ERETICI -上-

規約 を読んでおいてください。
いいことがありますから、絶対。



彼女は泣いていた。
血の海に一人立ち尽くしながら。

――Perche e del tutto morto・・・・・・?


彼女は泣いていた。
止まらぬ剣戟を前に、刺し穿たれる彼を見ながら。

――Perche non ferma・・・・・・?


・・・彼もまた、泣いていたのかもしれない。
愛すべきものを知らぬ胸に、愛する刃が突き刺さっていたのだから。



彼らの邂逅は雨のように。

突然にして、唐突だった。



馬車が石畳を鳴らす音に、タイヤの擦れる音が混じる。
明るい日差しが青い空を抜け、人々の雑談を、商談を響かせながら石畳の街へと降り注いでいた。行く人がおもわず目を細めるその日差しは、街を余すところ無く照らしていて、それはまるで神の後光のように神々しくもある。

 そんな平和と見える街の一角、露店が建ち、芸人が路上でパフォーマンスをする広場の片隅の日の当たる階段に、二人の少年が並んで座っていた。

「おい、あそこの娘(こ)、どうだ?」
「・・・・・・六十五点。スタイルも顔もいま一つ。特にスタイルな。俺好みじゃない。」
「かーっ、お前厳しい上に我を通すなぁ・・・
んじゃそうだな・・・あの娘は?あのリボンのさ、白い服着てる娘!」
「うーん・・・・・・七十八点、かな。性格悪そうだし、悪女の顔してる。
――それに良く見ろ、豚の足だ。」
「・・・うえ。変なこと言うなよな、夢見てたのに。」
「事実だ。それにしても小さい夢だな、お前・・・」
「うるさいッ!こんだけ女運無けりゃ、ちょっとぐらい妥協してみようっていう気になるのは当然の道理だろ!」
 そう少年が怒鳴ると、もう一人・・・隣の少年よりも幾分か顔のいい少年は、
「やれやれ・・・可哀相になぁ・・・」
 と、肩をすくめるジェスチャーと共に、哀れむように言った。
「お前ッ!ちょっと顔がいいからって!お前だって彼女いない癖に、この理想論者!阿呆!Questo(この) sciocco(馬鹿)!」。
 侮蔑の言葉に、少年の顔がひきつる。
「あんだと!?俺には可能性があるがお前にゃゼロだろうがゼーロ!
この負け確定だけど盛りのついた犬!Crassitude(大馬鹿)!」
 二人の少年は火花を散らしあい暫く睨み合っていたが、やがて二人とも空を仰いだ。

 しばらく無言の時が続き、しかしあたりには喧騒・・・いや、むしろこれが当然といわんばかりの日常が広がっている。馬車が荷を積んで走り、まだ発展途上である自動車がチラホラと見え、露天のオヤジは客を呼び、商店の売り子・・・恐らくその家の子だろう・・・は、トマトの赤さを声高に叫ぶ。ここは、確かにカンパニア一の日常だ。


