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デ・シーカの名作「ひまわり」厳寒のロシア戦線から烈風の雪野を敗走するイタリアの兵士たち。飢餓と凍傷によって実際に生き返った兵士はわずかだったと言う。きっと生きているはずと、帰らぬ夫をようやく探しあてたら・・・献身的に看病したロシア娘に心ほだされて、すでに家庭をもうけていたという悲しい物語。最後に地平線まで向日葵が風に揺れていた。号泣するソフィアローレンの悲しみに重なって、明るい色彩のはずのひまわりが、なぜか涙にふるえているように見えた。地平線まで広がるひまわりを見たい!それ以来、長い間抱いていた憧れ。そして、スペイン巡礼路の野に突然、その光景が現れた!しばし息をのんで立ち尽くしていた。 スペインの巡礼者を慰める美しい花がもうひとつある。夏野を美しくいろどる赤い花。褐色の荒野に地平線まで散在するけしの花。アマポーラという美しい名前をあとで知った。そうか、昔聴いたアマポーラというルンバの名曲は、この花のことだったのか。7月の終わりから8月にかけてスペイン巡礼路を30日ほどたくさんの水彩画を描いて旅をした。画材が重いので慣れないマウンテンバイクに載せて走った。最初のピレネーからの雨の山間の下りが厳しかった。厳しい山道の下りを無鉄砲に走って一回転、背中から水溜りにズドンと落ちた。しかし、マウンテンバイクの腕は急速に上昇。数時間の苦闘をを終えて渓流に出たとき、マウンテンバイクのプロの男が親指を立てて、「よくやった。」と微笑んでくれた。山道の急な登りはカートのように引いて登った。長い登りも苦にならなかった。理由は、あの山頂の向こうに待っている風景。山頂からは、いつも新しいスペインの自然が広がっていた。 最後の難関セブレイロ峠にようやくたどりついたとき、やなぎらんのような薄桃色の花が出迎えた。これからあの緑の山道を一気に走りくだれば、目的地のサンチャゴ大聖堂はもうすぐ!峠の風が心地よかった。
2006/07/18
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蒸し暑い夜が続いている大和の国と違ってスペインの夏の夕暮れはこのうえなく美しい。内陸では夏でもサラッと乾燥している上に日が傾くと気温は一気にすごしやすくなる。斜光が広場に長い影を投影し始めると人々は、長い美しい夕暮れを楽しみ始める。 スペイン巡礼路の丘陵も、いつも美しい光彩に輝いていた。特に、日が暮れる直前がいい。ほろびの前の一瞬の生命のようにものみなが、きらきらと輝き始める。無人の椅子ですら、この幸せに浸っているようだった。 巡礼宿では、屋外のテラスで語らうものもいれば、切り株に座して、瞑想にふける乙女もいた。 日が傾き始めると涼しいすごしやすい夕暮れが続く。昼寝から目覚めた町の人々は、家の外の長椅子で涼しい夕暮れを楽しみ始める。巡礼者も一緒にひとときの平穏な時をすごした。 この美しい夕暮れは、6時ごろから9時半まで続く。絵を描く者にとっては、スケッチブックを片手に新しい町の中を散策し、ゆっくりと時間をかけて描ける長い幸福なひとときだった。
2006/07/16
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スペイン巡礼路800kmを毎日ゆっくりと25kmづつ描きながら旅する楽しみは、予測できない事が待ち構えていること。ツアーだと、今日、どんなとこに行って何があるかおおよそ予測して旅することができるが巡礼路のよさは、今日、次の町で何があり何が待っているか?まったく予測できないこと。思いがけないことがいつも待ち構えていた。それだけに拾い物をしたような感動があった。地平まで麦畑の乾いた一本道が続いたあとに、やがてオアシスのような緑の濃い町に入っていく。