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先週の土曜日は父の一周忌をしました。命日は金曜日。11月20日です。一年前の明日、父の病室を出て数時間後、父は一人で息を引き取りました。父がいなくなって初めてのクリスマスやお正月はむなしいばかりでした。雪が降れば、「おじいちゃんに見せる!」と小さな雪だるまを作ってベットサイドまで運んでた子供とそれをみて喜んでた父を思い出し、いなくなって初めての春、桜が咲けば、何度も行ったお花見を思い出し、最後の桜の季節となってしまったお花見のときの様子を思い出し。いなくなって初めての夏は、障害者プールに杏と通ってた事を思い出し。そして、一年。やっぱり秋は寂しいです。幼稚園の紅葉した葉が落ちた姿をみると、「あ~そういえば去年この木の葉が落ちた時に父は逝ってしまったな~」と思い出すし、病室のおじいちゃんに届けるんだって綺麗な落ち葉を一生懸命集めてた子供達のことも思い出すし。いなくなっても、今でもおじいちゃんの事をよく話すわが子を見ると、「天国で父は喜んでるだろうな~」とつくづく思うのと同時に、「天国でなんかじゃなく、今本人に聞かせてやりたい。見せてやりたい」と思うのも事実。一年経ったからといってまったく整理なんてできるもんじゃないとつくづく身にしみています。病気が分かって、闘病中でも楽しい事はいっぱいいっぱいありました。悔しい事も辛い事ももどかしい事も情けない事もいっぱいありました。ALSの特徴である強制笑いも強制泣きも強制怒りも(笑)いっぱいありました。後悔していないことも、後悔してることも、沢山あります。書きたい事や書こうと思った事は沢山沢山あるけれど、何故か何回書いても途中でパソコンが消えてしまったり、画面が戻って消えてしまったりするんです。(笑)もう、これは「グダグダ辛かった事ばかり書くな」という父の仕業としか思えません(^-^;だから「ALSってこんなに辛い」「こんなに悔しかった」って事は書きません(笑でもでも、もっともっと生きていたかった父に最後まで副えなかった、そのことを整理できないまま一年目の命日を迎えます。
2009年11月18日
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私の職場には、お年寄りが沢山訪れる。お仕事の忙しさに少しだけ慣れてきたのか、今日「ふっ」と心によぎった想い。「みんな元気でいいな・・・」80を過ぎてアチコチ痛いわーと言いながら元気に歩いて毎日通院してくる患者さんをみて、「いいなー」と素直に思った。元気っていい。父も生きていればまだまだ「若い」と言われる年齢。あっちが痛い、こっちが痛いと言いながらも元気に動き回っていただろうし、孫ともいっぱい遊んでいただろう。誰も笑ってくれないダジャレを連発し、一人ニヤついて「俺って天才!」って思ってただろう。今日は父がよく被ってた帽子とそっくりな帽子をかぶった父と同年代のオジサンが待合室に座ってる姿をみて、ふっと、「なんで父は死んじゃったんだろう・・・・」と強烈に寂しくなったりした。去年の夏は元気とはいかなくても、確かに生きていたのに。父がALSに侵されて、車椅子になり、イロウになり・・・と進行していった時もあまり深刻に「なぜ、父に限って!!!なぜ父ばかりが!!」とは思わなかったけど。今日はものすごーーーーく思ったなぁ。「なぜ、父がこんなに早くこの世から居なくなったのか。」って。・・・なんでよーーー!!!!!!って叫んでも許される位寂しくなったな。。。・・・生理だからかな(笑密かに傷心な母の心、子知らずで、佑はおじいちゃんの仏壇にむかって「おじーちゃん! 後、8回で、ゆうのお誕生日だよー!!!」と報告?オネダリ?(笑)してた(笑プレゼントをねだられて、きっと父はズッコケてる事でしょう(笑
2009年07月29日
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重度障害者のヘルパー資格を取得するための研修最終日。 昨日(27日)無事終わりました。 昨日はまず3グループに分かれて 実際街へ出ての買い物。 脳性マヒの男性一名(電動車いすで自走)と付き添い2名。 車椅子体験者一名と車椅子を押す人間一名。 合計5人で1グループとなります。 私は最初、実習者の乗った車椅子を押してまず店内を目指しました。 買い物先は全国チェーンで言う所のイオンのようなお店。 土曜ということもあり、かなりの混雑でした。 そして、店内中頃で、私が車椅子へ。 車椅子で実際の街中をうろうろするのは初体験 走り回る子供の怖さや、自転車のスピードの怖さ・ 商品が目より高いため、ほとんど売り場が見えないことや 冷蔵コーナーの冷気をモロに感じるため寒いこと・ お肉などの値札はほとんど見えない事などを知ったとともに、 人の目線も痛い位感じてきました(||゚Д゚)ヒィィィ(゚Д゚||) そして、買い物を終え、かえってきたら 調理実習。 利用者さんに材料のきり方や炒め方、 すべて一から確認して、利用者さんの食べたいと思う手順で カレーを作ります。 そして、そのカレーで昼食。 昼食後は、2グループに分かれ、利用者さんとヘルパーさんの 行動を少し離れて見学する、実習。 これまた駅周辺を2時間。 ウロウロと後ろをついて回る・・というものでして、 人の目線を感じまくりました(;´▽`A`` そりゃそうです。 車椅子の人がいるだけで見られるのに、 その後ろに6名程の大人が、無言でついてるんだもん(笑 私のついた利用者さんとヘルパーさんは 駅向こうのスーパーへ画材を買いに行かれ、 駅を通過して、お昼に行った大型スーパーへ。 お花をみたり、木材売り場をウロウロしたり、 カー用品をみたり。 普通にウインドウショッピングもされてました。 地元なだけに、知り合いに出会うかなと思ってたんだけど、 誰にも出会わず(多分)一安心でした(A;´・ω・)フキフキ 最終日はほとんど外へ出て動き回る、まさに「実習」で終了しました。 思い出すことの多い3日間で、修了時に 「亡くして間がないから、今すぐ働いてくれなくていい。 待ってるからね。会えて嬉しかったですよ」 と責任者さんに言ってもらい、号(┳◇┳)泣しちゃいましたね(苦笑 笑ってサヨナラしようと思ってたのに・・・・(;´▽`A`` 色んな思い出を思い出し、 新たに色んな気持ちが渦巻いた3日間でした。
2009年06月28日
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講義2日目。 前日の講義の後、帰って3枚のレポートを仕上げないといけなくて 少々寝不足状態で二日目を迎えました。 2日目は今回の研修を開いてる事業所の代表から コミュニケーションについての講義と 滋賀県自立支援センター代表の方からの講義。 この方は自身も脳性マヒの障害がある女性。 この女性・・・。 発言内容がまるで父そっくりだったの。 自身がヘルパーに何を求めるかを話してる、その内容が まるで父かと思うような発言で・・・。 ・自分達は自分で動けないから、ヘルプしてもらうのに、 例えば、痒いところ一つかいてもらうにも、ものすごく沢山の 言葉を使わないと伝わらない。 そして伝えようとする事はものすごい体力を消耗させる。 ・ヘルプに来てる筈なのに、何故わかってくれないのか! 何故わかってくれないの???? と強く思う。 そして冷静になってみて自分の態度を反省する。 ・ヘルパーは帰れば違う世界があるが、利用者はずっと家の中に 残される。逃げ場がない。 「もう誰とも喋りたくない」と思うときが多々ある。 などなど・・・・。 この「何故わかってくれないの??」という発言から 私はもう堪えていられず、どばーっ (┬┬_┬┬)(苦笑 ・・・。父も、ずっとずっと 「わかって!わかって!」と訴えかけていた事を思い出したから。 二時間目以降はずっとPTさんの講義&実習でした。 このPTさん。 びわこ学園医療福祉センターの理学療法士さんで高塩先生という方。 この高塩先生。 すばらしい!!!!(笑 普段は脳性マヒの子供達と関わる仕事をしながら 赤ちゃんの研究などにも力を尽くし、 日本のみならず世界を飛び回り精進されている男性。 赤ちゃんのような丸刈りの姿もキュート(笑 実は、私にこの講義を受けるよう、進めてくれた人は高塩先生とも 親しくお仕事されてる方で、この高塩先生の講義を聞くこと。 これは滅多にできる事ではないから!!と強く勧めてくれたんです。 「絶対感動するから!」と。 その通り、本当に感動的でした。 殆どが脳性マヒの障害についての講義でした。 何故なら重度障害の方のヘルプに入るということは脳性マヒの方と 沢山関わる事が増えるから。らしいんだけど。 一口に障害といっても色々ある。 そのタイプを見分ける事の大事さ。 そしていかに私達の視覚や聴覚が持つ情報が危ういものかという認識。 出来ているつもりでも、いかに「他者理解」が出来ていないか。 などを分かりやすく教えてもらいました。 そして 肢体不自由者を「物」としてでなく「者」として 「生きる」事への心理的支援が必要なこと。 非定型として生きるが故に生じる困難さを支援すること。 そのままの状態を認め、決して自分の世界に入れようとせず その人の世界を認めること。 自分と違うものを受け入れる事は苦手で、「無知」な事は 怖いものだと知る事。 今出来ている機能も数年後には失うかもしれない。 その失ったときの辛さを想像すること。知る事。 一生を通じたプランを立てる事。 介助の仕方を実習してもらう前に、 まず「正しく知る」事の大切さをじっくり講義してもらいました。 その後、実習へ。 ピチピチの学生さん達とグループを組んで、 寝返り介助の仕方や立ち上がらせ方など。 一日の終わりになって、高塩先生はこうおっしゃいました。 職員(在宅の場合はヘルパー)により介助方法が 様々だと混乱を招く。 なぜ、この介助方法を行っているのか。 理論立ててきちんと説明できるようになること。 「いわれたから」ではなく、自分で正しく利用者さんの体の状態を 理解して、介助を行う事。が大事。 最初にきちんと学べないまま年数だけ積んできた人は キャリアが長いというだけで、 ベテランになっても、もう直せない。 「私はこれでやってきた」と言って受け入れられない。 こうならないように、いつの時、誰の時でも、 「正しく理解する」事。 同じ病であっても、一人ひとりケースバイケースで 状態も痛みも違う。 そのことを忘れてはいけない。 理学療法士さんの講義ということで、 実践的な実習がメインになるのかと思ってたんだけど、 「心」の部分に長い時間を割いて講義をされたのは、 ご自分が現場でいろんなことを経験されてきてるからだろうと思いました。 もちろん、技術的な事や体の仕組み、姿勢ケアなど 実務もたくさん教えてもらったんだけれど。 二日目を終えて、何よりも 父が生きている間にこういった事を聞いていれば、どれほど心強かっただろうと思ったし、 父に聞かせてあげたかったな。と心底思いました。 それから、たとえば、患者会などでいつもグループミーティングを 行っているけれど、それよりこういった講義のほうが どれほど患者・家族の心を軽くしてくれるか・・・と痛感しましたね。 残るは一日のみ。 利用者さんと町へ出て買い物をし、料理を作る。 そして一緒に食べる(笑 これですべて終わりです。 資格を取得したからといってお仕事があるかどうかは わからないんだけど、 本当に意義のある充実した二日間でした♪
2009年06月25日
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先週末。重度訪問介護のヘルパー資格を取得するために研修に出かけてきました。色々悩んだ末。不安を抱えつつ、緊張しつつ。ピチピチの学生さんに混じりつつ。(笑私の想像では、一般的な話しばかりできっと退屈するだろうなーって思ってたんだけど、それは180度違って、どの講義もとても感動的でした何を聞いていても亡き父の事を思い出すし、今闘病中の友人達の事を思い出すし。一日目は「泣いたらアカン!!!泣いたら目立つ!!(笑」と思って我慢できたんだけど、二日目は一時間目から号(┳◇┳)泣一回堰が切れるととまりませんでした(笑寝返りの実習しててもウルっとしてるのは私だけだった(笑まずは。一日目。一時間目は市役所に勤める聴覚障害のある女性が講師でした。ご自身も障害があるため、障害者の気持ちがとってもよく理解できるお役所の方ということで、「重度訪問介護の制度とサービス」について講義を進めてくれる中でも、お役所目線ではない講義でとても聞きやすく共感しやすく・・・・。聞いてると、「この人が福祉課にいる時に相談行きたかった」と心から思いましたね。お役所の方々とは結構バトルしましたから。わたし(笑その後、一時間目の講師の方と、脳性マヒの障害がある男性との対談という形で二時間目が始まりました。自分でボランティアを集め、独居生活を送る男性のお話しからは「自分にとって市町村の役所は一番身近であってほしいのに、 一番遠く感じる」など、痛感できる台詞が沢山飛び出し、涙を堪えるのに必死でした。30分の昼休みを経て3時間目。実際ヘルパーとしても働く男性のコミュニケーション術についての講義と、グループに分かれてのディスカッション。5時間目。看護師でもあり、ヘルパー業もこなし、看護学科で助教授をしてる女性の「医療」の面からの講義が2時間続きました。この時は「ALS」を題材に、ヘルパーの痰吸引の問題や、緊急の事態が起こった時の対処の仕方などなど。現実問題、避けて通れない怖い話なども聞いたり・・・でも、お話しを伺う限り、素敵な看護師さんで、これまた「父の入院の時にこんな人が居てくれたら良かったのに~」と寂しく思いました。現実、病棟のナースさん達は色んなお方がいらっしゃる訳で・・・(苦笑とにもかくにも、身も心も充実した一日でしたそして、父が亡くなって以来、始めてっていうほど、色んな事を思い出した日でもありましたね。「ウン゚.+:。(*-ω-)(-ω-*)゚.+:。ウン」「そうやねん°・(((p(≧□≦)q)))・°」って思う事ばかりでしたね。この日は帰ってすぐ、3枚のレポートを書かないといけなかったんだけど、殆どが父を介護してたときの事ばかりになり、レポートというより個人的日記のようになりましたとさ(笑二日目はまた後日。
2009年06月22日
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色々悩みましたが。週末、重度訪問介護の研修を受けてきます研修受けたからといって、何かに繋がるかどうかは分からないけれども。実り多いものになればいいなぁ~。今の私に一日机に座って勉強できるでしょうーーーーか????(笑こうやっていつもお世話を楽しんでた娘達にヘルパーの話をしたら羨ましがってました( ̄∇ ̄*)ゞ「またしたい!!!」んだそうです勿論、おじいちゃんの。だそうですが。(〃 ̄ω ̄〃ゞ
2009年06月18日
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前回、ここでぶつぶつと呟いた事だけど。父を亡くして半年。ずーーーーっと頭から消えないモロモロと、少しずつ向き合って暮らしてきて、段々少しずつだけど、ヘルパーとして父のような障害を持った人と生活できたらな・・。そんな事が「仕事」とできたらな。と思うようになった。私は裕福でもないし、ボランティア精神溢れる人間でもない。だから、あくまでも「お仕事」として。なのだ。これまた悩んだ事だけど、この「お仕事」私のような元家族がヘルパーとして例えば同病の患者さんの元に入った場合、「お仕事」と割り切れるだろうか。元患者家族ゆえに、感情が芽生えすぎて、「ウザイ」んぢゃ?とか(笑ウザイっていうよりも、大丈夫か?自分。って事も自信ナッシングでも色々悩みながらも、ただ迷ってても仕方ないので、その道のエキスパートで私がとても信頼を置いている人に相談してみた。実は滋賀県にも年に1度(2度あるのかも?)事業所主催の重度訪問介護のヘルパー要請研修を行っている。彼女はこの研修でも講師を務めたりする人で、実は去年父が亡くなる丁度その頃にもこの研修は催されていた。私もこの研修で資格をとって、父の夜間の介護に入ろうと思っていたし、父もそれをすごく楽しみにしていた。結局間に合わなかったけれども。・・・話はそれちゃったけど、彼女に「また研修の予定があるなら教えてほしい」と連絡をしたのね。そしたら「急なんだけど、情報が入ったから!」と詳細を教えてくれた。それが今月。なんだよねーーー(;´▽`A``しかも、予定あり。の日w( ̄△ ̄;)wおおっ!何故にこんな急に!!!!(笑これを逃せば次は年末か・・・??(ーΩー )ウゥーン迷う・・・。気持ちはある。すごくある。でも気持ちの整理が出来てるのかは自信がないそれに詳細を読めば読むほど、難しい事ばかりで私に勤まりそうもない気がする(笑でもでも迷ってる時間がない♪~( ̄ε ̄;) そうそう。これまた迷ってる時間がない。話。実は色々モロモロあって、今月頭から、とある病院で受付のパートをはじめてます。週1だけど(笑全くはじめての医療事務の世界。迷ってる時間がないくらい、忙しい!!!!何もかもが始めてで、プチパニックを通り越して完全なるパニック状態。仕事が終わる頃には脇汗でまくり(笑5歳は老けたな、絶対(笑
