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中村区大秋町に鎮座する大秋 八幡社の社頭から、一筋東を右折、直進した三叉路を左折すると住宅街の中に森が見えます。今回掲載する松原町の八幡社の杜です。上は明治31年当時の鷹場村大字則武集落。江戸時代の当地は中野高畑村の旧中野村に当たり、明治11年(1878)愛知郡中島村、中野高畑村、大秋村が合併し、同郡則武村として成立。明治22年(1889)、町村制の施行に伴い、鷹場村が発足、鷹場の名はその昔領主の鷹狩の場からあやかったとも。則武と聞くともう少し北のイメージですが、則武のはじまりの地はこのあたりといっても過言ではない。移動時間は2~3分程でしょうか。松原 八幡社社頭。東向きに鳥居と蕃塀を構え、右に「村社 八幡社」社号標が立つ。境内の大きな楠が八幡社の歴史を物語っているようだ。鳥居左の玉垣沿いに身かわり地蔵の覆屋があります。自分に降りかかる苦悩を、このお地蔵様に祈願すると代わりに引き受けてくれる。なんとも慈悲深いお地蔵様です。境内から東を眺める、鳥居の先には名駅のビル群が聳えている。境内右の手水舎と社務所。鳥居や右手の社号標の寄進は大正時代のもの。控柱がつく三間の木造蕃塀。この辺りはこうした蕃塀を構えた神社が多いようです。番塀から先の境内全景。境内は鳥居正面のこの参道と、左に則武天満宮に続く参道が伸びています。社殿の高さを遥かに超える楠は見事なものだ。参道を守護する狛犬。こちらは昭和37年(1962)に寄進されたもの。左手の則武天満宮に続く参道の眺め。左の舞殿のような瓦葺の建物の詳細は良く分からなかった。参道先の則武天満宮社頭。左に「天満宮」の社標、正面の石造神明鳥居の先が社殿。参道脇の楠木の枝振り。社殿全景、本殿は見られなかったが、拝殿は切妻平入で向拝が付くもの。参道脇の狛犬と優しい顔の撫で牛。則武天満宮の詳細は良く分からず、祭神は菅原道真だと思われます。八幡社拝殿付近の由緒(一部読み取れず)。「村社 八幡社鎮座地 名古屋市中村区則武町八幡祭神 品陀和気命例祭 10月10日由緒 当神社 尾張誌に八幡社・水野社の2社並びて中野高畑村にあると見える。其一にして中野分氏神なり。創立に関わる文献微全て。。見当たらざるも現在の石灯籠中に明和8年の銘刻あるよりして、察するに200年を下らざるわ明なり。往昔より今の縣社若宮八幡社の在中末社たりしを明治初め村社に列し大正12年神饌幣帛料供進神社に指定せらる。昭和15年12月」祭神は五穀豊穣、無病息災、厄除け、商売繁盛の御利益を授かることができる品陀和気命。尾張誌「八幡社・水野社の2社並びて中野高畑村にある一社で中野分の氏神。創建は不明だが明和8年(1771)銘の燈籠から250年以上の歴史を持つ。若宮八幡社の末社であった。明治初め村社に列格、大正12年神饌幣帛料供進神社に指定(神道指令により昭和20年(1945)廃される)。という事のようです。日比津・大秋の里散策コースによると以下のように解説されていた。「旧中野村の氏神。若宮旧記によれば、若宮八幡境外末社にして、若宮これを支配す、とあります。イチョウ、クスノキ等保存樹の大木があり、明和8年 (1771年)鶴田信吉による石燈篭が残っています」八幡社幣殿の鬼には桐紋が入る。ここ中村区は秀吉の生誕地とされ、西に20分も歩けば豊國神社は近い。拝殿と向拝の屋根の連なり。こちらには八幡社らしい八の紋と鬼には橘の紋が見える。八幡社社殿全景。大分県宇佐市の宇佐神宮を総本社とし、祭神は品陀和気命(応神天皇)をお祀りする神社。社殿は妻入り拝殿に平入幣殿、本殿を収める覆殿と連なっている。拝殿右に見事な樹冠を持った連理の楠。境内社幣殿右手の妻側から回廊で境内社に結ばれている。神域には四つの社が祀られており、左が御鍬社、御霊社、熱田社・天照皇大神・津島社の相殿、一番右に秋葉社が祀られ、参拝は玉垣の外からになります。御鍬社(右)と覆殿。拝殿から社頭の眺め。この辺りの神社はどこに訪れても社殿配置が似ており、提灯櫓を見かけることが多い。祭礼時、櫓に吊るされた提灯に灯りが灯され、氏子や参拝者で賑わう光景は昔懐かしいものがあるだろう。松原町の氏神さまの八幡社。江戸時代前期にはすでに存在していたとされ、その歴史や背景の情報が少ないため謎は残っていますが、本陣駅周辺を訪れた際、大きく枝を張った楠の巨木と明和8年の燈籠を探して見ては。松原 八幡社創建 / 不明祭神 / 品陀和気命(応神天皇)境内社 / 御鍬社、御霊社、熱田社、天照皇大神、津島社、秋葉社、則武天満宮所在地 / 名古屋市中村区松原町4丁目79地下鉄東山線「本陣駅3番出口」から南方向へ徒歩約10分大秋 八幡社から松原 八幡社 / 南東に5分程参拝日 / 2027/01/09関連記事 / ・大秋 八幡社・豊前国一之宮 宇佐神宮 (大分県宇佐市)
2024.01.31
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八事五社宮から引き続きとなる今回、五社宮から少し南に下った所に鎮座する高照寺。上は地下鉄2番出口に掲げられている天白区史跡散策路マップ。ひと回り約6.5㌔、八事周辺の社寺を廻るコース。そのコースに高照寺が含まれ、概説には以下のように紹介されています。「臨済宗。元は延喜式神名帳に記載のある丹羽郡稲木荘寄木村の稲木神社(稲置天神)で、享保9年(1724)天道山高照寺と改め、寛保元年(1741)愛知郡八事邑の現在地に遷座。本堂は天道宮とも云われ、御本尊は天道大日如来を祀る。往時の寺域は広大で、五社宮を含め八事の八勝館あたりまで境内だった」高照寺へは地下鉄八事駅2番出口を左に進み、八事南交差点を南に下り、五社宮の社頭前を2~3分下った右に山門を構えています。八事南交差点の南に「天道山大門」と刻まれた石標の立つ交差点があり、こちらを進みます。大正元年に寄進されたこの石標、当時八事を訪れた参拝者の道標となった。周囲の景観は変った現在もこうして残されています。右手に見える杜が前回掲載した五社宮の杜。上は高照寺山門付近から五社宮の眺め。一帯は南を流れる天白川に向かって緩やかに下る丘陵地で、五社宮の社頭から山門までの所要時間は徒歩2~3分程だろうか。高照寺山門全景。参道は南北を幼稚園の施設に挟まれています。間口が狭く、山門が奥まった所にあるので少し分かり難いかもかもしれませんが、歩道沿いに聳える大きな松が目印になります。参道入口の注意看板。住宅の広がる一帯に、大きな蛇が生息できる環境が残っているようだ。高照寺山門。臨済宗妙心寺派の寺院で山号は天道山、城東西国三十三所観音霊場13番札所でもある。間口は狭いが山門から先の境内は広がりがあり、外観に反して広い境内を持っています。寺域の東側に立つ山門。この山門がいつ頃のものかは不明ですが、切妻瓦葺の薬井門は築地塀と繋がり、かつての広い寺域全体を囲っていたのでしょう。山門の山号額。境内から見る山門。木造ならではの落ち着いた佇まいの門、遠目に大きな傷みは見られませんが、破風や懸魚など腐食は進んでいるようです。山門から眺める境内。正面に拝殿(呼称は不明)と本堂、右に庫裏などの伽藍が広がっています。参道左に「天道山高照寺」の寺号標。年代は見ていませんが、境内には遷座する前、現在の江南市を示す「丹羽郡今市場村」の銘が入った石灯籠(1698)などがある。参道左の寺務所に掲げられている先端が宝珠の形の輪宝紋。境内右の庫裏と観音像。像の周辺は、嘗て子安観音を祀る観音堂が建てられていた場所で、経年劣化から堂は取り壊し、子安観音は本堂に安置され、その跡地に石造を祀ったもの。本堂の観音様と併せてお参りしないと片参りなんだとか。拝殿、本堂全景。境内左側の光景。参道左に手水舎があり、本堂左から南にかけて複数の堂と石像がある。手水舎全景、切妻瓦葺の二間の建物で左の間には古井戸がある。手水鉢の年代は分からなかったが「十二世 全初尼 首座」と刻まれているようだ。尾張名所図の一文に、現在の江南市に鎮座し尼僧が守る稲木神社で、享保9年(1724)に天道山高照寺と改名、寛保元年(1741)現在地へ移転。。。とある事から、この手水鉢はその時代を伝えるものか。拝殿全景。入母屋瓦葺の平入二棟の建物が連なり、神社の拝殿か舞殿を思わせるような建物で、大きな鈴と鈴紐が降ろされています。本尊を安置する本堂はこの建物の後方に連なっています。左の堂は文殊弘法堂。上は本堂の大棟、下は手前の拝殿向拝の上で踊る獅子。向拝の木鼻と蟇股。感覚的には神社と錯覚し、拍手をしてしまいそうになるが、神仏習合時ならともかく、現在は寺院。参拝を終え下足を脱いで本堂へ。お参りしている時は気が付かなかったが、一歩中に入り格子天井を眺めると、天井絵が描かれています。木の地色に白の顔料で人物や草花が描かれていますが、退色が進み作者や寄進年などは見つけられなかった。本堂前に吊るされた鰐口、銘文が刻まれていましたが、読み取る事が出来なかった。下は天道山縁日の年間予定、全て大陰暦に基づいて開催され、裕福無禍を祈願する天道祭は旧暦の10月14日に行われ、今年令和6年は11月14日になるようです。上本堂軒下の「高照寺」の額と吊灯籠。下本堂入口の光景。外光が反射し内部はよく見えないが、こちらに本尊の天道大日如来と子安観音が安置され、左の間に観音様、不動明王、毘沙門天が安置されている。堂内には三つ葉葵の紋幕が張られ、右の間には稲木社、神明社、天王社が祀られています。寄木の天道と呼ばれた稲木神社は高照寺に改め、遷座後、神仏分離により五社宮に分離されたと認識していたが、現在も堂内に祀られています。拝殿(呼称は不明)内に吊るされた鰐口と鈴が吊るされているのはそうしたこともあるようだ。江南市に鎮座する稲木神社の由緒によると「寛保元年(1741)末社の五社(日宮・月宮・星宮・神明社・八坂社)とともに、愛知郡八事村野分新田に移されたが、明治元年(1868)、再び末社とともに現在地に復された」とある。どんな背景から行ったり来たりしたものか、一度江南にも訪れないといけない。上手前の建物の内部に弘法大師らしき一体の石像が安置されている。下本堂と拝殿周辺には、複数の象の置物が並べら、宝珠のついた親柱を持つ高欄の先が本堂、本堂と拝殿は随分と高さが違い、神社様式の強い建物です。本堂左の文殊弘法堂。「七つと十三参りにて 知恵を授かる文殊様 弘法様もみそなわす。おりこうさんになるよう お祈りしましょう」とある。文殊弘法堂の左の薬師如来堂と左の石像はなかよし地蔵尊。・薬師如来「当方瑠璃光世界の教主様。除病安楽の願を立てられた。大医王佛とも呼ばれ 病を癒す仏様」・なかよし地蔵尊「てをあわせてごらん おじぞうさまが にっこ にっこ ともだち みな なかよく げんきで おおきくなるよう おいのり しましょう」手水舎の後方の阿弥陀堂。「阿弥陀堂 西方無量寿仏 阿弥陀如来江戸時代「下之一色」の漁師さん達が、海中より拾い上げた仏様。自分達に勿体ないからと当所に収められたと伝わる。その縁から戦前は「下之一色」の漁師さんより供養があった」 その右に賽の河原の地蔵菩薩の祠。賽の河原の地蔵菩薩全景。「心ならずも父母に先だった幼児の供養佛。不幸な者に 祈りの御供養が 現に生きる者の幸せをもたらす。ここで祈りの御供養は他人の為のみではありません。」光背の一部が欠け落ち、像の左右に文字が刻まれている様ですが内容は読み取れない。この辺りから南門に続く参道沿いにかけて複数の地蔵や石仏像が安置されています、その一部は八事周辺に安置され、行き場を失くしてこちらに安置されたものと云う。こうした祠に安置されたもの、野晒しのものなど南門周辺には年代の分からない石像が安置されている。お揃いの前掛けと帽子を被せてもらった石像が至る所に安置されています。中には風化により表情の読み取れないものも見られた。高照寺は名古屋四国霊場34番、城東西国13番、知多本四国移霊場87番などの霊場となっており、弘法大師像と札所の本尊石仏がひとつの台座に安置され、境内に点在しています。拝殿から山門の眺め。隣の幼稚園では元気な子供の声が聞こえてくるが、境内・事務所ともに人影はなく、お話を伺う機会もなく境内を後にする。天道山 高照寺宗派 / 臨済宗妙心寺派山号 / 天道山創建 / 不明(寛保元年(1741)遷座)開基 / 不明本尊 / 天道大日如来本堂祭祀社 / 稲木社、神明社、天王社縁日 / 天道祭 旧暦10月14日所在地 / 名古屋市天白区八事天道815地下鉄名城線八事駅から高照寺 / 徒歩5分強参拝日 / 2024/01/19関連記事 / 五社宮 (名古屋市天白区八事天道)
2024.01.30