 カルロ・・・かの採点をしていた少年が、喧騒の中の沈黙を破った。
「・・・・・・平和、だな。」
 ポツリと呟くその顔には言い争いの疲れもあるが、それだけではない憂いがある。
 いや、憂いと呼ぶほどのものではなく、ただ繰り返される日々に飽きを感じているのか。それはやはり、この年代には避けて通れない壁であろう。
「――ああ。平和な日常、だ。なんも変わり無いさ。街も・・・俺たちも。」
 見上げる空には青く澄んだ空があり、そこを雲が自在に、高高度を保ち移動している。
 恐らくあの高さから見れば、美しい日常に彩られたこの街と、美しすぎるエメラルドに彩られた海が見えるだろうか。そう思って、カルロは隣の少年・・・アンディに声をかけた。
「なあ、アンディ。」
「あん?」
「飛行機に乗ればさ、あの雲の高さまでいけるかな?」
そう言われたアンディは、ひどく驚いた表情をしてから、驚愕で固まった顔をさすりさすり、心底感情が篭った声で
「・・・・・・悪い。
いや、お前に馬鹿なんて言って本当に悪かった。」
と謝った。
「あ?どうしたんだよ、突然。」
「いや、ついにお前がおかしくなっちまったと思ってさ。つか、いつからお前、そんなヨハンさんみたいになっちまったんだよ。」
「・・・ヨハンさん?・・・・・・って、お前んちの近くに住んでるあの人か?」
「違ぇよ、あいつぁマリオだ、マリオ=テデスコ。
あいつもピアノの腕はイカれてるが、ロマンチストじゃねぇよ。」
「・・・じゃあ誰だよ。お前のなぞなぞはつまらないんだって・・・どうせお前ぐらいにしか分からないんだろ?その答え。」
 カルロに向かって、はぁ・・・と大きくため息をつくアンディ。
 この男、色々なところから意味不明な知識を得て、変なところで博学なところがある。どうせその類の怪しい人間だろうと思っていたカルロは、次の言葉に驚きを隠すことができなかった。。
「しょうがねぇな・・・無学なカルロ君におしえてやるよ。
ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ。かの有名なゲーテさんだ。」
「・・・ゲーテ?ってあの、『もっと光を!』の人か?
なんでまた。」
「そ。『誰一人知る人もない人ごみの中をかき分けて行く時ほど、痛切に孤独を感じるときはない』ってやつさ。」
「はぁん・・・で?その人が俺と何の関係があるんだよ?」
「は?いや、ただお前の発言がお前に死ぬほど似合わないっていう、単なる皮肉だったんだが。
・・・ああそうそう、馬鹿発言に謝ったのはお前が馬鹿じゃなくて大馬鹿だったからで――ムガァァアァァ!?」
「解説ありがとうアンディ。ついでにここで口の横幅を二倍にしておくか?」
 指が白くなるまでに強く、アンディの頬を引く。
「ギャァァァァア!ひたひひたひひたひ(痛い痛い痛い)!Mi(マジ) perdoni(勘弁してくれ)!」
なおも顔が変形を続けるアンディを余所に、カルロは街を見渡した。
やはり間違い無く、ここは日常だ。
――日常、代わり映えの無い日々はやはり変化を続け、そして己をも変えてゆく。日常の、日常の範疇での変化を楽しめるだけの余裕が持てればそれがベストではあるが、いかんせんこのぐらいの年頃は異性や珍しいものに目が行きがちだ・・・事実、彼らを見ていればそれはすぐに分かる。道端で話す少年少女の大半の会話の内容は、『フィアットの車がどうの』だの、『新しく入ってきたニホンのミコファッションなるものは何か』などのようなものだ。だが、それも平穏な日常の一つだろう。でなければ、こんな平和で日常的な風景を平和とせずに何を平和としようか。
そんな中、一台の車がカルロの目に留まった。記憶を探る・・・が、なかなか出てこない。あれは、確か――
「フォード。フォードT型。
 米国(むこう)じゃ400ドルで売られてる、えらく安っちい車だよ。」
 いつのまにやら顔が元に戻ったアンディが、解説者の目をして語りだした。
「あれは生産性を高めるために敢えて塗装の選択を黒一色にしたりだな、とにかくセコい手を使ってまで大量生産をしてまで安くしてるんだよ。そんなのよりフィアット見ろフィアット。格の違いが・・・・・・って聞いてるか?」
 聞いてない、だから黙れと即答するのは簡単だが、その後のアフターケアまでしていたら夕飯の用意ができない。カルロはさらにあいまいな相槌を打ちながら、この馬鹿を黙らせる方法を考える。
 この状態のコイツには、的確なツッコミもしくはさらに頭を抱えさせるような質問が必要だ。まあ、どっちにしても面倒なのだが、この気持ち悪い顔で『そんな酷いこと言うなよぉぉぉ~』などと泣きつかれるほうが圧倒的に面倒である。やがて、カルロは一つの答えに達した。
「なあ。」
「なんだよ。」
「・・・お前、さっきアメリカじゃ400ドルで――なんだっけ。
名前は忘れたけど、とにかくなんかの車が売られてるって言ったよな?」
「だからフォードT型だ、このぼけちん!
あの面白みの無いボディといいあのバカみたいな安さといい・・・あ?」
 喋りだそうとするアンディを手で制する。非常に不服そうだが、どうしても従ってしまう。そういうキャラクターなのだ、この男は。
「今もの凄く不条理なこと思わなかったか、お前?顔に出てたぞ。」
「あぁ・・・そうかそうか。多分気のせいだから安心しろ鈍感。
 で、聡明なるアンディ君?そのクソ安い400ドルは、リラに直すといくらになるんだ?」
 ぬお!?と馬鹿がのけぞる。
 いくら知識があろうと馬鹿は馬鹿だ。たちまち頭を抱えて悩みこむ・・・その姿がやけに滑稽だが、そろそろ晩の飯支度をしなければいけない時間である。すなわちこんな阿呆に付き合っていたらおばちゃん共に食材を根こそぎ奪われるということだ。
「というわけでアンディ。
 俺は晩飯の支度があるから先帰るぞ。」
「うん?あ、ああ、分かったからもう話しかけないでくれ ――だから最近の為替レートが・・・・・・」
 手で追い払うしぐさをされる・・・かなり腹に来るが、こやつの相手をするよりはマシだ。
 一人階段に座り込んで頭を抱える変人に手を振りつつ背を向け、カルロはだいぶ傾いた、だがまだ落ちることは無い陽に照らされながら、市場へと向かった。

「・・・・・・重い。」
 人間、買い物をすれば荷物が一つ二つ増えるのは当たり前であり、多少懐に余裕がある状況下で商品を上手く値切れたときなどは、とにかく荷物が屋根裏のネズミのように増えるものだ。カルロもその、『人間』という一括りの中に入るようで、現在カルロの視界は、抱えた荷物によって大半を支配されていた。
 ちなみに、日も傾きかけている時間だ。ただでさえ確保されて無い視界は、さらに不安定なものとなっている。
こんなことならば袋でも持ってくればよかった、などと考えるカルロの歩く道に、明かりはあるが人影は無い――それもそうだろう。このあたりの住民は大概にして遠洋漁業に出る益荒男が多いし、そのおかみさんたちは家計をささえるために、今も酒場で、商店で、宿屋で、懸命に働いているはずである。その子らは家の中でくつろいでいるに違いない。
(それもそうか・・・。)
そう、確かに日が沈みかけ、西の空の、濃紺の占める割合が多くなる時間においては出歩く人間は少ないだろう。
 だが、カルロのような年頃の少年たちまでいないのはおかしい。このぐらいの年頃の少年少女ならば、遊びたい盛りなお年頃のはずだ。
(やはり――殺人事件が)
関係しているのだろう。

 平和な街とはいえ、周囲に人間がいればそこは魔窟だ。人間とはすなわち、比率は多少違えども、少しばかりの善意と勇気その他もろもろ・・・そして四分の一ぐらいの悪意によってできている。
そういう物質(モノ)とカルロは考えていた。
 だから、カルロはその事件にあまり衝撃は受けなかった・・・むしろ、『やっぱりな』という感情に近かったかもしれない。だが、街の人々はそうは思わなかったようである。地方の新聞、井戸端会議のネタ・・・それらのよって広まった黒い噂は、やはり人の心を不安にさせるのだろう。
 今日の街の活気にしたって、恐らくはそこらへんの心因から来ているのだろうな、とカルロは思った。

 ボツリ。
 唐突に、頬を水が流れ落ちた。
「ぬぉ?」
 それは確かに頬を伝うものだったが、塩分は含まれていない・・・端的に言えば雨だった。気候が全体的に明るいカンパニアとはいえ、雨が降らねば人も住むまい。カルロは、本降りになりそうな雨を避けるため、雨宿りのできる路地へと走りこんだ。