2009年06月10日
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父を亡くして半年が過ぎ、今でも実家に行くと、お仏壇の中で笑ってる写真を直視は出来ないけど、段々、現実として受け止められるようになってきたかな・・・いやいや、全然受け止められてないな。なーんて、揺れながらも日々元気に明るく過ごしています。父の晩年を思うとさ。やっぱり告知された頃・そして呼吸器を諦めた頃。この頃の事がやはり一番辛く思い出される。私の父は得体の知れない病と出会ってしまったし、綺麗事では言い表せない位、本当に大変な3年間だったけれど、でも父がALSを発病したおかげ?で、多くのものを得られたのも事実。病気を通して、私の娘達は「病・死」という人間が生きていたら誰もが通過する当たり前の現実を知り、受け止めて前を向く強さをもらった。今では二人共「大きくなったらお医者さんか看護婦さんになる!」と言ってるし、杏なんかは、アホでは看護婦さんになれない。と勉強も頑張るようになった(笑私には、父のおかげで、大事な大事な友達を与えてもらった。その友人達に私は何もできない。父の時に何もできなかったように、今もまた、大変な思いをして毎日を生きている友人達に何もできない。できるなら毎日順番に彼女や彼らの元へ通って暮らしたい。夜間は泊り込んで過ごしたい。絶対楽しいと思うから(笑父を亡くして半年。今までは同病の患者さんと出会う事なんて辛くて考えられなかった。でも、きっと私達が通ってきた同じ道で悩んで苦労してる患者さんや家族が沢山居る。同じ道を通ってきた人間として、介助に関わらせてもらえたらうれしいな・・・と少しずつ思うようになってきた。父は亡くなる数日前、私が重度障害者のヘルパー資格をとろうかなと思ってると話したとき、嬉しそうだったし、楽しみにもしていた。だから。そういったお仕事を出来たらな・・・とほんのり思い始めている。・・・ほんのり。ね。
2009年06月04日
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忘れる事のない2008年という年も残るところ後1時間と少し。クリスマスや年越しを過ごすとき、居て当たり前だった人がこの世に居ない事が信じられないような気持ちでいっぱいです。佑は最近おじいちゃんの戒名を覚えた事がうれしくてずっと長い戒名を口ずさんでます(笑そして戒名が書いてある紙をみて漢字も写し書いてみたりして遊んでいます(笑何度も何度も戒名を呼ばれ、天国に上ろうとしてるおじいちゃんも、ずっこけている事でしょう(笑残された家族が悲しみすぎていると心配して天国にいけないよ・・・とよく言われます。いっそ天国など行かず、お化けになって周りをウロウロしてくれたらいいのに。と思ってしまいます(^^;;あと少しで新しい年。今年はココには書ききれない位、思い悩んだ一年でした。来年はどんなかなー。がんばろ。隣で杏は、笑ってはいけない新聞社をみて爆笑しています(笑よい年越しです( ̄∇ ̄*)みなさま、素敵な新年を( )')chu♪
2008年12月31日
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御通夜を終えた夜。母や弟は葬儀場に泊まるため、私と子供達は実家へ泊まりました。父がずっと使っていた一階の和室に子供の分の布団を敷いて、私は父が使っていたベットに横になりました。真っ暗な部屋の中。暗さに目が慣れてくると、天井の模様もよくみえる。近くを走る国道ではずっと車の走る音がしていて、時々思い出したように隣のリビングで寝てるダックスがソファーから飛び降り水を飲みに行く音が響く。新聞配達のバイクの音や、早朝出勤に出かける近所の人の音など案外色んな音で溢れている父の部屋。暗闇の中で朝が来るまで身動き一つできずにいた父の気持ちが少しでも感じられたら・・・と思って父のベットに横になったんだけど、眠る事はできず・・・。父も眠る事は出来なかっただろうと思いながら起きていたんだけど、暗闇でもそれなりに賑やかな夜を過ごしてたんだなーと思えて何だか少しだけ、ホッとしたりもしました。亡くなってから御通夜まで日が少し開いたので、父とは長く一緒にいられたし、その間にこんなのも作りました。父は写真を撮るのが好きで、歩きにくくなってからも自分で現像しに出かけたり、写真整理もしてました。だから沢山沢山闘病中の写真があるんです。その中から抜粋したものを、葬儀会場入り口に飾りました。リハビリを頑張る姿障害者手帳をもらい、障害者用プールへ通ってた頃。水着に着替える事も必死な状態なのに、一生懸命だった。杏ともここのプールで泳いだりしてました。歌が大好きだった父の最期のカラオケ。自分のロレツの回らなさに爆笑する父。佑との公園デビュー。頭の絆創膏は足に症状が出ていて転倒し縫った直後だから。この時父はベンチに横になり、自分一人では起きられなかった。起きられない自分に笑ってる写真。治験で大阪の病院に入院してた頃。 足に症状が出始めた頃行った家族旅行と登山の写真。りゅうちゃんやオルちゃん達が来てくれた時の写真。父のお棺には、いつも着ていたコートや杏が初めて手編みした真っ赤なマフラー、孫達からの手紙。絵を描く事が趣味だった父が使えるように画用紙や色紙と色鉛筆。病気が分かっても吸っていた煙草。いっつも片手にしてたワンカップ酒。そんなものを一緒に入れました。ワンカップを買いにスーパーへ行った時は、お棺の中に入れるものを買うだなんて辛すぎて、酒コーナーの前でグズグズしてたら、隣のオジサンに「そんなに悩んでまで酒が好きなのか」って顔して見られました(笑私達が病室へ着いた時、父の状態を表す機械はすでに死を意味してたのに、杏が来た事を叫ぶと、少しだけ状態が戻ってきた父です。初孫だった天然娘を愛してた父と、そんなおじいちゃんが大好きだった杏。お棺の上に供える花束は、杏が一人で捧げました。骨あげの時も杏は怖がらずちゃんと拾ってました。案外強い子みたいです。でも、おじいちゃんが亡くなってから、私にくれる手紙には絶対に「長生きしてね」と書いてます。・・・やっぱり大事な人が逝ってしまうことって怖いんだよね・・・。私も怖いです。大事な同病仲間には絶対絶対ずっと生きてほしい。父の仏前に、どんなに好物を並べても、どんなに御参りしても、満たされない大きく欠落した気持ちがあります。発病当時から食べられなくなった父。仏前に並ぶ好物をもう何年食べてこなかったんだろう。生きてる間に食べてほしかった。と、どうしても心のどこかで思ってしまう。死んじゃったら、もう何もしてあげられない。って。最近では知らない間に泣いてるなんて事は減ったけど、その代わりに何もかも嘘に思えて仕方ありません。今でも病院に入院してるような気がしてしまいます。一刻も早く治療法がみつかりますように・・・。
2008年12月05日
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父が逝ってしまう前日。19日水曜日の夕方。パソコンの呼び出し音でナースコールを鳴らせるようにパソコンを自宅から持ってきてほしい。と父は話していました。私が重度訪問介護のヘルパー資格を取ろうと考えてる事を小耳に挟んでたようで、「なつあんはヘルパーの講習受けるのか?」と聞いてました。「講習受けて、退院したら夜間ヘルパーとして入ったげるから!」と答えると、「お母さんが限界やから頼むわ」と返事が返ってきました。「カーテン閉めて」と言われ、「レースだけ?分厚いのも閉める?」と聞くと笑ってました。帰り際には「ありがとう。きをつけて。また来てや」と言ってました。19日深夜、主人は飲み会で、1時頃駅まで迎えにいきました。その道中、月が本当に綺麗でした。私が住む所は山に囲まれてて、田舎な為、夜は真っ暗です。月灯で、真っ暗な世界が明るく見渡せるほど、綺麗な月でした。父の部屋のカーテンを閉めて帰ってきたことを後悔しました。今から病院行ってカーテン開けてあげたら、月が見えるかな。と考えていました。次の日パソコンを持って行くなら。夜の間エンドレスでDVDをつけておけば、寂しくないだろうと思い闘病中、沢山記録していた父との散歩や旅行のビデオを夜中に何時間もかけてDVDにダビングしました。ダビングが終わって、1時間ほどウトウトした時に母から電話があり・・・。病院へ向かったのです。私はビデオをダビングしながら、まだかろうじて会話が出来た頃の父や歩けている父の姿を見ながら明日病院へ行ったら、「もっともっと生きてほしい」と伝えようと思いました。「頑張って退院しよう」「死んでもらったら困る」と伝えようと。呼吸器云々の話しではなく、ただただ、「生きていてほしい」それだけ伝えたかった。それを伝える事は無責任に思えて、ずっと口に出せずに居たから。私にそう言われる事が分かってたからこそ、そう言い出される前に逝ってしまったのかな。父はこの日19日、母に「もう終わりにしたい」と伝えたそうです。闘病中弱音を吐かなかった人です。ずっと病気とも制度とも世間とも闘ってた人です。お父さん、自分から終わりにしちゃったの?心穏かだったの?と聞きたいです。 写真は去年、胃ロウ増設手術の前に、孫たちと。
2008年11月27日
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いい顔してるでしょ?遺影に使った写真です。必死に踏ん張ったら立てる。そんな時期に映された写真です。信じられません。先週の火曜日にはまだ父は生きてました。丁度一週間前。家族揃ってお見舞いへ。その日父は、主人に遺言のように語りかけ、28日の母の誕生日のお花を注文しました。「わたしは財布持ってないから、お金は母からもらってね」と笑いを入れて会話をしました。そして杏と佑にも。「杏ちゃんも佑ちゃんも、大好きやで」と。今回の入院中、ずっと父のまなざしは柔らかく温かかったように思います。それは覚悟のようなものがあったんだと思います。孫へのメッセージを残した後、妹家族が帰宅した丁度その時間。病室には私と杏だけだったその時間。父が苦しみだしたんです。全身から滝のように汗を流して、目を見開いて・・・。看護師を呼んで吸引してもらっても、状態はよくならず。。。看護師が部屋から出た後も私はずっと一人で胸を押し続けてました。すると・・・。何回も呼吸をやめてしまうんです。体を叩いて「ちゃんと息しないと!!!」と叫ぶと思い出したように、弱く呼吸をしてくれるんだけど、またやめてしまう。このままだと私が一人で看取る事になるんじゃないかと怖くて怖くて・・・。結局数十分したのち、母が病室に入ってきて、二人でまた看護師を呼んで。かなり深い位置まで入れてもらって吸引をしてもらう事ができ父の意識も戻ってきました。ベットがびしょびしょになるほどの汗が出るくらいの状態だったのに、意識がハッキリしてくると途端に「時間が遅くなってしまったから、帰ってくれていい」と私達家族への気配りをしてくれていました。あのときの恐怖がずっと拭えません。結局父は水曜の夜中に急変し、木曜の早朝に息をひきとりました。急変した時、一人だったはず。あの状態が再現されたのか、眠ったままだったのか。。。私には分からないけれど。どうしてもそんな想像が頭から離れません。息をひきとった後に家に戻ってきた時の顔は笑ってるように本当に驚くほど、素敵な顔をしていました。「嘘やで~~~」と笑いながら目を開いてくれるかのように。子供達も全く怖がることなく、何度も何度も「温めてあげるー」って顔をなでまくるくらいに穏かで柔らかい笑顔のままでした。その顔がせめてもの救いです。うーん・・・。続きはまたこの次に・・・。
2008年11月25日
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11月8日父が肺炎からくる呼吸苦のため緊急入院した。鼻から酸素を入れ続けているものの【苦しい】「苦しい」と繰り返す。胸を押しての呼吸介助を続けて、やっとウトウトできるくらい。とにかく 苦しい のだ。苦しいから体位も決まらない。向きを変え、頭の位置を直し、足の位置を直し、吸引をする。その2分後位にまた「向きかえて」との要望がある。殆どずっとその繰り返し・・・。体をマッサージし、胸を押し、右をむいても左をむいても、車椅子に座っても、苦しさから開放される事はないようだ・・・。医師は酸素を入れている数値が高いので血中二酸化炭素の数値を心配してる。二酸化炭素の数値は今現在で60だそうだ。だから、吸入してる酸素の数値をせめて「3~4」に。と言うんだけど、父は「7~8」でも苦しさを訴えるので、3~4なんてとてもじゃないけど、我慢できない・・・。今私達家族は退院できる日を願いながら、アバラの浮き出た体をさする事しかできない。
2008年11月16日
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幼稚園の運動会も無事終わり、私の靭帯も大分痛みがなくなりました!肺炎後の喘息はまだ残ってるものの、眠れないほどではなくなり大分復活の兆しです運動会は雨の為延期になり、水曜日というド平日に行われたものの、主人は半日休みを取って観に来てくれたし妹家族も観に来てくれて賑やかに過ごせましたー パンダと小鳥おにぎりさて。話しは変わって。わくさんから長~~~い間お借りしたままの折りたたみ文字盤。父に試してみたところ、もう少し一文字づつの枠のサイズが小さいほうがいいと言う事で。思案中。こんな感じで進んでいます。A4サイズの紙4枚に印刷してあります。この状態で使えそうなら、透明シートに印刷し、ラミネートしようと思っています。50音以外のスペースも作りました。「上・下・みぎ・左・口・テレビ・WC・寒・暑・ 吸引・座・寝・◎・×」と入れてあります。「こんな文字入れて~~~」と言ってもらったら簡単に作れますお作りして送りますよ~~~*:.。*(●´∀`)八(´∀`●)*。:*・'日曜の子供達と父の様子。子供達は医療用の手袋をはめさせてもらって「バチスタ手術です」と言いながらノリノリでマッサージしてました(笑すぐに飽きちゃうんだけどね(笑
2008年10月22日
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昨日はアイの実家へ里帰り散歩に行ってきました去年の五月に我が家にやってきて以来、一度も里帰りをさせてなかったアイ。歩いていける距離に実家があるんだからもっとマメにつれてってやらないとダメだねーー@(;・ェ・)@/反省…アイは、お母さん犬より姉妹犬より一回りデカかった(笑元からデカかったんだけどね(笑ママ犬ロンに似てる(笑姉妹犬アイより一回り小さく大人しい美女。ママの毛色が少し混じった色をしてるアイは殆どパパ犬の茶色の毛色だし、サイズもパパ似だし一緒に並ぶと一番貫禄があったよー(笑一緒の所を写真に撮ろうとしたんだけど、動きが激しすぎて(^▽^;)それに、他のワンちゃんばっかり撮ってたからアイを撮るのは忘れてました(笑アイを実家へ里帰りさせた後、実家の両親と妹家族と共に我が家の近所へ花見にいきました満開の沢山の桜に囲まれて、気持ち良かった~~~!一昨年は父は歩いてて、一緒に花見に出かけた。近所の桜が咲き乱れる土手や山の中にあるお寺など。歩いてどんどんお花見が出来た。去年は佑だったか杏だったかが桜の季節に風邪をひき、父とはお花見に行けなかった。その時は「今年が最後の花見だったかもしれないのに」と心残りだった(笑でも今年も行けた(笑父の病状は進行してしまったけれどもね・・・。園内に居たのは一時間もないだろうし、車椅子のヘッドの位置が悪いと不機嫌だったし、「自分一人ココに置いて、皆で遊んで来い」などと言い出すオヤジだけれど(笑花粉にまみれたおかげで鼻はつまりまくり目ははれまくって、昨夜は殆ど眠れなくなったけれど(笑それでもやっぱり「桜」っていいねーーー
2008年04月07日
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ALSで寝返りも厳しくなってきた父からメールがあった。「スッポン足袋」って知ってる?私の子供のころの運動会は、これをはいて走っていた。和服を着たときに、はく足袋の底にゴムが塗られ、地道を歩けるようになっている。 今では、祭りでみこしを担ぐ人がはいているのを見かけます。どこかで、探して買ってきてー(*^。^*) 実は今、ベッドでズック靴をはいてます。これはシーツが滑りやすく、足の踏ん張りがきかず、寝返りがしんどいからです。 ところが、重いのと、無理をすると脱げてしまう欠点があり、スッポン足袋を思いつきました。よろしくお願いします。♪o(^o^)o。スッポン足袋?初耳(笑検索するもヒットしない。色々迷ってたら友人が「トビ職人の人が履くような足袋は?」と教えてくれた。それで検索するとこれにヒット買ってみた。父・履いてみた(笑快適~~!!とのことでしたーーー良かった良かったε=Σ( ̄ )ホッ今も夜はずっと一人で寝てるし、昼間も一人の時間が長い父にとって寝返りはとても重要!!この足袋を使うことで、足にふんばりが効き、寝返りも楽になってくれると嬉しい!上靴とは違って足首も固定されるので、(↑これは、りゅうちゃんが言ってた事。 なるほど!!と思った)それも相乗効果になってくれるといいな~~と期待してるんだけどもo(*^▽^*)oエヘヘ!
