全19件 (19件中 1-19件目)
1
小学生にとって野外写生は楽しみのひとつだった。誰に教えてもらったわけでもないのに、宗之君は写生がとてもうまかった。どうしてうまくかけるのか不思議でならなかった。 山を背にした小高い場所にある学校から少し下ると、もう左手半分には田んぼがずっと広がり、その向こうの東の方向に、大戸山がどっしりとそびえていた。毎日、朝日は、大戸山からのぼってきた。形が美しいわけではないが、重量感のある山で、紅葉などはじつに美しかった。学校の裏手から大戸山につらなる山々も紅葉は美しかった。そのふもとには二つほどなだらかな扇状地があった。 野外写生ともなると、それぞれ好きな人と田んぼをこえて、眺めのいい小川のほとりなどに出かけた。小川につけば、ズボンをまくって小川に入り、しばらくは、フナを手づかみでとろうと遊ぶことができた。やがて、小川のクローバの上に腰をおろしたりして、まわりの山々など風景を描いた。描き方などはただの一度も教えてもらったことはなかった。作品はよく教室の後ろにみんな張り出されたが、私の絵はちっとも面白くなかった。 秋のある日、午後から野外写生だということで、10人ほどが、裏山に出かけた。そこにはちょうど実りはじめた栗の木がいっぱいあった。2時間ほどの写生の時間を、子どもたちは栗めがけて石を投げては栗を落とし、夢中で栗拾いをしてしまった。面白くて面白くて夢中だった。ようやく我にかえったときは、もう6時間目も終わりに近づいていた。私たちは、あわてて何か描こうとしたが、私は、どういうわけか、運悪く道端の草を数本描いてしまった。これも自然のうちだから写生だろうろうと一応考えたことが思い出される。しかし、学校に帰ってそれをおそるおそる提出したところ、先生から「もう一回行って描いて来い!」と怒鳴られてしまった。 ご訪問有難う御座います。下の2つの教育ブログ・ランキングに参加しています。よろしかったら下のそれぞれのマークをクリックした下さい。ランクの点数が加算されます。人気blogランキングへ
January 25, 2007
コメント(0)
中学1年、国語の時間だった。国語は、担任の女の先生の担当だった。私は、1回ぐらいは、次の授業でやるところを音読して予習してきていた。その日、当てられて読んだとき、私の読む声が小さいという文句が出た。そしたらすかさず、先生が、「声は小さかったけれど、きっとマイクを通すといい声だと思いますよ」と言ってくださいました。きっと、とっさに私をかばってくれたのだと思います。これには私は本当にびっくりししてしまった。 声が小さいといわれたら、普通は、「そうですね。こんど読むときは、もう少し大きな声で読むとみんなによく聞こえますね」というのが普通だと思うのだが、先生は、「マイクを通すといい声だと思うわ」と言ったのである。 この一言は、私の胸に深く刻みこまれ、一生忘れられないことばになった。そして、そのことばが、私の人生を大きく左右することばにもなった。 私は、自分の声が小さくて、声量がなくて、大嫌いであった。話をするのも本当に下手である。ちょっと大きい声を出すと、すぐ声がかれてしまうほどである。生徒たちとおしゃべりなどをしていると、立て板に水というように30分ぐらいは生徒がしゃべり続けるのを「うんうん」と言って聞いていると、自分は、話すということが普通には発達しなかった人間ではないかと思うことがよくある。 担任の先生の一言は、自分の声などになにひとつとりえがないと思っていた私に、「マイクを通すといい声になる」という隠れた良さがあることを教えてくれるものになった。それから、「自分の声もまんざらではないのかもしれない」という気持ちになり、マイクを使って話すことには少し自信をもつことができたのである。 先生の一言というものが、こういう形で子どもの心に深く刻みこまれていくものだということを、私は、こんな形で学んだ。 私の場合、大学受験ということで、高校時代の生活や浪人時代の生活など、人と交わることが極端に少なくて、人と話をすることがなかったことが影響しているのではないかと時々振り返る。 とくに人前で話すということが苦手で、すぐ頭が真っ白になって、話すことができなくなってしまうのである。これは気が小さいということもあるのだろう。高校時代の担任の先生は、3年間、剣聖宮本武蔵の孤高の生き方を絶賛していたので、それに傾倒していた私は、人と交わることの大切さなど夢にも考えてみなかった。 さて、時が流れて、私が大学も卒業したころ、一人の女性と出会うことがあった。何度か電話をしたりして、あるとき会ったときに、その女性が「電話の声が素敵ね」といったのである。その瞬間、「マイクを通すといい声だと思うわ」と言った担任の女先生のことばが、ふたたびよみがえってきた。 ご訪問有難う御座います。下の2つの教育ブログ・ランキングに参加しています。よろしかったら下のそれぞれのマークをクリックした下さい。ランクの点数が加算されます。人気blogランキングへ
