つららの戯言

つららの戯言

アカドクロ



髑髏城内、天魔の間で見たのは、玉座前に切り捨てられた蘭兵衛の姿だった。


 馬鹿だ、あんたは。結局、また一人ぼっちなのか。


太夫は輪胴轟雷筒を抱えその姿を見ていた。

捨之助の風貌を真似た天魔王が玉座の前にいた。



 顔が同じなら、捨之助にしとけばよかったのに・・・なんでこんなやつを選んだよ。


 「下がって!」

 兵庫、磯平を後ろに下げ、輪胴轟雷筒を天魔王に向けた。

 「そうはさせん」

 切り捨てられていたはずの蘭兵衛が立ち上がり、天魔王の盾となった。


 なんで起き上がってくるんだよ、こんなやつのために。お前を切り捨てた男のために。




 「蘭兵衛・・・お前は、お前は最期まで!」
 「所詮・・・外道だ」

 主殺しは外道の所業・・・人から外れた鬼の道か・・・最期まで天魔を守っても、所詮はすでに外れた道だ。

 無界を焼き払った時からか、それとも髑髏城にきたときからか・・・
いや本能寺で殿と共にいけなかったときからかもしれんな。

ぼんやりとした意識の中で己の過去を振り返った。


太夫、私が言ったとおりだろう・・・私の目に狂いはなかったな。


 蘭兵衛は、目の前の兵庫と太夫を見並べながら薄く笑った。


 お前が羨ましいよ、太夫 共に戦い、守り、支えあえるものがいる。





 「兵庫と???」 素っ頓狂な声をだして、極楽太夫は蘭兵衛を振り返った。朴念仁の蘭兵衛が突然「兵庫と所帯をもったらどうか?」と切り出したからだ。


 関東荒野に現れた無界屋という遊郭の奥の間、主人の蘭兵衛の部屋に二人はいた。昼時でも少し薄暗いこの部屋。遊郭の主人にしては灰汁も欲の欠片もない、少し殺風景な蘭兵衛の部屋。

 縁側から見える、中庭の木々だけが色彩を放ち、夏の気配に色を濃くしていた。

 「また昨日、大立ち回りをしたらしいじゃないか、荒武者隊の旦那方が」

 昨晩、力づくで極楽太夫を己がものにしようとしていた武士を相手に
拳ひとつで殴り倒したという話だ。


この無界はそこいらの遊郭とは一味もふた味も違う。
「女が見せる夢と意地を買う。いくら金をつまれようと女が気に入らなければ春はうらねえ」そこらへんの心気をわからねえ野暮天を兵庫がぶっ飛ばしたというわけだ。



 「あれはそうとうお前に惚れてるな。金はねえがああいう男は女を幸せにしてくる」


 太夫は、上等な白地の羽織姿で正座をし無表情に話す蘭兵衛を見下ろしていた。


 こういう色恋ごとを話している顔かなぇ、それが。まあこの人の能面づらは今に始まったことじゃないか。


 「やなこった。なんであたしがあんな脳みそまで筋肉みたいな男に添い遂げなくちゃいけないのよ。」

頬を膨らまし、ぷいっと蘭兵衛をにらみつけた。


 「あたしはもっともっといい男を捜してんのよ。強くて、優しくて、苦みばしったいい男をね。里の皆に『さすが極楽太夫が選んだ男だぜ』っていわれるようなそんな人を! それをなんであの筋肉馬鹿の兵庫なんだよ」


 あいつがあたしを想ってくれているのは痛いほどわかっている。
でもね、まだその想い受けるわけにはいかない。
 あんた一人にはできないからね。 


 「もし、この里を思ってお前が身請けを拒んでいるんだったら、それは早計だぞ。この里はお前たちを不幸にするために作ったわけではない。
 大阪から逃れてきたお前たちを匿うためにつくったもの。自分の幸せを最優先に生きろ」


 蘭兵衛はまっすぐな目で太夫を見つめていた。


 太夫はここを作った時を思い出した


 「もう鉄砲を作って暮らしていくことは、目立ちすぎてできまい。それに女ばかりのお前たちが目立たない方法。それがこの遊郭だ。だが、ここは春を売る遊郭じゃない、夢を売るのだ。お前たちが決めた男にだけお前たちの誠を捧げろ。」


 それがこの「無界の里」の始まりだ。あれから5年、女たちも増えて賑やかに
なったけれど、あんたの中身は変わんないね。
 大阪で初めてあったときと同じ眼をしている。茨のとげの中に自らを沈め、ただ時の行きすぎるのを待つばかり。まるで何かの呪いにかけられた姫君のようだ。


 ここの女たちやお客で、あんたが女だって知っているのはもう少ない。
大きな諍いごとがない限り表舞台に現れることはないからね。あたしが表で女たちをまとめ、あんたが裏で煩わしいことを引き受ける。そうやって大きくしてきたこの街だ。まだまだやらなくちゃいけないことが沢山ある。だからあたしは身請けなんかされてる場合じゃない。