2008年03月23日
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今日は暖かい日でした。暖かいというより暑い位午前中はお友達の家へ遊びに行ったりしたので実家へは3時頃から行ってきました。丁度実家へ着いたと同時にお散歩ターーーイム!!!↑実家のさくらんぼの木の前でパシャリ 日差しがまぶしくて誰一人きちんと目を開いていられませんーーー(笑 この花が散ったら、美味しいサクランボの実が沢山実ります。 ミツバチも沢山飛んで来てましたよーー私はここで、皆を見送ってお留守番。帰ってきた皆は、沢山ツクシを抱えていました!先々週、父と散歩に出た時には全く顔を出してなかったのに、やっぱり急に春になってるって事よねーー父も満足したみたいで、両親共々穏かに帰ってきました(笑良かった良かったε=Σ( ̄ )ホッ今日は杏や佑を見て沢山笑ってたし、体調も良かったのでしょうか。こういう穏かな日は本当に貴重だし、子供たちも嬉しそう。沢山「芸」も披露してました(笑父が留守の間に、隠し撮りもしてきました(笑↓オペナビの下に貼ってありますパソコンの位置や父の位置が分かりやすく写真つきで印刷されています。誰が来てくれても分かりやすいように。という配慮から訪看さんが作成してくださったものです。本当にありがたい事です。↓ベットサイドに貼ってありますベットに寝てるときの腕の位置と文字盤を取って欲しい時の合図を記してあります。ついこの前まで文字盤を取って欲しい時は、親指を立てて指示したり出来たんだけど、もう指の動きもかなり難しくなってしまいました。今は手の中に握った風船でパソコン操作をしてるんだけどそれも中々難しい時があるみたい。。。でもね。つい最近はALSについても明るいニュースが続いてるよね。http://www.toonippo.co.jp/news_kyo/news/20080313010000311.asp「早くしてくれ!」という思いは消えないけど、それでも着々と「前進」してるのが伝わってきて嬉しくなる春とともに届いた明るいニュース。来年の春にはもっともっと確実なものとなってますように・・。
2008年03月16日
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父の病気はー感情失禁ーが特徴の一つといわれている。泣く・笑う・怒るいい年をした大人が箸が転げても涙を流して笑う(笑いい年をした大人がCM見ても泣く(笑いい年をした大人がテレビに向かって真剣に怒る(笑まだ身体的に障害が出ない頃から父の場合は感情失禁があった。「なんでそんなにイライラしてるのよ」って思ったかと思えば次の瞬間、ひーひーと笑ってるヾ(;´▽`A``アセアセ「この人大丈夫かいな」って思う位だった(笑そして「ALS」だと診断が下りた後、図書館で関連本を調べまくった私はこの病気の特徴である「強制泣怒笑」をみて愕然としたのを覚えている。「あ~あの時から父はALSに侵されてたんだなー」と思い当たる節が多々あり、「診断は間違いじゃなかった」と図書館で号泣したっけ・・「話す事ができない」「食べずらい」という所から発症した父はいつもいつも、涙流して大笑いしたりして当初は「強制笑い」が飛びぬけて強かった。もうずっと笑ってる。夕方になると、何にもないのに笑ってる(笑笑いを抑える薬を出してもらってた程だ。だって本人は笑いたくないのに笑うもんだから、苦しくって仕方ないみたいだったし主人の祖父の御通夜でも笑ってたくらいだからさ(笑「食べられない・話せない」症状はどんどん進行していき、それと平行して転倒を繰り返すようになり、お箸ももてなくなった頃から父の「強制笑い」は「強制怒り」に変わっていった。大好きだった登山もプール通いも出来なくなった頃から・・・。体が動かない。トイレも行けない。痒いところもかけない。それを訴える事も出来ない。常に空腹。常に便秘と下痢を繰り返す。水を飲むことも出来ない。「あそこが痛い」「ここをこうしてほしい」と言わない(言えない)父はどんどんストレスや痛みを自分の中に閉じ込めるしかない。そして苛立ち叫び声のような声がでる。神経内科の医者や、相談員という人達は今までに何十人・何百人の患者と付き合ってきて「ALS」の事なんぞ知り尽くしてるんであろう。在宅の過ごし方でベストな方法や、患者としてベストな患者というものも知ってるんであろう。でも。「あんた達は一日でも手足を拘束されオムツを履いて 話す事は許されず、透明の文字盤を使ってしか意志を伝えられない」生活をしたことがあるのか。と聞いてみたい。物知り顔で、頭ごなしに物を言う人達に。たとえ言ってる事が全て正論で正しくてもだ。「頭」で理解する「正解」と「心」で理解する「正解」にはズレがあるのだから。自分の関わってきた患者数の「データ」の一人として付き合うのではなく「○○さん個人」として向き合ってこそ医師であり、相談員なのではないのだろうか。「患者はこうあるべき。 こうしたほうがスムーズに進む。 言う事を聞くべきである」という気持ちは隠したつもりでも相手にビンビン伝わるものだ。例えば父の場合「なつあん父さんは頑固。すぐに怒る患者。」という事を前提として会話をする人がいる。大多数がそうだ。まずその「構え」が入る。これはあながち間違いではないけれど(笑)でもプロと言われる人達がまずその「前提」を掲げて話を始める。プロなのに。病気に詳しい関係者ほどALS患者の感情失禁を「病気」と捉えず同じ目線で喧嘩腰になる人が多い気がする。患者と喧嘩する。医者も相談員も。「私達だって人間なんだから」と正面きって通達した上で切れる。同じ人間だといっても、立場が全然違うのに。貴方達の発言は時には患者に「脅し」になるというのに。怒りに震え必死に物を伝えようとする患者をみて「また始まった」としか捉えられない。「心の動きや、訴えるまでの日常」に想像力を働かせて汲み取ってくれるべき立場の人までもが、「はいはい。この人はこれだから嫌われるのよ」とあからさまに表現する。こうなってしまっては患者はもう何もいえないし何にも届かない。だってあなたと同じようにスラスラ喋れないんだもん。一つの事を伝えるのにどれほど体力と精神力を使うか。関係者なら想像してみたら分かるだろーに。「呼吸器をつけて!頑張って生きていきましょうよo(●^∀^●)o」と、どんなに表面上言ってもね。「めんどくさい患者」と位置づけてる事は患者には筒抜けだ。在宅の看護師さんやリハビリの先生、そしてケアマネ。沢山の人に関わってもらって今の生活がある。決して好き好んで「介護してもらう」生活になった訳ではないけれど。この人達の介護がなければ、生きられないのも事実な訳だ。でもどうしても「合わない」人がいるのも事実だ。相性。健康な人がこの「相性が合わない」で付き合いをやめることは簡単だ。そしてそうしても特に取り立てて非難されることは少ない。でも「患者」がこの手の反応を見せると「わがまま」だとなる。上手く関係が築けないのは「お互い様」なはずなのに。我慢すべきは「患者」という事になる。「私達だって我慢して世話してやってるんだから。」と言うわけだ。心の底から患者の事を思って接してくれる人に、簡単に嫌悪感など抱くだろうか。心の底では別のことを思ってるから、それが患者に伝わり、患者は「NO」になるんだと思う。そして、そのことをスムーズに話せない、伝えられない患者は「わがままで面倒な患者」として口を閉じるしかない。「正論」で「私は間違ってない!!」と攻め立てられたら「やり場の無い感情」を抱えた患者や専門用語も日本の現状も知らぬ家族は返す言葉もなければ議論すらできない。私は患者のいう事が全て正しく、絶対だ。と言いたいわけではないし父が完璧ですばらしい人間なのに周りばかりが間違ってるといいたいわけではない(笑そこは誤解しないでほしい。でも現実に、「同じ病と闘う仲間のために。」という意志の強い人ほど「うるさい患者」と位置づけられる事が多いのではないだろうか。究極の身体的ストレスを抱えた上に、どれほど心を鍛えて生きていけば「あの人はすばらしい患者さん」だといわれるようになるんだろうか。でも。「すばらしい患者さん」になる必要があるのだろうか。誰にとっての「すばらしい患者」なんだろうか。このALSという病に患者さん達は選んで侵されたわけではない。皆出来うることならばALSになんぞ好かれたくなかったはずだしALSという病気がこの世に存在する事を知らないまま生きていけたら良かったのに。と思ったりもするだろう。でもこの「体に拘束される」病気には、「向き不向き」があるのではないだろうか。と痛感する。上手く折り合いをつけてALSと暮らしていける人と(折り合いなんてつけたくないけれども仕方が無いから折り合いをつけるのだろうけど)どうしてもどうしてもどうしてもどうしても折り合いがつかない人。とにもかくにも、私の父をはじめ、多くの友人達を苦しめるこの病が私は憎くてたまらない。憎くてたまらないのに、何一つしてあげられる事がない事に無力感が増すばかりな毎日が続いている。無力感をやる気に変えたいから今日はこんな事を書いてみた(苦笑書いたからといって何が変わるわけでもないんだろうけども(苦笑
2008年03月09日
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先日の杏の宿題で「今と昔。道具の違いを調べよう」というものがあった。杏は早速父にメール「昔の道具を知りたいから、今度聞くからそのつもりしててー」と。今週の日曜に実家へ行った時。父が何やら目と声で合図して「物を取れ」と言ってる。私と杏・佑は「これ?」「なに?」と全く分からない・・il||li(A´・ω・)その時父はベットで寝てたため、文字盤でも上手くやり取りが出来ず父もイライラ(苦笑)私もイライラ(笑)杏はオロオロ(笑お互いけんか腰で言い合いし、結局父の言うものを手に出来た時「しまった!!!」と思った。それは杏が父に依頼してた宿題だった。父は文書に印刷して用意してくれてたのヾ(;´▽`A``アセアセそれがこれ父は井戸水を使って生活してた頃の事を文書で詳しく書いてくれてた。私も杏もしばし気まずいムード(笑私も少々イライラをぶつけてしまったしヾ(;´▽`A``アセアセそして、昔の道具についてイラストを描かないといけない。と知った父。車椅子へ座る手の下に枕固い台紙に紙長いペンと、指令を出し・・・。どうやら絵を描いてやりたかったようなんだけど・・・。ペンを握る事も出来なかったので結局描けなかったの・・・・そしたら杏がウルウルしだしてしまってヾ(;´▽`A``アセアセ「描こうとしてくれただけで、、、。ありがとう。。。」と。(┯_┯) ウルルル・・・そしてそんな時間をすごした後、数日間、杏がメールを送っても父からの返事が無い日が続いたの。杏は特に何も言わなかったんだけど、密かに心配してたみたいでさ。3日くらいしてから、父から「ひどい下痢で寝たきりで、返事ができなくてごめんね」と杏にメールが来たとき、突然、杏ちゃん、号(┳◇┳)泣しちゃいました(^▽^;)ずっと心配だったんでしょうね・・・散々泣き喚き、それに便乗して佑も泣き喚き(笑今は父からのメールも来るようになったので落ち着いてますが。多感な年頃。しっかりフォローしてやらねば。と思う鬼ママです(笑そしてそんな鬼ママの私。最近mixiのお菓子コミュに触発されて(笑)お菓子作りに挑戦してます(笑何グラム。と計らないといけないスイーツつくりは大嫌いな私。でも「ずぼら」でも出きるというコミュに入り、本当に「ずぼら」に出来上がるスイーツ(笑とっても簡単です゚*。☆ヾ(´∀`)(´∀`)ノ☆。*゚豆腐ドーナツ卵白ケーキゴマ・チーズスティックパンを作りました(笑明日はチーズケーキを焼きます(笑
2008年01月25日
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今年のお正月。何日もかけて、父が作った「年頭所感」使い始めたばかりのオペナビで作ったものだ。是非沢山の人に読んでほしいと思った私。勝手に(笑)ココにも載せることとしました(笑年頭所感ある政治家がテレビで「人生には、登り坂と下り坂がある。そしてまさかという坂もある」と言っているのを聞き、なるほどと思った。私の人生を振り返ってきたとき、これまでの人生最大の「まさか」はALS(筋萎縮性側策硬化症)という病気に侵されたことであろう。この病気は、全身の筋肉が侵されて徐々に動かなくなり、寝たきりを余儀なくされ、最後には呼吸筋の機能が低下するために人工呼吸器を装着して生命維持をしなければならなくなる、苛酷な進行性の難病である。最初に筋肉が侵される場所は、個人差があり、足とか手が不自由になり発病に気付く人が多いが、私の場合は酒を飲みすぎたときのように、話をする時にロレツが回らなくなり、病院で検査。すぐには診断結果が出されず、半年ほど通院後、医師から自信なさそうにまた、気の毒そうに ALS という病名を告げるときに「この病気は影像や数値で立証できず、診間違いもありえる。また過酷な症状ゆえに得心がいくまで、どうぞ他の病院でも診てもらってください」と言われたその言葉の重さを最近感じるようになった。平成17年2月始めに口の異常に気付いてからも、会話が一年ほど可能だったし、難しくなってからも、手の機能が正常であったので筆談でカバーする事ができた。また、この頃は仕事もしていたし、休日には温水プールで水泳に通ったり、湖南アルプスや三上山登山をしたり、見た目も健康そのものだった。同時に病気に一方的に負けてなるものかと治療薬の効果を人体実験する「治験」の募集に参加して、平成17年9月から一年間、エダラボンという治験薬を4週間に10日、一日100CCを点滴注射するために大阪○○病院に120日通院してきた。ところが、この一年間の病状の悪化進行が早く先週まで出来ていた事が今日には出来なくなっている。そういうことが重なって元気を無くしてしまうには十分すぎるほど、過酷な病気であることを思い知らされた一年であった。足は立てなくなり車椅子の世話になり、手の力がなくなり物がもてなくなり、食事や排泄、着替え、入浴など全て自力で出来なくなってしまった。もちろん会話は出来なくなり、嚥下障害から肺炎を起こす危険回避のために「胃ロウの増設」を昨年10月に終えた。こんな環境下の私であるが、視点を変えれば恵まれていると思う一面もある。まず年齢が今年で64歳と平均寿命と比べると不足するものの、「人生60年」を全うする事ができた。さらに62歳の年金開始年齢まで働けたので、テレビでよく見る「ワーキングプアー」のような経済的不安もない。また何かと心配してくれる友人にも恵まれている。家族の愛情に、どっぷり甘えて暮らし、季節の移ろいを今後、何回数えられるかを楽しみに、定年後の特権である「毎日が日曜日」をゆっくり過ごして生きたいと思っている平成20年元旦 なつあん父去年の検査でγGTPが基準値の3倍であると分かった父。一体コレは何を意味するのか・・・。前立腺癌の問題も抱えている。ALSという問題だけでないのか、ALSがもたらす問題なのか、多くの辛さや痛み・葛藤やストレス、不安・・・色んなものと闘っている真っ最中である父。そんな人の今年2008年の年頭所感でございました(笑
