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「みどりの日」の初夏、予定より早く完成の暁を見た「 サゴクシロ(精奇城)」は、気品あふれる薫香を放ち咲き競う・・・美しき藤花とともに、お披露目の時を迎えた。その風情は、まるで天地を飛翔する龍神の持する「玉(ギョク)」の如くではあるが、人類すべての内なる心魂に、もともと在る「生命の輝き」を象徴しているのかも・・・。この造形は、今年の七月に予定している個展『奏玉(そうぎょく)』にて、公開予定!
2015年04月29日
一昨日のこと・・・ある知人と話していると、自分の心中に観えてきた「構造」があった。それと同時に、その「構造」が示すのは「サゴクシロ」だと分かったのは不思議である。この「サゴクシロ」とは、漢字では「精奇城」と書き、古史古伝「ホツマツタヱ」の伝えでは・・・神々の鎮座する天界の中心にある宮・・・のこととされている。(関連記事⇒リンク)それが観えたということは、「造る時が来た」ということで、本日より制作に入ることにした。月末までには完成できそうなので、5月初めには公開予定を考えている。それでは乞うご期待!
2015年04月27日
このシリーズの冒頭でも書いたが、今回の歴史探訪の背景に「山口県と九州を結ぶ南北軸」を感じていたこともあり、その南北軸に沿うように北方の「宇佐市」から、同じ軸線上の「竹田市」に向かうこととなった。そして結果としてではあるが、この度の「ウガヤ朝の故郷を訪ねて」の旅路の最後に、さらにその南北軸線上の南方にある高千穂(宮崎県高千穂町)の「二上山(標高1,082m)」の男岳の山頂に立つことになろうとは・・・。この「二上山(ふたかみやま)」は、ニニギノミコトの天孫降臨伝承地の一つに数えられており、ウガヤフキアエズ王朝の時代においても、「祖母山」に次いで重要拠点とされた御山の一つだったと考えられる。「ウエツフミ」によると、ウガヤ王朝の信仰の中心地は「二上(ふたのぼり)の大宮」と書かれているので、もしかするとその地は、美しき二峰が望める高千穂は「二上山」の近辺だったのかもしれない。さて紆余曲折を経て、まず二上山の西側山麓に鎮座する「三ヶ所神社」に参拝の後、二上山は男岳の九合目あたりに鎮座する三ケ所神社の奥宮に登拝した際に、その奥宮の背後に聳える巨大な岩塊を撮影したものが上の画像である。・・・小雨模様に浮かぶ岩肌は濃霧にむせび、実に幽玄なる仙境を彷彿とさせていた・・・。この画像は、二上山・男岳の東峰山頂を映したものである。実はこれまでに三度、九合目の奥宮まで登ったことはあるのだが、山頂までの道が判然としなかったこともあり、今回の四度目の正直で初登頂の運びとなり、直前まで山頂に立てるとは想像だにしなかっただけに、望外の喜びであった。ちなみに「三ヶ所神社」の主祭神は「伊弉諾(イザナギ)尊、伊弉冉(イザナミ)尊」、そして祭神は「瓊々杵尊(ニニギノミコト)、猿田彦尊(サルタヒコノミコト)」である。この二上山は八合目まで車で登ることができ、その八合目から九合目の奥宮までの道中にあった立て看板を映したものが上の画像である。その説明書きには、古くより二上山のこの場所は、筑前・豊後・日向・肥後の中心、つまり九州全体の真ん中と位置づけられてきたことが記されており、この地に立つことのできた歓びを、あらためて噛み締めた次第である。そして下の画像のように、帰りの山道では展望も次第に広がり、山麓には登り龍の如き上昇気流を眺めることができ、また見頃のアケボノツツジが春の華やぎを添えていた。
2015年04月16日