 「女の幸せは、自分が決めた男に真心込めて尽くし、尽くされること。
兵庫はそういうことができる男だと私は思う。お前もそろそろ・・・」 


 「しっつこいなぁ。じゃああんたの女の幸せはどうなのよ!」 
その瞬間、蘭兵衛の茨がその言葉に反応して蘭兵衛をきつく締め付けていくのが感じられた。

 重苦しい沈黙が流れた。誤って口からだしてしまった言葉のありかを探すように太夫は視線をはずした。


 「私は、置いていかれた身だからな・・・・」
視線を曇らせ、蘭兵衛はそうつぶやいた。

 太夫はその次の言葉を待っていたが、その後に続くことはなかった。


 「ごめん・・・」 居た堪れない気持ちで、そういうのが精一杯だった。



 「私のことは兎も角、お前はお前のあるべき居場所をきちんと見つけなさい。男を見る目がある私がいうんだ、兵庫はお奨めだぞ」

 蘭兵衛はわざと明るい口調でいい、少し笑っていた。

 「まだ、その名前をゆうか!」 私も笑って返した。


 あんた笑うとかわいいよ。少しづつでも笑うといい。少しづつでいいからさ。あんたが普通に笑えるようになったら、あたしも心置きなく居場所を探せる。





 「来い! 太夫!!」

 蘭兵衛は刀を斜に構え、叫び声と共に、一歩前に踏み出した。


 太夫は輪胴轟雷筒を蘭兵衛に向かって撃ちこんだ
 激しい爆音と粉塵の中、太夫は蘭兵衛が少し笑っているように感じられた。


あたしが引導渡してやるよ、あんなやつに切られて死ぬよりましだろう

 あんたを置いてけぼりにしたやつの所に早くお行き。

 あんたが笑っていられる場所はそこしかないんだろう。そこが居場所なんだろう。

 首根っこ捕まえて、もう絶対に離すんじゃないよ。




『風蘭』

「あにさと贋鉄斎、それと沙霧、ちょっと手伝ってくれるか」


 髑髏城から徳川軍、髑髏党を引き連れて、逃げ出して、その彼らの目を晦ました後、隠れ家として用意しておいた農家の納屋の中で捨之助がそう切り出した。


 あの日から丸一日経っている。髑髏城の炎は治まり、徳川軍は城内より逃げ出したと思っている天魔王の捜索に躍起になっていた。


 「もう一度、髑髏城に戻る。天魔王の体を頂くのと・・・蘭兵衛を迎えに行く」

 納屋を出た捨之助はそう3人に告げた。


 兵庫が何処に行くのかと最後まで食いついてきたが、捨之助は「心配するな、すぐに戻るよ」とのらりくらりとかわして、行き先を言うことはなかった。

 「お前は太夫に付いていてやれよ」


 髑髏城から戻った太夫は、疲れのせいなかの、それともあの惨劇のせいなのか、いつもの日の光のような明るさはこれっぽっちも感じられない。そばにいる兵庫もそう言われてしまえばそれ以上は食い下がれなくなってしまった。太夫は出て行く捨之助たちを何も言わず、ぼんやりとした瞳で見つめているだけだった。



 手妻のために、天魔王の体が必要なことはなんとなく沙霧も感づいていたが、まさか蘭兵衛までもとは、沙霧は驚きを隠せなかった。


 天魔王だけならまだしも、2人もの遺体を抱えて髑髏城内をいくというのは、かなりの危険が伴う。いくら徳川軍が焼けた落ちた髑髏城内ではなく、今は逃げ出した天魔王探しに人手の大部分を裂いているとはいえ、残りの兵のものに気づかれてしまう恐れがある。


 「そのために、お前に頼んでるんじゃねぇか。焼け落ちたとはいえ見つかりずれえ道もあるだろう。 そこらへんがわかるのはおめえしかいねんだよ。頼む」


 いつになく真剣な眼差しに、捨之助と蘭兵衛の浅からぬ仲を感じ、沙霧は頷くしかなかった。








 「流石だな」 

 先を進む沙霧の背中を追いつつ、捨之助は感じていた。

 焼け落ちた城内は、一度見た絵図面とはまったく違った有様だった。其処彼処で壁が崩れ、柱は焼け落ち、彼方此方に髑髏党か、それとも徳川軍のものか判別もできない死体がごろごろと転がったままだった。
 しかし、そんなことには一向に気にする素振りも見せず、沙霧は適切な経路を選んで進んでいる。偶然なのか、それとも沙霧の判断の成せる技なのか、徳川軍の兵に見つかることはなかった。

