想い出記念

想い出記念

2007年10月29日
XML
カテゴリ: 硫黄島 体験記


午後から雨空となっていたが、夕方になり降雨となった。

午後5時なのにかなり暗くなり、車は皆前照灯をつけている。




今日の写真は、歩145聯隊本部壕群「(正)歩兵愛145聯隊本部壕(この奥一隊)」です。

池田増雄大佐率いるこの部隊は、九州の現役兵で編成された最強部隊です。

配置

 連隊本部宇関係及び第2大隊:北部落より為八海岸一帯
 第1大隊:高砂台西揚陸場東西の線より不磨に第、大阪山一帯の中地区隊
 第3大隊:東山より元山、玉名山一帯
 野砲大隊:天山、元山付近

第1大隊(原光明 少佐)は旅団長の指揮下に中地区隊として、南海岸高砂台一帯と西海岸西揚陸場以南及び舟見台の間に布陣した。

第1中隊(知名定福 中尉)を西揚陸場以南の水際に、第2中隊(鹿島豊 中尉)を高砂台の第1線水際陣地に配備した。

第3中隊(高山惣次郎 中尉)及び歩兵砲小隊と共に舟見第北側一帯に陣地を占領し、南及び西海岸からの敵上陸を予想し、防備陣地をしいた。

2月16日以来、敵の艦砲射撃が南海岸に集中したが第2中隊は松田、村上、桑畑の各小隊を支店とし、縦深に分散配備を布いていたために損害は軽微であった。

2月19日、敵戦車数両を戦闘に約1個大隊の敵が高砂台正面に上陸し、隣接の南地区水際陣地と連繋して狙撃によりこれを邀撃し、友軍砲兵の射撃と共に敵に大打撃を与えた。

しかし、忽ち敵支援艦艇の集中砲撃を受け、上陸戦車及び艦載機の銃、爆撃の目標になり次々と陣地が潰され損害が続出したが、終日、狙撃により敵の前進を阻止した。

2月19日夜には既に兵力は半減していたが、敵の照明弾下、敢然として白兵手榴弾を以て敵中に突入し、終夜死闘を繰り返したが、2月20日朝までには殆ど全滅し、僅かに生き残った者は船見台の本隊に合流した。

大隊長 原少佐は、2月19日夜第3中隊の一部を救援に出撃させたが、既に殆ど全滅しており船見台に引き上げさせた。

2月20日、敵の有力な一部は摺鉢山と千鳥飛行場の鞍部に侵攻し、引き続き西海岸に向けて進んできた。

2月21日、適約1個大隊が千鳥飛行場西側から高台に沿って北上を開始したので第1中隊は側背に敵を受け、急遽背面方向に陣地を布いたが裸陣地で地形が不利と判断し、原大隊長は、知名中隊長に命じて速やかに陣地を撤収して大阪山方向に後退を命じた。

この結果、米軍が2月22日頃には千鳥飛行場西側から船見台付近の線まで侵攻し、、引き続き元山飛行場西端に攻撃を加え、西地区隊の水際陣地も側背から敵を受ける形となった。

ここに至って原少佐は、師団命令により各隊を大阪山に集結させ、所在の独立歩兵第31大隊(岩谷 少佐)第1中隊(坪井中尉)等を指揮下に入れ、主として挺身斬込により侵攻の敵に打撃を与えて大阪山を確保したが、我が方の被害も多くなり兵力は極度の低下した。

ここにおいて栗林兵団長は2月26日、歩兵第145聯隊第1大隊を旅団の指揮下から師団の直轄とし、独立速射砲第9大隊(小久保蔵之助 少佐)独立機関銃第1大隊主力(川南洸 大尉)特設43機関砲隊(田村雄蔵 中尉)等の残存部隊も指揮下にいれて挺身斬込により大阪山の確保を命じた。

原少佐は残存部隊を大阪山西側に集結して主として挺身斬込肉薄攻撃班を各隊より出撃させ、田原坂、眼鏡岩の線を死守していたが、2月28日には敵の占領するところとなった。

原大隊長は2月28日夜、知名中尉に約100名の兵力を以て眼鏡岩を奪還させるために夜襲を命じた。

照明弾下、知名中隊は手榴弾白兵戦で敵中に突入して終夜死闘を繰り返し、眼鏡岩を奪還して旅団との連絡確保に努めたが衆寡敵せず(人数の少ないものは、人数の多いものに勝ち目がない)殆ど全滅して奪還は不成功に終わった。

