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これはすごいです。3.11前後での地震の違いが解りやすい。これはぜひ見ておくべき! 2011年の1年間に発生した地震の凄まじさを視覚的に訴える動画こうしてみると、元々地震は結構頻繁に起きているんですねぇ。でも、3.11以後が極端すぎます。解ってはいるけれど、こうして視覚的にしてもらえると、とても解りやすいです。
2012.02.19
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夕べ地震があったのですね。しかも5強!睡眠薬飲んで爆睡してたので全然気づきませんでした。^^;夜中に不意打ちは勘弁してほしいなぁ。。。もうじき10日が来ます。3/11の本震以来、毎月10日前後は要注意なので、ちょっと怖いです。ねんどろいどの「がんばれミク」と「ストレングス」が届いてるけど、怖くて箱から出せません。w10日過ぎてから飾ろうかな。
2011.07.31
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16日は親父の三回忌があったため、実家のある仙台に帰省してきました。震災後、初の帰省になります。無事法事をすませ、皆で会食をするため仙台駅前に行ったのですが、16日は丁度「東北六魂祭」が開催される日だったので、「せっかくだから一目観ていこう」という事で、勾当台公園へ寄り道したのですが・・・・・。人がすごい!半端じゃない数です。^^;例年、七夕祭りで混雑しますが、そんな比ではありませんでした。勾当台公園ではすでにイベントが始まっていたようですが、何も見えず、近づけず、いや、下手に近づいたら身動きとれなくて帰れなくなること必死。仕方ないので、祭り見学は諦めました。案の定、混乱をさけるため一部の催しが中止になったそうですね。今回は、奥さんの実家(多賀城)に泊めてもらったのですが、そこで一冊の写真集を見せてもらいました。【送料無料】巨大津波が襲った価格:1,000円(税込、送料別)テレビの報道で何度も見ていますが、やはり地元紙は違いますね。収録されている写真の凄さに、思わず見入ってしまいました。こういう物は、被災の記憶を忘れないためにも1冊は残しておきたいです。東京に帰ってきて、早速注文しました。私の実家の家族も、嫁さんの実家の家族もそうでしたが、必ず言われたのが「是非、被災地を見ていって欲しい」の一言。被災した地元の人達の総意なのかもしれません。義兄がわざわざ皆で乗れる車を借りてくれて、17日は、被災地を見せてもらいました。嫁さんの実家を出発すると、すぐにガレキの山が見えてきました。多賀城市内のガレキを集めてきて、とりあえず積んであるのでしょう。車で、南三陸から石巻まで、海岸沿いを走りました。テレビで何度も見た光景がそこに広がっていました・・・・・。何も無い・・・かつて町があったのであろう広大な土地。。。鉄筋の骨組みだけが残ったビル。一見、「この家は残ったのか」と思いながら、近づいてみると、大きな穴があき、室内は全て流されて何も残っていない廃墟。何というか・・・一面ガレキの荒野となっていて、しかも、その光景は3月にテレビでみた光景そのまま。本震から4ヶ月経つのに、なにも変わっていないのです。いや、これでも相当手を入れた後なのでしょうが。。。所々舗装はされていないものの、道は繋がっていましたし、流されてしまった橋の脇に、仮設(?)で橋も造られていました。が、それ以外は4ヶ月前にテレビで見た光景そのままなのです。これは・・・・でも無理も無い。。。どこから手をつけたら良いのでしょう。。。元の町並みを知らない私が見てもそう思うのですから、ここに住んでいた人達は途方に暮れるしかないのではないでしょうか。町の復興に何年かかるのか想像がつきません。「がんばろう日本」などと気安く叫んでいる人達には、是非とも一度被災地を生で見てもらいたい。そう思います。
2011.07.18