January 20, 2007
コメント(0)
中学校になると、担任の先生は、新卒の女の先生だった。とても笑顔の美しいやさしい先生だった。この担任の先生には二つの思い出がある。ひとつは通信簿事件であり、もうひとつは、私の声が小さいと文句を言った生徒に向かって切り返した先生のことばである。 通信簿事件とは、1年の1学期の終業式の出来事である。その日、誰かの弁当に何かを入れたいたずらが起きたのである。終業式が終わった教室で、先生は、誰がやったのか、「やった人は正直にいいなさい」と子どもたちにきびしく言いました。教室はいつまでも静まり返って、誰もやったとは言いませんでした。すると、先生は、思いつめたように、「やった人が言いにくるまで通信簿は渡しません。」といって職員室に帰っていってしまいました。他のクラスでは、もう通信簿をもらって、みんな帰っていた。 みんな途方にくれてしまいました。せっかく早く学校が終わる日なのに、子どもたちもいらいらしていていました。自分たちには身に覚えがないし、もうどうしようもないと考えて、ついに、「そんなら通信簿なんかいらないや」ということになり、みんなぞろぞろと家に帰ってしまいました。翌日からは、長い夏休みであった。 問題は、一気に終業式に通信簿を渡さないという一大事件になってしまった。それから、職員室でどんなことがあったのかは知らない。もしかしたら、校長先生に叱られたのかもしれない。50人ほどのクラスであったのではないかと思うのだが、その日の午後から、担任の女先生は、一軒一軒回って、通信簿を届けて歩いた。1日では、とても届けることなどできない広い地域であった。先生が我が家に来たときには、私は、もう友だちと大川に水あびに出かけてしまって留守であった。女先生は、悔しくて、きっと泣いたのではないだろうか。ご訪問有難う御座います。下の2つの教育ブログ・ランキングに参加しています。よろしかったら下のそれぞれのマークをクリックした下さい。ランクの点数が加算されます。人気blogランキングへ
January 19, 2007
コメント(2)
草野球は、楽しい思い出のひとつである。何人かが集まると、お寺の広場や取り入れの終わった広々とした田んぼ、ときには道路上など、どこででもやった。 集まった人数に合わせて、三角ベースでやったり、ファーストだけでやったりした。野球がやれればよかったので、その場にふさわしいルールが自然に自由自在に作られた。大人の姿などまったくなかった。美しい秋空のもとでの田んぼでの草野球は、今から考えると、本当に贅沢な遊びだったと思う。時々、青空を見上げると、吸い込まれるようだった。田んぼの持ち主は、田んぼの土が固くなるというのであまりうれしくなかったようだが、子どもたちは無頓着だった。 当時は、ボールも手作りの布製のものを使うことが多かった。自分でボロ布を見つけてきて針と糸を使って作ることも多かった。布製なので、グローブなどはいらなかった。バットがなければ、手ごろな角材を見つけてきて使った。雨上がりなどにやると、この布製のボールが水溜りなどにおちてぐしゃぐしゃになることもあった。バットも妙に細くて長い角材や打つと手にひびくような板切れのときもあった。 私は、少年時代から、いろいろなスポーツチームに入って、監督のサインをいちいち見ながらプレーする姿など、大人が管理するスポーツをあまり好まない。子ども時代にしかできない、草野球のような天真爛漫な自由さが、すっかり失われているからである。大人のこまごまとした指示でバットをふったり、バントをしたり、叱責をうけたりして管理されているスポーツは、子ども時代の遊びというものとはまったく種類の違うもので、もう少し下火になったほうがいいのではないかと思うほどである。 子どもたちは、大人たちのさまざまなつまらない管理から開放されて、もっとのびのびと子どもたちで自由につくる遊びの世界に没頭できる時間をもたなければならないのではないだろうか。人間の成長発達というものを、あまりにも規格化しすぎてはいないだろうか。自分の少年時代は、現代の子ども時代を考える大事な視点を与えてくれているように思う。ご訪問有難う御座います。下の2つの教育ブログ・ランキングに参加しています。よろしかったら下のそれぞれのマークをクリックした下さい。ランクの点数が加算されます。人気blogランキングへ
January 16, 2007
コメント(2)
