本人志がフリやボケの天才なら,官九朗は突っ込みの天才なのかも知れない。二人の持っている世界観があまりにも独特なために噛み合うことがないかもしれないが、個人的に二人が何らかの形で作品に関わるところを見てみたい。そんなことを考えながら官九朗を見るのが最高の贅沢かもしれない。ちなみに、タイガー&ドラゴンの第3話に出てくる。古典落語の『茶の湯』。風流をテーマにした落語であるが、古典の「風流」と官九朗ワールドの「やべぇもの」(風流)のコレボレーションがたまらない。ここまで完成度高く作り込んだもの最近見てないなぁ。。。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー これは、母にはちぃと異次元の世界過ぎますな。これで若者たちには通じるものあるのでしょうかね。 でもまあこういう新しい感性で、これからの新しい日本を形成する若者の一人に成長してくれることは頼もしいことでもある。 7月からは社会人になる息子。 新しい世界で、また新しい幾多の出会いが待っている。 多くのことをその感性でいっぱい吸収して、さらなる大きな人となりに成長してくれる事を期待したい。 母から更に遠いところに羽ばたけよ。
2005.06.02
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昨日に続き再び、大村はま先生の言葉から。 大村はま先生は教師の専門性を厳しく磨き鍛えることを訴え続けてこられた。戦後の教育に失敗があるとするなら、「教える」ことをしない教師が蔓延していることだおっしゃっている。時まさに教員採用試験が近い今、教師を目指している若者たちにぜひ耳を傾けて欲しい先生の言葉がある。教師志望の青年がその動機を聞かれて、「自分には何も出来ないけれど、教育への愛がある、真心がある、これでやっていくのだ」と答えた。 はま先生は、「熱心と愛情、それだけでやれることはないのです。子供が可愛いとか、よく育って欲しいとか、そんなことは大人がみんな思っていることです。教師だけのことではありません。そんなものを教師の最大の武器のように思って教師になったとしたら、とてもやっていけません。 教師としては、人を育てる能力、教師の技術を持っていなければ困ります。」ここにはプロフェショナルであるとはどういうことなのか、プロとしての専門性とはいかなるものかの深い示唆がある。 現代では初等中等教育においては、知識の量とか、深さ、広さで教師よりも親のほうが優れている、という子どもがそれなりの数、存在している。しかもお母さんにそんな人が結構いる。このような親を持つ子供は、知識の切り売でしか展開していない授業なら学校に行く必要がない。テストの点数だけで競わせ、評価を子どもを教師に従順に従わせる為の道具に使っているだけの学校なら行く必要はない。アメリカなどでは、すでに学校に行かなくても個人でカリキュラムをつくり家庭で学ぶことを州に申請さえすれば学校と認められ、色々な規模の個人的な小中学校があるという。工場で一斉に同じ品質の製品を大量に生産するように、学校が規格品を作って子供を社会に送り出す役目はもう終わった。高度成長期までは、こんな規格品が必要だったのだ。教師もあまり個性的に教師の力量がありすぎることは嫌われたのだ。個性尊重などといいつつ、実は花屋の店頭に並んでいる、無個性な色とりどりの花を社会は必要だったのだ。同じ葉の数、同じ花びらの形、均一な色の花々、完璧までに規格統一された花々がオンリーワンともてはやされているのだ。このような花々はけしてオンリーワンなどではない。物言わぬ従順な、無個性な花々なのだ。野に咲く花の色とりどりは嫌われていたのだ。虫にくわれた葉、風にさらされた紅、風にちぎれた花びら、の花々は嫌われているのだ。しかし、21世紀は、厳しく教師としての専門性が要求される時代になっているのではないだろうか。そして、子供たちが大人となって生きる20年後に、どんな能力を発揮できる子供を育てればよいか、どんな人格で社会の一員として生活を営む子供を育てていけばいいか、という、未来を展望できる教育、人を育てる学びこそ今最も求められている。過去の人類が築いた文化を受け継ぐ仕事、これは教育の支柱である、と同時にこの遺産をどう学び、現代の生きる力につながる創造的な学びに出来るか。ここに教師としての専門性、力量が厳しく問われる時代になっているのではないか。お母さんたちも、わが子どもを遠い未来を見つめて育てているか、問いたい。その未来に、豊かに生きる自立した人間として我が子が育っている姿を思い描いているか。その為には、今何をなすべきか。
2005.05.31
