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誕生 春は 命の芽吹くとき 春は 新しい命が生まれるとき 長き、暗い闇の中 独り、涙してトボトボと歩いた 苦しみ、あがいた季節があった。 その闇は深く、果てしない。 しかし、 もの皆、誕生のときが来る。 誕生の苦しみが大きければ大きいほど 確かな、豊かな、エネルギーに満ちた いのちが誕生する。 春は 枯れ草の下に、 裸木の硬いつぼみの中に 確かなエネルーギーを蓄えて 静かに待っている。 君の、私の、闇は濃く深いけれども 春は 必ず来る。 華やいでくる。 ----- Original Message ----- From: To:
2005.02.08
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現在日本では、私立中学の入試真っ盛り。合格して胸膨らませている小学生も多いことでしょう。 東京などの大都会では状況が異なると思いますが、地方都市の私立の中学校について私論を述べてみたい。 公立も中高一貫校を作ろうという動きが最近急である。 子供の数の著しい減少は、生徒を獲得するための私学の個別化を各学校は打ち出そうと必死である。その個別化の中に、有名大学への進学率を上げる、と言うのがある。もっとも分かりやすく、保護者の関心、希望にかなう教育方針である。 確かに、私立の教育内容は義務教育の中学においてさえ、カリキュラムに柔軟性や、一貫性があり公立中学よりより確かな学力を身につけることが可能なように見える。教師も子供たちに点数のとれる学力をつけると言う点でとても熱心であるようにも見える。 しかし、10歳ぐらいから子供たちは受験用の知識の詰め込みを18歳ぐらいまでずっと続けることになる。 これで本当に大部分の子供たちは学力がつくのだろうか。とりわけ思春期から青年期のもっとも多感な、こころの成長を遂げる時期に中学1年から、ほら英検だ、漢検だ、模試だと休む間なく知識の切り売りをしいられている。 なぜそんなに成長を急がせなければならないのか。急がせることで大きく伸びる可能性をも摘み取っているように思われてならない。人それぞれの成長のスピードがあるはずだ。それを無視して人は大人になれない。 子供はスポーツや、さまざまな諸活動で大きく成長する。 私学のスポーツは全国レベルで活躍するような選手の集団であることが多く、他のごく普通の子どもたちは同じような年齢の子ども達の中で切磋琢磨して、運動能力を磨く機会が極めて少なくなっている。子どもがこころや体を鍛え、社会性を身に付けていく場がとても貧弱と言わざるを得ない。 スポーツ以外の活動においても、子供の生きていくための能力を伸ばすようなものになっているとは到底思えない。もっとも今の子ども達は面倒な事を嫌うのでこの私学の方針はその子どもたちにはぴったりなのかもしれない。 物事を、真実を知るということは学びの原点だ。ただやたらに急いで子供を駆り立てても子供はどこかで破綻する。 その子の資質がどこで開花するかはそんなに単純なことではない。教師は未来に花開くかも知れない大切なつぼみを預かって教育をしていることを肝に銘ずるべきだ。 中高一貫教育がただ単なる受験の効率化をめざし、子供を評価する尺度が「勉強が出来るか否か」(非常に狭義なテストの点数で)が重要視されているのなら、その中で大人へと成長するためのこころの葛藤や育ちさえ認めない現実が、八方塞がりの中で悩み苦しんでいる中学生や親たちを益々増やすばかりである。
2005.02.07
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英語教育について、昨日に続いて私論を述べてみたい。 人にはそれぞれの発達の仕方があり、その多様性を無視しての子育てや教育は子どもを自立した大人に育つことを不可能にするのではないでしょうか。 英語の習得もしかり。世間の喧騒にあおられて幼い子に誰れ彼れかまわず英語もどきを与えることは逆にマイナス要因ではないでしょうか。 我が家の息子は現在アメリカの大学に在学中ですが、この息子は中学、高校と英語が嫌いで、英語の成績もひどいものでした。私も何も教えてきませんでしたし、高校までは英語の先生も付けていません、塾にも行っていませんでした。高校卒業後英語の成績が悪すぎ、思うように進路も切り開けずとても苦しみました。 