
麗子の働くスナックには行くまいと誓った土門であったが、麗子の再三にわたる誘いに負け敵情視察を敢行しようと決心した。しかし果たして『俺を快く迎えてくれるのか』心配であった。
京葉道路から首都高速に入った。麗子や店の人たちがどんな顔をして迎えるのか、いい知れない不安が土門の胸をよぎった。錦糸町ランプを降り左折すると約三百メートル先に総武線錦糸町駅が目に入った。錦糸町駅に向かって走る土門には、周囲のけばけばしいネオンがやけに眩しかった。『こんな怪しい街の何処かで麗子が働いているのか』と思うと居ても立ってもいられない心境であった。
麗子を店の外に呼び出すことにした土門は、車を停めて電話ボックスに入った。駅前ロータリーをぐるりと回り二つ目のの信号を左折した。百メートルほど走ると小さな公園が見えた。『ここが麗子の言った公園だな』と車を降りて周囲を見渡した。
一方はスナックや飲食店が軒を並べ、もう一方はラブホテルが所狭しと林立している。土門は錦糸町は聞いたとおりの『怪しい街だな』と改めて実感した。『この街で一日の三分の一を過ごしているのか』とさらに心配が募って来る。公園内には麗子の姿は見当たらない。仕方なく公園内を歩き始めた土門の背後から聞き慣れた声が飛び込んで来た。
「土門さん、来てくれたのね」
振り返ると麗子が立っていた。腰までスリットの入ったチャイナドレスがビルの屋上で点滅するネオンの光に映えて妖艶であった。麗子は土門に抱き付いた。厚化粧の顔を土門の胸に押し付け微動だにしない。数人のホームレスやベンチで恋を語る三組のカップルが、訳ありの抱擁に好奇の眼差しを送っている。沈黙の抱擁が数分間続いた。
「あなたは水商売の女が嫌いだから来てくれるとは思わなかった」
「君の顔を見に来ただけだよ。店に僕を連れて行って大丈夫なの」
「さあ行きましょう。あなたは何処に出しても恥ずかしくない人。ママや女の子に自信を持って紹介出来るわ」
三階建ての雑居ビルには十数軒の飲み屋がひしめき合っている。麗子の店はビルの地下にあった。年の頃六十近い女性が、如何にも心待ちしていた表情を見せて土門を迎えた。
「ようこそ、土門さんね。あなたのことは麗ちゃんから聞かされていました。噂どおりの立派な紳士ね。あなたは麗ちゃんの自慢の人なのよ」
錦糸町の怪しい雰囲気には似合わない素朴な女性である。土門は麗子から紹介されるまではママには見えなかった。畳二枚を縦に並べた程度の狭い厨房から、白髪混じりの髪を七三に分けた初老の男性が身を乗り出して手を振った。この店のマスターでママの夫である。ママ同様純朴で水商売ズレしていない風貌に土門は好感を持った。優しそうなこの老夫婦に見守られて働いているのかと思うと、土門はひとまず胸をなで下ろした。
午後八時、錦糸町の夜は始まったばかり。六人いるホステスは麗子を除いて全員フィリピン人。まだ時間が早いためか一組の客しかいない。五人のホステスを相手に猥談に花を咲かせている。頭の禿げ上がった中年の客は鼻の頭に汗をかきながら喋りまくっている。麗子を見つけるといきなり立ち上がった。
「麗ちゃんのお尻はどっしりとした安産型だったね」
「お客さんはもう麗ちゃんとやったの。下半身がどうしようもなく元気なんだから」
ホステスの一人が言った。麗子は客とホステスを睨み返したが、思い直して土門を奥のボックスに案内した。
「ごめんなさい、気にしないでね。いつもあんなこと言われてるのよ。店に来る客の目的は皆同じ。結局はホステスとセックスしたいだけなの」
「君も口説かれることあるの? 」
「私には言いづらいみたい。ちょっと甘い顔すると付け上がってその気になるから絶対スキを見せない。お客さんとは店の中だけの事務的な付き合いと思っている」
土門の心配を察して麗子は努めて素っ気ない返答をした。土門は水割りを作る麗子の姿を苦々しく見つめていた。それは錦糸町にうごめく夜の女そのもので、今まで見たことのない別世界の麗子だった。土門が煙草を取り出すと火のついたライターを差し出した。
「水商売の女みたいなことするな。自分で点けるからいい」
「ごめんなさい。でも私は水商売の女よ」
「僕は水商売の女とは思っていない。風間麗子に逢いに来ただけ。僕の前で仕事はしなくていい」