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大村はま先生が96歳の生涯を八重桜の散る4月に終えられました。 戦前、戦後を通じて73歳まで現場の一国語教師を通し、退職後も著述や講演で新しい指導案などを提案し続け、足が弱くなり車いすの生活になってからも全国を回って教育の問題を提起し続けられた「大村はま先生」がこの4月17日に逝去されました。お年は98歳でした。なくなられる直前まで現役でご活躍されていました。 若き日に新渡戸稲造の薫陶を受けられた大村はま先生には、教育に特別な意味と情熱を見出し、ひたすらそれに打ち込んだ明治の教育者たちの血が脈打っている。明治の先人たちの築いてきた様々な知恵や方法、あるいは教育者としての覚悟や姿勢を現代の教育の中に、創造的に発展させて私たちの前に見せてくださった。学ぶとはどういうことか、どうあるべきか、教師としての生きざまの中に、その実践の中に私たちに示しめしてくださった。「学力低下の声を聞きながら」という2002年に行われた先生の講演で先生は成績の「評価」について、評価とは教師にとって、これから子供たちをどう指導していったら良いか、その「指針」を得るもの。一方、子供たちとっては、これからどういうふうに勉強していったらよいか、自分自身に対する指針をもてるもの。この二つが実現しないような評価は教師として失格だ、と言っておられる。教室の一人ひとりの子供の現状の中から、テストの問題は作られる。一人ひとりの子供がどう成長するかという見通しのない試験問題は問題ではない。評価が即、出来たか出来ないかという入試の振り分けテストになっており、教師が問題の意図を説明できないのが現状で情けないとも言っておられる。先生の授業は一人一人、教材が違うと言う。一人ひとりが学ぶ事の充実を喜びを体験し、子供たちを優劣の彼方へと追いやる授業。子供の「個性とか、主体性を尊重せよ」というお題目によって、教師が「教える」ことをしない授業を、教師が自分の専門性を磨かない授業として厳しく批判されている。例えば作文でも「~を書きなさい」と指示する教師。これでは子供たちに書く指導をした事にはならない。子供たちが書いたものに対しても、何も指導しない。ただ「~よくかけましたね、とか。~楽しかったね」とか書き込んで終わり。これで子供たちの書く力が育つことはありえない。「生きる力を育む国語力」まさに、大村はま先生が生涯をかけて探求されたそれは道すじだ。 大村はま先生については、お亡くなりになってから何度も書こうと思いましたが、余りにも素晴らしすぎて書けませんでした。今も書けていません。私も、はま先生や私の祖母のような明治の気骨を受け継いで生ききった女たちのしんがりを汚さぬように、彼女たちに学び続けたいと思います。 大村はま先生の言葉をひとつ。若いお母さんたちの子育てにとっても、とても良い言葉ではないかしら。 〈種をまく方が大切です〉 子供はほめる事が大切です。でも、いいことがあったからほめようというのではなく、褒める事が出てくるように、ほめる種をまいていく事を考えたいと思います。そうせずに、いい事があった子、よく出来た子だけをほめていくと、まんべんなくほめるという訳には中々いきません。 また、少し学年が上がりますと、ほめるに値しない事をほめられたときには、喜ぶよりも、むしろいたわられているような辛い気持になります。 教師はほめる大切さと、ほめる種をまく大切さを並べて、いえ、種をまくことのほうを重く心に留めておきたいものです。 「灯し続ける言葉」 大村はま よりこの「教師」と言うところを「親」と読み替えてみたらどうでしょう。
2005.05.28
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苦味を感じる遺伝子が人類進化の道のりで急速に退化したことを、総合研究大学院大学の郷康広研究員らが突き止めた。この成果が米国遺伝学会誌の今月号に発表されたと新聞が報じていた。 「苦味」の感受性は、さらに毒を体内に取り入れないように備えられているという。人類は発達した脳で毒を学習して、実際に食べなくとも毒を見分けられるようになったことが急速に退化した原因であるらしい。 以前NHKの土曜インタビュー(三宅民夫アナウンサーがインタビュウアとなって各界で活躍している異色の人を訪問してトークする番組)に有名なフランス料理のシェフの三国清三さんが登場した。その時、全国の小学校を回って「キッズ・シェフ」という味覚教育を目的とした移動教室をボランティアで活動しておられる姿が放映された。 三国さんは味の基本は、甘味、酸味、塩味、苦味、の4種類があり、味覚の形成期は小3~6年ごろまでで、その間に「未らい」という舌の表面にある味覚を受け入れる器官が養われていく。