2008年01月24日
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ALSと闘う父は昼間2時間ほど、夜2時間ほどは車椅子に座ってパソコンを使用している。その他はベットの上。体を横にして寝ながらTV。車椅子に座ってるときは肩や腕の筋肉がなくなちゃって、手を膝の上に置くのも車椅子の肘掛の上に置くのも辛い。手の位置が非常にポイントになる様子だ。そんな時。看護師さんがこんなのを貸してくれた。蕎麦殻枕が中に入ってる「手置き枕」これを参考にして作ってくださいといわれた母は蕎麦殻を買いに行ったものの、売ってなかったらしく綿を入れて早速父の為に作っていた。綿の入れ具合(堅さ)・枕の幅などなど微妙な調整が難しいでも完成してたよ!!片手に一つずつのものと、一本枕(長い枕にして両手を乗せる)を作ってましたー。ミシンの得意な人なので簡単にやってしまうけど、私のように手芸が大嫌いな人にとっては「見本見てやってみて~」と言われても難しい(笑なんてったって、ミシンの前に座ると頭痛が・・・il||li(A´・ω・)母は他にも、唾液に苦しむ父の為に口に咥えるためのタオルを小さく縫って作ったりしてる。(いつもはコットンを咥えてるけど、すごい勢いでなくなるしねー(^-^; 我が家にはコットンの箱が山積みになってるもん(^▽^;))タオルなら洗濯できるしね!!◆◇*─*◇◆*─*◆◇*─*◇◆*─*◆◇*─*◇◆今日のアイ日が差してきた庭でイタズラに夢中(笑干してあった洗濯物を小屋の上にひっぱり落としてこのあと、デッキの上で徹底的にやっつける(笑ここ最近ずっとこの遊びをしてる(笑8畳ほどあるデッキはアイの遊び場。室内ではトイレの失敗はないんだけど、デッキに出ると開放感からか辺りかまわず色んなところで、排泄(笑 Σ┗|゚д゚* | ナンデヤネン机に飛び乗ったり、飛び乗った机の上から獲物(ぬいぐるみ)に飛び掛ったりしてる。まるで、ネコだ(笑
2008年01月16日
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去年末からダウンロードして勉強してたオペレートナビ一ヶ月のお試し期間が終了しましたー。説明書を読むだけでは分からない、オペナビの操作の仕方。難しさ。一ヶ月ではまだ使いこなせなかったけど、大体のイメージはつかめました。そして父は・・・。メールは殆ど操作OK!スイッチ操作も早くなり、顔文字なども使いながら色んな人とメール交換を楽しんでる様子ですブログ仲間ともメールのやり取りを楽しんでるし杏とも殆ど毎日簡単なメールのやり取りをしてるネットのほうは。。。。同じ病と闘う仲間のブログも、何人かお気に入りに入れたものの、文字が小さいと全く読めないので閲覧する事は諦めてる様子。私も、以前仲良くしてもらってるALS患者のおじ様に「なつあんさんのブログは字が小さくて色が薄いから読めない」と言われた事があり文字サイズを少し大きく、色を濃く・・・と変更しました。この大きさでも見えづらいんだと思うんだけども・・・。一般的なHPなどは閲覧時の文字サイズを「最大」「大」などに設定しておけば、大きく写るんだけど、楽天などのブログって、変化なし。なんだよねー??確かに、父の年齢の人には読みずらいんだな~って改めて思いました。(↑追加 この「文字小さくて見えない」件は 早速やっちゃんからの助言で解決できました!(笑 父にもメールしてみたから、出きるかなー(^-^;) そして。最近は「顔に虫か糸くずがついてないか?」と聞くことがあるらしく、顔への進行が気になる様子・・・。むずむずしたり、びりびりしても、自分の手で押さえる事もできないのは私なんかの想像を超える苦痛なんだろうと思う・・・寝返りもどんどん時間がかかるようになり、布団は一枚も被らず寝るようになったし・・・。エアコンを一日中入れてるけれど、それでもやっぱり寒いよね・・昨日は佑の幼稚園(入園前のクラス)や佑のバレエ。杏のバレエ。一日中バタバタしてたのー。でもそんな中、朝から叔母(父の姉)から何度も電話が・・・。「風邪をひいてお父さんの事を見にいけないから、来てやってくれ」と(叔母は実家の隣に住んでいて、日に数回父の事を見に行ってくれている)心配だったし、何をおいても行かないといけないのかもしれないけど昨日は予定がビッシリで。。。トコちゃんのブログにも書いてたけど、主婦って暇で、時間をもてあましてると思われがちだけど子供がいると本当に子供の予定が結構詰まってる。4月から佑が幼稚園に行ったら少しは動きやすいのかと思ったけど、最近の幼稚園は、親の参加行事が異常に多いし役員などもきっとまわってくるので今以上に忙しくなる気配が・・・・父は「吸引も出来ない。胃ロウも出来ない。 オムツ交換をしても満足にできない。 家のことも「奥さんがおられるので出来ません」と何もしない。 生きてるか。だけを見に来る、そんなヘルパーなら要らない。」と、ヘルパーさんは全て断ってしまったので、父の所へ来るのは、一日に一度、お昼の胃ロウの為に来てくれる訪看さんのみ。訪看さんも、お昼に来て、父の胃ロウに点滴を繋いだら家を出て他の胃ロウ患者さんの所へ行く。そして父の胃ロウが終わる頃、戻ってきて、点滴を外し、帰る。私は、点滴の間に急変したらどうすんのよ?って思うんだけど・・・。どこもこんなやり方なのかしら・・?だから、昼間も殆ど一人な父。叔母が来てくれると言っても、叔母だって高齢だし。母は仕事がある。仕事は続けてほしいしね!ローンだってあるし、介護するには現実問題、お金も必要なんだし・・・。仕事休みの日はずっと父のお世話。普段仕事帰ってきても休む事なく父のお世話。母だって体力的にも限界に近いと思うー。母だってもうすぐ60だしね。私にももう少し、自由に走れる身軽さが欲しい・・・――(-ω-;)―→グサッ!!!
2008年01月16日
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昨日。日曜日。私の力作を持って実家へ。持って入った時は、あんなにデカク黒い存在なのに軽く無視(笑その後も、それに触れることなく時間がすぎ・・。私の力作は棚の後ろへ移動され・・・昨日は特に力作について説明する事もなく帰ってきました(爆笑何故???あんなにデカイ物体を無視???(爆父にとって、私の力作より、孫の力作のほうが余程嬉しかったらしく(笑杏が最近パパへマフラーを編みました。お祖父ちゃんにも編んであげる!!と赤い毛糸を買いに行き、せっせと編んで、昨日完成したんですーーー(^^;;ジイジ、にこにこ(笑何回も杏に文字盤で「ありがとう」を言ってるじゃん!!??あたしにもタマには言ってくれ~~~~(笑せっかく編んでくれたんだから。とマフラーをして散歩に行こうと言ったので、近所の神社へ初詣を兼ねて行ってきました似合ってます??子供達はお年玉で買ってもらったお気に入りのブーツを履いてますじいちゃんも遠くからお祈りしてましたよーー内心、私の力作は誰かに譲ろうか。と思いながら帰ってきた昨日(笑今日はEO光の工事の日だったので、杏を友人宅に預けてまたまた実家へ丁度父はデイに出掛けてたので、その間に設定だけして帰ろうと思ってたらPCに内蔵されてるはずの受信機が上手く働かず中々繋がらず・・・。結局サポートセンターの人と2時間くらい話して教えてもらいながら繋ぎました~~~ヘトヘトですでもこれで、メールもネットもOKになった!!!強引に「これ見てやってみて!!」と力作も置いてきた(笑そしたらさっき父から初めてメールも来た「本日は、ありがとうございました。」って。このメールはロックして残しておきましょうーーー((笑´∀`))
2008年01月07日
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お正月。少しずつその気になってきたのか、父がオペナビと格闘をはじめた。「所信表明」みたいなものを打ち込んだり。横須賀へ帰ってしまう弟にメッセージを打ち込んだり。「漢字変換はどうするの?」「文字のサイズを変えて」などPCの事で私への質問も増えてきた。よしよし(笑オペナビを自分のPCにダウンロードして半月以上、待った甲斐があった(笑といっても、使用期間は後10日も残ってないんだけどね(^^;;一応業者さんから説明書の冊子はもらってるけれど、自分で冊子をめくって読んだりできるわけもなく。一応オペナビのキーボードの中にガイドも入ってるけれど細かい文字を読みながら操作するのは大変な労力が必要で。と、いうことで。自分が使ってみて感じたものと、業者さんからの説明書をミックスして、説明書を作ってみた。A3用紙に12枚。拡大コピーしてダンボール風プラスチック素材に貼り付けた。これだと、すごく軽いし、希望の位置に立てかけたり壁にかけたりも可能だから。それに小さい字は父には非常に見づらいし。じゃじゃ~~~~~ん用紙6枚をはりつけた板を2枚並べて撮ったらこんな感じ↑(携帯をサイズ見本においてみました(笑)) 基本操作 ウインドウズ操作ネット操作他にもメール操作。などを作りましたー。ダンボール素材ってこんなのよーー分かるかな?中がダンボールみたいになってるのー。切るのも折るのも楽々だし軽いしね!色んな色もあるこれから届ける予定です。さて。気に入ってもらえるでしょうか。「そんなもんイランわ」と言われたらどなたかにお譲りします(笑
2008年01月06日
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1日は実家へ行って参りました。三が日は看護師も休みだったので、1日は父の見守りに入ってくれと母から頼まれてました。でも結局色々あり実家へ行けたのは昼過ぎてから・・・Σ(T□T)父のお姉さんが見守りに行ってくれたりしたので本当助かったんだけど・・・。大晦日も元旦も、ハァ(*´・Д・`)=3とため息連発の私・・・だから年末年始は嫌いil||lil||liΣ(´Д`ハァ)il||lil||li 1日実家で家族合流した時は父も体調がすぐれなかったのか、機嫌も悪くて余り会話もせず・・でした。機嫌悪くテレビをみてるので、子供たちも、周りをウロウロしながら遊ぶものの、余り父とは絡まず(苦笑私は、家族みんなで夕飯するのかなって思ってたんだけど父は父の部屋で胃ロウ。皆はリビングで夕飯でした。父にとって、寂しいお正月だったんじゃないかと思うけど全く食べられない人の前でガツガツ食べるというのも気が引けるし・・。でも、一緒に食べないというのも気がかりだし。。。という時間が流れていき・・・。父は何か食べたいので御節料理をミキサーしてくれって言ってたみたいだけど、もう殆ど食べる事の出来ない人にいくらミキサーしたと言っても、安全に食べさせられる御節料理って思いつかず・・・お雑煮の汁は飲んだりしたんだけどねー・・・。結局プリンを少々。で終了でした・・・。結局その後も父はテレビ。私は Wii Fit を持参してたので、父の部屋でやろうと思ってたんだけど父は毎週かかさず絶対見てるテレビに夢中だったので結局またリビングにて遊ぶ事に・・・。一人でテレビを見てる父には申し訳ないけど、ゲームは盛り上がった(笑みんながゲームをしてる間、私は父と一緒に年賀状の住所整理などをしてました。誰にでも頼めるようにパソコンの起動方法を書き出すよう頼まれ、書いたりしたり。色々お手伝いができることはうれしいことです。普段余り色々言わない人なので「あーしてほしい」「こーしてほしい」と言ってくれることしか手を出しません。余計な事したら怒られるし(笑だからハッキリと頼まれると動きやすいので、嬉しいですなそしてそして。モロモロの作業が終わったら、父は住所録をみせて「自分が亡くなったら喪中案内を出すように」と(笑「了解。任せとけ!!」と言ったものの「大体が、1日からそんな事言うなって!!(笑 来年の正月も同じ事言うんちゃうん~~??(笑」と笑うしかない(笑その辺りから父もニコニコ顔になってきて子供とも話したりして゚*。☆ヾ(´∀`)(´∀`)ノ☆。*゚無事に元旦を終えました(*^□^*)去年の正月は歩いて初詣にも行ったなぁ~・・・。お餅も少しずつだけど食べたなぁ~・・。一緒に座って夕飯食べたし、食事介助もしたなぁ~・・・。などなど。思う事は溢れてくるけれど。来年の正月はどうしてるだろう。と不安も溢れてくるけれども。でも。今の事だけ考えて今年も頑張りまっす
2008年01月04日
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昨日は朝から年末恒例「餅つき大会」勿論、敷地内同居の義両親宅にて。丸餅やお鏡など、手を真っ赤にして丸め続けてきました実家の父は御餅の大好きな人でした。(でした・って書くと「過去」の人みたいだ(笑))いつも、ラーメンにお餅を入れて食べたりしてたなー。特に、病気が発症した頃(まだ自覚症状が余り無い頃)体調が悪かったり、疲れやすかったりしたようで、仕事の無い日はラーメンにニンニク・餅・ご飯という組み合わせをよく食べてて「炭水化物ばっかりやんけ!!」と笑ってました(笑餅つきをすると、そういう事を思い出します。今年の正月も、「絶対のどにつまる!!」って家族中で反対してるのに雑煮の餅を少しずつ食べて、結局つまらせたりしてました(笑さて。御餅つきがおわったら、午後からは実家へ行ってきました~昨日、横須賀に住む弟が帰省したので、家族で「モツ鍋ぱーちー」父もお鍋の「汁」だけ飲みましたよ♪明日は「雑煮」の「汁」は飲む!!!と言ってるそうです(笑でも昨日はとにもかくにも不機嫌モード炸裂昼過ぎに実家へ着いて、結局夜8時くらいまではずーーーーっと怒ってました(笑余程体調が悪いのか、吸引も30分おき位だったし孫が居ても、弟が帰ってきても、無視してテレビみてたし(笑顔色も少し悪かったかな・・・。でも夜になってからは少し孫と笑ったりして帰るとき私と杏・佑でかしこまって「よいお年を」と挨拶したら爆笑してたし(笑昨日はねーーーアイも連れていきました♪実家には♂のダックスがいるので「お見合い」状態(笑実家のダックス(チャチャ)は超デカイの(笑「どこがミニチュアやねんっ!!!」って位(笑そのチャチャが最初はアイにおびえて隠れまくってました(笑でもそのうちに・・・。少しずつ距離が縮まり・・・ ♂が♀をくんくんくんくん(笑チュッ♪(´ε`●≡●´з`)チュッ♪おおっ!!!いい感じ~~~(●^∀^)b⌒☆な・の・に・・・。しつこくしすぎてしまったオッサン。ガガガ━Σ(ll゚ω゚(ll゚д゚ll)゚∀゚ll)━ン!!!40過ぎのオッサンがはじめて見た若い女に必死になりすぎて嫌われていくーーーーという「図」をはじめて目の当たりにしました(爆チャチャ、もう目が行っちゃってます(爆この後、チャチャはゲージへ閉じ込められました(笑目の前に美味しい餌があるのに食べられない。という切ない顔でゲージの中に座っておりました(爆こんなネタで一年を締めていいのでしょうか(笑でもでも。みなさん今年も一年ありがとうございました今年も色んな事がありました。予想以上にすごく進行してしまった父のALS。介護というものに直面した母。どうしていいか分からない子供達。そして杏や佑のことも色々あったなー。でもでも。今年はなんといっても、りゅうちゃんとおるちゃんが会いに来てくれた!!!!!ピーナッツ姉妹にも会えた!!!o(TωT )( TωT)o ウルウル父がALSという病気になってくれたからこその出会い。本当に感激で胸がいっぱいでした号(┳◇┳)泣来年は私が東京美女会を襲撃できますように・・・みなさま、よいお年をお迎えくださいね!あたちはこれからまた義両親宅へ行き、御節料理を作ってきます♪~( ̄ε ̄;)
