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冒頭の画像は、前回の日記でも取り上げた「道の駅 たるみず」(鹿児島県垂水市)の、「桜島」の全貌を展望できる敷地内から、北方の「霧島連山」を撮影したものである。ちなみに「高千穂峰」は、連山の向かって右端の峰となる。この道の駅では、ここ垂水市で採取したモンド・セレクション最高金賞(品質)とiTQi優秀味覚賞 最高位三ツ星(おいしさ)をダブル受賞した「温泉水99」(天然アルカリイオン水)を販売していたので試しに飲んでみると、これがすこぶる旨かった。やっぱり御酒は「水」なのであろう・・・酒好きには周知の全国的に有名な森伊蔵酒造も、同じ垂水市に所在しているとのことだ。 その後、次第に「高千穂峰」に近づいていき、ほぼ円形の火口湖「御池(みいけ)」を手前に挟んで映した画像が上である。その過程で、霧島六所権現の一社「霧島東神社」(宮崎県高原町)を参拝することになったが、あの「天逆鉾(あめのさかほこ)」が突き立つ高千穂峰の山頂部は、この霧島東神社の飛び地境内であり、当社の社宝であることがわかった。上の画像は、上記の「御池」の近くにあるキャンプ場に移動して、その湖面に揺らぐ妖しき光を映したものだ。ちなみに水面の標高は305m、水深は93.5mあり、火口湖としては日本で最も深いとのことである。その火口湖の御池から車で登っていき、かつて霧島神宮があったとされる高千穂河原(たかちほがわら)の古宮址(ふるみやあと)から、高千穂峰を展望した画像が上である。いつものように・・・夕暮れにギリギリ間に合ったわけだが、古代は日が沈んでからが一日の始まりということを知っていたので、なるほどこれもやはり「お導き」と感じたところである。そして下の画像は、古宮址から降りてきた時に、参道の入口にある鳥居を撮影したもので、その鳥居の中央部の下方に映った小さな点が「金星」である。どうやら「星神信仰」の復活を暗示するかのように、鳥居の前で待っていてくれた感じがして、とても嬉しかったことを覚えている。このシリーズの(2)にて、「九州を貫く南北軸」と「ぎょしゃ座の地上投影」には深い繋がりが伺えると記した。それは、ぎょしゃ座の形状であり和名の「五角星」が漢字の「大」を意味し、それを昨年末までの九州行脚でなぞることになり、そして年初の九州南北軸の南端たる「開聞岳」の登拝によって「 、」 が入り、いよいよ「太」になったと実感するところである。ここでは、その「大」と「太」の違いは、字義も含めて雲泥の差があるとだけ記しておこう。加えて「九州」を象徴する「ぎょしゃ座」は、『冬の星座』を代表する「おうし座」や「オリオン座」を牽引する役割の大きな星座であり、昨年末の東国行脚によって「九州(ぎょしゃ座)」の氣(息吹)は、列島の東北を含む関東域にまで到達した、あるいはその布石を投じることになったのではないかと感じる。そして今の私には、その九州を象徴する「ぎょしゃ座」は、鳥の「鵜(う)」に観えている。またそれは、ある古文献によると72代(神武天皇を入れれば73代 )も続いたとされる九州古代王朝の「ウガヤフキアエズ(鵜草葺不合)王朝」の、名称の冒頭を飾る「鵜」にも繋がると直感する。それを示唆するかのように、古文献「ホツマツタヱ」人の巻29アヤ(神武東征)にある、以下の読み下し文に辿り着いた。・・・その時、たちまちのうちに天が曇ったかと思うと氷雨が降りだし、どこからともなく金色(こがね)の鵜の鳥が飛び来て、天皇(あまきみ)が手にする弓の弭(ゆはず)に止まりました。その光は四方に照り輝いて、敵味方双方の兵達を驚かせました。・・・その古代九州王朝を象徴する鳥の「鵜」が、天空の「ぎょしゃ座」の如く金色に輝いて、再び飛翔する季節を迎えたと、そのように感じる今日この頃である。
2015年01月20日
活火山の桜島を間近で見ていると、その躍動する息吹を自分の中に取り入れたくなったのであろう・・・無性に温泉に入りたくなり、山麓の日帰り温泉に入浴することにした。その温泉のあるホテルの駐車場に車を停めて、フト空を見上げると忽然と盛り上がる噴煙を目撃した。驚いて思わずその噴煙に向かってシャッターを押したのが上の画像である。ホテルのフロントで噴煙を目撃した件を話してみると、受付の方は「そぅ、見られたのね。」と笑顔で一言。やはり地元の方は、断続的に続く小規模噴火のことなどは、普段から殆ど気にしていないことが伝わってきたのを覚えている。お陰さまで露天風呂では安心して、頭上の棚引く薄まった噴煙を仰ぎつつ、エネルギッシュな湯とともに錦江湾の青空と海を、じっくりと堪能することができた。桜島を出てしばらく車を走らせていると「道の駅」があったので、昼食かたがた立ち寄ってみることに・・・。そこでもまた、駐車場に停車してフト振り返ると、今後は午前中とは逆の方向から桜島を見ることのできる場所だと分かり、しかも噴火口が目視できたので、すぐにカメラを持って島全体を俯瞰できるところまで行って映した画像が上である。