この期間に味の基本の味覚を育てないと、大人になってからでは取り返せない、と言っておられた。 この基本の味覚の中で、最近の子供たちは苦味を味あう機会を失っているという。苦味をもった食品を使う食事を与えない親が多くなったからである。 さらに現代の子供たちの多くはファーストフードやインスタント食品を幼い時から常に食べており、味覚が鈍化している。 これらの食材はすべて、大量生産、低コストを第一として、均一の味、サイズを何よりも一義的に考えられ栽培された農作物を材料としている。この現状を三国さんは、大変困った問題だと指摘されていた。 自然の食物のなかには苦味を備えているものが多い。料理のなかに苦味が混ざる事によって、格段に美味しさが増すという。 真夏のぎらぎらする太陽のもとで、熟したトマトの青臭い匂い、独特の酸味。きゅうりや、なす、かぼちゃ、ピーマンなどの夏野菜のあの強烈な夏のエネルギーを感じる濃厚さはファーストフードには適さない。今の子供たちにはこの濃厚な夏野菜の味は嫌われる。 現代では、1年中これらの夏野菜は手に入り、味も淡白で、日本の大地で、自然の恵みと、自然の脅威のなかで育まれた野菜ではない。 万人が抵抗なく食べるために味を濃くしている。 野菜の甘み、野菜の酸味、野菜の苦味などはファーストフードの食材としては不適格なのである。苦味が分からないと、ただ「甘い」ものだけをおいしいと感じるようになる。日本の子供たちや大人までもが「甘さ」ばかりを大切にしている。三国さんの授業は地元の食材を使っておこなわれる。地元の自然が育んだ食材を使っておこなわれる。子供たちの味覚が発達する時期に、どのような味に興味を持たせるか、どのような調理の仕方が味覚を鍛える料理か、子供たちに地元の食材に誇りを持つ事ができる料理とは、このような観点から「KIDシェフ」の授業は展開されている。この授業の詳しい様子は「三国清三シェフの味覚の授業―KIDシェフ」 小学館 (定価:1700円)から本として発売されています。 私たち親は、子供たちにどんな観点から、どんな食事を食べさせているか。今一度反省してみたい。 そして、この「味覚を育てる」という観点からの調理方法を、食材の選び方をこの機会にぜひ考え実践してみてはどうでしょう。子供の心を育む、其れは食事でもある。子供のいのちを育む、其れは食事である。
2005.05.24
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昨夜11時30分から教育テレビで「子育ての輪、支え合う子育て社会をめざして」というパネルデスカッションをやっていた。 何と、昨日書いた日記とほぼ同じ内容、レベルではないか。しかも番組の最後にパネラーが一言づつ言う場面で、お茶の水女子大学の小児科の先生のコメントは昨日エルクさんがコメントに書いてくださったイギリス人が日本の農村で見たことである。著者のイギリス人は違うが内容は全く同じである。(ぜひエルクさんのコメント読んでください。その次の2261394さんのコメントも私と同世代の貴重なご意見です。ぜひご一読を) これは出来すぎだ。余りにも時期がぴたり過ぎる。それだけ、このサイトに集まって来てくださる方が時代に敏感で、なんとかしようと日々悩んでおられるな方たちということですね。心強いことです。有難うございます・ この番組で子育て支援をしている先進的な某化粧品会社の例を放映した。企業内保育所(保育のレベルも高い)に預けて働く、若いママの生き生きした生活ぶりが映し出されていた。産休に入ってる育児中のママも、復帰に向けての不安を拭い去るため、パソコンで日々情報を会社から得る事ができるという。 しかし、このような恵まれた状況で子育てできている企業で働くママはまだまだ少数である。 以前、朝日新聞が次世代育成支援推進法にもとづき、主要100社にアンケートをとり、その結果を掲載した。その結果、100社の多くが社員の子育て支援の行動計画の策定を終えていたことが判明した。しかし、現実はその社員さえ自分の会社の策定された内容を知らなかったり、実行すればいじめや、差別を受けることが多いのが現状ではないか。この現状を変えていくことこそ主要なる課題ではないか。アンケートに日本生命は「年1日有給のアニバーサリー休暇の創設。結婚記念日や誕生日などの記念日に休みを取得できる。」などというひどいものがあった。日本生命って「ニッセイのおばさん」とかいう保険の会社ではないのか。アニバーサーリーなどと洒落て英語使って騙すなよ。そんな事では何の子育て支援にもならない。これを堂々とアンケートに書いてきた会社の人間どんなやつ。