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弓張岳(364m)は長崎県佐世保市街地の裏山?、展望台からは外洋性多島海景観を特色とする西海国立公園(S30年に18番目の指定)の最大ポイントで、南九十九島を一望にすることが出来ます。昨年暮れに猟銃発砲事件があった佐世保には、ハウステンボスの他にも西海橋やこのような絶景の景勝地がありました。今回はその弓張岳、九十九島のご案内です。M財閥の発足は九十九島商会、長崎と近いこの地から命名? と思っていたら違っていました。 佐世保市は人口26万人の大都会、海上自衛隊基地があり、JR佐世保駅(松浦鉄道と共用)は本土最西端のロケーション、佐世保ハンバーガーで町興しと話題が豊富な町でもあります。そんな町に立地する弓張岳ですが、駅から歩き登った45年前の貧乏旅行と、伊万里・有田を回り夕方到着(写真のような一閃の光芒が)の5年前の二度、しかもいずれも寒い冬の訪問です。佐世保駅からは展望台行きバスに乗車し30分、くねくね細い坂道を登りほぼ頂上が終点です。 市街地が輝き夜景が美しい弓張岳、ミニ長崎の夜景ともいわれていますが失敬な話です。九十九(つくも)とは数えきれない程の意、その島並みは佐世保市・鹿島町・平戸市にかけ北松浦半島西岸に連なるリアス式海岸の島々のこと、島密集度が日本一のところになります。弓張岳からは南九十九島がくっきり見渡すことが出来ることから景観注目度No1になります。ちなみに九十九里浜(千葉)、九十九湾(石川)、九十九(高知土佐湾の別称)も同じ意です。島の数はNPO九十九島の島調査研究会(満潮時に水面から顔を出し、陸に植物が生育している島)では208に、日本地理学会や海上保安庁(満潮時、周囲100m以上の島)の数と違いますが、それは満潮時の島の定義が違っているから、時間を見つけ船による遊覧計画もベストです。 展望台から一寸下った所に、ぽっんと弓張の丘ホテルだけがあります。宿泊・結婚式場・レストラン・売店と何ら変哲が無いホテルですが、やはり眺望を得ながらの食事やティーはくつろぎ癒されます。一寸、安普請がしないわけではありませんが、トイレが立派でしっかり清掃されていましたから安心出来そうです。 佐世保は明治中期の1889年以降、旧日本海軍の鎮守府が置かれ造船業が栄えた町です。第二次大戦後は基地施設を活用するため、米海軍が駐留するという歴史がありました。ですから佐世保名物ハンバーグは、米海軍隊員からレシピを聞いて広まったという背景があり、マックより早くに地元では郷土料理として市民に受け入れられ普及していました。決まったスタイルがある訳ではなく、『手作り』と『注文に応じて作り始める』のこだわりハンバーグの総称で、独自に調合した甘めのマヨネーズをたっぷり使うのが唯一の共通点のようです。次回は旅を一寸お休みして、音楽にまつわる記事を予定しています。
2008.01.26
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岩手県は北国、特に内陸部の冬は雪国・厳寒の地でスキー場には持って来いの所、温泉が楽しみな場所とか、新興リゾート地として開発している場所とか、経営形態は様々です。そんな中でもコース良し、設備良し、景色良し、マナー良し、食事良し、イベント良し・・・の、安比高原スキー場(リクルート系)と双璧の今回ご案内する雫石スキー場(西武系)があります。雫石では37年前、ANA機に航空自衛隊機が空中衝突し、162名の惨事現場でも知られます。 岩手名産の南部鉄器で作られた黒錆スキーヤー文鎮、いつも冬時分に我が家の奥まで差し込む朝日を浴び、壁面に前傾の滑降姿勢が投影されるのは、朝食の一時を楽しませてくれます。岳父の置き土産、白銀を舞い上げる颯爽とした姿に、自然の業を感じないわけには行きません。 南部富士(岩手山)から西への峰続きで約20km、高倉山中腹に雫石スキー場はあります。盛岡駅から車で50分、東北道盛岡ICからだと35分のロケーションは至って便利です。トップ1,276m、ボトム426m、標高差850m、最大斜度36°、最長滑降距離5,000m、コース14本、101人乗りロープウェー・ゴンドラ・高速リフト・ペアリフトなど計8本で結んでいます。仙台在職中、AM4:00出発、片道約200kmの道程、帰着PM9:00が何回も・・・呆れます!私が先頭、長男が最後尾、家族一緒に描くシュプールは楽しい思い出のゲレンデになります。 