しばらく見ているうちに、その噴火口からは何度も噴煙が湧き上がる場面が見受けられ、その迫力のある断続的な噴火には、目は勿論のこと心身が釘付けになってしまって、身動きができなくなってしまうほどであった。およそ30分は、その場に立っていただろう・・・その間に最大の噴煙が上がったシーンを、拡大して映したものが上の画像だ。そして下の画像は、次の目的地に向かう山越えの道中にて、図らずも見えた桜島の全体像を撮影したものである。正直に言うと、これほどまでに桜島に心が奪われるとは思わなかった。後日・・・なぜだろう・・・と考えていると、その桜島を体感した「1月12日」という月日は、 実は今から101年前の1914(大正3)年に始まった桜島の大正大噴火の月日であり、わが国が20世紀に経験した最大規模の噴火とされていることが分かったのである。・・・と同時に思い出したのは、昨年の今頃に開催した展示会に来られた大先輩が、桜島が大噴火を起こして100年目(昨年の1月12日)より、九州の氣が本州に伝播し始めると言われた、その謎めいた伝言であった。その「九州の氣」なるものが、実際に何を意味するかは明確に分からないにしても、なんとなく判然としつつある気配を感じる今日この頃である。
2015年01月19日
さて今回の旅路で・・・南九州の「三岳」・・・として、開聞岳・桜島・高千穂峰の三山を謳ったわけだが、実は旅路の最初からこの「三岳」を巡ろうと計画していたわけではない。まずは開聞岳の登拝を目的として南九州に行くことになり、その余韻というか周遊する過程に開聞岳を含む「三岳」を巡ることになり、結果的に印象に残ったということである。・・・ということで、「開聞岳」の次に向かったのは、つい先日も《大噴火の前兆》が報道されていた「桜島」である。そこで上の画像は、その桜島を展望できるホテルのテラスから、噴煙を上げる画像左側の桜島と1月12日の日の出を撮影したものである。その素晴らしい朝日と桜島の展望に、思わず歓声を上げたことを覚えている。前々日の夕方も開聞岳に向かう際に、大きく噴煙を上げる桜島を横目で見ていたこともあり、その噴火寸前!?の桜島に渡るかどうか迷ったのだが、気を取り直してフェリーに乗船、その甲板から桜島の全体像を映したものが上である。なるほど・・・これだけの噴煙を断続的に棚引かせていれば、視界が悪くなるのは当然だ・・・と、前日の開聞岳山頂での展望に納得したところである。当初は島を通り抜けることだけを考えていたが、フェリーが到着して車を走らせていると、〇〇〇展望所という看板が目に入り、怖いもの見たさではないが、もっと山に近づいて見てみたいという意欲が湧いてきたのは不思議であった。この画像は、桜島において一般の人が入ることの出来る最高地点の「湯之平展望所(標高373m)」より、目の前に迫る桜島の最高峰「北岳(標高1,117m)」の荒々しい山肌を映したものである。やはり「桜島」に来たならば、この360度の全域を見わたすことのできる展望所まで足を伸ばしたいものだ。この展望所からは、錦江湾を挟んで西方には鹿児島市の街並みが広がり、当日は天候に恵まれたので北方には高千穂峰を含む霧島連山を見わたすことができた。そして南方には、期待通りに昨日登拝した開聞岳が遠望できたので、その方面を撮影したものが下の画像である。
2015年01月17日
開聞岳の9合目辺りから薩摩半島の「野間岬」を含む枕崎の方面を映した、山頂部で抜群の景色となる画像が上である。当日は霞んで見えなかったが、野間岬のある笠沙町には見事な突峰の野間岳(標高591m)がある。その方面を展望していると、昨年末の九州行脚で登拝した野間岳の頂上から、開聞岳を遠望したことを今更のように思い出した。※関連記事⇒リンクちなみに「開聞岳」と「野間岳」、そして南さつま市にある「金峰山(標高636m)」は、「薩摩半島の三名山(薩南の三岳)」と言われており、記事にはしなかったが既に前回の九州行脚で「金峰山」に登拝しているので、今回の開聞岳登拝により、その「三名山」の山頂を巡ったことになる。誤解を避けるため、ここで今回のブログタイトルの[南九州の「三岳」を訪ねる]の「三岳」を挙げておこう。「開聞岳」と「桜島」と霧島連峰の「高千穂峰」の三山・・・タイトルで謳った「三岳」とは、この三山のことである。さて上の画像は、開聞岳(924m)の頂上より、標高が記された山頂標を撮影したものだ。その遠方の平野に見える大きな湖は、謎の未確認動物「イッシー」で聞こえた「池田湖」である。天候次第では見えるはずの桜島や霧島連峰が確認できなかったのは少し寂しかったが、標高差720mを登りきった達成感は格別のものであった。山頂部は広く潅木に覆われ、その眺めはさながら樹海のようだったのが印象に残る。