「寒い。とてつもなく寒いぞ・・・・・」
 ここは確かに温暖で知られる街であるし、夏の暑さといったら裸で水を浴びても暑いぐらいだろう。だが、日陰に入ればとても涼しいし、何しろ夜の冷え込みがこの街はキツい。ちなみに、現在カルロがおかれている状況としては、『日陰』で『夜』で、さらには『雨』である。
「冗ッ談じゃない・・・あー、クソッ、なんつー寒さだ!」
 カルロは、ガタガタ震えながら悪態を吐く。彼は今ワイシャツにスラックスという比較的薄着な格好である・・・いや、この状況下では悲劇的な格好だが。
 さらに言えば、雨が降り出したあたりから、嫌な予感というか本能が危険信号を上げている。こう、どうしようも無い焦燥感がカルロの中に募り、さらに震えを加速させた。
「だーッ!
 神様がいるって言うなら今だけでも信じてやるから!
 とりあえず頼む、俺を濡らさずに家に帰してくれ!」

 ――と。こっちに向かって、白と赤の、非常に目立つ格好をした人が歩いてきた。髪が長いことを考慮に入れると、恐らく女性であろう。
(・・・むしろ、そうでないと俺結構落ち込むんだが・・・)
 それにしても危なっかしい足取りだ・・・女は、遠目にも分かるほどよろめきながら歩いている。
 だんだんと距離が近づくにつれ、女の着ている服が非常に特異であることに気がついた。
「・・・キモノ、か?」
 話か何かで聞いたことがあるぐらいだが、確かニホンという東の国では、あんなような服を着ているのでは無かっただろうか。
 雨が降り続く中、女は健気に歩き続ける――が、健闘空しく、
「――あ、倒れた。」
 パッタリと倒れ伏した。
 女が倒れたことに驚いたカルロは、さらに周りを見て驚く。さっきまで降り続いていた雨が綺麗に止んでいたからであり、それは確かに家にとっとと帰ることのできるチャンスでもある。
「・・・・・・おいおい、こりゃあ洒落にならないぜ・・・」
手には大量の食材。しかも上手く値切って大量に買ったものだ。これを家まで持って帰るのは、もはや己に課せられた命題だとしか思えない。
カルロは倒れ伏す女を一瞥してから、
「・・・まあ、俺がいなくても世界は回る・・・ってね。」
 そう呟き、路地を後にした。




 カチ、コチ、カチ、コチ・・・・・・

 落ち着いた色の木のテーブルに、複数の本が無造作に置かれている棚。
誰が描いたのかわからないような絵、そして窓際に置いてある、古ぼけたソファー。それら全てにものに、テーブルの上のランプが暖かな光を投げかけている。

 カチ、コチ、カチ、コチ・・・・・・
 時計の音が煩いぐらいの真夜中、一般的と言えるリビングで、カルロは本のページを捲っていた。
「くっはぁ・・・疲れたッ!」
 ・・・が、いきなり本を放り投げると、そのままの勢いで椅子の背もたれによりかかる。
 彼が読んでいたのは料理の本だ。
 彼だって料理は人並み以上にできるが、今回は訳が違う。なにしろ、ニホンとやらの料理に挑戦することになるかもしれないからだ。
(オコメっつーのは・・・リゾット用ので事が足りるか?あとは魚介類を港から調達してだな・・・いや待て、そういやあれを・・・切るんだったな。切り方はええっと・・・エマンセでいいのか?)
「分からねぇ・・・」
 脱力したまま天井・・・いや、正確にはその上、女の子がぐっすりお休みになられている場所を見つめる。こうも疲れるのだったら、拾ってくるんじゃなかった・・・とも考えたが、
「いやね?そりゃあなんていうの、俺の良心も両親も許さないというか・・・」
 とまあ、こんな調子である。
 そう、事の次第を説明すれば――こうなる。

『俺がいなくても世界は回る』
 これは、自身の行動理念でもあるし、性格の根底の部分を決定している文章でもあると、カルロは自分で把握している。
 いや、自分で把握しているという事柄が果たして自分に対して正となるかどうかは不明だが・・・とにかく、カルロはあの後、我関せずと帰宅し、食材その他をすべて置いたわけだ。
 だが、どこに残っていたのか知らぬ良心というものが、カルロの中で葛藤していた。これで良かったのか?と問いかける良心に対し、一度は「うるせぇこの馬鹿!」と黙らせたものの、何度も繰り返し問いかけてくる良心の攻撃についに折れ、「誰かが拾っているだろうけど、見るだけなら・・・」とクソ寒い中現場に戻れば、そこには同じポーズで倒れている人型がやはりあった次第。
 で、結果的に、その日本人だと思われる少女を家に運び込む羽目になったのであり、彼はその客人のために、わざわざその国の料理を研究していたというわけである。
 ・・・もちろん、それなりの下心やらはあるのだが。

「ああ・・・こんなことならば」
 年頃の少女といったって、そこまで軽いわけではない。むしろ、大した運動もしていないカルロには重いぐらいだ。
 その荷物を家まで運んだカルロは、どうしようもない背中の痛みに苛まれていた。
 やはり良心を意地でも封じ込めれば良かった・・・と考えたが、それは後悔先に立たずというものである。
「どうすりゃいいんだろうなあ・・・」
 これからの生活のこと。あの娘のこと。それらを考えて何度目かの溜息を吐いたカルロは、そのままぐったりとソファーに沈み込み、意識を閉じた。