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名古屋市中村区大秋町鎮座 八幡社。地下鉄東山線本陣駅3番出口から南に徒歩5分程、アクセスが容易なこの神社から2024年の徘徊を始める事にしました。大秋 八幡社社頭全景。社殿は南を向いて建てられ、鳥居左に手水舎、石の明神鳥居、社号標を構えている。鳥居正面。道路沿いに提灯櫓があり、その先に鳥居と蕃塀がある。境内に聳える大きな楠が大秋 八幡社の象徴かもしれない。社頭の右端に大秋城址の碑が建てられています。碑文は以下。「尾張徇行記記載曰大秋村之條織田真記曰 其後謀令所属荒子城絶滅熱田与清須之路 米野大秋二城絶清州群那古野之路 而略奪公充厨田篠木三郷 今按古城志不載大秋城墟 云々」自分なりの解釈は、「尾張徇行記に記された大秋村には、織田公記に後に荒子城が絶滅。熱田と清須を結ぶ路は、米野と大秋の二つの城が絶ち、篠木三郷などの地域を略奪しています。今思うに古城志には大秋城跡の記載は見当たらない」的な感じだろうか。織田信長と弟の信行の家督争いから起きた稲生の戦い(1556)についての解説だと思われます。大秋城は天文・弘治年間(1532~1557)今川氏豊に仕えた大秋十郎左衛門が居城したとされ、稲生の戦い(1556)では信行側に付いた大秋十郎左衛門(大秋城)、中川弥兵衛(米野城)らと共に清州の信長の進路を妨げ、信長の領地篠木三郷を奪うも、戦いは劣戦を制した信長が勝利し家督を確かなものとした。尾州古城志(1708)に目を通す、大秋村の項目に米野城云々の記載はあったが大秋城の記載はなく、このあたりは大脇と称されていたように見受けられます。現在、城址碑の立っている八幡社境内、周辺の立地を見渡しても城の記録同様に痕跡は残っておらず、廃城時期も定かではないようです。参道はこちらの正参道の他、北側の道路から境内に通じる細い脇参道があります。参道の正面には木造の蕃塀がドンと構え、その先の社殿を遮っています。 参道左の由緒。「大秋八幡社御由緒記祭神 応神天皇例祭 十月九・十日由緒 住吉 尾張之国愛智郡大脇鄉(熱田神宮神領地)の産土の神として 神之宮の地(現中村区上ノ宮町)に鎮座し在しました。天文(1532)の昔、口碑に依れば今川氏豊の属士大秋村の住人大秋十郎左衛門守護神と崇め祭祀されたによって庶民も厚く景仰するところであった。その後幾星霜を経て、元禄十三年(1700)八幡大神の御神託により、老松生い茂る大秋城墟のこの地に移し祭られたと伝えられる。尾張徇行記に「備前換ノトキ社領田一反二款二十七歩 宮田二付ケオカレ修理料二用ユルト也」と、また 宮跡は開墾して畠となしたる旨載せている。雨来、水き歳月に互り 諸人 斉しく宏大無辺なる 御神徳を仰ぎ謹みて祭祀宗拝す。御例祭には氏子の若者 梯子獅子の舞を奉納した 尾張名所図会に「大秋の階子獅子とて 其の名高し 府下及び近郷より遊人来集して見物す」と載せている。御神徳 御祭神におはします 応神天皇は御在世中 大陸文化を採り入れ 学問文化 殖産興業 交通経済など 凡てに 御治績を垂れた給い 古来 厄除開運 無病息災 家内安全などの御神徳を以て 人々との景仰するところである」中村区史跡散策路日比津・大秋の里散策コースの大秋八幡社解説は以下。「古書に、「則武の荘に八幡社三社あり、その中で本社最も古く、今川氏附属の大秋重郎左衛門が此地に住みたる故に附近を大秋という」とあります。明治の頃まで盛んに行われていた梯子獅子は、「大秋の梯子獅子」として有名でした。境内に近郷の若者達が石を持ち上げて力比べをしたという「力石」があります」と紹介されていました。尾張名所図会より大秋八幡社の記述。現在の町名の大秋は、大脇郷からきたものかと思いましたが、大秋十郎左衛門居住地から大秋と呼ばれるようになったのか。。。地下鉄本陣駅西に鎮座していたようですが、大秋十郎左衛門が勧請したとなれば創建はそこまで遡る。上は明治31年当時とほゞ現在の地図。この地に遷座してからでも300年、神社を取巻く環境が様変わりした今も大秋の氏神として、氏子はじめ崇敬者から護られている神社。境内左の手水舎と御神木の楠。蕃塀の先の境内。綺麗に整備された境内は中央の社殿と左右に境内社が祀られています。芭蕉の碑。「城あとや古井の清水まづ訪はん」拝殿全景。瓦葺の木造切妻造で手前に一対の燈籠と狛犬が安置されている。寄進年を見忘れましたが、味のある風貌の狛犬です。大きく枝を張る楠と十六菊の紋の入る鬼。拝殿額はないが、妻壁には獅子が彫られた蟇股や雲の彫が施されています。拝殿・幣殿の連なり、渡廊の両脇に狛犬が安置されています。拝殿左の力石。大きさの違う複数の石が置かれ、これを持ち上げる事で村中に自らの力を誇示したんだろう。力石の表面には時に重さが刻まれていますが、こちらの力石にそれは見られなかった。社殿を包む様に聳える楠、なにかが宿っていると感じさせる堂々とした姿です。拝殿左の境内社。手前から護国社、右が天道社、加佐戸社、役行者。右から天道社、中央の加佐戸社はあまり馴染みがなく、鈴鹿市加佐登町の加佐登神社から勧請されたものかと思われます。左の役行者の前に置かれている鉢には文化14年(1817)寄進と刻まれています。本殿横の境内社。右から天満宮、熱田社、秋葉社、津島社の境内社が纏められています。拝殿右から社殿の眺め、右には大秋龍神社が祀られている。大きな覆屋の中に祀られる大秋龍神の社。その前に二つの祠があり、中には白蛇の像が安置されていました。赤い目をしてとぐろを巻いた二匹の白蛇が其々安置されており、いかにも龍神社らしい。薄暗い覆屋の下で見る白蛇は、石とはいえ蛇嫌いにはあまり心地よいものではない。子供の頃、年輪を重ねたこうした樹には白蛇が宿ると教えられたものだ。白蛇とは言わないにしても、不思議な力を秘めているような気になる。大秋 八幡社創建 / 不明(元禄十三年当地に遷座)祭神 / 応神天皇境内社 / 護国社、天道社、加佐戸社、天満宮、熱田社、秋葉社、津島社所在地 / 名古屋市中村区大秋町2-81地下鉄東山線本陣駅から大秋 八幡社 / 3番出口から南へ徒歩5分参拝日 / 2024/01/09
2024.01.29
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西区栄生3の屋根神を後にして、東の環状線を越えノリタケの森方向に向かいます。ざっくりになりますが、今回掲載する社の鎮座地は赤枠の部分になります。そもそも、ノリタケの森に所用があり、少し早めに東山線本陣駅から神社を巡ってきました。栄生3の屋根神さまを参拝、この日の神社巡りもここで終了。目的地ノリタケの森に向け本塚公園の脇を通りがかった際、今回の社に偶然出逢い足を止めました。環状線を越え、豊田産業技術記念館脇から斜めに向かうため路地に入り込みました。南押切公園北西角から眺める冨士さん。この公園、公孫樹が植えられており、この時期の冨士さんの麓は一面黄色に染まっていました。この交差点から左を眺めるとすぐ先に本塚公園が見えています。何やら赤いものが視界に入り進んで見ました。本塚公園北西角、赤いものの正体は南天。しかしよく見るとそこには小さな社が祀られていました、今回掲載する西区則武新町の不明社です。本塚公園の東から見た公園全景。冨士さんこそ聳えていないが、身近に土と触れ合える小さな公園。その角っこに神木が聳え、周囲は生垣で区切られています。妙に魅かれる幹だこと。生垣の中には倉庫が置かれ、東向きに社が祀られています。手前の標柱は神門?、幟立てか。銅葺の板宮造りの社、社名札はなく詳細は分かりません。地図を見る限り明治以降、住居が集まりだしてから祀られたものと思われます。地元の方が通りかかれば聞きたいところですが、意外に人通りが少なく静かな街並みです。社正面からの眺め。扉はひとつ、中に納まる神札はなんだろう。地域柄、屋根の軒下から降ろされた屋根神さまのようにも見えますが、実際のところ良く分かりません。ここでは屋根神さまとしておきます。新しい榊が供えられ、今も地域の人々から崇敬されているようです。屋根神さま(西区則武新町)創建 / 不明祭神 / 不明所在地 / 名古屋市西区則武新町2-16-18参拝日 / 2023/12/08西区栄生3屋根神から則武新町屋根神 / 南東方向へ徒歩10分前後関連記事・屋根神さま(西区栄生3)・栄生稲荷社・「屋根神」西区栄生・六生(ろくしょう)社・昌温山 菊泉寺 (名古屋市中村区栄生町)・髭題目塔(中村区塩池町)・土江(ひじえ)神社・八幡社・「屋根神」西区名駅・ ノリタケの森 日陶神社
2024.01.26
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天白区八事天道。名古屋市の東部の八事山、天道山、音聞山、川名山などの八事丘陵地域の一つ。今回掲載する「五社宮」は、地下鉄八事駅2番出口から八事南交差点を南に下った徒歩2~3分の場所に鎮座します。八事南交差点を南に進み、「天道山大門」と刻まれた石標の立つ交差点を右に進むと社頭に続きます。石標あたりから右手を眺めると五社宮の杜は見えています。鎮座地の八事天道の地名は、五社宮の南側に鎮座する天道山高照寺からきているようで、「天道山大門」の石標は、大きな伽藍を誇っていた往時の名残なのだろう。上は大正初期の八事周辺。現在のように閑静な住宅が立ち並ぶ以前の頃で、赤い線は飯田街道なります。この時期既に興正寺の先に八事駅が記されていますが、これはそれまでの馬車鉄道から、明治45年(1912)尾張電気軌道による千早町・大久手・八事間の路面電車開業に伴う終着駅の八事。古くから八事は自然豊かで、興正寺や天道山高照寺などが鎮座する、行楽地であり信仰の地として賑わいを見せて来た場所。大正初期には八事に船見山遊園、昭和初期には現在の八事霊園の東に天白渓が作られ、行楽地として八事を訪れる人は多かったそうで、その頃から別荘や住宅が建ち始め宅地化も加速していったそうです、昭和12年(1937)に東山動植物園が開園すると人の流れは東山に流れ、行楽地としての八事は衰退したといわれます。「天道山大門」と刻まれた石標は、天道山高照寺を目指し八事に訪れた参拝客の道標になったことだろう。五社宮社頭を南から眺める、この先は石標が立つ八事南交差点方向になります。一帯は天白川方向へ緩るやかに下る南垂の傾斜地で、高い石垣が積まれた社地に緑豊かな社叢を持つ。左に2~3分程下ると地名の由来となった天道山高照寺の東門が見えてきます。往古の寺域は広大で五社宮社地を含めて興正寺付近にまで及んだようです。社頭から境内の眺め。右に「五社宮」の社標、左に由緒書きがあり、歩道からこの石段を登っていきます。石段左の由緒は以下。「五社宮御由緒元、尾張国丹羽郡寄木村(現在、江南市大字寄木字東郷中)に天道宮(現在、稲木神社)と称して鎮座。同村の天道山高照禅寺が祭祀を執り行ない、正保3年(1646)から享保20年(1735)にかけては五度に亘り社殿の改築を行ない天下泰平国家豊饒守護神として崇敬され、故あって寛保元年(1741)5月28日に高照禅寺自貞尼によって現在地に遷座した。明治の初め頃より五社宮と称して今日に至っている。社殿老朽のため氏子中の浄財により改築に着工し、平成3年竣工した。」名古屋市史跡散策路「天道・塩釜と坂道コース」の解説は以下。「臨済宗。元は、延喜式神名帳に記載のある丹羽郡稲木荘寄木村の稲木神社(稲置天神)で、享保9年(1724)天道山高照寺と改め、寛保元年(1741)愛智郡八事邑の現在地に遷座。本堂は天道宮ともいわれ、御本尊は天道大日如来も祀っている。往時の寺域は広大で、五社宮はもちろん、八事の八勝館あたりまで境内であったといわれている。」尾張名所図会(1844)に目を通す、挿絵はなかったが当社について以下のように記されていた。「天道社 同村にあり。天道山高照寺と號し、尼僧これを守る。臨濟宗、京都妙心寺末。もと丹羽郡寄木村にありて、「延喜神名式」に丹羽郡稲木神社、「本國神名帳」に従三位稲木天神とある古社なりしを、 享保年中山號寺號を命じ、寛保元年五月二十八日ここにうつし、猶旧名によりて寄木の天道と称す。例祭十月十四日・十五日」とあった。江南にあった神仏習合の天道山高照寺が遷座、後の神仏分離により天道宮は五社宮となったようだ。石段から境内の神明鳥居を見上げる。境内全景。右手に社務所、左に手水舎、南参道があり、鳥居の先の社殿とその左右に境内社が祀られています。石段を上りきった左の杜の中に石碑と旧社格の部分が欠損した古い社標が残る。空襲による破壊された痕跡をとどめた戦争遺構。手水舎。とても威厳のある姿をした龍は、清水を注いでくれているので気持ちよく清められます。拝殿全景。切妻瓦葺の妻入拝殿の先に本殿域が良く見通せる。子連れ毬持ちの狛犬は空襲の被害から免れたもので、昭和13年(1938)に寄進されたもの。拝殿額は「五社宮」平成3年(1991)に改修の出が入れられている。拝殿入口から本殿域の眺め。拝殿内の妻壁に吉泉の揮毫がはいった龍が木版画が描かれていた。こちらの御朱印は宮司の手による龍が描かれています。拝殿内の重軽石。正面の妻壁に社の配置図があり、初めて訪れたものにはとてもありがたいもの。綺麗に掃き清められた本殿域の正面に祀られる神明造の社が日宮社 / 天照大御神。左の板宮造の社が月宮社 / 月夜見命。その左に星宮社 / 五百箇磐村命。江南市大字寄木にあった天道宮(稲木神社)を調べて見た。明治元年に八事から天道宮が分霊され、天照大御神、大中津日子命、月夜見命、五百筒磐村命、須佐之男命の他、 白山比咩命、 火産霊神、祓戸四柱 (瀬織津比売・速開都比売・気吹戸主・速佐須良比売)をお祀りする稲木神社となり、現在も「お天道さん」として崇敬されているとありました。右側に祀られる二社は奥から、神明社 / 須佐之男命、祇園社(津島天王社) / 豊受大神。五だね。社殿全景。拝殿右の秋葉宮。秋葉宮の左に注連縄で囲われた御神木よりそいの木と運気隆昌の木。一つの根元は途中から二つの幹となり大きく空に向かって聳え、幹の周囲には龍の絵も飾られています。幹が二つに分かれた所に小さな賽銭箱が置かれ、その先に朱の社が祀られています。夕陽に照らされた御神木は神秘的なものを感じる。境内左の社は天道稲荷社。稲荷につきものの狐の姿が見られない。祭神は宇迦之御魂神。後方にも朱色の小さな鳥居の姿がある。いた〃、狐。それにしてもこの社、奥宮的な位置づけなんだろうか。稲荷社についての解説は見当たらなかった。拝殿から鳥居の立つ境内の眺め。周囲は杜で囲まれていますが、境内は温かい陽光が降り注ぐ明るい境内。訪れる時間帯によって表情を変えていく。五社宮創建 / 不明(寛保元年(1741)高照禅寺境内から現在地に遷座。祭神 / 天照大御神、月夜見命、五百箇磐村命、須佐之男命、豊受大神。境内社 / 秋葉宮、天道稲荷社、所在地 / 名古屋市天白区八事天道322参拝日 / 2024/01/17地下鉄八事駅から五社宮 / 2番出口から徒歩3分
2024.01.25