朝晩の豚の餌やりも私の仕事だった。ある朝、豚小屋に行ってみると、昨夜のうちに産まれてしまった子豚たちが勢いよく走り回っていた。数えてみると10匹もいた。出産間際であることは知っていたが、出産には誰も立ち会わないまま産まれてしまったのだ。こういうことはよくないことであった。産まれたばかりの子豚が、母豚の下になって死んでしまうことがよくあるからである。 子豚たちがお腹が空いたのがわかると、母豚はごろんと横向きに寝て、たくさんあるおっぱいを子豚の方にむけてやる。子豚はいっせいにそのおっぱいにむしゃぶりついてこくこくと乳を飲む。しずかな時がながれていく。 やがて満ち足りた子豚たちは、母豚から離れて、こんどは一箇所に固まって重なりあうようにして眠る。 豚は何でもよく食べる。生ものや残飯など捨てるものは何もなかった。米のとぎ汁も大切にとっておいて餌にした。生ものの中に、タバコなどがはいっていないか、よく注意した。 豚は、多いときは3匹ほど飼っていて、1年ほど育てて20~30キロにしては売るということを毎年繰り返して、家の収入にしていた。豚の相場が動いて、高く売れなくて母ががっかりすることもしばしばあった。 冬は、つるつるする道路を、箱そりにバケツをのせて引っ張って歩いて、何軒かの家に行って残飯類をもらってくるのも私の役目だった。 豚の世話をしている親類の若者が、となり村まで豚を大きいそりにのせて引っ張っていき、種付けをしてくるのについて出かけることもあった。ご訪問有難う御座います。下の2つの教育ブログ・ランキングに参加しています。よろしかったら下のそれぞれのマークをクリックした下さい。ランクの点数が加算されます。人気blogランキングへ
January 15, 2007
コメント(0)
母は、私に大なべで、毎日のように味噌汁づくりをさせた。当時住んでいた家は、昔の馬借宿だったとかで、使っていない部屋がたくさんあり、冬になると、木こりが20人ほど泊まっていた。その人たちの大根の味噌汁づくりをするのである。 大なべは、土間においてあるもみがらを燃料にするストーブにかけた。もみがらはすぐもえつきてしまうので、灰になったものは、下の方の網をガタゴト動かして、かきださなければならなかった。土間の片隅に仕切りがつくられていて、もみがらはそこに入っていた。それを小さいスコップでストーブの中に運んだ。 味噌汁の味見も私がした。出来立てはいつもおいしかった。味噌は、手作りの味噌が大樽に入っていた。ストーブのようにあたたかかったので、できるまで、そこで、ストーブのふちに銀杏などを並べて焼いて食べた。家の前のお寺に行く途中に大きな銀杏の木があった。たくさん落ちている実をひろって洗い、乾燥しておいたものである。 かき出した灰は、土間の一箇所にあつめられて肥料として使われていたが、ある夜、その土間を見ると、山のように積み重ねた灰が、暗がりの中で発火して、真っ赤になっていた。ご訪問有難う御座います。下の2つの教育ブログ・ランキングに参加しています。よろしかったら下のそれぞれのマークをクリックした下さい。ランクの点数が加算されます。人気blogランキングへ
January 14, 2007
コメント(0)
少年時代、お寺の広場で遊んでいると家に呼び戻されたて、風呂の水をポンプで何百回もこいで汲み上げたり、風呂炊きをさせられた。 風呂焚きは相当長い時間薪をもやすために、ときどき、オキをかきださなければならなかった。そうしないと火力が弱まってしまうからである。それは経験的にやってきたことであるが、ある日、何かのはずみでたぶん宿題で読んできなさいといわれたのかもしれないが、理科の教科書を読むことになった。そのときに、火が燃えるための3要素があるという記述にぶつかって驚いたことを覚えている。それは、酸素と燃える物と発火点が必要だと書いてあった。 このとき、風呂焚きをやっていて、オキを掻きだすのは、下から酸素を供給するためだということがわかった。火力が衰えてきたら、オキを掻き出して、空気の流れをよくすることが面白くなった。 薪が釜の底にべたッとしてしまっては、この酸素の供給がうまくいかないということもわかった。 それから火を燃やすということは、理論によって裏打ちされて、非常に自分の得意な仕事になった。大学に入ってから、ワンゲル部に入ったことから、山で火を燃やし、飯やおかずをつくる機会も非常に多くなり、また、下級生を指導することにもなっていくが、この3要素は、中学生のころから、私の生きる力となってきた。 火を燃やすとき、はじめは勢いがいいのに、やがてだんだん火力が衰えてしまうという失敗を経験している場合には、やはり、ひとつの理論が砂にしみこむように身についてくるということを実感することができた。その火を燃やすという実践は、私の場合は風呂焚きであった。ご訪問有難う御座います。下の2つの教育ブログ・ランキングに参加しています。よろしかったら下のそれぞれのマークをクリックした下さい。ランクの点数が加算されます。人気blogランキングへ