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自分に対する記憶のために、書いています。。会社を追い出された私は、仕方なくりんかい線の駅へ向かいました。地震発生後、すぐにシャッターを硬く閉ざしていた東京テレポート駅。。。朝になって、シャッターは開いていましたが、津波の心配があるせいか、東京湾の地下を通る大井町方面は封鎖。東京テレポート⇔新木場間の折り返し運転だけが運行していました。選択肢は二つ。新木場までりんかい線で行き、京葉線で東京駅へ出るか、同じく新木場から有楽町線で有楽町駅へ出るかです。京葉線はディズニーランドへ行くときぐらいしか使ったことがありません。強風でしょっちゅう止まる印象がありました。有楽町線は、地震発生後も頑張って運行していたらしく、ちょっと安心。とりあえず有楽町まで出ようと考えた私でした。ほとんどの人は暗いうちに徒歩でお台場を脱出したらしく、朝のお台場はほとんど人がいませんでした。東京テレポート駅も人は少なく、来る電車もガラガラです。でも、有楽町から先の混雑を想像すると、なかなか電車に乗る気になれませんでした。何本か電車をやりすごした後、駅構内にアナウンスが流れました。折り返し運転を、大崎⇔新木場間に広げるとのアナウンスでした。!!しばらくして、その日初めての大崎行きの電車が到着しました。ガラガラです。安全運転で時間をかけながらですが、大井町駅まで労せずして来ることが出来ました。さて、問題はここからです。8時に運転を再開すると言っていたJRですが、案の定、時間を過ぎてもまったく動いていませんでした。JR駅改札では、駅員に食い掛かり、暴言をはいている客達がいました。醜いです。駅員は困り顔でなだめるのみ。それを遠巻きに見物している人達。。。大井町まで来れれば、蒲田までは5Kmほど。徒歩でも十分帰れます。尾?骨さえ痛めてなければ・・・・。^^;諦めてJRが動き出すまで待とうと思い、駅ビルの外へ出ました。大勢の人達がいます。。。皆電車を待っている様子。道路は・・・・・車が全然走っておらず、壮観にさえ思えました。そこで私は偶然見つけました!路線バスの案内板。そこに、「蒲田駅行き」の路線がある事を!!ダメ元で、バス乗り場まで行くと、なんとバスは運行していました。なんという幸運!!こうして、運良く自宅へと無事帰り着く事ができました。・・・・・・・・・・・・・・・・・夜に奥さんが仕事から帰ってきて、やっと家族が揃いました。相変わらず余震は続き、不安ではありましたが、家族がいれば安心できます。が、奥さんから大変な事を聞きました。なんと、多賀城と気仙沼にいる、奥さんの親兄弟とまだ連絡が取れていないというのです。加えて、いくらかまともになった頭で考えると、私のいとこや親戚の安否も不明でした。今回の津波で被害にあった、仙台、多賀城、気仙沼、山田町は、我が家の親戚ゾーンばかり。地震発生翌日は、まだ安否確認のための情報もインターネットには広がっていない状態。お役所は安否相談窓口を開いていましたが、どこへかけても繋がりません。。。とりあえずGoogleが始めたパーソンファインダーに登録し、インターネットで情報を探し始めました。仙台と多賀城は、翌日までに連絡が通じ、無事を確認。ライフラインが全滅しかなり大変そうでしたが、津波も届かず家も無事との事。気仙沼、山田町は、まったく連絡が取れません。。。翌週の月曜日。計画停電により出社や帰宅が不安視されるため、会社から自宅待機可能との連絡を受けました。元より腰が痛くて出勤難民の渦に入るのに危険を感じていた私は、当然自宅待機を選択。自宅のパソコンにスカイプを入れ、福岡のメンバーと常にチャットできる状態にし、1週間自宅で仕事をする事にしました。と言っても、仕事半分で、親戚の安否情報を調べていたわけですが。。。テレビで気仙沼と山田町は壊滅状態と知り、かなりパニクリました。無事に避難しているとは思いますが、連絡が付かない事には安心できません。こんな時、Googleは頼もしいです。先のパーソンファインダーに加え、避難所名簿共有サービスを展開。避難所の名簿を写真で撮ってアルバムサイトに送り、情報を皆に公開しようというサービスです。