その山頂標のある山頂付近は、多くの岩石群で構成されており、その中でも一番北方にある岩石を映した画像が上である。左側の先端が尖った岩がそれだが、その方向は明確に「北」を示しており、ここ九州南端の要の山岳となる「開聞岳」と九州北端の「宗像」とを結ぶ、南北軸の指標のように私には観えた。そして下の画像は、下山後に東麓の海浜にある温泉施設に寄った時に、駐車場に近い砂浜から夕暮れ間近の開聞岳を撮影したものである。この画像のように近辺の砂浜の色が、まさかの「黒色系」だったことに新鮮な感動を覚えた。施設の温泉は少し赤茶けた湯が源泉らしく、一見して鉄分等のミネラル分が豊富の模様・・・気持ちよく湯船につかることができ、登山の疲れも癒されて入浴後もしばらく体が暖かかったことを覚えている。それにしても開聞岳は、どの角度から見ても綺麗な円錐形で、それが「薩摩富士」と謳われる所以だが、むしろ富士山よりも美しい山容だと思ったのは、実際に山頂に登って何度も周囲から展望した正直な感想である。前回の日記で、今回の南九州周遊には背景があると書いたが、それはまず念頭に、九州を貫く南北軸(東経130度30分)の南端にある開聞岳を登拝することで、その「九州南端」の氣場を体感することにあった。おそらくその前段階として、昨年の秋頃に九州北方の「宗像」を何度か訪れて、玄界灘に浮かぶ「宗像大島」・「地島」に渡り、また「湯川山」・「孔大寺山」・「許斐山」等に登拝し、その宗像地域の発する氣を全身に頂くことができたことから、いよいよ年初の開聞岳登拝に繋がったのだと言えよう。また別の角度では、「天体の地上投影」という観点から何度も取り上げている「ぎょしゃ座」も、大きく背景にあると言える。この「ぎょしゃ座」を調べていくと、日本では「五角星」と呼ばれ、その五角形の形状が関連する『大』という漢字が、この星座の地上投影における基盤になっているらしいことが分かってきた・・・。実は、上記の「九州を貫く南北軸」と「ぎょしゃ座の地上投影」には深い繋がりが伺えるので、その関係性については、また項を改めて取り上げることにしたい。
2015年01月16日
今年の春には登りたいと思っていた鹿児島県の「開聞岳(標高924m)」・・・その想いは意外に早く叶うことになり、お陰さまでこの1月11日、「鏡開き」の月日に登拝することができた。冒頭の画像は登山当日の朝、薩摩半島の南端に位置する「開聞岳(かいもんだけ)」の全体像を撮影したものだ。前日の10日から鹿児島に入り、砂蒸し風呂で聞こえた指宿温泉に一泊。折しも指宿では、翌11日に第34回「いぶすき菜の花マラソン」が開催されるため、宿泊先のホテルは出場予定の健康優良な老若男女で大いに賑わっていた。私はといえば、翌日の登拝を達成する英気を養うため、まずは薩摩は地場産の旨い料理を堪能し、砂蒸し風呂に入り温泉三昧、睡眠もしっかりとって準備万端で登山に臨むことに・・・。次の画像は、登山口から山頂方面を見上げて映したものだ。その圧倒的な存在感に、私の心身は大いに躍動した。この画像は、三合目辺りの登山道から、周囲の森林を撮影したものである。かなり急峻に見える山容ではあるが、よく整備された山道は渦巻き状に山頂に向かっており、案外なだらかで登りやすいと感じた。そして下の画像は、五合目より指宿方面を含む展望である。太平洋の大海原に突き出た半島は「長島鼻」、一緒に映した造形「五十鈴」も嬉しそうである。当日は断続的な「桜島」の小規模噴火に伴う噴煙の影響もあってか、天候はすこぶる良好なのに景色が少し霞んで見えるのが印象的だった。さて今回の「開聞岳」の登拝は、九州全域の言わば中央部を貫く南北軸の、その最南端たる「開聞岳」を体感するという目的があった。ちなみに、その南北軸の北端は、福岡県の「宗像」の地域となる。その背景等については、次の日記にて・・・。
2015年01月15日
東国行脚の最終日となる12月23日(祝)、鹿島神宮の参拝後に向かったのは、東茨城郡大洗町に鎮座する「大洗磯前(おおあらいいそざき)神社」で、主祭神は「大己貴命 (おおなむちのみこと)」である。その御神前に広がる海岸の岩盤に建てられた鳥居を、大海原に向かって撮影したものが上の画像である。一陽来復の太陽が照らす太平洋の素晴らしい眺めとその清々しさに、思わず息を呑んだことを覚えている。次に参拝したのは、ひたちなか市磯崎町に鎮座する「酒列磯前(さかつらいそざき)神社」で、主祭神は「少彦名命(すくなひこなのみこと)」である。先に参拝した那珂川対岸の「大洗磯前神社」と「酒列磯前神社」は深い関係にあるとされ、古来より二社で一つの信仰を形成してきたと伝わる。私なりの見立てでは、二社の祭神を合わせたその御正体は「北斗八星」になると感じる。つまり「大洗磯前神社」の主祭神「大己貴命」の御正体は「北斗七星」であり、「酒列磯前神社」の主祭神「少彦名命」の御正体は「北斗七星の輔星(アルコル)」を合わせて、そこに「北斗八星」の世界を読み取ることができるというわけだ。