
風間輝男の知人に荻村憲二がいる。我孫子市郊外で冷凍食品の宅配業を営むかたわらレストランを経営している。レストランは開店間もないため客足はまだ少ない。本業はあくまで冷凍食品でありレストランの不入りはあまり気にしていない。レストランを切り盛りしているのは妻の幸子。仁科という中年女性と女子高生アルバイトを使っている。
麗子は輝男をむりやり承知させレストランで働き始めた。元来、外で働くことは反対であったが、麗子の固い決心に押し切られ渋々了解した。
それは薬局で土門を見て『ときめき』を覚えてから半年が過ぎようとしていた。
「麗子ちゃん、雨が降って来たわよ。今日はずいぶん冷え込んでいるから雪に変わるかも知れない」
入口のドアを少し開け、冷たい雨を落とす空を見上げながら幸子が言った。麗子は日本の冬の寒さが苦手であった。家にいた頃はこたつの中でまんじりともせず縮こまっている毎日であった。
「雪になると困ってしまう。自転車では恐いから歩いて帰るしかないか」
「もしそうなったら私が車で送って上げる。それよりこんな天気だから今日は暇かも知れないね」
「よし、景気づけに呼び込みでもやろうか。どうこのアイデアは」
「やめてちょうだい。店のことを心配してくれるのは嬉しいけど、寒がりの麗子ちゃんに風邪でも引かれたら大変。こういう日はじっとしているのが一番。果報は寝て待て」
「カホウワ、ネテマテってどういう意味? 難しい言葉を使わないで」
「あわてる乞食はもらいが少ない、とも言うわ」
「ああ、その言葉は聞いたことがある。あわてて騒がずじっくり待っていれば、お客さんの方から舞い込んで来るということね」
周囲の人が使う言葉に敏感な麗子であり、飲み込みの早さは天下一品、かなり難しい言葉もすぐに理解してしまう。
雨が一段と激しくなった。客はまだ一人もいない。『こんな日もある』と慰め合いながらテーブルを整えていると、駐車場から車のドアを勢いよく閉める音が聞こえた。窓越しに小走りに駆け寄る土門の姿が見えた。車から降りて十メートルとない距離にしては異常なほどの濡れ具合で、背広ズボンがかなり汚れている。
麗子は土門雄二という一人の男との出逢いを心待ちにしていた。そもそもこのレストランに勤め出した目的もそこにあった。暇に任せて土門の行動先をつぶさに調べ上げ、出逢いの場をこのレストランと決めていた。半年前の『ときめき』の心と、探し歩いた半年間の切ない心の葛藤が、麗子を一心不乱な愛の探求者に変えていた。
土門は勢いよくレストランに飛び込んだ。ふうっと深いため息を付くと二人の驚いた顔を見ながら苦笑した。
「どうしたの? そんなに濡れちゃって。背広もズボンも台なしじゃない」
幸子は心配そうに駆け寄り、土門の顔を覗き込んだ。
「運悪くタイヤがパンクしてしまい、交換中に激しい雨に遭いこのざまですよ」
土門は濡れた髪の毛を無造作にかき上げた。
「麗子ちゃん、土門さんに乾いたタオルを出して上げて」
麗子はタオルを差し出しながら、土門の背後に回って背広を脱がせようとした。
「アイロンしますから背広とワイシャツ脱いで下さい」
土門は麗子の助けを借り背広とワイシャツを脱いだ。麗子は顔を紅潮させ嬉しそうに二階に駆け上がって行った。
しばらくして二階から降りて来た麗子は背広とワイシャツを手渡し、ズボンもプレスすると言ったが、土門は丁重に断った。
「土門さん、麗子ちゃんは歌がとても上手なのよ。テレビのカラオケ番組に出たこともある実力派。一度聞いて見たらいいわ。そうだ今度うちの店に飲みに来ない。麗子ちゃん、あなたも付き合うでしょ」
土門は予期しない突然の誘いに驚いた。レストラン開店以来の常連ではあったが、特別に親密な間柄ではなかった。ただ、以前幸子にある女性のことで冷やかされたことがあった。
「土門さん、うちの店にあなたの熱狂的なフアンがいるわよ」
その時は中年女の軽い冗談と相手にしなかったが『あれは麗子のことだったのか、うまく仕組まれたな』と直感した。
「今週の土曜日がいいわね。土門さん、麗子ちゃん、いいでしょ? 」
半ば強制的に決められてしまったが、タオルを借りたりアイロンをしてくれた手前、むげに断ることが出来なかった。まして親切にしてくれた麗子が一緒ならなおさらであった。
「奥さんありがとう。無理言ってごめんなさい。本当に感謝します」
土門が店を出た後、きっかけ作りを頼んでいた麗子は幸子に深々と頭を下げた。望みを果たし喜色満面、夢心地の麗子。心はすでに来るべき約束の日に飛んでしまっていた。はやる気持ちに胸の高まりを禁じ得ず、その日は仕事が手に付かず、幸子や仁科たちの失笑を買っていた。
周囲の冷たい視線や批判は麗子の行動に対し何の抑止力にもならない。それは逆に麗子への応援歌となってしまうだけであった。

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