これに早い段階から積極的に写真をアップデートしてくれたのが山田町でした。私は、仕事の合間に写真を一枚一枚見てチェック。いとこらしき名前を見つけました。電話は繋がらないので、とりあえず仙台在住のいとこ兄へ通知。しかし、今現在、まだ連絡がとれたという知らせは来ていません。。。気仙沼の無事は水曜にやっと確認できました。一気に脱力。。。尾?骨と背中はまだ痛いです。今週病院にやっと行き、痛み止めを処方してもらいました。一週間後、まだ痛みがとれなければレントゲンを撮るそうです。日常生活には支障ないレベルまで回復しましたが、うっかり姿勢や重心を間違えると、まだ激痛がきます。;;なんか、尾?骨の内側が痛いです。外側ではないので、打撲と違うのかな。。。来週は火曜から木曜まで福岡出張です。東日本では、こんなに大変な事になっているのに、福岡ではスケジュールに追われて仕事が山積みです。(いや、こんな時だからでしょうか・・・)いくらか落ち着いたものの、まだまだ余震が続いています。疲れのせいかフラフラで、最近はめまいなのか余震なのか判らなくなってきました。^^;いや、こんな事言ってはいられませんね。被災地では、今も大勢の人たちが避難所生活で頑張っています。昨日、外出したら、駅前に高校生達が並び、大きな声で募金を募っていました。わずかではありますが、1000円入れてきました。ちなみに、我が家のフィギュア達は、ほとんど全滅でした。;;ほとんどがコレクションケースから投げ出され、壊れたもの多数。特に多かったのは、地震の揺れでケース内を踊ったせいか、あちこちの塗装が擦れたように?げた娘達。。。とりあえず、足場を確保するため、「ごめんよ~」と言いながら箱へかき集め、部屋の隅へ。。。破片も見つけたものは箱へ入れましたが、今はパズルをする気力はありません。娘達の修復は、もう少し元気が出てからにします。^^;ガラス張りのコレクションケースが、倒れず割れず無事だったのは軌跡でした。この中にフィギュア達を戻してあげられる日はいつになるやら。。。。
2011.03.20
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自分に対する記憶のために、書いています。。。止まってしまったエレベーター。尾?骨を痛めて非常階段を昇れない私は、14階のオフィスを目の前にして、1階のロビーにいました。周りには誰もいません。私一人・・・。とりあえず、家族の事が心配でした。電話はもちろん繋がらず、メールも何度試しても失敗。。。ビルから避難した時、すぐに送ったメールには、全然返事が来ません。地震発生の日は、私も奥さんも仕事だったので、家には子供一人です。それがとても心配でした。やっと奥さんからメールが届いたのは夜です。メールサーバもパンク状態だったのでしょう。タイムスタンプを見ると、地震後すぐに送られたメールでした。続いて、仙台の母からも無事のメールを受信。その後、奇跡的に奥さんと電話が繋がりました。とりあえず無事を確認。続いて子供の携帯にも繋がりました!家で一人、布団をかぶって震えていたそうです。。。「お母ちゃんが帰ってこない。いつ返ってくるの!?」大きな余震は、まだまだ続いています。交通機関は全て止まっているため、私も奥さんも帰れません。明日もいつ帰れるか解りません。家に一人で居させるのは危険と思い、友達の家に行くよう言いました。一晩泊めてもらえと。そこで、私の携帯は電池が切れました。。。とりあえず家族の無事は確認できたので一安心です。で、我に返りました。ロビーは寒い。。。。しばらくして、ロビーに残っていた私に、ビル管の人が「どうしました?」と来てくれました。事情を話すと、「エレベーターが動くまで待ってください」との事。でも、全てのエレベーターの安全が確認できず、結局、エレベーターは翌日まで利用禁止のままだったのです。が、、、実は夜10時過ぎ、点検が完了したエレベーター1機を特別に動かしてもらい、14階へ運んで貰えたのでした。14階に着いた時、エレベーターのメンテ員に言われました。「今回は特別です。