朝、だった。
 それは見慣れたものよりも多少強烈な、しかし変わり無い明るさで部屋を照らす太陽の位置で分かったし、部屋に置いてある、古風の時計からも読み取れる。
 強烈な光を部屋の中へと誘い込んでいる窓を開けると、朝特有の慌しい空気と共に、潮の香が混じった人の喧騒が遠くに聞こえた。
 それはいい。それはいいのだ。決して嫌いな風景ではない。むしろ好きだ。
・・・だが、今はそれよりも重要なことがある。
こんこん、とノックの音が部屋に響く。
「おーい、起きてるかー?」
どこか張りの無い声。
そして、数拍置いてから、がちゃ、とドアノブをひねる音。
それと同時に少女はその方向に向き直り、
「おい、入る――
「で?ここは何処なのよ?」
 ちょうどドアを開けた男・・・恐らくそこまで年は離れていないだろう・・・を睨み付け、その問いを投げかけた。

 目覚めは悪くない。
 気分だってそう捨てたモンじゃないぐらいにはいいし、天気だって、昨日一雨降ったからか、半端じゃないほど素敵だ。
 ・・・だというのに、なんなんだろうこの欝な感じは。
「いかんいかん、これではお客様に悪いしな。」
 冷たい水で顔を洗い、ある程度身なりを整えて・・・といっても実は、自分の洋服はあの東洋人の少女が寝ている部屋に全てあるため、昨日のワイシャツのままなのだが・・・とにかく、カルロは階段を上って、部屋のドアをノックする。
「おーい、起きてるかー?」
・・・無反応・・・ってことは寝てるんだろうか。
 とりあえず声をかけながら入ってみよう。
「おい、入る――
「で?ここは何処なのよ?」
 すると、眩しい朝の日差しの中、壮絶にこちらを睨む少女がいた。
 キッツい視線にたじたじだ。いや、そんなに睨まれることをした覚えは無い。むしろ、感謝ぐらいはして欲しいものだが・・・
「ねえ。聞いてる?」
 少女は再びキツい目で問いかける。・・・あれ?おかしいぞ。寝ている姿は確かに穏やかだったし、なんとなくか弱げな姿も非常によろしかった。
 身長は150cmあるか無いかだろう、長い黒髪が朝日を受けてとても綺麗だ。
 ・・・が、この気の強さは・・・などとカルロが思考を巡らせていると、
「ふぐはっ?!」
 鋭い痛みが鳩尾に走った、
「寝起きでボーッとしてるのは分かるけど、質問に答えてもらいたいの。
 ここは何処?・・・で、あなたは何者なわけ?」
(・・・いや。俺の知らない言語でまくし立てられても・・・)
 とは彼の心境である。
 彼女の使っているのは何語だろうか。見かけからして東洋人だし、着ていた服はキモノとやらだ。・・・ということはニホンの言葉を使えばいい・・・
「ちょっと!?」
 何を言っているのかは分からない・・・が、怒りのニュアンスは十分カルロに伝わっていた。手を前に出す仕草で静止を表すと、どうやら伝わったようで、少女は口を閉じこちらを観察している。
(待て・・・落ち着け。ニホンの言葉の挨拶ぐらいしか知らんぞ俺は・・・)
 昨日はニホンの料理の本を読んでいたとはいえ、父の趣味でたまたまあっただけで、さらに言えばあれはフランス語だ。フランス語なら分かっても、ニホンの言葉など分かるはずがない。
 思わず唸ってしまう。まずコミュニケーションで手間取るとは・・・
 悩む間にも、少女は訝しげにこっちを見ている。
(どうすれば・・・そう、俺でも多少なりとも使える言語で・・・)
 英語なんかどうだろうか・・・いや、不安要素はバリバリだが。
 少女は完全にカルロの観察に飽きたようだ。カルロから体ごと視線を外し、窓から外を眺めている。・・・なんだか馬鹿にされているようで腹が立つ。とりあえず話しかけてみないことには始まらないだろう。
 カルロは腹をくくり、不慣れな英語で話し始めた。
「へ、ヘロー?マーイネイーム・・・」
 と。刹那、少女が笑いだした。
「クックック・・・!」
「な・・・なんだよ。」
 思わずムッとした表情で少女を睨むと、
「アハハ、Scusi(ごめんなさい)!
あんまりにもあなたのイタリア訛りな英語が可笑しくて!」
少女はあろうことか、イタリア語で返してきた。