93年にFISアルペンスキー世界選手権が行われた場所だけに、尾根伝いの第一ゴンドラに沿って広がるメンズダウンヒルコース、及び、小高倉山に掛かる第二ゴンドラ沿いのレディースダウンヒルコースは、深雪やコブ、急斜面・緩斜面の変化、強靭な体力と滑り切る勇気が求められる中上級コースだけに、スキーヤーやボーターを無上に喜ばせてくれる設定になっています。一気に滑り降りれば膝が笑い息切れは激しいもの、くれぐれも無茶や油断無く滑って下さい。 雫石プリンスホテルの庭? がゲレンデですから、お泊りでも時間を気にしないで滑られます。常時スキーパックが格安料金で設定されており利用しない方法はありません。ホテル内高倉温泉露天風呂に浸り、地酒を堪能し夕食に舌鼓を打つのも悪くはありません。寒い朝の早めのバイキング、他の客に遅れを取らないように大忙しで済ませます。 “どんと 晴れ”遠くに岩手山を望み、岩手高原スノーパークや網張温泉スキー場も広がります。一寸早めの帰りは小岩井農場の一本桜に寄り道か、つなぎ温泉に浸るも忙中閑有で魅力です。次回は九十九島の眺望が絶好な、長崎県佐世保市の冬の弓張岳を予定しています。
2008.01.19
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古都金沢は加賀百万石、前田家の城下町として発展して来ました。歴史の刻み込まれた町名には往時が偲ばれ、加賀友禅・九谷焼・金箔工芸品・加賀蒔絵等などの伝統工芸品に、技は脈々と受け継がれて現在も生きています。航空会社ドル箱路線の羽田-小松間、日本アルプスを眼下にフライトしながら、今回は冬の金沢をご案内します。 金沢は戦争や災害の被害が無く、道路幅は狭く曲がりくねった迷路のようになっています。どこの城下町でも戦略上そのような町造りをしたわけで、これが金沢の魅力であり地図が手放せない道理です。見所は繁華街香林坊に近い金沢城石川門や兼六園が全国区、それに武家屋敷・茶屋・神社仏閣・近江町市場がポイント、特筆すべきは和菓子の種類と質の高さです。 金沢城は度々の火災で天守閣は無く、旧城内は金沢大学のキャンパスでもあった所。城の搦め手(裏門)に当たる石川門は現存し別名白門、東京大学の赤門(加賀藩江戸屋敷跡)とは対の関係で、なまこ塀の幾何学模様が美しく、裏手に回れば隠し鉄砲狭間や石落しの出窓、屋根瓦には溶かせば鉄砲玉になる鉛を使うなど珍しい仕掛けになっています。 兼六園は日本三名園の一つ、江戸時代の代表的な回遊林泉庭園として170年前に完成。元々は金沢城の外郭として城に属し約3万5千坪の庭園です。(150種、1万2千本の樹木数)名の由来は、『広々としていれば(広大) 静かな奥深さは無く(幽邃)、人工的であれば(人力) 古びた趣は少なくなる(蒼古)。また、池や曲水や滝が多ければ(水泉) 遠くは眺められない(眺望)』の六勝を兼備している意味だそうで、折々の四季景観が楽しめる趣向になっています。私は今回のように、雑踏と無縁の雪囲いをしている冬の風情が格別の雰囲気と思っています。 昔ながらの土塀が続く長町武家屋敷町、香林坊から徒歩3分程のところにあり、長屋門や武者窓など城下町の面影を残しています。用水が流れるこの一帯は、藩の重臣長屋の家臣達が住んだ町だそうで、禄高や身分によって広さも構えも違う格差社会を感じさせられます。 金沢の味覚が全部集まる近江町市場、180店舗余りが日本海鮮魚は下より塩干し・珍味・蒲鉾・青果・精肉などの店、食堂・寿司屋も軒を連ね、特に富山湾での鮮魚類が特徴的でした。過去に訪ねた函館、八戸、仙台、築地(東京)、福岡、那覇などの市場と同じ、覘くとどこも活気に溢れ、それぞれの土地ならではの食材が豊富に安く販売され感心させられること仕切りです。近江町市場でも、幻魚(げんげ)一夜干しと自然薯下ろし揚げを発見、逸品の肴になりました。 市内には茶屋が3ヶ所、1820年に加賀藩のお茶屋を集めて町割りしたからで、その中でも『ひがし茶屋街』が一番大きく、茶屋造りをそのまま留めている『志摩』が公開されています。廓(くるわ)は藩政時代の面影を今でも多く残し、玄関の格子戸をくぐり中に入ると身が引き締まる雰囲気、夕ともなれば三味線の音が聞こえて来そうです。廓ですから芸妓遊び・・・と早とちり、実は琴・舞・謡曲・茶の湯・和歌・俳諧など幅広い知識と教養が要求される、遊興を主体とする粋な場所でした。金沢和菓子は、近くの主計町茶屋街の出店で買う機会が多くありました。 