
結婚とは他人であった男女が一緒に生活することであり、親兄弟の血縁関係と比べると基盤のないものである。いざとなれば離婚届一枚で簡単に解消出来る。土門との旅行以来、麗子は夫の輝男との生活に終止符を打つ決意を固めていた。ただ別れた後に待ち受ける苦難は充分覚悟していたが生活費、子供のことを考えると決心が揺らぐ。しかし一度決めたら後に引かないのが麗子の性格である。
離婚を決意した麗子は以前にも増して輝男に逆らうことが多くなった。セックスの要求を頑なに拒み続けている。そんな夫婦生活の内情を聞くと土門は意見をした。
「君とこうして逢えるのはお互いの家庭がうまく行っているから。関係を長く続けたければ旦那とうまくやれよ」
土門の言うことは素直に聞く麗子である。少しの間は関係修復に努めるが、二、三日後には『どうしても出来ない』と言って来る。土門は麗子をたしなめるが、一方では麗子と輝男の仲睦まじい光景を想像すると堪え難い気分にもなる。土門に嫉妬と独占欲が無意識にうちに芽生えて来た。
土門は一度だけ輝男と顔を合わせたことがあった。運転免許を取得した麗子を祝う会の夜であった。麗子は輝男には話さなかったが、荻村から聞き付け仕事を早く切り上げ来ていた。
「招かざる人がいてごめんなさい。勝手に来ちゃったの」
麗子はそっと土門に耳打ちした。
「免許の時は妻が大変お世話になりました」
麗子との関係を知らない輝男は土門にお礼を言った。そして何の疑いも持たず親しく話しかけて来た。土門は平静を装ったが何かぎこちない会話になってしまう。
『申し訳ない』という負い目から麗子を返したい反面、離婚するのも運命かなという冷徹な思いもある。いずれにしても複雑な対面であった。パーティーが終わると麗子は土門に歩み寄り耳元で囁いた。
「もう少し付き合って。あの人は先に帰すから」
輝男は大分飲んだらしく珍しく機嫌がよかった。二次会に行くと言う麗子に理解を示した。
「ゆっくりして来いよ。俺は朝が早いから先に帰って寝るから」
数日後、麗子が突然レストランを辞めることになった。従業員の仁科の誕生日パーティーに土門も呼ぶと言い張る麗子と、内々のパーティーだから関係ないと言う幸子が衝突した。思いどおりにならない苛立ちから麗子がつい幸子に悪態を吐いてしまった。
翌日麗子はレストランを辞めたことを告白したが、辞めた理由は言えなかった。土門はレストランに出向き、幸子から一部始終を聞いた。いつも穏やかな微笑みを絶やさない幸子が『麗子ちゃんは興奮すると訳がわからなくなる』と怒っていた。
土門はレストランを出ると麗子に電話した。
「話は奥さんから聞いた。奥さんが僕を招待しないのは正しい判断だ。昨日の喧嘩は君が悪い。僕が原因でこんなことになるなら今後君と逢うことは出来ない」
「あなたに逢えないなら死んだ方がまし」
麗子は泣きじゃくりながら訴えた。
「しばらく逢わない方がいい。他人の口に戸は立てられない。奥さんは相当怒っていたから二人のこと君の旦那に告げ口するかも知れない」
土門は冷静になって考えてくれと頼んだが、何を言っても無駄だった。仕方なく『一生逢えないわけではない』と電話を切ったものの、時間が経つにつれ、最悪のケースが土門の脳裏をかすめた。何度も電話をかけたが麗子は出ない。土門は段々深刻になって来た。『麗子よ生きろ』 と祈った。
『もっと優しい言葉をかけてやればよかった』と心配と後悔が頭の中を交錯した。
土門は以前、麗子が千葉テレビ主催の歌謡大会に出場すると聞いていた。あの精神状態では恐らく出ないだろうと思ったが、一縷の望みを持ちながら会場の我孫子市民会館に向かった。
場内は立ち見客が出るほどの盛況で、すでに大半の出場者が歌い終わっていた。薄暗い最後部の立ち見席にイブニングドレスを着た麗子の姿があった。出場者の歌を聞いている風でもなく、むしろ必死に誰かを探している様子であった。麗子の表情は悲しさと切なさが入り混じっていた。来てはくれないだろうと思いつつも土門を必死に探している。
土門を探し当てた麗子は泣きながら駆け寄った。
「来てくれたのね。もう逢えないと思った」
麗子の左手首には白い包帯が巻かれていた。土門の視線に気づいた麗子はとっさに左手を隠した。
「その手はどうしたんだ?」
「ちょっとけがをしただけ。心配しないで」
麗子は手首を切って自殺を図ったが、死に切れなかったことを土門には言えなかった。
会場は最後の出場者が歌い終わり審査に入った。麗子は上位入賞の三人の中に選ばれた。審査員の一人が麗子の歌を評して『人生の機微をうまく表現した』と絶賛したが『でも歌が悲し過ぎる』と付け加えた。麗子の心境を思うと審査員が悲しい歌と感じたのも当然である。麗子は歌を通して土門への思慕を心の奥底から絞り出し吐き出したのであった。

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