2007年12月31日
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今日はほぼ半日、実家でオペナビと闘ってました(笑りゅうちゃんに聞いた方法で父のオペナビに新しいキーボードを作りIDやパスワードを一々入力しなくてもボタン一つでOK!という所までは設定終了ε=Σ( ̄ )ホッこれで、少しは「メールしてみようかな」と思ってもらえたらいいな~。それから、父の100名ほどの住所録を新しく入力しなおし両親の年賀状150枚ほどを印刷してまいりました(自分のも印刷しなくっちゃー(笑))なにはともあれ、EO光が繋がるまではエアーエッジの接続も遅いし、メールアドレスも正式に取得してないのでアウトルックも使えない。(んだよね?(^^;;)だから不便な事がいっぱいあるでも、その間に毎日少しずつでもオペナビを触ってみて少しずつでも使えるようになってくれたらいいな~と願っている。だってさー。父はALSという病に好かれてしまったとき。一番最初から「話す」という事を奪われてしまったじゃん?筆談やトーキングエイドを使って沢山喋ってくれてた人が最後には筆談も出来なくなり、指文字も出来なくなり。。。「意思」というものを伝えるには「文字盤」しか手段が無くなったでしょー・・・その文字盤だって今では「透明文字盤」でお互いが一文字ずつ読み取るだけ。文字盤だってまだまだお互いに練習が必要な状態だからスラスラと話すように意思が伝えられるわけじゃない。必要最低限のことだけ。本当に最低限の事しか言えないんだよね。だからさーオペナビを使って、少しでも意思を発信できるようになれば。と、切に願うわけよー。たとえ、ネットやメールじゃなくたってさ。もっともっともーーーーーっと色々話したいだろうし。孫ともね。だから、私ももっとオペナビ勉強しないとねーーー♪~( ̄ε ̄;) 父にはパンツ上げ下げ用の紐をつけたりシャツやパジャマのボタンをマジックテープにつけかえたり。色々してきたのに、最近は役に立てる事は殆どなくなってしまって・・・だからこういう事をしてると嬉しい。っていうか自己満足の世界??(笑実家でパソコンと格闘すること数時間。その間にふと見ると佑が何故か急にぐったりしてたの!慌てて熱を測ってみたら、38度ほどあるΣ(T□T)ずっと元気だったのに、な~~ぜ~~??用事が夜8時前までかかってしまったので、佑には我慢してもらって家に着いたらすぐ寝さしたんだけどさー。明日には元気になってたらいいなー・・・。だって明日は幼稚園のクリスマス会なんだもんーーーっ!!°・(((p(≧□≦)q)))・°あんなに楽しみにしてるのにーー(。>0<。)ビェェン 今日届いた加湿器をつけて、寝させてるので・・・。元気になってますようにo(TωT )( TωT)o ウルウル美顔器・吸引器にもなる加湿器だよ(笑りゅうちゃんお薦めのヴィックスシリーズのお友達って感じ(笑りゅうちゃんお薦めの「ヴィックス」シリーズの「レモン」を購入!部屋中レモンの香りでとーっても良い感じこの冬は大活躍してくれそうだわ~
2007年12月16日
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昨日深夜の話し。一人で酔っ払ってた私(笑酔って寝ようと思ってたのに目が冴えまくりだったのでオペレートナビの一ヶ月使用可能な体験版をダウンロードしてみた。自分で使わないと、分からない。父が「やってみようかな」って思った時、ちょっと聞かれた事には答えられるようにしてあげたい。そりゃ難しい技は分からなくても、「このボタンはこういう意味だよ」位のこと、言えるようになりたいじゃん?だから。ダウンロードして昨日は夜中3時近くまで格闘(笑そして今日もずっと格闘(笑ついつい分からなくてイラっとするとキーボードで操作しちゃったりしてしまうんだけど、「オペナビ」で操作しないと意味ないからさー(笑だから気を取り直してお勉強(笑「へるぷ」や「ガイド」を見ても長い間使ってない頭は回転せず(苦笑でも、りゅうちゃんに教えてもらうとすんなり出来たりするのよねー(笑やっぱり東京に住みたい(笑側で教わりたい(笑聞かれたときにアドバイスが出来るようになりたいと思ってるのは母も同じみたい。母からも「パソコン教えて~」とよく言われるようになった。二人で使ってくれたら会話も増えるし(笑)良い事だよね母自身がネットをして、色んな人と交流出来る事もとても良い事だと思うしね。だから明日もパソコン指導で行ってきまーす(笑そうそう!!ご心配をおかけした「携帯」戻ってきました~~~もうほーんと色々あったのよーー(笑色々ムカつく事ありすぎてココには書けない(笑でも結局最終的にデータも全部無事に返ってきましたほーんと良かったよ~~~ε=Σ( ̄ )ホッ早くバックアップしとかなくっちゃ!!(笑 ←まだかよっ!!って?(笑
2007年12月15日
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日曜のお話。朝早く家を出て、前回のブログにも書いた杏の珠算大会に行ってきました。結果はじゃ~~~んっ!第3位ですっ!!!すっごいでしょー??3位 表彰式があり、トロフィーももらってきました杏の人生初のトロフィーには算盤がついてました(●^∀^)b⌒☆ん??表彰されてる3位の子供達がみんな浮かない顔してる??????実は。1位と2位以外の子達は全員3位(笑だから、トロフィーもこんなに小さい(爆小学生の手のひらサイズ(笑しかもメッチャ軽いの(爆まあ。でもね。予選に通って参加出来た事に意味があるのよね、杏にとっては(笑来年はもう少し大きなトロフィー目指して頑張って!(笑算盤大会が終わった後は実家へエアーエッジ来ました~(●^∀^)b⌒☆登録してきました~~(T▽T)アハハ!ネットライフを満喫してるかどうかはまだ分からないけど少しずつでも色んな人と交流があればうれしいな私がエッジの登録をしてる間、両親と子供達でお散歩に行きました リフトにて外出します♪オルチャンにもらったような可愛い洗濯ばさみを父のお出掛け用に買おうと思った瞬間です(笑なんか黒ずくめなんだもーーーん(笑<あー。それにしてもオペナビって難しい!!父のスイッチを使ってネットをしたりメールをしたりしてみたけど本当難しかった~。ガガガ━Σ(ll゚ω゚(ll゚д゚ll)゚∀゚ll)━ン!!!使いこなしてるみんな。すごい!!!!私も操作方法マスターしたいです。
2007年12月10日
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嚥下・言語障害からALSを発症した父。発症当時からすでに「意思伝達装置」がほしかった。長い長い年月を待ち、やっとやっと昨日父の元にオペナビがやってきましたこんなのだよん。このセットそのまま納品してもらいました。これなら、車椅子で使うときもベットで寝て使うときも楽々だスイッチはこんなのだよん。白い袋に空気を適量入れて、空気の入った袋をほんの少し握る(どこかの指が少し動くだけでOK)だけで中のセンサーが反応するタイプ。本当は、父がPCを使ってる写真も撮りたかったし、パソコンの中に皆のアドレスを入れたり、登録云々をしたくて実家に走ったんだけど、昨日私が着いた時には猛烈不機嫌状態でして(苦笑ネット環境を整えるのが遅くって昨日すぐにネットが使えなかったからか、朝から入浴があったりして体が究極疲れてたからか、私や佑にオペナビを披露してくれることなく、やめてしまったので私もそそくさと帰ってきました(笑昨日は母の誕生日文字盤を使ってるときに私が横から「お父さん、文字盤でちゃんと「おめでとう」言ったか~?」って父に聞いたら、思いっきり ぶんっ って首を横に振ってあっちを向いてしまいました。♪~( ̄ε ̄;) そんな無視の仕方あるかい!!(笑舌打ちできないはずなのに、舌打ちが聞こえた気がしたよ(爆昨日は佑が朝から下痢が激しくってさー。それでも走って行ったのにさ(笑案の定、帰りの車の中で思いっきり吐きまくってくれてそのまま病院へ。佑たん、嘔吐下痢の風邪でダウン中です。親の私が落ちてきて、「なーんにもしたくないー」状態になると必ず体調不良になり、「寝てられへんやんけーー」と動かなければ仕方ない状態にしてくれる娘達。本当に あ り が と う (笑さあて。来週くらいから父がネットを始めます。きっと皆のブログにも顔を出します( ̄∇ ̄*)ゞエヘヘと、いう事はここも見るだろうしな~あんまり好き勝手に書いてたら思いっきり怒られそうだね(笑
2007年11月29日
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昨日はALS支部の交流会でしたー30名ほどの参加。最近できたとっても綺麗な病院の最上階のホールを借りての交流会私がこの交流会にどうしても行きたいって思ったのは主治医が「あんたはK市在住なんだからK市の病院にかかりつけを持たないとダメ」と言い、出会う事となったK先生に会いたかったから。K先生が交流会に参加して挨拶をしてくれると知り、どうしても話を聞きたかったのね。でも、その日の朝。昨日早朝。主人の祖母が亡くなりました。私が主人の家に嫁いでから、であった人だけど、とても優しくて元気で可愛いお祖母ちゃんだったのー。遊びに行くと本当に喜んでくれて、会いに行くのが楽しみだった。今年一月におじいちゃん(御主人)を亡くしてからお祖母ちゃんは体調を崩しがちで、元気をなくしてたのね。それでも85歳で元気に畑仕事もしてた。それが突然肺炎をこじらせて、入院。そのまま帰らぬ人となりました・・・・。交流会はいけないかな。と思ったんだけども仮通夜は今夜。通夜告別式は明日。ということもあり、昨日は朝だけお祖母ちゃんに会いに行って、そのまま私は交流会へ。主人は子供の子守で公園へ。さて。交流会はどうだったかというと。K先生は私の想像通り、物腰柔らかな素敵ドクターでした先生の挨拶中ずっとメモってんんだけどね(^▽^;)「県内の神経内科が次々閉鎖されて、神経内科のDrがどんどん減ってきてる。だからこそ残った者が頑張らねばいけないと奮闘してるけれど患者さんには迷惑をかけて心苦しく思っている。自分はALS協会ができたきっかけも、色んなHPやブログを読んで勉強した。色んな患者さんやご家族のブログやHPを読むと医師のほうが勉強不足だと痛感する。告知方法にしてもしかり。患者さんやご家族から学ぶ事はとても多い。病気を持っているからこそ、自分の知識を教えあい、そこに挑んでいける力や闘う力を得られるような環境作りに自分は協力し作り上げていきたい。病気を持っているのもその人の個性。人生。上手に生きていくためにある種楽観的に楽しく生きる。そういう患者がいるんだよって交流会を通じて広めていこう。支える家族も疲れないでほしい。どんな病気でも介護者が疲れると患者にも負担になる。いつでも信号を発してもらい、サポートも充分していきたい。そして信号を発することを「楽してる」と思わないでほしい。サービスを利用する事はとても大事。家族だけで介護をするなんてありえない事なんだから。」などなど。こんな感じのことをお話ししてくださいました。そして、挨拶が終わると、患者が待ってるから。と走って部屋を出ていかれました。丁度その時、両親が会場に入ってきたのね。母はK先生と何度かお話してるんだけど、父はまだ会った事がなくて。。。その対面の様子を盗み見してたんだけど(笑先生は父の目線に膝をついて父の手を握り締めて「一緒に頑張っていきましょう」って言ってくれてた。。。私は、患者の手を握って「がんばろう」って言ってくれた医者を初めて見たのね。今までそんなDrには出会った事無かったから(苦笑当たり前のことなのかもしれないけど、とっても感動しちゃった病気は治せないんだもん。心に寄り添ってくれる医者をどれだけ待ってたか・・・。今後、父の力強い味方になってくれるといいなーと思っちゃった。そしてその姿をみれただけでも「来てよかったー」と思ったよそして交流会の中身は「患者」「患者家族」とグループを分けてディスカッションするというものだった。父は「患者」席へ。母は「家族」席へ。私は「母とは違う家族席」へ(笑家族それぞれ分かれて言いたい事を言い合おうというもの。そして出た意見をそれぞれのグループで発表しました。父のいた席にはK先生やK市の保健所所長や保健師たちもいました。後は文字盤を練習して参加してくれてる役員の人達も。でも父は「今日は聞き役でよい」と言ったそうで何も発言はしなかったそうだ。ディスカッションの最中、部屋の端から「ゴ~~~ガ~~」と吸引器の音が!!「あ~吸引器持参で来てはるんやー。そりゃそうよね。辛いもんな~」と思ってたら両親でした(笑次から吸引器は支部で用意できたらいいのになーって思ったなー。後は、出て来ずらい患者さんの為にどこまで協力できるのか。も大きな問題だよね。「家を出る」となると準備から何から本当に大変なんだもん。交通手段の問題もあるしねー。まだまだ問題山積みだねーー(^▽^;)父は体力の限界だったのか、感情の限界だったのか(笑疲れた顔して帰っていきましたでもそれでも久しぶりの参加は嬉しかったのではないでしょうかー・・・。さあ。さて。今夜の仮通夜の準備にとりかかります
2007年11月25日