しかし、ある時から急に英語の力がついてきました。このタイプの子どもは一度力がついて来ると真の実力となり、逆にそれまでの長い無駄に見えた道程が豊かに開花してきます。 日本の教育や日本の親はこのようなタイプの子を「出来ない子」と切り捨て前に進みます。親でさえわが子を切り捨てています。子どもの可能性は至る所に有るのに、親は澄んだこころで其れを見極めることがとても困難な時代になっています。 息子の大学に在学している日本人は(30名余り)、99パーセントまで幼い時から外国の教育だけを受け、日本の教育を受けたことのない子女です。英語力のより低い息子がそのお子さんたちと勉学で劣ってはいません。もちろんアメリカ人とも対等に勉強できています。 むしろ、人格や言語の形成期に日本で生粋の日本人として育ったことは彼の確固たるアイデンティーになっており、アメリカの文化をより柔軟に、創造的に受け入れることの出来る基盤ともなっている。それが彼の個性となり、他国の人々から評価され、認められる根拠ともなっている。 このような例から見れば、流暢なきれいな英語を幼い時から身に付けていなくとも、十分にバイリンガルに生きていける。その人が主張できる何を持っているかが問われ、その内容如何で高く評価される。 伝えるべき中味にこそ、幼い時から人としてその子どもがどう育っているかの総体として厳しく世間から問われ、評価されるものであると云うことにもっと目を向けるべきである。 若いお母さん、お父さん、 お子さんとしっかり向き合って、どのような人間にわが子を育てたいのか、じっくり考えてみてください。いたずらに幼児英語の喧騒に惑わされないように。英語の力が必要なのはお母さんではなく、子ども本人の人生の中においてですよ。
2005.02.03
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今日も日本列島は超一級の寒気団に覆われ、各地で大雪。この地方でも今冬初めとの積雪となった。 この日記サイトに時々英語教育に関心のお有りの方が訪問してくださるので、語学教育に、長い年月恥ずかしながら携わってきた者として私見を述べたいと思いますます。 英語教育、とりわけ幼児の英語教育について世間は喧しく宣伝し、早期の英語教育云々が叫ばれている。今、日本で幼い子を駆り立て英語を学ばせることが本当に英語習得にとって意味があるのだろうか? 私も含めて、語学教育に携わる教師の側の問題、レベルに多々問題をかかえている事は事実であるが、日本の語学教育の発展途上の問題として、それは次の世代が止揚していく問題でもある。若い世代に素晴らしいレベルの指導者たちが現れて来ている。 言葉は人を人として成長させるための重要な要素の一つである。言葉を豊かに育てることは、言葉を使って想いをめぐらすこと、言葉を使って自分を表現するこ、言葉を使って他と交わるこのできる人間を育てることである。又、自分の狭い体験の世界だけでは知る事の出来ない広い世界へと言葉は誘ってくれる。 今の子どもたちの多くはこの言葉の習得が余りにも貧弱すぎる。色々なことを学ぶ基盤が出来ないまま青年期に達している。 又、言葉を習得するには苦しい粘り強い持続が必要だ。それは母国語である日本語の習得においても同じことだ。自然発生的に身につくものではない。 観光に行って買い物したり、タクシーに乗る時の言葉を話す事が出来ればよい、というレベルでしか日本語(英語ではないですぞ)を使いこなせない若者が街には溢れている。日本語も英語も観光地で客として使いこなすレベルしか身についていない青年たちが日本には大量に生産されているという事実にもっと目を向けなければならない。 日本はこんな英語教育を目指しているのか? 子どもたちが人として育ちきれていないのに、子どもたちが生きる豊かなエネルギーを育てていないのに、幼い子に英語を教えて何処へ子どもを駆り立てようとするのか。 もちろん英語を話せる環境にある子どもはどんどん身につければいい。しかし、あせって貧しい、いかがわしい英語教育を幼い子に与える必要はない。 言葉は人間を豊かに育てるためにある。 外国語を学ぶことは世界に自分とは異なる生活や、文化の人々が暮らしているのだという深い理解への窓なのだ。 話すことと同時に読むこと、書くこと、日本人の青年たちは日本語においてこの力を育てていない。 日本語がこのありさまで、英語の能力がどうして伸びると言うのか。幼い時にお遊びの英会話もどきを、貧しい家計を切り盛りして習わせてきた青年の多くの行く末はこれなのだ。 高校生の学力に、生きざまに大人たちはもっと関心を示し、幼い時の子育ての教訓にすべきではないか。