 幸いの薄蒼の月夜である。4人の影は誰にも気づかれることなく、闇に紛れ、天魔の間へと目指した。




 「この奥の隠し部屋に天魔王の死体がある。それを仮面と鎧ごとを運び出してくれるか」

 贋鉄斎と磯平はその言葉に従い、玉座の裏に隠された抜け道へと走り出した。




  「遅くなったな」


 捨之助はゆっくりと玉座の下の蘭兵衛に歩み寄った。


 蘭兵衛の亡骸はまるで炎も柱もすべてが避けたかのように、あの時のままでその場所にあった。


 「さぁ 帰るぞ」


 捨之助は蘭兵衛を抱きかかえ、そう笑いかけた。
 月の淡い光に照らされた蘭兵衛の顔は美しく、今にも動き出しそうだった。


 何か二人の秘め事を見てしまったようで、沙霧は背を向け目をそむけた。




城から帰り、3人を納屋に戻した後、捨之助は思案をしていた。


 「さて、何処に眠らしてやろるかなぁ・・・」


 納屋裏の雑木林の中、蒼い月明かりに照らされて蘭兵衛は
ゆっくりと眠りに落ちているようだった。



 「あたしがいい場所、知ってるよ」



 突然の太夫の声に、捨之助は驚き、振り返った。

 そこには腕を組み、仏頂面をした太夫の姿とその影に隠れるように、頭をかきながらすまなそうに笑っている磯平の顔があった。



 「この人、神仏なんか信じちゃいなかったんだから、寺になんかに眠らせたって、神様も、この人も、どうしていいんだか分からないんじゃないの」

 それだけいうと、太夫は月明かりの山道を歩きだした。

 捨之助は蘭兵衛を抱きかかえ、磯平と共についていった。


 「この人を置いていった人ってどんな人だったの」

 山道の途中、振り返ることなく太夫はそう聞いた。


 「この人、『自分は置いていかれた人間だから』ってよく言っていたの。
 長く一緒にいたけれど、過去のことはあまり聞かなかったし、この人も話してくれなかったから」


 捨之助は、腕の中で眠る蘭兵衛を見つめた。


 お前はずっと『置いていかれた』と思い続けていたのか、結局。



 「大きい男だったよ。大きすぎて恐ろしく感じるほどなぁ」


 捨之助は、太夫の背中に向かって、大殿のこと、蘭丸のこと、地のモノとしての自分のこと、そして人の男のことを話はじめた。
 それは自分の中の思いを整理するように、ゆっくりとしたものだった。



 「すごい男に惚れたもんだね、この人は。それに凄い男に惚れられたものだ」

 すべてを聞き終えた太夫はそうつぶやいた。


 「そうだなぁ。女としての生き方を捨ててまで、惚れた男のそばにいたいと思う、すげえ惚れっぷりだったよ」


 綺麗に着飾り、愛する男の子をもうけ、屋敷や城で待つという女の幸せではなく、いつでもそばに寄り添い、共に戦い、支えられる道を選んだ。
 女としての幸せとは、かけ離れたものだったかもしれないが、蘭丸という人間にはそれが最高の幸せだった。あのときまでは・・・。


 「そうね、そういう男にめぐりあえたなら、ちっとは幸せな人生だったのかもしれないわね。
 最期まで一緒だったらもっと良かったのかもしれないけれど。この人、無界の里にいる時でさえ、つらそうな顔をすることもよくあったから。」


 それでもお前たちと一緒にいた無界での時間も蘭兵衛にとっては、それはそれで幸せだったはずだ。


 と、捨之助は、自分を責めるかのようにつぶやく太夫に伝えたかったが、自分が知らぬ時間を語るすべなどなく、それにその自分の思いをきちんと伝える言葉を見つけることができずに、結局、返す言葉は出てこなかった。


 木々の間から照らす月は輝き、闇を静かに照らしていた。


 山の中腹にその場所はあった。
 道から反れて、木々の間を抜けた先、なだらかに広がったその場所には大きな樹がその中心にどっしりと聳え立っていた。

 捨之助は眠る蘭兵衛をその樹の根元に横たえた。

「この樹の横に眠らせて上げて」

 太夫はそう磯平に指示を出した。何も言わず頷くと磯平は、鍬を抱え二人から離れた。




 「この場所はね、最初に関東に流れ着いたときに休んだ場所なの」


 月の光に葉を揺らす大きな樹を太夫は懐かしむように見上げた。


 「今は暗くて分からないかもしれないけれど、ここから無界の里が見渡せるの。蘭兵衛さんが 川が近くにあって、後ろに山が控えている。うちらの城を作るにはもってこいの場所だろうって言ってね。 ここからあの場所を決めたの。」


 月明かりに照らされる里山に目を凝らしてみたが、夜も深く、うっすらと水面を輝かす川の在り処しかうかがい知ることはできなかった。


「無界があったら、きっと闇の中に輝く松明みたいで眩しかっただろうよ」


 捨之助は背の高い草むらに腰を下ろし、ゆっくりと煙管を吹かし、今は見えぬ松明の明かりを思った。


「きっと、そうね。無界は大阪から流れてぼろぼろになっていた私たちの心にも明かりを点してくれたわ。 その明かりを最初に付けてくれたのは、あの人だった。 でも結局、あの人の闇には最後まで明かりを差し込むことはできなかった…」