「まずは私から自己紹介するわ。」
 ひとしきり笑うと、少女は流暢なイタリア語で自己紹介を始めた。
「カレンよ。カレン=ヤナギカゲ。性別は・・・言うまでも無く女・・・でそっちは?まさかレディに年齢なんて聞かないわよね?」
 ・・・どこがレディだ、出会い頭で鳩尾にストレートだぞ・・・というのは心の中の呟きに留め、カルロは一応の自己紹介を始めた。
「・・・カルロ。カルロ=ファルネーゼだよ。性別は人間で言うと男。動物で言うとオスってやつだ。
別段仕事してるわけじゃなくて、親父の仕送りで生きてる。ちなみに親父は出張で日本だ。」
「ふうん・・・ねえ、お父様が出張なさったのは日本のどこ?
私、会ったことあるかもしれないし・・・」
「いや・・・うん、それは知ったって仕方が無いことだからな。
敢えて聞いてもいないし、親父も教えようとはしなかった。」
「へぇ・・・ねえ、ちなみに聞きそびれちゃったんだけど・・・
 ここって何処?教えてくれると凄い嬉しいわ。むしろ、教えないなんていったら即刻この場で・・・」
「いや、答えはイエスだ。イエスだからその、唸って光りそうな右手を引っ込めてくれ。
 ・・・ここはカンパニアのナプレってとこだ。」
 すると、カレン・・・と名乗った少女は数秒呆けた後、結構な勢いで俺に詰め寄ってきた。
「え、ちょ、ちょっと待って!
 ここはナプレ?イタリアのナプレだって言うの?」
「え?ああ、そうそう・・・だから頼む、落ち着いてくれ。」
 少女の甘い吐息もさることながら、寝崩れたキモノというのは非常に男として困る。ドウドウ、となだめながらベッドに腰掛けさせると、少女は自分の中に閉じこもり、ブツブツ言いながら考え込み始めた。
「・・・おい?」
「イタリア?ちょっとまってよ、そんな話聞いてないって・・・・・・」
「・・・おーい?」
「確かに適当に飛び出して適当な船に乗り込んだけど、まさかこんなところまで運ばれてるなんて・・・」
「・・・・・・おい、篭られても困るんだがー?」
「ああもううるさいっ!ちょっと黙っててくれない!?」
 強烈な言葉の暴力と共にぶつけられる、脛への的確なローキック。
「あぁぁあぁあ・・・いってえ・・・お前、何しやが・・・
「人が考え込んでるときに話しかけてくる方が悪いのよ!
 いいからちょっと黙ってて・・・」
 再びカレンが殻に閉じこもろうとした瞬間、ゴロゴロ・・・とどなたさんかの腹の虫が鳴る音がした。
「・・・おい。実はお腹減ってるんじゃ・・・」
「ねえ?ところで、ここまでやってくれて、朝ごはんも食べさせずに外に放り出す・・・なんてことはしないわよね、ミスター・ファルネーゼ?」
「・・・それが脛にローキックをした人間の台詞か・・・?
いや、なんでもない。忘れてくれ。忘れてくれるついでに、その、俺の顔面に向かって振り上げられた拳を引っ込めてもらいたい。じゃないと朝っぱらからぶっ倒れて、俺がカレンの朝食を作ることができないからな。」
 カレンは数秒険しい顔で悩んだ後、満足した表情でベッドに腰掛けた。
「よし、それでいい・・・そのままで待っててくれ。
・・・ちなみに、何かリクエストとか、食べたいものとかは無いか?」
数秒驚いた顔をした後、カレンは優しく微笑んだ。
「大丈夫よ。別に無いわ・・・それにしても、優しいのね。
 案外・・・というか超絶に意外だわ。」
「・・・そりゃまた心外な。雨でビショ濡れだった哀れな少女を家まで運んでやって、さらにベッドまで与えて自分はソファーで眠った俺が優しいのが意外だって?むしろ聖人君子と呼んでもらいたいものなんだが・・・」
「へぇ・・・まあ運んでくれたのには感謝するけど。濡れたままの服をそのままにして寝かせてくれたのには感謝しかねるわね。」
・・・ってか、脱がせてもよかったのかあれは。
脱がせたら、それはまた脱がせたで何か言ってくるんだろう、というよりその光景が目に浮かぶ・・・
「ま、それはいいとして。この家には女ものの着替えとかあるの?私、流石に着替えたいんだけれど・・・」
・・・どえらいこっちゃ。最初に浮かんだのはそんな言葉だった。確かにそりゃそうだ、着替えが無くては話にならない。
「・・・男物じゃ・・・だめか?」
「ねえ、あなた喧嘩売ってるでしょ?ねえ?」
「うおぉぉお!頼む、渾身の力と満身の体重で俺の足を踏まないでくれ!」
「じゃあ冗談言ってないで早く出しなさいよ!」
 いや、無いんですってば。本当に。
「この家にゃ女というのが長らく住んで無いんだよ・・・
 いいから、我慢して俺の服を着てくれ、きちんと洗濯はしてあるから。
 ――ああそうそう、着替えとかそこらへんはあの棚な。」
 部屋の隅にある棚を指差すと、カレンはやれやれといったように首を振った。どうやら諦めがついたらしい。
「わかったわよ・・・背に腹は変えられない、って言うからね。」
「日本の格言か?」
「そんなとこ・・・・・・いいから出て行ってくれない?ここにいて朝食ができるってわけじゃないでしょう?」
何かを言い返したいが、いかんせん正論なだけに何も言えない・・・腹が立つが、この少女・・・カレンには口論では勝てなさそうだ。
 カルロは踵を返し、衣擦れの音を背に受けながら下へ降り、簡単な朝食を用意し始めた。



「で?」
 カルロの服に着替えて階段を下りてきたカレンの、第一声はそれだった。
「これが朝食だっていうの、カルロ?」
「あだだだだだ!だ、だから踏むな!日本じゃどうだか知らないけど、これがイタリアの標準的な朝食だよ!」
 朝の陽光に照らされた木の机の上には、家に多少あったビスケットにクロワッサン、それにわざわざ冷やしたコーヒーが置いてある。これがポピュラーなイタリアの朝食だし、カルロはいつもこれで済ませていた・・・が、確かにニホン料理の本には、『日本は非常に朝食のバリエーションが豊富で、量も多い』と書いてあったような気がする。
「大丈夫だ、嘘は言ってない。
 ・・・そういや腹が減ってたのか。確かに腹が減ってる人間にこれは厳しいよなぁ・・・」
「そうよ。今すぐに何か作ってもらわないと、気が済まないんだけれど?」
「・・・悪い。食材は昨日で全部使っちまったぁがはぁ!?」
再び鳩尾に突き刺さるストレート。駄目だ、コイツ・・・早くなんとかしないと俺が死ぬ・・・
「・・・・・・いいわ。これがスタンダードなら、これで我慢するわよ。」
「最初っからそう言ってくれれば・・・」
「何か?」
「い、いやなんでもないッ!スタンダァド、スッタンダァァド!
 最高だよな標準的って!ポッピュラー!」
「・・・・・・大丈夫?日本でもいいなら、いい精神科医を紹介するけど?」
 ・・・こうでもしなきゃやってられないんだっての・・・
「遠慮しとく・・・それよりほら、コーヒーにはミルク入れるのか?」