きっとこの会社はひどい女性差別、蔑視の会社だ。こういう会社が今までの日本の繁栄の中心にいたのだ。 多様な子育てが選択できる社会。 働きながら子育てをしたい人は安心して働きながら子育て出来るし、自分だけで個人で育てたいと思う人にも社会がそれぞれ違った援助の手が差し伸べられる開かれた育児が望ましい。 そういう子育てを援助する事が、これからの企業の義務であり、それが出来ない余裕のない会社は先行き危ない会社ではないのか。 番組で、若い専業主婦たちが集まっておしゃべりする場を提供している東京のNPOの活動が紹介された。この場所には、近所の小学校の子供たちも遊びに来て赤ちゃんたちと遊ぶ。その遊びに来た6年生の少年少女たちの弁、「赤ちゃんと遊んで楽しかった」(おばばの頃は、六年生は妹や弟をおんぶしてみんなと外で遊んでいましたよ)「ここに来て、赤ちゃんと遊ぶと、いやなことも忘れてなぐさめられる」(まいった、これが小6の女の子の発言とは。若いママさんたち自分の子供がこんな気分でいる事知っていますか、)などと、少年少女たちには赤ちゃんとの交流は好評であった。こういう地域での交流は新米ママさんも、子供たちも赤ちゃんを通して触れ合うことで生きることの感動を学んでいる。これらはまだまだ点の状態でしか日本社会には存在していないけれだ、これらがやがて線になり、面になりことを期待したい。 もう一つこの番組で気になったことは、子育て中の若いママのことをどう思うかという街頭インタビューである。あらゆる年代にインタビューしていたが、とても評判が悪い。70代から60代の爺さん婆さんは口々に、「今の若い人は子供に注意しようものなら、ひどい剣幕で睨み付け、私の子供になにするつもり」と言う、とか「いまの若い人は、子供のしつけをやらない。年寄りが言っても聞かない」一番多いのは「今の若い者は、すべてにおいてあまい」厳しさがないと非難していた。驚いた事に同年代らしい未婚女性まで「おかあさんが子どもを叱っているところをよく見かけるけれど、叱り方がへんだ。友だちに叱っているようででおかしい。子供にはもっと別の叱り方があると思う」とおしゃるではないか。司会者の若いアナウンサー(2人の子持ち)も、50人ばかりにインタビューしたのですが若いお母さんを支持するひとは若干名で少数でした。と苦笑していました。これはいくらなんでもひどすぎる。小学生は赤ちゃんとの交流を楽しいと言っているのに。もう少し温かい目で励ましてもいいのでは。何しろ子供が少ないので、人生のなかで赤ちゃんと出会う機会がほとんどない人も多いのでこれは仕方がないことなのかも。こうみると、草の根のところで子育てする環境がとても窮屈で、おおらかでない事がうかがえますね。自分だけが快適で、わが子だけがいい子に育てばいいと思っている人々が多いのではいかしら。協同で、色々の人たちの手を借りて、ともに成長しあう子育てもダイナミックで困難も多いけれど楽しいですよ。とこのオババは体験から申し上げたい。
2005.05.22
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バアバの育児支援第2日目。 ことねはそれ以後も熱が出たり下がったり。風邪と突発性湿疹か麻疹の併発か病名がまだ診断できてない。湿疹が少しでている。今日は熱は平熱。というわけで再び育児支援はバアバのところにまわって来た。 少子化に歯止めをかける次世代育成支援対策推進法が4月から全面施行された。従業員301人以上の企業とともに、すべての自治体も子育てを応援する行動計画を作る事が義務付けられた。 近年出生率の低下は深刻で、とりわけ大都市、東京の出生率は1.0を割り込んだ。ところが23区のうち、ただ1つ江戸川区だけが全国平均1.29を上回る1.30である。毎年、20代、30代の若い世帯が3万7千人も引っ越してくるという。若い世代の子育てを援助するさまざまな支援を自治体がおこなっている。しかも元気な高齢者たちがをボランティアとして、知恵や経験を次世代に役立てるための養成も自治体が行い、そこで養成された高齢者たちが子育ての支援の一翼を担っている。元気なお年寄りたちが生き生きと子育ての支援活動をしている。老人医療費や介護保険の要介護認定者も23区で最低レベルだという。 子育てと老人問題は21世紀の最重要な課題である。 社会の弱者が共にどう生きていけるかということは、その社会がどれだか豊かな社会かの指標ではないか。 現代の夫婦を単位とした家族構成は、子育てのありかたそのものを大きく変えていく事が必要ではないのか。子供は個人のものであると同時に、社会全体のものであるという認識をさらにみんなの共通の意識とする必要があるのではないか。 