この「酒列磯前神社」に参拝する前に、当社の御神体とされる社殿裏手の海岸より、海に向かって連なる岩塊の並びを見たが、一見して太陽信仰に関わる特別な方位を示していると感じた。後で地図で調べてみると、海岸からその方向性のある岩の並びを見た場合に、それはほぼ「冬至の日の出」の方位に連なっていたのは、実に興味深いところである。そして、今回の東国行脚で最後に訪れたのは、日立市大みか町に鎮座する「大甕(おおみか)神社」で、主祭神は「建葉槌命(たけはづちのみこと)」である。この上の画像は、その大甕神社に参拝の折に、拝殿を撮影したものだ。当神社の裏手には「宿魂石(しゅくこんせき)」といって、実際には巨石が集まってできた小高い丘があり、その頂上に奥宮が鎮座するという佇まいだった。社伝によると、この「宿魂石」とは、この地を治めていた「天香香背男(あめのかかせお)・別名 天津甕星(あまつみかぼし)」が化身したものであるとされる。この「天香香背男(天津甕星)」が大和朝廷に「まつろわぬ神」として悪神にされた理由として、ある歴史研究家は以下のように解説している。〇「記・紀」は藤原、中臣氏の手によって、大和朝廷を中心に書かれた。それも中華思想に近い論理で作り上げたために、大和政権が成立する以前の先住系の歴史と信仰を、徹底的に否定してしまった。〇世界的にみて古代信仰の主流は「日・月・星」の三位一体の信仰であったが、「記・紀」は[太陽信仰]のみを強調する建前から、[星神信仰]は悪神として「天香香背男(天津甕星)」に仕立て上げてしまったのである。〇[太陽信仰]だけで[星神信仰]と[月神信仰]を否定した大和朝廷系とは、どういう部族だったのか。また先住系の部族とは何かが明確になれば、おのずと日本古代史の実体が見えてくるわけである。歴史探訪をしていく過程で、どうしても心中に浮かんでくる「疑問」や「わだかまり」も、短い内容ではあるが上掲の文章を参考にするなどして自分なりに探求したり、あるいは歴史に詳しい人と情報交換をすることで、次第に解けてくることになるのかもしれない・・・。さてこの画像は、帰りの羽田発⇒山口宇部空港行きの飛行機の中から、木曽の「御嶽山(標高3,067m)」を撮影したものである。「御嶽山」といえば、昨年9月末の噴火が記憶に新しいが、既に小康状態に入ったのであろう・・・撮影時には白雪を抱く美しい姿で魅せてくれた。思い返せば、今回の旅路は12月22日の「朔旦冬至(さくたんとうじ)」という、約19年に一度だけ「冬至」と「新月」が重なる特別な月日、つまり「太陽」が復活すると共に「月」が復活する日を意識しての上京だった。しかし考えてみると、当日の「月」は新月のために目視できなかったこともあり、一陽来復の「太陽」ばかりに思いが向かっていた気がする。それを神々が案じていたかどうかは分からないが・・・西方の地平線に浮かぶ、まだ三日月に成れない「お月様」が撮れた画像が下である。そして画像の左下に映る一番星は・・・「宵の明星」、すなわち「金星」であろう。そこで思い返せば、この東国行脚の最後に訪れたのは日立市の「大甕神社」・・・元々この地を治めていたのは「天香香背男(天津甕星)」であり、その御正体は「金星」と謳われている。「記・紀」の神話において蔑ろにされた「月」と「星(金星)」が、もしかすると旅路の最後に「復活」したのかもしれない・・・。その意味で下の画像は、この「東国行脚の巻」シリーズを締め括るに相応しい、記念すべき『絵』になったと思う。(画像の下方に見える斜めの線は飛行機の翼)現在の私の心境として、これからの約19年は、言わば「月」の時代に入ったと感じる今日この頃である。それをどう解釈すればいいかというと、「太陰太陽暦」、つまり「月」の満ち欠けを指標として日々の生活を営む「旧暦」を活かす時代の到来と感じるのだ。そこで以下に、「旧暦」と歩調を合わすのに参考となる書籍を紹介しておきたい。この三冊は共に、松村賢治氏の著作によるものである。(全て「ビジネス社」刊行)◎『 旧暦と暮らす 』(スローライフの知恵ごよみ)・・・2002.11.12 初版◎『 庵を結び 炭をおこす 』(続・旧暦と暮らす)・・・2003.12.12 初版◎『 続々と、旧暦と暮らす 』(監修・大阪南太平洋協会)・・・2005.11.15 初版
2015年01月09日