カレン曰く簡単すぎる・・・イタリアでは普通の朝食を終えると、出かけるにはちょうどいい時間だった。
「何かしたいことあるかー?」
食器を片付けながら、ソファーに我が物顔で座っているカレンに、カルロは問いかけた。
「したいこと?」
「そう。この後したいことだよ。一日中家に篭ってるってものありだが・・・」
「・・・・・・んー。」
 腕を組んで考えこむカレン。
・・・黙っていればこいつも可愛い女の子なんだが・・・個人的観点から言えば、外見100点、中身25点ってところか。
「・・・うん、じゃあ街でも案内してもらいたいわ。折角外国に来たんだし・・・」
「おし分かった・・・ん?」
 何かがひっかかる・・・
「何?」
「ああいや、なんでもない。玄関はこっちだ。」


 ドアの外は、爽やかとは言い難い熱気だった。だが、雲ひとつ無く晴れ渡る青空と、離れていても聞こえる人々のにぎやかな声・・・そして、街並みの向こうに見える美しい港と海。白っぽい石造りの建物が陽光を反射し、街の明るい雰囲気を表現している。
「うにゃぁ~っ!」
 カレンは伸びをすると、これ以上無いぐらいのうれしそうな声で、
「やっぱしいいわね、外国は!」
 と叫んだ。その笑顔に、カルロは思わず顔がほころび・・・
(・・・・・・あれ?ちょっと待てよ。)
 再び何かに引っかかりを感じた。そう、彼女は・・・
「・・・ちょいまち。お前はイタリアの住民じゃないのか?」
「いいえ、私は日本人だけど・・・」
「いや、そうじゃなくて・・・イタリアに住んでるんじゃなかったのか?
 じゃなかったら、そんなにイタリア語が上手い理由の説明が・・・」
「ああ・・・私はね、お父様が元々貿易関係のお仕事をしていたから。
 その関係で、趣味として語学を教わっていたの。」
 ・・・高尚なご趣味なことで・・・皮肉のニュアンスをこめて、カルロは心の中で呟いた。少なくとも父親が自分のために何かしてくれた覚えは無い。
「・・・元々?ってことは今は?」
「お父様はね、貿易のお仕事で船に乗っている時に、嵐に遭われたんですって。そのときに、その船にあった神様の像が光って、お父様達の船を助けて下さった・・・それで、お父様ったら神道に目覚めちゃってね。で、今は住職を、私は巫女をやっていたの。」
「巫女?」
「ええ。神に奉仕して、祭儀や社務の仕事をする神職のお手伝いさんよ。」
・・・というと・・・自分の知りえる範囲で、近い役職を探す。
「・・・神子みたいなものか。」
「神子?」
「キリスト教で、似たようなことをする人のことだ。役職的に近いから言ったんだが・・・まあ、それはいいよな。行くぞ。」
「あ、ちょっと!私を置いていかないでよ!」
 輝くような太陽の下。カルロはカレンを連れ、燦然と光を放つ町へと歩き出した・・・敢えて、聞くべきことを聞かずに。


「ねえ。」
 商店街を歩いていると、ふとカレンがカルロを、下から覗き込むようにして聞いてきた。
「なんだ?」
 街は今日も賑やかだ。昼食の準備に買い物に走る奥様方、商談のために商業用スマイルを大安売りしつつ、商談に目を光らせる商人。暇を持て余した少年少女は服や娯楽用具を求め、子供たちは走り回って遊んでいる。
「目立って無いかな、私・・・」
 カレンが心配そうな顔で聞いてくる。
「確かに、東洋人ってのはそれだけで結構珍しいけどな・・・でも、そこまで目立つってほどでもないさ。」
 ニホンは第一次世界大戦の協力国だ。別段ニホンに悪いイメージを持っている人は少ないだろう。
「・・・まあ確かに、目立つといっちゃあ目立つが・・・」
 整っていて、なおかつ愛らしい顔立ちに、男物のワイシャツとスラックス。
東洋人特有の漆黒の美しく長い髪。これで目立つなという方が無理がある。
 実際、街を行く男は、連れがいない限り、こちらを見ると顔が輝く・・・いや、連れがいてもこちらを向いている男はいるが。
 で、彼らに共通して言えるのが俺への眼差しだ。別段悪いことをしたわけじゃないのに、彼らの俺を見る目は既に、白人が黒人を見るそれに近い。
「やっぱり?・・・男物の服ってのは変だったかな・・・」
「・・・いや、似合ってるからいいんじゃないか?」
 それに可愛いしな、とは心の中で付け加えておく・・・いや、あくまで黙っていればだ。今は人目を気にしているのだろうか発言は控えめだが・・・
「本当?似合ってる?」
「あ、ああ・・・」
 カレンはやたらと嬉しそうな顔でこちらを見ていたが、
「・・・・・・でも、男物が似合ってると言われても嬉しくは無いわね。」
 やおら表情を硬くし、そのままの顔で頬を赤らめ、
「でも似合ってるって・・・で目立つってことは・・・」
 また自分の殻に引き篭もってしまった・・・だが足は進んでいる。
(あーあ、転ぶぞ・・・)
 と思ってはいても、傍観に徹してしまうのが俺の性だ。案の定、カレンは石畳の継ぎ目につまづいて転び、
「うひゃあ!?」
――何故かそのまま、俺の方へ倒れてきた。
「っと。危ないヤツだな・・・ほら。」
「あ、あう・・・」
 何故か倒れこんだ姿勢で固まってしまったカレンを、手を取って立たせてやる。周囲の視線がアレだが、こうしてやらなければ致し方が無い・・・むしろ、こいつを連れて歩く時点で、道行く人々の反応なんてものは想像できた。
「ほら、大丈夫か?どこか捻ったりとかはしてないか?」
「う――うん、大丈夫。そ、それより・・・」
「ん?ああ・・・」
いいたいことは理解できる。確かに衆人環視の中こんな状態でいたら、どんな誤解をうけるか分からない。いろいろと厄介なことが多くて困る、とカルロは、受け止めたときから繋ぎっぱなしだった手をゆっくりと解いた。