 太夫の着物の袖が風に所在なげに不安定に揺れ、はためいていた。 
 ざわざわと木々の葉もそれに合わせて揺れているようだった。



 「死に化粧ぐらいしてあげなくちゃね。あんな泥だらの顔のままじゃあっちの世界であの人のいい人に会ったときに嫌われちゃうわよね。」


 太夫は悲しみをゆっくりと包み込んだような微笑を捨之助に向けて、蘭兵衛の傍らに歩み寄った。


 「ああ、折角の別嬪さんが台無しだよ。お色直ししないとね」


 着物の袷から、布を取り出すと粉塵にまみれた白い蘭兵衛の顔をそっと拭った。そして、自分の紅を懐から出し、蘭兵衛の唇に引いた。

  「やっぱり綺麗だよ、あんたは。」


 そんな女同士の他愛もないやりとりを、捨之助は背中越しに聞いていた。
 今にも蘭兵衛が起き出して、太夫の手を恥ずかしそうに止めるのではないかと思いながら。



 磯平の準備が終わったと告げにきたのは、それからまもなくだった。




 「この場所はね、小さい蘭の花が咲くのよ」


 土に覆われた蘭兵衛の上に野の花を手向け、手を合わせながら太夫はそうつぶやいた。月明かりに照らされた頬には涙の筋が浮かんでいた。


 「風蘭っていう蘭なんだって。夏になれば、この大きな樹に寄り添うように小さい白い花を咲かせるの。一度、この人と見に来たことがあるわ、夏の日に。小さい蘭の花がこの樹をぐるりと取り囲むのよ。」


 小さい花がまとまると、むせ返るほど甘い香がして、まるでこの大樹の根元だけ光を発しているようだった。
 その日のことを太夫は思い出していた。あれはいつの頃だったろう。無界が起動に乗り、珍しく二人して近隣の街に買出しと情報集めに行った帰りだった。ひさしぶりにこの場所に立ち寄り見下ろした里の光景に自分の居場所ができたようでなんだか嬉しかったのを覚えている。
 そのとき、風蘭は咲いていた。崖ぎりぎりに身を乗り出して見ている私を、危なっかしそうに木陰で見ていたあの人の足元で揺れていた風蘭。


 「夏になったら、その風蘭を見にきてみるか。この関東もその頃にはどんな風になってるか、わかんねぇけどなぁ」


 その頃には、蘭兵衛が眠る新しい土山にも、草花が生え、見分けがつかなくなっていることだろう。その代わり、この大樹に寄り添う風蘭の香がこの場所を教えてくれるだろう。


 「さぁって、戻るか。あんまり遅くなると兵庫の奴に要らぬ心配をかけちまうからなぁ」


 いつまでも手を合わせ、涙を伝わせている太夫に声をかけた。


 そうねと答え、太夫は立ち上がった。
 「またね」と小さくつぶやいて。



 夏の強い日差しの中、大樹の青々と茂る葉が作る木漏れ日の元、小さいながらも力強く根を張り、その繊細さからは想像もできないほど優雅な香を放ち、風に揺れる「風蘭」という花。戦乱の世のあの二人のようだ。捨之助はそう感じていた。


 月は傾き、もうすぐ違う一日が始まる気配がしていた。



 狸相手の大博打、さぁて上手くいくかなぁ。
 そっから見守っていてくれよ、蘭兵衛。
 この捨之助、一世一代の大芝居だ。



 行きに感じていた重みのなくなった所在のない腕に軽い煙管を抱きながら、捨之助はもと来た道を歩き始めた。



 あたし、あいつとこれから生きてみることにしたの。
 別にあんたが薦めたからじゃないからね。
 まぁ、あんたが認めるような男だから悪い奴じゃないだろうし。
 そっから見守っていてよ、これからのあたしを。



 捨之助の後を歩きながら、極楽は振り返り土山に報告をするかのように笑いかけた。



 明日、すべてが終わる。そしてまた始まる


 夏が来たらまたここに来よう。 風蘭の香を楽しみに。



『薄の原』

灰汁色の空、妖しく光る月の元、蘭兵衛は目を覚ました。



「ここがあの世というやつか・・・」


 見渡す限りの薄の原、振り返れば自分の後ろには川が流れているようだ。
月の光が水面を照らしているが、霞がかかり向こう岸を見ることはできない。


 ときより吹く風に、薄がざわざわと揺れる。聞こえてくるのはその音と
自分が踏みしだく砂利の音だけ。風に黒髪を撫でられながら、蘭兵衛はひとつ息を吐いた。


 「やっと、来れたか・・・」


 本来ならば八年前に来ていた場所。あの方と一緒に・・・。遅れてしまったなぁ。

蘭兵衛はまぶしそうに月を見上げた。


 風の途切れに、蹄の音が聞こえたような気がした。蘭兵衛はなんとはなしに音の方へと歩みを進めた。地獄への迎えのものがきたのだろうか・・・ 蹄の音がはっきりと己に近づいているのがわかった。



「蘭丸か・・・」 




 蘭兵衛の目に驚きの色が浮かんだ。その声は・・・。






 着流しの袖に左腕を突っ込んだまま、煙管を銜え、捨之助は雲ひとつない空の下、川辺を歩いていた。


 昨日までのあの惨劇が嘘のような空だな。そう捨之助はつぶやいた。本能寺の時と同じだ。どんなつらいことがあっても、悲しいことがあってもいつものように日は昇り、そして落ちる。その繰り返しだ。それが生きていくってことか・・。重てぇなあ。


 「待てよ、待てって言ってるのが聞こえないのかよ!おぉい捨之助!」


 大傘に、金子箱を抱えて、沙霧がこちらに向かって走ってくるのが見えた


 あいつ、ほんとについて来やがった。捨之助は軽く後ろを振り返り、煙管を離して煙を吹き出した。かといって特に歩みを止めるわけでもなく、道の青草をけりながら聞こえぬそぶりで再び煙管を銜えた。