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前回掲載した西区栄生3の屋根神さま。そこから二筋南の通りから続く細い道にも屋根神さまが鎮座します。住居が密集する中、南に抜ける狭い道を進んで行った右側に栄生2の屋根神さまが祀られています。この道幅なので歩いて訪れるしかないでしょう。地図で見ると、栄生駅から県道67号線を南北に結ぶ栄生街道と呼ばれる道の一筋東にあたります。過去の地図からここに住居が集まりだしたのは大正初期からで、明治の頃だと一面に田圃が広がる景観だった。栄生(さこう)2-14の屋根神さまは、狭い道の前方が広がりだした右の電柱の横に鎮座します。南を向いて建てられた覆屋の下に社の姿があります。周囲を柵で囲い、高い台座の上に銅葺の板宮造りの社が祀られています。社全景。柵は閉じられていますが、社の姿はよく見ることができ、右には「津島神社、熱田秋葉山、熱田神宮」と書かれており、今も現役の屋根神さまのようです。覆屋全景。住居が密集する地域を様々な災いから護ってくれる。この守り神が祀られたのは定かではなく、冒頭に書いた大正初期から昭和にかけて思われます。周囲は当時の町並みから、新しい住宅に置き換わろうとしていますが、地の方が多い事もあるのか、こうして存続し続けられているのだろう。いつも思うが、我が町にもこうした社はあったが、山は切り開かれ家が建ち、新たな住民が大勢を占めるようになると、町内会にも参加したくないと言い出す方もあり、自らコミュニケーションを避ける方も現れる。当然会費は納めない、様々な当番にも参画しない、自己完結してくれれば何も言うまい。しかし地域活動の恩恵を受けていることは知るべきだろう。昔から続くものは姿を消してしまうんだろう、屋根神さまも同じ道を辿っているのかなぁ。屋根神さま(西区栄生2)創建 / 不明祭神 / 津島神社(建速須佐之男命)、熱田神宮(熱田大神)、秋葉神社(秋葉権現)所在地 / 名古屋市西区栄生2-14西区栄生3屋根神から西区栄生2屋根神 / 二筋南へ徒歩5分程参拝日 / 2023/12/08 関連記事 / ・屋根神さま(西区栄生3)・栄生稲荷社・「屋根神」西区栄生・六生(ろくしょう)社・昌温山 菊泉寺 (名古屋市中村区栄生町)・髭題目塔(中村区塩池町)・土江(ひじえ)神社・八幡社・「屋根神」西区名駅・ ノリタケの森 日陶神社
2024.01.24
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近鉄奈良駅から開化天皇春日率川坂上陵まで、三条通り方向へ徒歩5分強。三条通りのホテルとビルの間に細い参道が北に伸びています。通り沿いに特に看板がある訳でもなく、この先に御陵があるとは知らず通り過ぎていく観光客の姿が多い。ビルに挟まれた参道を進んだ先に上の宮内庁の看板がある。そこには「開化天皇 春日率川坂上陵一・みだりに域内に立ち入らぬこと一・魚鳥等をとらぬこと一・竹木等をとらぬこと 宮内庁」とある。参道から開化天皇春日率川坂上陵の眺め。開花天皇とは、実在が不確かな欠史八代(2代〜9代)と呼ばれる天皇の一人で第9代天皇とされる。古事記や日本書紀に系譜は記されているものの、存在を示す痕跡が確認されていない謎の天皇の一人。開化天皇は孝元天皇7年に孝元天皇の皇子として誕生し、孝元天皇57年に即位されたと云われます。生没一つ取り上げても古事記や日本書紀では大きな違いを見せ、疑い深い者から見ると謎でしかない。現在の「率川神社」周辺に春日率川宮を建て皇居としたとされ、そこから近い立地にある前方後円墳が開化天皇陵を被葬した陵墓ではないかと云う事で宮内庁管理とされている。以前、百舌鳥古墳群を回ったことがあった。子供の頃に仁徳天皇陵として摺り込まれて育ち、ある時を境に被葬者も怪しく、名称も大山古墳に呼称を変え未だに被葬者は分からない。こうした例は他にもあるが、発掘・非破壊調査に消極的で文献から陵墓として宮内庁管理になり、誰か分からない被葬者に手を合わせている、なんだかなぁ。欠史八代の天皇は永遠に謎のままなんだろうか。なんだかんだといいながらも、こうした場所に立つと手を合わせる。国道と三条通りに挟まれた、細い参道の先に約100メートルの前方後円墳があること自体あまり認知されていないかも知れない。そういえば、子供らと一緒に三角縁神獣鏡を目当てに奈良の古墳も廻ったのを思い出す。開化天皇 春日率川坂上陵築造 / 5世紀前半形状 / 前方後円墳所在地 / 奈良県奈良市油阪町参拝日 / 2023/11/30近鉄奈良駅から徒歩 / 南西の三条通りへ徒歩10分弱関連記事 /・春日大社 3 (若宮十五社巡り)・春日大社 2 (水谷九社巡り)・春日大社 1 (一ノ鳥居から本殿)・南都鏡神社 (奈良市高畑町)・新薬師寺、比賣神社 (奈良市高畑町)・雨寳山十輪院・御霊神社 (奈良市薬師堂町)・春日大社境外末社 手力雄社
2024.01.23
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前回掲載した栄生(さこう)稲荷社。そこから栄生街道を5分程北上、県道67号線の一筋手前を右に曲がると西区栄生3-8の屋根神さまに至ります。上は屋根神さまの祀られている通りから西方向の眺め。通りから東方向の眺め、少し進めば国道22号線。近くを通行量の多い県道、国道が走っていますが一筋入ったこの辺りは静かな住宅街が広がっています。通りの左側、民家と駐車場の間に屋根神さまが祀られています。西区栄生3-8屋根神さま全景。駐車場の端に背の高い覆屋が建てられ、観音扉の中に社は祀られています。普段はこうして扉は閉じられていますが、毎月1日と15日の例祭には扉が開けられます。中には屋根神の中でも比較的大きな唐破風造りの重厚な社が祀られており、祭礼時には津島神社、熱田神宮、秋葉神社の提灯が架けられます。江戸末期から戦前にかけて、寄り添うように民家が連なり、地域の災い除けのために軒下や僅かな余地に祀られていましたが、空襲による焼失や戦後のライフスタイルの変化に伴い、数は減少の一途を辿っているようです。比較的空襲の被害が少なかった古い町並みが残る路地には今も大切に護られています。こちらの屋根神さまがいつ頃のものかは定かではありません。地図を遡っていくと、一帯に住居が連なるようになったのが大正から昭和初期にかけて、恐らくこの時代に祀られたものではないでしょうか。いずれにせよ、街並みは変われど、先人の思いは今も受け継がれています。屋根神さま(西区栄生3)創建 / 不明祭神 / 津島神社(建速須佐之男命)、熱田神宮(熱田大神)、秋葉神社(火之迦具土神)所在地 / 名古屋市西区栄生3-8栄生稲荷社から西区栄生3屋根神さま / 徒歩5分程参拝日 / 2023/12/08関連記事 / ・栄生稲荷社・「屋根神」西区栄生・六生(ろくしょう)社・昌温山 菊泉寺 (名古屋市中村区栄生町)・髭題目塔(中村区塩池町)・土江(ひじえ)神社・八幡社・「屋根神」西区名駅・ ノリタケの森 日陶神社
2024.01.20
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これまで春日大社社地を参拝してきました。今回は興福寺三重塔の南側の三条通りに鎮座する春日大社境外末社「手力雄社」を掲載します。鎮座地は近鉄奈良駅から南に進み、三条通りを左に進んだ興福寺三重塔の南に鎮座し、駅からだと5分程で高速餅つきの店と通り左に立つ高札が目印になります。上は寛政3年(1791)に編纂された大和名所図会の興福寺の挿絵。興福寺は幾度か焼失しており、江戸時代の享保2年(1717)の火災で一部を除き伽藍を焼失しています。挿絵の興福寺が描かれたのは最後の焼失後のものとなります。現在、手力雄社は春日大社境外末社となっており、ここから少し先の猿沢の池の脇にも春日大社境外末社の采女神社が鎮座しています。こうして手力雄社を見ると興福寺の鎮守社のように見えてきます。大宮の摂末社に水谷九社・若宮十五社巡りで参拝した他に、境外末社だけでも手力雄社や采女神社を含め15社あるようで、それら巡拝するには一日がかりになるんだろう。高札と春日大社末社手力雄社全景。様々な定が板面に記され、人々に周知させることが目的の高札なので、それだけ人の往来が多いということ。高札に目を通さず先を急ぐのもいいが、読んで見ると面白いこともかかれ、手力雄社に纏わる神話を記したものもある。見上げるような高見に続く石段、その先に朱の社が祀られています。三条通りを行き交う観光客は多いものの、鳥居や社が高所にあるからか、足を止める姿は少ないようです。後方は興福寺会館で、春日造りの社は会館を背にして南向きに鎮座します。創建の詳細は不明、祭神は手力雄神をお祀りする。力の神、技芸の神で技芸上達、スポーツ上達、五穀豊穣、開運招福、災難・除災の御利益があると云う。天岩戸神話所縁の神さまで、放り投げた岩戸が遥か長野まで飛んで行き、戸隠神社御神体の戸隠山になったとか。三条通りから春日大社へ向かう際には、手力雄社に足を向けて見てはどうだろうか。また、猿沢の池の脇で池を背にして鎮座する采女神社、当日は扉が閉ざされ参拝できませんでした、開門されるのは珍しい様で運よく開いていれば立ち寄ることをお勧めします。春日大社境外末社 手力雄社創建 / 不明祭神 / 手力雄神所在地 / 奈良市橋本町39近鉄奈良駅から手力雄神社 / 駅から南へ進み。三条通りで左折、徒歩5分程参拝日 / 2023/11/30関連記事 / ・春日大社 3 (若宮十五社巡り)・春日大社 2 (水谷九社巡り)・春日大社 1 (一ノ鳥居から本殿)・南都鏡神社 (奈良市高畑町)・新薬師寺、比賣神社 (奈良市高畑町)・雨寳山十輪院・御霊神社 (奈良市薬師堂町)
2024.01.19
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栄生町の玄関口名鉄栄生(さこう)駅からすぐ近くの屋根神さまを後に、名鉄病院方向へ5分程歩いた東側に鎮座する栄生稲荷社に向かう。個人的に普通に「さこう」と呼んでいますが、町名の由来は明暦年間(1655~58)頃からは栄(さこ)村住民が商いをするようになり、栄町(さかえまち)と称するようになっていたそうです。現在の中区栄の旧町名「栄町」が成立したのは明治11年(1878)なので、栄の地名の本家は栄(さこ)村になる。「さこ」とはもともと「狭いところ」を現すようですが、栄の字を「さこ」とはなかなか読めないもの。上は明治31年当時(左)の愛知郡栄村と現在の地図(右)を見比べたもので、赤い線は美濃街道(県道67号線)。栄生稲荷社は東海道本線東側の集落や道もない田んぼの中に位置し、地図上に碑らしき印が描かれていますが鳥居の姿はありません。やがて集落から美濃街道を結ぶ道(栄生街道)が作られ、集落が建ち始めていきます。明治39年(1906)中村大字栄(サコ)となり、大正10年(1921)の名古屋市編入の際、栄を生んだことに因み栄の下に生が入った栄生となり、線路を隔て西区栄生(サコウ)と中村区栄生(サコ)町の呼称が違う栄生があります、住所表示板のルビを見るとその違いは一目瞭然。栄生稲荷の鳥居が記されるのは昭和に入ってからでした。東海道本線の熱田駅から大垣駅の開業は明治20年(1887)、現在の名鉄栄生(さこう)駅が出来たのが昭和16年(1941)のこと。駅舎のある西区には「さこう」と書かれていますが、仮に線路の西側に入口があれば「さこ」と云う事になるのか。個人的に線路を境に呼び分けを意識した事はなく「さこう」なんだが、それではいかんのだろう。昔、この辺りで小さな焼き鳥屋を営む方が臨時職員として訪れ、その方は「さこ」に拘り、「栄生(さこ)○○」と屋号にまでしており、「さこうね」と云うと「さこなんですよ」と良く訂正させられたことを思い出す。懐かしさから、記憶を頼りに本陣から西区まで歩いてきたが、さすがに時が過ぎて見付ける事は出来ず、ここ「さこう」まで来てしまいました。西区栄生2「栄生稲荷社」社頭。社地は南北に奥行きがあり、西側には朱の明神鳥居があり、社殿は南向きに建てられています。社地南側にも石の明神鳥居を構えており、社殿配置から見ると南側が正参道になるのかもしれません。玉垣にある住所表示は「栄生(さこう)2丁目20」西参道から見る境内、奉納鳥居の立ち並ぶ先の建物が社務所のようで、参道はそこから左に折れた先が社殿となります。栄生稲荷社の額。南側の正参道と思われる社頭全景。右手に「稲荷社」社標とその後方が手水舎。石の明神鳥居から続く奉納鳥居の先が拝殿。手水舎手水鉢。住宅地にあって周囲に大きな建物がないため比較的明るい境内。大きな樹々が聳え、なかには桜もみられるので春には綺麗な花が見られそうです。拝殿は木造瓦葺切妻造の妻入り。三方をフェンスで厳重に囲われた本殿域は銅葺屋根の一間社流造、本殿前に一対の狛狐の姿があります。社殿後方から全景。拝殿から屋根が続きと本殿まで繋がっています。社地東側の社務所と民家の間に細い通路あり、その奥に小さな社の姿があるようですが、断りなく立ち入っていいものか分からず今回は見送りさせてもらいました。こちらの栄生稲荷社の由緒は現地で見ることが出来ず、地史に目を通すもそれらしい記載は見当たらなかった。寄進物は南の社標が昭和5年(1930)で、鉢や鳥居など見ていないので創建がいつ頃なのか想像できませんが、冒頭の地図の鳥居を見ていくと初見は昭和7年からなので、祭祀形態はともかく、古くても江戸時代はなさそう。恐らくこの辺りに集落が集まりだした、明治から大正頃の創建だろうか。六生社を訪れた際、慶長8年(1603)にこの辺りから遷座したとありました。田んぼが広がるこの辺りから、入れ代わるように栄生稲荷社が創建されたとは思えない。拝殿左の忠魂碑。新しい年を前にして、境内の枯れ葉が氏子の手により綺麗に纏められていました。この頃はまもなく訪れる新しい年が、よもやこのようになるとは想像できなかっただろう。今できる事はふるさと納税とボランティア登録、そして毎日できることは能登の酒を飲むことくらいか。明日は我が身と心得て装備を確認しよう。栄生稲荷社創建 / 不明祭神 / 宇迦之御魂神所在地 / 名古屋市西区栄生2-20-19参拝日 / 2023/12/08屋根神から栄生稲荷 / 名鉄病院方向へ徒歩5分程関連記事 / ・「屋根神」西区栄生・六生(ろくしょう)社・昌温山 菊泉寺 (名古屋市中村区栄生町)・髭題目塔(中村区塩池町)・土江(ひじえ)神社・八幡社・「屋根神」西区名駅・ ノリタケの森 日陶神社
2024.01.18