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何だかんだとココ最近はバタバタしてたので一週間ぶりの実家(苦笑)超親不孝~~~ヾ(;´▽`A``アセアセ今朝から父の中学時代の女友達(笑)二名がお見舞いに来てくれてたらしくて父は上機嫌でした(笑)機嫌よく過ごしてる顔は美女会in京都の日以来かも!!どんだけ~~(笑お友達にも文字盤を使って沢山話をしたみたいだし私や子供達にもよく話して笑ってくれた父とじっくり話したのは本当に久しぶりやっぱりおじいちゃんが元気だと杏や佑も絶好調になる(笑もうウルサイウルサイ(笑そうそう。上機嫌にはもう一つ訳があって10日位でなかった便がで始めたのも大きな理由らしいo(●^∀^●)o先日デイサービスで摘便してもらってから快調みたいで今日はなんと3回もあったそうな!!母はオムツ交換で忙しいわーーと言いつつも父が嬉しそうにしてると母も嬉しそう(笑胃ロウにして栄養もまわってきて、摘便でお腹がスッキリしたから顔色もよく元気そのものの父を久しぶりに見た!!って感じだったやっぱり「溜まってくる」と親父さんは猛烈に機嫌が悪くなるんだって再確認しました(笑それからもう一つ。最近イロウを寒天式に変更。今までは1時間半かけてポタポタ流してたのね。でもこの寒天方式は訪看さんお薦め方法らしい。(オルちゃんからもらった方法はまだ試してないのーー。ごめんね)この寒天式により唾液の量が減ったのは嬉しい発見(●^▽^●)前までは顔筋を少しでも動かすと唾液に溺れてしまうんじゃないかって顔して、すぐに「吸引」って呼んでたから、大分楽になったようだ。それにね。今日のイロウ注入は私だけじゃなくて、杏や佑もやったのよ(笑寒天で固まったエンシュアを注射器でチューーーーと押し込むだけだけどこどもたちは真剣な顔(笑そして「順番交代やで!!!」と密かに取り合い(笑そして父は透明文字盤で私に必死に「チューブを引っ張られると怖い」と訴える(笑お昼と夜と2度胃ロウのお手伝いが出来て子供は大満足(笑杏は「休日の日記」の宿題に「初めて胃ロウを手伝いました」の日記を書いてた(爆小学生の日記なのに、 「胃ロウとは・・」って胃ロウの説明を書いて「ドキドキして怖かったけど、また手伝って上手になりたいです」って書いてたよーーー(笑今でも結構押すときに力がいる注射器。ゴムの所が固くなるならオリーブオイルを塗るといいらしいけどそれでもダメなら私もオルちゃんとオソロの買おうかな( ̄∇ ̄*)ゞエヘヘでも一つ心配な事が。りゅうたんと同じく肉芽が猛威を振るってるらしいのーー°・(((p(≧□≦)q)))・°「焼こうか」と話しが出てるそうな・・・。恐るべし、肉芽!!!il||lil||liΣ(´Д`ハァ)il||lil||li
2007年11月18日
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近畿地方では昼間にドラマの再放送時間があります。最近はずっと「医龍1」の再放送がありました。私はこの医龍、再放送で初めてみたんだけど、おもしろーーーーーい゚*。☆ヾ(´∀`)(´∀`)ノ☆。*゚私の大好きな北村一輝さんも出てることだしだから、時間があえば、見てたのねー。佑も一緒に。佑は、なんだかんだと遊びながら見てるから興味ないのかと思ってたらある時期から朝田先生の名前が出てくるようになり。一人で人形遊びをしてる時も「朝田先生。バチスタはいります」とか言ってるし!!ヾ(≧▽≦)ノギャハハ☆「メス」とかも言ってる。それに「チームドラゴン。集合!!」とかってアンパンマン達を集めてみたり(笑今、佑ちゃんの頭の中は朝田先生ばっかりのようだ。(笑珈琲のCMなどで坂口くんが出てると「あさだせんせ~~~いシュキ((*´∇`人´∇`*)))シュキ」と大騒ぎ(笑伊集院くん(小池徹平)なんか全く興味がない(笑ガリレオの福山くんを見せても、HEROのキムタクを見せても。そんなものには見向きもせず「朝田先生」がラブなのだそうだ(笑なんでそんなに浅田先生が好きなの?って聞くと「手術の手袋はめて、手を上にあげて歩いてるときと 時々笑って優しいのと、ちょっとだけヒゲがあるのと、 まっすぐ顔あげてしっかり歩いてるのが最高」なんだそうだ(笑ずっとニコニコしてる人はタイプじゃないらしい(笑渋い4歳児(笑だから、毎日毎日医龍のビデオばかり見てる佑。おかげでここ3日連続、私の夢には阿部サダヲが登場してる(爆今日も、父の病院へ書類の提出に行ってきた。胃ロウの説明を聞きながら見学もしてきました。金曜に病院へ行った時は、私にも孫にも無反応でさっさとカーテンを閉めて、私達を締め出してしまった父も、今日は穏かな顔をしてて、佑にも笑顔笑顔でした。(ーΩー )ウゥーン一体どうなってるのか・・そして、病院へ行くと佑は医者の物色をはじめるようになりました(笑勿論、朝田先生を探しております(爆
2007年11月05日
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沢山の応援、励まし、本当にありがとうございました・・・本日無事に父の胃ロウ手術が終わりました。約1時間半、手足を拘束されての手術だったそうです。手術の痛みと、拘束されてた体の痛みで父は「背中をさすって」「首をさすって」「体位交換してくれ」と、つらそうにしてましたが、これで何年にも渡る「空腹」との戦いから少しは開放されそうです。胃ロウの話しが出たのは発症直後から。球麻痺からの発症だったので、「ALS」と診断されてすぐ「食べられなくなってるしムセもひどい。胃ロウ手術をするべきだ」といわれてました。普通の食事が喉を通らなくなって、柔食になり、トロミ食になり、刻み食になり、ミキサー食になり。ミキサー食がムース食になり。そしてエンシュアのみになった。エンシュアも一缶飲んでる最中でも、3分の1はこぼすようになり・・・そんな中、自分で食べられていたのに、上肢も全廃になった・・・胃ロウ胃ロウと想いながら、足掛け約3年(笑長かったです。いやはや、本当ーーーーーに長かった・・・。やっと。。と思った先月、ドタキャンになった時は本当にガックリきたけどこれで、まずは少し安心できました。ブログの皆さんの暖かい励ましは今日父に伝えてきました。本当に本当にありがとう感謝しています・・・これでも父は親指を立てて「d(≧▽≦*)OK!!」ポーズしてるんですよ(笑
2007年10月24日
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昨日は実家へ。。。最近、父の容態がおもわしくない日が続いている。昨日も、杏や佑へ全く反応しなかった。こんな事は始めてだ。。。いつもなら、ベットで寝てたとしても、起き上がって声にならない声で孫を呼ぶ。そして手を握ったり、体に触れようとする。。。何より顔が大きく変わるのよね、孫を見るとさ。。。でも昨日はベットの周りに杏や佑が居ても、ずっと壁のほうを向いたまま。まったくこちらを見ようともしない、、、最近からだの苦しさを訴えてるので、きっと壁のほうへ横向いたままの体勢が楽だったんだろうけども・・。ほんの少し杏や佑が声をかけても一向に反応しないので、帰り際私は強引にベットの上に子供を乗せて、父にアピールしたのね(笑すると、段々ニヤニヤしてきて。。。やっと「んー・・・」と声を出して杏を呼び握手をしたりしてくれて、最後には二人に顔を揉み揉みされたり、頭ナデナデされて、爆笑してたけど孫に玩具にされて仰向けになるしかなくて、父が上を向いたとき肘が曲がったままで、両手が胸の位置にあったのね。父の指はどの指も曲がったまま伸びなくなってしまってるから手は握り締めてるように見える。するとね。杏が「おじいちゃん、何、ラッコのポーズしてるんよ~~(爆」って大喜びしてね(笑皆で「貝殻の書いた服でも着せて、入院させようか」って笑ってたのー(笑父もその時は爆笑してた((笑´∀`))ヶラヶラって、帰り際にはやっと笑顔を見せてくれたけども。このほかにも色々、心配な症状がある。栄養失調から意識が朦朧としてるのか。酸素の問題か。他の事を言う人もいるけれど、本当に心配が続いています。でも。そんな中、父は今日入院しました。急遽胃ロウの手術が水曜に決まりました。こんな状態で手術ができるのかもわからないけど、御願いだから御願いだから、手術成功しますように・・・。そしてそして。実家の庭にあった木を大半抜いてしまって、庭をリフォームしました。そこにこやつがやってきました(母初登場(笑))父の居る和室から車椅子のまま外に出られるようにリフトをつけました(●^▽^●)このリフト、道路沿いにある我が家なので超目立ちます(笑道行く人、必ず立ち止まってみてます(笑イタズラ防止のためスイッチなどは外してあるけれど、心配です(笑昨日、杏たちが乗って体験してたらお散歩中のオバサンが「それ、なんですか?」って聞いてきました(笑ご自分の御主人も車椅子らしくって。色々見学して帰られましたー(笑父が胃ロウの手術を終え、元気に帰ってきたらこの昇降機を使って沢山お散歩に行けたらいいな~o(●^∀^●)oその頃には今より寒くなってるだろうけど(~_~;)
2007年10月22日
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私の友達ブログに書かれてた事で父の発病当時を鮮明に思い出した。だから当時の事をちょっと書こうと思うー。父がALSと診断された頃は球麻痺からの発症だったので、まず外的症状は「言語障害」だった。・・??酔っ払ってるんか?って感じの言葉遣い。舌がまわってない状態。っつーか、舌が回りすぎてる感じ??その頃から「麺類がすすれない」とか「風船が膨らませられない」とか「口をすぼめていられない」とかの症状もあったけど、普通に接して分かるのは喋り方だけ。足も手も今まで通り。「この人何はなしてるのか分からない」との苦情があったりして職場が移動になったのも、「告知」と同じ頃だった。移動になった職場は県外だったので、毎日電車に揺られて通勤する事になった。手足に障害は出て無くてもからだの疲れ、だるさは相当だったようで、「優先席を変わってもらいやー」と言うんだけど、「できない」と言う。「手帳を見せて、変わってください」って言えない?と聞くと「言えないし言いたくない」と言う。今思えばそうだよね。父が例えば車椅子に乗ってるとかさ。健常な人からみて「分かりやすい」障害ならば、きっと言わなくても席を譲ってもらえたりするんだろうね。(それでも代わらない人は譲ってくれないのかもしれないけど。)それに父がたとえ手帳を出したとしても、「すみません、私にはこんな病気があるので代わってください」とは言いたくもないだろうし、それに言語障害のある父には言えないんだもん・・・。コンビニで「タバコください」すら通じなくて職場は異動になり、、、。段々、自分でメモ用紙を持って歩くようになった頃が一番辛かっただろうな・・・メモで雑談とかしてるとさー。書いてあることとか見えちゃうんだよね。「右のやつ」「マイルドセブン」「電話がなってたけど出てない」とかさー・・・。切なかったなー。一緒に買い物とか言ってもさ、父が店員に何か言うとさあきらかに「はあ?」って態度したりする店員もいたりしてさー。そういう時、平気な顔で笑ってたりしたけど、「きっと日常茶飯事にこういう態度されてるんだろうな」って切なかったなー・・・そしてその頃はよく両親でお寺参りとか行っててさ。世界遺産にもなってる超有名な寺へ行った時にさ、障害者手帳を使って入ったもんだから、一人分は無料になったのね。そしたら受付の人がパンフレット(紙一枚)を一人分しかくれなかったのー。「もう一枚ください」って言うとさ。「障害者の人にはお渡ししてません」って言ったのよねー。きっと障害者に見えなかったんだろうねー。手帳出したら隅々までチェックするお寺もあったしね。目で見て分かる症状ないし、「大したことないくせに」って態度アリアリな受付もいるしねー・・・喋らなかったらわかんないもん。でもその一言は私達家族には猛烈な打撃だったしねー・・・。その時、美女会面々に心底支えてもらったな~・・・o(TωT )( TωT)o ウルウルALSって素敵。とすら思った(笑言いたい事はなんだって感じになってきたけどさー。(笑「障害」や「病気」って目に見えるものばかりじゃないって事。杖をついてなくたって、必死に立って歩いてる人は大勢居るって事。車椅子乗りたくたって、必死に歩いてリハビリしてる人は大勢いるって事。人を馬鹿にしてるんじゃなくて、本当に話せない人も沢山いるんだって事。人を簡単に判断してはいけません。
2007年10月14日
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昨日、意思伝達装置のデモに業者さんが来てくれました。 この業者さんは、りゅうたんやオルつんがオペナビを買った 業者さんと一緒だじょ実は、父がALSと診断された頃。 球麻痺から発症してた父は何はともあれ「意思伝達装置」が必要だったのね。 他は症状なかったからさ。。。 そこで、「トーキングエイド」を申請したの。 そしたらね、ある業者さんが父の所へデモに来てさ。 「あなたは将来こういう風に動けなくなります」と 身振り手振りで、父の前でやってみせてね。 「だからトーキングエイドはすぐに使えなくなるでしょう。 レッツチャットのほうをALS患者さんには勧めています」と。 そこで父は激怒 当たり前だよね・・・。 まだ告知うけて間もないし、トーキングエイドを申請しようって 気持ちになるだけでも大きな決心だったんだしさ。 それを、「将来こんな風に動けなくなる」だなんて実演販売 されちゃたまったもんじゃないよ 業者や医者のいう事は分かってる。 分かるけども、分かりたくないっていうのかな・・・。 そんな頃だったなーーーと。。。。思い出しますわ。 ALSと診断されたらおりる筈である意思伝達装置も役所へ申請に行った時は「全廃にならないと出せない」といわれたりしてとても悔しい思いもしてきた。だから、ここでやっとやっと、伝の心、もしくはオペナビにたどり着ける所までやってきたという感じがする。最近の父は息苦しさもあるようで 1時間も座ってられない。 昨日もデモ機で練習したりしてる時はとても辛そうだった・・・。 でも、入院中に練習した甲斐があり、スラスラと文章を打ち込んでたよ!画面に出てくる平仮名を佑もそばで勉強してた一応なんとかデモを終えて 「オペナビ」やベットでつかえる「スタンド」 足のスイッチや、スイッチを固定する板などなどを セットで注文する事になりそうだ。 見積はすぐに役所へ送ってくれるそうで、 デキルお役所男子が書類を提出してくれるそうなのでひとまず、連絡待ち。。。って所まで漕ぎ着けましたとにもかくにも。今年中には父の手元にパソコンがやってくるでしょう!! そうしたら、 頑固ジジイとメル友になってやってくださいねー(笑 それまでがんばって元気で居てくれーーー!!オヤジさん!
