明治の町家   姫路の春霜堂  

明治の町家   姫路の春霜堂  

森田節齋 1811-1868 維新の志士 77ht



とても安く譲っていただいた掛け軸の中になかなかの珍品が入っていた。
拓本であるが、なんとあの京大付属図書館に収蔵されているものと同じものである。

作者の森田 節齋(もりた せっさい)文化8年(1811)-明治元年(1868)は維新の魁となった人で、吉田松陰、乾十郎などの師にもあたる。節斎の祖先をたどると楠正成に従って戦い敗れた武家になるそうだ、しばらくの間、姫路候に招かれたこともあり、それでこの拓本も、ここに現存したのかもしれない、これを書かれた三井高敏は松坂の商家で三井財閥の創始者にもなる。

その拓本のおおよその現代語訳は次のようになる。

正平三年、後村上天皇は吉野に滞在されていた。この時高師直率いる賊軍が攻め込んだ。楠正行は、一族郎党を従え、天皇と後醍醐天皇の陵にもお別れををつげ、髻を切り落とし、戦場へ赴き敗れさった。

 慶応元年、私は大和へ帰郷した。会津田正臣君がやって来て正行公を顕彰の碑文を書いてほしいという。

私は談山に登り、藤原鎌足公をまつる談山神社に参詣した。敷地は広く、建物も立派だ。
ところが吉野山の正行公の髻を埋めた場所は荒れ果て、そこが正行公の遺跡とは誰も知らない様子だ。

私は、涙を流しながら、

「正行公も鎌足公も、忠臣だが、鎌足公は朝廷の危機を救い、最高の官位にのぼり、子孫も繁栄し、今も神社にまつられている。一方、正行公は敗れ戦死し、子孫も死に絶え、その 遺跡さえも、埋もれてしまっている。同じ忠臣なのに。。」

「運不運の差はあっても、二人の功績は同じではないか。鎌足公の大化の改新は、天皇家の危機を救った偉業であった。正成・正行父子 は、敗れたとはいえ、節操を貫き通し、道徳を不朽に伝えた。この徳は鎌足公が勝っているとは言いきれない。運不運の差はあっても、二人の功績は同格である。」

私が帰ると、正臣君が催促に来たので、この話をし、それにこう付け加えた。

「いま欧米の蛮人どもが、好き勝手な振る舞いで朝廷を悩ませている。国士たるもの、国家のために力を尽くす時は、今をおいてない。成就すれば、後世まで祀られもしよう。しかし、失敗しても、正行公のように節義に死して、名を歴史に刻めるではないか。男児の本懐、これに過ぎるものはない。」

正臣君は喜び、
「その言葉で、正行公の髻塚を顕彰できるではないか。」

そこで、私は碑文を書いて渡した。

正臣君は、字は仲相、通称は監物と言い、代代紀伊藩に仕えている。楠正成公の子孫である。

 慶応元年、森田益が撰文した。


参考サイト

http://ddb.libnet.kulib.kyoto-u.ac.jp/exhibit/ishin/kanren/doc/shoshi/00224.html

http://homepage2.nifty.com/kanbun/writers/morita-sessai.htm

http://www1.odn.ne.jp/~cak50330/moritasessai.htm



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