 「待てって!」 沙霧は捨乃助に追いつき、袖なし半纏の裾をむんずと掴んだ。

 「あんだよ、アジャコング。歩きずれぇだろうが」


 ぜえぜえと息を切らして沙霧が、裾を掴んだまま道に座り込んだ。


 「う、うるせぇよ もう離さないからね」 やっとのこと振り返った捨乃助を下から睨み付ける。
 「付いてくるなっていっただろうが」 捨乃助は沙霧の細い腕を掴んで、袖から離した


 「いて、痛てて。痛いな!」沙霧は捨乃助に掴まれた手首を振り払って、立ち上がった。
 「なんで、なんでついていっちゃいけないんだよ。」捨之助の胸元にくってかかる勢いで叫びつづけた。


 「おめえはその金で、自由に生きればいいんだよ。それだけあれば贅沢三昧だろうがよ」
 煙管の先で、沙霧の持ってきた家康からせしめた500枚もの金の入った金子箱を指し示した。


 「あの金は、お前の城を作るために使うんだ。そういっただろう」 
沙霧は捨之助をにらみつけた。目を離したらあの煙管の煙みたいに消えてしまうかもしれない。そんなの嫌だ。そんな思いで見つめていた。


 「いらねえっていったろう。俺が城? 柄じゃねえってそんなもの」
 そんな思いの詰まった目に見つめられていづらくなったのか、頭をかきながら捨乃助は川辺の草むらに腰掛けた。


 ゆらゆらと煙管をくぐらせながら、きらきらと輝く川面を眺めていた。
城か・・・ ふと大殿の笑い声がする安土の城が思い出された。
俺の報告を、殿と蘭丸が聞いていたあの頃を。俺の馬鹿っぱなしに大笑いする殿をお前は顔色一つ変えずにみていたっけなぁ。俺はお前のほんとに笑った顔なんて見たことなかったのかもしれないなぁ



 「造るったら、造るんだよ。だからあたしはあんたから離れない。決めたんだよ」
 捨之助の横に座り、肩を掴んで、沙霧は捨之助を自分の方に向けた。
見つめた捨之助の瞳が少し濡れていたような気がした。


 「あんなぁ・・・俺と一緒にいるって言うのは」


 沙霧の両肩を草むらの中に押し倒した 「おれと付いてくるっていうのは・・こういうことだぞ」
 皮膚の温度が伝わるほどの距離に、二つの顔が近づいた。
 捨之助のまっすぐな眼差しに、沙霧は自分の顔の温度が高くなっていくのを止めることはできなかった。
 それでもその眼差しから目を逸らさずに見つめ返した。


 最初に目を逸らしたのは、捨之助だった
 「冗談、じょうだん。なにマジになってんだよ」 沙霧の真剣な眼差しにいたたまれなくなったのか、捨之助は軽口をたたきながら立ち上り背を向けた。


 風が吹いた。捨之助の着物の裾を揺らし、沙霧の黒い髪を揺らし、風は川下へと吹き抜けていった。


 「私は・・・構わないよ」背中を向ける捨之助に沙霧はつぶやいた。
「あたしは決めたから。だから構わないよ」
そう自分に言い聞かせるように、力強く沙霧は続けた。起き上がりその背中を見つめていた。


 そんな沙霧の声に軽く肩をあげて、いつもの口調で振り返った
「ばかが、冗談だっていってるだろうが。それに俺はまだお前みたいな
ガキンチョに手を出すほど困っちゃいねえんだよ」

そういうと沙霧の額を小突いてみせた。

 「ガキじゃないよ、もう今年で14だ。子ども扱いするな!」 

 14か・・・安土の城で殿の横にいるお前を初めて見たときと同じ年だな。捨之助はそんなことを思った。
殿に「天下に代え難きもの」といわれ寵愛を一心にうけていたあの頃のお前と。いつも仏頂面でかわい気の欠片もなかったな


 「年だけじゃねえよ、男だから女だかわかんねえ成りしやがって。俺の好みはもっといろっぺえ姉ちゃんなんだよ」
 「あたしだって磨けば輝かも知れねぇだろ!馬鹿にするなぁ」拗ねた口調で捨之助を見返した
 「あほか。だったらその川にでも入って一生懸命磨いてろ」捨之助はけらけらと笑ってまた歩き出した。


 蘭兵衛よ、おれはもうしばらくこっちにいるは。この馬鹿のことほおって置くわけにもいかなそうだしな。
 お前を育てた大殿までとはいかねえけれど、もちっとまともな女にしねえとな。だからそっちで大殿に会ったら伝えてくれや。地がまた面白い話もって帰ります。今しばらくお待ちをってな。


