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ヤマト襲来について大和朝廷の正史、日本書紀での記述を確認する。日本書紀の信頼性については検討中だが、貴重な証言である書紀の記述に従ってヤマト襲来の様子を思い描いてみたい。初代神武天皇から第十代崇神天皇までヤマト襲来に直接関係する記事は非常に少ない。以下の表は東方進出に関係しそうな記事を抜き出したもの。神武紀では日向から吉備などを経由して幾多の戦いを経て当初からの目的の場所である大和地方を非常な執念を持って攻略したことが読み取れる。しかし大和地方を平定した後、他の地方に進出したという記述はない。その後も崇神紀の四道将軍の記事まで殆ど大和地方や河内など近場の記事ばかりで占められている。孝元紀に兄大彦命(いろねおおびこのみこと)の子孫として近江が本拠と思われる狭狭城山君や越国造・筑紫国造、孝霊紀に吉備臣、孝安紀に尾張連など東国や畿外の氏族の名が出るが系譜上の話のみである。このころのヤマトの勢力範囲はまだ畿内に限定されていたのではないかという憶測が頭に浮かぶ。崇神紀十年に四道将軍の記事がある。書紀の記述では崇神天皇はそれまでひたすら内政に励んでいる。にもかかわらず疫病や百姓の逃亡などもあり国内はなかなか鎮まらなかった。崇神七年十一月条に大田田根子に大物主大神を長尾市に大国魂神をそれぞれ祀らせてようやく国内が鎮まったことが記されている。国内が安定して海外進出の余力が生じたのだろうか大彦命を北陸、武渟川別を東海、吉備津彦を西道、丹波道主命を丹波へそれぞれ派遣し、従わないものは討伐するよう詔している。神武東征の間に九州から大和地方までの西国がヤマトの支配下に入ったように想像していたが、四道将軍の派遣先が東西両方向であることからすればこの段階ではヤマトは大和地方周辺に限定される勢力だったと理解するのが自然だろう。崇神十年十月の四道将軍出発の記事の直後に十一年四月の戎夷平定奏上の記事があり、派遣途上での記述が一切無い。そのため約半年の遠征でどこまで行ってどのような活動をしたのか全く不明だ。ともあれ四道将軍の記事の後には丹波、出雲、筑紫などが話の中に登場するようになる。崇神紀では東国に関わるのは豊城命の記事が最後だが当時の「東」「東国」がどの辺りを指すのかは検討する必要があるだろう。
2015.10.09
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日本の狭い意味での歴史、つまり文字によって知ることができる時代はどこまで遡るのか?日本書紀が完成した西暦720年からは疑いなく歴史時代といえる。ある程度信用できる歴史はいつ頃からなのか。どの程度信用できるのか。弥生時代末期から古墳時代のことを調べる際にはまず考える必要のある基礎的な事項だ。日本書紀の継体天皇以前の記録はあまり信頼できないとされるが、ではどの程度信用できるのか?記紀の元となった旧辞、帝紀はいつ頃成立したのだろう?歴史に限らず、まずは文字による記録が日本でどのように始まったのかを見直すことから始めたい。 おぢさん作成年代は推定含む木簡に関しては『飛鳥の木簡―古代史の新たな解明』に拠った。元データはこちら。 表作成後に知ったのだが、鏡には40文字以上が記された景初三年(239年)銘の銅鏡などもあり改めて調べる必要があるが、舶載か倣製かなどなど難しいので断念。鏡については抜け落ちてしまっていることを了承願いたい。 上の表からは7世紀後半から文字の使用が徐々に増え、7世紀末に文字の使用が本格化した様子が見て取れる。それ以前の史料は散発的で文字数も少ない。おそらく文字を読み書きできる人間も限られており使用する機会も多くはなかったのではないだろうか。稲荷山鉄剣、江田船山大刀は例外的に早い時期の史料である。稲荷山鉄剣には八代に亘る系譜が記されており。一部ではこの時代から継続的に記録が残されていた可能性も示す驚くべき史料だと考えるが、現在のところ可能性に過ぎない。 つづく。
2014.11.24
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