なっぱちゃんと一緒

なっぱちゃんと一緒

幸せの基準??


彼女には、うちのお兄ちゃんより一歳下の子供がいて、実はお兄ちゃんと同じ保育園に通っているが、送り迎えの時間が違うのであまり顔を合わす機会もなかったのだが。

ゆりあは、保育園の話や、近所の幼稚園の話なんかをしたかったし、それで十分だと思うのだが、彼女の話の矛先は・・・どうも違う。
ゆりあの就職先を何故か知っていて(誰に聞いたのかは頑として言わない)、そこに就職するまでの経歴を、まわりくどく聞いてくるのだ。

聞かれたら、別に答えたくないわけではないが、こちらとしては、彼女についての同じ情報を知りたいとも思ってないのだ。
親しい付き合いがあるわけでもないのに、いちいち話す義理もない、と思う。
ので、やんわりと(一応ゆりあも大人なのだ)話をそらして・・・

気が付いたことは。
彼女が自分についてのことを話したのは、このご近所では豪華で有名な分譲マンションに住んでいる、ということだけなのだ。
それ以外は、絶対話すことはなく、こちらの状況を探ってくる・・・としか思えないような話方をする。

自分が今、幸せかどうか、という事を他人に勝ったか負けたか、ということでしか判断できない人がいる、と思う。
その勝ち負けの基準は、色々あると思うのだが、彼女にとって、他人に絶対勝っている、という条項が有名分譲マンションに住んでいることであり、それ以外のことは、とにかくリサーチして、自分の中で「勝っている!」と思うことを積み重ねていくことで、安心して他人と付き合えるのかもしれない。

ゆりあには、障害児のなっぱちゃんがいて。
彼女には話さなかったが、その事をもし彼女が知ると、ものすごく喜ぶだろう、と思われる。
話していて、そうとしか考えられないのだ・・・

でも。
自分より不幸な人がいる、自分より経済的に劣っている人がいる、と思うことで幸せに思うことは、よくあることだと思うのだが。
よく考えてみると。
どんなに不幸な人がいようが、幸せな人がいようが、それによって自分の状況が変るわけではないのだ。
「あの人が不幸」だから「自分は偉い、すごい」というわけではないのだ。
自分というものは、あくまで自分で積み重ねてきた時間の上にだけあるもので、旦那が偉かろうが、子供が天才だろうが、それはそれですごいことだが、自分自身の価値が変るわけではない、と思う。

なっぱちゃんが産まれて、一緒に過ごしていく中で。
色々考えることがあるけれど。

昔より、そういうことを考えるようになり、きっと昔のゆりあよりかは、幾分物事を多面的に考えるようになった。

彼女は、別段他人と比較しなくても、元気でかわいい子供がいるのだ、十分幸せで恵まれている、ということで、本当に幸せだと思うのだが、そうは見えなかった。

ゆりあは、障害児の母で、この世で一番不幸だと思っていたときもあったが、今は特別そうも思っていない。
なっぱちゃんの障害はとても辛いことだけど、結構楽しく日々過ごしている。たまにへこんでいるが。

幸せかどうかなんて、気の持ちよう次第、のような気がしている。
別に、痩せ我慢でも何でもなくて。

これから、彼女が出会う人の中には、彼女より優秀で裕福で、もっと豪華なマンションに住んでいる人もいるだろう。
そういう生き方は、とってももったいない、と思うのだけど、ねえ。

・・・ゆりあがのん気すぎるのかもしれない・・・




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