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前回の春日大社 2から引き続きとなる今回は、春日大社南門から左に続く参道沿いに鎮座する若宮や紀伊神社までの境内社を巡ります。上が若宮十五社巡りのマップ。南門を出て左に向かい燈籠の連なる参道をひたすら真っすぐ進みます。この参道は御問道と呼ばれ、日本で最初に燈籠が並べられた参道。古来、燈籠は社寺において神仏に火を供えるために本殿や堂の前に一基が建てられました。春日大社では親神様の本社(大宮)と若宮(子神)を結ぶ参道の御間道を神前のように捉えて燈籠が奉納され、鎌倉時代末より並び始め、やがて境内全域に広がって行き、春日大社から始まった参道に燈籠を並べる風習は、江戸時代には全国の社寺に広がりました。春日大社には全国に存在する室町時代の灯籠の六割以上あるという。境内の石燈籠は二千基、釣燈籠は千基あり、日本一の数とされています。御間型燈籠。戦国時代のルイス・フロイス(1532~1597)によって書かれた『日本史』には春日大社の燈籠を「とても精巧に造られた石柱が並び、方形の石の上に立ち、木製の火袋は漆で黒く塗られ、鍍金した真鍮の枠がはめられ、豪華な透かし細工や浮き彫りの飾り、その上には石の笠が載って風雨でも灯明は消えないようになっている」と書かれていると云う。鎌倉時代後期より並び始めた御問型燈籠の火袋は木製のため、十年に一度の交換が必要になるという。三歳の徳川頼宣による一基を除き、五百年の間に漆や飾り金具は全て失われ現在の白木になっていった。こうした燈籠が若宮まで続いています。南門から参道を進み、小さな朱色の神橋を渡った左の本宮神社遥拝所。摂社 本宮神社遥拝所御祭神 / 武甕槌命、経津主命、天児屋根命例祭 / 11月9日神徳 / 御蓋山は太古の昔より霊山と崇められる神奈備(神様が鎮まる所)で、神護景雲二年(768)本社第一殿御祭神の武甕槌命が白鹿の背に乗り、 頂上の浮雲峰に天降られた神蹟である。 毎月一日にはこの所に神饌を供し、頂上の本宮神社を遥拝する。そこから先に進むと右手に楠木の老木と正面に若宮社拝舎が見えてきます。その手前の斜面に朱の社が祀られています。上参道の先は開け、燈籠の脇の高みに一社祀られています。下十五社巡り第二番納札所 一童社(三輪神社)祭神 / 少彦名命例祭 / 11/25神徳 / 医薬を司り、子供の成長を守護する参道を進んだ左に第三番、第四番納札所、正面には若宮の社殿が目の前に鎮座します。左が第三番納札所 兵主(ひょうす)神社祭神 / 大己貴命神徳 / 困難に打ち勝つ勇気と力を授けて下さる。右が第四番納札所、南宮神社。祭神 / 金山彦神神徳 / 財宝をもたらす守護神、鉱山と深い関りを持つ。春日大社摂社の若宮社。第1番納札社です。若宮社は、春日大宮の御子神様を祀ることから、大宮と同格の本社として崇敬され、それゆえに社殿も大宮と同様の春日造で、大宮と同様に若宮社殿も20年に一度の式年造替が綿々と行われてきました。しかし、明治政府から若宮社が摂社に位置付けられたために式年とはならず、不定期な修繕で造替が行われ、120年余りで5回の造替だったとされ、2021~22年の第43次式年造替以降は20年の造替に戻されたようです。祭神 / 天押雲根命神徳 / 生命の源である水を司り、 智恵・学問・芸能を導く 例祭 / 12/17本社(大宮)の御子神様であり、 平安時代後期、天候不順や災害により飢饉、疫病が蔓延した折、白河上皇、鳥羽上皇、関白藤原忠実、関白藤原忠通が人々を救うために創建した。白河上皇は建設促進の院宣を発せられ、長承四年(1135)二月二十七日の若宮社殿の創建日には、鳥羽上皇や関白が都より多くの貴族を引き連れ参拝された。20年に一度遷宮が行われる事もあり社殿は傷みもなく美しい姿を保っています。伊勢神宮やその他の神社でも式年遷宮が行われますが、人によってはもったいないとか、資源の無駄と思われるかもしれませんが、近代建築の建替とは違い古いものは関連する神社等に移築・再利用され、遷宮が円滑に行われることで、全体の陳腐化を防いでいる。国宝に指定されるとそれは出来なくなりますが、本殿以外は指定されておらず遷宮が可能となります。伊勢神宮が遷宮できるのも国宝の社殿がないこともあります。国宝が創始される明治以前は鏡神社の本殿も春日大社の第三殿が再利用され、春日移しと呼ばれています。そうしたイベントは技術の継承にも繋がり、杜の新陳代謝にも繋がっていくはずです。人工減少の進む中、新しいものを建て、古くなると壊して廃棄、そした新たに建てる、資源の浪費は現代の方が酷いかもしれない。タワーマンションが林立する現在、行く末はどうなるのか?負の遺産と化していくのだろうか。第15番納札社 夫婦大国社祭神 / 大国主命、須勢理姫命神徳 / 夫婦円満、良縁、福運守護の神例祭 / 11/16夫婦大国社(内部撮影禁止)と若宮十五社巡り案内板。正式に若宮十五社巡りをするのであれば、こちらで受付と玉串札を受け取り巡拝します。夫婦大国社前の手水舎の龍、威厳のある姿で清水を注いでいた。若宮の右に鎮座する二社、中央は赤乳・白乳雨社遥拝所。左の春日造りの社が第五番納札社 広瀬(ひろせ)神社です。祭神 / 倉稲魂神神徳 / おいなり様と同神で衣食住を守護例祭 / 11/25赤乳・白乳雨社遥拝所ここから南の2.5㌔先に鎮座する末社赤乳神社・白乳神社の遥拝所で、赤乳神社は女性の下半身、白乳神社は上半身を守護する神様。右の春日造りの社が第六番納札社 葛城(かつらぎ)神社です。祭神 / 一言主神神徳 / 夢を叶えてくれる神様例祭 / 11/25ここから先の参道に見えているのは第7番納札社 三十八所神社。第7番納札社 三十八所神社創建は久安2年(1146)とされ、春日造の社殿が多い中にあって珍しい檜皮葺の流造。祭神 / 伊弉諾尊、伊弉冉尊、神日本磐余彦命神徳 / 発明・起業の神上三十八所神社の右に鎮座する第8番納札社 佐良気(さらけ)神社。祭神 / 蛭子神(えびす様)神徳 / 商売繁盛、交渉成立を守護する例祭 / 1/10下三十八所神社と佐良気(さらけ)神社全景。第13番納札社 元春日 枚岡神社遥拝所。祭神 / 天児屋根命、比売神神徳 / 延命長寿の神第14番納札社金龍(きんりゅう)神社。枚岡神社遥拝所の参道右に鎮座する神社。今から700年程前、鎌倉幕府の零落による世の乱れを嘆いた後醍醐天皇は、倒幕を志すも事半ばにして幕府に露見、天皇は逃れ笠置へ落ちさせられた、元弘元年(1331)八月二十五日、世にいう元弘の変。後醍醐天皇は春日社に潜幸し一面の鏡を奉安し天下泰平の祈願をされたのが金龍神社の起こり。宮中の(庫裏)の鏡を奉安する事から金裡殿とも呼ばれる。祭神 / 金龍大神神徳 / 開発・発展の神。第9番納札社春日明神遥拝所。枚岡神社遥拝所の前方左にある結界の張られた石畳。鎌倉時代にこの九個の石(居石)から、明恵上人が春日大社本殿を遥拝された場所。祭神 / 春日皇大神神徳 / ひらめきの神第10番納札社 宗像(むなかた)神社春日明神遥拝所の前方左に、鳥居と玉垣で囲われた神域に鎮座する。祭神 / 市杵島姫命神徳 / 諸芸発達を守護、七福神の弁天様とも伝えられる神様で天河弁財天と伝えられています例祭 / 7/7護摩壇。弘法大師が護摩を焚いて祈願した場所と伝わる。第12番納札社 伊勢神宮遥拝所紀伊神社の手前右側にあり、結界の張られたなかには大小の岩が安置されている。祭神 / 天照坐皇大御神(内宮)、豊受大御神(外宮)神徳 / 天地の恵みに感謝する所、(遥か伊勢神宮を拝す)第11番納札社 紀伊神社創建時期は不明こちらの社殿も檜皮葺の流造。祭神 / 天照坐皇大御神(内宮)、豊受大御神(外宮)神徳 / 五十猛命、大屋津姫命、抓津姫命神徳 / 万物の生気、命の根源を守護する例祭 / 9/15社左の龍王珠石。燈籠前に無造作に置かれた複数の石で、この石群は善女龍王が尾玉を納められた場所とされ、奈良名所絵巻などにも龍王珠石は記されているという。南門からここまでの所要時間は参拝・撮影含め約1時間程でした、早い人は30分程で戻ってこられます。紀伊神社から先は上のように奥之院道と呼ばれる細い参道が続き、春日大社の南側の境外に至ります。看板にあるように、この先には神社はありません。新薬師寺が鎮座する高畑町方面へはこちらが近いかな。人通りもなく、静かな杜の雰囲気を味わいながら春日大社を後にします。オーバーツーリズムで身動きが取れない京都に比べ、個人的にはやっぱり奈良がいい。若宮十五社巡り南門から最後の納札所紀伊神社まで写真データで50分。関連記事 / ・春日大社 2 (水谷九社巡り)・春日大社 1 (一ノ鳥居から本殿)・南都鏡神社 (奈良市高畑町)・新薬師寺、比賣神社 (奈良市高畑町)・雨寳山十輪院・御霊神社 (奈良市薬師堂町)
2024.01.17
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中村区栄生町の六生社から東の東海道本線のガード下をくぐるとそこは西区、今回の目的地は栄生駅方向の北側にある小さな覆屋。所在地は名古屋市西区栄生2-6-7にあたります。鎮座地は栄生駅から線路沿いに続く細い路地を北へ向かった先に鎮座します。見あげれば名鉄犬山線「栄生」駅のホーム、ホームに流れるアナウンスが良く聞こえてくる。ここをまっすぐに突き進むと正面に見えてきます。今回の目的地は道の突き当り、突き当りのように見えていますが、覆屋の前から右に人道が続き、駅前から北に伸びる通りに続いています。覆屋全景。左は名鉄病院、後方と右手は住居に挟まれており、僅かな社地が与えられ覆屋が建てられています。G先生によれば屋根神さまとあるが、提灯を吊るす櫓がある訳でもなく、屋根神感は漂っていない。覆屋前面は柵の扉が付けられしっかりと施錠されています。自分が持っている屋根神さまの社のイメージは、三社造りで扉が三つ付くものを思い浮かべてしまいますが、板宮造りの扉一つの社に三社の神札が祀られているようです。表には見えなかった提灯掛けも、覆屋のなかにちゃんと納められ、三灯分の金具も付いている。祀られる三社は主に熱田神宮を中央にして秋葉神社、津島神社がよく見られます。時に氏神さまを中央に祀り、火伏の秋葉神社、災い除けの津島神社の三社の場合もあるようです。こちらの社が軒から降ろされたものなのか、もとから基壇の上だったのかは不明ですが、今も現役でこの町を守護しているようで、供えられた榊を見るとそれは伝わってきます。こちらの屋根神さまの祭神は分かりませんが、それを知るには毎月1日、15日の例祭に訪れればスッキリするだろう。正面の柵は解放され、神前幕が張られ、灯りの灯された三社の提灯が吊るされた屋根神さまの姿を見ることができるだろう。名古屋城が築城され、城下町に長屋が広がり多くの人が住まうようになると、火災や流行病が流行ります。やがて人々は軒下や僅かな余地に基壇を作り、身近に神様を祀るようになりますが、昭和に入り空襲による火災やライフスタイルの変化、崇敬者の高齢化などにより確実に数は減っています。西区の古い街並みが残る地域には、屋根神さまは残っている方なんだろう。「屋根神」西区栄生 創建 / 不明祭神 / 不明所在地 / 名古屋市西区栄生2-6-7参拝日 / 2023/12/08六生社から屋根神さま / 東海道本線をくぐり名鉄栄生駅北側鎮座地まで約10分関連記事 /・六生(ろくしょう)社・昌温山 菊泉寺 (名古屋市中村区栄生町)・髭題目塔(中村区塩池町)・土江(ひじえ)神社・八幡社・「屋根神」西区名駅・ ノリタケの森 日陶神社
2024.01.16
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菊泉寺から東へ進み三叉路を左へ、その先の中村区栄生町23に鎮座する六生社に向かう。古い道筋なのか、幅員の狭い道ばかりのように感じる。とても車で訪れたいとは思わない地域で、参拝者駐車場も見かけなかった。社地東側の社頭全景。周辺は住宅地が広がる一帯で、六生社の杜はシンボリックな存在です。社頭右手の社号標「村社 六生社」は大正元年(1912)の寄進、石の神明鳥居は大正10年(1921)の寄進。社号標右手には六生社由緒と大峰山大権現が鎮座します。大峰山大権現。こんもり盛られた「山」には役行者の姿と前鬼・後鬼の石像が安置され、山の麓には御嶽信仰の山丸三の紋も見えます。大峰山大権現は奈良県にある大峰山の霊場を参拝するもので、山上ヶ岳から大日岳一帯は古くから山岳信仰の地として知られますが、栄生もそうした山岳信仰が盛んなようです。社頭の由緒。「村社六生社鎮座地 名古屋市西区栄生町祭神 塩土老翁命祭日 十月六日例祭由緒 創建の年代不詳なるといえども、往古には愛知郡栄村当時松裏に祀られしものにして、慶長八年現在の地に遷座し祀れり、明治四十年十月神饌幣帛供進指定村社に列せらる。祭神は古来安産の神として世俗の崇信篤く其の御神徳は弘く伝はれり(安産祈祷五月六日)」天王社 境内に神明ノ社あり中村区「日比津・大秋の里散策コース」の解説「幼児の守護神といわれ、安産の神様として敬愛を受けている塩土老翁命を祀ったこの神社の10月の祭日には、栄生町界隈のみならず、西区の方からも多くの人が集まり、沿道いっぱいに露店も出て大層なにぎわいをみせます。境内にはムクノキ、タブノキ等の保存樹があります。」とあった。上は明治24年(1891)当時の栄村周辺地図に近隣の社寺を記しました。鎮座地は栄村のほゞ中心部にあたり、八幡社や土江神社が集落の西外れに鎮座、そこから西は日比津村まで田圃が広がっていました。六生社の額。当初は六柱をお祀りする六所社かと思っていたが、所で間違いないようです。由緒に「栄村当時松裏に祀られていたが、慶長8年(1603)現在の地に遷座」とあり、現在の栄生駅東辺りの栄村松裏に鎮座していたが現在の地に遷座した。慶長8年というと、名古屋城の築城(慶長15)がとされるので、それ以前から鎮座するかなりの歴史を持つ神社のようです。尾張志の愛知郡神社に目を通すと六生社らしき以下の記述を見かけました、そこには以下のように書かれていました。「六所社 是は神明八幡白山社宮司金毘羅役小角像と六軀ある總いふ社號也天王社境内に神明社あり 以上栄村にあり」とあった。他の地史を見ていませんが、内容からだとこちらを指したものに思えてなりません、 以前は六所社と呼ばれていたのかもしれません。祭神の塩土老翁命は、高天原から地上に降りた武甕槌神と経津主神の陸奥国平定したとき、両神の道案内をしたのが鹽土老翁神。製塩の技術を伝えた神であり、潮流を司る海路の神ともされ、出産が潮の干満に関係することから、安産の守護神として崇敬され、名古屋で同神を祀る神社として塩竈神社(名古屋市天白区御幸山)は良く知られています。参道から拝殿方向の眺め。左に手水舎、参道脇の大きな石灯籠の先に狛犬が鎮座する。参道右側に鹿島神社・金毘羅社が祀られていたが詳細は分かりません。拝殿前の狛犬(1922年寄進)は子取り毬持ちのもの。境内には社殿を覆う様に高木の樹々が聳えている。小屋梁の上の瀧の蟇股。拝殿から幣殿の眺め。間を結ぶ渡廊の左右に二対の狛犬の姿があります。二対の狛犬の寄進年は不明。幣殿の右にも小高く盛られた小山が築かれ三社が祀られています。左から津島社・白山社・石神社。社殿全景の眺め。切妻妻入拝殿から渡廊を介して切妻平入幣殿がひとつながりで、幣殿から神明造りの本殿までは渡廊が付くようです。幣殿の千木は外削ぎで鰹木は7本、本殿は内削ぎ千木で鰹木は6本。側面にフェンスが付けられ、社殿を厳重に護っている、なにが起こったのだろうか。年輪を重ねた椋木や楠木が聳える境内にあって、拝殿左のクロガネモチは特に存在感がある。拝殿左のクロガネモチの神木。社殿後方からの眺め。こちらは椋木が聳えている。提灯櫓の連なる参道から社頭の眺め。普段はひっそりとした境内、例祭では提灯に灯りがともされ、氏子や参拝客で賑わうのだろう。六生社創建 / 不明(慶長8年(1603)当地に遷座)祭神 / 塩土老翁命境内社 / 大峰山大権現・鹿島神社・金毘羅社・津島社・白山社・石神社所在地 / 名古屋市中村区栄生町23-21参拝日 / 2023/12/08菊泉寺から六生社徒歩ルート / 菊泉寺から東へ進み三叉路を左へ約2~3分参拝日 / 2023/12/08関連記事・昌温山 菊泉寺 (名古屋市中村区栄生町)・髭題目塔(中村区塩池町)・土江(ひじえ)神社・八幡社・「屋根神」西区名駅・ ノリタケの森 日陶神社