貧しくてもスペインの田舎町は日本やソ連圏のくすんだ色彩の乏しい田舎と違って国民性の故か、はるかに豊かな色彩がある。清潔で、窓辺に花があふれ、いつ人々は生き生きとしている。ある日、森の向こうからフラメンコの曲が聞こえてきた。何かありそうだと、足を早める時のときめき。やがて広い牧場の馬場を囲んでたくさんの人だかり。黒いハット黒い乗馬服に身を固めた男が白い美しい馬を自在に操っている。そこに着飾ったスペインの踊り子が現れた。馬を操る騎士と踊り子が対になってフラメンコを踊り始めた。いななきながら後ろ足で棒立ちになった白馬がスペイン娘と、やがては絡み合うように身近に踊った。 窮屈な日本の管理体制なら、馬のひずめに蹴られたらと責任を負いたくない主催者が認可しそうにない危険な踊り。日曜日の学校の運動場すら税金を払っている国民から隔離されていく日本。スペインはそういう思慮とは無縁な国。人々の心が自在で豊かで拘束がない。熟練した馬術と美しいスペイン娘の勇気がそれを可能にしていた。いや、ふたりは、若者でも娘でもない。壮年と言って良い年柄だった。海外に行って良く思うこと。海外では、40代、50代の格好良い男と女がまだ恋と人生の只中といった風情で生きている。日本人は、かっこいい絵になる大人ほんとうにが少ない。ヨーロッパの橋の上を歩く男を何度か描いた。トルコのイスタンブールですら、みな絵になった。日本では・・・・みな、農協職員のような方々ばかり。恋や情熱とは無縁でくたびれてて絵にならない。ともあれ本題。そんな馬術祭りの屋台に、まなざし鋭く絵になる娘を見つけた!赤い帽子を斜めに構えてなかなか様になっている。猛然と絵心が勃発!早速、売っているソーセージとビールを注文して描く。描いていると、次は私を描いてくれと人だかり。赤い帽子の娘のそばから覗き込んでいたデブがやけになれなれしい。誰?と聞いたら旦那だとうれしそうに答えた。おい、もっといい男を見つけろと言いたかったけど。何も言わずに、ひたすら黙々と描いた。話してみると気の良い旦那。ぜひ売ってくれという。けど、酔っ払って心地よく描いた絵は二度と描けない。僕の絵は楽天の本職の画家JUCOU氏のように緻密な絵とはわけが違う。その場の雰囲気と居合わせた人との片言の会話で生まれる絵。いつも二度と同じものが描けない。やむをえず、もう一枚、より美人に描いてあげた。旦那は至極喜んでいたけど、僕が気に入ったのは、この鋭い気丈なまなざしの不美人の一枚。 忘れえぬ人の一人となった一枚。今ごろ、どうしているだろう?あの優しい旦那の子供が生まれて幸せ一杯か。もう一度、あの巡礼路を歩いても、出会う可能性はほとんどない。そのことがなぜか切ない。そんな感じの「忘れえぬ人」の一人。
2004/11/18
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2年前に、スペインを旅した。そこで美しい恋人に出会った。朝、目覚めてから日が暮れるまで、うっとりと見つめていた。毎日変化する、とらえどころのない豊かな表情。何枚も何枚も、その千変万化する姿を描いた。スペインの夏の夕暮れは、遅くまで明るい。9時をすぎた頃、滅びの前の命のように、不思議な色彩にその面影は妖しく輝く。その淡い斜光のなかで、その美しさはいっそう秘めやかな魅力に満ちていた。起伏のある美しい肢体は地平の果てまで心を奪い去った。暑い陽射しの昼間には、オリーブの大きな木陰でともにまどろんだ。ある時は、優しい微笑とワインで迎えてくれた。東洋の異国から来た異邦人を、心から優しく・・・。 夜の帳が降りても、共に語り、歌を歌い、ワインを飲んで踊った。そして、その豊かな起伏ある内ふところに抱かれて眠った。やがて、目的地のサンチャゴ大聖堂に着いて悲しい別れの時がきた。私は、ひとり日本に戻り、彼女はそこに残った。その恋人は、スペイン北部生まれ、恋人の名は・・・「カミーノ」。「カミーノ・デ・コンポステーラ」優しい響きをもった忘れられない名前。1000年前から、多くの人をとりこにした、スペインの巡礼路の呼び名。フランス国境から西の大聖堂までの800kmの美しい古道。地平までの乾いた麦畑の中に現れる珠玉のような町とひまわりや赤いひなげしの花にあふれた道。一度、この恋人に出会った人はみな一生心焦がれる。もう一度、その優しい美しさに出会いたい。誰もが、そう思いつつ、一生を終えるのだろう。