さて次に向かったのは、竹田市街地から南に10数km、日本百名山「祖母山(標高1,756m)」の北麓は神原地区に鎮座する「健男霜凝日子神社」の中宮(通称 穴森神社・御祭神 嫗嶽大明神)であった。当社は往古には「池の明神」、「窟大明神」と唱えられ、平家物語「緒環(おだまき)の章」にも登場する由緒ある社殿と洞窟で、嫗嶽(祖母山)大明神(うばたけだいみょうじん)の化身である大蛇が棲んでいたと伝えられる岩窟を神社の御神体としている。そこで上の画像は、その御神体として祀られた磐座を、さらに大きく穿たれた近くの洞穴方面から映したものである。そして、その古くは池だったとされる岩窟から上がって、拝殿の裏手から御神体の磐座方面を撮影したものが上の画像だ。この穴森神社の御祭神「嫗嶽大明神」とは、前回の日記で紹介したサイト『ウガヤフキアエズ王朝実在論』の著者によると、「記・紀」ではウガヤフキアエズ命の母とされる「豊玉姫(龍宮の乙姫)」と推考されていたが、私も自身の直観を含めてその説に同感である。※紹介サイト『ウガヤフキアエズ王朝実在論』の関連記事⇒リンクこの画像は、穴森神社の裏手にある御神体の岩窟を祀る立派な拝殿を映したものである。おそらくこの岩窟は、太古より祖母山の母胎(子宮)と見立てられてきたのであり、自然の造形に対する古代人の崇敬の念を垣間見た思いがした。以上のことを含めて、日本の歴史における「ウガヤフキアエズ王朝」とは、古史古伝の「ウエツフミ」等を参考にすると、紀元前1000年頃から紀元後300年頃までの約1300年もの期間の、縄文時代の晩期から弥生時代までを結ぶ端境期の王朝にして、「祖母山」を中心とする九州中部地域に栄えた王朝と認識することができそうだ。
2015年04月15日
つい最近、以下に紹介するサイト(『ウガヤフキアエズ王朝実在論』)を知り、私の持論でもある山口県と九州を結ぶ南北軸(関連記事⇒リンク)に沿うように「ウガヤ朝(ウガヤフキアエズ王朝)」が栄えてきたことを確認できた。そこで今回は、そのウガヤ朝の最期の王都があったとされる大分県の竹田市を訪ねることにした。◎『ウガヤフキアエズ王朝実在論』⇒ http://ugaya.jimdo.com/中臣氏の祖や物部氏の祖を祀る社を巡拝して辿り着いたのは、境内に大きな岩塊が屹立する「柱立神社」であった。上の画像は、その巨大な二本の石柱(高さは約7m)が並び立つ磐座を撮影したものである。そしてこの画像は、その「鶴原メンヒル」と称される巨大な立柱石に関する解説を記した立て看板を映したものだ。解説には・・・(この立柱石は)人工ではなく・・・と記されていたが、私には明らかに人工による磐座と感じられた。そこでネット検索をしてみると、二本の石柱の岩間が「冬至の日の出と夏至の日の入の方向」を示していると書かれた記事に出会い、合点を得たところである。上に紹介した『ウガヤフキアエズ王朝実在論』を読み始めて、とりわけ印象に残ったのは・・・景行天皇が竹田まで攻めてきて滅ぼした「土蜘蛛(つちぐも)族」とは、ウガヤ王朝の本体そのもの(⇒ リンク)・・・と記されたところだった。そして筆者は・・・景行天皇が攻めてきたときの激戦地・禰宜野にも近いことから、このあたりに「直入の宮」が存在したのでは? 私は、この岩こそが景行天皇が蹴散らした岩ではないかと思うのですが・・・と記述し、今回取り上げた柱立神社の境内にある「巨大な立柱石」についての見解を示されていた。この下の画像のように、社殿のある丘陵に屹立する二本の石柱の裏手には、ここかしこに存在感の漂う大きな岩が散在しており、かつては先の日記(⇒リンク)で紹介した上五島は野崎島の「王位石」のような、綿密に計算して構成されたであろう「巨石の神殿」があったことを彷彿とさせる。実際に現地を訪れてみて、そのウガヤ朝の最期の王宮に相応しき佇まいに、深い感銘を受けた次第である。
2015年04月14日
しばらく手元になかった「菱形30面体」の軸線構成を、ここ数日かけて再構築。本日の午前中には、そのスケルトン立体は完成し、午後2時頃に色付けして最終調整した。当初は「桃色」の塗布を考えていたが、結果として「丹朱(たんしゅ)」の美しき輝きを放つことになるとは・・・。ということで、春爛漫・喜び満開の心境にて午後4時頃、この1点の造形を近くの公園で撮影したものが、掲載画像の3枚である。今まで制作してきた各種立体のなかでも、とりわけこの造形には思い入れの深いものがあり、このブログの始まりを飾る冒頭の記事(⇒遺跡巡りの果てにたどり着いた「美しき構造」について )で取り上げたのだった。その他にも以下、この「菱形30面体」のスケルトン構造に纏わるブログ記事を紹介しておこう。※2007年02月04日の日記・「原点に帰る」⇒ リンク※2007年08月21日の日記・「立体菊花紋」⇒ リンク※2007年12月31日の日記・「菱形の神秘」⇒ リンクさらに、この造形について思い返せば、今まで国内外の3名(女性)のプロのオペラ歌手など、卓越したヒーリング・ボイスを持たれた方々の手元に渡っていることから推考するに・・・もしかするとこの造形こそ、人間の発する「音声」と最も共振・活性しやすい構造性を秘めているのかもしれない・・・と、そのように感じる今日この頃である。