土門は煙草に火を点けたり、つまみを口に持って来ようとする麗子のしぐさに腹が立った。同じことを自分以外の男にしていると思うと気分が悪くなった。『店の中では皆のもの』と頭の中では理解しているが『どうして俺の麗子が他の男に媚びを売るのか』と苛立った。
土門の手を握り締めて片時も離れようとしない麗子には、その後続々と入って来た客の姿は目に入らなかった。会社や家庭のことなど矢継ぎ早に質問を浴びせかける麗子は、ホステスという本来の仕事を完全に放棄していた。見かねたママは土門にべったりの麗子にそっと耳打ちした。
「今夜の麗ちゃんは開店休業ね。他のお客さんには『今夜の麗ちゃんはプライベートだから堪忍して』と言っておくからね」
「錦糸町まで遠かったでしょ。毎日あなたに逢いたい。でもそれは無理な願いね。せめて今夜は私のマンションに泊まって」
「上野のマンションに泊まるのか」
「最近、新小岩の駅前のマンションに引っ越したのよ」
寝耳に水の土門は『麗子は俺の知らないところで独り歩きしている』と思った。
「お金をたくさん貯めて自分自身に力を付けて早く子供を呼び戻したい」
土門は麗子の人生目標を共有して共に生きられるか考えたが、今の自分には入り込める余地がないことに気づき始めた。
「麗ちゃん、今夜はもう帰っていいわよ。土門さんと積もる話があるんでしょ。いいからお帰りなさい」
閉店まで三時間あまり残っていたがママが理解を示してくれた。厨房の中で煙草をくわえたマスターも頷きながら麗子にウインクして見せた。
店を出た麗子は『知っている店がある』と土門の腕を掴み歩き出した。二、三分歩くとコンビニストアの二階に一件のスナックがあった。狭い階段を上がって行く麗子の足元が少々おぼつかない。土門は後ろから麗子の腰を押し上げた。
店には日本人のホステスが七、八人いた。麗子はマスターやママとかなり親しそうである。
「麗ちゃん、初めてのお客さんね。紹介してちょうだい」
ママが土門の脇にすり寄りながら言った。
「私が我孫子にいた頃の知り合い。久し振りに逢いに来てくれたの」
『知り合い? お前の恋人だろう』土門は妙な紹介の仕方に腹立ちを覚えたが、危うく言葉を飲み込んだ。
「麗ちゃん、この間連れて来た男性、実は………」
マスターが小声で話し始めたが、土門の視線を感じ途中でやめた。『俺に聞かれるとまずい話か?』ますます気分の悪くなる土門であった。麗子はマスターの話が中途半端に終わったことが残念そうだった。怪しい錦糸町に身を投じた麗子には土門の知らない世界が出来ていた。
やっとの思いで新小岩のマンションに着いた。キッチンとリビングが一体となったワンルームで、駅前という好条件のため家賃は十万円と高い。月収二十七、八万円にしては少々豪華過ぎると思ったが、睡魔に襲われていた土門はベッドになだれ込んだ。狭い部屋に不釣り合いなダブルベッドは冷たかった。家具も少なく殺風景な部屋のせいかベッドの冷たさが身にしみる土門だった。
久し振りに体を求め合う土門と麗子に気持ちの盛り上がりはなかった。あれほど情愛を顕わにして燃え上がった麗子が『気持ちいい』と叫ぶだけであった。麗子は心身共に疲れ切っていたのだ。しかし土門には麗子の感情のないセックスにしか映らなかった。
気分の悪いまま寝入った土門の耳元で電話が鳴った。麗子は電話に出ようとした土門を制し、あわてて受話器を取った。馴染みの客からの電話だった。『こんな深夜に電話して来る相手との関係は何なんだろう』と疑問に感じる土門であった。さらに二本の電話が入った。自分以外の複数の男が麗子にどう関わっているのか知りたかった。そして『このベッドで何人の男と寝たのか』という疑心暗鬼と嫉妬の念が増長して行った。
錦糸町の夜以来、土門は苛立ちの日々が続いた。思いどおりに行かない人生を嘆いているのではない。自分の知らない世界で生きる麗子が遠い存在になって行くのに一抹の寂しさを感じていたのだ。常に土門のサイクルに合わせていた麗子が、今では麗子自身の事情のみで生きている。土門の周辺に絡み付いて離れなかった麗子はもういない。
土門には麗子の人生を最後まで見届ける義務があったが『突き放すのが愛情』なのかも知れないと自問自答する土門。しかし自分と関わったため夫を捨て、豊かな生活を捨て、子供のため水商売に入った麗子に『別離』は言えなかった。

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