January 13, 2007
コメント(2)
不二家が全国の製造工場と関連店が完全にストップする致命的な失敗を引き起こした。今日のニュースでは会社の莫大な損失が予想されるという。しかし、それにとどまらず食品全体に対する信用を大きく損なうという点で社会的な影響も大きいものがある。 畑村洋太郎氏は、「失敗学のすすめ」で、似たような失敗例として、2000年6月の雪印乳業の集団食中毒事件をとりあげて説明している。あまりにも似た事件で驚いてしまう。 畑村氏は、1件の大災害の裏には、29件のかすり傷程度の軽災害があり、さらに、その裏には、ケガまではいかないもののヒヤリとした体験が300件存在しているという。これをハインリッヒの法則というのだそうだが、ひとつの致命的な失敗にも同様の法則が見られるとみている。 この本では、「失敗にこそ多くの芽がひそんでいる」として、「社会を発展させた三大事故」を学生たちに必ず話して聞かせていると言う。 それは、第1は、ワシントン州タコマ橋が完成4ヶ月後に、わずか風速19メートルの横風によって崩壊した事例、第2に、世界初のジェット機であるコメット機がフライト中に2台も空中爆発を起こした事例、第3は、1万トン級の輸送船リバティ船4700隻中、230隻が北洋で破壊して沈没・航行不能となった事例である。 第1の原因は自励振動によることが解明され、その教訓は明石海峡大橋に生かされているとのこと。 第2の原因は金属疲労によることが解明され、その教訓はアメリカのボーイング社の航空機開発に生かされているという。 第3は低温脆性によることが解明された。鉄と炭素の合金である鋼は、外部からの力は伸び縮みすることで逃がす性質をもつが、摂氏0度になると、完全にその性質が失われて、ポキッとおれてしまうことが解明されたという。 当時は、これらの原因はいずれも、まだ未知ものであり、その原因の解明によって、それが、その後の大きな進歩をもたらすものになったのだという。これらは機械工学を学ぶものにとっては、体にたたきこんでおかなければならない重要なことでもあるという。 このような失敗を積極的に生かすということは、重要なことであるが、不二家は、雪印乳業の教訓を生かすことができず、致命的な打撃を受けることとなったが、その原因の解明は、非常に重要なものである。現場の古い作業員の判断で、消費期限を過ぎた牛乳を使ってしまったというようなトカゲの尻尾きりのようなことでは、問題の解決にならないことは明らかである。 ここでも、何のために学んできたのかということが鋭く問われているように思われる。不二家の致命的な失敗は、失敗をなぜ学ぶ必要があるのかということを教えてくれる事件である。 ご訪問有難う御座います。下の2つの教育ブログ・ランキングに参加しています。よろしかったら下のそれぞれのマークをクリックした下さい。ランクの点数が加算されます。人気blogランキングへ
January 12, 2007
コメント(0)
会津の子どもたちの生活と遊びの中には、ふんだんに失敗体験がある。1回1回の失敗が、つぎの活動の中で、生かされていく。そこには、学びの原型と言える構造が見られるのではないか。 私は、会津の少年時代の遊びの意味を考えながら、「失敗学のすすめ」(畑村洋太郎著、講談社文庫)を読んでいる。この本は、学びということを、失敗という角度からとらえなおしたもので、非常に面白い。 この本の中で、畑村氏は、東大の工学部機械科の授業で、学生たちにどのように失敗体験させているかが紹介されている。たとえば、4人一組で、予算3000円で、「コンピュータをコントロールしながら、なにかの動作をするシステム」をつくらせるとかいう課題を与えている。「まず、失敗を経験し、そこから学ぶことは、個人が成長する大チャンスなのです」という。 「最初のうちは、あえて挫折経験をさせ、それによって知識の必要性を体感・実感しながら学んでいる学生ほど、どんな場面にでも応用して使える真の知識が身につくことを知りました。 この学習法は、学生が、それまで慣れ親しんできた勉強法とは明らかに異なります。受験用の勉強は、与えられた設問への答えの出し方を最短距離で学ぶ。まさに合理的学習法ですが、残念ながらこれだけでは、吸収した知識を本当に身につけることはできません。とおりいっぺんの形だけの知識は身につくものの、それは深い部分にまでは根付かず、したがって、本当の意味での自分の知識として使うことができないからです。 この隙間を埋めるには、やはり体感・実感がともなった体験学習が必要で、失敗することをいとわす失敗体験を積極t的に活用する必要があります」と書いている。大変大きな示唆が含まれている。ご訪問有難う御座います。下の2つの教育ブログ・ランキングに参加しています。よろしかったら下のそれぞれのマークをクリックした下さい。ランクの点数が加算されます。人気blogランキングへ