上の画像は、鹿島神宮の奥宮から左に下りたところにある、霊泉の湧く清らかな泉「御手洗池(みたらしのいけ)」を映したものだ。旧表参道の入口にあって、昔はここで禊をして心身を清めてから参拝をしていたそうだ。神宮への参拝はもう何年ぶりとなるだろう・・・今も変わらぬ「御手洗池」の佇まいに懐かしさが込み上げてきた。そして鹿島神宮といえば、神の使いの「鹿」が有名である。この画像は参道脇にある「鹿園」にて、陽光にまどろむ鹿たちを映したものだ。ちなみに『古事記』によると、天照大神の命を「武甕槌神(たけみかづちのかみ)」伝えたのは「天迦久神(あめのかくのかみ)」とされ、この「カク」は「鹿児(かこ)」すなわち「鹿」に由来する神とされることに基づき、神宮では鹿を神使にしたとのこと。この画像は、朱塗りの華麗な楼門(水戸初代藩主 水戸頼房公の寄進)を映したもので、「日本三大楼門」の一つとされる。この写真は参拝を終えた帰り際に社務所側から撮影したものだが、楼門の右側に数名の神官が並んでいる姿が映っているのが分かると思う。午前10時頃、これから何かの祭儀が始まる雰囲気だったので見守っていると、当日の祭儀を担当する神官が一列になって楼門より歩き出し、まず拝殿前の「仮殿」(画像の左手奥)にて参拝、次に摂社の「高房神社」(画像の右手前方)も同様に神官全員で参拝、そして拝殿に向かって横一列に八人の神官が並び、いよいよ前方の本殿へ歩み始めるその時を撮影したものが、この最後の画像である。後で分かったのだが、当日の23日は「天長祭」、今上陛下の誕生日を奉祝するお祭りであった。ということはつまり、鹿島神宮の拝殿前にて、その祭儀が始まるまでの「しきたり」を拝見していたということになる。その時の私には、祭儀の前に務める神官の「しきたり」が興味深く、特に上記の「高房神社」という小さな祠に、かくも恭しく全員の神官が参拝する姿が印象に残った。後で調べてみると、神宮の本殿参拝の前に、拝殿前にある摂社の「高房神社」を参拝するのが、古くからの習わしとのことである。また、この「高房神社」の祭神とは「建葉槌神(たけはづちのかみ)」であり、神宮主祭神の「武甕槌神」の葦原中国平定の際に、最後まで服従しなかった「天香香背男(あめのかかせお)」を抑えるのに大きく貢献した神であった。なるほど・・・鹿島神宮の参拝を経て、これから参拝に向かう最後の神社に、その「建葉槌神」を祭神として祀る「大甕(おおみか)神社」(日立市大みか町)があることから、神宮境内の「高房神社」を意識させられたのは、これはやはり「お導き」と感じることができた次第である。
2015年01月08日
東国行脚の最終日となる12月23日は、まず早朝より常陸国一ノ宮「鹿島神宮」に参拝することに・・・。その主目的は、神宮の境内に鎮座する「要石(かなめいし)」を訪ねることにあった。この件については、昨年末の「秋の周遊(16)」⇒(リンク)にも記したが、高千穂神社の「鎮石」と鹿島神宮の「要石」が・・・どのような経緯で据えられたのか・・・双方の現地を訪れることで、それを知る手懸りを得たいと考えていた。さて上の画像は、神宮境内の「要石」を祀った区域の全体を撮影したものである。この下の画像のように、「要石」は囲いの中心部の土から少しだけ突出した円形状に見える石であり、その石の中央部が凹んでいるところが特徴と伝わる。ここで、とある研究家の「要石」に関する解釈を、以下に簡単に記しておきたい。・タケミカツチ神は、雷神として聞こえている。・雷と地震は、共に「震」の卦によって象徴されるが、それは両方ともに「木気」であることを意味する。・そこで雷神としてのタケミタツチ神は地震の神でもある。・鉱物としての「石」は「金気」。金剋木の理によって、「木気」の地震神は石によって容易に鎮められる。ということで・・・地震神のタケミカヅチを鎮めるために「要石」が置かれている・・・という解釈。そこで、上記の高千穂の「鎮石」と鹿島の「要石」の関連を探っていると、双方を結ぶ軸線上に「富士山」があることを指摘するサイトに遭遇・・・その双方の軸線上には、他にも「皇居」「明治神宮」「伊勢神宮」「吉野山」「高野山」「剣山(四国)」が並ぶそうだ。これはやはり、かなり歴史的にも濃い軸線と言えよう。そして、この高千穂神社の「鎮石」と鹿島神宮の「要石」を結ぶ軸線は、「太陽信仰」という観点から察するに、「立秋(立夏)の日の出」と「立春(立冬)の日の入」を示していることが分かったことも、深い意味がありそうだ。下の画像は、鹿島神宮の「要石」に関する解説が書かれた、現地の立て看板を撮影したものである。ところで、今回の東国行脚では、二本の軸線・・・つまり日立の「御岩山」と薩摩の「野間岳」を結ぶ軸線と、鹿島の「要石」と高千穂の「鎮石」を結ぶ軸線の二本だが、その二本の軸線が「富士山」で交差する点が実に興味深いところだ。加えて同行の知人が、もう一本の軸線を独自に見出していたが、その軸線もまた「富士山」で交差するのだった。ちなみに、鹿島神宮の参道は「富士山」の方向に向いているとのことだが、もしかするとこの参道は、「富士山」を経由して「高千穂」まで繋がることを意識して成形されたのかもしれない・・・。ここまでくると、やはり太古から「富士山」こそ日本列島全体の「中心」として、測量をはじめとする様々な基準となる「扇の要」とされてきたはずだと、これまでの考察も加味すると私にとって揺るぎのない確信となった。※関連記事⇒リンク鹿島神宮の参道の突き当たりには奥宮(祭神 武甕槌大神の荒魂)があり、その背後の森にひっそりと鎮座する「要石」を護るように配置されている。最後の画像は、その奥宮に参拝の折、丁度ご神殿の真上から朝日が差し込んできて、神々しく荘厳な雰囲気に包まれた瞬間を撮影したものである。