2024.01.13
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前回から引き続きとなる今回の春日大社 2は春日大社の総宮神社からはじまり、春日山から流れ出る水谷川の流れ沿いに鎮座する9社を巡る「開運招福 水谷九社巡り」と呼ばれるもの。上のマップ、右下の大宮、桂昌殿から9社を巡ったルートでG先生によると約1㌔、15分弱の所要時間。一筆書きで巡ったので、五番納札社は八番納札社の後となり順番通りではありません。第一番納札社 総宮神社。桂昌殿から西に進み、御祈祷所の先を右に進んだ左に鎮座する銅葺屋根の三間社流造の社が総宮神社。祭神 伊勢・春日・八幡大神、白山大神、三光宮、二上権現、窪弁財天、北向荒神、睡大神の9柱が祀られている。例祭 6月5日御神徳 建築・家宅守護 住まいを授け・住む人の平安を守護する神。地鎮祭・引越しの際にお参りすると御利益を得られる。所在地 / 奈良市春日野町160-7総宮神社から水谷川方向の参道。二番納札社の一言主神社はすぐ隣に鎮座します。第二番納札社 一言主神社。総宮神社から右に少し進んだ左に鎮座する檜皮葺の一間社流造の社が一言主神社。祭神 一言主神例祭 6月5日御神徳 一言信仰の霊験高く、一言を真剣に祈願すれば叶えてくれる神。物事の善悪を判断する力を与えてくれる神として崇敬される。祈願成就の暁には鳥居を奉納するしきたり。所在地 / 奈良市春日野町160第三番納札社 龍王社。一言主神社の先の左側の少し奥まったところに鎮座する春日造の社が龍王社。神山春日山に鎮座する水徳の神で、中世には善女龍王を祀る高山龍王社ともいわれた式内社鳴雷神社の里宮にあたるお社。かつては勅使門を備えた壮麗な安居屋の鎮守社として、春日における龍神信仰の中心的な神社として崇敬されたが、明治時代に総宮神社に合祀されていた。平成30年(2018)に創建1250年を記念し、140年ぶりに龍王社が再興された。祭神 龍王大神例祭 8月8日御神徳 運気を上昇させ、富貴に導く神様。所在地 / 奈良市春日野町春日大社の鹿は「神の使い」とされ古来より大切に護られてきました、天然記念物に指定され広い境内のみならず街中でも平気で歩いています。ほゞ角が落とされたものばかりですが、中には角切を免れたこんな立派な角を持つものも闊歩している。飼いならされた犬猫と同等のような錯覚をするが、野生であることを忘れない方がいい。第四番納札社 水谷神社。龍王社から先に進んだ右側に鎮座する三間社流れ造りの社が水谷神社。春日大社のなかでも最も古い社の一つで、平安時代に隆盛した牛頭天王としても崇敬された。京都八坂神社の本祀ともいわれる格式の高い社。例祭(鎮花祭)では古くから社伝神楽と禰宜座狂言が奉納されてきた、禰宜座狂言とは春日神人(禰宜)が演じたことからその様に呼ばれ、秀吉が肥前名護屋城に招くなど一流狂言として誉れ高かった。かつて水谷神社の西に子安社が鎮座していた、拝殿の子授け石を清めると子宝に恵まれる霊験がある。祭神 素戔嗚命、大己貴命、奇稲田姫命例祭 4月5日御神徳難病・疫病を封じ、地相・家相・方位・日柄などから現れる災難を取り除き福徳円満をもたらす神様。所在地 / 奈良市春日野町160水谷茶屋。内容はともかく、茅葺屋根の風情のある建物は周囲の景観に良くマッチする。茶屋から道を下った橋の袂に二社が鎮座します。上第六番納札社 聖明神社もとは興福寺四思院に鎮座していた、近世には陰陽師が祭祀にかかわり陰陽道とのつながりが深い。京都の平野神社に祀られる今木神と同神とも云われる。祭神 聖明神例祭 7月15日御神徳生気横溢・家庭の守り神。下第七番納札社 愛宕(あたご)神社祭神 火産霊神例祭 7月15日御神徳火伏・必勝。所在地 / 奈良市春日野町30第八番納札社 天神社北野天神と同神とされ、受験合格資格取得の神としても信仰される。祭神 天常立尊例祭 7月25日御神徳延命長寿・災難消除・受験合格。所在地 / 奈良市春日野町90第五番納札社 浮雲神社このお社にお参りすれば、神々が降臨したとされる禁足地の霊峰御蓋山(みかさやま)の頂、浮雲峰に鎮座する本宮神社を登拝するのと同じ霊験があるという。祭神 天児屋根命例祭 7月25日御神徳将来を見通し、運気を上昇させ福徳を増進する神。所在地 / 奈良市春日野町101第九番納札社 船戸神社伊弉諾が投げた杖から出現されたと伝わり、大宮第二殿の御供神とされる神を祀る。その昔、京都から春日の神々に祈りを捧げるために遣わされた摂関家の姫・斎女・内侍が通った内侍道、本殿から水谷神社を経て東大寺二月堂に向かう水谷道の交わるこの地に鎮座し、邪鬼の侵入を防ぐ寒神として崇敬される。祭神 衝立船戸神例祭 6月5日御神徳 交通安全や邪気の侵入を防ぐ神。所在地 / 奈良市春日野町160船戸神社の前には春日大社国宝殿があり、春日大社が所蔵する国宝354点、重要文化財1482点の他に多数の文化財を所蔵・展示されています。写真は春日若宮おん祭で舞楽演奏の際に用いられる日本最大級の鼉太鼓のレプリカ。三つ巴と二つ巴の紋が入った太鼓の周囲は、まるで光背のように、口から炎を噴き出す昇竜や鳳凰が浮き彫りにされた火焔彫刻が見事。国宝殿一階に展示されており、外部からも見ることができる。時間に余裕があれば立ち寄ってみてもいいかもしれない。春日大社国宝殿所在地 / 奈良市春日野町160春日大社 2 (水谷九社巡り)関連記事 / ・春日大社 1 (一ノ鳥居から本殿)・南都鏡神社 (奈良市高畑町)・新薬師寺、比賣神社 (奈良市高畑町)・雨寳山十輪院・御霊神社 (奈良市薬師堂町)
2024.01.12
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中村区塩池町の髭題目塔から南へ5分程の位置に鎮座する昌温山 菊泉寺。たまたま前を通りかかり、立派な伽藍に目が留まり立ち寄ってみました。南側から菊泉寺の眺め、綺麗な形の鐘楼と立派な山門、大きな屋根の本堂と庫裏、山門右に秋葉堂、正面駐車場左に立派な弘法堂が主な伽藍で、近年補修・整備が行われたのか綺麗な寺観です。昌温山 菊泉寺 山門。右手に寺号標、日比津・大秋の里散策コースの案内板があります。散策コースのひとつとされるだけに地元で古くから鎮座する寺と見えます。切妻瓦葺の四脚門で前後に軒唐破風が付く立派な門構えの木造山門。左の鐘楼も木造の入母屋瓦葺のもので、今どきのコンクリート造りにはない、木の温もりが感じられる外観。山門に掲げられている山号額は昌温山。破風飾りは鳳凰のようで細かな意匠が施されたもの。蟇股には鶴が施されている。山門から境内。右手に手水舎、庫裏、左手が本堂。龍は威厳のある姿をしているが、水は注いでくれていなかった。最近、水を注ぐ龍の姿を見れなくなり、どことなく哀愁を感じる。境内左の鐘楼。木鼻には獅子の装飾が施されており、梵鐘のアップを撮って見たが銘までは読み取れなかった。なんでも、こちらには古い梵鐘が保存され、そこには「山田荘」の銘が刻まれているといい、かつての山田荘の広がりが感じられる。本堂全景。入母屋瓦葺で、堂前の立派な燈籠(寄進年未確認)が目を引く。本堂の寺額。曹洞宗 昌温山 菊泉寺は嘉永3年(1850)に火災に遭い、古い記録を焼失しており、焼け残った記録の一部から、天正15年(1587)頃、交雲宗易という方が、村の東北に薬師如来を安置し薬師堂と称した記録が残るとされます。寛文6年(1666)頃、遠州元弘という方と、興倫元苗大和尚(当山二世)により、永安寺五世朴鼎豊淳大和尚に帰依し、一つの堂場を村中に建て薬師如来をむかえたそうで、これが菊泉寺の開山で菊泉寺開山は朴鼎豊淳大和尚となるようです。元禄年中(1688~1704)、名古屋市伊藤次郎左右衛門祐良(松坂屋13代当主)により十一面観音菩薩及び、地蔵尊の霊體を寄付され、十一面観音菩薩を本尊としました。明治24年10月28日(1891)の濃尾地震で伽藍は倒壊。明治32年(1899)本堂等の伽藍が再建され、現在に至るようです。当初は清州越しに伴いこちらに遷ってきた寺院と思っていましたが、地に根ざした歴史のあるお寺のようです。元禄年中に寄進されたとされる本尊の十一面観音菩薩像(HPより)、像高など紹介されていませんが、間近でじっと拝んでみたいものです。菊泉寺は写経もでき、定かではないですが座禅も出来るかもしれません。いろいろと心乱れる事の多い昨今、機会を見て訪れてみたい。山門右の秋葉殿。火伏の神の秋葉権現を祀り、毎年11月には火防の祈りが捧げられるようです。現在の建物は令和4年の台風により被災し、同年に修繕工事を終えたものと云う。たまたま通りかかった菊泉寺ですが、当地の歴史を見て来た寺院のようです。昌温山 菊泉寺宗派 / 曹洞宗創建 / 寛文6年(1666)開山 / 朴鼎豊淳大和尚本尊 / 十一面観音菩薩脇侍 / 魔訶迦葉尊者、阿難陀尊者安置 / 十六羅漢、大権修利菩薩、達磨祖師秋葉堂 / 秋葉権現弘法堂 / 弘法大師所在地 / 名古屋市中村区栄生町24-15髭題目塔(中村区塩池町)から菊泉寺 / 南へ徒歩4分関連記事 /・髭題目塔(中村区塩池町)・土江(ひじえ)神社・八幡社・「屋根神」西区名駅・ ノリタケの森 日陶神社
2024.01.11
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奈良市春日野町「春日大社」その名は広く知られ、全国に約千社ある春日神社の総本社で、ユネスコの世界遺産に「古都奈良の文化財」の1つに登録されている。修学旅行で奈良を訪れればコースに組み込まれる見所の一つだろう、自分もその中の一人。春日大社の入口は左に興福寺、右手に猿沢の池を見ながら三条通りを東進した突き当り。三条通の東の突き当りに立ち、平安中期頃に建造された木造の明神鳥居。太い柱が印象的な現在の鳥居は寛永11年(1638)に再建されたものとされ、古くは春日大社と興福寺境内の境に立つ結界の役割を持っていました。日本三大木造鳥居のひとつに数えられる大鳥居で、高さ7.75㍍あるという。因みに日本三大木造鳥居は以下。・福井県敦賀市鎮座 氣比神宮(両部鳥居)・広島県廿日市市鎮座 厳島神社(両部鳥居)と、ここ春日大社の一ノ鳥居(明神鳥居)を指すようです。いずれも立派な鳥居ですが、春日大社のそれは控柱を持たないものなので、柱の太さがより強調される。社殿はこの鳥居をくぐった約1㌔先に鎮座します。境内案内図。御蓋山の西麓の広大な神域に春日造の本殿4棟をはじめとする社殿があり、西側・南側に多くの境内社が鎮座し、それらを巡拝する若宮15社巡り、水谷9社巡りがあります。それら社殿や燈籠、自然など写真を整理する枚数が膨大になってしまい、一ノ鳥居をくぐり参道から本殿までを今回、若宮15社巡り、水谷9社巡りと三回に分けて掲載します。まず上の写真は一ノ鳥居から眺めた参道。9:30に鳥居前に到着、既に観光バスは頻繁に訪れ、参道の先は参拝客で賑わっているのだろう。本殿は9:00から開くので、人で混みあう前の静かな境内を歩くならもう少し早い時間がいい。下は境内入口の境内マップ。最初に栞から春日大社の由緒を以下に記載します。「御由緒平成28年、20年に一度の第60次式年造替によって、国宝の本殿四棟と重要文化財の二十七棟が美しく蘇りました。春日大社は1300年程前の平城京の守護神として、常陸国より国譲りに貢献された武神である武甕槌命、下総国より神武東征を導き、建国に尽力された武神である経津主命、河内国より天岩戸にて斎主として最初に祝詞を奏上された天児屋根命、美しく心優しい比売神の四柱が祀られている。都・日本を護るために最も力のある四神を祀るため創建されました。現在も年に2200回以上の祭事が行われ、国と国民の繁栄・平和、皇室の繁栄、世界平和の祈りが揚げられている。国家鎮護の神様であると同時に藤原氏の氏神でもあります。奈良時代以降は天皇の生母のハ割以上は藤原氏であり、天皇、上皇の行幸は42回におよびます。平安時代からは3000基の灯籠が奉納され、将軍や貴族はじめ、九割以上を庶民から奉納されたもので、中世以降は民衆から広く崇敬されている。例祭は、1200年以上続く春日祭で、天皇陛下から遣わされた勅使により、春日大神へ国民の繁栄を祈り御祭文が奏上されます。