2004/06/20
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スペイン巡礼路は、スペイン北部のフランス国境から西のサンチャゴまでの800km。これはイスラムからの国土奪回を目指したそのスペイン巡礼路のなつかしい街々の名にちなむ歴史物語である。物語の主役は実在の英雄エル・シド。カスティーリア王国の中心ブルゴス近郊で生まれた。時は1043年、国土の半分以上をイスラム教徒に奪われていた時代だった。若くして王の長男サンチョ王子の親衛隊として活躍。しかし戦った相手は、キリスト教国アラゴン、父王の弟の国。応援を依頼したのは意外なことにイスラムのサラゴザ王であった。サンチョ自身も王となると、弟王の国、レオン、ガルシアを攻めて国を乗っ取る。敗退したレオンの王アルフォンソは、なんとイスラム王国トレドの宮廷に亡命。しかし、サンチョ王はなにものかによって毒殺される。国外追放された弟アルフォンソが権力に帰り咲き3国の王となる。このように、当時のスペインでは、寛容なイスラム国に支援された、キリスト教徒間の過酷な骨肉の争いがあった。そんな折、兄王サンチョに仕えた英雄エル・シドは、当然ながら戦った相手の弟王アルフォンソ6世の不興を買う。カスティーリア国を追放され、修道院に預けた妻とも娘とも別離。王の命令で、宿も食物も得られぬ悲惨な追放の旅が続く。たどりついた先はイスラム王国サラゴザ。イスラムの寛容な王に救われて傭兵隊長として頭角を現す。しかし力を得ると、再びキリスト教軍団を結成。イスラム王国のひとつバレンシア攻略に功績をあげる。アルフォンソ国王も、その果敢な力量を無視できず、怒りを解く。時代が変わり、エル・シドのふたりの娘はやがてナバラとアラゴンの王子に望まれてその妻となり、彼の孫が、それらの国の王位に着く時代となる。エル・シドも、奪回したバレンシアの領主となって武勲をほしいままにする。そんな折、アンダルシアのイスラム小国群は、キリスト教国の台頭に危機感を覚え、救援を依頼。依頼した相手が、ムーア人と呼ばれるモロッコのイスラム原理主義の過激集団。厳しい戒律を強いる狂信的な軍団がやってきて、様相は一変、スペイン側は苦戦を強いられる。しかし、その無寛容さが、かえってスペイン側の団結を強化。エル・シドの死後1212年の激しい決戦でキリスト軍が大勝利を収め、モロッコ軍は敗退。30万のムーア軍も帰り着いたのは1割にも満たなかったという。バルセロナの牛追い祭りでも、大きなムーア人の恐ろしい人形が町を練り歩いていた。 そして500年続いた華麗なアンダルシアのイスラム文化も終焉を告げる。皮肉なことに、そのあと、やってくるのは、キリスト教会が支配する「中世の暗黒時代」だった。科学は沈滞し、芸術はギリシャ時代の自由な人間賛歌の発露を喪失。芸術家のモチーフは史実に限定されたため、個性を失い発想を抑制される。母性国家の心情に合うからとスペインの教会が奨励したマリア信仰。そのマリア像とひとりの青年の十字架の像に、絵画も彫刻もモチーフが縛られた時代は、ルネッサンスとルターの宗教改革によって人々の心が解放されるまで長くつづいた。史実について,詳しく知りたい方は、小西章子さんの名著 「イスラム・スペイン千一夜」{中央公論社}をどうぞ。
2004/03/30
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