歴史ある町にはお寺が多く、忍者寺と別称がある妙立寺は遊び心満点?の格別な寺です。詳しくは妙立寺をクリックすると全貌が明らかになりますので内容は割愛。香林坊から徒歩20分余りの場所で3ヶ月前からの予約が必要、4階7層23の部屋数29ヶ所の階段から一体どのようなカラクリが出てくる建物なのか? 思いを巡らせ指定集合時間厳守で訪ねてみて下さい。以前に冬北陸訪問で知った『弁当忘れても 傘忘れず』の例えを実感。朝、ホテル出発時には晴天、妙立寺到着時は重い曇り空、見学を終え帰る段になったら雷を伴った激しい土砂降り。台風の時でさえ経験しなかったバケツをひっくり返すような激しさに唖然とするばかり、でも1時間も待つと青空が広がり、この我が侭な冬の日本海の天候に、暮らしの不便さを知らされたものです。次回は岩手県の雫石スキー場を予定しています。
2008.01.12
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’08年おめでとうございます。皆様にとって幸多い年になりますように祈願しています。さてそんなことから年初めの縁起を願い、初詣は江戸の総鎮守『神田明神』をご案内します。東京都千代田区外神田、街並みに銭形平次が出て来そうな風情は残ってませんが、近くに学業の湯島天神、ニコライ堂など歴史は今もしっかり。最寄り駅はJR秋葉原かお茶ノ水になります。 正式名称は神田神社、神田・日本橋・秋葉原・大手町・丸の内・築地魚市場など江戸108ヶ町の総氏神になっています。創建が天平2年(730年)ですから相当古く奈良時代初期の頃、元々は現在の皇居大手門前に宮居を定めていましたが、徳川幕府二代目秀忠公によって現在地に遷座させられ、このことから幕府庇護があって江戸総鎮守として厚い尊信を得て来ました。鳥居をくぐると直ぐにあでやかな随神像が安置されている門が、いよいよ目指す境内です。 御社殿前は老若男女・善男善女・幸せを願う人達で一杯、順番待ちの参詣になりました。当初は『大己貴命(だいこく様=大国主命)』だけを祀っていましたが、鎌倉幕府によって東国の英雄『平将門命(まさかど様)』も祀られ、明治時代には茨城県大洗磯前神社から『少彦名命(えびす様)』もお迎えして、家庭円満・縁結び・商売繁昌・厄除け開運・医薬健康など、多くのご神徳を持った神々として信仰され現在に至っています。場所柄、会社関係の参詣が多いようです。 一寸時間は掛かりましたが参詣の緊張も解けて、ホッと一息ついたところです。人事ながら奉納品を確認して、神輿を見て、境内を散策し、神札授与所にもなっている鳳凰殿を覘き、正月初詣の雰囲気を感じながら歴史の重みを体感し・・・と時間は過ぎて行きます。ここのお守りは、徳川家康公が関が原合戦に臨む時、勝守りを授与した縁起物として評判です。 無事、参詣を済ませましたが、歴史の不思議を感じない訳には行きません。御神体の一つ『平将門』は、悪政に苦しむ庶民を自らの命を投げ打って守られた東国の英雄。一方で、当時の朝廷に逆らった逆賊として成敗され、朝廷側はその証として成田山新勝寺を創建されています。ですから神田明神と新勝寺は、現在も敵対関係? ということになります。将門の首塚は当初の神田明神跡地(東京・大手町三井物産本社近く)に建てられており、首が江戸に帰って来たという伝説から、行方不明者が戻るようにカエルの置物が、近年では左遷やリストラにならないように祈願するサラリーマンが多く訪れているそうです。 参詣の後は、いつものことながらお待ちかね門前参道でのお買い物です。歴史や伝統のあるところには美味しいもの・珍しいものが必ずあるもので、正月の威勢の良い声を聞きながら、地元ならではの品を物色、特に食べ物を探し出すのは楽しみの一つになります。 神田明神といえば5月の神田祭、日本三大祭に数えられる由緒ある礼祭が思い浮かびます。徳川幕府により江戸城(現皇居)から見て表鬼門の方角に遷宮(移転)させられ、江戸を守る役目を担わせられたことから、将軍様がわざわざ出向く『天下祭り』として賑わっています。大手町1丁目~丸の内2丁目にかけて住民登録者は一人も無く、昼間人口は有楽町を含めて約24万人、だから神輿担ぎ手は各本社・本店が集まる日本一のビジネスセンターのサラリーマン・ウーマン諸氏が中心になり、伝統に挑戦するというお祭りになっています。次回は冬の古都金沢の魅力を予定しています。
2008.01.05
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