vol,3『無宗教』




           留学レポートvol,3『無宗教』


 アメリカに来て5か月が過ぎた。新しい短期大学での生活にも少しづつ慣れてきた。まだまだ、コミュニケーション能力は乏しいが、この5か月自分なりに日々、喋る機会を持とうと努力してきた。その一つとして、僕がこちらで始めた事で、「教会」に行く...というものがある。アメリカに過去、ホームステイの経験のある友人の薦めで、英語力向上の為、という不謹慎な名目で、教会に通い始め、Bible studyにも参加した。しかし、その経験を通して、結果的に、多くの事を学び、また考える事ができた。今回は、そうして、生まれて初めて、直に宗教に接する中で、感じてきた事について、レポートしたい。 

 これまで、人の生き死にに関わる時以外に、宗教、神の存在、というものを意識した事はなかった。関わった時でさえ、幻滅して、より一層、宗教が嫌になるという感情しか湧かなかった。例えば、2年半前に、父を亡くした時。この時の葬儀は、僕にとって、宗教的な意味を持つ行事ではなかった。父を亡くした事に対しての、父を敬い、彼に話し掛ける意味での祈りや儀式であり、そこに神は介在しなかった。しかし、御坊さんは、偉そうに死後の世界について語り、定期的に現れて、少しのお経を唱え、多くのお金を巻き上げていく。...更に宗教が嫌になった。目を向けたくなくなった。

 多分、その様に毛嫌いしていた一番の理由は、そこに現実感がまるでなかったからだろう。自分の、お経や宗教の意味の教育というものが、自分に行われてこなかったからだと思う。ただ、慣習で、こういう仕方で線香をあげて、こういう風に先祖を祀って、こういう風に祈って...と、そのやり方だけが強調され、その意味を考えるという部分を学んでこなかった結果、宗教に対して、押し付けがましい印象のみを抱く様になったのだろう。
 対して、アメリカは、その意味付けの部分を、大きく重要視している。毎週日曜日には、教会で牧師が、教え、儀式の意味を現代の事象に当てはめて、熱く語り、多くの人がBible studyという形で、Bibleを基にして、生き方、人生とはなにかを徹底的に語り合う。こうして、宗教を基にして、自分のBibleを基にして生きるという事の重要性が、日々の日常を通して、人々に認識される。神秘的であり、抽象的である筈の人の死や神の存在、人生というものが、Bibleを通して論理的に解析されて、現実感を与えられる。...こうした経験を得た事で、宗教に対する考え方が変化した。自分の宗教を自信を持って、論理的に語れる人は強い、そう思える様になった。実際、Bibleに書かれる死生観、人生観には、共感させられる部分は多くある。(それを語り始めると長くなり過ぎるので、今回は省略。)

 では、こうした経験を通して、影響を受けた宗教の信徒になりたくなったか、といえば、今現在、その答えは否だ。確かに、こちらで学ぶ宗教には、日本の宗教では分かりづらくされている意味付けにおいて、Bibleという明確な指針があり受け入れやすくいので、もっと知りたいとは思う。しかし、日本の宗教にその指針がないとは、思えない。神や人生など、そういった神秘的、抽象的なものについて多く語る事を美徳としない、東洋独特の文化がそれを隠してしまっているだけだ。日本にもそういった死生観、神といったものの現実的な説明は、確実に存在し、自分は、それを知らないだけなのだろう。だから、今のまま、わかりやすい、学びやすいから...という理由だけで、その宗教に入るというのは、安易な気がする。その前に、日本における宗教というものを考える必要があると感じている。だから、今、僕に必要なのは、もっと色々な宗教について知る事だ。無宗教の状態で、様々な宗教や価値観というものに触れ、知って、自分を形成していきたい...だから、宗教に属するのは、死ぬ間際になるか、もしかしたら、無宗教のまま死を迎えるかもしれない。そして、海に骨を流される...そんな死に方もありかな...なにせ、死や生というものについて考える機会が増え、宗教に対する抵抗が無くなった。それがこの5か月間で得た、大きな財産となっていて、これからも一生かけて、その勉強を続けていきたいと思えている。



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