 風に流れる薄雲を眺めながら、捨之助はそうつぶやいた。少し笑って、少し寂しげに。





 蹄の音の先から聞こえてくる声

 「蘭丸か・・・」


 聞き間違うことなど、有りあえないその声。


 「殿!」 蘭兵衛は霧に煙る、薄野原に目を肥やし、声のありかを探した。


 蹄の音が早がけになり、自分のほうに近づいているのがわかった。
 うっすらと見える、その姿。馬上には柧家紋の着物を雑着て、茶筅髪のあの方が見て取れた。



音にならない声を上げ、その場にただ立ち尽くすしかなかった。


 蹄は止まり、蘭丸を見下ろしていた。

 「地獄のやつらにきいてな、お前が堕ちてくるころだと。よかった、間に合ったな」


 殿は笑いながら、まだ言葉を発することもできずただ泣き崩れる蘭丸を見ていた。
 蘭丸は涙に濡れるその瞳にあの方が映っていることが信じられず、ただただ馬上のその人を見上げるだけだった。


 月に雲がかかり、二人に影を落とした。風が薄をざわめかせ、蘭丸の頬をつたう涙を乾かそうとしていた。


 蘭丸は涙をぬぐい、片ひざをつき、殿の前に歩み出た。

「遅くなりました」

 いつも見上げた風景に、蘭丸はこころが落ち着いていくのを覚えた。 


 信長はうっすら笑みを浮かべて、
「遅くなどないぞ、もう少しゆっくりしてくればよかっただろうに・・・」と冗談交じりで蘭丸を見下ろした。 
 その言葉に顔を上げた蘭丸の瞳があまりにも切なくて、目を逸らさずにはいられなかった。



 「お前にはつらいを思いをさせてしまったのかもしれないな。あのとき、
あの本能寺でお前も一緒に連れて行けばお前を泣かすこともなかったのかも知れんな。すまん」

 あの夜、光秀に取り囲まれたあの日。おれはお前に「生きろ!」と言っておいてきてしまった。
 女という生き方を捨て自分に仕えてくれたお前を、まだ18のお前を連れて行くことなどあのときの俺にはできなかった。自由に生きてほしかったんだよ、お前には。だがそれが返ってお前につらい人生を歩ませてしまったんだなぁ。


信長はつらそうに無邪気に輝く月を睨み返した。


 「いえ そんなことはありません」 蘭丸は小さく首を振った。
 「あれからの所業は私の至らなさゆえ、殿がお気に留める必要はございません」


 8年たって美しさは増したようだな。黒く光る長い髪、透き通るほどの白い肌、憂いの瞳、寂しげな横顔、やはりお前はわたしの宝だ。


 「そうか・・・そういってくれるか すまんな」 見上げる蘭丸にすこし頭を下げた。



 「あやつはどうしているかなぁ」 昔を思いだすかのように笑っていた。
 「地のものだよ、なんといったか、新しい名前をつけたとか」

 「捨之助でございます。【浮世の義理も 昔の縁も三途の川に 捨之助】だといっておりました」

 「捨之助か、やつらしいなぁ。」信長は声をだして笑っていた。
 あいつだったら、幸せにできたかもしれんのに。お前のことを託せるのはあいつだけだったはずだ。
 それなのに、お前はここにいるか・・・・。


 不思議だ 蘭丸は感じていた。自分で作っていた茨の垣根が取り払われていくことを感じていた。
 ここはあの世だというのに、なんと心地よい心持なのだろうか。目の前にあの方がいる。それだけでよい。たとえ地獄だろうとどこだろうとそんなことは構わない。手の届くところにあの人がいる。それが私のすべてだから。


 「お前がここに着いたとなると、そろそろあやつも着く頃だな」思い出したように殿がつぶやいた。
 「あやつ?」
 「ほれ、人のものだ。天魔王とかぬかしておったらしいな。戯けた事を。
それにお前も世話になったようだし」
 「いや、それは・・・」恥ずかしそうに視線を伏せた。
 「あやつは、俺のものをすべて欲していた、金も地位も天下も、そしてお前も・・・な。まあそれに気づきながら近くにおいていたわしの失策であろうがな」

 忌々しそうに、殿は刀の鞘を強く握っていた。



 「お礼参りと参ろうか、なぁ蘭丸」 殿はいたずらを仕掛ける子供のような目をして私を見つめていた。
 「はい。」 深くうなずいて、微笑みながら見つめ返した。

 「さあ、行くぞ」と殿が馬上より手を差し伸べてくれる。「早がけになる、乗れ」
 「はい」その手を強く握りしめ、黒馬の背に乗った。

 「しっかり捕まっておれよ、蘭丸」 振り返り、そう微笑む殿の背にしっかりとつかまり体を預けた。


 捨之助、私はやっとあるべき場所に戻れたようだよ。この方に従い、支え、ともに走れるこの場所に。
 しばらくは二人きりにしておいてくれよ、捨之助。野暮は、無用だぞ。




 風が吹いた、

 緑の草を撫でるように

 薄の穂を揺らすように



『紅灯』


 無界の大門にもたれかかり、蘭兵衛は川面に顔を写していた。
川の水は清く、ゆったりと流れている。


 今日は、ここの地主への挨拶回り。
地主といっても所詮、 地回りのやくざあがりの男だ。

 無界のあがりの上納金がどうだとか言い出して、それを のらりくらりと交わしてきただけのこと。

 女達が汗水垂らして稼いだ金をあんな虫けらどもに吸い上げら れたらたまったものじゃない。
 遠い昔、安土の城で諸国の大名達を説き伏せてきたあの頃に比 べたら あんなやつらを手玉に取るなんてわけもないが、あの頃と違い こちらが 奴らより下になっている手前、いろいろと手間取った。