2015年01月07日
懸案だった「朔旦冬至」の御岩山登拝・・・その御岩山に詳しい地元のご婦人を含む5人が集い、お陰さまで山頂から麓まで和気藹々のなかで、「御岩山」をじっくりと体感することができた。特に山頂部での磐座巡りは、K氏やご婦人の道案内がなければ難しかったことを考えると感謝であり、その有り難さを噛みしめた。実はこの御岩山登拝の過程で、なぜか私の意識は、結果として5人が集った意味を探る方向に向かっていた。そして、同行の知人が中腹の「かびれ神宮」に参拝の折に・・・この「かびれ」は「カペラ」かも・・・と私に囁いたことから、私の脳裏には一等星の「カペラ」を含む「ぎょしゃ座」の主要な5つの星々が浮かぶのだった。さて、地元のご婦人とは御岩山の麓で別れた後、私たち4人は予定していた「筑波山」(茨城県つくば市)に向かった。そこで冒頭の画像は、筑波山上の二峰(男体山・女体山)の内、イザナミ命を祀る「女体山(標高877m)」の山頂から、西方に沈みゆく「朔旦冬至(2014.12.22)」の太陽を撮影したものである。時間の関係により、もう一方の峰のイザナギ命を祀る「男体山(標高871m)」には登れなかったが、そのことを3人に申し訳なさそうに告げると、関東に在住の知人は・・・私はイザナミ様を祀る神社しか参拝したことがないのよ・・・と、一言。どうやら秋冬の九州周遊から一貫して、「イザナミのよみがえり」がテーマだったこともあり・・・なるほど・・・と、私なりに合点がいった次第である。次の画像は、上と同じ場所から南方を映したもので、その遠方には薄らだが「霞ヶ浦」を展望することができた。撮影場所の筑波山(女体山)の山頂には、筑波山神社の奥宮「女体山御本殿(御祭神 伊弉冊尊・いざなみのみこと)」が鎮座しており、社殿に到着するとまずその神前にて、4人が揃っての参拝をさせていただいた。そして、御本殿の後方には、数人の大人が乗ることのできる平たい岩盤があって、そこはK氏にとって特別な思い入れのある場所らしく、その岩盤の上に登った私たち4人は、西方より吹き荒ぶ風に煽られながらも、「あわの歌(48音)」と「カタカムナ(48音)」を皆で唱和して、もうすぐお別れとなる「朔旦冬至」の太陽を寿ぎ、共に感慨無量の一時を過ごすことができた。この上の画像も、同じく女体山頂から東方を撮影したもので、その山麓に映る山影の先端を延長した先には、つい先ほど登拝した「御岩山」が遠く控えていることになる。そして下の画像は、夕日を浴びながら最終のケーブルカーで降りてきた麓の駅で映したもので、その遠方に見える山は霊峰「富士山」である。まさか「朔旦冬至」という記念すべき日の、最後の最後に私たちを待ち受けていたのは、黄金色に輝く夕日に照らされた日本列島の要たる「富士山」であった。私たちは大いなる感動を胸に、「朔旦冬至」という19年に一度となる、その素晴らしい「始まりの日」を共有できた歓びを、夕暮れに映える「富士山」を遠望しつつ改めて分かち合うことができ、満足感と達成感に満ち溢れたことを覚えている。ところで、本日のブログの冒頭に記した「ぎょしゃ座」は、日本では古来より「五角星」と呼ばれており、その名が示すように「5つの星」が主体だということを物語っている。牽強付会に思われても仕方がないが、ぎょしゃ座の「5星」と朔旦冬至に御岩山に集った「5人」の関係性に注目すると、これが不思議なことに「5星」と「5人」の、それぞれの対応関係が見事に当て嵌るのだった。そして麓の「つくば駅」で解散後の夜分、宿泊地の日立市に向かう途中で、たまたま見つけた海辺の温泉に入ることになり、その施設の駐車場に車を停め、ドアを開けてフト夜空を見上げると、なんと!そこに「ぎょしゃ座(五角星)」が燦然と輝いていた・・・。太平洋の大海原に面したその温泉施設は、海側に大きな露天風呂があり、そこからは『冬の星座』を代表する「ぎょしゃ座(カペラ)」・「おうし座(アルデバラン)」・「オリオン座(三ツ星)」・「おおいぬ座(シリウス)」等の星座群を太平洋上に展望、感無量の湯浴みを堪能することができたのであった。
2015年01月06日