3月13日に斎行され、宮中より宮内庁の掌典職が、平安時代の延喜式のままのささげ物である御幣物を供えて祈り、平安時代の古式のまま現在も続いている。奈良時代の神護景雲二年(768)に本殿が創建されるまで、平城京へ太陽と月が昇り、水源地たる都の聖なる神山の御蓋山(三笠山)、春日山への祈りが捧げられていました。その後も神山への春日信仰は続き、平安時代には朝廷より神山の狩猟伐採禁止の法令が出されたため、今も春日山原始林が存在し、明治時代までは100万坪、現在でも32万坪の広大な境内を有しています。また、古代より春日大神の使いである神鹿の殺生も禁止され、一帯には現在も1200頭の鹿が生息しています。1300年間に亘り、一日も絶えること無く、国と国民の為の祈りが奏上され、春日大神は人々を護り、境内は自然の中で人間が生かされている大切さを示し、神の下で人と自然が共生する世界でも唯一の地です。」春日大社末社 壺神神社。燈籠が連なる長い参道を10分程進み、月替わりの粥が楽しめる春日荷茶屋を過ぎた参道左に鎮座する神社。社殿に向かう参拝客は多いが、壺神神社を参拝する姿はほゞ見かけなかった。由緒がなく創建等記されていませんが、古くは境内の南郷(高畑)と北郷(野田)の二ヶ所の社家町に守護神として祀られていたようで、それが明治11年(1878)に合祀されこの地に遷座したとされます。春日大社の社殿の隣接して酒殿と竃殿が鎮座しますが、壺神神社の起こりは春日大社建立以前からのようです。祭神は仁徳天皇(257~399)の御代、大陸からやってきて酒造技術をもたらしたとされる兄妹、男神酒弥豆男神(さかみずおのかみ)と酒弥豆女神(さかみずめのかみ)が祀られている。脱線するが仁徳天皇と云えば「高き屋に 登りて見れば 煙立つ 民のかまどは にぎはひにけり」の和歌で知られるが、竈の煙から民衆の疲弊度を把握し課税を免除し自らの宮殿の整備も見送ったとされる。見もせずに語るだけのどこぞの人物に見習ってほしいところだ。参道沿いの奉納燈籠はシンプルなものから、竿に多様な意匠が施されたものもあり、苔むした古いものが連なっています。ニノ鳥居。壺神神社から5分程先にある木造鳥居で、手前に大きな狛犬が鎮座する。狛犬が見つめる先の鹿と比較すると大きさが想像できると思う。春日大社の神紋下り藤が刻まれた台座の上に鎮座する狛犬。寄進年未確認。祓戸神社二之鳥居をくぐった左にある社で、祓い浄めの女神とされる瀬織津姫をお祀りする。春日大社にあって珍しい檜皮葺の一間社流造の社。由緒は以下。「末社 祓戸神社祭神 瀬織津姫神様例祭 6月30日由緒春日大社大宮(ご本殿)が創建されたすぐ後の、神護景雲四年(770)に鎮座と伝えられる古社。大宮の創建以来続く春日祭では、古くは天皇陛下の勅使が京の都から2500人近くの官人などを率い参向された。現在も勅使はこの社で御祓いの儀式を済ませたあと、大宮御神前に進まれ春日祭をご奉仕になる。このように非常に格式の高いお社で、江戸時代までは中社(摂社)とされていた。御神徳祭神は祓の神様であり、知らず知らずのうちに犯した罪・穢を祓い清め、人々を幸せに導く神様で、6月と 12月に行われる大祓式はこの社で執行される。参拝の方は手水の後、まず祓戸神社に参拝し、心身を清浄にして大宮・若宮にお進みください。」とあり、創建は平安中期の寛弘3年(1006)にはお祀りされていた古社です。その右側の伏鹿手水所。ここでは龍より鹿。上祓戸神社から参道を進むと左手に南回廊と摂社榎本神社が見えてきます。上の写真のように参道から石段が伸びていますが、人で溢れる楼門に向かう流れはあるが、榎本神社に参拝する姿は見られなかった。楼門(南門)から廻廊の西端に埋め込まれる様に鳥居が立てられ、菱格子で囲われた中に春日造の本殿が祀られています、廻廊が榎本神社の覆屋のようにも見えてくる。「榎本神社由緒御祭神 猿田彦命例祭 11月1日由緒春日の地主の神として尊崇され、本社御鎮座後、一時安倍山(現在奈良県桜井市)にお遷りになったが、承平5年(935)再びこの場所へ御帰座になった。御神徳寿命を守り給う神として信仰され、安永4年(1775) には宮中より御祈祷と願い出られた。又、導きの神、道開きの神として人生の岐路に御加護を願う人が多い」ここから廻廊沿いの石燈籠を通り抜けるように右に向かうと楼門に続きますが、ここはやはり石段を下り参道から楼門に向かう。楼門前へ続く石段は記念撮影スポット、団体が過ぎるのを待つため、突き当りから楼門(南門)を眺める。楼門の真正面に玉垣で囲われた出現石があります。中には小さな岩が頭を出して埋められており、解説は以下。「この石は太古の昔、神様が降臨された神聖な「磐座」であり、赤童子(若宮様の荒魂)が出現されたと伝わる事から「出現石」といわれる。また奈良時代の宝亀3年(772)に雷火により落下した社額を埋納した「額塚」とも言われ信仰に深く関わる神石である。なお、この出現石から若宮方面に20㍍ほど先、布生橋の手前にわずかに姿をのぞかせる「如意石(さぐり石)」 まで、目をつむってたどり着くと、願いが叶うといわれている。」 上楼門正面。下楼門前から南回廊と榎本神社。楼門の高さは約12㍍あり春日大社の建築物としては最大のもので、平安時代中期頃は本殿の正面に位置する鳥居だったようで、藤原氏の長者や摂関による春日詣の参向門とされ、廻廊が作られた治承3年(1179)に二層の楼門に改められ、春日大社の正門としての性格を持つようになったという。現在の三間一戸の入母屋檜皮葺の楼門は文久3年(1863)のもの。回廊周辺や若宮に向かう参道には苔生した古い元号の石灯籠が多く見られました。楼門をくぐった先の参拝所と幣殿。貞観元年(859)に建立された桁行五間、梁間三間の切妻檜皮葺の建物で、手前の一間が拝所と奥の二間を幣殿として区分けされている。雨天にはここで神楽や舞楽が奉納される。ここから先は特別拝観券(@500)が必要なので、参拝所前の混雑は多少緩和されます。有料区域に入ると東廻廊を背にして四社が祀られています。上が井栗神社 祭神 高御産霊神、例祭 5月25日、御神徳 安産の神様で縁結びの御利益も得られる神様。下は穴栗神社 祭神 穴次神、例祭 5月25日、御神徳 幸運を導いて下さる神様。右が辛榊神社 祭神 白和幣、例祭 5月25日、御神徳 交渉をおまとめ下さる神様左は靑榊神社 祭神 青和幣、例祭 5月25日、御神徳 争いを解決に導く神様中門。本殿の直前にある楼門で江戸時代前期の慶長18年(1613)に建立された一間一戸の檜皮葺の楼門で、約10㍍の高さがあり、正面の唐破風は明治時代になって取り付けられたものとされます。御廊は中門から鳥が翼を広げたように左右へ約13㍍延びています。神仏分離以前は興福寺僧侶や東大寺の僧侶が読経をあげる場所で、現在は本殿の祭典では、神職の座る場所ですが、例年1月2日の日供始式並興福寺貫首社参式では興福寺の僧侶が神前で読経を行うそうです。楼門唐破風屋根と上層の眺め。東から御廊と中門の眺め。左の注連縄が張られた太い幹の杉は樹齢1000年とも云われ、樹高は約23㍍、幹回りは約8㍍と云われ、鎌倉時代後期(1309)に描かれた春日権現験記にもその姿は描かれている。根元から四方に伸びるイブキの樹は直会殿の屋根を貫いて上に向かって聳えています。上中門右の手力雄・飛来天神社参拝所手力雄神社祭神 手力雄神例祭 4月1日神徳 勇気と力の神飛来天神社祭神 天御中主神例祭 4月1日神徳 空の旅の安全を守護する下東回廊(内回廊)。吊燈籠がたくさんあることで知られる春日大社、平安時代から現在までに奉納された燈籠は3000基を超えるとも云われ、数だけでなく歴史的にも貴重なもので、室町時代以前の燈籠の六割以上が春日大社にあるという。8月14・15日の「春日万燈籠」では全ての燈籠に明りが入れられる。治承3年(1179)に建造された回廊は、社殿の東西約40㍍、南北約60㍍にわたって巡らしたもので、中と外の回廊を連子窓で区切り一つの大棟を通した造りで、この東回廊は約37㍍あると云われ、中央の影向門から外回廊に出た左奥には御神体の御蓋山浮雲峰遥拝所へ繋がっています。「奈良時代初め、平城京守護のため、春日大社第一殿の祭神、鹿島の武甕槌命が白鹿の背に乗り天降られた神蹟、御蓋山頂上浮雲峰の遥拝所。神護慶雲3年(786)に本殿が建立される以前に鹿島・香取・牧岡の神々が鎮まる神奈備として崇められ、現在も禁足地として入山が制限されている聖地。この遥拝所は浮雲峰から春日大社御本殿を通り、平城京大極殿まで続く神々の力が伝わる尾根線上で、ここから浮雲峰を遥拝してください。」いまだ鹿島・香取の神さまの参拝は叶わないがここでそれも叶うと云う事のようだ。再び内回廊に戻り、東回廊から楼門に続く南回廊を眺める。中門の参拝を済ませ大杉の根元に鎮座する春日造の岩本神社へ。「御祭神は表筒男命、中筒男命、底筒男命の住吉三神を祀る。例祭 12月16日御由来・御神徳大杉のお膝元に鎮座する社は、中近世一般には「住吉社」と称されていました。春日大社の近世の社務日誌にも、3月13日の春日祭に際し、社司「住吉壇上」に蹲踞すると書かれ、これは現在の岩本神社前の石畳の場所にあたります。当社蔵『天文二十二年正遷宮記』には「岩本社」とあり、明治初年、同じく当社末社の奈良高畑丹坂町の住吉社と区別するため、岩本社と復称したと考えられます。古来住吉明神として海神信仰、また歌神信仰があります。」幣殿左脇から大杉と中門、東回廊の眺め。上中門西回廊の横に鎮座する風宮神社祭神 級長津彦命、級長津姫命例祭 9月1日由来・御神徳本殿の真西に位置する風を司る神様です。西の風神のというのは、本殿を西風から守り外敵を吹き払う攘災神的な神様である云われます。春日祭巳之祓式では御神木をこちらの御垣の隅へ納める儀式があり、 風の神の力を得て吹き祓うものと考えられている。社左に七種類(イスノキ、山桜、椿、南天、ニワトコ、藤、楓)の木が共生する「七種の寄木」と呼ばれる木があり、これは祭神が持つ風の力で種が集められたとされ、小授けの霊木として崇められている。下風宮神社の後方、後殿の左に鎮座する椿本神社。祭神 角振神例祭 5月2日由来・御神徳春日明神の眷属の神で、隼の明神とも呼ばれ、災難を祓ってくれる神。椿の木が付近にあったことから、社名になったと伝わる。後殿。本殿の後方の後殿には災難厄除けの神々が祀られています。この門は明治維新以来長く閉じられてままだったが、第60次式年造替(2007~2016)を機におよそ140年ぶりに開門されたもの。手前右は風宮神社、左は椿本神社、右には春日造の本殿4棟が鎮座する。上後殿の門から望む春日造の本殿4棟。春日大社の所蔵する『古社記』に称徳天皇の神護景雲2年(768)11月9日と記されているという。第一殿 武甕槌命第二殿 経津主命第三殿 天児屋根命第四殿 比売神由緒春日の神々の鎮座は奈良朝のはじめ、平城京鎮護のため、まず武甕槌命様を鹿島(茨城県)から御蓋山頂に奉遷したことからはじまり、香取(千葉県)の経津主命、枚岡神社(大阪府)の天児屋根命と比売神の四柱を併祀したのがその始まりとされています。下後殿末社5社(左から)雷神社祭神 八雷大神例祭 4月15日御神徳雷神様、電気の力で人々に幸せをもたらす神様、雷除けの御利益がある。粟柄神社祭神 火酢芹命例祭 4月15日神徳門戸(出入り口)を守る神、除災の神として崇敬が篤い。海本神社祭神 大物主神例祭 4月25日神徳 水徳の神様で五穀豊簇、食の安全を守る神。杉本神社祭神 大山咋神例祭 4月25日神徳 山岳守護の神、高層マンシンで就労・居住する人々の安全を守る神。佐軍神社祭神 市津之雲大神例祭 4月25日神徳 石上神宮の祭神と同神で、国土平定に霊験があったことから、災禍を祓い悪因・悪縁を断ち切る神。上藤浪之屋多賀神社後方にあり、江戸時代まで神職の詰所として使われていた建物。外光の届かない室内は無数の燈籠が灯されており、春日万燈籠の神事を体感できる。下多賀神社御祭神 伊弉諾命例祭 4月22日御由来・御神徳回廊内の北西隅に鎮座し生命を司る延命長寿の神様で、その昔に俊乗房重源が大仏殿を再建するときに寿命を頂いたという言い伝えがあることから、その御神徳を求め崇められている。上 宝殿本殿に隣接し、厚板で組み上げられた朱塗の校倉造の建物で、古くは春日大社の御神宝を納めていました。春日大社が所蔵する国宝の大鎧等は、近代までこの宝庫の中で保管されていました。現在は3月の春日祭の時に、本殿を飾る御神宝の鏡、太刀、鉾、弓矢などが納めらていると云う。下 内侍殿桁行五間、梁間三間の檜皮葺の流造で、かつては春日祭に当たって神前で奉仕をする内侍が控えていた建物として内侍殿と呼ばれる。当初は宮中から藤原氏の女性が斎女として遣わされ、斎女とともに内侍も儀式の奉仕をしたと云う。早くに斎女はなくなり、内侍の参向は以降室町時代中頃まで続きました。内侍殿は20年に一度の造替の時、本社と若宮の神様をお遷しするので、移殿とも呼ばれるそうです。上西回廊内侍門から見る酒殿。貞観元年₍859₎の建立とされ、春日祭で供える神酒を醸造施設。天平勝宝2年(750)の記録に名が記され、現在も内部にある大甕で濁酒を醸造し神々にお供えしていると云う。下慶賀門。西回廊の南側の門で正面に御蓋山が望める門。古来より正式な参入門とされ、宮中の藤原氏の大臣や上卿はこの門をくぐって参入したと云う。門入口の紅葉が綺麗な事もあり、これ以上下に向け撮れなかった。上内侍門入口と桂昌殿。下酒殿の北側に鎮座する桂昌殿。元禄年間に徳川綱吉の母「桂昌院」が寄進したことからこの名で呼ばれるが、「祈祷殿」が正式名。文字通り天下泰平を祈願するため元禄12年(1699)に建立された建物。春日大社の広い境内、今回は本殿域とその西側のみ掲載しました。次回は広大な境内に鎮座する水谷九社巡りになります。春日大社(一ノ鳥居から本殿)創建 / 神護景雲2年(768)祭神 / 春日神 (武甕槌命、経津主命、天児屋根命、比売神)所在地 / 奈良県奈良市春日野町160境内社 / ・・・参拝日 / 2023/11/30新薬師寺から春日大社一ノ鳥居 / 北西に20分程関連記事 / ・南都鏡神社 (奈良市高畑町)・新薬師寺、比賣神社 (奈良市高畑町)・雨寳山十輪院・御霊神社 (奈良市薬師堂町)