2005.02.02
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日本列島に今冬一番の寒波が襲来。列島は大雪に見舞われている。 日本列島は今、入試受験が真っ最中。 この寒さに心凍らせて 心ふるわせて 挑んでいる 君たちよ 今日の肌に刺す寒風を その痛さを 受け止めよ ひとりで歩き始めるにふさわしい それは贈り物だ 明日はきっと晴天だ。
2005.02.01
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最近電車の中で場違いなエレガントだけれどどこか品のない、物欲しげな服装の女子学生をみかける。これって何?と思っていたのだが。 『CanCam』は20代前半の女性を読者層に持つ』月刊ファション誌である。 「上品でかわいくて、ちょっとセクシー」な「もて服=東京エレガンス系」が売りの雑誌である。「男の子の好きな『激モテ★デニムスタイル」とか「めちゃ☆モテNEW春髪」などなど、とにかく男にどうもてるか、のオンパレード。めざす男とは高収入のいわゆる勝ち組の外資系のサラリーマンや医学部生という。そしてそれらしき男たちがどんな外見、服装の女が好きかという「きら★男」のコメントまでついているという手の込みようである。 しかもこのファション誌の発行部数は53万部にまで伸びているのだと言う。売り上げ好調とかいう。 最近の女子中学生、高校生の中には将来の希望は結婚して家庭に入り専業主婦になる事。だから勉強などする必要はない。と言う子がかなりいる。20代の女性も早く結婚したいと言う割合が昨年より10パーセント余り増えている。 一方では男性はどうかというと自立できず、職業に就いていない、就けない青年、が激増している。 このような子どもたちを大量に作り出しているのは私たち親世代であることをもっと自覚し、考える必要があるのではないだろうか。自分の子どもさえそのようにはならなければ良いと考える親が多いが本当にそうだろうか。 子どもが青年になった時、自立した大人として社会で生きることが出来ないで、どうして結婚したり、家庭を築いたり出来ると言うのか。人間性を豊かに育てる根っこを丁寧に育てる、教育や、子育てが今ほど必要な時代はない。 個というものが単位の現代の核家庭では、男も女も真に自立した人間でなければ築けないということを今ほど明快に私たちに示した時代はかってなかった。個を単位にする家庭や社会は今後、益々加速こそすれ、後退することはない。 そのことを親たちはもっと自覚して子どもと接するべきだ。 少子化で人口減少に悩む日本にとって、早く結婚したい願望の女の子が増えることは歓迎すべきかもしれないが、この子どもたちは家庭は築く前に崩壊する楼閣である。 もうすでに社会現象として、若い幼い家庭は悲惨な事件を次々に起こしている。
2005.01.31
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昨日あたりから私大の入試がはじまり、今日も若者たちが試験にいどんでいる。 私自身の入試も大学の時は苦しんだ。その後何年間もそのトラウマで3月が来ると気分が悪くなるほどだった。最近やっとそのトラウマから解放されたかも。20代はずーと自分の進むべき道が分からず道に迷ってばかりいた。暗い青春時代だった。生きる意味が分からなかった。(今も分かっているわけではないが) 体育系のわが息子も、道に迷い長い暗いくらいトンネルの中を親子ともども何年もさ迷った。高校を卒業してから7年目、今年やっとアメリカでの5年間の大学生活を終了し、社会人として巣立つことになっている。 このわが息子の子育ては、私に人間が大人になり自立するとはどういう事なのか、色々教えてくれた。生きることの凄さ、生きることの奥深さを少し垣間見た気がする。一人の人間が人として自力で立ち、生きることの困難さや、その長い道のりを親と子で体験したことは私の人生にとても大きな転機になった気がする。 生きていく上で見失ってはいけない物は何か、とてもシンプルに親子に示してくれた。 現在、毎年よそ様のお子さんたちの受験に悩む春を送っていますが、入試は子どもの成長にとってなかなか難しい問題をはらんでいる。 