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新中1の英語の導入を今年はこんなふうに行っている。〇アルファベットの発音(フラッシュカード使用)〇フォニックスアルファベットの発音(A says, a, a, apple)〇単語発音(フラッシュカード使用:apple book car dog elephant finger gorilla house ink jam key lemon moon notebook ostrich pen question rabbit snake tea umbrella violin watermelon fox yellow zoo)〇上記単語にaをつけて発音(不可算名詞はそのまま。moonはtheをつけて)〇今度は複数形にして発音(不可算名詞はそのまま。moonはtheをつけて)以下略 「単数形」と「複数形」を英語を学習する初期段階から学ばせているのが特徴である。もちろん複数形のs、esの発音の種類を細かく説明したりすることはない。私の発音を正確にリピートさせるのみである。aをつけることと、複数形にすることは同時に学習するべきだと私は考えている。一般的な英語教育では単語を教えて、書き取りをやり、慣れたあたりで「文」を教える。そして、This is a pen.のところあたりで初めてa penを教える。この順番はよくない。「これはペンです。」と「a pen」はセットで教えることではない。このような一般的な英語導入は、「習得」のためのステップとしても、「言語」としての「出会い」としても不自然過ぎると思う。こういうものは「つづりの練習もあるから、先に単語だけ教えて慣れさせよう」なんて安直にするべきではないところであろう。目の前に本がある。ネイティブがこれは何?と訊かれたなら、a bookと浮かぶのであれば、そこから教えてみたい。異言語=異文化との「出会い」を、私はそこに集約してみたいのである。そしてその目的の一つは「確実な習得」でなければならない。単数形と複数形などというものを一度に教えると混乱をするという意見もあろうが、「混乱」こそは初期にきちんとさせておくべきもので、単純に分解し過ぎて、後で混乱すると収拾がつかなくなる。生徒に混乱させることを恐れてはいけないというのが私の主義である。(もちろん、その「混乱」は最後に収められなければならないのは言うまでもない)「結果」を大事にした上で、「美学」なんていうものにも重きを置きながら、これからもいい方法を執念深く見つけていきたい。
March 1, 2007
私のブログ登場回数ナンバー1の中2のユウタ(仮名)君の『テストまでに最低限やっておくべきことリスト』というのを写真で公開してみよう。項目が左から「教科」「やるべきこと」「達成する日」「達成した日」「達成できたのか?」となっている。日付が2/27からになっているので、これは最後の追い込み用に改めて作成した「リスト」だと思われる。「達成する日(予定)」と「達成した日(終了)」の後の、「達成できたのか?」が泣かせる。本当に身についたのかどうかを自問しているのである。勉強を「やった」ことではなく、「できるようになったか」が問題なのである。何度も書くが、ユウタ(仮名)は昨年の入塾時に定期試験で275点ほどしか取れない子だった。入塾して半年と少しでこういうことが出来る子になった。もちろんこれは彼が自主的に作成し、書き込んでいる「リスト」だ。強制したものではない。最後の「達成できたのか?」欄は彼のオリジナルである。私はいつもユウタ(仮名)のことを書くが、もちろんこういう変化はもちろん彼だけではない。ユウタ(仮名)のような意識が変わっていった子の様子を見て、「化学反応」を起こし、勉強し始めた子がそこここにいる。とても嬉しい。これぞ「集団授業」の塾の醍醐味だ。ユウタ(仮名)の『テストまでに最低限やっておくべきことリスト』があまりにもツボにきたので思わず書いてしまった。
February 28, 2007
少し乱暴な論になってしまうが、勉強ができるようになるためには「勉強時間」を増やすだけでは足りないと私は思っている。何でもそうだが、「成果」を出すためには「熱」が必要なのだ。時折「熱」を持たぬまま、勉強時間だけを確保している子がいる。(つまり嫌々やっている子だ)残念ながら、それでは「成果」は出ない。「熱」は心の中に小さな火が灯されてないと発生しない。「頭の中がそのことで常にいっぱい」でないと「熱」は維持できない。 生徒が勉強に「熱」を持っているかどうかを確かめる簡単な方法がある。 その子が「勉強」についての話題を多く出すかどうかを見るのである。 頭の中が勉強で常にいっぱいな子は勉強の話題がしょっちゅう出てくる。「勉強」の熱を灯している子は、先生との会話でも、家庭での会話でも、「勉強」のことが出てくる。「あとこんだけやらないといけないのに、まだここまでしか進んでない」「証明のところであと一歩言葉足らずになってしまう」「今日は後3時間くらいやれるかなあ」 頭の中にあることは「言葉」となって浮き出てくることが多い。だから「勉強のことで頭がいっぱい」の子は勉強の話が多くなるのである。 ただ問題はどうすれば「熱」を持つことができるのかということである。これは難しい。なかなか狙い済まして生徒に「熱」を持たせることはできない。確実にそれを持たせることができる先生がいたら、その先生の弟子になりたいくらいである。唯一つ思うのは、頭の中のことが言葉になりやすいのであれば、逆のルートを辿ることは一つの方法だと思う。つまり、「勉強の話題」をできるだけ口にさせるのである。言葉は人に大きな影響を及ぼす。「勉強をやる子のグループ」の中にたまたまいると、勉強をあまりしない子も、影響を受けて何となく勉強をやり出すというのはよくあることだ。そのグループの中にいると、勉強の話題が出ることが多いのだろう。 こういうことをもう少し有効に活用できないかなと思うことがよくあるのだが、実践方法までにはいたっていない。
February 21, 2007
「授業」に関してあれやこれや考えてみると、「授業」というのは実に色々なもので構成されている。「教える」が授業の大部分と考えている若い先生は多いのであるが、実は「教える」部分以外のものがとても多い。特にその中でも一番多いのは「指示する」であると思う。授業中には数多くの指示が出る。「テキストの56ページを開けなさい」「その『副詞』というところにマーカーを入れなさい。」「ノートを見開きで使用します。何も書いていない見開き2ページのところを出しなさい」「この問題間違えた人、手を上げなさい」といった「指示」が限りなく出ているのである。「授業についていけない」という言葉を生徒が発することがあるが、「教えられる」内容についていけないのではなく、授業中の数々の指示についていっていないことも非常に多い。小5くらいの生徒では「指示」を受け取る能力に相当の差がある。正直、小学生で勉強が出来なくなる子は「指示」についていけない子なのである。中学生になっても「指示」を聞けない子は少なくない。ワンテンポ遅れて周りをキョロキョロ見ている子は大抵指示が聞けていない子だ。難しい内容を分かりやすく教える技術も大切であるが、教室の生徒全員を伸ばすというのであれば、「指示」を確実に伝達する技術を磨くべきだ。「指示」の原則は、複数の指示を一度に出さないことだ。つまり「一つの行動」しか一回の「指示」で出してはならない。「ノート見開き2ページ開けて、左上に日付を書きなさい」はダメだ。指示が二つ出てしまっている。教室の中には混乱する子が出てくる。「ノート見開き2ページ開けなさい。できたら『できました』って言いなさい。(少し待つ)はい、そしたらノートの左上に日付を書きなさい。」というように指示をテンポよく、区切って一つずつに分けなければならない。しかしながら、それでも上記の指示ではまだ甘いのである。鍛えられた生徒ならこれでOKだが、小学生の、しかも慣れていないクラスでは、これだと混乱する子が出てくる。どこで混乱するかというと、「ノートの左上に」という部分で混乱する子がいるのである。大人なら当たり前に、見開きの左のページの左上に日付を書くのであるが、生徒の中には、右のページか左のページかで悩む子が出てくる。(もちろん小学生の場合)もう一つ混乱のポイントがある。「日付を書きなさい」という部分だ。この指示では「日付」を書けない子が出てくるのである。「今日の日付」が分かっていないからだ。そういう子が隣の子に「今日何日?」なんて聞きだすと教室の空気が緩む。だから「今日の日付、『2月17日』と書きなさい。」と言わなければならないだろう。いいかげんな指示を出しておいて、それで教室が混乱するとイライラして生徒を叱っている先生を見ることがあるが、それは先生の方の修行不足の問題である。よい指示を授業中に出していると、生徒は安心し、集中して授業を聞くことができる。先生がそういうことに気を配り続けていると、勘が研ぎ澄まされ、「教え方」もよくなり、シンプルでよい説明ができるようになる。ギャグや雑談なしでも、あの先生の授業は楽しいと言って貰えるようになる。中には「こんなに易しくしてしまったら、生徒の聴く力が育たない」という考え方の先生もおられる。「わざと不親切にする鍛え方」が存在するのは、私にも理解できるし、そういうことを私も実はよくやっている。しかし「わざと不親切にする鍛え方」を主張する先生が、その気になればこのような細やかな「指示」の出し方もできるというのであれば、立派だと思うが、「できない」のであれば、そんな先生を私は指示しない支持しない。ただの修行をサボっためんどくさがりの先生だと思うからだ。
February 17, 2007
新中1の英語の授業ではアルファベットの発音とフォニックスの指導、単語の練習を行っている。「フラッシュカード」を繰りながらアルファベットの発音をさせる。どうせ英語を習うのであれば、発音はきれいにできた方が楽しい。だから結構ここに時間をかけている。「P」音に「h」音を混ぜたり、二重母音をしっかり発音させるなど、なかなかの徹底指導であると思う。昨日の授業とその前の授業ではアルファベットの発音テストを行った。厳しく採点したつもりであるが、ABCD評価で全員がA評価だった。重ねて言うが、私のジャッジが辛いのであるが、それでも皆がAだ。真面目に取り組んでいるのがよく分かる。何より発音しているときの顔が皆真剣そのものだ。誰かが発音しているとき、おしゃべりをする子なんてもちろんいない。傾聴したり、発音している子に合わせて自分も口を動かし、練習していたりするのである。新中1の生徒達はこのように皆が真面目なのである。「勉強をしっかりやらなきゃ」というオーラでいっぱいの教室になっている。四分の三が女子であるというのも理由の一つだろうが、やんちゃそうな男子も教室の空気に馴染んで真面目になっている。教室というのはたくさんの生徒で構成されているのだが、全体で一つの生き物みたいになってしまう。クラスのキャラクターみたいなものが必ず生まれるのである。あたかも生徒達一人ひとりがLANで結ばれ、互いに影響し合う。ダレたクラスに真面目な子が入ると、その子もダレてしまうか、あるいはそのクラスにいることを拒否して出て行ってしまうかのどちらかであるし、ダレた子が逆に真面目なクラスに入ると、段々真面目になっていくか、あるいは同じように拒否して出て行ってしまうことになる。だから、指導者のやるべきことは、教室をよい状態に保ち、少々ダレた子でもよい方へ動かし馴染ませてやることであろうと思う。以前にも書いたが、私はこれを「教室の教育力」と呼んでいて、重要視している。「教室の教育力」をよい方向へ作用させることは、教室をコントロールする指導者の最も重要な仕事なのである。誤解を恐れず、少々乱暴に言えば、よい「教室の教育力」さえあれば、指導者が何にもしなくても、授業すらすることなく、生徒の学力を伸ばすことだってできると思っている。生徒達が勉強していく「場作り」はとても大切なのである。我が塾の新中1のクラスはとても短期間でそういうよい「場作り」ができつつある。もちろん油断はできないけれども、大事に育てていきたい。
February 16, 2007
新中1に『基礎学力調査テスト(仮称)』を行う予定だ。中学入学直前に国語と算数の学力調査テストを行い、個々の生徒の学力を詳細にチェックする。点数だけで把握するのではなく、単元や項目を細分化し、それぞれの力を詳細にチェックしていく。例えば国語であれば、読解力、表現力、文法力、語彙力、漢字の力などに項目を分け、それぞれの項目の力をチェックする。できたら「視写」なんかもいれたい。詳細なテストになるので、一教科一時間以上はかかるだろう。長くなりすぎるようなら、テストを二つに分けてもいい。例えば漢字の出題ならば、小学校の各学年で学習したものをそれぞれ10個ずつくらいは出題したい。つまり、漢字だけで60個の出題がされることになる。試験結果を見ると、どの学年での勉強がうまくいっていなかったかなんてこともチェックできるようにしたい。細かく細かくチェックして、ただ単に「算数」が苦手というのではなく、「算数のどの単元のどんなところ」が苦手なのか、まで確認したいのである。さらに、このテストは答案までもをコピーし、保存する予定だ。もちろん毎年行っていく。そうすれば、個々の学力を測るだけでなく、これらのデータを蓄積し、「暦年比較」や入塾してくる塾生の学力の変化を確認するのにも使用できるようになる。塾にとって「データ」は財産である。5年後の財産作りを着々と行っていきたい。ノンストップで塾を進化させるためにも、緻密なデータを構築していきたいと思う。
February 15, 2007
みかみ先生のこのブログを読んで笑ってしまった。こういうことをスラっと書いてしまうみかみ先生は凄いなあと思ってしまう。人間が大物でなければこういうことは書けないのである。私には書けない。小物なのである。ところで、先生のこのブログを読んでいて思ったのであるが、子どもの性質というのはその年齢によって少しずつ変化をしている。私がこの国の独裁者だったなら、現行の6・3・3制をあっさり変更するだろう。とてつもない飛躍の仕方をして恐縮であるが、私は日ごろから子どもの成長の過程に現行の学制がマッチしていないように思っているのである。私が独裁者なら有無を言わさず、こう変える。今の小1を幼稚園最高学年にする。幼稚園は3年保育、現行学年で言えば、「年中、年長、小1」。年中から少しずつ文字を教える。国家の予算をつぎ込んで幼稚園教育を充実させる。別に詰め込み教育を施すわけではなくても、日本の教育水準はぐっと変わると思う。小学校前半は現在の「小2~小4」、後半は「小5~中1」。小学校を二段階に分けるのである。よく考えてみると無条件に同じ場所に6年間もいて教育を受けるというのは変なことのような気がする。3年くらいに分けて、学校に責任を持たせて教育するべきではないかと思うのである。中学校は現行の「中2~高1」。そして高校は「高2、高3」とする。まず中1を小学校に組み込んだのは、不安定な12歳をいきなり中学生の一番下の学年にするよりも、小学校後半の最上級生にした方がよいという判断である。英語の学習は小学校後半から始めるのである。高校を二年にしているのは大学受験まで間髪置かず学問を進めさせるためである。中卒で社会に出る子も15歳ではなく、16歳になってからの方が精神面の成長も大きいと思われる。15歳と16歳はぐっと変わるところである。突っ込みどころが満載なのは百も承知である。突っ込まないでいただきたい。自分でも突っ込みどころが山ほどある。私が言いたいのは、教育改革を考えるならば、これくらいのスケールで教育を再構築するべきではないかというお話である。
February 14, 2007
新中1の英語の授業。アルファベットの発音のときに様々な練習方法を採り入れている。まず一つ目は「一息発音法」。日本人がアルファベットを発音すると、一文字ずつ息を区切って発音する傾向にある。「えい・びー・すぃー・でぃー・いー」というようにである。英語の発音は、息を区切らないで発音するので、アルファベットの発音をするときも息を区切らせない練習をさせる。一番分かりやすいのは「でぃーいー」の部分だろう。ここを生徒は大抵「でぃー・いー」というようにDとEの間で一瞬息を区切る。それをさせずに「でぃーいー」と言わせるのである。「いー」の部分は「区切る」のではなく、改めて声を出させるのである(ここは説明が難しいな)もう一つは「アップダウンアルファベット」。英語の方が日本語より音声の高低がかなり広い。日本語は比較的音声がフラットであるが、英語は高い音から低い音までリズミカルに動く。そんな感じをつかませるためにアルファベットを一文字ずつ交互に高く発音させ、低く発音させるのである。低い音はできるだけ低く、低く下げきって最後だけ少し上げる。半疑問形のような発音に近いといえば分かっていただけるだろうか。高い方の音は素っ頓狂に裏声近くまで音を高くする。この練習を行うと明らかにアルファベットや挨拶の短文などの発音がよくなる。「発音」だけではなくて、リズムと音の高低を真似ようとするようになるからである。やはり人間はあらかじめ「脳」にある「情報」しか認識できないのである。「あれども見えず(聞こえず)」である。あと教える側の工夫は、表情豊かにするということだろうか。眉毛を動かさせて発音をさせると、声の張りがよくなる。「英語の発音」をきれいにさせておくと、英語が好きになる。放っておいても勉強し出す子も多い。そういった意味でも、ここはとても大切なところである。中3の三倍くらい疲れる授業にはなるが。
February 10, 2007
この間入塾したばかりの子が熱心に自習に来ている。前から在籍している生徒たちの頑張りに影響されたのかもしれない。気持ちだけが前に出ていて、まだまだ空回り、今は「勉強の真似事」くらいのものかもしれない。でも「やる気」には火がついたので、これからしっかりチューニングが合ってくることだろう。『最初の一歩』を踏み出した子は強い。これからは先生のアドバイス一つが、今までと違い、大いなる「発見」となる。楽しみだ。精一杯「自分」に期待しろよ。
January 23, 2007
昨日は中3の生徒達へ、よいタイミングで、よい言葉を発信することができたように思う。本当に毎日アンテナを張り巡らせておかなければならない時期だ。他のことでも忙しい時期であるが、優先順位の一番は絶対に中3だ。それ以外はあり得ない。
January 21, 2007
『習熟度別クラス』はある意味「両刃の剣」だ。力量のない指導者が扱うと生徒に悪影響を及ぼす。一番の悪影響は「できる子はできるけど、できない子はできないまま」という状態になりやすいことだ。『習熟度別クラス』という「システム」自体が生徒を伸ばすなどとさらさら思ってはいけない。『習熟度別クラス」を採用するならば、あくまでも「システム」の長所、短所を知った上で、一人ひとりの生徒への働きかけを行う必要があると知っておかなければならないだろう。つまり『習熟度別クラス』という「システム」にプラスして、指導者の細やかな「働きかけ」があってかろうじて成り立つ程度のものだと知っておくべきだということだ。主観であるが、『習熟度別クラス』を採用している学習塾の多くは、この「システム」が競争意識を生み、生徒が伸びていくと安易に考えているように思う。「やはり競争でないと生徒は伸びません」なんて、したり顔で言っている指導者も数多い。それは間違いではないが、「競争」のシステムで活き活きと伸びるのは「トップ層」だけだ。「勝てる」期待があるから頑張れるのである。残りは「頑張ったって勝てやしないし・・・」という意識が芽ばえやすい。『習熟度別クラス』を採用するのであれば、そうなりがちな生徒達の心への「働きかけ」をしっかり行わなければならない。『習熟度別クラス』は、一見、生徒一人ひとりの学力に細かに対応した親切なシステムのようにも見えるが、生徒達にとって「優しくないシステム」なのだと思っているくらいでちょうどいいと思う。(つづく)
January 18, 2007
冬期講習明けから入塾してくれた生徒達が初めて「復習テスト」を受けた。内容は「不規則変化動詞」の表。日本語だけが与えられていて、「原形」「過去形」「過去分詞」を書くテスト。全部で56問あった。(ちなみに「過去分詞」のことを「過去分詞形」という人がいるけれどあれはよくない)以前からの塾生達は満点か、1、2問間違いだった。以前からの子は、こういうテストのときはどれだけきちんとしておかなければならないかという「空気」を理解しているということだろう。「次これテストね」という一言で、「きちんとやらねばならぬもの」だと理解しているのである。軽く言った言葉でも、「重く」受け止められる子は伸びる。新入塾生の子たちも頑張って50問以上は合わせていたのであるが、2名だけ6割くらいしかできていない子がいた。50問以上できていた新入塾生は塾の「空気」を瞬時に読んでいたということだ。これはこれで凄い力だと思う。残りの2名はまだ「甘さ」が残っているということだろう。テストの結果からその2人に大変力があるは分かっている。できないということはない。入塾したときに「意識のチェンジ」がきちんとはできていなかったのだろう。最初の「伸び」はこの「意識のチェンジ」だけでできるものである。逆に言えば、そこができていないと伸びることは難しい。ここで「カミナリ」を落としてやらせても「意識のチェンジ」にはならないのでうまく指導していかなければならない。この「不規則変化動詞」のテストをうまく使って、2人の意識のチェンジをうまくやっていきたい。最初のテストを「不規則変化動詞」の暗記物にしたのも、実は意味がある。英語の学力はほぼ関係がなく、真面目にやりさえすれば誰でも良い点が取れる、エクスキューズが出来ない類のテストだからだ。「やってるのにできない」なんていう幻想は捨てなければならない。「やってないからできない」「自分は甘かった」ということを認めるところからしか成長はない。こういうことを受け入れる経験は子どもの頃の方がずっといい。大人になると頑なで、なかなか受け入れることができないものだ。学力を伸ばしながら、人としての基礎も学んでもらいたい。ちなみに、今日が『再テスト』の日である。1回目の合格点は「2問間違いまで」としてある。(甘いかな?)
January 17, 2007
土曜日は中3の朝特訓があるので、合計7時間の授業がある。それ以外でもあれやこれやと忙しいのでさすがにしんどい。習熟度別クラスの件については、今日はまとまった時間がとれないので、軽いネタを書きたい。小学生の国語はAki先生が担当してくれている。小学生の授業では、後々大きな力をつけるための「基礎」を鍛えているのであるが、国語は最重要科目といっていい。特に「暗唱」はとても大切な柱だ。「ゆとり教育」の補正の意味もあり、暗唱それ自体が頭脳を鍛えるのだと思っている。百人一首の暗唱から、詩歌の暗唱までAki先生は色々な工夫をしながら指導してくれている。生徒たちはとても楽しそうだ。 私は詩歌の暗唱をさせるにあたって、Aki先生に一つだけ注文を出した。 「いかにも文科省ご推薦のものだけじゃなくて、教師の独断と偏見でアクの強いものから、先生の好きなものまで覚えさせてください。例えば・・・中原中也なんてどうですか。」 というわけで、うちの小学生は「汚れちまった悲しみに・・・」なんて一生懸命覚えているのであった。 汚れちまった悲しみに今日も小雪の降りかかる汚れちまった悲しみに今日も風さえ吹きすぎる汚れちまった悲しみにたとえば狐の皮衣汚れちまった悲しみは小雪のかかってちぢこまる汚れちまった悲しみはなにのぞむなくねがうなく汚れちまった悲しみは倦怠のうちに死を夢む汚れちまった悲しみにいたいたしくも怖気づき汚れちまった悲しみになすところもなく日は暮れる
January 13, 2007
主観も混じるのであるが、「習熟度別クラス」のデメリットは何といっても、「順位の固定化」が生まれやすいことだと思う。同じような成績の子を固めてクラスを作ると、どうしても順位の変動が少なくなりがちだ。時折、成績をぐんと伸ばす子はいるにはいるが、全体的には順位の変動がなく、ダイナミックさに欠けるのである。もちろん、全体の成績は伸ばしていた。しかし、母集団として(平均点が上がっていくなどの)成績が上がっていくということがあったのだが、一人ひとりの集団の位置、つまり「順位」が固定化されがちになる。こういうことが起こる原因は、「心理的な問題」ではないかと私は推測している。「習熟度別クラス」は、本人の成績や、母集団の中での位置を嫌でもくっきりとさせる。「成績表」は常に目にするわけではないが、習熟度別クラスでは、塾へ来るたびに成績が〇番目のクラスへ入っていかなければならないのである。そうすると、「俺の成績はこんなもの」「俺の頭の程度はこんなもの」「私の力はせいぜいこれくらい」という「認識」を潜在意識の奥へ奥へと日々インプットしていくのではないかと思うのである。「潜在意識」を動かすには日々くりかえしインプットすることが一番効果的である。鎖の繋がれた子象は大きくなってもおとなしく繋がれている。大人の象が本気になれば鎖を引きちぎることなどたやすいはずなのであるが、象はそんなことはできないと思っている。本人ができないと思っていれば何をどうやってもできないものである。「習熟度別クラス」というのはそれと似たものが生まれないかと私は危惧するのである。もちろん、この意見は私の経験則に基づくものであり、何の検証もしたわけではない。でもそう見当はずれな意見でもないと思う。私は「習熟度別クラス」が悪いというつもりはない。しかし指導者が「よい点」「悪い点」を知った上で活用するべきだと思う。指導者が「教えやすい」という理由だけで採用してはならない。「習熟度別クラス」をコントロールするのはとても難しいのである。(つづく)
January 12, 2007
学力を伸ばすには、「習熟度別クラス」がよい。なぜなら、それぞれの学力に合わせて指導ができ、生徒の力を伸ばしやすい。そのような意見が大勢を占めている。(一部批判はある)しかしながら、私は「習熟度別クラス」というのは、使いこなしがとても難しいと考えている。それは、メリットとデメリットをよく認識した上で、使いこなされるべきだと思う。私は全国の塾講師の中でも、極端な習熟度別クラスを経験していると思う。一般的に塾で習熟度別クラスを採用している場合でも、クラス数は2~5位までではないか。私は16年前に「10クラス」の習熟度別クラスを経験しているのである。10クラスに分けると、学力層は相当細分化される。理屈では細やかにクラスを分ければ手厚い指導ができて学力を伸ばせそうなのであるが、「劇的」な効果は果たしてあっただろうかと思う。「習熟度別クラス」への疑いを、理論や理屈ではなく、「体験」として、強く思ったのは、いまから5年ほど前のことである。勤めていた塾で新しい校舎を出したときに、中途募集した中2のクラスを教えたときのことだ。中2は新規開校校舎だったので、1クラスしか作ることができなかった。30人ほどの生徒を1クラスで指導したが、全員が全員、とてもよく伸びた。クラスに在籍していた生徒の中には、東大寺学園や西大和学園を合格した生徒や、県立の香芝高校に進学した子までがいた。奈良県の塾の先生なら大層驚かれることだろう。「ええ、そんなクラスが成り立つの?」と思われるはずである。厳密に言うと、その学年は、基本は1クラスでの指導だったのであるが、3年になったときには教科により、クラスを分けた。受験する学校を考慮に入れて2クラスにしたのである。つまり「原則1クラス」を採用し、必要なときには習熟度、あるいは目的別(受験校対応)でクラスを分けたのだ。このクラスは学力の伸び方も、そして合格率も、他の校舎と比べて圧倒的に高かった記憶がある。この結果を見たときに、「習熟度別クラス」への疑念が湧いてきたのである。現在SORAで教えている中3生も1クラスである。学力の幅はとても広い。学校の定期試験では480点~350点くらいの子が在籍している。しかしながら、全員が全員よく伸びていると思う。私たちの指導力が高いから?私はそれだけではないと思っている。(もちろん私たちの指導力も高いと思っている。)いくつか「習熟度別クラス」のデメリットを考えてみた。(つづく)
January 12, 2007
私立高校の入試まで一ヶ月を切ったのであるが、そんな中でも、授業の中では「おはなし」をする時間を必ずとるようにしている。不安をできるだけ、取り除けるように、力が湧いてくるように祈りながら話をする。軽薄におちゃらけた話のふりをして、メッセージを伝えようとしているときもあれば、真剣に語るときもある。塾にいるときには不安の素振りも見せない中3生であるが、ふと家で一人勉強しているときにはネガティブな気持ちになるときもあるだろう。そんなときの支えに少しでもなればと思う。安易に愚痴をこぼしたりしない彼らだからこそ、小さなことまで見逃さないようにしておきたい。
January 11, 2007
今年は『潜在意識』について深く学んでいこうと考えている。『潜在意識』は善悪の判断をしない『潜在意識』は現状維持を好むこの二点は昨年の大きな気づきであり、学びだったように思う。『潜在意識』という言葉を用いた怪しいビジネスなどもあり、胡散臭いイメージもないではないが、潜在意識について書かれた本などを読んでいると、生徒たちへの指導の中で見る、彼らの変化と非常にリンクするのである。子どもが伸びていくきっかけをつぶさに見ていると、「潜在意識が変化した」のだと明らかに思える部分がある。絶対にある。いいかげんに扱うことができないので、今年はじっくり『潜在意識』について学びたい。と言いながら、実は我が塾の指導の中には、すでに「潜在意識」を揺り動かすプログラムが仕掛けてあったりするのであった(笑)もちろんけっして怪しいものではないし、結構これが効果的なのである。「仕掛け」のいくつかは(子どものいない)保護者説明会できちんと説明させていただいているからご安心を。
January 10, 2007
もう私立高校の入試まで一ヶ月を切り、指を折って残りの授業の回数を数えてみると、もうほんの僅かしかない。授業で教えられる重要項目などもうそんなにない。むしろそれより大切なのは、身心のコンディションの維持であったり、モチベーションの持続のための働きかけだろう。あと教えられるのは、「試合運び」の持っていき方くらいか。ボクシングに例えるなら、試合一ヶ月前に「フック」の打ち方を教えるトレーナーはいないだろうが、「試合運び」のイメージをさせるトレーナーは多いだろう。私たち指導者は「神のごとき視野」で、問題全体を俯瞰して見ることができるが、生徒達はそうそうそのような視野では問題を見ることができない。だからこそ、できるだけ制限時間内で点数を上手く取れるように、あれやこれや教えていかなければならない。受かりたいという生徒の渇望が大きい、切羽詰まったこの時期だからこそ、指導者の言葉が吸収されていく。「信」が最も強い時期は吸収も早くなる。「戦い」向かう自分自身をイメージしながら、トレーナーのいうことをしっかり守って、「戦いのイメージ」を作り上げてもらいたい。当日の彼らの戦いはある意味ボクシングより厳しいかもしれない。なぜなら、試合当日、私たちは「セコンド」につくことはできないからである。「受験」はボクシングよりなお孤独な戦いなのである。だから、多くの塾で先生達が生徒に手作りの「お守り」を渡したがる気持ちが痛いほど理解できるのである。
January 9, 2007
私の家内は着付けの先生をしている。普段、自宅でも着付けを教えている。今日こんなに早い時間(午前5時半)にブログを書いているのは、早起きして彼女を美容院まで送っていったからである。そう、成人式の着付けがあるのだ。昨日は前日に届けられた着物と帯をチェックしに美容院まで行って、似合う『帯結び』を色々考えていたようだ。もちろん、本人の体形や雰囲気なんかを考慮して、着せ方や帯結びを変更するなどの調整があるらしい。職業的なプロの目を持っていると、素人が気づかぬことに気づくことができる。彼女曰く、フジカラーのお正月のCMの樹木希林の着物の着付けは素晴らしいのだそうだ。どこが素晴らしいかというと、絶妙にダサい着物を襟をつめつめに着付けて、これまた絶妙にダサくしてあるという。確かにCMを見ると、本当に野暮ったくなっている。彼女曰く、そこが凄い演出ということらしい。「あれは男の人のセンスだけでは無理ね。現場にきちんと女性の手が入っているわ」というのが彼女の言である。「あれども見えず」という言葉がある。人間は脳に存在するものしか見えないのだという。脳の中に情報としてもっているものに関連したものしか見ることができない。プロ野球選手は素振りの様子一つで、選手の力量を測ることができる。私達塾講師も授業を20分もすれば、その生徒の学力をおおよそ知ることができる。そういう力量というのは「プロの凄み」だ。「凄み」をどんどん磨いておきたいと思う。それでこそ、子どもの前に先生として立つことを許されるのだと思う。
January 8, 2007
猫ギター先生の文章を読んで、受験前の「ラストスパート」について、さらに私も語りたくなった(笑)猫ギター先生の仰るように、教室の仲間の、あるいは先生の発する受験直前の「熱」に反応せず、『共鳴』も『同調(シンクロ)』もできぬ子こそが、「ラストスパートのきかぬ子」になる。『共鳴』や『シンクロ』などの『反応』は何故起こるのか?誰もが生きていればものを考える。逃げることのできぬ「受験」のような『非日常』の際には特に考えるだろう。何故勉強しなければならないのか?どうやったら自分の力を伸ばせるのか?毎日そういうことを自らの内に問いかける。そのような「思い」は心の中に少しずつ『蓄積』していく。その『蓄積』が臨界点ギリギリになったところに、受験直前の教室の雰囲気や教師の話が、まさしく核爆発のような『反応』のきっかけとなる。「ラストスパートのきかぬ子」が『反応』を起こせないのは、『蓄積』が足りないからか、あるいはもう駄目だと膝を折っているかのどちらかだろうと思う。教える方は『反応』を起こせない子を見て、諦めることはできない。本人が諦めかけていたとしても教える側は諦めることはできない。受験直前の私達の仕事で一番大変なのは、このように『反応』できぬ子への働きかけと、核爆発のごとき『反応』をし、自らを傷つけるくらいに「入れ込んで」しまった子へのフォローかもしれない。
January 7, 2007
長い間、塾で生徒を教えてきた。数千人もの生徒の入試の結果を見てきた。この「数千人」というのは実際に教えた、あるいは勉強の様子を直に見た生徒だ。顔も分からない「データ」だけで見た生徒を含めていない。それも入れれば万を越えてしまうと思う。多くの生徒達の様子を見てきて思う。不合格になりやすいタイプの子というのがいる。偏差値が届いていても、安全パイの受験をしていても、うっかり不合格になる子がいる。 「ラストスパートがきかない」 このタイプが一番不合格になっているというのが私の長年の経験から得た「実感」である。誰もが合格したい。絶対に受かりたい。ならば当然入試直前は頑張っているものだろうと一般の方はお考えであろうが、実際は違う。「何をしてるんだ」と見ている方がハラハラし、ときには怒りが湧いてくるような子が時々いるのである。ボーダー付近の子よりも、まあ大丈夫だろうというラインの子が多いようにも思う。塾の先生が「油断は禁物」といって相当に脅かすが、それは「脅し」ではなくて、実際に落ちる子がいるのである。塾講師はそれを見てきて、何度も辛い思いをしているから言うのである。私立の高校入試まであと一ヶ月を切った。生徒諸君は懸命に心を燃やして、合格のための努力をしてほしい。与えられた課題をこなしても、それだけでは足りないということを十分理解してほしい。「どうすれば受かるか」ということを考え抜いてほしい。そして最後まで「行動」してほしい。誰よりも努力をしてほしい。最後まで「進歩」してほしい。Never, never, never give up!
January 7, 2007
今日は授業の合間をぬって、講習生の三者懇談を行ったので、とても忙しかった。朝の9時から夜の7時までノンストップ、ずっと授業か懇談を行っていたような状態だった。とても疲れたが心地よい。ほとんどの子が入塾を希望してくれている。講習を受講してくださったきっかけをお聞きすると、広告に惹かれてという声と、塾生でぐんぐん成績を上げている子の話を聞いてという声が半々だった。広告も口コミも両方が大切だということだろう。明日も三者懇談だ。頑張ろう。
January 6, 2007
結局、ユウタ君(仮名)は二学期の期末試験では400点を取ることができなかった。(この項参照)私は400点が取れなくても全然問題ないと前回書いた。なぜならば夢に見るくらい自分の点数にこだわっているから、400点取るなんて時間の問題だからである。昨日、正月休みが開けた初日であったのだが、ユウタ君(仮名)は授業がないにもかかわらず、自習にきていた。彼は自習室で英語の教科書の本文暗記をしていた。つまり彼は三学期の期末試験の勉強を自主的にスタートさせていたのである。ユウタ君(仮名)は中2だ。もうすぐ受験学年であるとはいえ、誰からも強制されることなく、黙々と今から三学期の期末試験の準備を始めるというのは本当に素晴らしいことだ。本人のやる気だけにもたれ掛かった指導をするつもりはないが、だが「強制」だけではユウタ君(仮名)のような子は生まれにくい。そのブレンド具合こそが指導側の力量であると思う。ユウタ君(仮名)のような子が続々と生まれてくる学習環境を作り出したい。
January 5, 2007
今日から塾の授業が再開されたが、朝9時からの中3、一人も欠けずに全員揃っていた。当たり前と言えば当たり前なのだけれど、休み明けというのは課題ができていないとか、前日一気に宿題を片付けたりして睡眠不足であったりして結構揃わないということはあるものなのだ。宿題は全員できていたし、いいかげんな感じもなかった。淡々としていていい感じだった。この子らは、外側に熱く燃える何かをアピールするタイプではないが、静かに燃えている「青い炎」という感じがしていい。赤い炎はめらめらと燃えて、迫力があるが、温度が高いのは、実は青い炎だという。淡々と燃えて最後まで力を伸ばしてほしい。
January 4, 2007
ブログのプロフィールのところにも書いてあるのであるが、私は『SHIDOSO教育研究所』という名称の私教育の教育研究機関を作りたいと思っている。「私教育の研究機関」というのは、簡単に言えば、「塾の先生の集まり」で、生徒を伸ばすためのノウハウや技術、教材や指導法の研究する場所である。全国に散らばった、人知れず行われている素晴らしい技術を共有しあって、自らの指導技術を高める会にしたい。「俺の技術は俺だけのもの」とお考えの方とは考え方の違う会になる。本当は昨年の秋くらいから少しずつ活動を始めたかったのであるが、いくつか理由があってストップしていた。ストップしていた一つ目の理由は、言い出しっぺの私が自分の塾も軌道に乗せられていない状態では会自体が説得力に欠けるような気がしたからである。まずは早く自分の塾を軌道に乗せてしまわなければならない。幸い、こちらの方は目処がつきつつある。二つ目の理由は、組織の骨格について、もっとしっかり考えておかなければならないと気づいたことにある。私はこの研究所を作って、別にお金儲けをしたいと考えているわけではなく、よりよい指導を子ども達に行っていくために、自分自身が勉強する「場」を作りたかったのである。すべての始まりはそこにある。しかしながら、組織、あるいはサークルを作る場合は、世間にしっかり主旨説明を行わなければならない。そのあたりが甘いとあらぬ批判も招くだろう。そういうことには十分配慮しなければならない。また私が作りたいのは、お互いが切磋琢磨する「研究会」なのであるが、中には、自分からは「発信」せず、人から「ノウハウ」だけを安易に吸収しようとする人も出てくるだろうと思う。それはそれでよい。しかし、そんな人に限って「あの会はイマイチ」とか「言うほどノウハウがない」なんて言ったりするものである。そんなことを言われたらたまらない。そういう人にはいてほしくない。腕がないくせにケチをつけることで自らをアピールしようとする人はどこにでもいる。そういう人、つまり「自らは発信せず、ノウハウをちゃっかりパクっていくくせに批判だけはお好きな人」を排除するような規約を作らなければならない。もちろん建設的な「批判」は歓迎だ。それは「会」に敬意を払い、「人」に敬意を払えるということが前提である。この「会」には上も下もない。誰がエライとかそういうのはない。素晴らしい腕を持ち、素晴らしい実践報告をする人は尊敬されるだろうが、組織的な上下はない。『SHIDOSO教育研究所』の「SHIDOSO」とは「私度僧」のことである。「私度僧」とは平安時代、出家するには朝廷の許可が必要であったが、その許可を受けず、勝手に得度した「僧」のことである。そこから名前を取った。国や文部科学省のお墨付きなどないところで、懸命に子どもの指導を行う自分たちを「私度僧」になぞらえたのである。空海もかつては私度僧であった。ロマン溢れる?名称である。話は逸れるが、「塾講師検定制度」なるものは、このロマン溢れるこの研究会の名称の由来を根底から覆すものである(笑)学習塾はお国からの何の制約も受けていないからこそ、豊かな実践があるのである。いっそのこと学校教育からも国は手を引いてみてはどうかとさえ私は思う。歴史的に見ても、学校教育に国が介入したのは先の戦争のためであった。それまでは「学校」と「塾」の線引きはあまりなかったのである。話を元に戻す。『SHIDOSO教育研究所』は、年に数度集まり、用意したレポートを報告しあい、情報を集め、話をし、交流を深めつつ、普段の活動はネットを使っての情報交換で行うというような会にしたい。ブログやネット上でも勉強はできるが、「会う」ということはその何倍も勉強できるものである。両方を大切な会にしたいと思っている。「市販の教材で一番個別指導に向いた教材は何か」「塾生の遅刻を減らす効果的な実践」「クラスをまとめる小ネタ20選」「完了時制をうまく理解させる導入法」「生徒が燃える小テストレイアウト法」「授業時間が5分余ったときのショートスピーチ集」なんてことを話し合い、共有できたらよいなと思う。教育論から日々の実践小ネタ集までを集められればよいと思う。 この会を通じて何より自分自身がもっともっとよい先生になりたい。
January 3, 2007
今日はとても寒い。一気に冷えた。帰っていく子どもたちも寒そうだ。小6の講習は男の子が二人だけで、残り10人が女の子。段々と慣れてきてくれて、とても元気がよくなってきた。発音もとても綺麗。小5の男の子が一人、今日は気分が悪くて早退。かわいそうだった。小学生が具合を悪くしているのは本当に痛々しい。それにしても、小5、小6とも吸収がとても早い。緊張感に溢れているからだろうか。塾生の中1や中2の生徒達は見習ってほしいくらいだ。教室の中に純粋な心のエネルギーが充満していてとても気持ちがいい。こういうのを維持していくのも私達の仕事なのだろう。
December 28, 2006
今日は7コマの授業。とても疲れた。途中抜け出て髪を切りに行ったが、髪を切ってもらっている間、ずっと船を漕いでいた。店長はさぞかし仕事がしにくかったろう。今日の小学生の英語、発音が一段レベルが上がった。いつも思うが子どもの上達は「一気」だ。突然うまくなる。昨日効いた一言はこれだ。今日いきなりうまくなっていた。「よ~く聞いて。『レモン』なんて言ってないよ。聞こえたとおりに言ってご覧。・・・・・・lemon!」「lemon!」そおっとささやくように言うのがキモである。「子どもを動かす言葉」を新しく手に入れた気分だ。elephantなんて録音して、皆さんにお聞かせしたいくらいだ。午前中は中3のYANAさんの英語の質問を聞く。「分詞構文」だ。この子は英語のキレが抜群だ。自学の姿勢がとてもよくできているので、どんどん伸びている。「YANAさんてねえ、大雑把なところと細かいところが同居してるって親に言われない?」と彼女のノートを見ながら言うと、YANAさんは顔を赤くして笑いながらうなずいていた。ノートを見るといろんなことが分かる。お昼は「ほか弁」を電話注文。届けてくれるのが嬉しい。今日は幕の内。塾の隣はファミレスで、少し歩けばマクドナルド、モスバーガー、すき屋、びっくりドンキーがある。反対方向に歩くと、パスタ屋、コンビニ、回転寿司屋がある。食べ物には恵まれた立地だ。散髪の後、三者懇談。入塾してから点数が伸びているので、その子はとてもいい顔をしていた。夜の授業は3コマ。冬のテーマは「基礎力アップ」だ。易しいこともいい加減にしないでしっかりと学ばせる。大手塾は大きく先に進むことだろうが、私達はじっくりいく。みっちりやって全員を伸ばしたい。授業後は講習生の子と少しおしゃべり。色々なことを話してくれた。勉強は頑張りたいけれど、自信がない、そんな複雑な心境が垣間見える。伸びるためにこの塾に来たんでしょう?頑張ろうね。そんな声をかけながら、見送る。そうそう言い忘れたが、あることを大家さんに相談した。快諾をもらう。嬉しい。新しいことがやれる。小さなことだけれども、一日の中にはたくさんのことがあって、それはひとつひとつが意味を持っているのだと改めて思う。そんな一日だった。
December 27, 2006
一斉授業で生徒の成績を上げるには、指導者が教室を「コントロール」していなければならない。「はい、鉛筆置いて」「23ページの(2)の問題を解きなさい」「そこのところ、4行目からマーカー入れなさい」このような指示で教室全体がビシッと動かせる状態に、できるだけ早く持っていかないと生徒達を伸ばすのは難しい。このような考え方には異論のある学校の先生も多いのだろうけれど、私は、イデオロギーや主義主張ではなく、「事実」でものを考えたい。教師が教室を「支配」できていない状態で、学力向上や、教室運営はできはしないだろう。講習生には色んな子がいる。色んな子がいていい。多様性がある方が面白いし、その方が私の好みだ。しかしながら、「学力を伸ばす」という目的はひとつでなければならない。そのために塾へ来ているのである。色んな子がいてもいいが、目的はひとつでなければならない。そしてその目的のためには全員が同じ方向を向いて、同じ「熱」を持ち、頑張ってもらいたい。この冬期講習会は、色んな小学校の様々なクラスから生徒達が集まっている。授業をしていると、とても多くのことが見えてくる。個人の学力も見えてくるが、見えてくるのはそれだけではない。学校のクラス担任の力量なんていうものも透けて見えてくる。「はい、こっちを向いて」この一言に対する反応ひとつだけでも、習う先生によってまったく違ってくる。これは個人の能力差の問題ではない。教室という空間で、どれだけ教師が普段じっくりと子どもたちを鍛え上げているのかという「熱」の違い、そして教師の力量の違いなのである。もちろん、これだけえらそうなことを言うのであるから、私はこのクラスをまとめ、学力を伸ばしていかなければならない。今は多少一人ひとりの鍛えられ方がちぐはぐしているが、皆を鍛え、能力が存分に発揮できるようにしていきたい。 ところで、昨日はちょっぴり怖い先生だったので、今日は少しリラックスできるプログラムを入れてみた。昨日よりも子どもたちのアルファベットを発音する声が大きくなって、発音がとてもよくなってきた。まだまだ伸ばしたい。
December 26, 2006
今日から冬期講習会が始まった。小4から中2までの参加者合計は40名。しっかりこの冬に頑張ってほしい。我々スタッフは朝8時に出勤して、生徒の来るのを待つ。毎年そうだが、とてもワクワクするものだ。特に今年は進学塾SORAが開塾して始めての冬の講習会だ。ワクワクに新鮮さが加わる。【今日の覚書】◆朝は小5と小6の講習。私の担当は英語。アルファベットの発音からみっちりやる。◆発音だけでなく、筆記も時間をゆっくりとって行う。T、O、Qの書き方に注意させる。◆ひとつ気になったのは小6の12名中、鉛筆の持ち方が正確なのが、4名だったこと。そのうちの数名は疲れやすい握り方なので、今後の指導をどうしようかと思う。◆小5も小6も、最初はとても緊張していたと思う。それは素晴らしいことだ。塾で学ぶことをとても真剣に考えているからこそ、緊張するのだと思う。 ◆そこへ、追い討ちをかけるように、私は厳しい話を(少し)した。この塾へ通うからにはできるだけ気持ちを引き締めてほしいからだ。◆小5と小6の授業の合間に中3の授業。発音とアクセントの問題の解説。◆お昼は小4の講習であったが、小4は英語がないので、私は授業に行けず。ちょっとさびしい。◆3時半に税理士の先生と打ち合わせ。◆その後、きよちゃんの英語と社会の質問を受ける。◆夕方は授業が無い日だったので、職員室で『餃子の「ざ」』の話で盛り上がる。◆6時25分から中学生の授業。中2は多くの受講者がいるので教室がいっぱい。もしこの受講生が全員入塾を希望したら、新中3は定員になり、募集〆切となる。◆中1、中2ともにいい子が多いという印象。とても真面目だ。◆しかしながら、中1は「考えながら授業を聞く」「問われたことにしっかり答える」習慣づけができていないため、少し厳しい話をする。「先生の話を聞くときは先生の顔を見ること」「答えるときは語尾まではっきり言うこと」などを厳しく言う。◆ファーストコンタクトのときの働きかけはとても重要だ。ここで甘いことを言って、後で厳しくするのは最悪だ。だからこそ、最初に厳しい話をするのである。◆どの子もしっかり机の上の消しゴムのカスを片付けて帰っていった。 授業をしっかり受けることが、学力を伸ばす基本だと私は思っている。授業のときの目がトロンとしている子で成績が上がっていく子などいない。全員を伸ばすためには、全員にしっかり授業を受けさせなければならない。よい授業をしていれば、生徒は真剣に聞くものだという意見の先生もおられるが、私の考えは違う。集中への「お膳立て」を必要とする子は所詮弱いものである。授業が面白かろうと、退屈であろうと一瞬で「集中」へ持っていける子を育てたい。我が塾の成績を伸ばすアプローチの第一歩は「授業を真剣に受けさせること」なのである。
December 25, 2006
「塾は禁止」 教育再生会議で野依座長が強調2006年12月23日22時55分 政府の教育再生会議の野依良治座長(ノーベル化学賞受賞者)が8日に開かれた「規範意識・家族・地域教育再生分科会」(第2分科会)で、「塾の禁止」を繰り返し主張していることが、同会議のホームページに掲載された議事要旨でわかった。しかし、再生会議が21日にまとめた第1次報告の原案には「塾の禁止」は盛り込まれていない。 議事要旨によると、野依氏は「塾はできない子が行くためには必要だが、普通以上の子供は塾禁止にすべきだ。公教育を再生させる代わりに塾禁止とする」と再三にわたって強調。「昔できたことがなぜ今できないのか。我々は塾に行かずにやってきた。塾の商業政策に乗っているのではないか」と訴えた。 JR東海会長の葛西敬之氏は「日本の数学のレベルは学校ではなくて、塾によって維持されている、という面もある」と反論したものの、事務局側は「公教育が再生されれば、自然と塾は競争力を失っていく。結果的になくなる」と同調、国際教養大学長の中嶋嶺雄氏も「野依座長のおっしゃったように塾禁止ぐらいの大きな提言をやらないと」と野依氏に賛同するなどひとしきりの盛り上がりを見せた。 (asahi.comより)ノーベル賞までお取りになり、大学で教鞭を実際にお取りになっても、この方は一流の教育者ではなかったようだ。「教育」を再生する会議の「提言」が「禁止」なのである。まったくお話にならない。「禁止をする」ことは最もレベルの低い教育の手法である。「禁止」という手法は、よい「習慣」の定着を図るときなどに用いるべきなのである。「子どもがテレビを見てばかりで勉強をしないからテレビを禁止」「生徒の服装がだらしないので、膝上のスカートは禁止」「マナーが悪いので、校内への携帯電話持ち込み禁止」これらはすべて一流の教育の手法とはとてもいえない。対症療法とも言えぬレベルの拙いアプローチである。教育を受ける子ども達の成長は見込めない。座長がこのレベルでは、国家の教育の再生などできるものではない。レベルが低すぎる。「塾を禁止」という野依座長の意見は、学校の実態を調査した上でのものだとは到底思えない。教育は「事実をもとに語るべきもの」である。主義主張や個人の思いこみで語ってはならない。「ぼかあねえ、こう思うんだよ~」とご自身の思いを事実も確認せず、実態も把握せず言うのであれば、それは酒場のくだまきにも近いものである。「公教育が再生されれば、自然と塾は競争力を失っていく。結果的になくなる」という事務局側の意見、これならば理解できる。塾を無くしたいというのであれば、それが筋だろう。現在の学習塾が生まれてきた経緯は、言うまでもなく公教育の至らなさにある。だからこそ、学習塾が生まれてきたのである。「あるもの」が不完全で、不備あるものであれば、自然とそれを補完するシステムが生まれてくる。学習塾もその補完された「システム」であろう。学習塾が「時代のあだ花」と言われる所以である。それを教育を再生するために「塾を禁止」?順番の違う話である。学校へ行くのが辛いと泣いている子がどれだけこの国にいるのか考えて頂きたい。塾が辛ければ、行かなければいいだけのことであるし、よくない塾は潰れていく。そういう自浄システムが塾には働くのである。野依氏は、商業主義によって、子どもが絡め取られ、塾によって気づかぬ内に子どもが歪められた形になっていくことを心配されているのであろう。確かにそのような塾がないではない。しかし、もう親は塾に成績さえ上げてくれればよいということだけを期待していない。もう新しい時代になりつつある。>昔できたことがなぜ今できないのか。我々は塾に行かずにやってきた。塾の商業政策に乗っているのではないか>普通以上の子供は塾禁止にすべきだ。時代を正確に読みとる力のない人物は、座長には相応しくない。ましてや「普通以上の子供は塾を禁止すべきだ」などという言葉もある。「普通以上の子」などという配慮のない言葉選びしかできない部分にも大きな不安を感じる。ヤンキー先生には座長に喧嘩を売る勢いで頑張っていただきたい。あなたこそはそういうポジションであろう。
December 24, 2006
今日も朝から『過去問特訓』を行っている。朝早くに集合し、自分の受験する私立高校の入試問題の過去問をどんどん解いていく。家よりも緊張感のある状態で、しかも本番と同じように連続で解いていくことで、「スタミナ」をつけさせるのがねらいの一つだ。生徒に『赤本(過去問)』を解けと口酸っぱく言ってもなかなか手を出さない子がいる。これは怠惰なのではない。生徒は、『赤本』を、合格できるかどうかの「占い」に使いたがる。だからもっとギリギリまで勉強して、力をつけてから取り組みたいと思っているのだ。気持ちは分かるが、それはよくない。それでは傾向対策が間に合わない。12月になったらどんどん解いていくべきである。そう、「傾向対策」というのも『赤本(過去問)』をやるもうひとつのねらいである。その学校の入試問題のクセや傾向を読み取っておくと、点数が取りやすくなる。同じ偏差値で過去問研究をした子としていない子では点数の出方は全然違うだろう。徹底的に傾向対策に取り組むべきだ。塾側でこの時期にプリントや課題、宿題の類を過度に出すと、それに追われて『赤本』をやるのが遅れていく子が出てくる。この時期の塾から出す課題の量に関しては気をつけなければならない。生徒のやらなければいけないことの総量をきちんと指導する側が把握しておかなければ、生徒はストレスが溜まり、塾で勉強することが辛くなってしまう。この時期の過度の宿題や課題は指導側の自信の無さの表れかもしれない。時間配分や解答作成のコツ(部分点ねらいなど)など、まずは慣れて、うまく点数を取る方法を見つけてほしい。それができたら、「やり直し」を行い、自分の弱点を見つけ、そこを補強していくことが大切だ。補強は今まで使ってきた問題集の、その単元のやり直しをしていくのがよい。新しい問題集に手を出すのは危険だ。ラストスパートの伸びは指導する側の力量が最も顕著に出るところだろう。一人ひとりをしっかり見て、確実に伸ばし、合格へと導いていきたい。
December 23, 2006
女優の岸田今日子さんが亡くなった。岸田さんの声が私は大好きだった。大好きだったというより、あの声がテレビで流れると耳を傾けずにはいられなかった。惹きつけて放さない声だった。何をしゃべっても説得力が生まれそうなあの声。「ムーミン」はあの方の声でなかったらあんなにブームになっていなかったかもしれない。つい最近、コミカルなCMに出ておられたがコミカルと狂気の間を見事に演じておられた。CMが流れる度、私はテレビに釘付けになった。 心よりご冥福をお祈り申し上げます。
December 21, 2006
生徒全員に面談を行って、いじめを受けている子がいないかどうかの調査している学校があるという内容の記事をネット上で見かけた。そんなことでは「いじめ」は見つからないと私は思う。見つけ出せたとしても、その率は非常に低いはずだ。なぜなら「はい、僕はいじめられていて困っています」なんて簡単に生徒が言えるはずがないからだ。こんなの学校が「やることをやっていますよ」とエクスキューズするためのものとしか私には思えない。本気ですべてのいじめや仲間外れを見つけ出そうと決意した集団の出した行動とは思えないのである。もっと教師は知恵を絞らなければならない。どうやればいじめを見つけ出せるか本気の本気で考えなければならない。私が校長なら、生徒全員に一週間同じアンケートを取るだろう。質問事項はたった一つ。「今日あなたが話をした友達の名前を全員書いてください。」話す子の数が極端に少ない子、本人が話したと書いた相手にその子の名前が無かった場合など、問題がいくつも見えてくるはずだ。問題がありそうな子を見つけ出せたら、あとは観察をすればよい。何かの兆候は見つかるはずだ。いじめられていますか?と聞かれて、子どもは「はい」とは絶対に言えないのである。であるならば、質問の内容を工夫をしなければならない。本気で考え抜けば、凄い「方法」が見つかるはずなのだ。一人あるいは一つの学校で見つかった良質の実践が全国に広がれば、救われる子はたくさんいることだろう。体裁や見栄を捨てて、教師は死に物狂いで頑張らなければならないと思う。
December 20, 2006
私が小学生や中学生のころ、親に言われて一番嫌だった言葉は、「あんたはやったらできる子なんやで」だった。もう嫌で嫌でたまらなかった。この言葉、裏を返せば、「あんたはやってないからできないんや」ということだからである。言っている親の気持ちが分からないでもない。反抗したりしたら悪いと思って言葉を呑みこみ続けたが、こんな言葉を受験直前の1月や2月に言われたらたまったものではない。母親の「無神経さ」がたまらない時期があったものだ。だから、塾の先生をやるようになっても、「やればできる」という言い回しは使わないことにしている。どうせ言うなら、「必ずできるようになるぞ」だ。言いたいことが同じでも子どもを動かせる言葉もあれば、子どもの心をズタズタにする言葉もある。私は「傷つける」ことなしに教育、つまり子どもを伸ばすことはできないと思っている。人は傷つくことなしには成長などできないからだ。しかしながら、無神経な言葉で子どもを傷つけることはしてはいけない。どんなに気をつけていても、人は人を傷つける。だからこそ、細心の注意を払っておかなければならない。身内の甘えがあるから、人は家族に、特に子どもに対して、他人に何か言うときの一瞬の配慮や考慮がないままに無神経なことを言ってしまうことが多い。家族と接するとき、人は「素」のままでいるからだろう。私も生徒に対してより、息子に対しての方が何倍も無神経だ。でも私は幸いにそれを自覚しているので、注意することができる。親というのは「査定」や「評価」がないので、時折の「ふりかえり」をしておくことが大切だ。ちなみに子どもが親に絶対言ってはいけないだろうと思う一言は「俺アホやもん」だと思う。親にしたら「俺が勉強できないのはアホに生んだ親のせいや」と言っているようなものだからだ。もし息子がそんなセリフを中学生になって言ったら、親の特権で、遠慮なく殴ることにしよう。それは「親の無神経」では決してない。
December 20, 2006
「はい、それでは47ページの(2)の問題をノートに解いてみて」「はい、それでは今から先生が板書する問題をノートに解いてみてください」上記二つの場合、どう考えても「板書」した問題を解かせる方が生徒の集中力が高いように思うのだけれど、皆さんはどう思われますか。テキストの問題を解くのは、「教材」を解いている感じで、「板書」の問題は先生からのクイズといった感じになってチャレンジ精神に火が灯るのだろうか。些細な変化であるが、絶対に違うと思う。もう少し煮詰めて考えてみよう。
December 18, 2006
今日朝からHDDレコーダを設定しつつ、テレビに映る番組を見るとはなしに見ていると、ボーナスが上がったの、下がったのと様々な職種の人のインタビューをしている特集があった。同じ職種でも上がった人、下がった人がいて、話は成果主義の是非、年功序列、終身雇用を固持する企業などの話があって、やがては学校の先生の話になった。ある(おそらく公立の)学校の先生が108万円のボーナスの明細を見せ、最近持ち込まれた成果主義の影響で、各先生でボーナスに差が出てしまって職場の雰囲気がよくないといったことを仰っていた。教育はチームで行っているので、個々の「成果」を測りにくい、ゆえに成果主義は馴染まないというのがその先生の主張のようだった。話を聞いていて、物言いなどに、その先生の話の青臭さというか、未熟さみたいなものが匂ってきたので、嫌な感じがしていたのだけれど、最後にその先生が仰った言葉がとどめをさす。「いや、私はこれでもボーナスは少ないと思っていますよ。一般の会社の人はお昼休みだといって一時間しっかり休んでおられる、まあ中には飯を食いながら仕事をしている人もいるんだろうけれど、私たちは昼食一つにしても教室で生徒と一緒に給食を食べて・・・そんなの休憩とは言えないわけですよ」先生をやる人というのは、できたら生徒と一緒に食事をするのを厭わぬ人がやった方がいいと私は思う。息子がこんな先生に習ったら嫌だなあと思ってしまった。飯を食っていても生徒が質問に来たら、食事を中断したり、次の授業があれば、一分ほど待たせて大急ぎでかきこんで解説したりするのが当たり前と思っていたので、とても違和感があった。その先生はご自身のボーナスに不満があるようであるが、退職後の厚遇、その他はどうやら考えにはなさそうであったし、世の中のサラリーマンのほとんどがお昼休みをしっかりとっていると思っておられる感覚には「浮世離れ」感が溢れていた。塾の先生というのは、週の内、生徒と会える日と時間が限られている。もっともっと生徒と接していたいと思っておられる塾の先生はとても多いだろう。私は教え子と一緒に飯が食えることなんて幸せなことだと思うのに。私の考えの方が浮世離れしているのだろうか。
December 18, 2006
今日も中3に土曜恒例の朝特訓をやっている。来週からは入試のシミュレーションで朝から赤本大会をしようと思っている。朝からお昼をはさんで5教科の入試問題を連続して解くというのは凄く体力の要ることなので、それに頭と体を慣らさないといけない。以前に勤めていた大手塾では生徒はこのあたりの鍛えがかなり為されていたが、SORAではそのあたりは少ない。もちろんここからしっかりと「鍛え」を入れておけばばっちりだ。昼食後の教科がきついと思う。頭の回転しない「魔の時間」だ。「魔の時間」と戦うことも学ばせたい。
December 16, 2006
今日は小5と小6の保護者会だ。我が塾の保護者会は保護者だけの出席ではなく親子一緒に出席していただくスタイルだ。保護者の方に語りかけたり生徒達に語りかけたり話の視点はめまぐるしく入れ替わる。生徒に話しかけているのだけれど実はその話は親御さんに伝えたいことだったりそのまた逆があったり自分の子どもが先生の話をどんな顔をして聞いているのかということも見てもらえるのでたいていの我が塾の保護者会は親子一緒になっている。この形が一番よいのではないかと思っている。 文章以上にこちらの「思い」は直に話をさせていただくほうが伝わるしね。
December 14, 2006
先日、我が塾の中3が、体調を崩しているものも多く、クラス全体が元気がないということを書いた。毎日頑張っている彼らのこと、今ここへきて、辛さが体調に表出してきているようにも思う。 そのことは十分理解できるが、今日は彼らに厳しい話をしよう。 「いつまでもそんな顔をして授業を聞いてんじゃないよ!!」 「しんどい顔」をいつまでもしていると、どんどん深みに嵌っていくものである。いつもため息をついているようなドヨンとした表情は心を蝕む。辛くてもしんどくとてもどこかでそれを断ち切って凛とした顔をしなければならない。しんどいのはみんな同じだ。毎日毎日体調も含め、絶好調だというヤツがいるわけがない。そんなのは「必死」を知らない呑気天狗なヤツだけだ。頑張っている子は皆、今が「しんどさ」のピークだ。しんどいときにしんどい顔をしてはいけない。「表情」や「行動」そして「声」は心を結構騙せるものだ。空元気でもいい。無理やりでもいい。いい顔をしていれば気分も明るくなってくる。 今日はそんな話をしよう。
December 12, 2006
ずっと頭の片隅にあることなのだけれども、高校生(たぶん高1)対象に英語の「発音指導」というものをやりたいなとちょっと思っている。週に一回、少人数で、徹底的に発音を矯正する。英語の発音をきれいにしたいと考えている子というのはいるはずだ。発音に自信が持てれば英語の学習全体のモチベーションも上がる。それ以外のことは大抵どこかで学べるので、発音指導に特化して、それ以外のことはやらない。発音をよくするというのは結構ネイティブは教えられないものだし、教えてくれる人が見つからない。あまり誰もやってないから、私がやってみようか、なんて思う。CDやDVDなんかも駆使して楽しくやれたらいいなあなんて漠然と思っている。費用は自習室使用も込みで安くして行いたい。生徒が増えて段々と忙しくなってきたけれど、ちょっと本気で考えてみようか。
December 12, 2006
4歳の息子の公文式のプリントにこんなのがある。■ ぶんを よみましょう。ぼうしを かぶるこれに先生が読みやすいようにか、字に○をつけて下さっているのであるが、そのつけかたがこうなっている。「ぼうし」「を」「かぶる」批判でも何でもなく、疑問なのであるが、このくくり方は正しいのだろうか。「ぼうしを」「かぶる」ではないのだろうか?問題文にも「ぶんを よみましょう」とある。スペースの部分が文節のところにある。それを先生が「助詞」を独立してくくるのは正しいのか、名詞+助詞でくくるべきではないだろうか。プリントでは「ぶん を よみましょう。」とはなっていない。問題も「ぼうし を かぶる」とはなっていないので○のくくり方もそれにあわせるべきではないだろうか。教材と指導に乖離があるのではないだろうか。私なら「ぼうしを」をくくり、そのくくりの中に「を」だけをもう一つくくるか、わかりやすいように線を入れるかなどをするだろう。「教材を読みとる」ことは指導の基本だと思う。私は文字の導入時期の指導に明るくないのでよくわからないのであるが、この先生の指導は少し教材のスタンスとの違和感を感じる。どうなんだろう?
December 10, 2006
今日も私立の過去問をやってみたが段々仕上がってきたように思う。次第に形になってきた。しかしながら体調がよくない子も多く朝から元気がなかった。今日は一日雨でクラスのムードも湿りがち。皆ギリギリのところで頑張っている。来週は晴れてほしいな。頑張れ、みんな!
December 9, 2006
昨日の授業で、中1と中2に期末試験の「ふりかえり」を書いてもらった。書くという行為は「思考」である。自分の今回の勉強に何が欠けていて、どうすればよかったのか、あるいはどんな点がよかったから点数が伸びたのかということを時間をかけて書かせた。こちらが思う以上に猛烈に書いてくれた。書くことがたくさんあるということは、今回の試験で多くのことを考えることができたということだ。これからの成長も大きく見込める。この「ふりかえり」を活かして次も大きく成長してほしいと思う。
December 9, 2006
つい二ヶ月前は中2のクラス作りでとても悩んでいたのであるが、こちらが意識して働きかけたこともあり、随分とクラスの雰囲気や学習姿勢はよくなってきた。今回の期末試験でも、伸び幅が少なかった子の成績がぐんと上がってきた。(もちろんそろそろ「壁」にぶち当たる子も出てきたが)一方、中1のクラスは今難しい。「幼さ」からの脱却に時間がかかっているのが一番の原因なのであるが、学習姿勢や勉強習慣に関する部分がとても未熟だ。育てるのに時間がとても掛かっている。個々の生徒の様子を見ても、それぞれにまだまだ課題がある。「勉強」という視点から見ると、課題は「学習方法の詰めの甘さ」や「学習量」の不足などである。しかし、もう少し俯瞰して見てみると、本質的な問題は「幼さ」ゆえの未熟さで、本当にこの子らを伸ばすには「精神年齢」を引き上げるしかない。はっきり言って、それはとても時間がかかる部分だ。試験で点数を取らせるには、確認テストの回数を増やしたりするなどこちら側の「仕掛け」や「工夫」が大切だし、それらを引き続き行っていくのであるが、本質的な部分での成長を促すことが最終的な目標だ。奈良県では中2の成績から内申点に記載されることになっている。実質そこからが高校入試の始まりである。その中2へ向け、この年末年始、それから3学期の期末試験に向けて、『中1大成長計画』を立て、実行していかなければならない。自分たちの全能力、全精力を傾けて中1を伸ばそうと思う。
December 8, 2006
昨日、ある生徒のお母様からメールを戴いた。先日、期末試験の対策の少し前から入塾した子で、メールの内容は大体こんな感じだった。子どもが中間試験より点数が上がって、喜んでいました。もっと勉強すればよかったと言っています。三学期はもっと頑張りたいと言っていて、こんなことを言い出すのは初めてなので驚いています。こういう保護者の方の声はとても嬉しい。教材やカリキュラムをよいものにするのはとても大切なことであるが、やはり何と言っても生徒をやる気にさせることというのが一番大切なことだと思う。極論すれば、あるライン(その子によって違う)までは教材やカリキュラムなど関係なく、その子のやる気一発で成績など上がっていくものだ。頭打ちになったところからは指導者の力量が問われるところなのだと思う。塾には色んな子が来る。明るい子、暗い子、落ち込みやすい子、あっけらかんとしている子、干渉されたがりの子、干渉を嫌う子、十把一絡げというわけにはいかない。できたら、その子に応じて働きかけ、やる気を膨らませてあげたいと思う。そのためには大人が120パーセントの本気で子どもにぶつかっていることが最低条件だと思う。子どもは大人の嘘や妥協、いいかげんさというのを瞬時に見抜く。だから「本気」であることはとても大切だ。しかしながら大人のピント外れの「本気」ほど子どもにとって迷惑なものはない。子どもの心を理解し、汲み取ってあげられる姿勢と能力を持った上で、「本気」でありたい。もちろん子どもの心を理解することは、「甘やかす」ことと同意ではないので、「厳しい先生」ではあり続けたいと思う。目指すは絶対に『全員を伸ばす塾』だ。
December 7, 2006
「潜在意識は善悪の判断をしない」「潜在意識は現状維持を望む」そうだ、そのとおりなのだ。最近、この二つの言葉と出会って目の前がぱあっと明るくなった。生徒をもっと伸ばせるぞ。
December 4, 2006
昨日、知り合いの方に頼まれて、ある中1の女の子の勉強を見てあげた。数学がまったくできなくて困っているとのこと。塾の先生は「文章題」ができませんと指摘はしてくれるが、一向にできるようにならないとお母様がこぼしてらした。この方から最初のご相談のお電話があったとき、私はたまたま猫ギター先生と一緒にいて、先生は私の電話を横で聞いていらした。私は電話でいくつかアドバイスをさせていただいたのであるが、電話を切った後、猫ギター先生からいくつかご指摘があって、なるほどと思ったので、再度かけなおし、追加のアドバイスをさせていただいた。よくよく考えるととても贅沢な学習カウンセリングであると思った。昨日、実際本人の勉強する様子を観察させてもらって、いくつかのことに気づいた。具体的にはここには書かないが、学習のつまづきの部分を指摘して、どのように学習を進めていくかのアドバイスを行った。問題集を指定し、そのやり方まで事細かに説明をした。全部で2時間くらいかかったかと思う。私はその子が通っている塾の先生に猛烈に腹が立った。実はこの子は事情があって、しばらくの間、学校へ行くことができないでいる。だからよけいに勉強、特に数学が分からない。にもかかわらず、親に「文章題ができませんねえ」と指摘するだけで、どの部分がどうできてなくて、何をすればよいかということを具体的に説明していないのである。30分でも一緒に勉強をしてやれば、どこで何ができていないかなどすぐに分かるはずだ。私は数学は専門ではないが、それでもすぐに分かった。その子の塾の先生はその30分を惜しんで観察をしてあげなかったか、付き合ってあげても何も見えない腕のない先生かのどちらかだ。生徒の達成度をはかるときは、点数で見てはいけない。点数は大切であるが、課題の発見はいくには「答案」を見なければならない。しかし、もっとつぶさに見ていくには、その子が解答している様子を観察することが大切だ。一瞬の筆記の「止まり」は様々なことを教えてくれる。消しゴムの使い方や、顔色、鉛筆を持っていない方の手の動きはその問題のその子にとっての難易度を教えてくれる。「見ること」、そして「見つけてあげること」は教師の大切な仕事だと思う。もっともっとそれができる先生になりたい。
December 1, 2006
みかみ先生のブログの中に私の名前が出てきた。読ませていただいてとても共感する部分が多かったのだけれど私の考えについても書いておこうと思う。私の考えはこうだ(ちょっとみかみ先生風) 僕は大手の塾をやめた。(一人称まで真似したりして。おまけにフォントも小さくしたりして)色々な理由があるが、大きくは二つの理由だ。理由の一つは、塾という業界は大手には不利な条件が多すぎるということである。資本が大きければ圧倒的な力を持てる業界もあるが、この業界はそうではない。確かに片方では大手の寡占が続くなんてまことしやかに言われている。けれど局地的な戦いで見ると、とても苦しい戦いをしているはずだ。「大手」というのはパッケージが一つなので地域のニーズに非常に合わせづらいからだ。そういうと、ウチはパッケージを複数持っているという大手の人もいるだろう。そういう人はもっと俯瞰して物事を見ないと、1京%『死亡』だ。いくら複数のパッケージを作っていたとしてもそれは地域のニーズにジャストミートしたものを現場で作っているわけではない。だから選択肢が増えたところで苦しいのは変わらないのである。小さな塾はそのエリアにびしっと合わせて、月謝から教材、授業内容を決めているのである。いわば『骨格』の部分から「オーダーメイド」のように塾作りをしているのである。教室長の裁量で、大手の「吊るし」のパッケージの中で戦うのは辛いはずだ。おそらく相当に無理をしていると思う。ただでさえ、商品が「吊るし」なのに、それでも売ろうとすれば強引な商売にならざるを得ないだろう。確かに大手が店舗数を増やし、個人塾が潰れ、データで見ると大手の寡占化が進んでいることになっている。でも、それはとてつもなく脆くて、いつか弾けるときが来るはずだと僕は思っている。(もうそこまで来ているはずだ。)新規開校でもないのに、無料で講習会を開くなんていうのはマジでヤバいラインだと思う。 中でも一番辛いのは最大手ではなく、中途半端に大きい「大手塾」だろう。そういう中途半端な大手塾が生き残るために絶対こうするべきだという方法と、絶対やってはいけない方法がある。それは何か? 聞きたい? 僕は大手塾にいたから貴重な意見よ。 うふ。かみえすちゃん大サービス。 中途半端な大手塾は絶対に最大手に規模で追いつくことを考えてはならない。そんな戦略を取ってしまったら3年で破壊だ。今の最大手塾はバブル崩壊前までに大きくなっているのである。時代の状況から考えて、今から同じ規模になるのは、ある一手を除いて不可能だ。その一手さえも相当に困難にはちがいない。生き残り、発展していくならば別の手法を取るべきだ。(時代をひっくり返すようなシステムや方法を編み出したというなら別だが) ではその「別の手法」、つまり中途半端な大手塾が採るべき方法とは何か。 それは書かない。(ごめんね) つづく (みかみ先生ごめんなさい)
November 28, 2006
この一年で「ブログ」は自分にとってとても大切なものになった。書いていれば苦しいことも時にはあるのだけれど、書いていてよかったと思うことの方が何十倍も大きい。自分のブログは自分自身の分身だと思っている。嘘偽りのない自分自身の考えや思いを綴っているからである。自分自身の醜い部分や嫌や部分は極力出さないようにしているが、できるならば普段からそうありたいと思っているので、自分自身の心の投影という意味ではなおさら「分身」なのだとも思う。時折、自分に過度に酔っていたり、自分を善人と信じきっている、多少不快になるブログがあるのだけれど、傍から見れば、私もそうかも知れぬとも思うので「他山の石」と思うことにしている。ホンダ先生も書かれていたけれど、自分の言うこと、書くこと、HPであれ、保護者会であれ、広告であれ、このブログであれ、それらはすべて「自分自身」の投影であって、そこに嘘偽りはあってはいけない。それが「誠意」だとも思うし「美学」であると思う。私は「美学」という言葉が好きでよく使うけれど、それを無くしてしまったらお終いだと思っている。というかとても辛いだろう。もちろんそれは私の価値観であるが。だからこのブログも「虚」ではなく、自分自身にとっては「リアル」なのである。「リアル」だからこそ、悩み、苦しみ、喜ぶ値打ちがある。そう思っている。
November 26, 2006
中3の授業が終了した。後は自習生が残っているだけだ。畝傍高校のテストも近いし、中1、中2の子もたくさん自習に来ているので、自習室は満席に近い。明日も中学生は朝から勉強会だ。まずは頑張ったら点数が取れた、成績が上がったという体験をしてほしい。だから徹底的に付き合ってよい点数を取らせてあげたい。生徒達と組んず解れつやりながら伸ばしてやりたい。私は「システム」というヤツを信じていない。私は、個々の教師の力量と、徹底的に生徒に向かい合い、絆を結んでいくことで生徒を伸ばしたいと思う。それが我が塾の方針である。その方針を貫くために、我が塾では「生徒を伸ばすために必要なこと」以外のことをかなり切り捨てている。つまり「生徒のことに集中する」ための塾作りをしているのである。「絆」で生徒を伸ばすなどというと、そんなものは何の説得力もなければ、宣伝文句にならないことくらいは承知している。しかし「生徒を伸ばす」という「事実」で示していきたい。「システム」とは確かに素晴らしいものなのだろうが、結局はそれを運用する人間次第である。馬鹿でも運用できる「システム」は教育には存在しえないだろう。それがさも存在しているかのごとくにあらゆるところで語られるのは間違いなく「カムフラージュ」である。ゆえに、「カリキュラム」や「教材」その他がパッケージされた「システム」を他塾に持ってこられたとしても、絶対に負けないと思っている。ましてや、その「システム」を作るために先生が日々時間を取られているならば、そのような塾と我が塾との差はますます開いていくだろうと思う。ちょっと挑戦的な書き方になってしまったが、そんなふうに考えている。明日も彼らと一緒に一日頑張ろう。
November 25, 2006
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