江戸川区の試みが実証しているように、子育てに住民のあらゆる知恵や経験が生かされ、お互いに育ちあうことが本来の人間の姿ではないか。 個人の力だけでは限界がある。 我が家の次世代育児支援はこのオババ一人が一手に引き受けているが、これもおかしい。 病気の幼い子が施設の整った、安心して過ごせる病児保育室のようなものがあれば、安心して若いママは働ける。看護師や医師が常勤でいて、ゆったりと1日が過ごせる保育室が市に1箇所ぐらいある事必要ではないか。もうすでに病児保育室のある市もあるけれど、まだまだ少ない。 親子、とりわけ母子だけで毎日、毎日、密室の育児をやっていて母性が本当に育つのだろうか。母子だけの育児は、母親が自分の自己実現のために子育てをしているように見えるケースを時々見かけるけれども。とても視野が狭い。子供の社会性や自立が育っていないように見えるけれど。色々の人々の中で子供が育つ事が、母性をより深いものにしていく事だ。育ちあいということがとても大事だ。 過去の日本の子育ての歴史を紐解いても、母子だけの密室育児をやっていた時代はない。私たちの世代はほとんどが大家族の中で祖父母、兄弟、叔母やら叔父やらの共同でやっていた。その葛藤の中で子供は育ち、母は母性を育ててきた。現代はたとえ2世帯で住んでいても、育児は母子だけのの密室でやられている事が多い。このような育児は子への虐待になりやすい。 子供が健やかに育ち、次世代の社会を担う優れた能力を育むことができるか否かは、住みやす真に豊かな社会を築けるかどうかの分水嶺である。 社会のすべての構成員が子育ての色々の場面で力を貸し合って、母親も生き生き仕事に励める社会、そんな社会で子供はしっかりそだつのではないか。追記:このオババ、余りにも真剣に育児支援をやりすぎ、ことねの風邪が移り、この2日間、熱とのど、頭痛激しくダウンしておりました。もっと肩の力抜いてやらなくちゃ。「ことちゃんの保育園奮戦日記」(リンクしています)で若いママの成長していく姿ごらんください。
2005.05.21
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5月から保育園に行き始めた孫娘の詩音(ことね)が、さっそく風邪(?)で2日前から発熱、今朝は熱は下がったが、もう一日様子をみるということで、このお婆が今日は育児を担当する事になった。 昼間の長時間を責任者となり育児担当するのは30年ぶり、どんな1日となるのやらはなはだ心細い。 まず、保育園の食事、おやつ、睡眠などの生活リズムは出来るだけ保育園のそれに近いものにしよう。昼食はわが老人世帯にある材料で、次の献立。 ゆでほうれん草と裏ごしかぼちゃのミルク和え。がんもどきの煮物。ぶりの煮付け。プチオムライス。さくらんぼ1個。自分のお家では食事中椅子から立ち上がったり、口から食べ物をはきだしたり、てんやわんやなのだけれど、このオババの家ではお行儀よく、ずーと椅子にお座りして食べている。オババに気をつかつてくれているのかしら。 特に、がんもどきとほうれん草のあえものは気にいったのか、ぱくぱくかなりの量を食べましたよ。さてお昼寝。なかなか寝付かず、何時もはママをいらいらさせているのだけれど、今日はオババがことねの眠くなったところを見計らって、抱っこしてゆっくりと子守唄をやさしく静かにうたう。ねんねんころりよおころりよ...と、ゆりかごの歌をカナリアが歌うよ...の2曲を交互に歌う。ほとんど忘れているが昔取った杵柄、音程は狂いぱなしだが、ことちゃんの心には響いているはずだ。5分もしたら、気持良さそうに眠り始めた。やれやれ。オババは古臭い、松谷みよ子さんのわらべ唄のゆたりとした世界が気に入っている。風邪で鼻水たらたら、鼻をかむのをいやがるのだけれど、おでこさんぐるぐる、お目めさんぐるっと、お鼻の橋をわたって、小石をひろって、と歌いながら小石の鼻くそをとると逃げつつもにっこり笑って鼻くそ取れた。転んで頭を家具で打てば、いたいいたいはとんでいけーのノンタンにオババがなって遊ぶ。いたいいたいは飛んでいって、今泣いたカラスはもう笑った。まぁこんな調子で日が暮れた。昔取った杵柄、まだまだこのオババ、赤ちゃんの子育てでも捨てたものでありませんぞ。我が家の家庭内次世代育児支援は、かくのごとく先ずは無事1回目が過ぎた。 保育園1年目は、ことねのママやケンおじさんもそうだったけれど、次々に病気を園で拾ってくる。覚悟しなくちゃ。ことねのママやパパは、その大変さのなかで成長する。母性を父性をより豊かに成長させる。オババもそうだった。 今日はわが教室の中3生が修学旅行でお休みになった。でも遅くから高校生がやってきた。オババの不得意な数学だ。今日は位置ベクトルのややっこしい計算いっぱいだ。 昼間のゆったりとシンプルなわらべ歌の世界とのこの落差。でもオババの脳みそはちょうど適度にバランスとれて快適だ。たまには赤ちゃんの世界もいいものだ。