 その後しばらく、カレンはろくな返事をしようとしなかった。
 服を見ても、アクセサリーをみても、ロクすっぽマシな返事が返ってこない。露店の兄ちゃんからは『幸せにしてやれよ』なんて言われたが、それがさらに無口に拍車をかけたらしい。
(ニホンってのは貞操観念が強い国だったっけな・・・)
 それならこの反応も頷ける、とカルロは納得した後、
(ま、でもこの先に行けば機嫌は直るだろ・・・何しろ――)
 ここを舐めてもらっちゃ困る。カンパニア一の美しき街、ここを見ずに死ぬのは愚者のすること・・・ナプレ。その旅行者を惹きつける魅力が、他の観光都市とは比べ物にならない。
 目的とする場所はガッレリアと呼ばれるアーケードだ。トレド通りに入り口があるそれは、ガラス張りで非常に高く、優美なアーチを描く屋根、足元のモザイク、そして中央部には十二星座が描かれている、とても美しい商店街である。
「・・・ねえ?どこに行くの?」
 と、行き先も告げずに歩いているカルロに不安を感じたのか、カレンが声をかけてきた。まだ赤みが抜けないが、少しはマシになった方だろうか。
「あ?ああ・・・ここだ、ここ。」
 ちょうどいいタイミングで、ガッレリアの入り口に着く。
「ここは?」
 カレンは興味津々、といった感じで中を覗き込んだ。そんなカレンを先導しながらガッレリアの中に進み、説明をする。
「ガッレリアって言ってな。屋根付きの商店街のようなもんだ。1890年に出来たもので・・・・・・っておい、どこ行った!?」
 いつのまにか傍らにいたカレンが消えている。慌ててあたりを見回す・・・が、いない。
「ったく、まいったなチクショウ・・・」
 恐らく、腹でもすかせているだろうと思ってここに連れてきた、が・・・ん?
 まばらな人の間に、長い黒髪を見つける。
(あんな遠くまで・・・ニホン人の脚力は化け物か・・・!?)
 と、向こうもこちらに気が付いたのか、こちらに向かって大きく手を振るカレン。早く来いということだろう・・・目が雄弁に語っている。
「はいはい・・・っておい、待て!」
 何か注文しているようだということは分かる。それはいいのだ、普通の露店ならばよかった・・・が。カレンが立っていたのは高級で有名なピッツアリア『ボルタルバ』の、店頭販売だった。
 ピッツアリアとはその名の通り、ピッツアを焼いて売る店のことだ。店によってある程度アレンジは加えてあるものの、ピッツアの種類はマリナーラとマルゲリータの二種類に分かれている。マルゲリータの方が歴史が格段に浅い・・・が、それはさほど味には関係しない。ちなみにピッツアの製法は、小麦粉と塩をベースにした生地を手で伸ばして、窯の床面で直焼きし、ふっくらと焼きあがったそれに材料その他をのせれば完成だ。
 ボルタルバのピザは、窯や技術もそうだが、材料も一流のものばかりを使った高級品である。まず、その年の評判が一番高い小麦粉を使い、塩はどこか遠くの塩の海から輸入したもの。トマトはサンマルツァーノのものを使い、オイルはもちろんエクストラ・ヴァージン・オリーブオイルだ。バジリコだって当然、一番値段の高いものを使っている。
 ・・・と、詳しい解説はできるが、人並み以上に懐事情が寂しいカルロは未だに食べたことは無い・・・憧れゆえの知識、といったところか。
 って、そんなことは問題ではない。重要なのはヤツが何を頼んだかだ。
「おーい、こっちー!」
 なおも大きく手を振るカレン。彼奴め・・・、やりやがった。
 カレンの背後には、笑顔・・・というよりはニヤケ顔でピザの袋を持つ店員が一人。持ち帰り用のデカいやつを買ったみたいだ。専用の袋に入っている。
(・・・・・・ってあれ?アイツ金を持ってるなんてこと言ってたっけか?)
 マズい――が、もう彼女の有効射程範囲内に入っていたカルロに抵抗の術は無い。

「よし、よく来たわね・・・ついでにだけど、ピザのお金払ってくれない?」
 じり、と笑顔でにじり寄るカレン・・・た、助けてください少佐・・・
 笑顔・・・というよりは引きつった笑いでカレンを見るが・・・奴め、いい目をしてやがる。逆らったら銃殺刑か。はたまた拷問の末に家畜のエサか。
「い・・・イエッサ・・・」
 引きつった笑顔でカレンに敬礼。
「うむ、よろしい!じゃ、支払いよろしくね~」
「ぐ、おおお・・・」
 懐から財布を取り出し、今週は絶対に使うまいと心に決めた虎の子を取り出す。
 そして、未だにカレンに見惚れたままであろう店員の手に差し出し・・・
「「・・・は?」」
 互いの顔をしっかり確認した時点で、両者ともに固まった。
 次の瞬間交わされる拳――!

「・・・・・こちらのお連れさんは誰だ、カルロ。どこで拾ってどう手なずけてどうやってモノにしたか簡潔かつ俺にも納得できるように原稿用紙三枚以内で説明しろ。ちなみに『カワイイ女の子を連れ歩くためには』についてのレポート提出は義務だ。」
「黙れこの変態野郎。アンドレアなんて立派な名前はてめえに必要ない・・・今から変態戦士と名乗ってもらおうか?」
 ミシ、と鳴る両者の頬と拳。ぶっちゃけ俺が殴ったのはノリだが、変態の目をしていたので懲悪と判断していいだろう。犯罪阻止というのは非常に重要な行為だ。