January 11, 2007
コメント(0)
子どもたちは、長靴スキーをしていた。カンダハーといわれる長靴の先を押し込む金具だけがついた素朴なスキーで滑っていた。ちょうど今のクロスカントリー?のように、かかとにまわすひもはあったが、かかとはスキーの板から自由にあがってしまった。 だから、今のスキーのように、テールがずれるという感覚はまったく知ることができなかった。もっぱら直滑降専門である。 家の前の20mほどの神社の斜面が私のスキー場だった。下の方から階段や開脚登行で上に少しずつ上がりながら、滑ってはスピードを確かめて、次第に高いところまで上がっていくという滑り方だった。自然にとまるまでは滑っていた。 滑ってくると土手にぶつかるのでカーブしなければならないところもあったが、内傾して曲がったり、その地形をうまく利用して曲がったりした。スキーの滑走面にはろうそくの蝋を解かして塗ったりした。 そりを滑らせて遊ぶ小学校の裏の栗林も大きな斜面になっていて木の間をすべることができた。 あるとき、裏道から田んぼにかけての斜面を一人で滑っているときに、大きなギャップのところで仰向けに転倒した。その時、スキーの先がみぞおちに入ってしまい、私は息ができなくなった。1メートルほどの短いスキーだったから、はずれないまま、かかとがあがって、スキーの先がちょうどみぞおちに入ってしまったのである。誰も助けにきてくれる人はいなかった。 田んぼの上に広がる静かな雪原を遠くまでスキーで歩いていき、長い急な山の斜面をすべるときもあった。階段で一歩一歩上がりながらコースをつくり、そこを一気に風を切って直滑降した。笹の葉などを片手にもって格好をつけて滑ることもあった。スキーも大好きだった。上まであがって、一休みしながら、滑り始める前にあたりを見回すと、美しい銀世界が広がっていた。ご訪問有難う御座います。下の2つの教育ブログ・ランキングに参加しています。よろしかったら下のそれぞれのマークをクリックした下さい。ランクの点数が加算されます。人気blogランキングへ
January 10, 2007
コメント(0)
会津の子どもたちは、早春、かた雪渡りを楽しむ朝がある。3月末から4月にかけてのよく冷え込んだ朝である。 それまで、やわらかだった雪が、よく晴れた日、太陽の光で表面が解かされ、そして夜になって急に冷え込むと翌日の朝、表面がかた雪になり、田んぼの上に一面に広がる雪の世界が自由に歩きまわれるようになる。雪で閉ざされてきた世界が、反対に雪によって自由に広がる世界に変わる。 いつもはつるつると凍ったすべる道路を歩いて、そして直角に曲がって学校に向かう子どもたちも、この朝は、三角形の斜辺にあたる白銀の世界を、胸をおどらせて一直線に学校に向かう。 かた雪渡りは、空気はまだきりっと冷たいものの、もう春が近いことを子どもたちに教えた。 ご訪問有難う御座います。下の2つの教育ブログ・ランキングに参加しています。よろしかったら下のそれぞれのマークをクリックした下さい。ランクの点数が加算されます。人気blogランキングへ
January 9, 2007
コメント(0)
小学校6年のときに作った俳句を不思議なことにひとつだけ覚えています。「朝露に、ぬれてうさぎの 草を刈る」 当時、うさぎを飼っていたのです。朝、起きると、朝ごはんの前に、家の裏の田んぼのあぜ道に鎌をもって出かけて、うさぎの食べる草を刈ってきたのです。夏のことで、草についている朝露にびっしょりと濡れてしまうという情景をうたったものです。名作だなあ!? うさぎを飼い、そのえさを自分でとりに出かけるという生活をもっていたということが、良かったなあと思うのです。俳句の出来はともあれ、そういう生活から夏の朝の情景を詠む俳句が自然に生まれたということが、私はいいなあと思うのですが、さてみなさんはどうでしょうか。ご訪問有難う御座います。下の2つの教育ブログ・ランキングに参加しています。よろしかったら下のそれぞれのマークをクリックした下さい。ランクの点数が加算されます。
January 8, 2007
コメント(0)