2007年10月08日
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世間一般、医者のことを「お医者様」とか「先生」って言うよねー。でも私は父がこの病気になって以来、「先生」とか「様」って呼びたい医師には殆ど巡り会ってない。父が「何か様子がおかしい」と感じて1年半ほど通院してた病院で、最終的に告知した神経内科の医師は何の前触れもなく「あなたはALSです。この病気は治療法がありません。 全身の筋肉がおかされ全く動けなくなります。 余命は1~5年でしょう」とだけあっけらかんと告げた。「今は治療法はないけども、頑張りましょう」とか「余命は1~5年とあるけども、何十年と呼吸器なしで頑張ってる患者さんもいますよ」とかイワユル「フォロー」など全く無い。こういう告知がいいのか悪いのかは、受け取る側次第なのかもしれないけども私の両親は大打撃を食らった。「お医者様」とあろう職業の人ならば、患者がどういう人間かを見極める「目」が必要だと思うのは私だけ??その後、看護師をしてる友人に聞きまくって某病院へセカンドオピニオンに行った。そこの先生は一つずつ話を聞いてくれて、親身になって相談に乗ってくれた。そして「残念ながら滋賀では今はO病院が拠点となっている。 今後のアナタの事を思うと、私の病院よりもO病院へ行かれる方が 充分なケアが受けられると思う」と言ってくれてその病院へ行くこととなったのだ。当初その病院にいた主治医は、研究者という噂とおりの医師だったけれど、比較的穏かに患者と付き合ってくれたと思う。でも、母が涙ぐんだり、愚痴っぽくなろうものならため息もアリな医師だった。そして、その医師が移動となった後、今の主治医がやってきた。そして最初の診察の時に、笑いながら「なんとか闘病してますー」という父をみて「僕はあなたが全く分からない。 あなたはALSをナメテるとしか思えない。 ALSはそんな生易しいものじゃない。 2週間ほど入院してもらってあなたを知りたい」と言った。この医師はすぐに「僕は何百人と患者を診て来た」とか「○○病院の△医師は僕の後輩だ」などと言う。滋賀のALS患者の在宅医療などを作り上げたのはこの医師だとも人は言う。だからなんだ。一番、骨身にしみてALSの怖さや苛酷さと日々闘ってる患者にむかって「あなたはALSをなめている」とは良く言えたもんだ。何百人看てみたところで、自分が身を持って体験しないと分からないじゃないか。病院にいて、たかが、何十分、悪いときなど5分程度、患者を診るだけで何が分かるのか。病気の仕組みや原因などは問題外だ。本当の辛さ、しんどさなど、患者にしか分からない。昔は熱血医師だったのかもしれないけども、私達が付き合ってるのは現在の医師の姿だ。過去の業績など知った事か。そして、この医師は父に「前頭葉の異常があって、この人は感情コントロールができない人だ。 固執性があり、人の意見が聞けない。怒りの感情がコントロールできない」と診断した。もし、この医師の言うとおりだとしたら。「診断」したという事は、それが「病気のせい」だと分かってるはずだ。なのに、この医師は患者と同じ目線で患者と喧嘩をする。「病気のせいでコントロールできない」と診断を下したくせに患者が思うように返事をしない。はむかってくると、同じように怒る。「お前もコントロールできてないやんけ」と思ってしまう。「あれでも患者のこと真摯に考えてるお医者様なのよ」と言う人も居る。でもでも。「患者の心に寄り添う努力」を一切しない医師でいいのか。「本当はいい人。時間をかけて知り合っていかないと」だなんて良く言えるぜ。なんで患者側が医師の心を解きほぐして仲良くなりたいと願わねばならないのだ???おかしくない?逆じゃないの?挨拶をしたら挨拶を仕返す。ただそれだけの事もできない先生様に、患者は機嫌伺いをしなくちゃいけないんですか???神経難病の医師とは難しい職業だと思う。外科の医師などは、自分の技術をもって治療できる。だから、極端な話し、患者の心に寄り添う必要は無い。「手術の手腕は一流」と聞けば、その医師がいくら愛想悪くても我慢できるじゃん(笑でも神経難病など、「治せない」病気の医師はそれではいけない。せめて、患者の心に寄り添いたいという気持ちを持ってほしい。それが全てじゃないのかとも思う。痛みをとってくれるお薬をくれるわけでもなければ、辛い部分を完治してくれるわけでもない。まして動けるように治してくれるわけでもない。なのに、決まった日の決まった時間に病院にいかねばいならない。その時患者や家族が何を期待するか、それは「心のケア」だけじゃないの?最近、こんな症状が出てきて、辛い。どうしたらいいですか?と言うのはそこで「心のケア」もしてほしいんじゃないの?その時「本当ですね・・・。辛いよね」って一言あってもいいんじゃないの?「あっそ」で終わらせていいの?水曜に父は退院させられる。胃ロウのために入院したのに、胃ロウをしてもらえず。ご飯が食べられないからといって、エンシュアのみの食事しか与えてもらえずに。退院後の事は未知の世界。「胃ロウの手術はしますよー。まだ日は決まってないだけ」と言いながら全く何にもその後の話をしない主治医。「面倒な患者はよそへ行け」とばかりに急に「あなたは住む市が違うんだから」と暗に「転院してくれ」と言う。じゃあ、はっきり言いやがれ。「転院してください」と。ならば、こちらも動きようがあるというものだ。もう、今後この医師とは関わらずに済めばいいんだけどー。でもそうはいかないのだ。この医師とはこれからも「主治医」ではなくなっても顔を合わさねばならないー(≡д≡) でも、この医師の愚痴は今日をもってやめようと思うー(笑きりがないから(笑だから今日は言いたい事を書きなぐった(笑お付き合い頂きありがとうございました昨日父の所へ行った時、父は杏に「明日もあさっても休みやろ??また来てくれるか?」と言った。余程、寂しく退屈してるんだろーね。本も読めなくなったのでテレビを見てるしかする事がないんだもん。しかも家では殆どCSやBSを見てる人が民放しか見られないしねー。・・・と、言う事で今日も病院へ行って参ります(*^□^*)
2007年09月24日
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昨日木曜に、父の退院後のカンファがありました。 そのカンファの席で主治医はまずこういったそうです。 「26日に退院してもらいます」と。 「胃ロウのための2週間の入院なので、とりあえず退院してください」と。 「胃ロウのための入院って。胃ロウしてないやんか。 なのに退院ってどういう事やねん」と母も思ったらしい。 「胃ロウもしてないのに退院させられて、 もう食事をとるのが生命の危機にかかわるから、入院した のに、じゃあ、帰って何を食べさせればいいんですか?」 と母はくってかかったらしい。 すると主治医は「胃ロウ手術はしますよー。局部麻酔で する予定ですー。でも日取りがまだ未定なんで。 それまでは経鼻ででもどうですか?」と言ったそうで。 父にカンファの最中、経鼻の確認をしにいくと 案の定「拒否」したらしい(*´д`*)~З 前回主治医が「アナタはALSをなめている。暫く入院して もらって様子を見せてほしい」と言い、入院となったとき 同室で経鼻の患者さんがいたそうで。 その人は鼻のチューブを抜いてしまう事があったらしく 手を拘束?されたそうなんです。 父のイメージの中に 「経鼻」=「痛い」=「拘束」 という縮図が色濃く残ってるみたいで・・・。 その上、主治医は 「Nさん(父)はK市の人。K市の人はK市の保健師と 協力して、K市の病院にいきなさい。 この病院はO市だからね。何かあって救急で運ばれるときも O市まで来てたら間に合わない事もあるからね。 とりあえず退院したらすぐにK市の総合病院へ行ってー。 別に主治医というか主たる病院はこのままO病院でもいいけど 普段かかる病院としてK市のNさんはK病院へ行くほうが いいんじゃない?」と。 KやらNやらでややこしいでしょ?スンマセン(^▽^;) 主治医は 「何かあったとき、近い病院のほうが安心でしょ」と 言いたかったのかもしれませんが 母は 「お前らはK市の病院でみてもらえ。 胃ロウでもなんでもそっちでしてもらってくれ」 とやっかい払いをされたようにしか取れなかったと。 だって現在の病院までは自家用車でも20分くらいで つける。 そんなに距離があるとは思えない。 だって現に今までずーーーーっとそうだったんだもん。 何を今更。やねん。 今入院してる病院では「この人は胃ロウのために入院して、もう程んど 食べる事が出来ないんだから」と食事は打ち切られたそうで、 一日中、エンシュアのみだそうです。 知りませんでした。 一日エンシュアを6缶のんでるだけ。 ただ、それだけだそうです。 父にもK病院へ行けという事は伝えられたようで 退院したらすぐにK市総合病院へ行くそうです。 元々何の信頼もしてなかった主治医です。 今度行く病院で父が信頼して話せるドクターと 出会えることを期待してます。 そして父に主治医を変更してほしい。 そして、何だか数日で話しが思わぬ方向へ 展開していくので、皆さんからもらった コメントになかなかお返事ができず、本当にごめんなさい とりあえず、頭の固い頑固親父である父が 今度行く病院の先生と気が合い 心を許して話せる医師とであってくれますように。 そして今の主治医とは2度と会わずにすみますように・・・ 出来る事なら、K病院で早い段階で胃ロウしてほしい。 そしてあたいは座ってても寝てても立ってても 腰が痛いですーー(笑 ズキズキと痛みがお尻や足にまで痺れてきます。 ばーちゃんのようにのろのろとしか動けません。 明日の杏の運動会、正直行って行きたくないーー(笑
2007年09月21日
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昨日、私のブログに励ましとFight!!(o^-^)尸~''☆ミ☆ミのコメントをくださったみなさま・・・。急展開がありました。ごめんなさい 先ほど母からの電話で 「今日の検査でお父さんの胃には腸がかぶさってる? 胃のうえに腸がある?ことがわかって、このまま手術はできないから 明日の手術は延期になった」 と聞きました。 【全身麻酔で開腹をし、腸をのけたうえで 胃ロウ手術をする】 【局所麻酔で上記の方法をとり手術をする】 【胃ロウはあきらめ、経鼻栄養とする】 この選択肢を医師団が下すそうです。 父は医師団に 「私は孫が手術に耐えて頑張ったとき、約束したんや。 局所麻酔で胃ロウ手術をしてほしい」と言ったそう。 ALS患者に全身麻酔はできません。 もしも全身麻酔をするならば、そのときに呼吸器を装着 しなければならないそうです。 (これまた、えらい急に飛び出してきたこの話題。 っていうか、誰の頭の中にもあるこの漢字3字だけどもより一層急に迫ってきた感があります。)外科医は、局所麻酔の場合は暴れられる可能性があるから NOモードらしくって・・・。 (頑張ってくれよ!!!) 父は告知をうけた2年前からずっと「胃ロウ」を言われ つづけてきました。 球麻痺から発症したので まず出た症状が 「話せなくなる・食べられなくなる」事だったからです。 そんな「人」として一番奪われたくはない所から 奪い始めたALSです。 この胃ロウ入院まで本当に本当に本当に長かったんです。 何事もリハビリだと言って胃ロウを頑なに拒否してた 頑固ジジイが、やっとやっとやっと、決断したんです。 決断したというよりも、「諦めた」というほうが正しい。 その間、家族も本当に本当に本当に長かったんです。 充分すぎるほどの試練を、充分すぎるほど与えてきてる はずなのに・・・。ずっとずっとずっとずーーーーーーっと我慢してきたけども悔しさでいっぱいです。むかついてます。 隣でなーんにも知らずプレステをしてる 旦那にもむかつきます(笑 出来る事なら局所麻酔で胃ロウをお願いします。 父に平穏な時間を与えてください。医師団が父の希望・意思を汲み取ってくださいますように・・・。と、非力な一般市民は願うしかありません。。。
2007年09月18日
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今日は入院してる父のところへ。 敬老の日ということもあり、杏が書いたお手紙を 届けに行って来ましたo(●^∀^●)o実は最近ギックリ腰なりかけの私・・・ 昨日行く予定してたんだけど、あまりの痛さに 座ってても苦痛だったので、今日まで延期にしてたのー。 今日も運転中とか病院でも辛かったんだけども 入院中の父の精神状態が荒んでると聞いたので 癒し孫を連れて行って来ましたヾ(;´▽`A``アセアセ それにしても腰いたーーーーーいil||lil||liΣ(´Д`ハァ)il||lil||li 想像外に、父はとーーっても穏かにしてました。 一緒に売店へ行くというので、売店で買い物して、 病院の中庭へ。 あまりの蒸し暑さにすぐ「部屋帰る」って言ったけどね (;´▽`A``売店で孫たちがお菓子を選んでる姿を見てるだけでも 嬉しそうだったよーーo(●^∀^●)o 父はぷっちんプリンを買いました。 プリンもぐちゃぐちゃに潰さないと食べられなくなって しまってるけども、完食しました 私の飲むアイスコーヒーも「ちょっとくれ」って言うので 飲ませたら 「ひさしぶりに冷たい飲み物を飲んだー」って喜んでたし まあ、すぐに「とろみお茶」に変更になったんだけど、 たとえ1口でも美味しいって思ってもらえると嬉しい o(●^∀^●)o最近は足で文字盤を指す方法をとってる父。 これだと、目で読み取るのが苦手な杏にもスムーズに 話しが通じます。 かなり長い事はなしてたので、「足が疲れた」と 足プルプル状態でした(;´▽`A`` 文字盤で、父は杏に 「杏が頑張ったから。おじいちゃんも頑張って このまえ、鼻から胃カメラ入れたよーー」って。 結果が良かったみたいで、水曜に胃ロウ手術決定らしいです 今日はじめて知りました(笑とりあえず、手術できるってだけでも本当に良かった!!!! ツルツルのお腹にお別れだねーーーって いっぱい触ってきました(笑 とにかく、「満腹感」を味あわせてあげたい。 もう何年もあじわってない「満腹感」 お腹いっぱいになったら、気持ちも少しは安定するかなー。。。 胃ロウの件では皆さんにも本当に心配かけました・・・。 本当にありがとう!!!水曜に無事に手術が終わりますように・・・。 今暫く「念」を送ってやってください(笑 色々あるけれど、とにもかくにも胃ロウが出来る!!!これは本当に嬉しいのー。手遅れになっちゃってるかもって思ってたから。。。胃ロウをし、栄養をとって、体力がついてきたら、、、。父の気持ちも症状も少しでも安定してくれるでしょうか・・・いやいや、するでしょう!!!(笑人は空腹では生きていけぬ!!のだ!!(笑それにしても、孫パワーとはすざましいねー(笑孫といるだけでこの笑顔だもん(笑普段は表情筋も衰えてきて、殆どずっと無表情なんだからねー(^▽^;)嘘みたいな笑顔でしょ??(笑
2007年09月17日
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前回のブログにて治験が打ち切りになったと書きました。 そしてそれ以来、私はどーしても実家へ足が向きません。 治験が打ち切りになった父を励まし楽しませて あげるべきなのに。 どーしても行けない。 何故だろう・・・治験が打ち切りになったのは、私のせいだっていう思いが 拭えない。 学校が昼までのため、送迎できない日があった。だから、入院となり、入院したから、結果打ち切りとなった。どんな顔して会いに行けばいいのか分からない。 何を言えばいいか分からない。ハァ(*´・Д・`)=3 もうすぐイロウの為の入院となるので その前には会いに行こうと思ってるけれども 何故かどーーーしても、行けない私・・・。 アカンねーーー そして。 ここでもまた壁が立ちはだかってるのだ。 ずーーっと「口から食べるのもリハビリだ」と言って 胃ろうを先延ばしにしてきた父。 12日から入院するんだけど、胃ろうの手術をするには 胃カメラを飲まなきゃいけないのね。 で、それが出来るかどうか、医師も全く分からない状態。 「食べる・話す」ことから発症した父は もう口の周りも首も、筋肉が殆どなくなってしまい、 激やせしてしまってる。 ミキサー食も喉を通らなくなり、最近はミキサー食をもう一度 ミキサーにかけ、ムース状にしたものを飲み込む。 それでも殆ど満足には食べられていない。そして。何より問題なのは・・・。 たとえ今回胃カメラが飲めたとしてもダメなのだ。 病院の方針で 「胃ロウのチューブ?の交換時には必ず毎回 胃カメラを飲んでもらいます。先々胃カメラが飲めなくなる 可能性の患者には胃ロウ自体、手術しません」 と決まったらしい。 そんなもん、絶対無理やんけ・・・ ハァ(*´・Д・`)=3ダメならば、病院を変えるしかない。でも、そんな方針ならば、進行性の病気の人の場合胃ロウが出来なくなる人が増える一方なんじゃないの?「しません」ではなくて、もっと幅広く色んな方法を模索するのが病院なんじゃないの?「後々揉めると大変。だから最初からしません」でいいのか?(~-~;)ヾ(-_-;) オイオイ...問題山積みの我が家。中々楽しいブログが書けずスンマソンーーーーヾ(;´▽`A``アセアセでも、娘たちも元気だしアイのアホぶりもご健在(笑今度は家族の話題でブログ書きまーす゚*。☆ヾ(´∀`)(´∀`)ノ☆。*゚