「く、クロスカウンター・・・。」
 カレンは違う次元で驚いている。いや、こいつと息が合ってるなんて断じて思われたくないものだが。
(・・・ってか、いつまでこの状態なんだろう・・・)
 流石にこの体勢に恥ずかしさを感じ、カルロがアンディから拳と同時に視線を離すと、アンディはそれを追いかけて顔を動かしてくる。
「・・・なんだよ。」
「ほう?なんだよとはなんだ、お前は随分楽しそうだなぁ、ええ?
 いいよなデート!どうせ俺みたいな貧乏野郎は、一生路地の片隅で寝てるだけで十分なんだよな、チクショウ!」
 ・・・もちろん全てジョークってことは分かる。というより、貧乏度で言えば恐らく俺の方が上だ・・・・・・今の事でさらに寒くなった懐は、来月の振込みがあるまで再び暖かくなることは無いだろう。そんな懐事情を悟ってか、アンディはこっそりとウインクし、俺の手のひらにつり銭を多く握らせてくれた。
(サンキューな)
(いや、気にするな・・・かぁいい娘の為ならなんとやら、ってな)
 小声で会話をすると、傍らのカレンに声をかける。
「よし、行くぞ。夕食はショボいものだけど勘弁しろよ。」
「・・・まあ、いいけど・・・何?本当にいいの?」
「お前な、買わせといてそりゃあ無いだろ。」
 カレンにも遠慮という言葉は通用したようだ。『遠慮?それどこの方言よ?』なんていわれた日には、俺の財布がカレンの胸のようにぺったんこになってしまうだろう・・・
「・・・今、もの凄く失礼な目でこっちを見ていた気がするのだけど。気のせい?」
「多分恐らく気のせいじゃ・・・
「店員さん、これもう一つ――」
「やーめーてっ!わかったよ、わかったからそんな極悪非道なことはやめてくれ!」
「よろしい。んじゃ、今日の夜ご飯はしっかりと作って頂戴ね。」
「ぐはっ・・・了解した・・・」
 がっくりとうな垂れる貧乏一人。
(何故だろう、何故こうも視線一つで色々とばれてしまうんだ・・・)
 カルロは己の特殊能力に嘆きつつ、満足気なカレンを連れてガッレリアを後にするのだった。


「広い・・・」
 確かに広い。そうだろう、確かに広いさ。
「よし、次行こうか。」
「ちょ!待ってってば。ここがどんなところだかの説明ぐらいはしてよ。」
「プレジデッド広場。ただ広いだけのかったるいとこ。ハイ終了。」
「・・・私はちゃんとした説明を求めてるんだけれど?」
「いいからピザ食え。食いねえ食いねえ。熱いうちに食わないと微妙だぞ・・・・・・分かった、冗談だ。」
 キツい眼光、というよりは殺意率300%ぐらいの視線を受け、溶ける前にやむなく説明を開始する。ニホン人が几帳面で、なおかつ細かいところにこだわるというモノの片鱗を見た気がしないでもない・・・いや、どうでもいい・・・よくないが、とにかくピザを熱いうちに食べるのはナポリっ子の常識だ。
立食が行儀悪いと言ってピザを食べようとしないカレンの口に無理矢理ピザを詰め込もうとしながら、カルロは気だるげに説明した。
「プレジデッド広場。昔は王国の王宮なんかがあったりしたけど、数十年前にどっかの英雄に占領されてはい終わり、今は無駄に大きい建物があるだけなところだ・・・ほら、いいから食えって!」
「んー!ちょ、やめなさいってモゴモゴ・・・」
 なんだかんだ言っても、やはり旨いものは旨いらしい。律儀によく噛んだ後、上品に飲み込んでからカレンは口を開けた。
「・・・へえ。じゃあそんなに面白いところでも無いのね。
 いいわ、次行きましょ次。」
 モッキュモッキュ、なんて効果音がついてきそうな程に、実においしそうにピザを食べるカレン。
「なあ?金払ったの俺なんだからさ、」
「却下。これは私があなたに頼んで、私が買ってもらったものなの。だからこのピザは私のものよ。」
「おま・・・」
「異議申し立ても却下。これはカルロなんて小市民にはもったいないわ。」
 だっておいしいんだもの、とにっこり付け加えるあくま。このあくまに付き合っていたら、恐らく財布が一つや二つでは足りなくなるんじゃなかろうか。
「・・・ちくしょう・・・」
 なるべく金のかからないルートを使おう。ってかそうでもしないと破産してしまう・・・。カルロはそう心に決め、広場を後にした。

 遊歩道を歩き、サン=ルア港へと出る。
 ここが最も栄えるのは早朝と夕方、それに夜だ。正午を軽く過ぎたぐらいのこの時間では、人の姿はまばらだった。時折打ち寄せる波に僅かに揺れる船。漁業組合の建物の上には垂れ下がった白い旗、水平線まで視界を遮るものは無い。
「で、ここがナプレの玄関口だ。金を使うべきところは存在しない。だから次行くぞ。」
「む・・・別にあなたに貢いでもらおうなんて思ってないわよ。」
「お前な。貢ぐつもりなんて毛頭無いし、貢いでもいないぞ。ただ単に、これ以上金を要求されると困るってだけでだな・・・」
「・・・その時点で貢がされてると思うけど。」
「マジ?」
「大マジよ。」
「・・・・・・分かった。二度とお前には金を使わない。」
 カルロの視界が急激にブレた。ジンジンと痛む頭を抱え込むカルロに、
「・・・ま、貢いでるんじゃないならそれはアレよ、アレ。」
「アレ?」
「・・・・・・それを言わせる?」
 再び顔を赤らめるカレン・・・リアクションが一定なのはどうにかしたほうがいいと思うぞ、絶対。
(だが、『アレ』ねえ・・・)
「ハッ・・・」
 思わず自嘲気味に笑ってしまう。
「何?」
「なんでもないって・・・ハッ、ハハ・・・」
 俺を不審そうに見るカレン・・・いや、これは心配という表情だったろうか。


――とにかく。


 俺に限って、『アレ』なんてことは無いというのに。
 ポタージュのような、磨耗した感情には必要ないモノ。とっくの昔に、カルロ=ファルネーゼという個体がどこかに忘れてきてしまったモノ。

 それとも、まだ期待しているのだろうか?

 自分が、『  』であるということに、その証拠があることに――


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