雪の球をカチカチに凍らせて作った氷の玉を、相手の氷の玉めがけて投げて破壊する「デンキ」という冬の遊びがあった。「デンキやんねえかよ」などと集まると、子どもたちは、はじめは雪を手にとってにぎり、丸い雪の球を作る。両手の中で丸くなってきたら、かがみこんで力を入れてどんどん硬くしていき、次に柱などに押し付けて丸くしながらさらに硬い球にしていく。雪が圧縮されて水が出てきて柱に水の後がつく。だんだん表面から雪の球が氷の球になっていく。それを「デンキ」と呼んでいた。 次は、足元において、足でごろごろ体重をかけてさらに硬くしていく。芯まで凍らせていくほど強くなる。そっとその球の上に立ってみる。もう体重をかけても壊れないぐらい硬くなっている。こうして1時間もかけて作った氷になった球を、雪の上におかれた相手の氷の球めがけて投げる。強い方が勝ち、弱い方の球は砕け散ったり、パカッと二つに割れたりする。勝つと非常に気持ちがいい。子どもたちは手を真っ赤にしながら、「デンキ」遊びをする。強い「デンキ」を作るために、草のようなものを見つけてきてその上でゴロゴロ転がして硬くしたりする。勝った「デンキ」は雪の中にしまっておくと、もっと強くなる。ご訪問有難う御座います。下の2つの教育ブログ・ランキングに参加しています。よろしかったら下のそれぞれのマークをクリックした下さい。ランクの点数が加算されます。人気blogランキングへ
January 7, 2007
コメント(0)
会津の冬の遊びには、そりやスキーやスケートがあった。 そりには、「げす」ぞり、箱ぞり、舵取りそり、たたみ1枚ほどの大きなそり(馬そり?名前が出てこない)などがあった。「げす」とはお尻のことである。 げすぞりは、そりの上に「げす」をおろしてすべる一番簡単なそりである。足で方向をコントロールしながらすべりおりる。スキー場などに行くとプラスチック製のものがおかれていて、子どもたちが楽しんでいるあれである。スキー場のそりには足がついていないが、げすぞりには、板の下に2本の滑走面をもった足がついていた。 箱ぞりは、大き目の「げす」ぞりの上に箱を固定したようなもので、平らなところを子どもを乗せて歩くのには適していたが、その中に入ってすっぽり腰から入ってしまうと、まったくコントロールがきかない。そこで「げす」ぞりを後ろに連結して、後ろからコントロールしてもらう。なかなかこれがおもしろい。 舵取りそりは、げすぞりの上に板を固定し、前の方にのばし、そこに穴をあけて舵をとるための小さいそりをとりつけてすべる。たたみ1枚ほどの大きなそりは運搬用に使われていたもののようだが、これに何人かが乗って先頭にのった子どもが、足で方向をコントロールしながら滑り降りる。これも良く滑っておもしろい。 そりで一番楽しめた斜面は2つあった。そのひとつが学校の裏手の栗林のなかの山道を踏み固めた長い変化に飛んだコースであった。ここをくだると快適なスピードが出た。スピードが出すぎて、ところどころでひっくりかえった。あきもせずに下っては、またそりをもって上まで歩いて上った。笑い声が、静かな雪山にいつもこだましていた。 「げす」ぞりや舵取りそりは自分たちで工夫して作った。のこぎりやなたをつかって材料を加工し、竹を手に入れてきて、それを火にあぶって曲げて滑走面を作った。竹を左右対称に曲げることをはじめ、板を直角に切る、平行に足をつける、垂直に釘を打つ、竹に錐で垂直に穴をあける、というようなことが自然に要求されていた。 こうして自分で作ったそりが、風を切って快調に滑るときの楽しさはまた格別であった。しかし、そのそりは、やはりすぐに壊れた。そのたびに、また自分で修理して滑った。雪が降ると、子どもたちはワクワクしていた。 ご訪問有難う御座います。下の2つの教育ブログ・ランキングに参加しています。よろしかったら下のそれぞれのマークをクリックした下さい。ランクの点数が加算されます。人気blogランキングへ
January 6, 2007
コメント(0)
朝、学校に行く前に、子どもたちはお寺の広場に集り、野球や鬼ごっこをしてたっぷり遊んだ。時間がくると上級生が列をつくらせて、20分ほど砂利道を歩いて登校した。学校につくとカバンを教室に放り込んですぐ講堂やグランドに行き、また思いっきりみんなで遊んだ。 講堂での鬼ごっこは、つかまった子どもたちが次々に鬼に加わりどんどん大きな包囲網ができて、追いかけていくもので、鬼をはやしたてながら巧みに逃げていくスリル満点の遊びだった。鬼に追われる子どもたちは、講堂の中を走り回りながら、やがて、1mほど高い講堂の正面の壇上に飛び上がった。 手をつないで追いかける長い鬼にとって、高いところは飛び上がることができない弱点であった。壇上に飛び上がった子どもたちは、声を合わせて、手を打って鬼をはやした。「上がれ、上がれ、みんな上がれ」・・・・。子どもたちの合唱が続いた。 私が小学校に入学したのは、終戦直後の1946年(昭和21年)。墨をぬった教科書の記憶がかすかに残っている。当時を思い出してみると、この子どもの時間には大人はまったく登場してこない。 私の子ども時代は、子どもだけで考えた面白くて底抜けに楽しい遊びの世界が毎日のように繰り広げられていた。そうやって遊んでから、毎日、学校の勉強が始まった。宿題などというものは、ほとんど記憶に残っていない。子ども時代が、このように底抜けに楽しかったという経験で満たされていることは、私という人間の一番核になっているように思われる。ご訪問有難う御座います。下の2つの教育ブログ・ランキングに参加しています。よろしかったら下のそれぞれのマークをクリックした下さい。ランクの点数が加算されます。人気blogランキングへ