しかし、これだけは絶対に言い得る。 入試は人生の通過点のひとつではあるが、絶対的なものではない。しかし、着実な基礎学力、生きていくための賢さ、社会をしっかりと見据える目を若者たちが身につけることは絶対に必要だ。 困難に出会った時、それを切り開く知性を育てることが必要だ。自分の生きる21世紀がどのような社会になっていくのかを考ええるような基盤を自己の中に持つことが必要だ。社会の中で生かされている、世界の中で生きていると自己を見据える目が必要だ。 今の若者は余りにも身辺的になり過ぎている。自分が傷つくことを恐れている。 これでは学ぶことの意義や楽しさは分からないのではない のか。 青春は傷つき、泥まみれで突き進むものだ。 入試もそのひとつ。 そこから自らの力で何かをつかみとって頭おあげて進めば いい。
2005.01.30
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土曜日の午前10時からNHKの土曜インタビュー。この番組は現代の社会の中で、色んな分野で、草分け的に道を切り拓いて懸命に生きている人々を三宅民夫アナウンサーが訪問して話を聞くトーク番組である。三宅アナの素朴でやわらかな語り口が登場する人の懐を深く開き好感の持てる番組である。 特に道に迷い苦しんでいる若者にはぜひお勧めしたい番組である。今日29日には鼓打ちの大倉正之助氏が登場した。氏は600年続く鼓の名家、大家の家に生まれたが、若い時家に反旗を翻し、家を捨て、農業で身を立てようとした。その後、紆余曲折して再び鼓に到達した。彼の敲く鼓の音は魂の叫びだ。能とは何か教科書で習うと眠いけれど能とは何か彼の鼓の音と語りは心に浸み込んで納得できる。その音には現代の迷路の中で必死に探し求めた真実がある。日々の想いの切実さがその間にその呼吸にこめられて音になつて響く。遠い昔の民たちもきっとそうだった。鼓を打つことは生きることそのものだったのだと。現代の我々は豊かに思う「間」を失った豊かな想いを間にこめた鼓の音は心の中にしみわたる。能の原点はこんな所にあったのだと目から鱗。
2005.01.29
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サクサクと霜柱を踏んで朝の散歩。吐く息が白い。サクサクと霜柱を踏んで学校に通った幼い日の通学道を思い出す。今の若者たちの多くは霜を見たことがないと言う霜という字が読めない。「車のフロントガラスにくっいているあれが霜なんだ」と驚いて納得する。今の若者たちの95%は露を知らない。お日さまが高く上ってからしか起きない、アスファルとビルヂングの中の若者たちは露を見たことがないと言う。理科で露点の学習をした日、彼らにとって露点とは試験のときに点を取るための知識の羅列のひとつに過ぎない。露をコロコロとサトイモの葉っぱの上を転がして遊んだ幼い日々の体験が「露点」という概念を学んだとき露や霜のことがストーンと胸に落ち感動したあの学びの楽しさを今の子どもたちは知らない。現代の子どもたちに、学ぶ楽しさを生きる力にする事の困難さがここにある。しかし、私たち大人は学ぶ感動を生きる楽しさを子どもたちに伝えなければならない。霜がふる、露がおりる。この言葉は現代ではほぼ死語になろうとしている。
2005.01.28
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今日がこのHPの日記の第一日。朝、愛犬のゆめ(パピヨン)と散歩するのが日課のわたし。今朝の気温も1度でかなり厳しい冷たさ。でも風がなく穏やかな朝。何時もの散歩道のハナミズキの街路樹やさくらの枝が凛とした朝の空気を突き破って、真っ青な青空にぐんと伸びていた。その枝に力強い命の息ぶきが感じられ春の近いことを実感してとても気持ちのよい朝の散歩だった。でも、今週の土曜日あたりからは大学や、高校の私学の入試が始まる。私のところに学びに来ている若者立ちも人生の初めての試練に立ち向かい神経ぴりぴり。あの裸の木々の内に秘めたエネルギーのごと若者たちも心の奥深くに潜むエネルギーを探し求める旅立ちの春がくるといいね。どんなに長い暗い道のりでも、粘る強く歩み続ければ明かりが見えてくる。
2005.01.27
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