2015年04月09日
もう五度目になろうか・・・この4月5日は、阿蘇の「押戸石」(おしどいし)を訪ねた。冒頭の画像は、その押戸石のある丘の登り口あたりから、その全体像を撮影したものだ。この上の画像は、丘陵地に林立する磐座群全体の入口部分を、その内側から映したものである。ちなみに、中央にある岩のV字状の割れ目に沿うように、「冬至の夕日」は沈んでいくそうだ。そして押戸石の磐座群の中央部あたりから、西南西の入口方面を映したものが上の画像だ。上の画像は、石群の中心部に立てられた小国町の指定名勝「押戸ノ石」の解説板である。前回に訪れた時より刷新され、内容も読みやすくなっていた。。※関連記事⇒ リンクそして磐座群の中央部より東北東方面を映したものが上の画像。かなり離れてはいるが、その遠方には今年の3月21日に訪れた「金山巨石群」が控えている。※関連記事⇒ リンク象徴的な表現となるが、今回この「押戸石」を訪れたのは、おそらく列島の各地に存在する磐座群の中心に位置する「金山巨石群」との、言わば「磐座ネットワーク」の緊密な構築にあり、太古の縄文時代より大切にされてきた双方を結ぶ「夏至の日の出⇔冬至の日の入ライン」の軸線調整にあったのだと思われる。この「聖なるライン」を大きく捉えれば、「阿蘇山」と木曽の「御嶽山」の双方を結ぶ軸線と認識できよう。この丘陵地にある石群の中で、最も大きな磐座がこれ。何度見ても、その存在感には圧倒される。入口となる西南西(丘陵地の下方)から東南東(丘陵地の上方)に連なる石群を「龍蛇」と見立てた場合に、この磐座はその頭部(東北東の先端)に相当する。この最後の画像は、この磐座群は東北東の先端から西南西に向けて撮影したもので、当日の天候は薄曇りで変わりやすく、時折には青い空も見えていたのだが、帰り際にはアッという間に周囲が霞に包まれたのには驚き、それはまた感動的でもあった。
2015年04月07日
岐阜県恵那市の「笠置山(標高1,128m)」には、その山裾から山頂部にかけて、予想を遥かに越える磐座群が林立している模様で、その中腹にある磐座の一端を紹介しただけでもその規模が伺えるであろう。この笠置山は、8合目辺りまで車道が整備されており、時間の関係で山頂までは登れなかったが、その最上部の駐車場に車を停めて少し歩いたところに、まさしく「岩戸」と表現するに相応しい磐座に遭遇した。二つの大きな岩塊が寄り添う細い岩間は、方位磁石で調べると南北に真っ直ぐに開いていた。その磐座を撮影した画像が上である。その大人一人が通れるくらいの狭間を通り抜けると、そこに待ち構えていたのは笠置山から南方を一望できる展望台のような大岩で、その岩上から映したものが上の画像だ。ちなみに画像の中央部に、蛇行する河川の片鱗が見えるが、これは列島を東西に縦断するフォッサマグナに沿って流れる「天竜川」である。ああ・・・なんという清々しい眺めなのだろう・・・。懐の大きく深い笠置山を後にして向かったのは、かつて一度だけ訪れたことのある「阿智神社」(長野県阿智村)であった。祭神は「天八意思兼命(アメノヤゴコロ オモイカネノミコト)」と、その御子「天表春命(アメノウワハルノミコト)」。ちなみに、当社は戸隠神社(長野県長野市)の元宮との伝承があり、『信濃地名考』には、天八意思兼命の御子「手力雄命(タヂカラオノミコト)」は、吾道宮(阿智神社)に鎮座した後、戸隠神社(奥社)へ遷座したと記されている。また、天八意思兼命を祭神とする戸隠神社(中社)や、天表春命を祭神とする戸隠神社(宝光社)は、当社から分祀されたという説もあるらしい。