January 5, 2007
コメント(0)
村を一本の砂利道が通っていた。バスやトラックが砂ほこりをあげて走っていた。会津若松から田島・日光につながる道路である。道路をはさんでかやぶき屋根の農家が立ち並び、ところどころに魚屋さんなどの商店があった。。その後ろは田んぼが広がっていた。家の裏にはよくふみならされた裏道があった。裏道の方が、木陰もあり、車が通らないので静かで私は好きだった。 道路の両側には小川が流れていて、家々の前には洗い場があり、サトイモが入った小さな水車がくるくると回って皮むきをしていた。 道端には、電信柱がところどころに立っていて、そこが子どもの鬼ごっこの拠点になっていた。小学校は、その道路から直角に折れて山側に向かうと、小高いところに校庭があり、その奥に木造2階建ての校舎があった。校庭の周りには、大きな桜の木がとりまき、春には見事な花を咲かせていた。私の通った村立の小学校である。校舎の裏側は、すぐ山の斜面へと続いていた。 道路をはさんで反対側も田んぼが大きく広がっていたが、こちら側には鉄道線路が1本しかれており、一日5回ほど駅で交換した。線路の急坂を登るときに、汽車は、ピョウーというような汽笛を鳴らしたが、野良や山や川に出かけると、それが時刻を教えてくれた。 広がった田んぼとその向こうの山の間には、大川が流れていた。鮎やハヤなどがいっぱい釣れた。カジカはガラス箱を使ってヤスでついた。 当時、1.2,3年は1クラスで、4年からは、1里ほど離れたいくつかの分校から子どもたちが合流して2クラスになった。子どもにとっては、この学校の大きさは、ちょうどよかった。学校の規模が小さくて活気がなかったというようなことはまったくなかった。6年ぐらいになると、野球の試合を隣のクラスとすることもあった。 ある朝、6年1組に異変がおきた。校庭にいた私は、びっくりして2階の教室を見上げた。ぽんぽんと通学かばんが投げ落とされているのである。こうして男子20人近くが、学校が始まる前にかばんをかかえて、学校から4キロほど離れた大川の馬越橋あたりまで逃げ出したのだ。 今では、誰がどのように命令してこういうことになったのかは覚えていない。 橋の近くには工事現場があり、トロッコの線路が引いてあった。工事現場の一番高いところにおいてあったトロッコを誰かが動かした。トロッコはものすごい勢いで急斜面にかかっていた線路の上を走りぬけ、下につくと衝突して大きな音を立ててもんどりうって飛び上がった。 まじめな子どもだった私は、こわくなって、学校にもどりはじめた。そうすると、ぞろぞろとみんなも帰りだしたが、急坂をのぼったところで、私が走り出すと、何人かがつかまえようとして追いかけてきた。私は、後ろから肩にかかった手をつかんで背負い投げをくらわせて、また走った。やっとの思いで学校に着くと、校舎に並んで建っている講堂で、担任の先生は、女子を相手に跳び箱の授業をしていた。 先生のところに恐る恐るいくと、いきなり何も聞かずに「もう一回いってこい!」と激怒してどなった。もう3時間目頃になっていたように思う。私は困り果てた。 この学校からの集団逃走は、先生の一喝があっただけで、犯人探しもなく、そのままおさまり事件にもならなかった。もちろんその後誰かが呼ばれてしかられたということもなかった。親が苦情をいうようなこともなかった。工事現場からの文句もなかったようである。 そのまま普通の学校生活にもどった。のどかな時代だった。それにしても、いったい誰がこんな大それたことをやろうといいだしたのかは今でもわからない。いつもワルをする連中ではないかと思うのだが、今では、少年時代のとっておきの思い出になっている。ご訪問有難う御座います。下の2つの教育ブログ・ランキングに参加しています。よろしかったら下のそれぞれのマークをクリックした下さい。ランクの点数が加算されます。人気blogランキングへ
January 4, 2007
コメント(0)