以後はエレベーターは使えませんから、そのつもりでいてください」ごもっともです。。。なんとかオフィスへ戻れた私は、ニコニコの生中継で地震被害の凄さに驚愕です。出張用の宿泊荷物に携帯の充電器を持っていたのは幸いでした。すぐにオフィスのコンセントに充電器を挿し、子供に電話。今度はすぐに繋がりました。子供は友達の家に居るとの事。友達の母親に電話を代わってもらい、一晩泊めてくれるようお願いしました。夜の間も余震は続きます。地震警報のアラームがオフィスに響く度に体が硬くなり、余震の揺れで気持ち悪くなります。結局、その夜は眠れませんでした。朝になり、JRが8時ごろ復旧するらしいとの情報が社内に流れると、オフィスで夜を明かした社員さん達が、少しずつ帰っていきました。皆徒歩でお台場脱出です。私は・・・・オフィスに残っていました。尾?骨が痛くて歩いてお台場脱出は無理です。電車が動いても、しばらくは帰宅難民による大混乱でしょう。この体でそこに突入するのは、あまりにも危険です。それに、一度下に降りたら、二度と14階には戻ってこられない事が解っていました。。。電車が確実に動き出し、ある程度時間が経つまでオフィスにいようと思いました。が、現実はそう甘くはありません。^^;JRの復旧予定である8時近くになると、職場のお偉いさんがオフィスに残っている私達に帰宅するよう指示。オフィスを追い出されてしまいました。;;
2011.03.19
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この2週間、いろいろありすぎてパニック状態でした。今週末が3連休なのは救いです。やっと一息つけます。。。先々週の火曜日から私のパニックは始まりました。8日(火曜)、出張で福岡行きの飛行機の中で、突如気分が悪くなり、薬を貰おうと乗務員さんのところへ歩いていった所で気を失いました。><気が付くと通路に倒れており、乗務員が周りの乗客に頼んで私を起こそうとしていました。自分では全然記憶がないのですが、倒れた時に尾?骨と背中を強打したらしく、意識回復後、すごい激痛が。。。歩くのも一苦労で、鞄を持ち上げることもできません。福岡空港では、カート(乳母車みたいなの)を借りて、そこに鞄を載せ、ヨタヨタとタクシー乗り場まで移動。夜で病院は閉まっているし、翌日からは仕事の予定が詰まっていたので、「きっと、ただの打撲だ。週末になっても痛みが引かなかったら病院に行けばいいさ」と、痛みをこらえて福岡出張を乗り切ったのでした。東京に帰ってきたのは、11日(金曜)の午前中です。(今考えるとこれは幸運でした。午後だったら東京に帰れなかった^^;)羽田空港からお台場の職場に直行し、そのまま仕事を続けていました。痛みが引かないので、少し早めに退社して病院に行こうと思っていたのですが・・・。東北地方太平洋沖地震発生。。。お台場の高層ビルはよく揺れます。ハンパ無く揺れます。酔います。気持ち悪かったです。地震発生後、避難指示があり、全員ビルの外へ。なんとか階段を降りる事はできたので、非常階段で外へ。。。しばらくして、安全が確認され、全員オフィスへ戻って良いとなりました。が、エレベーターが止まっています。。。皆は非常階段を昇ってオフィスへ戻っていきます。。。私は・・・・階段降りるのは出来ましたが、昇れない。^^;階段を昇ろうと足を踏ん張ると、尾?骨に激痛が!開き直ってそのまま家に帰ろうとしましたが、既に交通手段が無くなっていました。><ああいうとき、お台場は文字通り「陸の孤島」ですね。。。諦めて、そのまま1階のロビーにいました。ロビーには観光客等が大勢非難してきており、「マグニチュード8.0」みたい。が、ロビーは冷えます。寒いです。夜8時過ぎ、ビル管が8階を避難者に開放。「空調、暖房があるので、皆さん8階へ移動してください~」とアナウンスがあり、ロビーに居た人達は皆8階へ。そして・・・・・ロビーには私一人だけが残されました・・・・。;;8階へ行かずとも、14階へいけば職場なのに~。
2011.03.18
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