2005.05.18
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最近、幼い頃からの食育(食事教育)の必要性が叫ばれている。 食べ物の4~5割が破棄されゴミになっているという記事を目にした。以下のような記事である。 アリゾナ大学応用人類学研究所のティモシー・ジョーンズ博士が次のような調査、推計結果を公表した。 アメリカで出回る食料のうち収穫から流通、食卓を通じて40~50%が無駄に捨てられ、経済損失は約1千億ドル(10兆7千億円)に及ぶ。 4人家族の一般家庭では1日約580グラムの食料が捨てられていた。賞味期限切れのパック、肉、缶詰、乳製品などのゴミを調べると、野菜類27%、穀類20%、果物16%、肉11%を占めた。ゴミになる食料は1年に212キロ、約590ドル。全米の家庭に換算すると約430億5千ドル(4兆6千億円)。 流通段階ではコンビニエンスストアで食料の22,33%、ファストフード店で9,55%、レストランで3,11%、スーパーで0,76%が捨てられた。 日本においても、04年食品ロス統計調査によると、日本国内の食堂とレストランで食事の3.3%食べ残しになっている。家庭を含めると約11兆円分の食べ残しがあると試算している。何ということであろう。日米ともに期せずして約11兆円分もの食料が捨てられているのだ。 世界には今この時間にも餓えで苦しみ死んでいっている子供たちがいるというのに。これが大量生産大量消費を豊かさの指標にしている社会の現実である。「食べる」ということは人間の命の根幹にかかわる重大事だ。何をどのように食べるかはその国の、その民族の文化そのものであり、文化の質を決定する。 成長の最も著しい子供たちにとっては、まさに何をどう食べるかは命を育む子育てそのものだ。健やかな柔軟な体を育てる事は心を育てるその事と表裏一体だ。その逆は断じてありえない。そうであるなら、このように食べ物が粗末に扱われていいものだろうか。命を大安売りしていることと変わらないのではないか。 私たちの幼年期は、戦後の混乱の中、現在のように物が溢れていなかった。経済的にも、高度成長期のはるかなたにあり、大部分の国民が農地解放により土地を取得した農業従事者であった。お百姓さんたちは生き生きと米作りをしていた。稲の成長を誇らしげにおしゃべりしている井戸端会議での会話を日常的に耳にして私は育ってきた。遊び仲間たちは、小4年ぐらいから冷たい水田の中で苗とりをしていたし、中学生などは大人に混じって田植えさえもした。貴重な家族の労働力だった。 こういう子供たちが成長して大人になり、日本の高度経済の成長の担い手になったのだ。彼らが現在の日本の豊かさを築いてきたのだ。しかし、この世代が失ったものは余りにも大きすぎる。現代という社会に翻弄され続けている。 私たちの世代は、この百姓の日々の労働を見て育ち、祖父母たちからは「食べ物を粗末にするな。お米は一粒でも拾って食べろ。」と言われ続けてきた。お米が厳しい労働と厳しい自然に耐え生育して、収穫を迎えることの出来る意味とその重さを子供心に肌で感じ取っていた。だから「食べ物を粗末にするな、一粒たりとも残すな」という教えは心に響く。この時代は、食べ物が体の栄養であると同時にこころの滋養ともなりえた貧しいけれども幸福な時代であったのだ。 現代の若者は実に食べ物を粗末に扱っている。給食やレストランでの食べ残しに対して何の心の痛みを感じないばかりか、「最後まで、きれいに食べなさい」と忠告しようものなら、「おなかが満杯になったのに、何で残していけない。」とか「嫌いなものどうして、食べないといかん?」など等、「そんな事、昔のことや。古い古い、今は違う」などと価値観を全面的に否定されたりもする。 若いママたちは、やたらに賞味期限とかを気にしている。賞味期限がきれたと言って気前よく捨てている。捨てるのだったら最初からそんなに大量に買わなければいい。1日分の食料を買うだけで充分だ。 若いママや青年たちには、一粒のお米が、ひとつのトマトがどれだけの人々の労力と丹精が込められているかを想像する能力をなくしてしまっている。植物がこの大地に根をはり、育つ事の尊厳を思いやる知性をなくしている。そして、こんなに豊かに物が溢れているかに見えるけれど、多くの若者たちの食事はとても貧しいものである。食事が貧しいだけではない、食べるという行為そのものもとてもひどい状態である。