2024.01.10
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先に掲載した「新薬師寺、比賣神社」からの引き続きとなる今回は、神仏分離以前まで新薬師寺の鎮守社だった南都鏡神社です。前回掲載した比賣神社は南都鏡神社の境外摂社にあたります。新薬師寺南門のすぐ左に朱の両部鳥居を構えた社頭があります。鳥居右に「南都 鏡神社」社標があります。境内は正面に拝殿があり、その右手に本殿があります。左手の建物は割拝殿となっており、境内から南側の道路に繋がっています。鳥居左の由緒。「奈良市指定文化財 鏡神社本殿一棟。この神社の本殿は春日移しの社。春日大社古記録によると延享3年(1746)春日大社第46次式年遷宮による御造営のとき、旧本殿の第三殿を譲渡しとある。昭和34年(1959)の修理のとき、屋根裏から「三ノ御殿」と墨書銘が2カ所から発見された。移築当時に近い形状を留め価値が高い。」ここに出てくる春日移しとは、春日大社では20年に一度式年造替が行われ、それに伴って旧社殿は近隣や関係の深い神社に下賜、移築する習わしを指すようで、春日大社本殿は国宝指定を受け移築は出来なくなりましたが、境内の摂末社は対象から外れるためその習わしは今も残ると云う。春日移しによる本殿は各地に存在するようで、ここ鏡神社の他にも先に参拝した御霊神社本殿も春日移しによるものと云われるようです。大和名所巡覧記(1891)より新薬師寺と鏡神社。大きな建物が新薬師寺本堂で、南門の左が鏡神社の社殿になります。割拝殿や鳥居の配置に違いはありませんが、本殿前に現在の拝殿が描かれていません。入母屋瓦葺で梁間1間、桁行2間の拝殿は四方吹き抜けのものでシンプルな姿のもの。右後方が本殿域で朱の鳥居の先に延享3年(1746)に移築された一間社春日造りの本殿が鎮座し、白壁で囲われており本殿域の左に春日造の社が祀られています。拝殿の左側には祖霊社が祀られています。鏡神社の創建は、天平から天平神護年間(729~767)に、現在の福智院に玄昉の弟子、報恩が肥前国唐津から鏡神社を勧請して祀ったのが始まりとされ、藤原広嗣の屋敷跡とされる現在地に大同元年(806)に移転し、新薬師寺の鎮守社とされた、また、社伝にはこの地は遣唐使発遣の祈祷所であったとされる。明治以降、鏡神社は独立した神社である。拝殿から本殿域の眺め。藤原広嗣公は、文武の才に長け、天平10年に大宰少弐に任命されました。しかし、朝廷の玄昉と真備の行動に対する不満から、広嗣公は天皇に上表文を送り、自身の考えを採用するよう求めました。これが謀反とみなされ、広嗣公は討たれました。その後、玄昉と真備は左遷され、広嗣公の霊は鏡尊廟で祀られ、霊信仰が広まりました。玄昉の急死と真備の左遷は、広嗣公の祟りとされそれ以降、霊信仰が世にあらわれた。その祟りを語る頭塔伝説があるようで、玄昉が急死すると遺体は奈良の地に飛散し、興福寺の境内に落ち、首は頭塔山に、腕は肘塚町に、眉と眼は大豆山町に飛来したと伝わるのだとか。狛犬脇の解説は社頭の解説と同様のもの。解説の左後方は祖霊社で右の本殿域に見える社が火雷天神をお祀りする「天神社」と思われます。本殿鳥居前の狛犬は子取り、毬持ちのもので寄進年は見忘れました。延享3年(1746)春日大社式年遷宮時の旧本殿の第三殿。昭和34年の修復以降も幾度か補修の手が入っているのだろう、屋根や壁面は傷みもなく、彩色も色鮮やか。春日大社の本殿は見ることができないが、この一間社春日造の社が並んでいると思えばいいのかな。鏡神社は開運招福、学業成就、家内安全、無病息災、交通安全の御利益があるそうです。拝殿左の祖霊社。境内西側から社殿全景。こぢんまりとしていますが、綺麗に纏まった神社です。南側の割拝殿からの眺め。拝殿の先に朱の本殿が望めます。創建 / 天平から天平神護年間(729~767)現在地遷座 / 大同元年(806)主祭神 / 照皇大神、藤原広嗣、地主神境内社 / 天神社、祖霊社境外摂社 / 比売神社別社 / 赤穂神社所在地 / 奈良県奈良市高畑町486新薬師寺南門の左参拝日 / 2023/11/30関連記事 / ・新薬師寺、比賣神社 (奈良市高畑町)・雨寳山十輪院・御霊神社 (奈良市薬師堂町)
2024.01.07
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土江神社が鎮座する塩池公園から南東の2分程行った塩池町2丁目の三叉路の角に髭題目塔を見かける。上は大正時代とほぼ現在の日比津界隈地図、2022年周辺の社寺を訪れた際に訪問地を記したもの。以前、日比津界隈で「南無妙法蓮華経」と刻んだ石塔を幾つか見かけたが、日比津から東に離れたここ塩池町にも建てられていたので取り上げる事にします。髭題目塔としましたが、形や大きさも様々で、墓石じゃない?と思わせるものもあれば、自然石のものもあり、呼称も色々あるようで題目塔、題目碑、題目石など色々あるようです。それらに共通するのは正面に「南無妙法蓮華経」と刻まれており、その文字が特徴のある書体で、「法」の字以外の文字の筆端は髭のように延びる独特の文字で、その形態から髭題目とも呼ばれるそうだ。古い街並みや街道を歩いているとこうした石塔を目にしたことがあると思いますが、題目塔を街角に建立した目的は未だ自分自身良く分かっていない。認識が違うかもしれないが「法華経の経典を読誦した信者が記念に建てた」或いは「法華経を読誦するために題目塔を建てた」と認識している。それまでこうした題目塔に興味は示さなかったが、随分古い元号の髭題目もあり、写真に収めそのうち一つに纏めようと思います。特徴のある書体は光明点書法と呼ばれるようで、筆端が髭のように延びるのは、仏の慈悲が人々に分け隔てなく、平等に届く様を表しているという。右は東向きの正面と北側の側面。光明点書法で刻まれた「南無妙法蓮華経」と「南無日蓮大菩薩」左は正面と南側の側面「自佗倶安同歸常寂」裏側には天保2年(1831)造立元号と「日比津卯池口妙緩同修者和南」と刻まれていた。現在は塩池町ですが、明治31年頃のこの辺りは東栄村北東の外れで題目塔にある「日比津」はしっくりこないが、「卯池口」とある事から日比津を中心とした東(卯)と見ればそうでもないか。事実、天保15年(1844)に編纂された尾張志から日比津村を見ると「枝村三処ありて新屋敷山村池口といふ」とありと記され「池口」が現れる。日比津村で法華経を信仰し、講に類する組織が各方面にあり、こうした題目塔が建てられているようなので、散見されても違和感はないのかも。日比津町に鎮座する日蓮宗定徳寺の南にも題目塔(文化9年)があったが、どこを方位の中心と捉えて広がっているのだろう。前回、日比津町を歩いた際に「全部で何基あるのか分からないが、この町を全て踏破すれば全体数が見えてくるだろう」と書いたが、土江神社のすぐ東の塩池町で再び思い出す事になるとは。髭題目塔建立 / 天保2年(1831)所在地 / 名古屋市中村区塩池町2土江神社から塩池町の髭題目塔 / 南東へ徒歩2分程訪問日 / 2023/12/08関連記事 / ・土江(ひじえ)神社・八幡社・「屋根神」西区名駅・ ノリタケの森 日陶神社髭題目塔・長秋山定徳寺・秋葉社 (中村区日比津2)
2024.01.06
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奈良市高畑町鎮座「新薬師寺」十輪院から徒歩20分ほど東の御蓋山南西の麓に鎮座する新薬師寺へ。写真は新薬師寺東門(重要文化財)。鎌倉時代初期に建てられたという四脚門。当初は2本の本柱の棟門だったとされ、後に四脚門へ改築されたと云う。左右の本柱に冠木を載せ、その上に板蟇股を挟み切妻屋根の棟木を支える構造で、左右は築地塀と繋がっています。この道を北に向かうと不空院を経て春日大社も近いがこの道筋は観光客もなく静かな町並みが続きます。新薬師寺南門の右に朱の鳥居を構えた比賣神社。比賣神社全景。新薬師寺南門を挟んだ左の鏡神社の境外摂社で、小高く盛られた社地の上に築かれた小さな神社。社頭右の由緒。祭神は十市皇女、市寸嶋姫命をお祀りする。祭神の十市皇女は母の額田王、父は大海人皇子(後の天武天皇)の子として生まれ、額田はその後に大海人の天智天皇に召され、十市は天智の子大友皇子(後の弘文天皇)に嫁ぎ、その後起こる父大海人と夫の大友皇子の内乱(壬申の乱)で、夫は敗れ自害するも十市は生き残り、父の元に引き取られ6年後(678)にこの世を去った。神社の建つ場所は比賣塚と呼ばれ、十市皇女が埋葬されたと伝わる場所で、時代に翻弄された十市皇女の御霊を鎮めるため有志の尽力で昭和56年(1983)に建てられた神社。本殿は唐破風の付く春日造りで内削ぎの置千木が施されたもの。参拝はここからとなります。比賣神社本殿左になかむつまじく肩を寄せう十市皇女と大友皇子の石像があります。神像石(かむかたいし)大友皇子・十市皇女から淡海三船(721~785)までの4代と其々の妃の御姿石が祀られています。比賣神社創建 / 昭和56年(1983)祭神 / 十市皇女、市寸嶋姫命比賣神社の西側正面の本社にあたり、神仏分離以前は新薬師寺の鎮守社だった南都 鏡神社。まずは新薬師寺を拝観した後に参拝する事にします。新薬師寺南門(重要文化財)。新薬師寺の表門にあたり、鎌倉時代後期に建立された切妻瓦葺の四脚門。南門正面から境内の眺め。一見すると閉じられているようですが、拝観受付は本堂なので扉を開けて境内に進みます。周辺には鹿が出没する様で扉は必ず閉めて下さいとのこと。境内右の眺め。鐘楼とその左に朱の鳥居と小池があり、その先に社の姿ある。入母屋瓦葺の袴腰の鐘楼(鎌倉時代建立)で、中の梵鐘(重要文化財)は天平時代のもので、日本霊異記の道上法師鬼退治で知られる釣梵。龍王社。小さな小池を挟んだ先の東門脇に鎮座する神社で、雨を司る善女龍王をお祀りする。今も昔も豊かな実りに雨は必要不可欠、利水も整っていなかった時代、干ばつには無力で神に祈願することとなる。京の都の東寺と西寺を開いた真言宗の僧、空海と守敏は朝廷から干ばつから救うために雨乞いの祈願を命じられたという、守敏が祈願しても降らなかった雨は、空海が祈願すると善女龍王が現れ雨をもたらしたという。守敏は空海の祈願を封じるために龍神を封じたとされる、唯一それを免れた善女龍王は、空海の祈雨に応え雨を持たらしたと云う。鳥居の先には細い石橋が架かっていますが、通行禁止のため渡れません、参拝は橋の手前からとなります。境内左の眺め。中央の入母屋瓦葺の四方一間の堂は鎌倉時代建造の地蔵堂(重要文化財)。その左にも小さな境内社が見られます。堂内には十一面観音菩薩立像(鎌倉時代)、薬師如来立像(平安時代)と地蔵菩薩立像(南北朝時代)が安置されているそうです。格子戸先の堂内は薄暗く、正面に薬師如来らしき姿は見えるものの明暗調整も精一杯、左右の像容は分からなかった。南門へ続く築地塀の脇に鎮座する境内社の稲荷社。塀沿いの石仏群はかなり古く、永禄と刻まれた阿弥陀名号石もある。築地塀越しにかつての鎮守社南都 鏡神社の本殿が迫る。境内は神仏習合時の名残を残している。南門の正面に建つ本堂。桁行7間、梁間5間の入母屋瓦葺で、白壁と木のコントラストが綺麗な安定感のある建物。この建物は元から本堂ではなく、修法を行うための堂として使われていたという。新薬師寺の伽藍で奈良時代に創建され今に残る唯一の建造物。中央の石灯籠は室町時代のもの。新薬師寺は、聖武天皇の病気平癒を祈願し天平19年(747)に創建されました。奈良の大仏の造立の途中で体調を崩し、天皇の病気を治す法要が各地で行われ、これをきっかけに光明皇后によってこの地に新薬師寺が造営され、751年には新薬師寺で天皇のために続命法要が行われ、奈良の大仏が無事完成しました。当初の新薬師寺は、約440㍍四方の寺地に金堂や東西両塔など七堂伽藍が建ち並ぶ大寺院でした。宝亀11年(780)に落雷、天徳4年(960)の台風で、多くの堂宇が焼失・倒壊してしまったが、13世紀頃までに現在の伽藍が復興されます。この本堂だけは、自然災害の被害を免れ、天平時代の創建当初の姿を留め国宝に指定されています。西の京にある絢爛豪華な薬師寺と比較すると、同じ薬師と名は付くもののシンプルな伽藍の新薬師寺(華厳宗)は対照的な印象がある。薬師寺(法相宗)は天武天皇が皇后の病気平癒のために発願したのが始まりで、飛鳥時代(592~710)に造営が始まったもので、本尊は薬師如来ですが宗派は其々違います。また平城薬師寺は天武天皇が皇后の病気平癒を祈って文武天皇2年(698)に建立されたものと云われますが現在遺構のみ。新薬師寺を訪れる最大の目的は、この本堂内に安置されている薬師如来坐像、十二神将立像に尽きる。奈良時代に造られたこれらの仏像は全て国宝で、それらを目の当たりに眺めることができる。今回奈良を訪れるにあたって、唯一リクエストとしたもの。まずはこちらで賽銭投入参拝。本堂(国宝)左から全景。妻側の間が本堂への入口でこちらで拝観料を支払います。南門入口からここまでは無人なので、鹿が入らないように「扉を閉めてね」というのも頷ける。ここから左の門をくぐって香薬師堂、庫裏に向かいます。門から香薬師堂を眺める。門をくぐると目の前に池があり、紅葉の美しい庭園が広がります。石橋を渡った正面が香薬師堂。香薬師堂から新薬師寺境内方向の眺め。香薬師堂。堂には「香薬師如来」と書かれた額が掛けられている。この堂には7世紀から8世紀に造られたとされる香薬師像のレプリカが安置されています。この像は過去に3度の盗難に遭い、昭和13年の盗難以降実物は今も戻ってはいない。安置するレプリカはその前の盗難時に型が取られそれをもとに作られたものという。この他にも堂内には2躰の地蔵菩薩像が安置されているとされます。通常は公開されていませんが、興福寺別院の勝願院に安置され、こちらに移された景清地蔵(鎌倉時代)と呼ばれる木造の地蔵尊1躰と、その像の体内から見つかったおたま地蔵と呼ばれる木造の地蔵菩薩立像裸型像(鎌倉時代)の2躰も安置されています。おたま地蔵は安産や健康にご利益があるとされ親しまれていると云う。香薬師堂右手の庫裏。庫裏の正面の門を出ると新薬師寺本堂入口へ。