さてこの上の画像は、阿智神社の「奥宮」にある磐座を鳥居前から撮影したもので、下の画像の解説板は磐座のすぐ横にあったものだ。その後、すぐ近くの同じ阿智村に鎮座する阿智神社の「前宮」や「安布知神社」と、「思兼(オモイカネ)命」を主神として祀る主要三社を順次参拝することができた。後でこの三社を地図で俯瞰してみると、ほぼ一直線上に並んでおり、「奥宮」から見て「前宮」や「安布知神社」の鎮座地が示す方位は、「冬至」の朝日が昇る東南東であり、下の画像の解説内容ともリンクしていることが分かる。その「冬至の日の出」を寿ぐ祭祀が、神話化されて記紀に綴られた内容が「天岩戸神話」とする見方もあり、上記の冬至の日の出を示す祭祀線と重なる三社の配置を考え合わせると、実に興味深いところである。この阿智神社の主祭神「思兼(オモイカネ)命」は、天照大神が「天岩戸」にお隠れになった時に、岩戸神楽(太々神楽)を創案し、岩戸を開くきっかけを作ったという神である。今年の年初から真っ暗闇とも受け取れる国情の、言わば「固く閉じた岩戸」が安寧に開かれるべく、大難を小難に小難を無難に変えられるような企画の立案に向けて、今を生きる「思兼(オモイカネ)命」の卓越した智慧に期待したいところである。《 追 伸 》 実は当社への初めての参拝は、今から約30年前ということもあり、社殿の佇まいなどは殆ど記憶に無かったが、当時タクシーの運転手に紹介された地元の歴史研究家から、一般では入手困難な資料を提供された覚えがある。その資料の内容について書いた過去の日記を、以下に紹介しておきたい。※ 2012年07月14日 タイトル〔三部神道〕とは ⇒ リンク
2015年04月03日
笠置山の中腹には、上に掲げた看板の解説にあるように、「ペトログラフ散策道」という特別な山道があり、その道に沿って数々の磐座群を見ることができる。その散策道でも醍醐味のある磐座を見ることができるのだが、特に私なりに注目したのは、その道を少し外れた高台にある大きな磐座だった。今回は、この人為的気配の濃厚な一つの磐座を、以下にピックアップしてみたい。まず、磐座の長い横顔を映したものが上の画像だ。巨石の向かって右側下方に、何かの特別な支えがないと、全体が安定しないことが見て取れると思う。以下に続く数枚の画像は、上からこの磐座を俯瞰した場合に、左回りに順次撮影したものである。この貫禄のある雄々しい姿を見て欲しい・・・実に素晴らしい・・・。しばし撮影を止めて、見入ってしまったのは言うまでもない。この角度も、まるで恐竜「ティラノサウルス」の横顔のように観えてくるから面白い。そしてこの画像は、全体としては横長の巨石の突き出た先端部を映したものである。どうやらこの下方に、この巨石を構造的に安定化させる仕組みがあるらしい・・・。・・・ということで、その巨石先端部の下方を撮影したものが上の画像だ。なんと!鋭角に突出した巨石の下方部分を支えしていたのは、決して大きいとはいえない2~3個の岩だった・・・。もちろん、それは私なりの見立てではあるのだが、そこに驚嘆したと同時に人為的気配を強く感じ、一気に鳥肌が立ったことを憶えている。ちなみに下方に見える隙間は、大人一人が潜って通れるくらいの空間で、先に見てきた「金山巨石群」の磐座内部と同様に、連綿と長期に渡って天体観測が行われてきた雰囲気を感じ取れた。最後の画像も、今まさに大空に羽ばたかんとする大鷹のような風情で、これまた素敵な岩の表情であった。実はこの磐座と遭遇した時に、直感的に類似性を感じたもうひとつの磐座があった。それは、大分県延岡市にある「神さん山」と呼ばれる磐座である。(この磐座を訪れた時の記事⇒リンク)かつて金山巨石群でお会いした巨石研究家が、この「神さん山」の磐座を訪れて調査した後に、天体シュミレーションで過去にさかのぼり、この岩組みが形成された時期を割り出したところ、BC12500年頃と推定できるとのこと・・・。※その天体にも詳しい研究家の、「神さん山」の調査が記されたサイト「星たび」より⇒リンクそこで今回、この笠置山の中腹にある特異な磐座を目の当たりにして直ぐに、かつて訪れた「神さん山」の磐座を思い出した。