寂しいものである。高校生で1日に3回、しつかり食事している人はどれだけいるか。親元から離れて暮らす大学生で朝食をしかるべき時間に毎日しつかり食べている人がどれだけいるか。家族が揃って食事する時が少なくとも1日1回はあるか。食べる事はいのちを育む事なのに、その根底がくずれている。親たちの子への幼い頃からの食事への躾け、食べ物への関り方が今の若者たちの食への態度へとつながっている。 私たちの老年世代が次の世代に何を受け継ついで欲しいのか、老年世代はもっと語るべきだ。昔は貧しく粗末なものしかなかったという全面否定の中に今の若者の食生活がある。アメリカ流の大量生産で、コストを如何に低くするかという効率のみを優先する農産物が市場を独占し、食の根本を見失った。そのことによって心の栄養までも失ってしまった。挙句の果てにその生産量の半分近くが捨てられている。食べることは、いのちを育むことでもある。豊かに、健やかに生きる事を阻害するものに敏感に立ち向かう感性を育てる学びが必要である。食育は人間が人として豊かに育つ為に欠かすことの出来ないものである。自分たちが食べている物がどのようにどんな人々の力で作られているか、そこまで遡って学ぶことが今こそ必要な事だ。自らも作物を作ってみるのもいい。種をまき収穫するまでを自分の力でやってみるのがいい。
2005.05.17
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その後のJR福知山線の脱線事故から再び、人間性とは 事故後JR西日本の運転手に嫌がらせが続いた日々があった。女性運転手をけっとばすなどの暴力を加えたり、運転席の後ろの窓に「命」などの張り紙をしたり、等々。さらに、事故当時その列車に乗っていたが、救助に向かわず勤務に付くために出勤した2人の運転手の手記(読売新聞掲載)。この2人はその事故現場で適切な行動を取れなかった自分に対する悔悟とその判断不能による結果の重さを今後背負って生きていかなければならない胸の打ちの苦しさを語っていた。これらの根底に流れているものは事故の原因や責任をすべて個人にのみ帰属させて問題を解決しようという姿勢である。 JRの運転手に非難の矛先を向け、攻撃的な行動に走っている人々は、その人自身が非常に抑圧され、いじめられ、人間性を痛めつけられ、強権に媚びて生きざるをえない弱者たちだ。彼らは、事故の引き金となっている過酷な労務管理、ミスを嘘の報告までしてしか自分の生活を守らなければならない、他人の命を奪ってまでも自分を守らなければならない状況におかれている運転手たちと、自らも根っこのところでは同じである事を思い巡らす事のできない抑圧された人々だ。事故はまるで他人事なのだ。 2人の運転手の手記も、確かにその痛恨、苦しみは吐露されており、痛ましい。しかし、この痛み、人としての判断を適切にできなかった気づくのに、107人の命を奪うほどの大惨事に出会わなければ気づけないとは余りにも悲しい事だ。 日常的に人間の品性を傷つける労務管理が行われ、安全性は第二、利潤追求が第一という職場の中で、非人間的な数々の職場の現実はまるで他人事のように自分には関係のないこと、見て見ぬ振りしてきたそれまでの生活があった。いや、見えてさえいなかったのかも知れない。自分の生活だけに関心をもち守らざるをえない状況に追い込まれていたのかも知れない。 自分の人間性が試される事態に陥った時、適切な判断を下す柔軟な人間的な思考を喪失していた、いや、幼い時からそのような思考を育てていなかったという事を知るべきだ。事故の原因に対して、現在やかましく報道され、騒がれている。しかし、その事故の根底に横たわるものが私たちの日常の中にあるという所まで掘り下げられた報道は少ない。ただ、単にJR西日本だけにある特殊な問題として報道されている。 さらに最近の報道によれば、橋本光人大阪支社長は、作業服と安全靴、作業帽を深くかぶりマスクをつけて、ウインドブレカーを羽織って、事故現場にいながら、人命救助に携わるよう労働者に的確な指示を出さずにいたという。近所の工場の労働者や市場関係者が職場ぐるみ、かなり組織的に救助活動をその目の前でしているというのにである。これで、この支社長、全うな人間か? 人を指導する人格を備えているか。大阪支社長とはかなりのキャリア組みではないか。それこそ受験勉強のレールに乗っかって勝ち抜いてきた人物のポストではないのか。この手の人間が、この事故現場でただぼんやりとしか眺める能しかないのは分かる気がするが。危機に直面して無能なのである。事故当日、橋本支社長は「収入については、駅は良好であったが、エージェント(関連企業)がダメだった。