2007年09月05日
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皆様・・・。大変大変ご無沙汰しておりますいろーーーーーーーーーんな事がありブログに書く「ネタ」には豊富に恵まれているものの(笑)パソコンをあけて、一通りブログを読ませてもらってるうちにまた気力が萎えて、更新せず・・・な日々を過ごしてます。携帯やパソコンから皆さんのブログはちゃーんと読ませてもらってるのにコメントを残す気がわかない・・。自分の気持ちを書く事が面倒・・。( ̄へ ̄|||) ウーム ちょっと違うかな。なんていえばいいかなーーー・・・。無気力といいましょうか。。。こんな事書いてると「朝青龍」か?!と思われそうですが(笑日々の暮らしは元気にしてます。ので、ご安心ください(;´▽`A``こんな精神状態でも先日は家族旅行で伊勢方面へ行ってましたの(笑写真もいっぱいとって、ネタも豊富なんだけどー。今日はまだ旅行ネタを書く気になれないわたし(笑あーん。どうしちゃったんだろーーーーーアレも止まっちゃってるしさーーil||lil||liΣ(´Д`ハァ)il||lil||li さてはて。タイトル通り、今日父の治験が打ち切りになりました。今回のクールは新学期の始まりが重なるため、私が担当日全て送迎する事が出来なかったの。で、カクカクシカジカあり、今日から治験のため入院することに。最初の検査もおわり、無事に部屋に入り。そして入ってやっと整理が終わった部屋を移動しろと言われ・・・。その移動先で、父が結構暴れたらしいのねー。枕の位置とか、色々、色々、伝わらずイライラする事が重なったんだと思う。私はその場に居なかったのでわからないし、ここで書ききれない事もいろいろあってーーーー。要するに「手に負えない」「奥様が泊り込みで着いてもらうんじゃないなら無理」ということで、「終了」と言うことになったらしいです。一年続けてきた治験です。2週間通って2週間休みというサイクルを続けてきて本当にもうギリギリ限界だった。最初がニセ薬だった場合、後半は新薬を投与してもらえると聞いていたけどもそれもそうでもないらしくって。父は点滴をどれほど受けようが、まーーーーーーったく変化なしの一年だったので父本人や家族全員はずーーーーーっとニセ薬だったんだろうと思ってる(苦笑それでも父は元々「エダラボンを打って欲しい」と期待をして治験を始めたのではなく「後世の同病で苦しむ人のためになるなら、自分の体を使ってほしい」と言って始めた治験なので、「ニセ薬だろうからやめる」とは一回もいったことはない。家族としても、どれほど送迎が大変であっても父の気持ちに添えるようにと頑張ってきた。往復100キロの距離だ。本人も送迎する側も大変なのだ。歩いていける治験患者さんと、出される協力金は同じでも労力はまーーったく違うのだよでも、今日、「打ち切り」といわれたあと、父は治験でお世話になってきた神経内科の先生とゆっくり話す時間があったらしく「もうそろそろ限界だと思ってました。病院側から後押ししてもらって決断できた」と話したそうだ。最後にはその先生も涙ぐんでくれたらしい。治験コーディネイターの女性も涙ぐんでくれてたらしいです。治験を始めた当初から眼に見えてどんどん進行していく父をみてコーディネイターさんも辛かっただろうしね・・・。入院準備をして病院にいき、一端は入院をし。それなのに、帰宅させられた父は今どうしているでしょうか・・・。一年間本当にお疲れ様でしたあーあ。ハァ(*´・Д・`)=3他にも色々言いたい事や書きたいことはありますが。どんどん凹むのでやめます(笑そして、自分の気持ちがもう少しアップしてきたら楽しいブログを書きたいです(;´▽`A``皆さんのブログも読み逃げばっかでごめんなさいペコm(_ _;m)三(m;_ _)mペコ
2007年08月27日
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今日は実家へ前にCDデッキの購入を頼まれてたんだけどね。購入して実家へ配達しておいたんだけど、未だ箱の中だったもんで開封しに行ってきたんですー。で。その時。父は15分おきくらいにトイレへ行ってたの。結構ウロウロするんだなーって思いながら、いつも通り介助を。で、何回目かのトイレの帰り、いつもの椅子のほうへは行かずにテレビの方向へ。そしてなにやら「取ってくれ」の合図・・・。色々「これ?」「こっち?」「なに?」とやり取りがあったあと、「首のコルセット」だと判明。「最近は全然しないのに珍しい事言うなー」って思ったのね。でも、「もしかしてデッキの設定などを自分でしたいから首の補助のためにコルセットが欲しいのかも」と思いつけてあげてたの。でも、その時、余り意識してなかったんだけど、軽く椅子を支えにした状態で立ってたのよねーお父さんは。あれ?マジックテープがくっつかない・・・などと少し戸惑ってたら「もういい」って感じで1歩急にデッキの方向へ移動しはじめたの。もうその頃から私の中ではスローモーション・・・・みなさん、お察しになりますよね?工エエェェ(´д`)ェェエエ工一歩踏み出したのと、私が「ちょっとどこ行くの?」って言うのと同時だった。父は何故か、私に正面向きながら、後頭部から倒れて行った・・・。右にはベットやサイドテーブル、左には机。そのわずかな隙間へ・・・・。気付いたときにはドッスーーーーーーーーーーーンっっっっ!!!!!!!!父の頭は数回バウンドしたように見えた・・・ガガガ━Σ(ll゚ω゚(ll゚д゚ll)゚∀゚ll)━ン!!!瞬時にかけつけ、見ると・・・。部分入れ歯が飛んで外れて、歯からは出血が。。。何故かあごも。少し打ち身みたいになってる。そして頭にもコブが出来て、コブは出血してる・・・・ ぎゃーーーーーーーー父はなにやらうめいて喚いて・・・・勿論何を言ってるのかは分からない。起こしていいものかも分からない。「救急車呼ぼうか????」って言うと喚く。呼べっていってるのか要らんって言ってるのか分からない(冷静になれ、冷静になれ。。。)と心の声がこだまし・・・。とりあえず起こしました。「いい?起こすからね。お父さんは起きようとしなくていいから。」と言い、まず、父を寝たまま椅子のある所に足がつくようにずらし「いい?いくからね」とだけ声をかけ、少し上半身を起こし私の立てひざにもたれかけさせて。。。「足で立とうと思わないで!!ただまっすぐ力入れられるなら入れて!」とだけ怒鳴り(笑「1・2・3」で起こせました。これ、おこせたのってある意味奇跡だと自分で思うのよ・・・。完全に床に寝てしまった父を起こすのって本当大変。だって今私の腰や背中は異常に張ってるもん(笑それだけ力入ってたってことよね?あー・・・。それにしても、やってしまったー・・・il||lil||liΣ(´Д`ハァ)il||lil||li 転倒だけは気をつけてたのに。。。。毎日介助してるわけじゃないとさ、2~3日後に会うと急に「何でそんなによろけてるの?」って位進行についていけない時がある。この前、普通に歩いてたのに・・・って。それくらい今は本当にすごいスピードで進行してるんだー・・・。猛烈に@(;・ェ・)@/反省…ムチ打ちになってないか。背中や肩甲骨・もしくは肋骨・・・は大丈夫だろうか・・。その後は孫達と楽しく穏かに歓談してたし、私や杏が「座って!!!」って散々言うのに、デッキの位置や角度、ボタンの設定などを自分でやると言ってきかず、立ち上がってウロウロしてたんだけどさ・・・。二階に取りに行きたいものがあるって言ったときにはさすがに怒鳴ったけどね(笑「さっきこけたのに!!!」って♪~( ̄ε ̄;) 明日はまた治験当番。元気な顔を見るまでは心配だ・・・o(TωT )( TωT)o ウルウル
2007年07月16日
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みなさ~ん♪ 私が前々より書いてる滋賀支部の支部便りを やっとHPにてアップできました ずっとPDFファイルに変換する事をやっていて、 出来るようになったんだけど(フリーソフトで簡単だった(笑)) 見栄えよくはできてないけど、沢山の人に読んでほしいです! そして感想など聞かせてくださーい そして、特派員の皆様(笑 次回の記事、沢山お待ちしております(笑 http://als-siga.hp.infoseek.co.jp/index.html 上記のトップページよりごらんください
2007年07月04日
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いつも父と会うのは治験の日が多い。治験の日は杏の学校もあるため、バタバタしてて会話らしい会話は無い。昨日は日曜日。久しぶりにゆっくり話す事ができた。そして携帯にスイッチ?を取り付けてきたよ携帯のボタン操作はもうできない父。それに話す事もできないので、緊急時は電話も出来ないでもこのスイッチは3つ押すところがあり少しの力で軽く押すと、登録先へ自動で電話がかかる。電話があっても会話は出来ないけど、でも父の携帯から着信があった時は緊急時だという事なので、駆けつけるなり救急車を呼ぶなり対処ができる。それから少し前に電動ベットが搬入されたんだけど、ベットと壁の隙間に布団が落ちて、その時昇降座椅子のコンセントが抜けてしまい動けなかったという事があった。だから百均でコレ↓を。ベットを動かして起きないと、起き上がれない父。その度に枕が邪魔になるからピンでとめてあるそして水道の蛇口はペン使用(笑試行錯誤でつけたシャワー持ち手(左)も。でも今は座ったまま歯ブラシも口すすぎも介助になってしまい、洗面所を使う事は出来なくなってしまった。。。 玄関とトイレ横には主人が手摺をつけてくれた。ここ数ヶ月の進行スピードは本当にすごい。どんどんどんどん病に侵されている・・・・去年なんて那智の滝を見に行ったり、那智大社まで登ったりしてたのに。今年最初の頃は少しゆっくりにはなってたけど歩いてたもん。できなくなった事を数えあげても辛いだけだけど。でもフッと思うよね・・・。あーーーーーもうっ。行き着くところは「むかつくぜ~ALS!!」だよ。
2007年06月25日
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昨日関西で放送されたALS患者さんのテレビ。見ようと思って見逃したんだけど同じALS患者さんである「越川さん」の情報でネット上でも見られる事が分かりましたーhttp://www.ytv.co.jp/ns/index_set.html是非ご覧下さいませ
2007年06月21日
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だるだるな私なのに。今日は早朝より奮闘してきました。といっても、レベルの高い女性に囲まれ、たじたじですが(笑お二人とも頭脳明晰。私の頭ではついていけないー(;´▽`A``佑はストーカーのように優しく返事をしてくれるお姉さま方に付きまとい、、、。「おしごとちゅるっ!」とせっせと印刷機と会議室の間を走り回り・・・(;´▽`A``前にも書いたと思うんだけど、ALS協会滋賀県支部の「支部便り」担当になってる私。これは独断で決められたものであり。(笑ずっと記事集めをし、りゅうちゃんには『創刊おめでとう』漫画を書いてもらい(りゅうちゃん家にも「滋賀支部便り」送るね(笑))PCの前に座ってはチビチビやってきた。一応全部の記事が私のPCへ集まってくる事になってた筈が、結局ここ数日で見事にお直しされましたがー(爆それでも、今日出来上がった「創刊号」を見るとジーンとするのです頑張ったよねー私たち♪ラブ(*-ェ-(-ェ-*)ラブ♪てなノリ。だるだるな体だなんて言ってられない一日を送り。(支部たよりに5時間・杏を迎え(すでに下校してたΣ(T□T))すぐ杏の耳鼻科へ。そしてその足で算盤へ。算盤のお迎えまでにやっと洗濯モロモロ。最近旦那と口聞いてないので、家事がおろそかだと、思いっきり罵倒されるのだ)無意味にハイです(笑明日が恐いです。治験送迎日なのにーーーー♪~( ̄ε ̄;)
2007年06月11日
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今日は支部結成後2度目の役員会でした。 12時半からスタートと言う事だったんだけど、 朝に母からメールが。 「全部なつあんにしてもらうって言うから。 着替え・朝ごはん・歯磨き・薬飲ませる事 お願いしますね。」 ・・・って。 11時半に実家に行けばいいかーって思ってたのを 急遽変更 9時半に家を出て、10時すぎに実家へ。 モロモロのことを終え、役員会の会場へレッツゴー 12時半から始まった役員会は 4時半まで・・・。 その間、私は父のお世話に子供のお世話。 子供はお昼も食べずに連れて行かれて、お腹も減らしてるし 何より退屈で退屈でぐずぐず言うしねー 父は父で、涎防止のコットンの交換や、車いすのヘッドの位置 変換、咽たらエンシュアを飲ませたり、、、。 そのあいまあいまに、文字盤を通訳する仕事もある。 はっきりいって、一人でそんなにできまへんーーーーー(笑 今日の役員会では 東京のほうで実際運営されてる「さくら会」をモデルに 「近江モデル」を作っていけないか。ということ。 本来は行政が「生きて行く権利」を保証された人たちを守り生きていける環境を整備する役目がある筈。 滋賀支部では自分達で「近江モデル」を構築しつつ 行政を動かしていこうなどなど・・・。 書ききれないほど沢山今後の「近江方式」について 話し合いがありました。 家族間での介護の限界。 単身者はどうして生きていけばいいのか・・・などなど。 現在滋賀県には82人のALS患者さんがおられるそうです。 2年ほど前までは67名でした。 東京と違い、行政自体にお金がない県です。 県に何か要請すれば「市町村が良いというならOK」という 返事があります。 お金が無い県なら、諦めるのか・・。 それは違います。 滋賀は滋賀なりに、出来る事を作り上げていこう。 というのが滋賀支部役員の願いであり、大きな仕事ですー。 と、いう話し合いの中。 私は父・子供の事でてんてこ舞い(^▽^;) 殆どじっと話しに参加してませんー(笑 なにより。 この役員会や交流会に子供を連れていくのは 不憫です・・・ 杏なんて必ず「・・・で。おじいちゃんいつ治るの?」 って聞きます。 役員会の後、父が通り道だった「こんぜの里」へ行きたいと。 高い山の上の公園は鳥の声も沢山聞こえ琵琶湖も見晴らせて、とても気持ちよかったです!!
2007年06月03日
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昨日の日曜日・父のお見舞いに杏・佑を連れて行ってまいりました。父の大のお気に入り杏を連れてったおかげで、父は終始ご満悦。バタバタと動くのは全て娘の私なのに。杏はそばでボケーーとしてるだけなのに。それでも孫パワーには勝てません(笑病院へ着くといきなり父は杏に透明文字盤の使い方指導をはじめました。杏は戸惑うばかりヾ(;´▽`A``アセアセ「お祖父ちゃんが見る文字を文字盤の向こうから読み取ってみて」と特訓開始。父は文字盤読み取り方法を杏に筆談で必死に伝えるんだけど、必死な態度が杏には少々怖い様子(苦笑「おじいちゃんが、例えば「ふ」を見てるとするやろー。杏はおじいちゃんの目がどこを見てるか、目と目を合わせて見てみて欲しい。それで「へ」?「「ぬ」?とか聞いてくれて、正解だった場合おじいちゃんは目をつぶるから。分からない場合は「あ行」から順番に聞いてくれて、おじいちゃんの目的の行にきたら目をつぶるから、上から順番に聞いてくれたらいい」と説明受けた杏。かなりテンパッてる(笑っていうか、私や母にはそんなこと練習すらしないくせに杏にだけやらせるってどうよ??(苦笑いつも大人がやってるのを見てる子なら理解も早いけど、いきなり初めての体験。杏もアップアップだよ(A;´・ω・)フキフキなかなか読み取れないし、あせる杏。杏が「へ」?「ふ?」って聞く言葉がおじいちゃんが聞き取れず大きな声で言えって注意される。父は杏に怒ってるつもりじゃないけど、唸りながら「聞こえない」って伝えられると怒られてるように思えてしまう・・・杏は「もういや」って顔してこっちを見る。私がたすけ舟を出すと、父は嫌そうな顔・・・。しばらく練習して正解の確立もあがってきたけど、杏は「もうやーーーめたっ!」って言ってやめちゃいましたおじいちゃんも時間をかけてやってくれないと可哀想だよヾ(;´▽`A``アセアセ病院で新しい主治医に会いました。どうだろ、この先生。心の声は多々ありますが、それはmixiにて(笑)5時間以上病院にいたけど、父に喋りかける看護婦さんはゼロ。普段いかに父の機嫌が悪いのかが見て取れます(苦笑しばし文字盤の練習した後、皆で売店へ。そして中庭でお茶タイムとしました。↑おじいちゃんも後ろで親指を立ててポーズしてますそして、神経難病フロアの患者さん向けのフルートコンサートがあったので皆で聴いて帰りました。フルートの音にあわせて、フルートの音より大きな声で一緒に歌うおばちゃんが居ました(笑前奏や間奏を無視して唄うおばちゃん(笑それに佑が小さい声で「違うって」「はやいって」と突っこみを入れててビクビクの母でした(笑
2007年05月28日
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