今日の学力問題を考える1冊<楽天ブックスへ>私の少年時代 はじめに 会津の山の中ですごした少年時代の思い出をどこから語ったらいいのか、彷彿として湧き起ってくる思い出を、私は、まだ、整理はできていない。とりあえず思い出したところから、ポツリポツリ書きはじめてみたい。 子どもには、成績だとか進学実績だとかではかれない本当に大切な子ども時代というものがある。子ども時代が子ども時代らしく生き生きとするのは、こどもが大人たちを断ち切って遊びはじめるときではないか。今の子ども時代は、あまりにも人工的だ。子どものためにという願いや掛け声は、かえって子ども時代を奪うものになっていないか。子どもに大人が与えるべき大切な贈り物は、豊かな自然なのではないか。大人や社会が、その一番大切なものを欠いて子育てや教育に没頭したとしたら、そのつけはかならず大人や社会にまわってくるように思われる。 現代の子どもたちは、人工的な遊び、人工的なスポーツ、人工的な学習によって子ども時代を奪われているのではないか。ブログの世界をみても、一生懸命にやっていることが、そもそも本当にそれでいいのだろうかという疑問にぶつかる。それは、子ども時代を丸ごと大切にしていくということになっているのだろうか。丸ごとではなく、一面的な能力の開発に走っているのではないか。それぞれが、一生懸命に子どものためにと思っていることが、かえって子どもの発達を小さな世界に閉じ込めてしまうということになっているのではないのだろうか。 「学力だ」「志望校合格だ」、「郷土への愛だ」、「愛国心だ」とけたたましい大人の作り出した現実の社会をもう少し別の角度からとらえなおしていかないと、そのことを相対化し、批判していくことができないように思われる。 お正月といえば帰省でどこも大変混雑するが、そんな苦労をしてもふるさとに帰る人たちは、それぞれ少年時代のことばで言い表せないような思い出を胸にいだいているのではないだろうか。山々の雪景色、朝日、舞い降りる雪の結晶、屋根の雪下ろし、道の雪かき、そり作り、竹スケート、そしてふるさとにいる家族や友人知人。教育基本法で、わざわざ「郷土への愛」など諭されなくても、多くの人が少年時代を過ごしたなつかしいふるさとをもっている。そういうかけがえのない心情に土足で踏み込んでそれを愛国心と結び付けようとする魂胆は悪質である。 私が、会津の少年時代を語ってみたいと思ったのは、こういう現実の世界をもう一度子ども時代の原点にもどって相対化してみたいと思うからである。<続く>ご訪問有難う御座います。下の2つの教育ブログ・ランキングに参加しています。よろしかったら下のそれぞれのマークをクリックした下さい。ランクの点数が加算されます。人気blogランキングへ ご訪問有難う御座います。下の2つの教育ブログ・ランキングに参加しています。よろしかったら下のそれぞれのマークをクリックした下さい。ランクの点数が加算されます。
January 3, 2007
コメント(0)
今日の学力問題を考える1冊><楽天ブックスへ>私の書いた2編の教育実践が、次の各誌に掲載されました。はじめの1編は、このブログがきっかけとなって始まった2児の母親となっていた16年前の卒業生との交流を通して誕生したものです。(1)「卒業後の人生を支える高校数学―数学と若者の成長・アイデンティティの形成」(下記掲載誌 第3章) 掲載誌 シリーズ『未来への学力と日本の教育』(明石書店)の第7巻 『世界をひらく数学的リテラシー』(小寺隆幸・清水美憲編著 2007年1月20日発行)目 次 第1章 PISAが提起したひらかれた数学第1部 数学と社会をつなぐ 第2章 現実世界と結び算数・数学の授業(実践4編) 第3章 数学との出会い 人生・市民・社会の数学(4編)第2部 新しい数学教育論をつくる 第4章 数学を学ぶ目的とカリキュラム(3編) 第5章 数学的リテラシー論へ(1編)以上<シリーズ『未来への学力と日本の教育』について>学力についての議論が、どんな子どもにとっても、未来の社会への希望と個人のしあわせや豊かな生き方をつなぎ、また、人と人のつながりをつむぐものとなることを願って、このシリーズを贈ります。(2)シリーズ「学ぶ喜びを教室の風に」第4回『数学は、絵や文学と同じように、新しい見方を教えてくれる』掲載誌 『高校のひろば』62号(winter 2006 日高教・高校教育研究委員会) ご訪問有難う御座います。下の2つの教育ブログ・ランキングに参加しています。よろしかったら下のそれぞれのマークをクリックした下さい。ランクの点数が加算されます。人気blogランキングへ
January 2, 2007
コメント(0)
<楽天ブックスへ>ご訪問有難う御座います。下の2つの教育ブログ・ランキングに参加しています。よろしかったら下のそれぞれのマークをクリックした下さい。ランクの点数が加算されます。人気blogランキングへ
January 1, 2007
コメント(2)
全19件 (19件中 1-19件目)
1