おぎゃりん☆の 元氣に活きる通信!

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『道とはなにか!』

ボクの尊敬する楽天広場のアニキ♪ いいこと探険家さん からの学びです。



道というものは、人が日々の活動をしていく上で、必ず通
らなければならないもの、かたときも離れることのできな
いものである。
離れることができるのは、道ではない。


【中庸:一章】



道(みち、どう、タオ)というと、凡人にはとても及ばない
崇高な境地のように思えるが、実はそうではないらしい。


「中庸」の別の箇所に、

「道は、人から離れたところにあるのではない」

とあるように、まさに私たちは道そのものを歩いている。


この考え方は東洋思想の根幹を為しているようで、多くの
聖賢が「中庸」と同様の教えを残している。


孟子曰く、


道(人の行うべき道)は、大きな道路のようなものである。
どうして分かりにくいことがあろうか、誰にでも分かりや
すいものである。
自ら知ろうと求めないことが問題なのである。      

・・・・孟子:告子篇


道はごく身近なところにあるのに、人はこれをわざわざ
遠いところに求めようとする。              

・・・・孟子:離婁(りろう)篇




◆道を体得する極意



道を究めることは、修行者の願望(?)でもあったようで、
師と弟子との間でよく問答が交わされたようだ。


次の会話は、『無門関』に出てくる修行者の趙州と師の
南泉和尚とのやりとりだ。

道とは何か、そして道の体得について(私にとっては)
非常に分かりやすい説明だと思う。 


趙州 「道とは何でしょうか」

南泉 「平常の心が道だ」

趙州 「(その道を)どのように歩く(修行する)べきで
    しょうか」

南泉 「歩こう(修行しよう)とすると道からズレてしま
    うだろう」

趙州 「しかし、歩こう(修行しよう)としなくて、どう
    して道を歩く(修行する)ことができますか」

南泉 「道は、歩く・歩かないという心の有無によって、
    有ったり無かったりするものではない。
    また、知識があれば道がわかるというものでもな
    い。知識はとかくものごとを相対的に二分して考
    えるために偏った知覚に陥りやすい。
    といって知識がなくてはまた何もわからない。
    よって知にも不知にもかかずらわらない、

    つまり、無心そのものになって日常の起居動作に
    励むなら、自然に体得できるのが道である。
    ちょうど澄みわたる大空のように、明白で説明の
    余地などあるまい」(松原泰道氏訳)



要するに、

「日常生活の一つひとつを心を込めて行うことが道を体得
する極意であり、その行為が道そのものである」

ということだと思う。




◆事上錬磨の重要性



同様に、王陽明が「事上錬磨(磨錬)」の重要性を説いて
いる。

事上磨錬とは、南泉和尚の「無心そのものになって日常の
起居動作に励むこと」にほかならない。


次の文章は、伝習録の中で王陽明が「事上磨錬」について
語っている場面である。



★事上磨錬


一人の下級役人がいました。

先生の学問を久しく聴講していたのですが、ある時にこう
言いました。

「(先生の)この学問は大変すばらしいと思います。ただ
帳簿の仕事、訴訟裁判の事務などが繁雑難儀で、とてもこ
のような学問をしている暇がありません」

先生は、これを聞いておっしゃいました。

「私はあなたに帳簿の仕事、訴訟裁判の事務などを離れて、
抽象的な学問をしなさいと教えたでしょうか。あなたには
役人としての仕事があるのですから、役人としての事上(仕
事の上)において学問をしなければなりません。これこそ
が真の格物(心を正すということ)なのです。

たとえば、ひとつの訴訟事件を調査する場合のように、(被告
の)その応対が乱暴無礼だという理由から、怒るべきでは
ないし、(逆に)その言語が如才がなく穏やかだからとい
う理由から、喜んではいけません。(被告に)他人からの
免罪の依頼が来ていることを憎んで、処罰を重くしてはな
りませんし、(逆に)それらの要請に耳を傾け、意見を変
えて処罰を軽くしてはなりません。

自分の事務が多すぎることを理由に、勝手にいいかげんな
処置をするべきではなく、第三者が非難したり、罪に陥れ
ようとするからといって、彼らの意見に従って被告を処分
すべきではありません。

これら公平ではないすべての考えは、皆私心にほかなりま
せん。

ただ、(私心であるかどうかは)あなた自身が知っている
ことですから、よくよく細かく省察克治しなければなりま
せん。

ただ我が心がほんの少しでも偏っているなら、正しい是非
の判断を曲げることになるということを、常に恐れること
こそが格物致知なのです。

帳簿づけや訴訟裁判といえども、決して実学でないものは
ありません。
もし実際的な事物を離れて学問をするなら、かえって抽象
に陥ってしまうのです」

・・・・林田明大:真説「伝習録」より




◆実践しなければ何も起こらない



まさに、普段の生活のなか(事上)にこそ「錬磨」の場所
が存在するのだ。

難行・苦行や山にこもって修行しなくても、どこでも道を
体得することができることは大変ありがたい。

しかし、どこでもできるからといって誰もができるわけで
はない。


実践しなければ何も起こらない。


私としては、一つひとつのお役目を心を込めて誠実に
こなしていきたいと思う。


「何もそんなに辛いことをしなくてもいいのに、もっと
楽しく生きようよ」ともうひとりの自分がささやいている。

でも「お役目を心を込めて誠実にこなす」ことが本当に辛く
て楽しくないことだろうか。


何もせずに「難行・苦行が必要ない」と知った人。

難行・苦行の末に「難行・苦行が必要ない」と悟った人。

同じ結論のようでも、人間の重厚さに雲泥の違いが出てく
るだろう。


例がよくないかも知れないが、私の場合、ギターを弾き
始めたときは、指が痛くて腕も疲れた。

でも、辛くはなかった。

そして今では、メチャクチャ楽しくなっている。


事上磨錬も同じことだと思う。

初めは指が痛くても、慣れて、習慣になれば楽しくもなる
だろう。

余分な力がすうっと抜けるからだ。

やがて、いつのまにか、自然同然となり、楽しいとすら氣
づかなくなっている自分を発見するだろう。


習慣は第二の天性。


まさに至言である。




◆実践しよう!



道などなかった。

だから、道なき道を切り開いてきた。


私の前に道はない、私の後に道ができる。


なるほど、すばらしい!



さて、その道を造るための「大地」を用意してくれたのは
誰なんだろうか?


その大地を作るための「空間」を準備してくれていたのは
誰なんだろうか?


その空間を存在あらしめるために「無」を創造してくれて
いたのは誰なんだろうか?


そして、こんなことに考えを巡らせる「こころ」を育てて
くれていたのは誰なんだろうか?



ただただ感謝の氣持ちが湧いてくる。


このような心境で「心眼」を開き、「心耳」をすまして
みよう。


きっと、すべての「道」、そして「進むべき道」が観えて
くるはずだ。


さあ、心おきなく前進しよう!





私から始めよう!


はじめの一歩を踏み出そう!



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