そこで、この笠置山の中腹にある特異な磐座と「神さん山」の磐座の、その類似性を含めて今、如実に感じることがある。それは、岐阜県と大分県は地図上では離れているが、上記のBC12500年説を含め太古の日本列島の各地において、おそらく同じ種族が同様の卓越した石工技術を用いて、祭祀施設を孕んだ天体観測用の大規模な石組みを形成した可能性があるということだ。つい先日訪れた、五島列島は野崎島にある「王位石(おえいし)」(関連記事⇒リンク)の、そのあまりにも人為的な巨大石組みにも思いを馳せつつ、約15000年前に太平洋に沈没したと伝わるムー大陸から、日本列島に大挙移住したであろう太古ムー人達の、その息遣いを身近に感じる今日この頃である。
2015年04月03日
そして「春分の日」のメインイベント、私にとっては二年ぶりで三度目となる「金山巨石群」へ到着。林立する巨石群を縫うように、まるで自分の庭であるかのごとく周遊して、最後は上記の画像に映る大きな磐座の中へ入った。この上の画像は、その磐座の中から、上方の岩間より射し込む春分の太陽に向かって撮影したものである。ちなみに、今から二年前の同じ「春分の日」に、当地を初めて訪れた際の記事は⇒リンクとなる。そしてこの画像は、上記の岩間より磐座内の地面に射す陽光を撮影したものだ。このように、岩間から陽光が射す期間は限られていて、確か春分と秋分の頃と伺った覚えがあるのだが、関心のある方は以下のリンクで確認していただけたらと思う。※「金山巨石群と太陽暦」⇒リンクさて、以下の三つの画像は、上の「金山巨石群」の再散策を経て、その足で向かった笠置山(岐阜県恵那市・標高1127m)の中腹にある三つのピラミッドストーンを映したものだ。かねてより、機会があれば散策してみたいと思っていた「笠置山(かさぎやま)」の磐座群の好例だが、予想以上の人為的な加工跡が見受けられて、神妙な心地になったことを憶えている。
2015年04月02日
この3月21日の「春分の日」は、日本列島の「中央」に位置し、各地に数多ある磐座の中核と思しき「金山巨石群(岩屋岩陰遺跡)」を訪ねることに・・・。一年の始まりは、今では「太陽暦の元旦」が常識だが、時代によっては「冬至」や「旧暦の元旦」、「立春」などが年始とされてきた。しかし古今東西において、時代を遡れば遡るほど、年始は「春分の日」に集約されてくるようである。・・・ということで、太古において今年の「始まり」を告げる春分の日は、尾張国一ノ宮「真清田神社」への参拝から、つまり「終わり(尾張)」から始まるという、図らずもそのような運びとなった。そこで上の画像は、尾張国一ノ宮「真清田神社」の本殿に向かって、大きく立派な楼門を映したものである。そして、借りたレンタカーで高速を使い、下呂市にある「金山巨石群」へと思いきや、なんと大渋滞に巻き込まれてしまったので、急遽一般道路にて目的地へ向かうことに・・・。しかし、それが結果的に功を奏して、道中の岐阜県加茂郡七宗町にある博物館に展示されていた、今から約20億年前の日本最古の石を見物することができた。この日本最古の石は、近くを流れる飛騨川の飛水峡にて、1970年(昭和45年)に発見されたとのことで、それにちなんで、1996年(平成8年)に開館したのがこの「日本最古の石博物館」で、地球最古の石など世界各地の様々な石を展示し、地球の誕生から現在に至るまでの46億年の歴史がわかる展示がされている。この上下の2枚の写真が、その日本最古の石が含まれた飛騨川の河床の礫岩に含まれる片麻岩(赤い矢印の部分)を撮影したものである。この石に両手で触れつつ、日本列島の悠久の歴史に思いを馳せたのは言うまでもない。この国道41号沿線にある博物館の隣には、道の駅「ロックガーデンひちそう」が併設され、眼下に広がる飛騨川は「飛水(ひすい)峡」の、まさしく翡翠(ひすい)色に輝く水流の感動的な景観(以下3枚の画像)も、私の心を大いに和ませてくれた。
2015年04月01日
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