前回のブログで、茨城県日立市にある霊山「御岩山」は、四人での登拝になったと記したが、この東国行脚の数日前からは、なぜ四人が集うことになったのかを自分なりに追求するようになった。すると、大祓祝詞に記載される「祓戸四神」のそれぞれの役割が四人に投影されていると感じたり、あるいは天体の四つの星々である「アルデバラン」・三ツ星の「ミンタカ」・三ツ星の「アルニタク」・「シリウス」に、その四人の性質が対応することが判然としてきて、俄然今回の「朔旦冬至」の御岩山登拝が楽しくなってくるのだった。さて、本日の冒頭の画像は、御岩山の山頂部にある屹立した立岩の真上に、(遠目ではあるが)ご婦人が乗って両手を広げている姿を撮影したものだ。このご婦人はK氏のお知り合いの方で、なんでも当日「朔旦冬至」の何時何分に御岩山に登るようにと、いわゆる御託宣を受けて登拝することになったそうで、すでに麓の御岩神社の御神前で紹介を受けていたのだが、その約束の時間に間に合うよう私たち四人より一足先に山頂へ向かっていた。しかし、まさか山頂部に直立する大きな立岩の上で、かのご婦人が私たちの到着をお待ちかねとは・・・。上の画像は、冒頭の画像でご婦人が岩上にいた立岩を絡めて遠方を映したものだが、さすがにその立岩に近づくと、足がすくんでしまって上れそうにない・・・。そこで皆に私のお尻を押してもらって、ようやく何とか岩上に乗ることができた。今までも、その一歩の踏み込みが、平凡な景色を絶景に変えてしまう経験を重ねているので、その岩上からの展望たるや素晴らしく、短い時間ではあったが・・・いま・ここ・に自分がいる・・・という濃厚な時空を堪能させていただいた。今回の御岩山登拝の案内をしてくれたソプラノ歌手のK氏も、今回はじめてその立岩に上れた感動も相まって、昨日の歌唱で観衆を魅了したマリア様のような雰囲気とは打って変わり、嬉しそうに満面に笑みを湛えながら、たおやかなポーズを岩上で何度も決めるという、その躍動感に溢れる姿が印象に残った。この上の画像は、山頂部の立岩を少し降ったところにある「天の岩戸」と謳われる磐座を映したものだ。その穴の空いた凹部や周辺の岩肌は、様々な色合いも含めて独特な雰囲気を漂わせていた。そして下の画像は、また別の山道を山頂部に向かって登ったところにある、大きな岩壁を撮影したものである。そのまるで三角波が山頂に向かって連続するかのようにみえる岩壁の表情は、おそらくロッククライマーの心を魅了するであろう。加えて下山の際に印象深かったのは、登りとは別ルートの山道を降ったところに、「薩都(さと)神社」(主祭神 立速日男命)という社殿があり、その「薩都」という社名であった。ちなみに主祭神の「立速日男命」は、前回のブログにも書いたように、現在の「日立」という地名の由来とされ、「常陸国風土記」にのみ記載される神名ということだ。その社名の「薩都」を見た私は直感的に、九州の(旧)薩摩国(鹿児島県)の国名にある「薩」と、(旧)日向国(宮崎県)にある地名で多用される「都」の、言わば南九州を象徴する2つのキーワードで構成された造語に思えたから不思議である。また、今回の東国行脚に向かう直前に南九州を訪れていて、日本地図上に薩摩の「野間岳」を西南西の起点として日向の都城市を経由し、四国の室戸岬等を経て「富士山」に軸線を引き、その軸線を延長した先に「御岩山」が存在することを予め認識していた私は、この「薩都」という神社名を見て、日立の御岩山と南九州(薩摩・日向)との繋がりを深く実感したところだ。さらにその「繋がり」を補強するかのように、日立市で二泊したホテルには、その系列のホテルが南九州にあることから、ラウンジに薩摩と日向に絞り込んだ各種銘柄の焼酎(一升瓶)が何本も並んでいて、しかも格安の値段で飲み比べができるようになっていたので、この期に及んではその「日立と南九州を繋ぐ軸線」に、強い確信を持つに至った次第である。もちろん「朔旦冬至」の夜も、その旨い焼酎に舌鼓を打ちつつ、自分の足で現地を歩いてきた「御岩山」⇔「富士山」⇔「野間岳」を繋ぐ軸線上の、数々のポイント地点を反芻することになったのは言うまでもない。この「富士山」を経由して「御岩山」と「野間岳」を繋ぐ軸線は、例えば東北東の端にある「御岩山」の山頂から、当日の冬至(朔旦冬至)の夕日を展望した場合に、その夕日が沈む方向に軸線が引けるとすれば、その軸線を延長した日本列島の西南西の端は、薩摩の「野間岳」となるわけである。※関連記事⇒リンク
2015年01月05日
今年の12月22日(月)は、「月」と「太陽」の運行が一巡する約19年に一度の「朔旦冬至」であった。約1ヶ月前、この良き日を含む三日間、関東で過ごすことを決めていた私は、二泊する宿泊地が茨城県の日立市になったこともあり、近場の霊山「御岩山(492m)」(茨城県日立市)に登拝することにしていた。実はこの「御岩山(おいわやま)」の存在は、前日のイベントで歌唱披露されたK氏との縁で知ることとなった御山であり、麓にある「御岩神社」の由来書によると、記・紀と並ぶ我国最古の地方誌である「常陸国風土記」(七二一年)に記され、また徳川時代は水戸藩の祈願所として大切にされてきたとのことである。さて上の画像は、この御岩山には何度も登拝され、当山をこよなく愛するK氏が、昇り来る特別な「一陽来復」の太陽に向かって、寿ぎの言霊を発声している風情を、その真後ろから撮影したものである。