 無界がここに根付いて徐々に大きくなるにつれてこういった厄 介事も増えてきた。客が増えれば、落とされる金に吸い寄せられるように、疎まし い羽虫も出てくる。それを払いのけるのが自分の仕事と分かってはいるが、面倒な ことだ。



 ふっと疲労の息を吐き、吸われた息に甘い香りが含まれているのに気がついた。


「お疲れ様でした」  


カラカラと下駄を鳴らして、まだ店にでる支度前の普段着の太夫がそこにいた。


 「ため息なんかついて、難儀したんですか、今日は」

にこやかに笑いかける太夫に、少し肩の力が抜けていくような気がした。


 「いや、いつものことだ。馬鹿の相手も疲れる」  


 そういって橋げたを背にしてぐいっと伸びをした。  


「あいつ胸糞悪いですからね。今度客で来たらとっちめてやる」  

 いたずらっぽく口角を上げ、ほくそえむその顔はまだあどけなく、女達を束ねている 大太夫ではなく、堺で父親の手伝いをしていた頃の面影のままだ。



「ほどほどにな。ま、あいつから盛大に巻き上げてやって、 その一部をお返しするっていうのもありだがな」  


  真顔でそういい返すと、


 「真面目な顔で、そういうこというから怖いんですよ」


  と太夫は吹き出して笑っていた。


 門の向こうから三味線の音と太鼓の音が鳴り始めた。辺りも夕方の色へとかわりだしていた。


   「今日も忙しくなるなぁ」 蘭兵衛は夕焼けに照らされる、楼閣の屋根を見上げた。

 客入れの準備に街全体がざわざわと色めき立っているように 見えた。


  「いい街になって来ましたよね、やっと」


 太夫も蘭兵衛が見つめるその先を見ていた。


 「まだまだいっぱいやらなくちゃいけないこと、あるけれど 。
 なんていうのかなぁ、私たちの居場所って感じが出てきて」

 少し弾む太夫の声には、自分の住処を作り上げてきた喜びがうかがえた。



  その太夫の言葉に、蘭兵衛は答えられずにいた。


 自分の居場所は…ここなのだろうか。


 あのときから絶えず自分に問いかけてきた。



 「太夫!! もう時間ですよ!」 


 楼閣の窓から誰かが呼ぶ声がした。  


 「はいは~い それじゃ、腕に縒りをかけて別嬪さんに変身 しますかね!
今日もたっぷり稼がないと!」

  太夫はそういうと大門の方へと駆け出していった。  


 もうすぐしたら、この街はお白粉と酒の匂いでむせ返るようになるだろう


   そこが本当に自分の居場所なのかは分からない。  

でも、彼女たちの居場所がここならば、それを守るのが私の仕事。


「さて、私も戻るか」  羽織の両袖に腕を組み、ゆっくりと大門をくぐる。

 軒につるされた提灯にも明かりが灯されだし始めたようだ。

 漆黒の黒髪を背中に揺らせながら、店のものに声をかけて進む。


 ぼんやりと浮かぶ一夜の夢の街。砂上の楼閣だろうと、泡沫 の幻想だろうと 今、私のあるべき場所は・・・きっとここなんだ。
 そう言い聞かせながら・・・。


 『酷暑』

「暑いぃ~ まだあ~」

 無界の里の裏。女たちが住む棟にダラケタ極楽の声が響いている。

 青紅葉が生い茂っているが、照りつける太陽を妨げるには事足りように、強い日差しが縁側に差し込んでいる。

 太夫は縁側に腰をかけ、樽に張った水の中に足を浸して涼を取っている。
白い足のさきちょに紅花で塗った赤い爪が金魚のように、ぴちゃぴちゃと水を撥ねている。   

 太夫の横には、目多吉と一郎太が団扇片手に懸命に風を送っている。その顔は汗だくだく、送る風もその暑苦しさで、周りの空気より湿気ていそうだ。  

 庭では、桶にはいった氷に悪戦苦闘中の兵庫が。

 「おう、もうちょっと、もうちょっとだからよ」

 今朝、夜も開けきらぬ前に富士のお山の青木ケ原の樹海で半分遭難しながら取ってきた天然氷の一塊。のこぎりで切りだして、今はノミで細かく砕いているところ。  

 「早くしないと、氷が全部溶けてしまうよ」

 暑さに耐えかねて扇子を広げてパタパタと自分の襟元から風を送る姿は悩ましい。 
 兵庫が氷ごときに手間取っている理由の1つはそれ。  
さっきから、手桶に入れた白い足と、水をはじくたびに浴衣が捲れて見える太夫のふくらはぎが気になって気になって仕方がない。   

 -てめぇら~ さっきからちらちら見ていやがって!!くっそぉぉ 
俺がその役になりゃあよかった!!