ゴールデンウィークを迎え、臨時売店などのを活用して収入の確保をはかることだ。フロントサービスはよくやっていると思うが、結果はでていない。いろいろ工夫を」と同駅で訓示している。これって、人の命を預かる鉄道会社の朝の訓示?この訓示を平気で発言する人間しか育てられない教育とは、子育てとは何だろう。きっと、この支社長、自分はこの事故に出くわして運が悪かった、ぐらいにしか思っていないのではないか。自分の出世を妨げる不運な出来事ぐらいに思っているのではないか。 人間性を育む教育とは、人命を大切にしろとお題目を唱える教育ではない。 事実を深く知る知性を育む教育のことだ。そこから深く思索できる能力、それを育む持続的な学びだ。そしてその能力は人間の順序だった人間的な成熟の道すじを経なければ獲得できないものだ。 幼い子をせかして、知識だけを詰め込んでも、思春期の子供たちにただ知識だけ急いで詰め込んでも、必ず破綻する。 壊れてからでは、元に戻す事のできない器もある。
2005.05.16
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伝える言葉:「考える力」を育む国語力(2)昨日の日記の続き 私が教室の教材としてぜひ使いたいと思っている記事に、ノーベル賞作家、大江健三郎氏の「伝える言葉」という連載シリーズ(月に1回掲載)がある。 大江氏は昨日10日の新聞に「知的な明るさ:光の新しい作曲の習慣」というエッセイを書いておられる。 これは知的障害を持っているご自身のご子息、作曲家の光さんが、三枚のCDを出した後、作曲に興味をなくしたようにみえたけれど、それ以後どのように音楽と向き合い新たなる地平に到達しようとしたかという7年間の家族の闘いを書いたエッセイである。 大江健三郎氏は「光の最初のCDは、感覚的なきらめきと記憶によるものでした。私らは美しさ懐かしさを喜びましたが、その上での成長と発展は思いませんでした。次のCDで、光がかれ自身の感情的な経験を音楽にしているのを知りました。それが演奏家に、彼らの人間的な表現を呼び出すのに驚きもしました。 そして、もう作曲することはないのだろうと思うこともあった7年の後、音楽理論のレッスンや、妹が考え出した言葉の訓練の方法で、何より言葉の力をしっかりさせた光が、新しいCDを作りました。私はそこに彼自身転換期をひとつ乗り越えてのものを聴き取るように感じています。」と書いておられる。 そして、光の作品に知的な明るさ(知的な悲しみ)を聴き取るとも言っておられる。初期の音楽には、光の心と音楽の間には直接のパイプがあり、言葉は入りこまないものであったが、伝達する言葉を獲得した後での音楽の変化は「知的な明るさ」と語っておられる。 大江氏のこの言葉の意味は重い。 大江氏は、人が人として成長していく時、言葉を獲得して、それを自分自身の生きる力とすることの素晴らしさを力強く語っておられる。 現代の若者たちは大江氏が語っておられるような意味で言葉を獲得し、生きる力にしていこうとしている者は極めて少ない。 とりわけ、幼い時から受験体制の勉強を余儀なくされ、競争に翻弄され成長した若者の言葉は一見、饒舌に見えるが感覚的な言葉の単なる羅列に過ぎない事が多い。言葉を学び獲得していくことが自分の生きる道を切り開く力になってはいない。 人生を切り拓き前進しようとする時、幾多の障害物に出会うはずである、その時、言葉で深く考え、先人たちから学び、自らも創造的にそこから行くべき道を見出していくのは、この光さんのような言葉の獲得ではないか。光さんは障害を持っているからより鋭い形で現れているが、ごく平凡な普通の我々にもこれは普遍な真理であると思う。 私が、若者たちに願うのはこのような生きる力となる言葉の獲得である。 こんな言葉をわが教室の子供たちに、触れさせてあげられたらどんなに素敵だろう。 しかし、高校生、中学生の多くが大江健三郎を文学史上の暗記人物の一人、「えっ、そんな作家いたっけ」と言うのにはまいった。氏がノーベル賞作家と言う事を知っている子供はほとんどいない。 小説は現代の子供たちにはかくも遠い疎遠な存在なのか。最後に大江氏が「老年の私が思うこと。自分が立ち去る時、妹は起きたことを言葉で光に理解させ、光は知的な明るさの音楽を作る。」と結んでおられる。 老い行くわが身にもこの言葉は堪えました。大江氏の父親としての光さんへ深い愛が溢れている。 光さんの音楽が澄んだ静けさの中に知的な明るさをたたえて父の死を奏でる日がいつかあるのか。死は皆にやってくる。
2005.05.11
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