本堂裏側の石仏は風化により像容は良く分からないが十一面観音だろうか。右手の手水鉢(寄進年不明)。さあ、国宝の薬師如来坐像、 十二神将立像を見に行こう。天井が張られていない堂内は、梁や柱が露出し以外に広々とした空間で、間接照明に照らされた像が浮き立って見える。堂内は撮影禁止堂内中央に円形の土壇が築かれ、壇上に薬師如来坐像を中心にして十二神将が取り囲んでいます。(写真左は栞から引用した薬師如来坐像と十二神将)薬師如来坐像は、左手にすべての病を治す霊薬の入った薬壺を持ち、病を治す仏として信仰され、新薬師寺の本尊。奈良時代から平安時代にかけて制作されたもので、像高は191㌢で頭から胴体は樹齢1000年以上とも云われる一本のカヤの木から彫り出されたものという。光背は、大きな葉を翻らせ花を咲かせながら上に伸びる意匠で作成され、光背の六躯の小仏は本尊と併せて聖武天皇の病気平癒を祈願し当時祀られていた七躯の仏「七仏薬師」を表していると云う。薬師如来は、修行時代に人々を救いたいという思いから十二の誓いを立て、十二の誓願それぞれを神格化したのが「十二神将」とされます。一躯で7千の眷属を持つとされ、十二神合計7万4千の眷属を持つ大将で、薬師如来の眷属として十二の方角を守っています。これらの十二神将は奈良時代に制作された塑像で、最古にして最大の十二神将像で、塑像彫刻の傑作とされ国宝に指定されています。また、十二の方位を守護する事から干支の守護神でもあり、各像の前には干支の表示と香台が置かれ、自分の干支を守護する像の前で拝めるようになっています。撮影は厳禁ですが、単眼鏡などの持ち込みは許されているので、向背の装飾などはそれらがあるといい。全てを拝観すると結構な時間を要しますが、これを見に訪れただけにじっくり拝観させて頂きました。現在の本堂は桁行7間、梁間5間の修法を行うための堂でしたが、元々の仏殿だった金堂は桁行9間の大きなもので、堂内に善名称吉祥王如来、宝月智厳光音自在王如来、金色宝光妙行成就如来、無憂最勝吉祥如来、法海雷音如来、法海勝慧遊戯神通如来、薬師瑠璃光如来の七仏薬師像、七躰の如来像其々に脇侍の菩薩像が二躰ずつ、更に十二神将像が祀られていたそうです。それらの仏像は平安時代の暴風で倒壊し現存しませんが、新薬師寺から少し西の奈良写真博物館付近に金堂の遺構が発見されています。その解説によると当時の金堂は大仏殿をも凌ぐ大きさだったと云われ、東西に塔が聳え、壇院、薬師悔過所、政所院、温室、造仏所、寺園など有する大伽藍を誇っていたのが窺われます。現在の本堂は当時の金堂の右にあたり、境内の東限にあたると云う。往時の面影はないかもしれませんが、閑静な佇まいの今の新薬師寺に自分は魅かれる。また、訪れて見たいと思う。目の前に見える南都 鏡神社を合わせて掲載するつもりでいましたが、いささか長くなりすぎたので次回掲載する事にします。日輪山 新薬師寺開基 / 光明皇后宗派 / 華厳宗創建 / 天平19年(743)本尊 / 薬師如来所在地 / 奈良県奈良市高畑町1352参拝日 / 2023/11/30雨寳山十輪院より新薬師寺 / 東へ徒歩20分程関連記事 / ・雨寳山十輪院・御霊神社 (奈良市薬師堂町)
2024.01.05
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奈良市薬師堂町の御霊神社社頭から、東へ5分も進むと左側に築地塀が続く趣のある山門に至ります。雨寳山(ウホウザン)十輪院の山門(南門)。十輪院は薬師堂町の御霊社にも現れた元興寺旧境内の南東隅の十輪院町に鎮座します。門前を通りかかり、門の先に見えた本堂の落ち着いた佇まいに足を止める。写真の山門は鎌倉時代前期に建てられたものとされ、普通この位置から軒を見れば、玉縁式瓦葺きの屋根を支える垂木があるが、垂木の替りに厚板が軒を支えているためスッキリした印象を受けます。本堂も同様の造りになっています。これ見よがしに人目を引き付ける意匠のない、簡素な四脚門で、現在の門は道路沿いの築地塀から境内側に引いて建っていますが、以前は築地塀から突き出るように建てられていたそうです。山門右の十輪院解説プレート。「南都 十輪院優曇華や石龕きよく立つ佛 秋桜子十輪院は元興寺旧境内の南東隅に位置します。奈良時代の僧で書道の大家、朝野魚養の開基と云われます。本堂(国宝・鎌倉時代)は軒や床が低く、当時の住宅を偲ばせる建物です。本堂の中には本尊の地蔵菩薩を中心にした石仏龕(重文・同時代)を祀ります。そこには釈迦如来、弥勒菩薩の諸仏のほか、十王、仁王、四天王や北斗曼荼羅の諸尊などが刻まれ、珍しい構成を見せています。境内には魚養塚、十三重石塔、興福寺曼荼羅石など多数の石仏が点在しています。」十輪院は元正天皇(715~724)の勅願寺で、元興寺の一子院とされ、当時の右大臣吉備真備の長男だった朝野宿禰魚養(あさのすくね なかい)の開基と伝えられる真言宗醍醐派の寺院で本尊は地蔵菩薩。沿革の詳細は詳らかではないようですが、鎌倉時代に無住法師が編纂した仏教説話集「沙石集」(1283)では本尊の石造地蔵菩薩を「霊験あらたなる地蔵」として取り上げられています。室町時代の末期まで寺領三百石、境内1万坪の広さを誇るも兵乱等により、多くの寺宝が失われたと云う。江戸時代初期に徳川家の庇護を受け、寺領五拾石を賜り、伽藍も整備されたと云う。その後の明治政府による廃仏毀釈でも大きく影響を受けました。現在の伽藍で初期の様子を伝えるものは本尊の石仏龕(がん)、本堂、南門、十三重石塔、不動明王二童子立像、校倉造りの経蔵(国所有)などが残っています。現在の寺観は昭和28年(1953)に本堂解体修理以降のもの。山門から眺める本堂(国宝)。鎌倉時代前期の建造物とされ、近世には灌頂堂とも呼ばれる。内部にある石仏龕(厨子)を拝むための礼堂として建立されたもので、正面の間口は広縁で蔀戸が施された住宅のような佇まいをしています。軒まわりは山門同様に垂木のない厚板で軒を支えています。玉縁式瓦葺きの寄棟造りで、棟は低く、そこから緩やかに軒に続く傾斜は安定感があり綺麗だ。山門をくぐり境内左の護摩堂。重要文化財に指定されている平安時代の智証大師の作とされる不動明王・二童子立像が祀られています。実際に像容を拝んではいませんが、HPによれば「髪を巻髪にし、左肩に弁髪を垂らし、左目を細め、左の上牙と右の下牙を見せて唇を噛む忿怒相を示しています。右手に剣、左手に羂索を執り、二童子を従えて岩座上に立っています。向かって右方の矜羯羅(こんがら)童子は合掌し不動明王を見上げ、左方の制多迦(せいたか)童子はやや腰を曲げ振り向きながら不動明王を見上げています。平安時代後期には、恐ろしさの中に優美さを求め、ふっくらとして、装飾性豊かな不動明王が現れますが、この像もその系譜を引いています。古くより、「一願不動尊」として信仰を集めています」とある。山門右から境内の眺め。手水の先の庭園は奥に広がりを持ち、鎌倉時代のものとされる興福寺曼荼羅石、不動明王像、十三重塔などがあり、森鴎外や水原秋桜子など十輪院の四季の移ろいを詠んでいるようです。予定外のため、ゆっくりできなかったので次回ゆっくりと訪れたい。人波から外れた静かな奈良町を歩いていると、長い歴史を持つ寺院がさり気無く鎮座しており、奈良らしい趣が感じられます。雨寳山十輪院山号 / 雨寶山宗旨・宗派 / 古義真言宗・真言宗醍醐派開基 / 伝・朝野魚養、元正天皇(勅願)本尊 / 地蔵菩薩(重要文化財)創建 / 伝・弘安6年(1283)所在地 / 奈良県奈良市十輪院町27御霊神社から十輪院 / 東へ徒歩5分関連記事 / 御霊神社 (奈良市薬師堂町)
2024.01.04
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中村区栄生町に鎮座する八幡神社から、北へ徒歩5分程の塩池町にある塩池公園へ。今回掲載する土江(ひじえ)神社はこの公園の一画に鎮座します。塩池公園の南西角から公園の眺め。街中の公園としては広々としており、遊具のある陽当たりのよい公園、のび〃と枝をはる樹々が公園を取り囲んでいます。塩池町の由来は旧町名の日比津町字池口前と池口西の「池」と字塩辛の「塩」を組み合わせた町名だとか。土江神社は公園北側に社殿を構え、公園南入口に社号標が建てられています。遠目からこの石標を見たときは「塩池公園」と彫られているものと思ったが、公園入口から参道のようです。「郷社 土江神社」の社号標は昭和3年に寄進されたもの。寄進された年代の古い地図を見ると、当時は今の町割が行われる前で当然公園もなく、栄生町の西外れの田畑の中に神社だけが建っていたようです。個人的に土江(ひじえ)神社と聞くと中区錦の泥江(ひじえ)縣神社と混同してしまうが、同じ読みでもこちらは圡江で全く違う神社。公園から眺める社殿。公園北側を玉垣で囲い、拝殿・本殿の社殿と右側に社務所が建てられている。境内には社殿を優に超える楠の巨木が聳えています。鳥居から社殿の眺め。鳥居の右に由緒、左に手水舎があり、参道の先に切妻の拝殿がある。「郷社 土江神社祭神 少彦名命由緒この場所で最初に祭られた年月は不明ですが、本国神名帳には「従三位土江天神」と記載されています。尾張誌によれば、現在の社地は狭くなり、荒れ果てています。詳しい社伝は不明です。天神という祖号を持つため、帳内神社の一つとされています。古代には国司や長官が参拝し、着任を申告したり、朔幣を奉じるなどの儀式が行われていました。御神徳当社の由緒記は、当氏神少彦名命は神代の昔大国主命と力を合わせて天下を治められたが、人々のために病を治す方法を定めた。特に鳥獣昆虫の災害を払うための方法を定め、是により百姓は今に至るまでその恩恵を受けている」上は尾張志の土江天神の記述。それによれば、日比津村にあり府志云く本国帳に「従三位土江ノ天神」と記載されていますが、現在の社地は荒廃しており、詳しい伝承は不明ととある。「土江天神」という名前は本国帳だけで、貞治の他の古文書では「入江ノ天神」とあるが「土江天神」の名はなく、土江天神のある古本には「同郡泥江(ヒヂエ)縣ノ天神」とも記され入江天神は見当たりません。これは、土江と入江と名が違うものの、泥江縣と土江を同じ神社と混在しているように見えますが本来は別の場所で、異なる神々を祀っていたように見えます。「日比津(ヒビツ)」は泥津(ヒヂツ)が後に訛ったもので、日比津村の常徳寺に応永8年(1401)に愛知郡の「泥津」長秋山に常徳寺が建立されたと記された古文書にもヒヂの名が見られるといい、更にヒヂという言葉が誤解されるは、万葉集に比治奇(ヒヂキ)の奈太のことを「ひびきの灘」と呼ぶのと同じで「ヒヂエ」は、古代に愛智海の入り江の湿地だったためにつけられた名であるとある。その地域はかなり広く、現在の廣井から日比津のあたりまで、すべてが泥江の一部だったと思われます。その場所の特に高い土地を泥江(ヒヂエ)縣と呼んだと見え、縣はもともと上田を意味し、公の官舎の所在地を指し現在の廣井村にあたる。愛智海の入江の形状は、古い地図がなければ知る由もないが、古い伝説や古い書物を考えると、熱田から北は古渡村、廣井村あたりまでの西側を東の端とし、西南の方は海東郡の榎津村、伏屋村などの東側、北の方へ広がり、その北東の極はこの泥津、西の方は甚目寺村あたりまで広がる入海だった。950年以上前の仁和の時代、甚目寺、萱津あたりは阿波手の浦といい、上萱津村の帳簿には仁和3年までこの村は濱だったと書かれているという。国の帳簿には土江入江と社号の異なるのは、元々二つの古い説があったと思われ、古事記や伝説が混ざり合っているようです。土江泥江縣の二神が広江泥津の二村に坐すも、何かつながりがあるようだ。泥津にあって土江という社号が異なるのは、川原神社が川名に坐すように、他にも例がある。府志によれば、この神社の土地は狭くなり荒廃したが、遺跡はまだ存在している。天神という社名さえ正しければ、社殿は戻して帳内神社の列に称えるべきだと締めている。冒頭でひじえ神社と聞くと中区錦のひじえ縣神社と混同してしまうと書いたけれど、尾張志の泥江(ひじえ)縣神社の記述には従三位泥江縣天神とあり泥江から廣江に変わり、後に廣井となったとある。時代〃で様々な要因から呼名は変わるにしても、南北朝時代に記された入江ノ天神は現在見られず、それが土江天神、土江神社とするには無理があり、日比津村の長秋山常徳寺も山号は同じだが寺号が「常」ではなく「定」だったような気がする・・・いまだ腑に落ちず泥沼にはまったままですが先に進もう。手水舎の龍口、鹿の角とされる立派な角、最近春日大社を訪れたが1本角の鹿は見かけなかった、1本角になった訳はなんだろう。拝殿全景。白く塗られた切妻平入のコンクリート造り。拝殿前の狛犬、寄進年は未確認。左の献灯台に「泥江神社」と刻まれており、寄進年は大正七年(1918)?と思いきや「大正七八年」としか読めない、大正十八年の見間違いかァ、あれ十八年あったか?まだ泥から抜け出せない。公園入口の社号標は土江神社だったが拝殿額は「圡江神社」と「`」が入る。祭神は少彦名命をお祀りする。本殿右に板宮造りの境内社が祀られているが社名不明。左に本殿の屋根が見えますが、高い壁で囲われ造りなどは分からなかった。拝殿の鬼の紋は六つ唐花の紋に見えるが亀甲枠の中に入るものは見慣れないので違っているかもしれない。白く綺麗な外観の社殿全景。拝殿前から大正元年寄進の神明鳥居と参道の眺め。公園同様に境内には陽射しが良く入り、明るく綺麗に手入れされた境内。公園から見る社地全景。12月とはいえ、風もなく穏やかな昼下がり、陽射しのぬくもりはベンチに腰掛け転寝したくなる、そんな環境に土江(ひじえ)神社は鎮座しています。土江(ひじえ)神社創建 / 不明祭神 / 少彦名命境内社 / 不明所在地 / 名古屋市中村区塩池町2-6-17八幡社から土江神社 / 北へ徒歩5分程(塩池公園)参拝日 / 2023/12/08関連記事 / ・八幡社・「屋根神」西区名駅・ ノリタケの森 日陶神社・長秋山 定徳寺・泥江(ひじえ)縣神社
2024.01.01
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