原少佐も重傷を負い、3月2日には大阪山の一角が的に占領され、第1大隊は玉砕した。

第145聯隊本部関係及び第2大隊(聯隊長:池田増雄大佐、第2大隊長:安武末喜 大尉)は、師団の直轄として為八海岸台上より師団司令部の愛段位置し、師団司令部の直接援護に任じていた。

2月26日、独立歩兵第311大隊長 辰見 少佐が戦死し、大隊が壊滅に瀕したので師団命令により西地区隊も併せて指揮し、残存者を逐次標流木に集結させ、北地区の防備の強化を図った。

3月5日頃には大阪山が敵の手に陥ち、米海兵第5師団が大阪山~西海岸からテーブル岩~北部落に対し攻撃を開始してきた。

来れに対して旅団砲兵第3中隊(松原一雄 中尉)の山砲及び野砲第2中隊(里中忠吉 中尉)の残存火砲を以て反撃しつつ、夜間は切込隊を以て北複郭陣地を死守したが、兵力は漸減し3月13日頃には東、南、北の三方から北部落~為八、標流木に圧迫されて包囲されるに至った。

3月14日、池田大佐は涙を呑んで連隊旗を奉焼して連隊本部を混成第1旅団工兵隊の地下壕に移し、前線から後退の残存兵を為八及び標流木に集結して斬り込みを続行し、必死に師団司令部を援護して敢闘した。

3月17日夜、栗林師団長以下、市丸利之助少将等が司令部地下壕を脱出して合流し、第2大隊を基幹として連隊本部直轄各隊及び師団から合流した各部隊の残算者、海軍等約1000名を誓いを利用して、複郭陣地に配備し持久戦闘を行っていた。

当時、米軍は最初に上陸した海兵師団と新たに上陸した守備部隊(陸軍1個聯隊)との交替中で積極的には攻撃しなくなり、対峙したままであった。

我が方の守備隊は既に食料、水も尽き、夜間は壕を出て彷徨い、水探しに懸命であり海岸の崖上を兵が三々五々歩き回っていたと言います。

聯隊手持ちの食料もそこをつき、最期が刻一刻と迫まる中、栗林師団長はついに最期の総反撃の決断をし、残存兵力約800名を数体に分け、3月25日夜、出撃を命じ、標流木沿いに出撃し、3月26日夜、敵中にと鬱入試、硫黄島における組織的戦闘が終わった。

145聯隊本部も師団の出撃に参加したが、途中師団長との連絡が取れなくなり、再び引き返して為八海岸付近の地下壕を転々と変え、連隊長以下本部付きの幹部将校等約20名程は、3月31日夜も尚為八海岸の崖上を行動していたが、その後の消息は定かでない。

最後まで池田大佐と行動を共にしていた野砲大2中隊長里中忠吉 中尉は、4月3日頃兵数名と為八海岸で行動中であったようですがその後の消息を伝える生還者がいない。

このようにして硫黄島で唯一軍旗を持っていた現役部隊は玉砕した。

 指揮官:池田増雄 大佐
 総員 :2,727名
 戦死 :2,565名
 生還 :  162名
 出身地:大部分は鹿児島県、九州各県

この奥にコンモリとした緑が見えますが、月下美人の群生地の一つです。

外周道は比較的広い道路ですが、移動訓練に来ていた隊員の運転する車が夜、月下美人を見に来てこの地で脱輪したことがありました。

何故・・・? 

どうすれば脱輪するの・・・・?

この下をとおり海岸近くの崖上まで行ってみましたが、厳しい状況でした。

岩を利用した壕等が散在しており、米軍の不発手榴弾を見つけては白いテープでマーキングして不発弾処理班に連絡していました。

ピンと握り部分の部品は腐食してなくなり、衝撃を加えると爆発しそうな状況です。

今日は長くなりました。

キーボードと叩きながら改めて硫黄島戦を勉強しています。

英霊を月下美人が慰めているような島。

それが硫黄島なのです。






お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

最終更新日  2007年10月29日 21時36分39秒
コメント(0) | コメントを書く
[硫黄島 体験記] カテゴリの最新記事


■コメント

お名前
タイトル
メッセージ
画像認証
上の画像で表示されている数字を入力して下さい。


利用規約 に同意してコメントを
※コメントに関するよくある質問は、 こちら をご確認ください。


【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
X

© Rakuten Group, Inc.
Create a Mobile Website
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: