おんさま日記 onsama

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自分の意見と自信



これはkeichanの書き込みです。

 そうですね。そういう人にあこがれますね。自分にない能力を持っている人を見ると、私もそうありたいと願うものです。「尊敬する人」というべきでしょう。
 そうなれない自分に対してもう少ししっかりしなければ、と考えたり、あの時の自分は一体何を思っていたのだろうかなどと思いをめぐらすこともあります。何事にも恐れのない強い人間になろうとこころに言いきかせたりします。

 けれども自分の意見を持たない(持てない)、自信がないことがあってもいいのです。私は世間とは違う見方をしています。自分の意見を表明しないからといって、その人に何も考えがないと断定することには反対です。意見を表明しない、したくない時があります。また、考えがまとまらないときもあります。熟慮中である時もあるし、考えたくない時もあります。これも一つの表明しない「意見」なのです。
 人間社会ではそれを許してくれないことがあります。yesかnoかと二者択一を迫られるときですね。態度保留という第3がないのです。そういった場合に多数に流れた判断をするのですね。その方が無難だからです。無難な選択をしたからといってそれで安心もできません。どちらかに組すればそれはそれで責任が発生します。「反対しなかったからおまえは○○に加担したことになる」という論理で責められることもあります。
 特に競争社会では前向き、(判断を含めた)迅速性、明晰、行動力、リーダーが評価されそうでない者との差別化が顕著です。そこにはその人の人間性だとか緻密さ、冷静さ・思慮深さなどが後ろに退いてしまいます。
 日本社会では、一面では責任の取り方を求められる一方で無責任さもひどいものです。組織における無責任さです。政治の舞台が典型例でしょうが、責任の取り方が場面、場面で異なります。
 その辺をうまく渡り歩く人は前面に出て「成功者」になり、うまく渡り歩けない人は「敗者」になる構造があります。
 でもね。敗者の方がこころ豊かに過ごせることもありますよ。上や前だけを見ていると気付かないけれど、少し視点を変えてみればいいのです。
 例えば車で走る景色と歩いてみる景色はまったく異なるのですね。秋風が吹いて、木の葉が散って肩にとまり、それを手にすると季節感は手に触れて味わうことができ、こころの琴線に触れることができます。季節、自然、生物は私と一体になることができます。ところが車ではそれを感知することはできません。車の中は自然と隔絶された世界なのです。
 「いつも自分の意見がはっきり言えて、自信のある人」はその人なりでいいのです。だけど、自分は自分でいいと思ったときには新しい価値観に出会えるのではないでしょうか。意見を言えない自分は、「今は意見は言えないけれど考慮中」なのです。自信のない人は、将来自分の考えをまとめる準備中でいいのです。





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