絶妙なタイミングが重なった「朔旦冬至」の当日、有り難いことにこの御岩山との縁を結んでくれた当人に案内してもらえる運びとなり、また私の呼びかけにより知人の二人が参加して、計四人での登拝となった。この画像は、山麓の御岩神社境内にある御神木「三本杉」を映したものだ。幹周囲九メートル、高さ五十メートル、推定樹齢六百年、幹が地上三メートルより三本に分れ均等に天をつく巨樹(県指定天然記念物)である。これほどまで見事に美しく、一本の幹から三本に分かれて立つ大杉は見たことがなく、しばらく呆然と眺めていたことを思い出す。そして御岩神社をはじめとして、境内各地に鎮座する祠の参拝を済ませた私たちは、案内役のK氏を先頭にその神体山である御岩山を登り始めた。興味深いことに、山道の途中から大きな唸り声が聴こえ始めたのだが、その理由はK氏の登山しながらの「発声練習」とのことで、これがとても効果的だとのことである。なるほど・・・これぞ陸奥の「縄文の息吹き」だ・・・と感じられて、俄然楽しくなってきたことを憶えている。あの生命力溢れる歌声は、本人はもう何度登ったか分からないという霊山「御岩山」で培われたものだったのかもしれない。上の画像は、御岩山頂(492m)にある「磐座」を映したものだ。この「御岩山」は、古くは常陸国風土記に「賀毘禮(かびれ)の峰」として述べられている信仰の山で、もともとは修験道の山であった。中腹には「かびれ神宮」が鎮座し、水戸光圀公が「大日本史」を編纂するため、その筆初めの儀を行った場所と伝わる。その「かびれ神宮」の御祭神の一柱に、「立速日男命(たちはやひをのみこと)」があるが、この神名が「日立市」の「日立」の語源になったそうである。そして、下の画像に映る石柱は、その「立速日男命」の降臨した場所を象徴するものらしく、山頂の磐座に近いところに立ててあり、古代より信仰の対象だったと思われるが、実に印象的な雰囲気を醸し出していたことを覚えている。
2015年01月04日
今回の東国行脚のそもそものキッカケは、冬至前日の12月21日(日)に開催されたあるイベントで披露されるソプラノ歌手 K氏の歌唱を拝聴することだった。事前に訪れるところもあり、イベント会場に到着したのは歌唱披露の少し前であった。上の画像は、K氏が当イベントで最後に披露された楽曲「ハティクヴァ(希望)」を歌う、その直前の様子を撮影したものである。もうお分かりだと思うが、冒頭とこの上の2つの画像に映ったK氏が手にしている青いモノは、実は私の制作した造形(準正32面体の軸線構成)である。事前にこの最後の曲だけ、この造形を手にして歌うということを当人から聞いていたので、その歌唱と造形のコラボレーションを、とても楽しみにしていた。不思議なことに、このイスラエルの国歌でもある最後の曲が披露される直前になって、なぜか会場のスタッフに席の移動を促されて座った場所は、後部座席ではあったが結果として柏田さんの真正面となったことに、私は心底驚いたのを覚えている。まるで「ここで聴きなさい」と何方かに導かれた特等席・・・そこには作者冥利に尽きる感動を胸に、何度もシャッターを押してしまう自分がいた・・・。その「青い玉」を持って歌舞いを披露するK氏の姿は、いわゆる見た目の麗しい容姿や美しい歌声を超えた『神々しい輝き』を放っていた。
2015年01月03日
さて、今年に入って初めての投稿は、昨年末の19年に一度となる「朔旦冬至」を挟んで、二泊三日(12月21日~23日)の「東国行脚」の記録、そのシリーズの第1号である。まず初日は12月21日の早朝、久しぶりに飛行機に乗って、山口宇部空港から羽田に向かう機内の窓から撮影した画像が、本日掲載した四枚だ。上の画像は、ちょうど雲の上を飛んでいる時のもので、なんとも言えぬ高揚感に包まれたことを覚えている。たまに小さな乱気流に遭遇したのだが、高度の調節等で乗り切る運転技術が如実に体感でき、なかなか醍醐味があった。この画像は、日本を代表する霊峰「富士山」を撮影したものだ。お陰さまで天候もよろしく、機内の空いていた窓際の席に移動して、じっくりとその秀麗さを堪能することができた。実は、今回の東国行脚において、それを遂行する際に指標とした「南九州から関東方面を結ぶ軸線」があった。その基軸となる線分のほぼ中心に、日本列島の扇の要たる「富士山」があったこともあり、その神々しい山容を日本晴れの天空から展望でき、まさしく有り難き幸せを噛み締めた。次の画像は、羽田空港に着陸する直前に、東京湾アクアラインのPA「海ほたる」を撮影したもので、かつてこのアクアラインが出来立てホヤホヤの時に、この「海ほたる」で休憩したことが懐かしく思い出された。そして下の画像は、既に羽田空港に着陸して到着口に移動する際に、空港方面を撮影したものである。
2015年01月02日
新 年 あ け ま し て お め で と う 平成27年 元 旦
2015年01月01日
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