 と太夫が仰ぐ風に含まれる甘やかな芳しい色香に鼻の下伸びまくりの団扇係の2人を言葉には出さずに睨みつける。   

 何故って氷切り係を選んだのは自分だから。
 「氷と格闘している姿ってかっこいい」って太夫に思ってもらおうという姑息な判断がこの汗だくの炎天下を選ばせたというわけ。
でもその思惑は外れて、待たせすぎて太夫はご機嫌斜めだし、近くにはいけないし暑いし、氷は溶けるしで散々だ。

 「あれ? 陰兵衛さん何作ってるの?」

 太夫が、汗だく兵庫の横で、背中を丸めて何かを作っていた陰兵衛に目を止めた。 

 「あ、あ、こ、これ。ちょっと氷の塊があったんで・・・ あにきのカキ氷ができるまで、太夫に・・・目で涼しくなってもらおうかと思って」

 妙にオドオドとしながら振り返った陰兵衛の手の中には、透明なウサギ1羽。ぴんととんがった耳、ぷりっとしたお尻。氷でできているとは思えないほど愛らしい姿でそこにあった。 


 「きゃ~っ かわいいぃぃ~」


 太夫は陰兵衛の手の中のウサギを見ると鼻緒に豪華な刺繍の入った焼下駄をつっかけて庭先に駆け下りてきた。。
 横にいた兵庫を突き飛ばす勢いで、陰兵衛に駆け寄ると、岳象の手ごとその水晶のようなウサギを抱えた。


 「すっごい!これ今作ったの。水晶みたいにきらきらしてて 凄く綺麗」

 近くで見る太夫の可愛さと、氷でジンジンに冷えた自分の手に添えられた暖かい太夫の手のひらの温度で、陰兵衛の鼻の下も先の2人同様にだらりと伸びて情けない面で、にへらにへらと頭をかいて照れまくり。

 「やだぁ、陰兵衛さん、手がすっごく冷たい。」

 太夫はそういうと自分の懐から小さい手ぬぐいを取り出した 。
 白地に色鮮やかな朝顔が染め上げられた涼しげなそれを差し出すと
 そのウサギと、この手ぬぐい、交換しよっ と微笑んだ。  

 「い、いや、もったいないっす、そんなそんな・・・」

 シドロモドロになりながら身を縮めるように恐縮している陰兵衛に怒りの炎爆発寸前の兵庫の兄貴。

 -くっそ~ 何であんなちっこいウサギで太夫から名入り手ぬぐいを! しかも、じかにもらえるなんてどういうこったぁぁ!!

 のみを持つ手が怒りのあまりぶるぶる震えて余計に肝心のカキ氷はますます出来上がらない

 「じゃあ、夏の間、これ毎日作ってよ。店先に飾ったらほかのお客さんも喜ぶし、女の子たちもきっと気に入ると思う。ね、いいでしょ~」

 太夫はいつもの調子の甘えた口調で陰兵衛におねだりをする。ウサギのように目をくりくりにして、下から覗き込むように小首を傾げて「ねぇ~いいでしょ」と言われて断れる男は、この関東荒野広しと言えどもいようはずがない。

 そんな姿にさらにさら~に陰兵衛の鼻の下を伸ばしまくりで

 「は、はい。よろこんで、毎晩とどけさせていただきますっ !」と安請け合い。 「やった!じゃあこれ、蘭兵衛さんに見せてくるねぇ~。ありがとっ」
 と言うと、鼻の下の伸びた陰兵衛の頬にプチュっ唇を寄せた。


 その有様に、「「あっ」」っという声と共にほかのみんなの 視線は釘付け。


 そして一瞬の静寂の後聞こえてきたのは、ドカンっという樽に何かがぶつかる音。それはど真ん中にノミを力いっぱい突き立てられて真っ二つになった氷の塊が倒れた音。兵庫の旦那の怒り&嫉妬の音。


 いんべい・・・・いんべい・・・・ 地を這うような低音ボイス。

 むしゃっ!!!!っという雄たけびと共に汗だくの男が陰兵衛に抱きついた。

 「っす、すみません、あにき、すみません ひぃぃぃ」

 逃げ惑う陰兵衛の頬に無理やり顔を寄せて

 「ああ・・なんで、お前なんだよ、俺じゃなくて、お前なんだよ。
 俺がチュッて、チュッてしてもらうはずだったのに、ここか、ここか、ここに太夫の唇が、唇がくっついたのか!」

 暑さの余り、嫉妬の余り、錯乱状態の兵庫の兄貴。髭ヅラの顔を陰兵衛に擦り付けて少しでも匂いのおっそわけに預かろうと懸命だ。周りから見たら、どう見てもあちら側の趣味の人のよう。太夫太夫と、うわ言の様に繰り返す。暑苦しいったらありゃしない。


 当の陰兵衛は兄貴の乱行に失神寸前になりながらも、懐奥に貰った手ぬぐいをしっかりとしまい込んだ。

 -よおし! 今度はもっと大きくて、凝った彫刻で太夫を喜ばせてやろう。そしたら、そうしたら~ ムフフっ


 たった一枚の手ぬぐいで、1人は錯乱、1人は夏の間中の大仕事。

 さすが無界屋の大太夫。太夫の機転(悪知恵?!)のお陰でこの年の夏は氷彫刻目当てのお客が増えたことはまた別の話。





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